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第九話 夜明けを呼ぶ色(3)葉桜の咲く日

 それから五回目の春が来た。

 五回目と言っても、何の変わり映えもない。ほんの少しの強弱だけがある毎日が積み重なって、気付いたら五回目になっていたというだけだ。

 だから、ダイニングのテーブルの上に置き忘れられて寂しそうにしている弁当の包みを見て、がっくりと溜め息を吐くのももう何度目になるのか知れない。そして受話器を取り、いつものとおりにダイヤルするというその流れも、少なくともその番号を暗記してしまうくらいには繰り返している、もはや日課だ。

 受話器を戻して数分のうちに、ベランダのほうで物音がした。すっかり重くなってしまった腰を上げ、年々自由がきかなくなってきた足を引き摺ってベランダへ向かう。もちろん、手にはピンク色の弁当包みを持って。

 ガラス越しに、オレンジ色の大きなマントが風にはためいているのが見えた。

「おッそォい」

 ベランダの手摺りに腰掛け、じっとりとした視線をこちらに向けるシャイニーは、スカートの中のオレンジ色のパンツが丸見えなのも気にせず、膝の上で頬杖を突きながら舌打ちを飲み込んでいる。

「本日はどのよーなご用件(ヨーケン)でしょーか?」

 棒読みの台詞はとても丁寧な言い回しだが、顔面はありありと不服を呈している。もはやいつものことであるのでまったく気にはしないが。

 あれから、五年——。

 見た目も、その天邪鬼なところも、シャイニーは何も変わらない。唯一の変化は、ずっとツインテールだった髪型がポニーテールになって、そこに担当カラーではないはずの青い蝶々の簪が刺さっていることくらいだ。顔の丸さが際立つからと、サイドに少しうねった髪を垂らして誤魔化してはいるが、あまり意味は成していないように真理子は思うし、相変わらずのその可愛らしいベビーフェイスは四十半ばになった『オッサン』とは到底思えない。その外見から、しばしば良い年頃の女子からも一緒に写真を撮ってほしいと強請られ応じているため、本人曰く、自分が本当はオッサンだということは絶対にバレてはならないのだそうだ。

 真理子は桃色の弁当包みを差し出し、依頼をする。「ひなたにこれを届けてほしい」

「またァ?」

 ここに呼ばれたということはそういうこと、と予想はしているはずなのに、シャイニーは大袈裟なくらいの抑揚と共に顔を歪める。

「だってまた今朝喧嘩しちゃったのよ。それでそのまま忘れてっちゃって」

「わざとじゃないの?」今度は盛大な舌打ちが付いてくる。「アンタも懲りないわねェ」

「あの子どんどん生意気になっていくんだもの!」どこかの誰かを見ているようで腹が立ってしまうのであるが、それは言わないでおく。「ねェお願いよォ、あんたヒーローでしょォ? あたしを助けてよおォ」

「元・上司をこき使うんじゃないよ! アタシはアンタの専属じゃないんだかんね!」と、口では文句を並べているくせに、その手は素直に包みを受け取ってくれる。

「お願いお願い、夜カレーを作っておくからさ、ね?」

 顔の前で両掌を擦り合わせながら餌をチラつかせる。やがて、シャイニーは深々と溜め息を吐く。

「……ブロッコリー、と、温泉たまご」

「わかった」

「二個ね」

「チーズは?」

「いらない」

 そう言い捨てると、シャイニーは颯爽とベランダから飛び立った。

「連絡してよねー!」

 手摺りから身を乗り出して叫ぶと、返事の代わりに気怠そうに左手が上がったのが見えた。青い蝶々が舞うその後ろ姿は、生温い風が吹く中、あっという間に街の景色の中に消えてしまった。

 爽やかで、どこか柔らかな空気が街を包んでいる。ぼんやり眺めていると眠くなってしまうような陽気だ。

「……行ってらっしゃい」

 こうしてシャイニーを見送ることも、今ではすっかり真理子の日常の一部になっている。

 シャイニーが本当はあのように憎まれ口と文句ばかり垂れ流す人間だということを巷の人々は知らない。そう思うと、その止めどない悪態や我儘も何となく特別な愛嬌のように思えて、優越感に浸ることができる。そしてそれは同時に、無意識のうちに自身の中に立ち込めていた得体の知れない不安を安堵の溜め息として消し去ってくれる。

 良かった、今日も、いつものシャイニーだった、と。

 以前にも増して外面だけは完璧で、一般人相手の時は別人のように愛想が良い『ハッピー・シャイニー』——五年前に現れた完全新種を相手に戦い、世界に再び平和をもたらした人物。今はどんな困り事も解決してくれる『アイドル(ヒーロー)』、というのが、現在の『彼女』に対する世間の認識だ。でも、真理子は知っている。その正体は、強がりだけど本当は泣き虫の寂しんぼうで、自信がなくて恥ずかしがり屋で、我儘で口が悪く、究極のマザコンでありシスコンというとんでもなく子どもじみたオッサンであることを。

 そして、ただの、人間であることを。

 誰かを好きになるし、傷ついて立ち上がれないこともあるし、死ぬ——そういう、ちっぽけな、一人の人間であることを。

 あの新種のG型モンスター騒動の後、揃って隔離施設にいた一年の間にシールドの修繕は完了。施設を出る頃には、世界は再び平和という生温い日常を取り戻していた。あれほど後遺症の危険が云々、監視がどうのこうの、と煩いことを言っていたくせに、シールドの修繕が終わってモンスターが現れなくなった途端、二人の隔離生活は拍子抜けするほど規制が緩くなり、気付けば施設を()()()()()()ことになっていた。予算が底を尽きたのか、単に面倒になったのかは知らないが、何ともいい加減でお粗末な話である。思いの外早く家に帰れることになったのは良かったのだけれど。

 正直なことを言うと、()()する直前まで、真理子は当然またヒーローに戻ると思っていた。というか、その他の選択肢を考えてすらいなかった。だが、実際に外に出て、久々にその朗らかな空気を肌で感じた時、何かがストンと自分の中に落ち着いたのがはっきりとわかった。あれほど手放したくなかったヒーローという夢を()()しようと、素直に思えたのだ。

「その気になるのが遅すぎる」

 ヒーローを引退する旨を告げた時、チーフは一言目にそう不満を吐いた。あんなに辞めろ辞めろと言い続け、クビにまでしようとしたくせに、いざ素直に辞めると言ったらやはりそれも文句しか出てこないのかと呆れた。

 だが、その後に続いた言葉で、すべてが消えてしまった。

「長い間、お疲れ様でした」

 およそ二年前、同じことを言われたのを覚えている。

 ——ああ、ちゃんと生きてきたんだ。あたしも、チーフも。

 そう思ったら、急に涙が溢れて止まらなくなって、チーフはギョッとして狼狽えていた。


 ——おじいちゃん、おばあちゃん。

 あたし、ヒーローになったのよ。

 自慢の仲間がたくさんできたの。

 あたしの大事な、大事な、宝物なの——。


 チーフが餞別にくれた新旧二つのヒーロースーツは、今も部屋のクローゼットの前に飾ってある。

 自分でも不思議に思うくらいに未練の欠片もなく、清々しさに溢れる気持ちで身を引いた真理子は、『ごく普通のママ』に一瞬で染まった。二年前、あれほど苦労していたのがまるで嘘のようで、ママ友付き合いもご近所付き合いも頗る良好である。

 一方、会社に残ったチーフは、隔離施設に入る際に外してもらった統括(チーフ)の座をそのまま放棄し、さらに副本部長にならないかという社内の推薦を蹴って、表側の人間——ハッピー・シャイニーであり続ける道を選んだ。

「一度死んで良いって言われた人間がさ、なんで中核にいなきゃなんないの? おかしくない?」

 断った理由についてチーフは笑いながらそう一蹴したが、この決断には真理子自身、違う意味で納得した。

 聞いた当初は意外にも思えた。しかし、すぐに思い直したのである。チーフはすっかりあのハラスメントの塊のような口の悪いむかつく元・上司に戻った——かのように、見える。だが、どうやらそうではないらしいと思うことがいくつかあるのだ。

 その一つが、未だに(はさみ)が使えないこと。

 それは隔離施設にいる間に発覚した異常で、ある種の『後遺症』とも言えよう。今はもう使う機会は早々ないであろう得意のナイフ系統の武器も無理だし、カッターナイフや包丁など日常的に使う可能性のある刃物の類ほぼすべてを、今も手に持つことすらできない。

 はじめは食事の時に用意されたナイフが持てず、本人も訳がわからず戸惑っている様子だったが、後ほどよくよく話を聞いてみると、冷静に思い返せばその兆候はあったとチーフは言った。葵の死後、自室に籠っている間、長い髪を切ってしまいたくて仕方がなかったのに、どうしても鋏が持てなかったらしい。

「結果的に、切れなくて良かった……? かも、しれないけど」と、本人は長い髪の先を弄りながら力なく笑ったが、いくら何でもこのままでは生活の上で困るだろうことは自身でもわかっているようで、毎回食事の際にナイフを用意してほしいと施設側に頼んで無理矢理に使おうとしていた。が、気分が悪くなるからそもそも食事がままならないし、見ただけで吐き気を催し貧血を起こして倒れてしまうこともあったため、途中でドクターストップが掛かってやめさせられたのである。

「どうせいつ出られるかわかんないんだしさァ、焦んないで気長にやろうよ。あたし暇だし付き合ってやっても良いわよ」

 真理子はそう言って説き伏せたが、結局隔離施設にいる間に刃物を持てたことは一度もなかった。

 そのうち大好きなチーフが困っていることを聞きつけたひなたが、「あたしが小さいころ使っていたやつをあげる」と、幼児用の『切れないはさみ』をあげた。刃が付いていなくて紙一枚も碌に切れない玩具である。チーフはそれを大切にしてくれて、現状、そこから派生して子ども用の安全装置付きの鋏であれば使えるようになっている。

「刃物なんか使わなくても意外と何とかなるもんだなって」如何に使わずに済ますか、という知恵のほうが蓄積して、いっそこのままでも生きてはいけるという。だがそれはまだチーフが()()()に負った傷を克服できていないことを意味する。五年の歳月が流れ、すべてが元どおりに回り出した今でも、どこかで何かが壊れている。

 一人で必死に折り合いをつけようとしていることは見ていて感じた。「お前は家族のことだけ考えてろ」と何度も言われ、同じ施設内にいるのに会ってくれない日もあった。しかし一度粉々に割れてしまったものを無理矢理に接着剤で繋ぎ、直しても、結局のところ完全に元どおりにはならないし、そもそもチーフはその修繕作業がものすごく下手だ。ちょっとしたことで再び粉々の破片に戻って、段々とくっつかなくなってしまう。

 それが怖くて仕方がなかった。真理子だけでなく、健一やひなただってチーフのことをとても心配していたし、1号や2号、西へ帰っていった柳だってチーフのことを気に掛けて時折電話もしてくる。一平なんて、「西に戻ってもどうせ一人で暇だから」と東に残ってしばらくヒーローボランティアをしてくれて、その間もずっとチーフの兄貴分をやってくれた。相変わらず最後までヘラヘラしている人だったが、それはおそらく演技だったと思うし、いけないこととはわかっていたが、彼らにチーフ個人の電話番号を伝えたことは決して後悔していない。

 自分にはもう何もないから良い、とチーフは言ったが、そうではない。だが、そのことをチーフ自身が認識するには、まだまだ時間がかかるらしい。だからこそ、こうして『ハッピー・シャイニー』という完璧な存在に変身することは、桜庭英斗という人間がバランスを取るためには必要不可欠なことなのだろうと思う。

 だから、止められない。

 ヒーローであり続けることがその人の未来に何をもたらすのか、わかっていたとしても。

 真理子自身、チーフや葵が心配していたとおり、ヒーローは短命だというそれが自分も例外ではないことをここ数年でひしひしと感じるようになった。おそらく、ほぼ確実に、自分はあと少しでその『代償』を支払うことになる。そして当然、その時はチーフよりもずっと早いはずだ。

 もし、再びチーフが破片に戻ってしまうことがあったら、もう真理子には元に戻すことは難しいだろう。

 真理子にできるのは、せめて、こうして時折目の前に呼び出して用を言いつけて安否確認をし、カレーを持たせたり、時折おにぎりを握ってやったりすることくらいだ。カレーはナイフを使わなくて済むし、反抗期に突入していつも苛々しているひなたもお洒落の『せんせい』に会えるのは非常に喜ぶから、一石三鳥というわけだ。だが、それもいつまでできるのかわからない。

 ——早く、気付いてほしい。

 真理子がいなくなる前に。自分が思っている以上に、自分は一人ではないのだと。

「……ぶぇっくしょんッ‼︎」

 鼻を擦りながら、マスクをせずに表に出ていたことに気付く。この時季に景色を覆う薄らと黄ばんだ霞は、真理子の天敵なのである。

 まだ少し冷たい風が街を抜けていく。今日も空は青くて、洗濯日和になりそうだ。


* * *


 ひなたのクラスのベランダがどの位置かは、もうすっかり頭の中に登録されていて、今日も迷わずその手摺りに降り立つ。ちょうど中休みの時間帯、ひなたは教室の中で数人の友人らと机を囲み、何やら話をしているところだった。

 六年生にもなれば背も伸びてもうすっかり人間の形になっているものの、どこかまだあどけなく幼い頃の面影はしっかりと残っている。ただ、最近ふとした瞬間の姿や仕草が母親にかなりよく似てきて、遠目に見ていると特にそう感じることが増えた。もちろん、丸くない真理子のほうに、だ。

 視界に入る場所からひらひらと片手を振ると、楽しげだったその表情がさらに明るく煌めいて、こちらを見る目がまん丸に変わる。

「あ、シャイニー!」

 ニコニコと窓辺に駆け寄ってきて、大きな窓を開けてくれる。あまり良いこととは思えないが、ひなたはひなたでこうして突然ヒーローが教室のベランダにやって来ることに慣れてしまっているのだ。「ねぇ見て見て?」

 ひなたは顔の前で今月出たばかりの小中学生向けの雑誌を広げた。そこにはアニメーション風のイラストと見覚えのあるQ&Aが一面に描かれている。

「こんなものを学校に持って来るんじゃない!」慌てて雑誌を閉じさせてしまったのはその中身が自分(シャイニー)のことだったからだ。決して、学校にこういった雑誌を持ち込んではいけないからではない。

「なんでよぉ、かわいいのに」

「そういう問題じゃない。アタシに没収される前にしまって」

 ひなたが不服そうにしていると、それまで一緒に話をしていた友人らが窓辺に寄り集まってきた。元々ハッピー・シャイニーというヒーローの存在は世間に知れているが、このクラスにおいてはひなたの影響によってかなり身近な存在として有名になってしまっている。

「こんにちは、シャイニー」

「良いなぁ、かみの毛ツヤツヤ」

「まつ毛長ぁい」

 雑誌の絵よりも本物のほうが可愛いと言ってもらえるのは素直に嬉しいが、美容やらファッションやらに興味津々な年頃の女子にこうもまじまじと寄られてしまうと複雑なものがある。こんな夢盛り花盛りの生娘たちに、自分が本当は中年のオッサンだなんて口が裂けても言えない。

 ひなたは寄ってきた友人らをせっせと追い払い、再びこちらを向いた。あのシャイニーと仲良しな自分は自慢したいものの、シャイニーと話ができる自分だけの特等席は譲りたくないらしい。

「ほら」

 しかし真理子から預かったピンク色の派手な弁当包みをずいと顔の前に突き出すと、それまでのにこやかな表情は途端に曇り、口をへの字に曲げて顔を背けてしまった。

「今日はいらないって言ったのに。ママ、全然話聞いてない」両手を体の後ろに隠して受け取りを拒否している。

「なんで喧嘩した?」

「……」

 ひなたは下を向いてモジモジと黙っている。周囲の視線が気になるのか、友人らに話を聞かれたくないのか、相変わらずへの字の口は固く結ばれているままだ。

 察するに、喧嘩の理由なんてはたから見れば取るに足らない——牛乳を買っていなかったとかいう程度の些細なことだろう。それを敢えて訊ねたのは問題が他にあるからだ。答えてもらわなくては困る。

 教室の前の壁掛け時計にちらりと目をやると、針は『8』のところに掛かろうとしていた。

「……五分だけよ?」

 ひなたの体を掴んで窓から引き摺り出し、屋上まで跳び上がる。おそらく人が瞬きをしている程度の時間だったはずだ。

 いつもの場所、二人だけの秘密。

「はい、どうぞ? お話しして?」

 以前はここへ来ると必ず脚の間に座らせて抱えていたが、いつの間にか隣に座るようになった。いつもやってとせがんでいたヘアアレンジは、ひなた自身でするようになった。学校に化粧をして来ることは禁止されているが、おそらく薄く色が付くリップクリームを塗っている。

「……ママがハンカチ洗っといてくれなかったの」

「馬鹿タレ。良いじゃない、違うので。いっぱい持ってるでしょう」

「あれが良かったの! 今日使うってちゃんと言ってあったし!」

「それはアンタが悪い。真理子が人の話聞かないことなんてアタシでも知ってんのに、アンタは『聞いてる』ってほうに賭けたわけでしょ?」

「そうだけど……」

「ほんとあれさ、アンタ娘なんだから何とかしてよ。マジで話聞かないんだから、あの人。まァ昔ッからそうだったけどね? 最近ひどすぎ。さっきだってカレー作ってくれるって言うからブロッコリーと温玉二個でチーズなしって頼んだけど、絶対ブロッコリーはなくて卵は一個でチーズ入りよ。賭けても良いわ」

「ごめんね、シャイニー」

「何なのかしらね、あれ。聞いてるのに忘れちゃうの? ボケてるの? それとも嫌がらせ? アタシもう腹と尻を何とかしろなんて言ってないわよ?」

「うん、ごめん。ごめんね。ちゃんとママに言っとく」

「そう、ちゃんと言っといて」

 ピンク色の弁当包みを再度差し出すと、何かを思い出したのか、ひなたはハッとしてまた押し黙ってしまった。チーフがブロッコリーと温泉たまごをご所望でチーズは不要であると真理子に伝えるためには、先に仲直りをする必要があることくらいはわかるだろう。

「……意地悪」

「そうよ、アタシ性格悪いの」思わず笑いが出てしまう。「良いのよ? アタシがもらったって。けど、買い食いしてると大きくも可愛くもなれないわよ?」

「……このピンク、ほんとやめてほしい」

「そうね。ひなたは小さい頃から青が好きよね」

「……」渋々包みを受け取り、文句を言いながら中を覗くと、可愛げのないアルミホイルに包まれたおにぎりを一つ差し出した。

「ママ、いっつもおにぎり一つ多いの。かわいくはなりたいけどデブはイヤ」

「良いわ。もらってあげる。けどその代わり、家に帰ったらちゃんとママと仲直りしなさい。わかった?」

 膨らみっぱなしの頬を(つつ)いて萎ませる。「忘れるママもママだけど、人にやってもらったことは文句言っちゃダメ。人に頼むっていうのはそういうことなの。嫌なら今度から全部自分でやりなさい。できるでしょ?」

 ひなたは溜め息を吐いて頷いた。チーフが言うなら仕方ないわ、とすっかりマセた女の子になってしまい、何となく心が痛い。「ねえ、次はいつ家に遊びに来てくれるの?」

「今夜行くわよ」

「来てもうちでご飯食べてってくれないじゃん。昔みたいに」

 痛いところを突いてくる。たしかにここ数年、真理子の家のカレーは以前と変わらぬ頻度で食べているが、鈴木家のあのテーブルに着いて食事をすることはほとんどなくなっている。

「……アタシも忙しくってさ、仕事もあるし、もう年だから、夜になると疲れちゃうのよね」

 それを言い訳に使っているが、本当は違う。もっとくだらなくて、子どもじみた理由だが、ひなたにはまだ重すぎる。

 しかしだからこそ、次のような質問が続くことになってしまう。

「じゃあさ、チーフの家に遊びに行っても良い?」この警戒心のなさ——さすがは真理子の娘である。

「ダメ」

「なんでよぉ⁉︎」

「汚いから!」

 もし自分が本当に女だったら、汚くても必死に片付けて呼ぶことはできるだろうが、現実はそうではない。もし女装をしていなかったら、ひなたと会話したり、外を二人で歩いているだけで職務質問間違いなし——それが本来の自分の身分なのである。

 良いでしょ、ねえねえ、と食い下がってくるひなたを無理矢理に抱え、出てきた窓から教室に戻す。膨れっ面が直ったのは良いが、こうなってしまうともはや己に残された道は逃げることのみなのだ。

「アンタももう良いお年頃なんだからね、中年のオッサンなんかと遊んでないで早く彼氏の一つも作りなさい」

「無理! あたし、チーフみたいに優しくて強くてカッコ良くて可愛くないとヤダもん。そんな男子いない」

「あのねェ……——」

「十六才になったらおよめさんにしてもらうんだから。良いでしょ、チーフ?」

「絶ッ対、ダメ‼︎」

 この台詞は数年前からよく言われるようになり、真理子も既知である。が、子どもの初恋だからと真剣に取り合ってくれず、一向に改善されない状況が続いている。ひなたに限って、とは思いたいが、初恋は拗らせると人生がおかしくなることを身をもって知っている英斗からすると一刻も早くどうにかしてほしい大問題である。

 たしかにひなたのことは小さい頃から可愛がってきたつもりだが、まさかこうなってしまうとは思わなんだ。「若い子に好かれるのは嫌な気はしないけどね、アタシそんな犯罪者になりたくないから」

 多様性にも限度がある。自分が誰よりも可愛いことは認めるが、本当に趣味が悪いというか、とんでもない娘に育ってしまったものだ。

 慌ててベランダの手摺りを蹴り飛ばしたら、バランスを崩して落ちそうになり、とても格好良いとは言えない退場となってしまった。

 ——駄目だ。一回立て直そう。

 誰にも目撃されていないことを祈りながら、家々の屋根を跳び、本部の社屋へと舞い戻る。中には入らず、裏から屋上へと続く階段にケーブルを飛ばした。

 錆びた鉄の外階段を駆け上がる。一度ガタガタに崩されてしまった調子を戻すには、やはりここへ来るのが良いらしい。他の人と鉢合うことはまずないし、ちょうど小腹を埋めるのに最適なものも一つ持っていることであるし。

 使われなくなった見晴し台の上は、生温くて少し強い、春の風がいた。

 いつもの自分の特等席に腰を下ろし、漸く長い息を吐いた。よく晴れてはいるが、見渡す街には霞のような白いベールが掛かり、地平線はぼんやりと薄い。川沿いの桜はもう緑色の葉をつけて、ここまで風で舞い上がってきたのだろう花びらが階段の隅で茶色くなって何枚か溜まっている。

 匂いがする。この季節独特の、丸くて、眠くなる、食べたら蜂蜜のように甘そうな、春の匂い。

 今し方ひなたから受け取ってきたものを出す。銀色のアルミホイルに包まれた、野球ボールほどの丸い塊。

 ——……あとで真理子に文句言う。

 酸っぱい。酸っぱすぎる。

 一体何度指摘すれば改善されるのだろう。どいつもこいつも本当に人の話を聞いていない。

 あとで絶対、文句言う。

 涙目になりながら口を動かしていると、右側のスカートに違和感を覚えた。ふと視線を向けると鳩がいるではないか。

「うわ、びっくりした……アンタ何、どっから来た?」丸々と肥えた『美味しそうな鳩』が真顔でオレンジ色のスカートの裾を(ついば)んでいる。「やめろやめろ、食べ物じゃない」

 穴を開けたら怒られる。昨年とうとう爺が引退し、その後任の若造がなかなか気が利かない奴なのである。

 手で軽く払うと啄むのはやめてくれたが、どこかへ飛んでいく気配はなく、その細い脚には見合わない大きな体を揺らして懸命に周りをうろうろ歩き回っている。

 思い過ごしに違いないのだが、こちらを向くつぶらな瞳が何となく恨めしそうに見えて、ふと右手に持っているものに気が行く。そこにあるのは齧りかけのおにぎりだ。

「……え? もしかしてコレ狙ってる? ダメよ、これは」こんなに酸っぱいものをあげられないし、そもそも鳩はおにぎりなんか食べないはずだ。

 が、ダメだと言われたのがわかっているのか、今度はマントの隅を啄んでくるようになってしまった。

「コラ寄るな、食べるな! ダメダメ、これはアタシのご飯! メッ‼︎」払っても威嚇してもまったく効果なし。なんて食い意地の張った鳩なのだろう。

 仕方なく、残りのおにぎりを全部口の中に押し込んだ。

 どうしてこうなるんだ? 自分はただこの特等席で一人落ち着きたかっただけなのに。酸っぱいし、それでも鳩は飛んでいってくれないし。放っておいてほしいのだ、こっちは。

 涙が出てくる。酸っぱすぎるし、飲み物が欲しい。

 決してそこにいる鳩が、もうしばらく顔を見ていない誰かさんのように見えたからではない。


 ——「英斗、ラーメン食べに行こうよ」


 風に乗り、ふとした瞬間に聞こえてくるその声は、日に日に鮮やかさを失う。

「……ごめんね」

 忘れたくないのに、忘れてしまう。

 思い出さなくてはいけないのだ。だから、放っておいてほしい。一人にして、考える暇を与えてほしい。痛くても、苦しくても、何でも良いのだ。留めておけるのならば。

 そうでないと、自分は、忘れてしまう。

 鷹野葵の感触を。



To be Continued...

【ヒーローずかん】※抜粋


◆ハッピー・シャイニー(0号)

 〜黄昏れ背負いて夜を駆け

   鎮む世界に希望の夜明けを〜


 くらやみに きぼうの ひかりを ふりまいて

 さいぜんせんで みんなを まもる まとめやく


☆いろ   オレンジ

☆ねんれい おんなのこにねんれいをきいたらダメ!

☆おおきさ 170cm

☆おもさ  62kg

☆とくぎ  おけしょう、かみのけをゆわくこと

☆すきなたべもの  カレーライス

☆きらいなたべもの ねぎ

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