第八話 月と太陽(5)希望の日
内側に入ってから一年も経たぬうちに、支部への異動の辞令が出た。ヒーローと違って各地を転々とさせられることは覚悟していたが、想像していたより早かった。極寒の北部支部で約四年、一度中央に戻ったが、今度はすぐに西部支部へ行くこととなり、結局落ち着いて戻ってきたのは英斗が三十四歳になる頃だった。その時、中央へ戻るのと同時に就任したのが本部の統括——ヒーローたちが通称『チーフ』と呼ぶポジションだった。
戻ってきた初日、関係各所への挨拶回りやら何やらの異動に伴うゴタゴタの合間を縫って葵を探したが、見つからなかった。転勤先でも時折電話はしていたから声は聞いていたが、顔なんて何年も見ていない。別に今さら、本部復帰当日に会えなかったから何だと言うのだ、と思う反面、消沈している自分がいるのもたしかで、それを心の中で嗤いながら会社を出て夜道を歩き始めたところで、街路樹から突然大きなものが目の前に垂れ下がってきた。
完全に油断していた英斗はまたしてもそれに心底驚いて、思わず悲鳴を上げてしまった。
「まァた女を上げてきたねェ……」数年ぶりに再会を果たした葵は、逆さ吊りのまま苦笑いを浮かべた。「勘弁してよ。あんま上げられちゃうと、私が年食えないじゃん……」
破裂しそうな心臓を撫でながら見た葵は逆さまだが何も変わっていなかった。転勤前からも変わっていないし、言ってしまえば子どもの頃、初めて中華料理屋の前で会った時からもほぼ何も変わっていない。少し落ち着いた『大人のおねえさん』になったような気がしないでもないが、それは纏う雰囲気だけの話で、中身も外見もやっていることも気持ちが悪いほどに同じだ。
「ラーメン食べに行こうよ」
そう言って浮かべる、三日月のような目も。
一番よく通っていた会社近くのラーメン屋に行くと、記憶にあるより少し老けた店主が相変わらずの大音量で歓迎してくれた。常連の葵はともかく、しばらく来ていない英斗のことも店主は覚えていて、久しぶりだねと言われたのには驚いた。
「ねェ、聞いて⁉︎ この子、偉くなったの! だから今日はお祝い!」
葵は声を弾ませながらカウンターの向こうの店主に説明した。
「へぇ、昇進かい! そらめでたいねぇ! よし、今日は俺からもお祝いしてやんよ!」
店主はそう言って、あの駄菓子のような味のオレンジジュースと餃子を奢ってくれた。
出てきたラーメンの丼ぶりから、何も言わずにねぎだけを攫っていく葵の嬉しそうな横顔をぼんやりと眺めながら、明るいところで改めて見てみてもやっぱり何も変わっていないと思い、無意識に彼女の年齢を計算してしまった。初めて一緒に中華そばを食べたあの日から既に二十年以上が経過しているはずだが、何も変化しないって、本当にコイツは魔女なのか?
「あんたも同じよ」
気味が悪い、などとは決して口に出していないはずなのに、葵はそう言って横目に睨んできた。その察しの鋭さは年を追うごとに増していて非常に怖いから、今後は頭の中で考えることにも気を配らなくてはならないと思った。
綺麗に掻っ攫っていったねぎの代わりに焼豚を一枚寄越して「おめでとう」と言ってくれた葵自身は、黒衣としてとっくの昔に中央本部の統括——つまり部門のトップに上がっている。当時の葵の年齢で統括のポジションに就いたことのある人間は過去におらず、最年少記録だったそうだ。
「あんたも相当早いよ。私とほとんど変わんない」たしかにその差は数ヶ月程度だろうが、経緯がまるで違う。「嬉しいなァ、弟がこんなに優秀で」
優秀だったわけじゃない。自分の場合、前任者が働けなくなってしまって突然空席ができたから、それを埋めるために充てがわれただけだ。ただ、彼女がその前例を作ってくれていなければなれなかった立場だということは理解している。
漸く肩書で葵に追いつくことができたのは正直言って嬉しいが、まだ本当に、名前だけだ。中身はまったく伴っていないし、周囲から期待されていないお飾りにすぎないのも承知している。他の当てができればすぐに引き摺り下ろされるだろうし、そうなったら二度と上がっては来られない。
「そっちの統括は大変だよォ? 頑張ってねェ、桜庭統括」
「ヤメテクダサイ……」
葵はケラケラと笑いながら数回目の替え玉を注文している。食べっぷりまでもまるで変わっていない。これで本当に四十代? なんでコイツは糖尿病やメタボリックシンドロームにならないんだよ? 胃もたれって症状を知らないのか?
これから統括なんてやり始めたら、ラーメンを食べなくても常に胃もたれしていることになりそうで憂鬱だ。葵の言うとおり、こちらの統括とは要するにヒーローの代わりに頭を下げたり我儘を調整したり躾けたりする『汚れ役』である。前任者が抜けたのだって、結局突き詰めればそれが主な原因で精神衛生を保てなくなったせいなのだから。
「大丈夫だよ。あんたには、私がいるでしょう?」
何とも心強いお言葉である。たしかに前任者は葵より年上のプライドの高そうなオッサンで、最年少で統括に就任した葵のことを認めず、いざという時も頼っていなかった節がある。
「……わかっているけど、葵におんぶに抱っこは、カッコ悪すぎる」
「今さらそれ言うか?」
「……」
「凹むな、冗談だよ。あんたはよく頑張ってる。逆にね、私ちょっと心配してんだ。あんた昔からちゃんと言わないとこあるから」
「……ごめん」
「謝んなくて良いの、我慢強いのは良いことだよ。でも何かあったら、我慢してないで私には言って。訊いて、ちゃんと。あと報告。わかった?」
「うん……」
「報連相できないのはマジでダメ人間だからな? これは仕事の話ね? 前任のクソ野郎と同じだから。わかったね?」
少し怒っている気がする。「……はい」
「ん。もう一個食べな」
葵は皿の上ですっかり乾いてしまった焼き餃子を差した。店主が英斗へのお祝いで奢ってくれた餃子だったはずなのに、いつの間にかなくなっている。
「美味しかったよ?」
葵は満足気に笑っていて、その顔を見ていたら明日からの仕事に対する靄々なんてどうでも良くなってしまった。葵がいてくれるからと思うだけで、不思議と重すぎて動かなくなってしまいそうな箸を止めずに済む。久々に食べるラーメンだからか、何となく味も美味しく感じる。
そんなことなんて知りもしないのだろう葵は、さらに追加で替え玉と焼豚丼を注文している。正直、焼き餃子を一皿食べるよりもこうして隣で葵の顔を見ているほうが腹が膨れる。
「ええっとォ……あと他は? 私、あんたに言っとかなきゃいけないこと何かあったっけェ?」左右に首を折りながら、葵は独り言ちている。
言っておかなければならないかどうかはわからないが、気になっていることならある。自分でも、なぜこんなことが頭に引っ掛かっているのか理解し難いのであるが、何となくそのままにしておくのも気持ちが悪い。
ただ、非常に、訊きづらい。
でも葵はつい今し方、何かあったらちゃんと訊けと言ったばかりだし、これで訊かなかったら訊かなかったで怒られそうな予感がする。こんなことで葵に「駄目な奴」と言われるのは勘弁してもらいたい。
「……ねェ、葵?」注文した焼豚丼を目の前に置かれて揚々としているところに水を差してしまいそうで申し訳ない。「その……変わりは、なかった? ずっと」
「それって私のこと訊いてんの?」
「うん、いや……、うん、葵のことも、そうだし、その……」
英斗が何を言いたいのか、おそらく葵は察している。だが、わからないふりをしている。「私は全然、変わらないよ。見てわかるでしょ?」
「うん、それは、……うん」
「そう」
本当に意地悪。でかい口を開けて焼豚丼なんか食べて、もう少し色気とか気にしたらどうなんだ?
「……何?」
絶対に、そっちからは言ってくれないつもりだ。
「……」
——……何してんだろ、自分。
今さら、何が気になるって言うんだ? そんな話、聞いて何になる? 何か、してやれることがあるわけでもないのに。
「その……あの人、は……元気にしてる、の……?」
「……」
葵はこちらを一瞥もせず、質問にも答えず、そこからは無言のまま、ただひたすらにラーメンを食べ、ご飯の丼ぶりも空にする。表情がないから何も読み取れない。
気まずいことこの上ない。やっぱり訊かなければ良かった、と心底後悔し始めた時、隣で葵が乱暴に箸を置いた。
「来なさい」
葵は低い声で短くそう言うと、グラスに注いであった水を飲み干し、こちらの反応などお構いなしに席を立った。
「え?」
予想外の葵の反応に戸惑い、席を立つのにまごついているうちに、葵はさっさと会計を済ませてしまった。
「早く来なさい」
相変わらずの無表情で抑揚もなくそう言う葵が何となく怖くて、鞄を引っ掴んで慌てて後を追い掛ける。店主の威勢の良い声が店の外まで聞こえてくるのを背中で受けた。
「あ、葵、待って! どこ行くの?」
「幸子さんの店」
「へっ⁉︎」
反射的に足が止まってしまった。「な、なんで……?」
倣って、少し先で葵も立ち止まる。ぬるりとこちらを振り返った葵はやはり表情がない。「……『なんで』?」
「だ、って……い、いいよ、行かなくて! そんな、行ったって、何も——ッ」
声が詰まって漸く自分が胸倉を掴まれたことに気付いた。
なんて速度だろう、まったく躱せなかった。喧嘩は強いほうだと自負していたが、生身の人間がこんなに速く行動できるのかと驚き、且つ、その鋭い眼光に一瞬で身動きすら取れなくなってしまった。
「いい加減にしろ」葵がこんなに低い声で話すのを聞いたことがない。「おまえのその目は何のために付いてんだ、え?」
「あ、あお——」
「この馬鹿が! 気にするくらいなら一度行って自分で見ろ‼︎」
どこから声が出ているのかと思った。どすの効いた低い声は男性のものと聞き違える人もいただろう。驚きと恐怖で呆然としてしまった英斗の胸倉を乱暴に突き放し、代わりに痛いくらいの力で腕を掴んで引っ張られた。
初めて知った。本気で怒った葵が、こんなに怖いなんて。
考えてみれば、葵に怒られたのは初めてかもしれない。葵はいつだって、良いよ、大丈夫、気にしない、と頭を撫でて許してくれていたから。
拒否なんてできるわけがない。したら間違いなく殺されてしまう。
あっという間に見覚えのある路地に連れてこられ、葵は問答無用であの古びたビルの木の扉を開けると中に押し込まれドアを閉められた。さっさと歩けと背中をどつかれ、何も抵抗できないまま店の中に足を踏み入れた。
「何だい、騒がしいねェ! ボロいんだからもっと……——」
薄暗い廊下の先に広がる、オレンジ色——夏の夕暮れ時にいるかのような空間の中、その人は、まるで当たり前のようにそこに立っていて、こちらを振り返った瞬間、不覚にも、目が合ってしまった。
最後に顔を見てから、十六年だ。
葵が怖かったことなんて全部一瞬で吹き飛んで、頭が真っ白になった。きっと、向こうも同じだろう。呆然と、こちらに大きく見開いた目を向けたまま、固まっている。
一つ遅れて、どうしよう、と心の中がざわめき出した。咄嗟に下を向いたら自分の体が視界に入ってきて、今どういう姿をしているのかも思い出してしまった。自分は今、この人の知る『英斗』ではない。
どうしよう、どうしよう——?
だって、まだ、何もわかっていない。会社に入って、ヒーローになって、母と同じ景色を見たら何かがわかるかもしれないと思ったのに、結局未だに何も見つかっていない。母までの距離は、十六年前からまるで変わっていない。
何を言われるんだろう? 想像もつかない。予想ができたら身構えることも躱すこともできるのに、血の気が引いて冷え切った脳味噌では考えることすらできない。
足が震える。もう帰りたい。消えたい。
何をどうしたら良いのか、一人でパニックになりかけていると、そっと背中に何かが触れてきた。
「ごめェん、幸子さん。この子引っ張ってくるの大変でさァ、ほんと体ばっかり大きくなっちゃって」
後ろからやってきた葵だけが、すっかりいつもの調子に戻っている。そして自分の背中を優しく撫でているのが、すぐ隣に寄り添ってくれている彼女の手だと、漸く気付いた。
「幸子さん。私、いつもの珈琲、もらえる?」
「え? あ、ああ……はい、はい……」
葵に言われて我に返ったのか、彼女はぎこちなく頷きながら、珈琲を淹れるという作業を始めた。視線が外れてやっと少し落ち着いてきたと思ったら、葵が背中の手を外してカウンターのほうに歩いていってしまい、また不安が再燃してくる。
「早くこっちに来なさい」
しかし椅子に腰掛けた葵が舌打ちしながら睨むので、近寄らないわけにいかなかった。高いヒールの靴にも慣れたと思っていたが、今気を抜いたら絶対に転ぶ。
やっとのことで葵の横まで歩いてきたが、顔は上げられない。
誰も何も喋らない。ただ葵が注文した珈琲のカップがカウンターテーブルの上に置かれて、カチャカチャと視界の隅で音を立てているだけだ。
「アンタは?」
不意に来たその質問の対象——『アンタ』が自分のことであると、なぜ体は勝手に反応してしまうのだろう?
「……えっ?」
目線を上げると、母の顔がそこにあった。
「お腹空いてんの?」
小さく首を横に振ると、そう、と短い返事が来ただけで、また母はカウンターの中で何かの作業を始めた。葵は素知らぬ顔で、出してもらった珈琲を啜っている。
空いている、と答えたほうが良かったのだろうか?
わからない。
椅子に座ることもできないし、何を訊ねて良いのか、何を言って良いのか、駄目なのか、それすらもわからない。下手なことを口にすれば、また自分は何かを間違える気がする。返ってくる母の言葉に傷つく覚悟もできていない。
やっぱりまだ、自分はここへ来てはいけなかった。
——……何なんだこの店は。
そもそもなんでこんなにオレンジ? 照明のせい? 太陽の色だから? 幸せの色だから?
——母さんの色だから?
完全に当てつけじゃないか。息子のせいでヒーローを辞めて、でも捨てきれなくて、だからこんな店を作って。
母がヒーローを辞めて何年経つ? そんなに捨てきれない夢ならなぜ捨てた? いつだって何よりも大事にしてきたヒーローだったんじゃないのか?
実の息子よりも大事だったんじゃないのかよ?
だから怒っているのか? だからこんな店を作ったのか?
——アンタさえいなければヒーローを辞めなくて済んだのに、って。
「英斗」
気が付くと葵が眉を顰めて顔を覗き込んでいた。「どうした? 大丈夫?」
来るんじゃなかった。
「……ごめん。もう……、帰る」
葵が口を開きかけたのはわかったが、構わず踵を返す。力の入らない膝を無理矢理に立たせてドアに飛びつく。
その時。
「英斗!」
呼んだのは、葵ではなかった。
不思議だ。もう何年も、そんな風に呼ばれていないはずなのに、体は、きちんと覚えている。
その声が聞こえたら、立ち止まり、声のするほうへ、振り返るのだと。
顔を向けてしまった瞬間、自分のほうへ何かが飛んできて、咄嗟に手が出る。
「あっつ……ッ!」
落とさぬよう、手の中で小さく弾ませたそれは、銀色の丸いもの。
見覚えがあった。幼い頃、誰もいない早朝、テーブルの上によく置いてあったアルミホイルの塊。
「……」
あの日、鞄の中に入っていた風呂敷に収まっていたもの。
母が唯一、まともに作れるもの。
手がじんわりと温かい。
頭の中が急速に冷静になっていく。カウンターのほうを見やると、母はもうこちらを見てはいなかった。久方ぶりにちゃんと見た母の背中は、記憶にあるよりずっと小さくなったように思った。
何かを、言わなくてはならないと思った。だが、何を言えば良いのかすぐには出てこず、結局何も言わずに店を出た。投げつけられたものはずっしりと重くて、家に辿り着くまでの間、冷え切ってしまった手をずっと温め続けていた。
家に帰り着くと背中にぐっしょり汗をかいていた。着替えもせず、洗ってきた手でアルミホイルをそうっと広げる。湿った海苔がご飯の白い部分を全面的に覆い隠して真っ黒に見える。葵と食べたラーメンはまだ胃袋の中に残っているのに、齧ってしまった。食べたかったのだ。お腹なんか空いていなくても。
「……酸ッぱ」
——何にも変わっちゃいない。
真っ黒な見た目も、梅干しを入れすぎて白飯とのバランスがおかしいところも、そんな滅茶苦茶なおにぎりを自分の舌が特別に好いているということも。
こんなんで、よく店なんかやっていられるものだ。呆れてものも言えない。
「……」
気が付いたら全部食べてしまっていた。昔は一つ二つで十分だったが、今はおそらくラーメンがなかったら全然足りない。
店を出る時に見た背中をふと思い出す。あの背中は、今年で、いくつになったのだろう?
——「ヒーローの時間は、人より短い」
葵が教えてくれた。もう、何年も前に。
内側に入って確信した。葵の話は本当だ。そして幼い頃、自分が母に対して抱いた違和感の正体も。
ヒーローは長く生きられない。
一般人の男女の平均寿命が九十歳を目前にしているというこの時代に、ヒーロー従事者に限っては男女問わず五十代——還暦を迎えることができたら大往生と言えよう。
そうだ。
自分はあの人に何かを言わなくてはならない。何だかわからないが、言わなくてはならないことがある。
あの人の時間が切れる前に。
でも、何を——?
——「話したいことがあるんでしょう? 本当は」
葵は知っているのだろうか?
今すぐに思いつくこととしたら、せいぜい、梅干しと白飯のバランスを何とかしろということくらいだ。
* * *
可愛くなったんだよ、とは聞いていた。いつもいつも、お喋りな『情報屋』から耳にタコができるほど聞かされていた。それでも驚いた。寿命が縮んだかもしれない。もうそれほど長くは残っていないというのに、さらに削られたら今日にでも死んでしまうかもしれないではないか。前線で初見のモンスターに出くわした時でさえあんなに驚いたりしないのに勘弁してもらいたい。
幸子さんにそっくりでさ、とも言った。どこが? 全然似ていないではないか。あれを『そっくり』と言うなんて、黒衣として致命的な目の悪さ、節穴である。それとも自分はあんなだったというのか?
「……」
昨日から、あの子の顔が頭から離れない。
最後に会ってから、十六年——。
大きくなっていた気がする。最後に家に帰ってきたあの日から、また一つ、凛々しくなって、逞しくなって、綺麗になっていた。
でも顔は変わらない。幼い頃からの、可愛い、可愛い、あの顔のまま。
——あの子はどうしてここへ来たのだろう?
よもや親の顔を見に来たなんてことはあるまい。葵が無理矢理に連れて来たことは明白である。だがその張本人も、昨日は珈琲を一杯飲んだだけで何も言わずに帰ってしまった。一体、何を考えているのだか。
しかし驚いた。話に聞いてはいたが、あの子が本当に『女』になっているとは。何をどう間違えたらああなるのだ? 昨日不覚にも自分が狼狽えてしまったのも、今もなお頭の中で混乱が続いているのも、すべてはあの見た目のせいでもある。
——「幸子さんにはわからないかもね」
ああ、わからないよ。全然わからない。小さい頃のあの子はごく普通の男の子だった。
ごく、普通の……——。
徐ろに、ベッド脇の本棚に手を伸ばし、一番下の段の隅にしまい込んだ古いアルバムを引き出す。すっかり埃を被ってしまい、背表紙は色が褪せている。千切れないようそっと開くと、粗い画質の小さな写真が貼り付けてある。隅のほうにオレンジ色で印字された日付は、どれも今から三十年以上前だ。
丸い顔に、少し垂れ目気味の丸い瞳の男の子がこちらを見ている。キラキラと光る、まだ世界の何も知らない、何にも染まっていない、透き通るような綺麗な目。横長の輪郭はぷっくりと膨らんだ柔らかな頬のせいで、こうして写真で見ているだけでも突きたくなる。
枚数が少なすぎて余白のほうが多いくらいだが、そのどれにも、自分の姿はない。シャッターを切ったのも、自分ではない。この男の子を抱いているのも写真を撮ったのも、みんなあの会社の食堂で働いていた女性たちだ。
「……可愛いねェ。英斗」
四つ足の頃はニコニコと笑っている写真が多いが、自分の足で立って歩き、ランドセルを背負うような頃になると、恥ずかしそうに目線をカメラから逸らし、俯いているものが多くなる。これも、誰が撮影してくれたものだかよく覚えていない。少なくとも自分は実際にその光景を見てもいなかった。そして男の子が十歳を過ぎた頃、ぱったりと写真がなくなる。
——……普通って、何さ?
どこが『普通』なのだ? 普通の男の子だったら、きっと写真の中には親がいる。或いはレンズ越しに我が子を見ているのが親で、その瞬間の匂いや音、感情のすべてを覚えているはずだ。どこかの誰かに貰った写真だけで成り立っているアルバムなんて聞いたことがない。途中で写真がなくなるなんてことも、きっと、ない。
普通でなんかあるものか。
あの子は、生まれた時からヒーローの子だった。それも今や伝説と謳われる8号——ハッピー・シャイニーの子だった。
次にページを捲った先からは、写真ではなく、切り抜きになる。発売された新聞や雑誌の一部を幸子自身で切り抜いたのだ。ほとんどがモノクロだが、本当は黄色い、レモンのような色合いのヒーロースーツを着ている。長い髪を後ろで一つに縛っているのは、葵が3号だった頃の姿にどことなく似ている。
——あの子は、葵によく懐いていた。今も、きっと『姉』には逆らえないのだろう。だからきっと嫌々ここへ来てくれた。本当は一秒でも早く、出て行きたかったろうに、我慢して、我慢して。
「……」
今でもわからない。まさかあの子がヒーローになるなんて、何を考えていたのだろう? むしろ嫌厭していると思っていたのに、それも葵の影響なのだろうか?
自分もずっとやっていたからわかる。心配だった。ヒーローになるには、あの子は優しすぎる。ヒーローであっても、差し伸べてやりたいと思うその手を引っこめなくてはならない時はあって、その決断によって誰よりも自分自身が傷つき、己の無力さに苦しむことになる。見ず知らずの他人から投げつけられる理不尽な負の感情をその身一つで受けるのは、正直幸子でも気が滅入る時があった。
体力がどうとか、寿命がどうとか、そんなことよりも先に心が死んでしまう。それに耐えられなければヒーローは務まらない。
あの子にそれができるのか?
そもそもそんな経験をしてほしくなかった。あの子が会社に入ってから、ずっと不安で仕方がなかった。今も、元気でやっていると葵が報告しに来てくれる度にホッとしている自分がたしかにいる。
——そんな風に心配されることも、あの子にとっては重荷にしかならないのかもしれない。
一瞬、間近で顔を見られただけでも良かった。困惑してはいたが、元気そうだということはわかったのだ。これ以上、干渉するのはやめたほうが良い。また葵が定期報告に来てくれるのをここで待っているだけにして——
カラン、カラン。
その時、下階の店からドアカウベルの音が聞こえた。
ぼんやりしている間にもう店を開ける時間になってしまったのかと焦って時計を見たが、そんなことはない。
なら、誰——?
葵ではないと思ったのは、彼女はここへやってくる時、派手にドアカウベルを鳴らしたりしないからだ。
アルバムを閉じ、慌てて階段を下りる。まだ電気も点けていない薄暗い空間——そこにあった光景に、思考が一瞬止まる。
「鍵くらい、閉めなよ。誰か来たらどうするの……」
自分の目は幻覚を見るほどに落ちぶれたのかと思った。
なぜならそこに、自分の娘が立っていたからだ。
「……どう、したの……?」
考えるより先にその言葉が口をついて出た。
目を離せなくなった。踏み外さないよう足先に注意を払いつつ、ゆっくりと残りの階段を下りる。カウンターの遥か手前で立ち止まっている英斗はそれでも一歩、二歩と後退りしてしまう。顔をやや下に向けながら、モジモジと、視線は落ち着かず、まるであの写真に写っていた男の子のよう。
忘れ物でもしたのだろうかと思ったくらいだ。葵はいない。気配もないから本当に一人で来たのだ。
「何かあった……?」
それなりに背丈がある上、さらにハイヒールを履いているから相当に大柄であるはずなのに、緩いウェーブのかかった長い金髪の先を握り締めて肩を窄めているその姿は、やはり昔々に見た小さな英斗なのである。少し痩せたように見えるのは年のせいか、化粧のせいか、きちんと栄養のある食事ができていないからなのか。幸子の知る同じ程度の年齢の『男性』とは、まるで異なる。
「……昨日、——」やがて、やっと聞き取れるくらいの小さな声が届いた。「おにぎり、ご馳走様……」
「えっ?」
「む……昔から言ってるけど、入れすぎなの、梅干し……もう少し、バランスってもんを、考えてほしい」
何を言っているのか理解できない。おにぎり? ご馳走様?
「本当……全然進歩してないじゃん。何年店やってんの」
揺れてはいるが、記憶にあるよりも大人びて、落ち着いた声だった。
何? この子は、そんな御礼を言うために、わざわざ一人でここまで来たっていうのか?
——まさか、そんなはず……。
「それだけだから。帰る」
「英斗」
こちらを向いた背中が強張る。
必死だった。
ここに店を開いたのはあの会社から近かったからという理由だけだ。ここにいればもしかしたら、いつか、どこかで、あの子の横顔を遠目に、ほんの一瞬でも見掛けることがあるかもしれないと思ったからだ。或いは会社の誰かが店にやって来て、偶然あの子の話をすることがあるかもしれないと思ったからだ。
それだけで良い、それだけで十分だと思っていた。ちっぽけな、賭けみたいな気持ちだった。
それでも自分はこの店で白飯を炊いていた。
毎日、欠かさず、無駄になるとわかっていたのに。
炊き続けていて良かったと、これほど思ったことはない。あの子は昨日、あれをちゃんと食べてくれたのだ。そうでなければあの中身が梅干しだったことなんてわかるはずがない。
やっぱり背は高い。腰くらいまで伸びた金色の髪が、小さくなった肩をマントのように覆っている。
欲が出る。そんな資格はないとわかっているのに、本当はもっと近寄りたい。頭を撫でて、キスをして、昔のように「可愛いね」と体いっぱいに抱き締めたい。
大人になっているから、女になっているから、何だ? 全部どうでも良い。そこにいるのは紛れもなく英斗で、世界中の誰よりも愛する、自分の息子に違いはない。
この子自身が幸せならば、もう、それで良い。今さら、他の何も望まない。
ただ、もし、許されるのならば——。
「ここは店なんだから、客は好きな時に来たら良いんだ。いつまでやっているかは、わからないけどね」
憎まれ口で良い。文句の言葉でも良い。
アンタなんか嫌いだという、その一言でも良い。
もう残り少ないであろう人生だ。何を言われても良いから、死ぬまでに一度でも多く会いに来てほしい。声を聴かせてほしい。
この子の幸せの弊害にだけは、ならないようにするから。
「……調子、良くないの?」
こちらに向けられたままの背中から、声が聞こえてくる。
「……、もう若くはないからねェ」平静を装おうとすると愛想がなくなる。そのせいで、顔も向けてくれないあの子が傷つかないか、とても怖い。「まァ、それなりだね、良くも、悪くも」
「……そう」
「アンタは?」
「えっ?」
「ご飯、食べてんの? 葵みたく食べなくて良いけど、変なモンばっかじゃ駄目なんだからね? 痩せすぎの『女』はモテないし、皺になるよ?」
「……葵が、——」そこでほんの僅かに、金色の頭が傾く。「ラーメン屋ばっかり、連れて行くから……」
野菜も食べろと言いたい。
ちゃんと寝ているのかとか、仕事の調子はどうなんだとか、訊きたいことは山のようにある。しかし、あまり質問ばかりして困らせたくはない。今さら私生活の説教なんて親みたいなこと、自分にはする資格がない。
「……そうかい」
せめて、もっと気の利いた返事ができたら良かったのだが。
「……じゃあ……また」
英斗はそう言って店を出て行った。カランカラン、と、ドアカウベルの乾いた音が響いて、店の中はまた静寂に包まれる。
——「また」
また、って、どういう意味なのだろう?
ここにまた来てくれるという意味と捉えるのは、虫が良すぎるだろうか?
一度も振り返らなかったけれど、その昔、家を出て行ったあの時とは違う——そう感じたと思いたいのは、自分の、エゴなのだろうか?
「良かったじゃん。幸子さん……!」
その後、いつもどおりの定期報告にやって来た葵にこのことを報告すると、彼女は珍しく頬を紅潮させて目を丸くし、満面の笑みを浮かべたのだった。
「そっか……英斗、ちゃんと一人で来たんだ……そっかァ……」良かった、良かった、と何度も頷きながら、少し目が光っている。相当に心労を掛けてしまっていたのだと改めて痛感する。
「……悪かったね。いつも」
「何言ってんの! 私のほうこそ……もっと早く、こうしておけば良かった……ごめんね」
彼女が謝ることなど何もない。これは母子の問題で、そこに赤の他人である葵を巻き込んでしまった。母親として未熟であったばかりに、関係のない彼女にずっと辛い思いを抱えさせてしまったのだ。
「葵、これからも、頼りにさせてくれる? あの子はアンタのことをえらく信頼しているし」
「当然でしょう。あなたのフォローをするのが、私の役目」葵は昔からそう言って、後ろからいつも助けてくれる。「ねェ、どんな話をしたの?」
「話なんてできやしないよ」
「え、どうして? いろいろあるでしょう?」
「それはそうだけど……あの子ももういい年だよ? アタシがああだこうだ言うこともないだろうし……また、あの子のこと傷つけたくないから」
「……」
「アンタがこうして話を聞かせてくれるんだし、それで十分だよ」
すると、葵は急に膨れっ面になって、ふいっとそっぽを向いてしまった。「そんなこと言うならもう来ないよ」
「え、なんで——」
「本当わかってないなァ! 英斗はね、何だかんだ言ったって、母親に話を聞いてほしいんだよ? あなたに褒めてほしいし、頑張ってって言ってもらいたいの。私じゃないの」
「そんなこと……——」
「そんなことあるの! また連れて来るから、今度は自分で訊いて。そうじゃなかったら私もう来ないから」
「待ってヤダ、それは嫌だ! わ、わかったよ、ちゃんと自分で訊くよ、だから、そんなこと言わないで……」
ふふっと鼻息が漏れる。気付けば葵が口元を抑えて笑いを堪えていた。「……なんか、昔に戻ったみたいね」
そういえばそうだ。昔、まだ二人でヒーローをやっていた頃、葵はいつもこんな風に自分を揶揄って、笑っていたのだ。
「……アタシ、先生だったのに」
「ごめん」そうだ、葵はいつだってそう謝るけれど、その謝罪に価値があったことなんて一度もない。
——あれから、何年経ったのだろう?
振り返ればすぐ手が届きそうなほど近くに見えるのに、もう、彼方にある。
「幸子さん、珈琲おかわり」
空になったカップを差し出す葵に反省の色などまったくない。幸子は溜め息を吐きながら、カウンター下の冷蔵庫の扉を開けた。「……葵、アンタさァ」
「何?」
「もしかして英斗のこともこうやって虐めてんの?」
「……さァ? どうかな?」
葵はわざとらしく首を傾げながら、三日月のような目をして笑った。
* * *
「何か質問ありますゥ?」
カチャンと音を立てたティーカップの向こう側で、真っ黒い服を着た黒衣——葵がニヤニヤと口元を歪めながら、ご立派な革張りのソファの上で踏ん反り返っている。焦茶色の木目調であるはずのローテーブルの盤面は、彼女が持って来た書類で埋もれてまったく見えない。
「……あり、ません」
「そう。なら良かった」
お馴染みの黒いフードを目深に被り、相変わらず目元は見えないが、どんな顔をしているかは手に取るようにわかる。
「……ありがとう。さすがだわ。恩に着る」
だが、笑われようと何だろうと、今回ばかりは本当に助かった。何せ、前任者が精神を壊して再起不能になったのは西にいた英斗にとってはまさに寝耳に水なことで、ほとんど何も引き継げないままいなくなってしまったものだから、呼び戻されたは良いが誰も何も教えてくれず、完全なる浦島太郎状態だったのである。それなのに今日、午後にセッティングされている上層部の会議に出席するよう言われてしまい、ほとほと困っていたところへ図ったかの如きタイミングで葵が部屋を訪ねて来てくれたのだ。それも、欲しかった情報の塊を携えて。
英斗がどういう理由で本部に戻されたのか——駒を動かしたのは上の人間だ。状況は当然理解しているし、自分がまだ統括着任三日目で、本部の内情なんてまだ何もわかっていないということも知っているはず。その上で、何もご存知ないのですね、これだから云々と嫌味を言いたいがために、自分を会議室に招待しているのだ。
恥を晒すのはもはや避けられないが、最小限にはしておきたいというのが正直なところである。
「本当に何にも引継ぎできてないのね」
「まァ、事情が事情だから……仕方ないね。でも、これでとりあえず午後の会議には出られそう」
「私のいないところで英斗を虐めようなんて、上の人間もなかなか良い度胸してるわ」葵は息を吐くようにそう言いながら被っていたフードを後ろにやった。どうも英斗を虐めて良いのは葵だけ、という彼女が勝手に作ったルールがあるらしいのだ。
苦笑いを浮かべつつ、テーブルの上に広げられた大切な情報源を一枚ずつ回収していく。あとでもう一度見返そう。「本当、ありがとう。ちゃんとお礼するから」
「ラーメン」
「わかったよ、ラーメンね、それだけで良いの?」
「ふふ、冗談だよ。これはご褒美」
「え? 何の?」
「ちゃんと行ったんでしょう? 一人で」
一瞬、手が止まる。葵なら知っていて当然のことだが、どうにも気恥ずかしくて必死に紙をかき集める。「……行っただけ、だよ」
「それが大きいって」
「話もしてない」
「最初からそんなの無理だって。でも嬉しそうだったよ? 幸子さんは、あんたが来てくれて」
「……」
「本当だよ?」
「……、……」
集めた紙束をテーブルの上に立てて整えたいのだが、手が覚束ずうまくいかない。フードを被ったままでいてくれたら、少しはマシだったかもしれないのに。
葵が嘘を吐いているとは思えないが、信憑性があるかと問われたら甚だ疑問である。
しかし——。
——「ここは店なんだから、客は好きな時に来たら良いんだ」
あれは一体どういう意味だったのだろう?
またいつでも来て良いよ、という意味だと瞬間的には捉えたが、それは都合が良すぎる解釈かもしれないと帰り道に思い直した。でも、葵の言うことが本当なら、そうとも限らないのだろうか?
よくわからない。
「また一緒に行こう? 一回行ったんだから、もう大丈夫でしょ?」
「……うん」
会話を続ける自信はないが、葵が代わりに喋っていてくれるなら、たまに顔を出すくらいならしても良いかもしれない。葵がいてくれるなら、傷つけなくて済む。きっと、言い争いになる前に止めてくれるだろうから。
頷いてしまった羞恥心と闘いながら回収した用紙をページの順に並べ替えていると、ふと手が止まった。とある人物の情報が載っている、身上書みたいなものだった。
——鈴木真理子。8号、ピンキー・マリー。
「え? この人まだいるの?」
思わず声が出てしまった。
なぜなら自分は現場でこの人物に会ったことがあるからだ。もう十年以上前、英斗がまだ表側の人間——ヒーロー、2号であった時に。
「8号のこと?」葵は用紙の中身も見ずにそう訊いてきた。「バリバリの現役よ」
「嘘でしょ? この人何歳よ?」訊ねながら手元の資料に目を配る。自分より年下だが既に三十路は過ぎている。
「もう大ベテランよねェ」
「何呑気なこと言ってんの。なんで辞めないの?」
「好きなんでしょ」
「いや、いくら好きだからって……」
多くの場合、ヒーローは長く続かない。皆、ヒーローとしてデビューして数年働くと、体力的に自信がなくなったと言って早々に引退してしまうからだ。
早期に退職したとしても、一度でもヒーローとして従事していた経験があれば政府から手厚い補償が受けられるという古のシステムが生きているため、たとえ職に就かなくとも経済的に困ることはまずない。それもあって、さっさと楽な道にシフトしていくのが昨今のヒーローのお決まりライフスタイルなのである。
正直、そのほうが良いし、そうするべきだと英斗は思っている。決して口には出せないが、ヒーローとして長くここにいればいるほど、寿命は縮んでいく——つまり早く身を引けばその分長く生きられるのだから。前任者や他のお偉いさんがどう考えているのかは知らないが、もし英斗が「退職したい」と言われたら止めない。残念だわ、と口では言いつつも心の中では歓迎するだろう。
「マジか……十一……十二年? 嘘でしょ?」
「頗る元気よ」人が真面目に唖然としているというのに葵は沸々と笑っているのだから腹が立つ。「でも、どうかなァ? たしかこの子、少し前に結婚したんじゃなかったかな?」
首を傾げながら葵が暗に言いたいのは近いうちに引退するのでは、ということだ。「どのみち、子どもできたら一旦は引っ込まないといけないし、たいていはそれで戻ってこないじゃない?」
たしかにそういう傾向はある。本人は戻ってくるつもりで休みに入り、実際戻ってきた人もいる。ただ皆、続かない。やっぱり無理だと自分自身で判断して、自分自身で辞める選択をする。少なくともこれまで英斗の周りはそうだったし、葵もそう言うからにはそうなのだろう。
「……」
「まァ、あんたの思うように、十二年は長いかもねェ」
「……」
「『アイドル』だから、為せることかしらね?」
「……あの人もそうなの」
母も、十二年だった。『アイドル』ではない、本物のヒーロー——ハッピー・シャイニーとして、十二年。
葵は深々と溜め息を吐いて、不服そうに背凭れに体を預ける。「ちゃんと『お母さん』って言いなさい」
「……」
「ほんッとに……心配してるくせにどうしてそう素直じゃないかなァ」
「だッ——……」言葉を飲み込む。言い返すのに適当なものが何も思い浮かばない。
「まァ今に始まったことじゃないから良いけどさ……。現8号のことはほっときな。あんたが気に病む必要ないよ。こういうのは、なるようになるもんでしょ。昔とは違うし、そのうち辞めるって」
「……そうね」
ひとまず彼女のことは様子見だ。実際に会ってもいないのに判断するのは賢明とは言い難い。
「あんたはとりあえず目の前の自分のことを何とかしなさい。幸子さんとのことも、統括のことも、午後の本部会議のこともね」力が必要ならいくらでも貸してあげる、と葵は言った。本当に頼もしい限りである。
「ありがとう」
だからいつになってもこの人には逆らえないのだ。
* * *
真理子がまだ首も座らぬ赤子を抱いてEightにやってきたのはそれから一年も経たぬ春のことであった。その年の桜は早咲きで、まだ四月に入ったばかりだというのに既にほとんどが葉桜となっており、当然真理子の誕生日までも待っていてはくれなかった。
「名前は『ひなた』にしたの」
そう聞いた幸子は目を見開いた。生まれる前、ひと目でお腹が大きいとわかるくらいの頃に、真理子から子どもの名前について問われたことを思い出す。「どんな名前が良いと思う?」と訊かれ、何となく『ひなた』はどうだろうかと言った。良い名前だと真理子は気に入ったようであったが、まさか本当にそれが採用されているとは。
「ちゃんと健一に相談したのかい?」
「ママが付けた名前なら賛成って言ってくれたわ」
太陽に照らされ、その暖かさで他人の心も暖かくしてくれる子——真理子はニコニコしているのでそれ以上言うのはやめた。
真理子の腕の中はよほど心地が良いのか、泣き喚くこともなく眠りこけている。ほんの少し前まで、僅かな酒にも呑まれてへべれけになり、鍵を失くして帰れないと半べそをかいているような危なっかしい女の子であった彼女が、一人の立派な母親になっているのを見るのは実に感慨深いものである。
「健一も見たいだろうにねェ。たまには帰ってきたら良いのに」
「遠いからなかなかねェ……でも最近はテレビ電話ってのもできるようになってるから、顔見て話せるのよ。ほォんと便利な世の中になったわよねェ」真理子はあっけらかんとして笑っている。
自分の時はどうだったろうかと思い出す。正直、毎日が慌ただしすぎて何も覚えていない——いや、覚えていないのではない。何もしていないのだ。幸子はヒーローであって母ではなく、英斗を育ててくれたのは食堂にいた女性たちや衣装庫の爺、そして葵だった。
真理子の両親は幼い頃から海外を転々としているし、育ての祖父は既に他界して祖母は介護施設に入所していると聞いている。義理の両親と上手くいっていないという話は結婚当初からしていた。その上健一も海外赴任中ときては、近くに子育てを手伝ってくれるような人物はいないのではなかろうか。
初めての子育てに不安も多いだろうに、この前向きさと明るさには感心を通り越して呆れてしまう。
「今ねェ、保育園をどうしようかって思ってて」
「保育園?」
「そう、三月生まれだったからさァ、見つからなくって困ってるのよ。預け先が決まらないと仕事戻れないじゃない?」
「え……アンタ、もう戻るつもりなの?」
それ以前に仕事に復帰して続けるつもりであったことに驚きを隠せない。
「もっちろんよォ! 今時働くママなんて珍しくもないし、早く見つけて復帰しないと鈍っちゃうわァ」
「いや……だからって……」
口籠ってしまった。何と返せば良いのかわからない。ヒーローに戻りたいという気持ちを理解できてしまう自分がいるからだ。
しかし、子どもは?
健一と二人で協力し合って、というならまだわかる。だが、今の真理子は一人だ。いくら保育園があるといったって、二十四時間見ていて助けてくれるわけではない。
考え方が古いのだろうか? いや、しかしいくら時代が変わっても子ども一人が育つのに掛かる労力や時間、諸々の手間が減っているわけでは決してない。そしてその子どもが最も必要としているものも、変わらない。
それが金で補えるような代物でないことも。
一人ですべてをこなすのは、無理がある。特に自分はそれで『失敗』している経験があるのだ。そう易々と、頑張れなどと言えるものか。
「……復帰したいのはわかるが、そう焦らなくても良いんじゃないのかい?」
図らずも子どもの名付け親になってしまったが、そもそも赤の他人——それもただの街の飲食店の主人である自分が、他所様の家庭事情に口を出すのもおかしな話である。
だが、それでも——「健一だっているんだし、経済的に困るわけじゃないだろう?」
「そういうことじゃないのよ、ママ! あたし、この仕事が大好きなの。天職だと思ってる。何ていうか……——」
——『生き甲斐』。
その言葉はすぐに、幸子の頭に浮かんだ。
「大丈夫よォ、預け先さえ決まればあとは何とでもなるわ!」
そういうことではない。
「ママだって、一人で息子さん育てたんでしょう? 仕事とかどうしてたの?」
「……アタシは……」
そう、たしかに何とかなっていたのだ。その時は、何とかなっているように見えていた。
でもそのツケは後から回ってくる。
もう取り返しのつかないくらいに、ずっとずっと後になってから。
真理子に同じ思いはさせたくない。だが、彼女の中にヒーローを辞めるという選択肢がまったくないのは明白だ。よく似ている。昔、自分に子どもができたとわかった時、迷いなく子どもの父親を捨てる選択をしたあの日の自分に。
今の自分なら、あの日の自分に何と言うだろうか? どう説得するだろうか?
単純に辞めろと言って、聞く耳を持つだろうか?
「……まァ体は一つしかないからねェ。壊さないように、程々にするんだよ」
「わかってるってェ!」
——言えない。
自分が元・ヒーローであることも伝えていないのに。
まだこの年になってもヒーローに——『ハッピー・シャイニー』という夢に取り憑かれたままだというのに、他人には偉そうに「そんな夢は捨てなさい」?
何も言えなかった。意気揚々と帰っていった母子の背中にあの日の自分を重ねて見ても、どうしても言えなかった。無理矢理に辞めさせれば、やはりそれも、同じ道を辿ることになってしまうとわかっているから。
どうするのが正解なのだろうか?
自室に戻り、ひたすらに悶々とする。自分の夢か、子どもか——真理子は三十二歳になった。もう幸子がハッピー・シャイニーをやっていたよりも長い間、ヒーローに従事している。
あと、約二十年。あの赤子が大人になるまでにかかる時間。
昔とは違う。今、この世界にモンスターはいない。シールドができて、ヒーローたちが担っていた本来の役割はがらりと変貌を遂げた。しかし今に蔓延るこの平和はいつ、どこで崩壊するかわからない薄っぺらな氷の上に成り立っているもの。一度割れてしまえば、ヒーローの行く道は一つだけだ。
真理子は、あの子は、気付いていない。夢を追い、そこに縋り続けるほど、己の残された時間が刻一刻と削られていることに。
ヒーローという仕事は、あまりに特殊すぎる。
「……どうしたもんかねェ……」
しばらくカウンターに座って頭を抱えていたが、気付くと足は二階の住居スペースへと向かっていた。
ベッドに腰掛け、本棚の一番下段からアルバムを引き出す。照れ臭いのか、向けられたカメラから困ったように視線を逸らす小さな男の子は最近、お節介で強引な『姉』に引き摺られて時折店にやって来て、同じ顔をする。葵にプライバシーを侵害されていて何を言われているのかわかったものではないからたまには訂正が必要だ、などと本人は御託を並べていて、その割に毎回何をしにきたのかと思うくらいにすぐ帰ってしまう。おそらく既に幸子がそう長くないということに気付いている彼は、そんな言い訳をしながら幸子の様子を見に来てくれているのだろう。
——あとどれくらい?
どんな理由だろうと構やしないのだ。その顔を間近で見ることができるのは、あとどれくらいだろうか?
「……」
ヒーローなんて辞めてしまえば、きっとこんなくだらないことで心を乱されたりせずに済む。あの店のドアカウベルを鳴らすのが息子であったら良いなんてくだらない希望を抱くような未来を真理子に歩かせたくはない。
そう思うのに、それを止めるのもまた、幸子自身なのである。
息をつき、アルバムを閉じる。おそらく子どもの預け先に目処が立ち、仕事に復帰したとしても、その二足の草鞋は途轍もなく重い。せいぜい一、二年——気持ちの整理のための時間を過ごしたら、たいていはヒーローであることよりも母親であることを選ぶ。
真理子は既に三十路を過ぎている。子どものことがなかったとしても、体力的に考えて、彼女がヒーローをやっていられるのはおそらくあと僅かであろう。それに彼女は年の割にやや幼いところがあるから、新しく夢中になるものができれば自然とそちらに心は移り、ヒーローからも未練なく離れることができるやもしれない。
それまでほんの少しの間、辛抱すれば良いだけだ。あの子は自分とは違う。
だから、きっと——。
春が終わる頃、仕事復帰を目指してあれこれと準備を進めてきたが、最終的に子どもの預け先だけがどうしても見つからないと途方に暮れていた真理子に、幸子はとある提案をした。
「アタシで良ければ、預かっても良いよ」
まさか幸子からそんな助けの手を差し伸べられるとは思っていなかったのか、真理子は目を丸くして、しばらく何を言われたのか理解できていない様子だった。
もちろん、この時も幸子の心は揺れていた。宙にぶら下がったまま時間だけが過ぎていき、徐々にヒーローを諦めるべきなのかと真剣に思い悩んでいく真理子を見ていて、そうしなさいという言葉が何度出そうになったことか。だが、このまま辞めることになればおそらく彼女も、自分と同じ永遠に解消されない未練を抱きながら生きていくことになるだろう。
それはそれで、非常に、辛い道だ。
「いくらなんでも、そこまでママにお願いするなんて……」さすがの真理子も躊躇していた。
もしかしたら、子育てに専念したほうが良いと幸子が助言していたら、仕事にかまけて子育てを蔑ろにした結果息子と疎遠になっていると伝えたら、この時の真理子なら素直に頷いたかもしれない。しかし結局のところ、幸子はどちらも選べなかったのだ。実に、中途半端な人間である。
一旦、考えさせてほしいと言って、その日の真理子は店を後にした。これでやはり自分が育てるからヒーローは辞めると言ってきたのならそれはそれであると、幸子はその背中を黙って見送った。
ところが一週間もしないうちに、再び真理子は店にやって来た。その顔は先日来た時とはまるで違い、何か吹っ切れたような、清々しくも逞しい母親の目を携えていた。
「あたし、ヒーローを続けたいの。だから、ママ、協力してほしい」
お願いします、と真理子は深く頭を下げた。
きっと、神様は自分にチャンスをくれたのだと思った。
自分はもう、いつ死ぬかわからない。この人生において、贖罪の機会が与えられるとしたらこれが最後になるだろう。
「わかった」
二回目の子育て、なんて言えない。だって一回目はほとんど自分では手を出さなかったのだから、実質初めてのようなものだ。だが、不思議と、真理子が仕事へ出掛けている間も、幸子が抱いたり歌ったりすると、ひなたは泣かなかった。
「さッすが幸子ママね! ちゃんとコツがわかっているんだわ!」と真理子は感心していたが、違う。内心、落したり壊したりしないだろうかと常にヒヤヒヤしているし、ミルクは毎回説明書を読まないと作り方がわからず、なぜぐずぐずと泣きそうな顔をしているのかなんて想像もつかない。こんな大仕事を他人にすべて押し付けていたのかと思うと今さらながらに申し訳なくなってくるし、「良いのよォ!」なんて笑いながら一日中英斗を抱いていてくれたあの会社の食堂の女性陣には頭が上がらない。中には「もう一度やれて嬉しい」なんて言う強者までいたが、これを二度もやりたいなどと考える神経が理解できない。
つくづく、やはり自分は『母親』に向いていなかったのだろうと思う。
相変わらず不定期に情報提供に現れる黒衣——葵が手伝ってくれることもあった。葵は真理子の娘のことを知っても、特に驚きもしなかった。むしろ、「幸子さん、おむつ替えできるの?」と嗤われた。ひなたは葵の背中で揺れる青色の『尻尾』をしばしば追い掛け回し、その効果なのか、さっさと自力で立ち上がってふらふらと歩けるようになってしまった。
——が。
そんな光景がすっかりEightの日常になりかけていたある日、予想外のことが起きた。英斗が一人で店に乗り込んできたのである。
幸子が真理子の子育てを支援していると知ったら英斗は怒るだろう、とまでは予測していた。だが、いつも葵の後ろに隠れておずおずと店に入って来ては、相槌に毛が生えたくらいのことしか喋らない英斗が、それに対して何か行動を起こすとは思えなかったのである。ところが、この日は派手にドアカウベルを鳴らし、何の躊躇いも感じられぬたしかな足取りでカウンターまで詰め寄ってきた。
「何を考えているの?」
我が息子ながら可愛いと思ってしまうくらいに完成された『女の子』。とにかく怒っているのは伝わった。
「何が?」
「葵から全部聞いた」具体的には決して言わないが、真理子のことで怒っているのは何となく察した。「『知人』っていうのは、アンタのことだったんだな」
「あの子そう言ったのかい」
「余計なこと出しゃばってくれちゃって。ふざけないでよ、なんで止めないの? アナタが辞めろって言えばそれで丸く収まった話でしょう」
「そう怒るんじゃないよ。急に来たと思ったら。お腹空いてるの?」
「はぐらかさないで。信じらんない、ほんと、何年経っても何にも変わってないじゃん。鈴木真理子が『8号』だから愛着でも湧いた? どいつもこいつも本当に勝手、ただのエゴじゃない。いい加減、少しは子どもの気持ち考えたら⁉︎」
「時代が違うんだ、今じゃ母親がフルで働くなんて当たり前なんだよ」
「仕事の片手間で子育てなんかできないってアンタが一番よくわかってるだろう⁉︎ 趣味じゃないんだよ!」
「それはそうだが、——」
「それにアンタ、アイツが何年ヒーローやってるか知らないわけじゃないだろう? ヒーローが将来何を払うことになるのか、わかってるんだろう⁉︎ 子どもから母親を奪うつもり?」
「他人の家庭事情だ。文句があるんなら、アンタ、あの子の上司なんだろ? アンタが何とかしてやったら良いじゃないか」
幸子はアルミホイルに包んだおにぎりを差し出した。英斗の言うことも、怒る理由も、十分すぎるほど理解できる。だが、その上であと少し、ほんの少しで良いから、あの子に時間をやってほしいとお願いしている。「ほら、これ持ってとっとと帰んな」
「いらない」
「アンタちゃんとご飯食べてんの? 腹が減ってるからそんなに苛々するんだよ。不機嫌な女はモテないよ?」
「……もういい」
「英斗!」
怒っているはずなのに、名前を呼ぶと英斗は必ず振り返る。だからいつものようにおにぎりを投げつけて、持ち帰らせた。我儘で、強欲な、どうしようもない母親だと自覚している。
* * *
店を出て足早に大通りに向かって歩き出すと、すぐに後ろから気配が寄って来た。
「英斗! 英斗、ごめん、怒ってる?」
「怒ってるよ」
「ごめん……」
葵の顔は見ていないが、聞いたことがないくらいに謝罪の意が込められているのは感じた。途端に、罪悪感にも似た何かが、前へ行こうとする足を引っ張って止める。
一つ息をする。「……ごめん。葵に怒っているんじゃないの」
たぶん、あの人が勝手に決めたことなのだ。葵だって最初は驚いただろうし、英斗が知れば怒ることは避けられないと悟って、今まで伝えてこなかっただけだ。
「本当に、勝手だよなァ……」呆れて、もはや笑いが出てしまう。「アンタが何とかしてやれって言われたよ」
「ええ?」
「信じられないよ。もう、その神経が」
背中のほうから葵の溜め息が聞こえる。「相変わらず言葉が足りなすぎるよ、幸子さん……」
「ごめんね」覚悟を決めて振り返る。なぜ葵が悲しそうにするのかわからないが、とにかくその顔は好きじゃない。「もう、いいから。迷惑掛けちゃってごめん」
「ダメダメ、良くないよ。せっかく……」
最近になって、嫌々ながらも漸く母の顔を見に行くようになったのに、これがきっかけでまた昔のような疎遠状態に戻ってしまうのではないかと心配しているのだろう。
自分の中で、察しはついているのだ。あの人は、自身が無理矢理にヒーローを辞めて子どもの傍にいるという選択をしたことを後悔している——当然だ。自身の、何よりも大切なものを捨てて自分に嘘をつき、そうではないものに無理矢理置き換えようとしたのだから。でも結局そうしきれず、何十年経った今でもヒーローへの未練は消えていない。あの人が息子を選んだふりをして本当の気持ちはそうではないということに、英斗が気付いていないとでも思っていたのだろうか?
だからこそ、8号には気の済むまでやらせてやりたいと考え、手を貸すことにした。もう、それで良い。子どもの側からしたって、一生懸命に作った未練たらたらの微笑みを向けられ、気を遣われる日々はかなり堪える。その度に責められているような気持ちになるし、お前は決して一番ではないと念を押されているようにも思えた。
そんな思いを他の誰かにもさせるなんてことは、自分も望んでいない。
「どうせ、あと一年か、二年か、ちょっとやらせてやったら辞めるでしょ。葵、それまで協力してよ」
「どうするつもり?」
8号は引退させる。
どれだけ早くその気にさせるか——それが、自分のやるべきことだ。何のための『統括』かと思っていたが、このためだったと思えば納得がいく。
「まだ、わかんない。考える」先ほど投げつけられたおにぎりを葵に差し出す。「これいらない」
「……食べないの?」
「いらない」半分意地悪のつもりでそれしか答えなかったら、葵は眉を顰めて下を向いてしまった。おそらく、違ういらない理由を想像したのだ。「お腹がいっぱいだから、いらない」
「え?」
「だって今ラーメン食べたじゃん。もう入らないよ」丁寧に補足をしたら葵は頬を膨らませてしまい、肩を引っ叩かれ、乱暴におにぎりをもぎ取られた。
もし母がヒーローではなくて、ご飯を一緒に食べ、些細な日常の話をし、眠れぬ夜を共に越えてくれるような人だったなら、きっと今、目の前に葵はいないのだろうと思うと、やはり母はあの母で良い。ただ、そんなことを思っているなんてことを葵に言う資格は、自分にはない。
* * *
それからはまるで濁流に呑まれたかの如く、時は流れ過ぎて行った。自分の寿命がいつ尽きるかなど考えている余裕もなく、あっという間に一年、二年と時間は溶けて、いつしかひなたは五歳になっていた。自分の足でしっかりと地面を蹴って走り、雑巾掛けもお手のもの。幸子があんぐりするほど口も達者で、まだ不恰好なひらがなを並べて手紙を書き、絵を描く。頭も良い。保育園に通うようになったことも相乗して五歳児とは思えぬほど何でも卒なくこなしてしまう。最近ではママを喜ばせたいと、おにぎりの握り方を教わるようになった。だが、それだけ時が流れても、真理子が『ヒーロー引退』の言葉を口にすることは一切なかった。
これにはさすがの幸子も困惑した。ひなたを預けて仕事へ行き、一日中街の隅から隅まで駆けずり回って誰かの小間使いをして、夜にEightへひなたを迎えに来る頃には疲れ果てている。家に帰る気力がなく、店のソファで眠りこけて朝を迎えることも珍しくなかった。間違いなく体力的に厳しいであろうにもかかわらず、真理子はこの生活が楽しいと言い、引退する気配など微塵もない。
「アンタ、しんどくないのかい?」
出してやった夕飯のおにぎりを片手に、子どものように今にも寝落ちてしまいそうな様子の真理子に、試しに訊いてみたことがある。
「しんどいっていうかァ……疲れるけどさァ、そんなの、働いてたらみんなそうでしょ? アタシ、この仕事好きだから全然気になんないわ」
——これは、ちょっと、想定以上だった。
たしかに、本人の気の済むまでやらせてやりたい、と思ったのは幸子自身だ。できる手伝いはしてきたし、ひなたが寂しくないように世話も焼いた。しかしここまで続いてしまうとは、読みが甘かったと認めざるを得ない。
日に日に、マズい状況かもしれない、という考えが頭にちらつくようになった。自分は元気を装ってはいるものの、まもなく六十——葵が言った、限界の年を迎える。ここまで考える間もなく必死だったから誤魔化してきたし、もしかしたらそんなものは迷信で気付いたら七十くらいになっているかもしれないと思った時期もあったが、さすがにここ最近、そうは考えられなくなってきたのである。
自分が死んだ後にひなたをどうするのか? 面倒を見る人間がいなくなったらいよいよ真理子はヒーローを引退するのか? いや、そんなはずはない。幸子のところで逞しく育ってしまったひなたはもはや真理子よりもしっかりしているし、来年小学校にでも上がればますます手が掛からなくなってくる。そうなれば真理子はヒーローを辞めようとは絶対に思わないだろう。
しかし、十八年だ。
いくら真理子が『お助けアイドル』であったとしても、既に十八年という自分より遥かに長い年月をヒーローとして過ごしている。このままヒーローであり続けるならば、限界の年など遠く及ばず、幸子よりずっと早くに死ぬことになるのではというのは容易に想像がつく。
真理子は三十七になった。
ひなたが大人になるまで、十五年——結婚して、孫の顔まで見たいとなれば、それ以上——そう考えた時、今、真理子に進ませなければならない道がどれなのかは、いくら幸子でもわかった。
今すぐに辞めても、もう遅いかもしれない。それでも、これ以上削られることは避けられる。
だが、どうやって——?
真理子自身がその気になり、納得してその道を選んでくれなければ意味がない。それが最も難しい。ヒーローは寿命が縮むなんて、決して公になってはならない話だ。
——「本当に勝手。ただのエゴ」
英斗の言うとおりだ。
いつも、掛かってくるばかりだった電話番号を呼び出す。おそらくこれが自分の人生において、最後に成さねばならぬことなのだろう。そしてそれを頼めるのは、彼女だけだ。この電話が繋がったら、もう戻れない。たとえ仕上げをするのが彼女ではないとわかっていても、それでも必ず遂げてしまうだろう。
あの子は、ヒーローの子だから。
* * *
奇しくもその日、シールドに重大な瑕疵が見つかったと、夕方から緊急の会議が開かれた。
黒衣の部門代表として、統括である葵は議場に呼ばれた。同じように他部門の統括クラスもほぼ全員が召集され、当然、ヒーローの部門代表としては英斗が出席していた。発言権がないことははじめから想定していたが、やはりそのとおりで、お偉い方々のくだらない『意見交換』を聞き流しながら、葵は視界の隅にいる英斗のことを見ていた。頭の中では数時間前、Eightで交わした幸子との会話が繰り返し流れている。おそらく自分が今抱いている不快感と同じ種類のものを持っているであろう英斗は、反対側のテーブルに着きどこか遠くでも見つめながら、終始人形のように固まっていた。
何時間にも亘る大会議は、結局、シールドが本当に壊れるのかどうか検証してから対策を考えたほうが良いのでは、などという意味のわからない方針だけを残してお開きとなり、案の定、席を立った瞬間に問題のことなどすっかり飛んでしまっているお偉方は速やかに夕食会場へと移動して行った。あまりの緊迫感のなさに、集められた面々もどこか煮え切らず、ほぼ全員が他人事としか捉えていない印象を受けた。
シールドは決して恒久的なものではない——そんなこと、皆わかっていたはずだ。三十年前、初めてシールドというものがこの世に生まれた時、皆が半信半疑で、試験的に運用が開始されたと言っても良いくらい世間の期待は薄かった。いつか壊れるかもしれない、ただ、ほんの少しの間だけでも凌ぐことができれば——その程度だったではないか。なのに今さらになって、「本当に壊れるのか?」「壊れた責任を誰が取るのか?」——なんと阿呆臭い議論だ。
英斗と話がしたいと思っていたのに、一瞬目を離した隙に姿を消してしまっている。急いで廊下に出たが、あの派手な金色の頭は見当たらない。
執務室に戻ったかと思ったが、一瞬考えて違うと判断し、その足で屋上へ向かった。外はすっかり日が落ち、黒いはずの夜空は眠らない街に煌々と照らされて群青色になっていた。ピリリと冷たい夜風が肌に障る。
「寒くないの?」
暗闇の中、英斗はコートも着ず、議場に座っていた格好そのままでいつものように街を見下ろしていた。寄っていって、すぐ隣に立ったが、英斗は視線を変えない。質問にも答えない。
「なんか、阿呆みたいな会議だったね。あんな長々とさ。お腹空いちゃったよ」
普段どおりを取り繕ってみるも、英斗はしばらく口を開かなかった。闇に目が慣れて、表情は見える。何を考えているのかわからない。
英斗が統括になってから、ヒーローがあまり補填されなくなった。現状稼働しているのは五名——1号、2号、4号、5号、そして、8号である。補填しないのは、成り手が減っているという現実もそうだが、ほとんどが英斗の意向である。
その理由は、葵にはわかる。
このままシールドが壊れたら、今いるヒーローたちは間違いなく前線に送られる。それが本来ヒーローが持つ役割であり、責務だ。葵からすればどうってことはない。だが、英斗は違う。自身の中でそれを割り切るために、一つ、また一つと、鎮めていかなくてはならない。
向いていない。本当に、この子には——。
「……葵の腹の虫が盛大に鳴いたら、少しはくだらない時間が短くなったかもしれないよ」
漸くぬるりとこちらに顔を向けたと思ったら、そんな意地悪なことを言う。
「やめてよ、馬鹿」
「寒くないの?」
「それさっき私が訊いたの」
「僕は寒いよ」
「ほら、そうでしょう。だから早く戻っ——……」
葵の声は途中で英斗の体に埋もれて消されてしまった。静かに、しかし力強く背中に回った彼の右手は葵の後頭部に置いてあって、左手は存在しない左腕を掴んでいる。
彼の胸に顔を埋めたまま、正直、少し動揺している。何か言いたいのだが、言葉が見つからず、彼もまた何も言わない。ただ、とても暖かい。
「……」
自分は疲れているのだろうか? 心臓は煩くて息苦しいのに居心地は良くて、徐々に眠たくなってきてしまう。
「ごめんね」
やがて、英斗は耳元でそう呟き、腕の力を緩めた。一瞬、それが少し残念だと思ったのはなぜなのだろう?
見上げた表情はもう見慣れた英斗のものだ。「寒いよね。中、戻ろうか。ラーメンでも食べる?」
「……あのね、英斗」頷こうとする自分を暫し引き留める。この話は、ラーメン屋ではできない。「私、言わなきゃいけないことがあるの」
「何?」
「幸子さんから、依頼があったの。私、調整に入るから」
「依頼って?」
「現・8号を辞めさせる」
英斗の目がゆっくりと丸く開く。それから、葵を見つめて動かなかった視線が忙しなく泳ぎ出す。「……あの人、なんで……——」
「幸子さんはまだ、シールドのことは知らない。ただ純粋に、そうしてくれって」
「……勝手だな」
英斗はそう言い捨て、黙り込んでしまったが、状況は味方してくれている。恐ろしいくらいの絶好の機会だ。
「英斗は、どうする?」
答えなんて聞くまでもない。彼が選ぶ道はもはや、たった一つしかない。
ずっと迷っていたのを知っている。それでも切らずに今日までやってきたのは、幸子が——母親が亡霊に憑かれているのをその目で見ていたから、そして、それと同じ景色を見せたくなかったからだ。
あの娘に。
「……あの人、に……協力するわけじゃ、ないから……」
長い沈黙の果てに、英斗はそう声を絞り出した。
「うん」
「アタシは、アタシが——」
「うん、うん、良いよ。大丈夫。わかってる」先ほどまで自分を包んでいたとは思えぬほど心細い英斗の腕を摩りながら、何度も頷く。「大丈夫。私は、私のことをやるよ。だからあんたは、あんたのしたいようにしな?」
「……」
「ね?」
「……」
「ほら、寒いでしょう? ラーメン、食べに行こうよ」
吐き出した白い息は震えていた。
——。
——。
——。
——「これで良かったのかい?」
そんな声が、聞こえるような気がする。もう随分と遠くへ行ってしまった、彼女の——かつての相棒の声。
自分のほうこそ訊きたい。
これで、良かったのかな?
正直なことを言えば、こんな結末を迎えることになるなんて思っていなかった。もしもあの時、などと考えることは、小さなものまで含めれば数多星のようにある。
そんな、些末な人生。
それでも、自分は幸せだった。
あの日。
幸子が英斗を連れて、あの店の前に現れなければ。
或いは、どちらかが仕事に手間取って、一緒に食事に行かなければ。
両親の言いつけに従い、ヒーローになるという夢を追わなければ。
出会うことはなかっただろう。
そうしたらこんな風に、傷つけずに済んだのに。
——「あの馬鹿のこともすまないが、よろしくやっておくれ」
——「あれでも一応可愛い息子でね」
変わらないねェ、いくつになっても——幸子は最期に、そう言って笑っていた。その眼には、世界中の誰よりも愛する息子の顔が浮かんでいたに違いない。
ごめんね、幸子さん。
英斗のことは、泣かせてばかりだった。ほんのりと嬉しそうに笑う顔も、頬を膨らませて怒った顔も、顔を赤らめて視線を逸らすその顔も、全部可愛かったけれど、本当はもっと楽しそうに、大口を開けて手を叩きながら笑い転げるくらいの人生を送ってほしかった。
幸子だってきっと、そう望んでいた。だから最期に、そう託されたのだ。
結局、最期までそれをさせてあげられなかったことは、いつか幸子に詫びなければならないと思っている。
——でも。
自分は酷い人間だ。ヒーローとして力を使い、戦っている時こそが、最高に己が生き生きと『生』を実感できる瞬間で、自分はそれを本能的に求めていた。きっと誰かが——シャイニーが止めてくれなくとも、近いうちにそれが仇となって死ぬことになるだろう。
でも、その力こそが、自分。
葵をここに存在させてくれたもの。
どうしても穢したくない。
だってこの力のおかげで、自分は英斗に出会えた。
後悔はない。
ヒーローになって、良かった。
愛しいものに出会えた。自分はずっと幸せだった。
ヒーローとして、伝説の背中を預かったことは、最高の誇り。もう二度とないと思っていた表舞台に、戻って来てほしいと呼ばれた時は本当に嬉しかった。
——楽しかったなァ……。
まるで青春時代のようだった。
——「もし、葵が、嫌じゃなければ、だけど、うちに一緒に帰るっていうのは、どう?」
あれは嬉しかった。きっと一生懸命考えて、迷って迷って、提案してきたのだろう。
今も。
「一緒に帰ろう?」
うん、って、言いそうになる。
本当は言いたくて堪らない。でも、それだけは、駄目だ。その言葉だけは絶対に言ってはならない。
言えば自分は確実に英斗を殺してしまう。
「あおいは英斗のことが好きだよ」
世界中の誰よりも好きだよ。
だから、ありがとう。そんな顔をしてくれて。一緒に帰ろうと、最後まで手を差し伸べてくれて。葵を葵でいさせてくれて。
英斗のことを好きでいられて良かった。
——貴方に愛してもらえて、私は世界中の誰よりも幸せだった。
だから、これで良い。
ありがとう。神様。
あの日、生きろと言ってくれて。
「ありがとう。約束を守れなくて、ごめん」
独り善がりだと言われても構わない。たとえこれから行く先が地獄であっても、悔いはない。
誰が何と言おうと、これで良い。
鷹野葵の人生は、これで良かったのだ。
To be Continued...




