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第九話 夜明けを呼ぶ色(2)宝探しの日

この話には『西』という地方特有の言語(方言)が登場しますが、実在する地方ならびにそこで使用されている言語とは異なる、この物語の世界独自のものです。あらかじめご承知おきください。詳細は第六話をどうぞ。

 数日後、しばらく鳴りを潜めていたガス体のモンスターが姿を現し、付近一帯のエリアに避難命令が出たことがニュースで大々的に報じられた。

 謹慎が続いている真理子も自宅のテレビからそれを知ることとなった。完全新種のモンスターについてはできる限り隠しておきたいというのが上層部の本音であったが、これだけ大規模な避難命令となっては、もはや隠し通せるものではない。

 ワイドショーは連日それを叩きもはやお祭り騒ぎであったが、兎にも角にもあのガス部分の対策を考えなくては討伐もできないと、淡々と無人ドローンを駆使してガスの成分を分析し、早急にガス体を一時的に封じるための砲弾を開発した。会社としてはそれを用いてガスを封じて中に入り、小型の本体を探し出して撃滅するという討伐方針を打ち出した。

「——、ですが、いろいろと不確定要素が多くて……」

 会社の控え室でこっそり真理子からの電話に応じてくれたヒーローの面々は皆、画面の向こうで表情を曇らせていた。

 ごく短期間での開発が求められた代償として、十分な検証結果は得られておらず、実際にどこまでその効果が期待できるのか定かではないらしい。万が一、期待した効果が得られずガスを吸った最悪の場合、間違いなく辿るのは葵と同じ道で、危険を孕む前にモンスターとして処刑される可能性はゼロではない。故に、誰がその作戦を決行するのかという問題は当然の如く挙がり、最終的に実行するにあたっては誰もが二の足を踏んでいる状態であった。もちろん、そんな事情を露も知らないマスメディア連中は相も変わらず、一向に作戦を実行に移さない国や会社を責めることで放送時間を埋めていた。

「——、最終的には俺が行ってもええ思てんで」

「ダメよ、そんなの。一平さん、西部の方じゃないの」

「——、アホ、世界の危機やぞ? 東も西もないやろ。どうせ俺ぁもう長ないし」

「——、にいさん、やめてや……」

 ガハハ、と一平は大口を開けて笑っているが、さすがの柳も突っ込みきれないのか、眉を顰めるばかりでまったく歯切れが悪かった。当然だろう。たとえヒーローであっても、実行役として立候補するにはあまりにハードルが高い計画だ。

 皆がそれを理解している。上の人間が即座に出動命令を下さないのは、それが半ば『死刑宣告』であることをわかっているからであろう。この膠着状態がいつまで続き、どのような最終判断に至るのか——真理子の中にも不安だけが立ち込めていた。モンスターだっていつまでも止まっていてはくれない。影響が広がる前に手を打つとなれば、もはや一刻の猶予もない。

「どう? 大丈夫そう?」

 電話を切り、寝室を出ると、ダイニングテーブルで仕事をしていた健一が声を掛けてきた。

「ああ、うん……まァ今のところは、かな……」何とも答えようがなく、真理子はただ苦笑いを返すくらいしかできない。「……ごめんね」

「なんで真理子が謝るんだよ。こんなこと、誰のせいでもないんだから」

「それは、そうなんだけどさ……」

 避難命令に加え、一部のエリアに対しては政府から不要不急の外出を控えるよう緊急の通達が出された。ひなたの学校も休校措置が取られて自宅から出ないよう言われているし、健一もダイニングテーブルに仕事道具を並べ、不自由そうに取引先とコンタクトを取っている姿が日常的に見られるようになった。外出自粛の通達が出た直後は小売店での買い占め騒動なども起こって巷は騒然としていたが、今ベランダから見下ろす街はそれが嘘のように静まり返り、気味が悪くて仕方がない。

 早く、こんな非日常など終わりにしたい。それは誰もが思うところで、ましてやヒーローなら人一倍そう感じている。しかし、——。

「がっこう、いついけるかなぁ?」

 健一の斜め向かいに座っているひなたは、自宅学習用にと学校から送られてきた課題のプリントをこなしている。小学一年程度の課題であれば質問されても教えることはできるが、毎日家族以外の誰にも会わず、誰とも話さず、どこにも行けない生活というのはさすがにそろそろ飽きてきているようだ。

「すぐ行けるようになるよ。モンスターなんか、ヒーローがやっつけてくれる」

「ママはいかないの?」

 その質問をされると非常に痛い。「ママは……どう、かなァ? 今、みんなで、作戦を考えているところなのよ」

「ふうん……」

 その危険性など、子どもは知る由もない。モンスターが目の前にいるのにヒーローが動かないという現実は理解できなくて当然だ。

 状況は変わらず、焦ったい時間だけが過ぎていった。このまま、永遠に世界は動き出さないのではないか——とも思えたそれが進展を遂げたのは、さほど日が経たぬとある昼下がりのことだった。突如としてその作戦が実行されることが、テレビ画面の上に速報で流れてきたのである。

 討伐作戦の決行を発表——待ち望んでいたはずのそのテロップを見た瞬間、なぜか、真理子の脳裏に嫌な予感が過った。

 ——誰が?

 とうとう一平が志願した? 東の誰かに出動命令が下った? それとも作戦用のAIロボットやドローンが開発されたとか?


 ……それとも——?


 テレビの前で固まってしまった体に、スマホの着信音が刺さった。個人用の電話に表示されていたのは登録のない電話番号だった。

 頭が『090』から始まる、携帯電話の番号——普段なら、知らない番号からの電話には応答しないことにしている。だが、真理子は迷わずその呼び出しに応答した。

「……あんた、今どこにいるの?」

 電話の向こうはガサガサと煩い。おそらく強い風が吹いている。質問はしたが、何となくこれが誰で、どこにいるのかも予想がついていて、こんな時までよく働いてしまう自分の勘が嫌になる。

「変身してるわね?」どうか自分の思い過ごしであってほしいと祈りながら問うたそれにも、シャイニーは答えない。

「——、これは、()()()()電話なの。だから拾われていないはずなんだけど、時間がないから、手短に言うわね。あのおにぎり、梅干しのバランスをもう少し考えてほしいんだけど」

「どこにいるの?」

「——、だけど、美味しかったわ。ありがとう、いろいろと」

「あんたがあたしにそんなこと言うなんて気持ちが悪いわ」

「——、酷いわねェ。せっかく人がこうして電話したっていうのに」

「どこにいるのか答えなさいよ!」

 シャイニーはやはり質問には明確に答えず、代わりに「夜明けを迎えに行くことにしたの」と言った。その一言だけで、すべてを理解するには十分だった。

「待って、あんた——」

「——、もう行くわ。ひなたと健一さんにも、よろしく。じゃあ」

 電話は一方的に切られた。すぐに同じ番号に掛け直したが、もう繋がらない。いつも散々、人の話を聞けと真理子に怒っていたくせに、自分が何も聞いてくれないではないか。

 額に冷や汗が滲んでいる。テレビのチャンネルを回していったが、作戦決行のテロップは出たのに、どこもその様子を報じている局がなく、ニュース番組にさえ切り替わらない。おそらく、報道規制を敷いたのだ。

「電話、桜庭さんだろう?」

 横で聞いていた健一が声を掛けてくる。おそらく彼も、電話をする真理子の様子だけで何が起こっているかは理解している。

「……何考えてるの? まだ怪我だって治ってないのよ……?」

 それであの作戦の実行役を買って出たというのがどういうことなのか、考えるだけで体が震える。

 健康な状態であっても、ヒーローとして力を使えば体には半端でない負荷が掛かっている。既に手負いの人間が、まともに戦えるとは思えない。しかも相手は完全な新種だ。どう攻撃してくるか、弱点は何か、情報が何もないのに。

 シャイニーのことだ。他のヒーローは連れて行っていない。途中で怪我が悪化してもフォローはないし、フリーズすれば絶対に帰っては来られない。完全新種相手に単独戦闘だなんて、死にに行くようなものだ。

 ——いや。

 あの人はそれで良しとしたのだ。そもそも、きっと、戻って来るつもりなど、はじめから——。

 どうしよう?

 止めなくては。

 だが、どうやって?

 任務として、危険すぎる。こればかりはさすがの真理子でさえも二の足を踏んでしまう。他の人に行ってくれなんてとても言えない。

 他の人にはやらせられない——それが相応の危険を伴う行為である時、チーフはよくそう言っていた。それがあの人の思考回路なのだ。今回だってそう言って名乗り出て、一人で良いと同伴を断ったに決まっている。

 時間がない。シャイニーは既に前線に向けて発っている。追うなら今すぐにでも行かなければ、間に合わない。

「ママ」

 気付くと、ひなたがすぐ傍らに立って、真理子の腕を引っ張っていた。我に返り、堪らず膝を折って、抱き締めた。

 シャイニーのところへ行かなくてはという気持ちはたしかにある。これまで幾度となく助けてもらったし、恩があるのもわかっている。だが、いくら仲間でも、友達でも、あの人は他人だ。

 真理子には家族がある。

「ねぇママ。チーフは、わるいモンスターをやっつけにいったの?」

「……そうよ」

「おケガなおったの? あたしのおてがみ、よんでくれた?」

「読んでくれたと思う。だからシャイニーに変身できたんじゃないかな?」

 ひなたは嬉しそうに笑う。「ママは、いっしょにいかないの?」

「……ママは……」

 決められない。でも、これだけはわかる。

 もしここで、何もしないという選択をするなら、自分はもうヒーローではない。

「……ごめんねェ、ひな。ママ、本当は、全然ヒーローじゃなかったのかもしれない」

 いや、違う。

 迷っている時点で、既にヒーローとしては失格だ。目の前で誰かが犠牲になろうとしているのに目を瞑ろうだなんて。

「なんで? あたしのママは、せいぎのヒーロー、ピンキー・マリーだよ」

「そうだけど……チーフが困ってるかもしれないのに、ママ、勇気がないの。ひなとバイバイになっちゃうかもしれない。ひなはママとバイバイするの嫌じゃない?」

「イヤだけど、ヒーローじゃないママもイヤ。ヒーローじゃないママはママじゃない」

「……」

「チーフこまってるの? ママがいけないならあたしがたすけにいく」

「ひな……、——」

「このまえね、スピカがブラックゴーメルにキラキラを盗られてまけちゃいそうだったの。でもルナとリゲルとアースがきてみんなでやっつけたんだよ」

 つい先日、ひなたがずっと好きだったトゥインクルハートシリーズが最終回を迎えた。その最後の戦いのことを言っている。

 一人でできなくても皆で力を合わせれば——子ども向けのアニメではよくある展開だ。たしかに言うとおりではあるが、現実はそう簡単ではない。ヒーローはただの人間で、魔法なんて使えない。死なないという主人公補正や、正義は必ず勝つというエンディング保証も、奇跡も、ないのだ。

「真理子は、どうしたいんだ?」健一が静かに訊ねる。「ママとしてとか、妻としてとか、そういうの全部抜きにして、真理子自身はどうしたいの?」

「……あたしは……」

 全部抜きにしてなんて、考えられない。だって真理子は真理子なのだ。健一の妻で、ひなたのママ、それが真理子なのだ。

 だから、何が大事なのかって、そんなことはもうわかっているではないか。

 そこまでわかっているのに、「あたしは行かない」——すぐそこまで出かかったその一言が言えないのは、なぜなのだろう?

 後ろめたさに、顔を背け、堪らず下を向いた。だが、逃げられない。最後は自分自身が決めなくてはならない。

 沈黙はとても長かったように感じる。やがてそれを破ったのは、健一のほうだった。

「行ってきたら?」

 予想外の言葉に、思わず顔を上げた。健一は既にすべてを覚悟しているようで、その表情はいつになく穏やかだ。「良いじゃない。行ってきたら」

「……えっ?」

 微笑む健一の口調は、まるでいつもよりほんの少しだけ遠いスーパーへ買い物へ行ってきたら良いと勧めているかの如く軽くて、戸惑いに塗れた真理子は言葉が出てこない。

 その様子が可笑しかったのか、健一はプッと吹き出した。

「これが普通のママだったらさ、行くなって言うよ。けど、真理子は根っからの、ヒーローだからさ」

「健ちゃん……」

「なーあ、ひなた、そう思うだろう?」

 健一に抱き上げられながら、ひなたはしっかりと頷いている。

「もし真理子が怖いとか、行きたくないと思っているなら、やめな? 俺だって、正直危ないことはしてほしくない」だけど、とすぐに健一は言葉を繋げる。「真理子はもし、これで桜庭さんに何かあった時、お気の毒だったよねって、流せる? 真理子、あの人が平和にしてくれた世界であたしは幸せに暮らすわって、言える?」

「……それは……」

「桜庭さんは、他人だよ。けど、俺の知っている真理子には、割り切れないよ、きっと。そんなことできない。鷹野さんのことだって、真理子、未だにどうすれば良かったんだろうって、気にしてるだろう? これから先も、一生考えながら生きていくんだと思うよ」

「……」

「もし今ここで、行かないという選択をしたなら、真理子はもう二度と、俺たちの前で笑ってはくれない。俺は、真理子の笑っている顔が一番好きだからさ」

「……でも……もしかしたら、あたし……——」

 あたしが死んだら? ——そう訊ねるよりも先に、健一はあっけらかんと笑った。

「大丈夫だって! 真理子は死なないよ!」

 どこからその自信が来るのか。だが、健一もひなたも、そっくりな顔をして笑っているのだ。「真理子はそういう人だって、俺もひなたも一番よく知ってるから。カレーでも作っておくからさ、ちゃんと帰ってきてよ、二人で」

「……」

 信用されているのだと思った。この人たちは、真理子がいつもと同じように「ただいま」と帰ってくることを信じている。

 だから、自分はそれを裏切っちゃいけない。

「チーフをたすけて。ママ」

 頷いた。「帰ります。二人で」

「うん」

「必ず帰ります」

「うん。行ってらっしゃい」

 マリーのヒーロースーツは会社に置いてきてしまったので、家にあるヒーロースーツで変身した。外は寒いので、きちんと防寒用のズボンも穿くし、動きやすさが重要な局面では履き慣れたスニーカーがよろしい。

 ——何よ。まだまだ、全然イケるじゃない、あたし。

 ふと、シャイニーが怒っている光景が目に浮かび、何となく寒気がした。


* * *


 誤ってインクでも一滴垂らしてしまったかのような黒いシミが、いつだって当然の如くそこにあった景色の一部を覆っている。中に埋もれているはずの街並みはぼんやりと影で存在を認識できる程度で、外からではほとんど見えない。ある程度の距離を保ちつつそのシミの周りを歩き回り、砲撃するのに都合の良いポイントを探す。見れば見るほど、やはり自分が来たのが正解だったと、つくづく思う。こんなことを他の誰かにやらせるなんて、とてもできない。

 もしシャイニーが現れなければ、おそらくこの役割は1号か、2号に振られていたはずだ。柳も一平も西の人間で、体裁を気にする本部があの二人に出動命令を下すとは思えない。7号はまだヒーローとして新米だし、4号と5号もこの大役を任せるには力量不足だ。

 いつか誰かが行かなくてはならない。シャイニーが名乗り出て、本部連中はホッとしたのではないかと思う。最も美しい形で、一番の厄介者をお役御免にできるのだから。その証拠に、あれほど二の足を踏んでいたお偉いさん方は、二つ返事で計画実行の許可を出した。

「一緒に行きます」と、最後まで折れなかったのは1号だ。責任感の塊のような彼女のことだ。そうなるのではないかと予測はしていた。だが、致し方ないとはいえ、女の子を殴って気絶させるなんて人生で初めてやった。もう二度とやりたくない。2号に預けて見張りとフォローを頼んできたが、上手く治めてくれているか少し心配だ。

「冥土に行っても俺の女には手ぇ出さんといてや?」

 冗談半分、本気半分。柳がメソメソと泣いている横で、一平だけは相変わらずだった。「おまえのこと殺してまう」と大口を開けて笑うくせに、気を付けて行けと真面目な顔をして肩を抱いてくる。セクハラ気質も変わっていない。間違っても蒲公英(たんぽぽ)に手は出さないが、腹いせに、一平の女遊びについて報告しておいてやるのも悪くないかもしれないと思った。

 あの場にいた者のうち、最も冷静であるかのように見えていたのは7号だが、逆にあの子が一番心配だ。同時に、あの子に憑いてしまった黒い影を祓ってやるには言葉なんかでは駄目で、自分が、あの完全新種モンスターの討伐という任務を完遂するしか方法はないのだと、悟った。

 どんな結末になろうとも。

 黒いガスの周りを歩き回りながら、暇潰しと、何となく気が向いて真理子に電話をした。呼んでもいないのに勝手に家までやって来て、他人の家の台所で勝手に料理をし、頼んでもいないのに大量のおにぎりを置いていった。何なんだ、あのてんこ盛りのおにぎりは。作りすぎだし、酸っぱすぎて処分するのが大変だった——と文句を言おうとしたのに、何か違う、余計なことを喋ってしまったような気がする。

 もうこのスマホも必要ない。捨ててしまいたいと思ったが、後にここの住人が戻って来た際に拾われてしまうと厄介なので、とりあえず持っていることにする。もし死んだら、この体と一緒に燃やしてくれればそれで良い。

 自分の足音以外、何の音もしない。大都会にいるのに、それはそれで気持ちが悪くて、試しに鼻歌を口ずさんでみた。声になるか、ならないかくらいの、ほんの微かな声だったのに、驚くほど明瞭に聞こえた。

 歌うのは嫌いではない。が、昔から声が不安定で色気がなく、子どもが歌っているようだと評されてきた。得意だと思ったこともないが、要するにそういうことなのだ。以前風呂に入っている間に葵に不法侵入されて歌っているのを聞かれてしまったことがあり、その時の感想が「決して音痴ではないし可愛い」だったからそれを信じているのだが、一応人前では披露しないことにしている。どのみちオッサンが『女の子の声』で歌うのは少々辛いものがあるので、それで良かったのだ。

 だがもう良い。別に誰がいるわけでもない。ヒーローが死ぬ瞬間を全国の電波に乗せるわけにいかないからと報道規制も敷かれているこの状況で、自分のことを見ている奴なんているはずがないのだから最後くらい好きにさせてもらう。

 誰だったか忘れたし、夢の一部だったのかもしれないし、もしかしたら何かの記憶と混同しているのかもしれないが、まだ周りの大人が自分のことを抱いてあやしてくれていた頃に、その人がよく歌っていた。少し大きくなって、自分の足で走り回れるようになって、その歌が、夕方になるとどこからともなく流れてくる曲に似ていることに気付いた。聴いていると懐かしくて、ただ、何となく寂しくなってしまうから、その曲が流れてきたら耳を塞ぐようにしていた。

 あれは一体、誰だったのだろう?

 そんな昔のこと、覚えているはずがないのに、自分は、その人に抱かれているのがたぶんとても好きだった。

 ——「可愛いねェ。英斗」

 葵以外で自分にそんなことを言う人なんて、いたっけ……?

「……」

 背中で靡くマントがやに重い。


 とんとん。


 ビルの屋上の手摺りに座ってぼうっとしていたら不意に肩を叩かれ、考えなしに振り向いた。すぐそこに、防塵マスクをつけた顔がある。

「……」

 我に返って絶叫してしまった。

 だってあり得ない! なんでこんなところに人がいる⁉︎

 静かに行動するという原則なんて頭から吹っ飛んでいたし、あまりに動転して手摺りから落ちそうになった。

「落ち着きなさいよ、バカァ、怪我するってば!」そう言いながら、ちぎりパンのような白い腕が体を掴んで引き戻した。防塵マスクのせいでくぐもってはいるが、懐かしい声と、白々しい溜め息が聞こえる。

「相変わらず背後(うしろ)がガラ空きよね。大丈夫なの? そんなんで」

 あのガスを吸わないように気を遣っていたつもりだが、もしかしたら知らぬ間に摂取してしまっていたのかもしれない。

 あり得ない。あっちゃいけない。

 こんなところにマリーがいるなんて。


* * *


 シャイニーは元々大きめだった目をさらにまん丸に見開いて、本当に穴を開けられてしまいそうなほどに上から下までこちらを凝視し、またさらに目を丸くしている。そして何を思ったのか、両手を伸ばしてあちこちを触り始めた。

「ちょちょちょッ、やめて痴漢ッ、触んないでよ!」

 払い除けてもまったくやめてくれず、出っ腹に垂れ尻まで、そして最後はほっぺたをぺたぺたと叩いて引っ張られた。

「いい加減にしなさいよ、あんた!」

 やっとのことで両手を掴んで頬から引き剥がし、渾身の声で怒ると、あんぐりと開きっぱなしだったシャイニーの口が漸く動いた。

「何やってんだよ⁉︎」

「それはこっちの台詞よ、ヘッタクソな歌ねェ!」

「黙れ、聞くなよ! 帰れ帰れ、すぐに帰れ!」

「なぁに、何か言った? あたしオバサンだからよく聞こえないのよねェ」

「ふざけるな‼︎ お前謹慎中じゃないのか? こんなところに出てきて良いわけないだろ、しかもなんでそのスーツなんだよ⁉︎」

「あんたがくれたんじゃないの」

「ジャージを脱げ、スニーカーやめろ! てか帰れ、今すぐに‼︎」

「帰るんならあんたも一緒だから」

「……、はァ?」真顔で言うと、シャイニーは一瞬言葉を詰まらせた。「何言ってんだよ、アタシはこれから——」

「知ってるわよ?」

 ずいと近づき、再び喚き出しそうなシャイニーを黙らせる。さらに勢いに任せて詰め寄っていたら、沸々と怒りが湧いてきた。どうやら自分はこの人に対して、そういう感情を持っていたらしい。

「あんたね、——」ひと呼吸して、一気に捲し立てる。今度はこっちのターンである。「一人で行って戻って来ないつもりじゃないでしょうね? あんな一方的なサヨナラ、認められるわけないでしょ? あたしがどれだけあんたにセクハラ受けたと思ってんの? 全ッ然! 何にも! 償ってもらってないんですけど? まさかやり逃げなんてことないわよねェエ?」

「今そんなこ——」

「それから? 前に約束したフルーツパフェ、まだ奢ってもらってないんですけど? 何なの? あたしすんごい楽しみにしてるのに。オオノフルーツパーラーのパフェ高いのよ? あんたと違ってこっちは平社員なのよ、食べられないの。わかる? え? 奢る奢る詐欺なの? せっかく一緒に探しに行ってあげたのに?」

「いい加減聞き分けろ! お前今どういう——ッ」そこまで怒鳴り掛けて、急にシャイニーは脇腹の辺りを押さえて顔を歪め、黙り込んでしまった。

「……怪我もまともに治ってないくせに、何格好つけようとしちゃってんのよ」

 少し大きな声で話しているだけでこれなのだ。まともに動けるはずがない。それなのに、なんと無謀なことを。

「なんでだよ、アンタは、いつもいつも……——」

「あんただって——」押さえた肋骨を突こうとしてみる。「いッつもいッつもそうやって強がって! ほんッといい加減にしなさいよね⁉︎」

「やッ、やめッ、ダメダメやめろ、触んな! ほんと……ッ」

 口調は強いが、やっぱり必死に逃げようとするところを見ると、間違いなくヒビが入った箇所が痛むのだろう。これからそこに尋常でない負荷を掛けようというのだからさらに悪化するのは目に見えている。

 いよいよ前屈みになって、下を向いたまま黙り込んでしまったシャイニーの背中をそっと摩る。痛み止めなんて打っているはずもない。この状態の人間が現場に行くことを許可するなんて、あの会社はとことん腐っているなと、もはや怒る気もしない。

「……なんでいつも一人で行こうとするの」

「……」

「英斗‼︎」

 少し強く出たら、シャイニーは大きな体を縮こまらせ、渋々答えた。「……言えるわけないじゃん。こんなこと。真理子に」

「葵ちゃんになら言えたの?」

「……」

「馬鹿タレ」

「だって! ——ッ」パッと顔を上げると、潤んだ瞳から涙が溢れる。「アンタら来るって言うじゃん、絶対一緒に来るって言うじゃん! アタシは、来ないでほしいのに……!」

「……あんたって本当に、馬鹿よねェ……」

 大事なものを傷つけたくないと、守りたいと思うのはわかる。だが、その代わりに自分自身が傷ついてしまったら、同じように、英斗を想う人が傷つく。

「早く帰って、帰ってよ、お願いだから……」メソメソと泣きながら、シャイニーはしきりに首を横に振っている。「無理なの。この勝負は、勝ちを保証できない。アンタをちゃんと帰せる自信がない」

「なんでよ? 随分と弱気ね。あんたらしくない」

「当たり前でしょ⁉︎」

 シャイニー曰く、ガスの鎮圧剤を砲撃してガスを払った後、核である小型モンスターを探し出して撃滅するという、流れだけを聞けば至極簡単な任務である。しかし、使用する砲弾は一発しかなく、その効果も三十分程度しか保たないため、その短時間で中に入って討伐を完了し、ガス残渣の届かない領域まで戻って来なくてはならない。

「失敗は、許されない。広い砂浜で指輪を探すようなものよ」

「馬鹿ねェ。だったら余計に二人でやったほうが良いじゃない」

「ダメ! この話には、続きがあるの」

 もし仮に無事任務を完遂し、戻って来ることができたとしても、帰還後は有無を言わさずそのまま管理施設に収容されるという約束になっているらしい。ガスをまったく吸わなかったということを調べる術がなく、葵のような後遺症が出ないことを保証できないからだそうだ。

「……何なの、その約束」とても世界を救ったヒーローに対するものとは思えない処遇だ。「いつまで?」

「さァね? 外に出られても監視は続くし、もし少しでもおかしくなったらその時点であの世行きよ」

「ふざけてるわ。あんたそんな条件了承してるの?」

「そうよ。こんなの、他の誰にもやらせられない」

「だからってあんたねェ、——」

「良いんだよ!」シャイニーは強く言葉を遮ってくる。「アタシにはもう何もないからそれで良いの。でも、アンタは、違う」

「……」

「帰りなさい。アンタは今、ここで」

 わかった、と、言うべきなのだろうか?

 巻き込みたくないの——これはきっと、この人の最期の願い事だ。この人は、この作戦で帰還しないことを——死ぬことを前提に行動している。

 目と鼻の先で今も立ち込める火災現場のような黒い煙は、空から注ぐ太陽の光をも遮り、その先にあるはずの街並みを覆い隠している。あくまで自分の勘だが、おそらくシャイニーはモンスターを見つけられぬまま鎮圧剤の効果が切れても、退避しないつもりなのだ。あの場所に残って、最後まで任務を遂行する。もし同行すれば、その捨て身の作戦にも、マリーを巻き込んでしまう。だから、来るなと言う。

 自分も、サヨナラを言うべきなのだろうか?

 ありがとうと言って、ここでその背中を見送るべきなのだろうか?

 ——「チーフをたすけて。ママ」

 自分しか——マリーしか、一緒に行けないのに?

「……ここで、ああそうですかってあんただけを行かせたら、違う意味であたしは娘に会えないわ」

 だって娘は望んだの。

 ママがヒーローであることを。

 娘は信じたの。

 皆で力を合わせたら、正義は必ず勝てるんだって。

「あたしはね、英斗。『困っている人がいたら助けなさい。一人じゃ無理だと思ったら協力を求めなさい』って、おじいちゃんとおばあちゃんからいつも言われて育ってきたの」

「だから何? アタシは困ってなんかないし、今そっちの名前で呼ばないで」

「なんで?」

「なんでって……」視線が泳ぐ。マリーが掴んだシャイニーの手は、手袋の上からでもわかるほど冷たくなっている。記憶が正しければ右腕にもヒビが入っているはずで、そんな腕では重たい銃器を振り回せない。シャイニーの持ち味でもある二刀流は使えないのだ。

 慣れない武器を背負い、相手は幽霊のような未知の生物、その状況で一人、失敗はできない——怖くないはずがない。

 たしかにシャイニーは助けてほしいだなんて一言も言っていない。しかし、祖父はこうも言った。

 本当に助けてほしい人は、助けてなんて言わない。

 だから、その無音の声を聞くことができる人になりなさい、と。

「シャイニーのほうはどうだか知らないけど、あんた本当は怖くてしょうがないんでしょう」

「……そんなこと、ない」

「葵ちゃんが言ってたわよ。あんたは本当は泣き虫で、寂しんぼうだし——」

「やめて」

「自信がなくて恥ずかしがり屋で、あと……究極にマザコン」

「ふざけんな」

「葵ちゃんはあんたのことが本当に本当に大切だったのね。よく見てるわ」

「……ほんと、最低……ッ!」顔を隠そうと下を向いたが、ぼたぼたと大粒の涙が落ちてくる。「死んでまで意地悪しなくたって良いじゃん、馬鹿。とんでもない置き土産だわ」

 葵はきっと笑っていることだろう。

「一緒に行こう? 大丈夫よ。あの時だって、ちゃんと指輪は見つかったでしょう?」

 シャイニーはギョッとしている。「……アンタ、思い出したの? あの任務のこと」

「ぜぇんぜんダメ。ぼんやりとしか思い出せない。けどちゃんと見つかったってことは思い出したわ。あたし、返しに行ったんだもの。その指輪。「お前が行け」って、たぶんあの時そう言ってくれたのがあんた——」

「バカバカバカやめろ! それ以上思い出すな、本当にやめろ!」

 なぜそんなにも焦る必要があるのか、甚だ疑問である。マリーの中に薄らと眠る当時の記憶において、2号には悪い印象など何もない。

 むしろ。

「すっごく感謝されたのよ。だからあたし、間違ってないんだって思えた。あの日のあんたが、あたしに自信をくれたの」

「……馬鹿じゃないの。本当に、アンタは究極の馬鹿」

「何とでも言って。今さら、あんたにどんなこと言われたって、痛くも痒くもないわ」

「……」シャイニーはぐったりと下を向き、長くて深い溜め息を漏らすと、やがて自分用に持ってきたガスマスクをマリーに押し付けてきた。「指示には従って。必ず、何があっても。ついて来るなら絶対に、このマスクを外さないで」

「あんたのは?」

「しないよ。視野は狭まるし、狙いも定められないし……化粧が崩れる」

 泣いてしまったせいで目元を中心に相当崩れてはいるが、そこは指摘しないことにして、言われたとおり素直にガスマスクに付け替える。こんな厳重装備は初めてで、装着方法が合っているのか不安だ。

「どう? これで良い?」

 シャイニーのほうを向くと、しばらく無言でこちらを見ていたシャイニーはそのうち我慢できなくなったのか、口元が歪み、やがて沸々と笑い出した。

「な……何よ?」

「……やっぱりアンタの言うとおり、アタシは頭がおかしいのね。こんな状況なのに、アンタのその顔を見てると笑いが出てしまうの」

 普段なら、頭に来て追いかけ回しているところだが、泣きそうになっているのを誤魔化すのに精一杯で何も言い返せなかった。本当に、むかつくほど可愛いシャイニーの笑った顔を見るのは、いつぶりだろうか。

 絶対に、この人を連れて、二人で生きて帰ろう。ひなたの夢を壊さないためにも。

 シャイニーが持っていたのは、よく見ると、いつぞや葵が使い方を教えてくれた新型のロケットランチャーだった。砲撃許可を得てそれを構えたシャイニーは、いるなら働けと背後を支える役目をマリーに任せた。

「……これを撃ったらさ、もう、戻れないよ。地獄へまっしぐらだけど、本当に、良いのね?」

「大丈夫よ」最後の、再三の確認にも、マリーは即座に頷いた。「閻魔(えんま)様はね、若い()が好みなの。あたしたちじゃ間違いなく、門前払いよ」

 ほんの少しだけ、笑っていた気がする。

 引金を引いた、その瞬間、反動で体が後ろに吹っ飛ばされる。

 狙い通りにガス体の中央部に着弾した鎮圧剤は、周囲のガスをみるみるうちに消し去り、覆われていた街が姿を現した。

「え……何、これ……?」

「……」

 視界が冴え、思わず絶句してしまった。

 そこにあったのは、街だったもの、だ。

 戦闘行為が行なわれず、ガスに覆われていただけのはずの街並みは、まるで人の手を離れ、何百年もの年月を経たかのように荒廃していた。真新しかったはずのビル群は朽ちて、枯れた草木に覆われ一体化しているものまである。

「どういうことなの……?」

 漠然と、これは幻覚なのかと考えてしまう。

 破壊されたというよりは、朽ちたという印象だ。しかしたった数時間のうちにここまで荒廃が進むなど、現実的にはあり得ない。

「……本能のままに、か」ぽつんと、シャイニーが呟いた。「たぶん、本来の姿に戻ろうとしたんだ。あのガスには、きっとそういう性質がある」

「……」

「行こう」

 すぐさま体勢を整え、駆け出したシャイニーを追う。いきなりガスを消されて驚いたであろうモンスターは姿をくらまし、どこにいるのかわからない。見渡す限りの、ジャングルだ。

「分かれる、力を使いすぎるな!」

「了解!」

 その忠告を最後に、シャイニーはマントを翻して姿を消した。

 固いコンクリートと思って踏んだ足場は脆く崩れる。小さな衝撃でもビルは崩落し、降って来る瓦礫を躱す。張り巡らされた蔦が行く手を阻み、思うようには先に進めない。

 モンスターはどこ?

 どんな攻撃が来る? どこから?

 草木の間。瓦礫の隙間。

 掻き分け、掻き分け。

 相手はどんな姿をしているのかもわからない。

 シャイニーの言ったとおり、宝探しだ。砂浜でたった一つの、小さな指輪を探すような。

 ——足りない。時間が。

 あの時は、たしかに見つかった。見つかったけれど、制限時間なんてなかったんだ。でも、今は——。

 神経だけが擦り減っていく。何分経った? 残り時間は? 他に見ていない場所は山ほどあるのに。

 マズい。しんどくなってきた。

 息が切れる。頭がくらくらして、前へ行きたい気持ちと乖離していく。

 マスクを外す。外すなとは言われたが、致し方ないとしよう。こんなものをしていたら窒息死してしまう。

 しっかりしなさい、マリー。大丈夫、大丈夫よ、落ち着いて。マリーはまだやれる。

 このヒーロースーツは旧型だ。フリーズしそうになっても警報は鳴らない。自身でコントロールを見誤れば即座にあの世行きである。

 呼吸を整え、考える。シャイニーはどこへ行ったのだろう?

 力の配分はしているはず。だが自分でこんなにキツいのだ。いくら男性だからと言ったって、今のシャイニーは万全の状態ではない。怪我もある。引き篭もっている間に落とした体力はそう簡単には戻らない。そのくせあの人は無茶を重ねるだろう。そんなことをしたら——


 ひらり。ふわり——。


 目の前をゆっくりと、蝶が横切った。

 刹那、焦っていた心が、ふと、止まる。

 見たこともない、透き通るような羽の青い蝶だ。ふわふわと、宙を踊るようにマリーの前を飛ぶ。

 ——これは、幻覚?

 普段、こんな都会の真ん中で見かけることなどまずない種類。羽の模様が見えるほど、気付けばその姿に見入っていた。

 右に、左に、予測のつかない飛行をしながら、蝶はマリーの周りを飛び回り、やがてどこかへ離れていく。

 何となく、追い掛けてみようと思った。

 時間が差し迫っていることも忘れ、マリーはその蝶の軌跡を静かに追い、道を逸れた。

 どこへ行くのだろう?

 蔦に塗れた信号機を渡り、傾いた建物の隙間を縫って、ジャングルの奥地へと、進む、進む。

「マリー?」

 声が聞こえた。

 ハッと我に返ると、目の前にシャイニーが立っていた。

「ああ良かった、倒れてなかったのね」

「マスク外すなって言ったでしょ!」やっぱり怒られた。が、シャイニーはどこかそわそわとして、気持ちが入っていない。しきりに辺りを見回して、何かを探しているようにも見える。

「……もしかして、ちょうちょ?」

「えっ?」

「……あ」

 視界の隅、排水溝の隙間から、黒い影がチョロリと顔を出している。

 釘付けになった視線の先に、シャイニーも恐る恐る顔を向ける。

 頭の中は恐ろしいほど冷静、かつフルスピードでその正体を分析している。長い触覚。ずんぐりむっくりな黒い体つきに、細い脚——。

 何となく、どこかで見たことがある。

 どこだったっけ? 何だったっけ? あの、独特の歩き方……


 ——……。


 ゴ**リだ。


 しかも、異常なほど大きい。

「——ッ⁉︎」

 認識はほぼ同時だった。

 シャイニーが悲鳴を上げる一瞬前に、射殺。もはや条件反射だ。常日頃、すばしっこく逃げ惑う数センチ大のそれを仕留め続けているマリーからすると、このサイズは何てこともない的である。

 弾を撃ち込まれた黒い物体は、気の毒になるほど呆気なく砂化していく。

「え、待って、もしかして探してたのこいつ?」

「キモすぎる! 全然小型じゃないじゃん‼︎」シャイニーは半泣きになりながらマリーの背中にしがみついて怒っている。たしかに子どもが(またが)る玩具の車くらいのゴ**リなんて巨大がすぎるが、あそこまで大きくなるともはや可愛いと開き直ることもできる。

「やばい、泣きそう、鳥肌止まんない……」

「ほォら見なさいよ! あたしが来て大正解ッ‼︎」

「ほんとそれ」

「どうよ、褒め称えなさいよね、あたしだってたまには役に立つんだから! これじゃあフルーツパフェだけじゃ足んないわねェ。あそこ季節のパフェっていう一番高いやつがあんのよ、三千円くらいするの、それも追加してもらっちゃおうかし……——」

 その時、シャイニーが突然真顔になって、マリーを制した。

「……どうかしたの?」

 動かなくなったその視線をゆっくりと追う。

 砂化していくその砂が、消えない。

 それどころか、妙な動きをしている。砂になったはずなのに、先ほど這っていた姿より大きくなっている気がする。

 風もないのに、ふわりと、砂が舞い上がる。

 逃げなきゃ——思った時には、既にビルの上へ跳び上がっていた。シャイニーが咄嗟に抱えてくれたのだ。

「走れ‼︎」

 気持ちより早く体は反応する。

 振り返れない。全速力で駆け出した背中に、禍々しい気配が迫っているのを感じる。

「何なのあれ⁉︎」

「知るか!」

「ねェやばい⁉︎ これってやばいわよね⁉︎ あいつ何なの、なんで消えないの⁉︎」

「黙って走っとけよ‼︎」

 ぐいっと腕を引っ張られ、体が宙を舞う。信じられない! 女の子を放り投げるなんて!

「アンタはこのまま行って!」

「えッ、ちょッ——」

「マスクをしろ! 止まんな、走れ‼︎」

 ——駄目だ!

 着地した体は咄嗟にブレーキを掛け、シャイニーを追っていた。先ほどの一瞬、あの人のヒーロースーツからは警報音が聞こえていた。

 あのまま行ったら帰って来られない。

 シャイニーは最初に弾を発射したポイントに戻っていた。明後日の方向に放り投げられたはずのマリーは呆気ないほどすぐに追いついてしまった。その場にへたり込み、必死にロケットランチャーに弾をこめようとするシャイニーの手は、疲労と痛みで震えてほとんど動いていない。

「本当に馬鹿ね!」構わず銃を引ったくり、代わりに弾を装填する。「元気なのは口だけじゃない!」

「だから……ッ、なんでついて来んだよ……!」蒼白い顔で汗を垂らしながら喘いでいるシャイニーはそれでもマリーを叱る。往生際が悪いにも程がある。

「あんたが馬鹿って知ってるからよ! そんなヘロヘロで撃てるわけないじゃない!」あの時この武器の使い方を教えてくれた葵には感謝しかない。「ほら! これ何、次どうすんの⁉︎」

「……ッ、鎮圧剤の、予備」

「撃つのね、わかった、跳ぶわよ!」

「ええ……?」

 既に黒い砂は膨れ上がり、はじめに砲撃で消したガスの範囲を超える勢いで迫っている。

「あんな広がっちゃったら真ん中狙えないじゃない! あたしらで高ァくジャンプして、上から撃つの、さっさと成仏してもらわなきゃ!」

「無理、そんな跳べ、ない、装備が重すぎる……」

「二人でやんのよ! 大丈夫、ちゃんと跳べる! あんたと一緒に帰るまで、あたしは落ちない‼︎」

「……」

 差し出した手を暫し鬱陶しそうな目で見つめていたシャイニーは、わざとらしく息を吐いてから、潔くそれを握り返してきた。

 予備弾を装填済みのロケットランチャーを託す。「あたし苦手なの」

「知ってる」即答だ。「投げて。なるべく高く」

 得意なことを磨けば良い。

 できないことは、得意な誰かが補填(フォロー)する。

 ——「そんなもんだよ、ヒーローなんて。だってただの人間だもの」

 そのとおりね、葵ちゃん。

「わかってますとも!」

 渾身の力で空へと放り投げたシャイニーは驚くほどに軽かった。まるで、空に浮かんでいるのが本当の姿だったのではないかと思うくらいに。

 停止しているかの如くゆっくりと流れていく景色の中で、あの銃の反動の大きさを思い出す。あんなに軽くて、不安定な人、きっとあのまま撃ったら吹っ飛ばされてしまう。

 気付いたら地面を蹴っていた。散々重いと言われて、そのとおり自覚もあって、実際ジャンプだっていつも重力に負けてしまうのに、なぜか、今日は跳べた。風が吹いていたのかもしれない。

 シャイニーが撃ち出した弾は膨れ上がる黒いガス体の真ん中を貫き、花火のような音を立てて破裂した。


* * *


「英斗、ラーメン食べに行こうよ」

 目を開けると、葵が体の上に腹這いになって乗っかっていて、そんなことを言いながら三日月の形をした瞳を煌めかせていた。

 思考が停止する。あれ? 自分は、何をしていたんだっけ?

 見慣れた自分の部屋のベッドの上に仰向けになっているのはわかるが、何か他にしていることがあったのではないかと思う。ただ、それが何だったのかを思い出せない。

 起き抜けにこってりしたラーメンは、中年の胃袋にはかなり辛いものがある。が、良いよ、と頷くと、上に乗っている葵はとても嬉しそうな顔をした。それなのに、どういうわけか、その顔を見たら急に息苦しくなって、咄嗟に両腕で抱き締めてしまった。

 ——ああ……。


 思い出したくないなァ……——。


 気付きたくない。忘れていたい。これは夢で、自分はまた、()()()に還らなくちゃならない。きっと、もうその時間なのだ。だから葵は起こしに来た。

 だって、上にいるはずの葵には全然重さがないんだもの。

「ごめん。ごめんね。痛かったよね」

「全然」

「嘘だよ」

「英斗、優しいもん」

「……ごめん……」

「……英斗」

 やがて葵は伏していた顔をゆっくりと上げ、自身の後頭部に挿さっている簪を引き抜くと、英斗の左の耳元に掛けた。「先に行っているから、のんびり支度しておいで」

「すぐするよ。一緒に行こう?」

「あんたねェ、こんなに良い女が誘ってんのに寝巻きで来る気?」相変わらずだな、自分で言うなよ。「とびきり可愛くして来なかったら、許さないからね」

「……」

「ねェわかったの? 可愛い子ちゃん」葵は頬を膨らませて、指先で英斗の左の頬を(つつ)いてくる。

 わかったよって、言うしかないじゃないか。夢の中だからって、そんな不機嫌な顔をしないでくれよ。

 本当、この人には逆らえないんだ。

 今も、昔も、これからも。

「わかったから、僕以外の奴と、ラーメン食べに行かないで」

「え?」葵は少しだけ目を丸くしたが、構わず続ける。

「葵の隣は僕の席」

「向かいは?」

「ねェ」

「冗談だよ」

 葵は再び三日月のような目をして笑い、いつもより少しだけ長い間頭を撫でて、またね、と言った。

 ゆっくりと瞬きをすると葵は消えてしまい、代わりに陽の光で照らされた白い天井があった。体を包むベッドは柔らかく、こんな快適な空間は絶対に自室なんかではない。目尻から勝手に垂れていった何かを拭いたいのに、手が動かなくて困った。

 陽が高そうだということは察したが、今日が何月何日なのかわからない。体が全然動かず、目線だけを動かしたら左側にチューブが垂れ下がっているのが見えて、おそらく栄養を入れられているのは察した。きっと二、三日経過したくらいでは済まないだろう。いくら思い出そうとしても、記憶が所々で切れて、写真のような一瞬の画しか思い出せない。そしてそれも、高い空の上から砲撃をした、ような気がする——その直後で、ぱったりと途絶えてしまう。

 結局、あのモンスターはどうなったのだろう? なんだか平和そうな空気が漂っていると感じるのは、ここが前線とはかけ離れた病院の中だからだろうか?

 ——……そういえば、真理子は?

 やっとのことでそこまで思考が追いついて、気が焦り始める。どうにかして起き上がろうと悪戦苦闘していたら、見回りに来た看護師にその無様な姿を見られてしまった。

 声も掠れて上手く喋ることができず、報告を受けて様子を見に来た医者に、やっとのことで真理子がどうなったのか訊ねた。すると医者のほうは呆れた表情を浮かべながら頭を振り、まだ入院中だがとっくに元気になって庭で遊んでおり、なぜここにいるのかわからないという内容のことを話した。

 驚愕である。こちとら力を使いすぎた挙句、十日も寝たきりだったため、立ち上がることはおろか起き上がるのでさえ苦痛だというのに、庭で遊び回っている? アイツは体までも馬鹿なのか?

 眠い。気を張っていないと、また夢の中に引き摺り込まれてしまいそうだ。体中あちこちが痛くて重くて動かせない。手を握ろうとするだけで関節が軋んで激痛が走る。喉が渇いて咳き込むと肋骨に響いてしまい、涙が出そうになる。ヒビで済んでいたものが完全に折れている気がする。

 そんな状態にもかかわらず、間もなくして数名の偉そうな白衣の面々がやって来て何やらテストじみたことを始め、幻覚や幻聴などの症状がないか調べられた。要するにあのモンスターのガスの影響があるのかないのかという話だろうが、まだ半分寝ているような頭でまともな回答ができるわけがなく、そんなに早く異常がわかるはずもない。葵だって、数ヶ月かけて徐々におかしくなったのだ。それなのに今度は車椅子に乗れと言われ、別室に連行。そこでも検査という名のテストを散々やられた。踏んだり蹴ったりである。覚悟していたこととはいえ、もう少しのんびりやってくれたって良いではないか。こっちは怪我人だぞ?

 文句を言う気力もないので黙って指示に従っていたら、最後にダサい首輪のようなものを付けられて部屋に戻された。肩凝りに効くと謳う胡散臭いチョーカー——ではなく、万が一モンスター化した時に一撃で頭部をふっ飛ばせるようにと、遠隔式の小型爆弾が搭載されているらしい。漫画か何かに出てきそうなシロモノが現実に存在するということに驚きつつ、用途は理解できるがせめてもう少しデザイン性のあるものにしてほしかった——そんなことを思っていたら、部屋で待っていた真理子も同じものを着けていた。

「おはよう」

 窓辺で月の浮かぶ空を背負い、ニコニコと笑顔で手を振ってくる真理子は、何となく小さくなったように見えた。

「調子どォ?」

「気分は最悪、体はしんどい」

「アッハハ、そりゃあね! あたしも起きたてはそうだったけど、心配ないわよ。すぐ戻るから」

 喋ってみると、あまり変わりないようにも感じる。たしかに医者が言うとおり、なぜここにいるのかわからないくらいに元気そうだ。

「……少し痩せたように見えるけど、これは幻覚?」

「ふんッ、口だけは正常運転なのね。幻覚じゃないわよォ。一週間もご飯食べないで寝てたら、お腹がへっこんだの。これが続けば良いんだけど、戻っちゃうだろうなァ……」

 真理子は意味不明なポージングをする自分自身を窓ガラスに映し、へこんだという腹を撫でつつ、いつもの調子で話す。だが、痩せたというより(やつ)れたのだと思うのだ。変わったのは腹や尻だけではないし、笑ってはいるが、どことなくその表情は固い。

「怪我のほうはどう?」

 申し訳なくて、何を言えば良いのか迷っているうちに、真理子は逆にこちらの心配をしてくる。本当にどこまでもお人好しな奴だ。

「……せっかくくっついてたのにって、医者に怒られたわ」

「だァから言わんこっちゃない」

「だからかしら? テストしてる時の先生、すごく怖くて」

「あんたが怒ってるのよりマシだと思うわよ。いッつもいッつも、ガミガミガミガミ……」

「……だってアンタ、全然言うこと聞かないんだもの」

 全然、聞いてくれない。

 ヒーロースーツを着崩すなと言っても、ヒーローを引退しろと言っても、食べ過ぎるなと言っても。

 やめろと言ったことを平気でやるし、放っておいてくれと突き放しても構いに来て、ついて来るなと頼んでもついて来て、なぜか近くで笑っている。

 こっちは一生懸命、真理子のことを考えてそう言ったのに。

「……ごめんね」

 本当だよ。迷惑な奴。

 お節介で、お人好しで、どうしようもない大馬鹿者。

 せっかく——。

「せっかくアタシが、長生きさせてあげようと思ったのに」

 長生きしてほしかったんだ。母に。

 話すことなんてない。どうせ喋ったって通じないんだから。顔だって別に見たかない。いつもセンスのない派手な服を着て、年甲斐もなく、こっちが恥ずかしい。それでも、生きていて、何となくあの店に寄ったらカウンターの向こうに立っていて、いらないと言っているのに性懲りもなくオレンジジュースを出してきて、何年経ってもご飯と梅干しのバランスが取れない不恰好なおにぎりを投げつけてきて、そんな訳のわからない日常が、極々たまにで良い、いつまでもあの場所にあったら、それだけで良かったんだ。だけど、英斗の場合、そうはならなかったから、だからせめて真理子には、できるだけたくさんの時間をあげたかったんだ。

 ひなたのために。

 だから、そうならないように、ならないように、必死に考えて、やってきたつもりだったのに。

 全然、何にもできていない。

 それどころか自分がいたせいで、かえってその時間を削らせる羽目になってしまった。

 あの時だって、吹っ飛ばされた時、自分は既に意識がなくて着地できない状況だったはず。それを助けてくれたのはマリーだ。誰も、本人すらそう言わないが、確信がある。

 家にだって帰してやれない。真理子には、彼女を待っている家族がいる。誰よりも、ひなたは、傍にいてほしいと思っているはずなのに。

 全部、全部、自分のせい。

「チーフ、どうしたの?」真理子は少し驚いたように、こちらへ寄ってくる。「なんで泣いてるの? どっか痛い?」

 体の自由がきくなら、絶対に逃げ出している。だが、今はそれもできない。

「……ごめん。本当に嫌だ」

 あちこち痛いが、きっともっと痛いのは真理子のほうだと思う。痛くて痛くて堪らないから、()けたりするんだ。あれだけ言って痩せなかったくせに。(やつ)れろなんて一言も言っていないのに。どんなに高いパフェを奢ったところで、まったく採算が合わないのである。

「ごめんなさい。結局、何にもできないんだ。誰にも傷ついてほしくないから一人で平気なように強くなりたかったのに、結局誰かを傷つけることになっちゃう。本当に嫌だ。自分が」

「……やめなさい。英斗」

「ごめん。本当にごめん。本当に、嫌で嫌で、どうしようもない。母のことが大嫌いだと言ったけど、僕が心底大嫌いなのは、母でも誰でもなく僕自身なんだよ」

 ずっと昔からわかっていた。それこそ、まだ十歳だったあの日から、わかっていたんだ。本当は。それを気付かないふりをして、他に転嫁していたからこうなった。

 そうしなければ立っていられないくらいに、弱かったんだ。

「あたしは好きよ」真理子はいつの間にかすぐ目の前にしゃがんで、顔を覗き込んでいた。「子どもの頃のあんたがどんなだったかあたしは知らないけど、あたしは今のあんたが好き。てことはつまり、昔のあんたも好きってことよ。だって、その時のあんたがいなければ、あたしが好きな今のあんたはいないんだもの。あんたが生きていてくれて、あたしは嬉しい」

 左手を包んでいる真理子の手は柔らかくて丸い。本当なら娘の手を握るはずのものだ。穢したくないのに、真理子はまったく離してくれる気配がない。

「お人好しが過ぎるんだよ、アンタは。人のせいで寿命が縮んでるっていうのに」

「馬鹿ねェ。必ず早死するって証明されてるわけじゃないんだから、あたしが例外を作るわよ」

 オバサンはしぶといのよ、と真理子は英斗の頭を叩きながら大口を開けて豪快に笑った。あまりに前向きすぎて、医者が呆れるのも納得だと思った。

 車椅子を窓際に寄せてもらい、外の様子を覗いた。どうやら最上階のフロアを二人のために貸し切って隔離されている状態らしく、腹立たしいほど素晴らしい眺めだった。辺りは暗くてよく見えないが、窓の向こうに広がるのが終末の世界でないことだけはわかる。

 星のない空に、白い月だけがぽっかりと浮いている。少しジャンプしたら届いてしまいそうなくらいに、近い。


 ——「約束を守れなくて、ごめん」


 葵の言葉が、ふと脳裏を(よぎ)った。

 英斗が勝ったらラーメンに連れて行ってくれるという約束? 英斗の背中を守ってくれるという約束?

 葵が約束を守れなかったのは、葵のせいではないのに。

「葵は、母さんに会ったと思う?」

 一瞬、もしかしたら葵は、母とは違うところに堕ちたのではないかと思った。

 ——僕のせいで。

「……さァ?」真理子は肩を(すく)め、首を傾げながら、窓の外に浮かぶ白い月を見上げている。「それはいつかずっと先の未来で、あんたが自分の目で確かめたら良いわ」


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