第八話 月と太陽(4)邂逅の日
内側に入ってまもなく、葵との再会の瞬間は、思いの外呆気なく訪れた。
葵が今も会社に在籍していることはわかっていても、ヒーローとして表側にいる間は裏側の人間——所謂、黒衣たちと接触する機会は一度もなかった。彼らは常に誰からも悟られることなくその任をこなして去っていってしまうからだ。あまりに優秀すぎて、ヒーローの中には黒衣という存在そのものを知らない者も多く、英斗自身も爺に教えてもらっていたから知っていたというだけで、どんな姿をしているのかもわからない。ヒーローからは見えないという爺の言葉は本当だったのだと、後々になって納得した。
しかし内側に入ると話は変わってくる。表裏を繋ぐパイプの役割を果たさなくてはならないため、もしかしたらいつかは葵とも接触する日が訪れるやもしれぬと想像していなかったわけでもない。ただあまりに自然と、何の前触れもなくその時がやって来てしまったものだから、せめてもう少し覚悟する暇を与えてくれたら良かったのにと神様を恨んだりもした。
その日、次のローテーションの打合せをしてきてほしいと上長に頼まれ、初めて裏方のアジトを訪ねた。この社屋に地下が存在することも、そこへ行くための専用エレベーターと階段があることも初めて知った。つい一ヶ月ほど前までヒーローとして表にいた英斗は、この時まだ黒衣という種類の人間とは顔を合わせたことすらなく、一体どんな怪しい集団なのかと不安で仕方がなかったが、そんな感情を表に出すわけにもいかず、懸命に平静を装ってそのエレベーターに乗った。
エレベーターそのものはごく普通の、それこそ社内の他のエレベーターと同じ様相だったが、地下に着いて扉が開くとその先は真っ暗だった。
一瞬、間違えたのかと焦った。広がっているのは物音一つしない、闇。
だが、このエレベーターが専用だと聞いたし、他に行き先のボタンもない。一番奥の突き当たりの部屋だよ、という上長の言葉を思い出し、恐る恐るフロアに降りた。
背中でエレベーターの扉が閉まると、もはや何の明かりもない真っ暗闇となってしまい、目が慣れるのに暫しの時間を要した。早く行かないと打合せの時間に遅刻してしまうため、自身の持つアンテナを最高周波で張り巡らせて廊下を真っ直ぐに進む。そこら辺のドアが突然に開いたり、いきなり大きな物音を発したりしませんようにと祈りながら、漸く言われたとおりの突き当たりのドアの前に立った。
一つ呼吸をしてから、ドアを叩き、ゆっくりとドアノブを回す。
開いた先は、ほんの少しだけここよりも明るかった。それは、壁一面に張られたモニターのせいだ。そこには街中の至る所でヒーローたちが各々の困り事を処理している様子が映し出されていた。
BGMはないが、おそらくモニターに映っている街中の音だろう。頭がおかしくなりそうなほどの多様な声や騒音が四方八方からぐちゃぐちゃに入り乱れて流れてくる。SF映画にでも出てきそうな部屋の異様な雰囲気に圧倒されるばかりでしばらく呆然と立ち尽くしていると、誰もいないのかと思っていた室内のどこからともなく、凛とした声が聞こえてきた。
「いつもご足労いただいてすみませんねェ」
声は、そのたった一言で、無防備な心のどこかを擽った。
懐かしくて、暖かい。
——まさか、でも……——。
自分は、その声をよく知っている。
もしかしたらもう二度と聞くことはないかもしれないと思っていた声。
聞き違うわけがない。小さな頃、母よりもよく聞いた声——自分の一番好きな声なのだから。
「あなたが新しく内側に入ってきたという新人クンですね」
声が出ない。喉の奥が凍りついているみたいだ。
背を向いていた椅子から立ち上がった黒い影は、ぬるりとこちらを向き、ゆっくりと滑るように寄ってくる。本当に足が床についているのだろうかと思うほど滑らかで、速い。全身が真っ黒の衣服で覆われ、大きなフードを目深に被っており、顔はほとんど見えない。
「初めてなのにちゃんと辿り着けるなんて優秀です。みんな迷子になってしまうようで、大半が遅刻するんですよ。困ったものでしてねェ」
影は淡々と喋りながら物珍しそうに自分の周りをくるりと一周すると、すぐ目の前で止まって下から顔を覗き込んできた。フードに邪魔をされて目は見えないのに、視線が合っていると感じる。そこにあるのが三日月の形をした黒い瞳なのではと思うと、なんだか体の奥のほうがむず痒くなって、思わず視線を外してしまった。
「キミの上長もそうでしたよ」
内緒話をするかの如く、影はそう囁いた。きっと、悪戯に、少し微笑んでいるはずだ。
何か、何か言わなくては——そう思うが、何も出てこない。普段上司の機嫌を取るための台詞とか、ヒーローとして一般人ウケする会話内容とか、引出しはたくさん持っているはずなのに。
「……桜庭、です。本日は、代理で参りました。よろしくお願いします」
役立たず。
何てクソ真面目でつまらない人間なんだ、自分は。
「よろしく。はい、コレ、今日のお土産です」
影が差し出してきたのはクリアファイルに収められた一枚の紙——受け取って見ると、これからここで打ち合わせるはずのローテーションが既に組まれた状態の一覧表であった。「そちらの統括殿によろしくお伝えください」
「あの、——」
「もう戻って良いですよ」
影は素気なくそう言うと、くるりと踵を返し、また椅子のほうに戻っていってしまった。おそらく、自分のここでの仕事はこれで終了なのだと悟った。
——ねェ、葵でしょう?
その背中に、声を掛けたかった。でも勇気はない。胃袋の辺りをぎゅっと掴まれているようだ。
言葉どころか、度胸すら用意していない。まさか今日、こんなところで再会することになるとは夢にも思わなかった。
どうしよう? このまま黙って部屋を出るのか?
本来であれば、易々とここに来られる立場にない。今を逃せば、次にいつチャンスが巡ってくるかもわからない。しかし声を掛けたところで、その先は? 何て言う? 何を話す? ——何も考えていない。
——葵は、気付いているのだろうか?
そもそも自分があの英斗だということを彼女が認識しているのか、それ以前に英斗という少年のことを覚えているのかどうかもわからない。
あんな、たった、一瞬のことなんて。
それに……——。
「どうかしました?」モニターの逆光で、影はさらに色濃く見える。「まだ、何かあります? 可愛い子ちゃん」
あるよ。それも一つどころじゃない。山ほどあるよ。
でも覚えていたとして、認識していたとして、果たして自分には、彼女に声を掛ける資格があるのだろうか?
あの影の左側の袖に違和感があるのは、おそらく途中から中身が入っていないからだ。昔、母から聞いたとおりに。
「……いいえ」
怖かった。
彼女に「あんた誰?」と言われるのが。
そう言われてもおかしくないことを自分は過去にしている。
彼女にとって、英斗という少年の存在は忘れたい過去の一つとなっていても不思議ではない。戦場へ行って、モンスターと戦って片腕を失くしてくるなんて、どんなに時が経とうとも怖いに決まっているし、その重さは自分には想像もできない。しかしどう考えたって英斗の存在は、彼女の当時の記憶を一緒に引き摺り出してしまう。
あの時自分がいなければ、きっと彼女はまだ左手が使えた。あの日自分が母を足止めしたりしなければ——。
これ以上、彼女を苦しめてしまうのなら、声など掛けないほうが良いのだ。
「今後ともよろしく頼みますねェ。桜庭クン」
機嫌が良いのか、歌うような口調で最後にそう言って、自分を見送ってくれた。
そう。ここにいるのはあの英斗ではなくて、ただの『桜庭クン』で良い。彼女が今も元気でいるということがわかっただけで十分ではないか。
真っ暗な廊下を歩きながら何度も心の中でそう言い聞かせた。知らないふりを貫き通すなんてやり辛いし苦しいだろうが、彼女の経験に比べたらどうってことはない些細なものだ。
エレベーターのボタンを押す。開いた扉の先は煌々と明るく、思わず顔を顰めた。次の打合せはきっといつもどおり上長が出るだろうし、ここへ来ることももうあまりないはずだ。もしこの先、再び彼女に会うことがあったなら、その時はきちんと『桜庭クン』として演技をしよう。
——そう、決めたのに。
「ねェ、ラーメン食べに行こうよ」
その日の夜、仕事を終え、いつものように会社を出て歩いていた時、道路に出てまもなくの街路樹の上から突然コウモリみたいに目の前にぶら下がってきたそれに心底驚いて、思わず悲鳴を上げてしまった。街路樹の枝を鉄棒のようにして軽い身のこなしで地面に降り立った彼女は、道端で慄いて硬直している英斗を見て、くすくすと三日月のような目をして意地悪そうに笑った。それは紛れもなく、遠い記憶の中にある鷹野葵そのものだった。
脳が半分停止している状態のまま、葵に引き摺られて近くのラーメン屋に入り、訳のわからないうちに同じものを注文していた。
「今日は特別ね」と、葵は瓶に入ったオレンジジュースを注文して、何の苦労もなく片手で栓を飛ばすと、それを氷の入った小さなグラス二つに分けて注いでくれた。「はい、かんぱーい」
呆然とただ彼女のテンポに呑まれるしかなかったが、一口オレンジジュースを飲んだら少し気分が落ち着いた。安っぽくて、人工的な甘い味が口の中に充満している。
葵は相変わらず全身黒い服を着ているが、フードは被っていないし、前のジッパーも開いている。おそらくこれが彼女の通勤スタイルなのだろう。黒い上着の下に襟ぐりの深い服を着ているが、所謂女性らしい体つきからは程遠い——だなんて口が裂けても言えず、そんなことを思っただなんてことは決して悟られるわけにいかない。
「いやいや、可愛くなったねェ、英斗。や、昔ッから可愛いんだけどさ、一段とね。びっくりしちゃったァ」見た目に反して、まるで近所のオバサンのような口ぶりである。「背も伸びたんだねェ、私より大きくなっちゃって。ちょっともう感動。ほんと、相変わらず可愛いとこは変わってなくて嬉しい」
「え、っと……」
そういう葵は、何も変わっていない。最後に会ったのは十歳の時だったから既に約十三年が経過しているわけだが、明るいところで改めて見ても、本当に気持ちが悪いほど何も変わっていないし、英斗のことを可愛い可愛いと言うその中身もおそらくそのままだ。
葵がキラキラとした嬉しそうな眼差しをこちらに向けてくるのがなんだか恥ずかしくて下を向いた。頭の中を整理したいのに心臓が煩くて集中できない。頼むから少し静かにしていてほしい。
オレンジジュースをもう一口飲んだらまた落ち着けるだろうかと思ったが、その時注文したラーメンが届いた。丼ぶりを両手に持ってきてくれた店主とは顔見知りのようで、親しげに葵のことを『アオちゃん』と呼び、とにかく声がデカい。
「なぁに、珍しいじゃない、今日はお友達も一緒なの? 美人さんだねえ!」
「そうでしょ? ナンパしたら許さないからね?」
葵はやっぱりニコニコと笑っている。楽しそうというよりは嬉しそうというほうがしっくりくるのだが、一体何がそんなに嬉しいのか英斗には想像が及ばない。
目の前に置かれたラーメンはごく普通の醤油ラーメンのようだが、なんだか見るからに量が多く、スープは縁スレスレで溢れそうだし、上に載っているメンマやらチャーシューやらというお馴染みの具材の量もだいぶ多いような気がする。
——この店のスタンダードがコレ……ではない、よな……?
「まだねぎ嫌い?」
言葉もなく丼ぶりと睨めっこをしていたら、葵が訊ねながら割り箸を差し出していた。受け取りながら再度丼ぶりに視線を落とすと、ねぎの量も普通よりかなり多いと思った。「……もう、食べられるよ」
「あっそう」自分で訊いてきたくせに返事は実に素気ない。しかもどんな回答が来るかなんて最初からどうでも良かったとでも言うように自分の丼ぶりをこちらに寄せると、勝手にねぎを攫っていき、その一部だけ麺が覗くようになった。「はい、じゃあちょっとは食べな? これしか野菜ないんだし、体には良いんだからね。あ、代わりに肉一枚あげるよ。今日は特別ね?」
だらだらと早口で喋り終えると、こちらはまだ箸も割っていないというのに、いただきます、とさっさと食べ始めてしまった。
そういう自由なところも、何も変わっていない。最初に麺から食べ始めるところも、具材は絶対に玉子から食べるところも。
唯一違うのは、食べる時に、左手でレンゲを持たなくなったことだけだ。
——なんで、普通にしていられるんだよ?
十数年ぶりに会ったというのに、何もないのか? 訊きたいことや、言いたいこと——ラーメンのことなんかじゃなくて。
「……葵」
気付いたら、口に出していた。久しぶりにその名前を呼んだ気がする。
彼女は一旦食べる手を止めてこちらを見た。「何?」
「あの、さ……——」なんだか気恥ずかしくて、気まずくて、ラーメンに向かって話した。「訊かないの?」
「何を?」
「その……いろいろ……」
「『いろいろ』って?」
言わなくたって、わかれよ。
というか、わかっているんだ。本当は。ただ意地悪だからわからないふりをしているだけ。絶対そう。
言えば良いじゃないか。文句の一つくらい。お前のせいで大変だったんだぞって、言えば良いじゃないか。なんで平気な顔をしてラーメンなんか啜っているんだよ。
「……なんで、この格好なの、とか……」——そう、言うことすらできない自分が、本当に嫌いだ。
「なんで?」
「……『なんで』?」
ふと顔を上げると、葵はまたラーメンを啜っていた。「細かいことは何だって良いよ。英斗は英斗だもの」
「……」
「早く食べな? 伸びるよ?」
「……いただきます」
英斗が手を合わせるのと同時に、ふと昔の記憶が蘇る。葵はこの形でこちらが引くほどよく食べるし、食べるスピードも速くて、一緒に食べにいくと必ずと言って良いほど『替え玉』というのを頼んで、英斗が全部食べ終わるまでの間に麺だけが入った皿が何回も出てきていた。或いは、最初からものすごく大きなラーメンが出てきたこともあった。
一度、そんなに食べてお腹を壊さないのか、と訊ねたことがあったが、「あんたも大きくなったらこれくらい普通に食べる」と平然と言われて、大人というのはそういうものなのだと思っていた。が、あれは絶対に違う。いくら大人で、たとえ男だったとしても、絶対に違う。
考える余裕がなくて適当に同じやつでと頷いてしまったが、目の前にあるこれはもしや大盛りか特盛りレベルのラーメンなのではと思うとゾッとする。
葵が載せた肉を一旦隅に避けて麺を摘んだ時に、そういえばラーメンなんて食べるのはいつぶりだろうかと考えた。もしかしたら、葵が誘いに来てくれなくなってから一度も食べなかったかもしれない。少なくとも自分は一人でラーメン屋には行っていない。
こんな食べ物だったっけ、と思うくらいに味がする。舌の上がカラフルなのだ。毎日食事はしていたはずなのに、お腹が温かいと思った。
「美味しい?」
見ると、葵は右手で頬杖をつきながら目を細めていた。丼ぶりはいつの間にか空っぽになっている。
——ああ、そうだった。
彼女はいつもそうやって、先に丼ぶりを空っぽにして、そう訊くのだ。
「……うん」
そうして、英斗が頷くと、嬉しそうに笑うのだ。
「気付いてないと思ってた?」昼間の会社でのことを言っている。
「……気付いてないか、忘れてると思ってた」
或いは、怒っていると思っていた。
「何を?」
「……僕のことを」
「ねェ、馬鹿なの?」
「だって、——」
「いくら何でもそこまで呆けてないって。キミがうちの会社に入ってきた時も、表にいる時も、ずうっと見てたし、何でも知っているよ」
黒衣だからね、とニンマリしているが、面白くない。
全部気付いていて、知っていて、それなのにあの対応?
いくら仕事中だったからって、そこまで徹底する? 久しぶり、とか、元気そうね、とか、そういう世間話というか挨拶みたいなものの一つや二つあっても良くない?
本当に意地悪な奴。
「良いじゃん、それ」こちらはむくれているのに、彼女は微笑んでいる。「似合ってるよ。女の子にしか見えない」
可愛いよ、と葵は褒めてくれた。それもまたこそばゆくて何も言えない。自分が今腹を立てているのか、喜んでいるのか、それすらもよくわからなくなってきた。
それに、誤解しないでもらいたい。
「僕、男だよ」
「んなこと知ってるわ。その格好で可愛い以外に何か言いようある?」
「……何でもない」
「さっきだって私、ちゃんとあんたのこと『桜庭クン』って言ったじゃん」
「……」言われてみれば、そうだ。要するにあの時も、彼女は自分のことを揶揄って遊んでいたというわけだ。
もう良い。悔しいとも思えぬほどの惨敗だ。彼女には、何を言っても敵わない。だいたいこの姿でなかったとしたって、葵は可愛いしか言わないのだから。
絶対に並の量じゃないと思いながら一生懸命ラーメンを食べて、なんとかギリギリ丼ぶりを空にすることができたら、やっぱり葵は嬉しそうに笑って褒めてくれた。今後もし葵とラーメン屋に来ることがあったら絶対に同じものなんて適当な注文はしないと心に誓った。
今にも戻ってきそうなラーメンを必死に胃袋に沈めながら、ピッチャーの水をグラスに注ぐ。明日の朝、顔が浮腫んでいそうな気がして、どうしてくれようかと頭を抱えてしまう。相変わらずこんなものを頻繁に食べているなんて、葵は一体どうやってその外見を保っているのだろうか。幼い頃に抱いた『葵は魔女』という幻想がこの年になっても信憑性を帯びることになろうとは。
「英斗」満腹すぎて話すのも辛いと思っていると、彼女のほうが話を切り出してきた。「幸子さんに会ってる?」
水を飲もうとグラスを持ち上げた手が、その言葉に反応して止まる。
何年ぶりに聞く名前だろうか。
「……会ってないよ」錆び付いて軋みそうなその手を無理矢理に動かし、注いであった水を全部流し込んだ。「高校を卒業した時から、一度も会ってない」
非常に答えにくい質問ではあったが、開き直ることにした。嘘を吐くわけにもいかなければ誤魔化せる話でもない。そもそも自称『何でも知っている黒衣』なのであれば、そんな質問などせずとも既に答えも知っているのではなかろうか。
「やっぱりなァ……」案の定、それを聞いた葵は短く溜め息を吐くように呟いた。「そんなことだろうと思った」
「……」
やはり彼女は怒っているのではないし、嘆いているわけでもない。ただなぜか、自分は今この場に漂う空気感が居心地が悪くて不快だ。それに対して、何と返せば良いのかもわからない。
すると、葵は黙って英斗が手にしていた空のグラスに水を注いでくれた。その後、自身のグラスにも水を注ぎ、そのピッチャーを元あったテーブルの端に戻してから、ゆっくりと息を吸った。
「一つ、大事なことを言っておくね」彼女は真っ直ぐに、英斗のほうを見ている。その表情は柔らかかったが、目は真剣だと思った。「ヒーローの時間はね、人よりも短いの」
彼女は怒っているのでも、悲しんでいるのでもなく、ごく普通の口調だった。つい先ほどまでの、ラーメンを食べている自分に話をしている時と、同じで。
ただその視線はずっと、英斗を見ている。
「……どうして?」
そんなことを急に言われても、何のことを言っているのかわからない。なぜ唐突にそんな話を持ち出したのかもわからない。それなのに、その真剣な眼差しに対して、理由を訊ねるのがとても怖いと感じた。
それはきっと、既に自分が知っていたからだろう。
「内側の人間になったのならそのうちわかるだろうけど、勘が良いキミなら、もう何となく気付いてるんじゃないの?」
——ああ、やっぱり、そうなのか。
誰に教わったのでもない。
遠い日、幼かった自分自身が、何となく辿り着いていたもの。
自分がヒーローになって、感じていたもの。
それらすべてが、きっと、その問いへの答えなのだ。
「……あの人は、そのことを知っているの?」
「知っているよ」
「……葵も?」
「え?」
そしてそれは例外なく、誰にでも当て嵌まる。母にも、自分にも、——。
「葵も、そうなの?」
自分の声が震えていた。答えは間違いなくイエスだとわかっている。それでも、そうではないという答えが欲しかった。そうでなければどんなに良いかと思った。
葵は低く唸って、僅かに頭を傾けながら視線を逸らし、やがて小さく苦笑した。「まァ私の場合は、もう一回死んでいるようなものだしね」
先ほどからテーブルに突いている肘の先、不自然な箇所で垂れ下がっている左袖——長生きできないことについては今さら特に気にしていないのだと言いたかったのだろうが、十三年前からずっと自分の中で押し込めたまま、決して触れないよう封印してきた後悔の念が、瞬間的に溢れ出してきそうになる。今ここで決壊してしまったら、もはや自分の力ではどうしようもできなくなるような気がして、テーブルの下で必死に拳を握り締めていた。
彼女が既に一度死んでいるというのなら、それは自分が殺したようなものだ。
「私のことは、良いんだよ、どうでも。そうじゃなくて、英斗は、幸子さんとちゃんと話したほうが良いと思うの」
「……何を話すの?」
「話したいことがあるんでしょう? 本当は」
「……ない、よ」
たしかに、昔はあった。でももうそれがどんな話だったかなんて忘れてしまったし、何だったのか思い出そうとするのも億劫だ。自分の中でいろいろな感情が渦巻いて整理がつかなくなって苛々してしまう。
「今すぐにとは言わないよ、英斗。でももしその気があるなら、早くしないと後悔するよ? 幸子さんは、私以上に、時間がないよ」
それはそうだろう。あの人は十二年もの間、ヒーロー——ハッピー・シャイニーであり続けた。
あの人は、本物のヒーローだったのだから。
葵が心から心配してそう提案してくれているのはわかっている。だが、今さら何を話すというのだろう? 今さら話して何が伝わるというのだろう? どうせまた、あの頃と同じようなことを繰り返すに決まっているではないか。
そもそも自分は母のことが嫌いだし、母も自分のことが嫌いだ。嫌いな者同士が会って、どんなメリットが? 何を話す? 母が今どこで何をしているのかも把握していなければ連絡先すらも知らない。こちらの居所だって何一つ伝えていないのに。
「会社の近くに幸子さんの店があるの。今すぐじゃなくても良いからさ、行って、顔くらい見ない?」
「……僕はそんなこ——……、え?」
さらりと言われたがとんでもない爆弾発言である。聞き違いかと思ったし、言葉の意味を理解するのに時間を要した。
——『幸子さんの店』って、何?
葵の口元が少し緩んでいる。「知らなかったでしょう」
「え、何、それ……何の店?」
「飲み屋みたいなものかな?」
「はァ?」思わず声が大きくなってしまう。「え、なん……それ、冗談でしょ?」
「本当だよ」
「何考えてるんだよ、訳わかんないよ。え……本気で言ってる? あの人おにぎりしか作れないじゃない……ええ?」
葵は笑いを堪えているのが辛くなったらしく、それまでの真面目な表情を崩して、腹を抱えながらゆっくりと立ち上がった。
「ああ、可ッ笑しい……」目尻に溜まった涙を指先で拭いながら、まん丸の目で瞬きをするしかできない英斗を見下ろす。「おいで。今日は特別だから、ラーメンは奢ってあげる」
店を出て、葵は自分の少し前を歩きながら、こっちこっち、と楽しそうにガードレールの上でステップを踏んでいた。大盛りラーメンのせいでパンパンに膨れた腹が苦しくて速く歩くのが辛かったが、とてもじゃないがこのまま真っ直ぐ家に帰るなんてできないと思っていたのでちょうど良い散歩である。
やがて彼女はそう歩かないうちに大通りから一本脇道に逸れると、数軒目の古いビルの下についている木の扉の前で足を止めた。
「ここだよ」
閉じた扉はオレンジ色の間接照明に照らされ、『OPEN』と筆記体で書かれた木札が下がっているが、店の名前はどこにも書いていない。
葵の話は冗談なんかじゃなかったのか。
この扉を開けたら、あの人がいる——?
はたと気付いて、道の反対側の電柱の陰まで逃げた。が、それでも足りず、今来たばかりの道を引き返そうとしたら、慌てた葵が止めに来た。
「ちょちょッ、待て待て待て! どこ行くの?」
「教えてくれてありがとう。相変わらず滅茶苦茶な人だってことはよくわかった」
「待って、待ってよ!」葵が腕を掴んでいる。「ね? せっかくここまで来たんだからさ、ちょこっと中も覗いてみない?」
「ヤダ」
「チラッと。どう? すごいんだよ? 何て言うかさ、うーん……オレンジ! って感じで」
意味がわからない。「行かない。ヤダ。もう帰る」
「英斗、——」
「——ッ、無理だよ……」
咄嗟に左腕で顔を隠し、声を絞り出した。首を横に振ることはできるのに、右腕を掴む葵の手を振り払うことはできなくて、何もかも中途半端だ。
自分が嫌になる。
「今は、無理。僕が無理。耐えられる自信がない」
都合の良い言い方だ。本当はただ、怖いだけのくせに。
次は何と言われるのか。何と言われて、自分には価値がないと、思い知らされるのか。
——ああ、本当に。
情けなくて涙が出そう。
嫌いだ。自分は、大嫌いなんだ。だから会いたくない。会わなくて良い——!
やがてゆっくりと手を離した葵が、どんな顔をしてそこに立っているのか見るのも怖い。せっかく葵は良かれと思って連れてきてくれたのだろうに、こんな断り方をしたことにも後悔を覚え始めた。十三年前のあの日、夕暮れの河原で見た母の困惑した顔と、雨の中濡れるのも厭わず傘を差し出してくれた葵の泣き出しそうな顔——そして、最後に家を出た日の母の姿が、頭の中にフラッシュバックしてきて息が詰まる。
全部嫌だ。ただ薄い木の扉一つ隔てた向こう側にいるであろう実の親の顔を拝みに行く勇気すらない自分も、葵の心配に何一つ応えられない自分も、何もかも、全部——その時、離れたはずの葵の手が、左の側頭部に触れた。
「……わかったよ。ごめんね」
葵は静かにそう言って、頭を撫でてくれた。どうして葵が謝るのだろう?
——違うのに……。
葵が悪いんじゃない。葵は何にも悪くないのに。
十三年ぶりに自分の頭に触れてきた彼女の手はやはり何も変わっていなくて、悔しいことに、自分がこの魔法の手がとても好きというのも、変わっていなかった。
恐る恐る覗き見た彼女は、遠い昔に見たのと同じ——例えば、初めてあの中華料理屋の前で会った時のようなとても優しい顔で、微笑んでいた。
「……ごめん」
ただそれしか言えなかった。もっと言いたいことはたくさんあるのに、他のことを言ったら葵を傷つけてしまいそうで。
葵は微笑みを小さく横に振り、黙って頭を撫でてくれる。落ち着く。だから、甘えてしまう。
駄目なのに。
自分には甘える資格などないのに。
「ごめん……全部、ごめん……」
「可愛いねェ、英斗。本当に、前よりもっと可愛くなったね」
その目の前で煌めく三日月を食べてしまいたくなる。
しばらくしてふらふらと大通りまで連れられて戻ってきたが、とても気まずい。
「……葵、どこか、近くまで送るよ」
彼女には必要ないかもしれないが、夜に女性を一人で家に帰すのは些か気が引けて、そう提案した。あと、何でも良いから話のネタが欲しかったのもある。この沈黙が続いてそのまま別れるのは、なんだかとても嫌だった。もしかしたら、今夜以降もう葵は自分の前に現れてくれないかもしれないという不安があったのかもしれない。
嫌がられるかと思ったが、彼女は至極当然のことのように「うん」とすぐに頷いて、そのままの調子で「私はアイスが食べたい」と続けた。
「……アイス?」
突拍子もない話題の振り幅に、アイスって何だっけ、と一瞬真面目に考えた。が、そんなことは一切お構いなしの彼女は左右の道路を見渡し、数十メートル先で煌々と存在を主張するコンビニの看板に目を留めると、嬉しそうに先に駆けていってしまった。
本当に、なんて自由で、身軽な奴なんだろう。
追い掛けていって、眩しいと感じるほど白く無機質な店内を奥に進むと、中腰になってアイスの冷凍ケースを覗き込んでいる葵の姿を見つけた。あんな大盛りのラーメンを食べたばかりなのに、さらにアイスまで食べるのかと思ったら、何もかも通り越して清々しい気分になった。
「ねェ、英斗はどれが好き?」
中腰のままニコニコとこちらに顔を向ける彼女は、明るい店内の蛍光灯にも負けないくらいにその黒い瞳を爛々とさせている。
左隣に立って、冷凍ケースの中を覗く。今の今まで忘れていたのに、こういう状況になると勝手に記憶の引出しから情報が出てくるから不思議だ。「……ねェ、葵は今も歯磨き粉味が好きなの?」
「歯磨き粉って言うな。チョコミントだぞ」
「だって歯磨き粉の味だもん」昔、葵に美味しいと騙されてから二度と食べないと決めている味。「どれが良いの? 買ってあげる」
「え!」釣り上がっていた彼女の目がまん丸に変わる。「ほんと? 買ってくれるの? ほんとに?」
「うん、良いよ、今日は特別」彼女の言葉をそのまま返す。「何個買っても良いけど、お腹壊さないで」
葵は何度も本当かと訊ねながらアイスの冷凍ケースに張り付き、しばらくどれにするか悩んでいた。少し前、ヒーローだった時に子どもたちが自分らに向けていた眼差しにそっくりだと思った。
結局、コーンの上に載った渦巻き型の白いアイスと、二連結のパックに入ったアイスを選んだ。てっきり歯磨き粉味のものか、高級アイスクリームを強請られるかと思っていたのに。
「英斗はいらないの? あげないよ?」
笑ってしまった。よく二連結のほうは誰かとシェアして、なんてコマーシャルをしている商品だったが、彼女にそういう気は更々ないらしいし、はじめからそうだろうと思っていた。
「もう入らないから」
「そうなの? アイスなんて飲み物じゃん」
簡単にそう言うが、現状残されている僅かな胃袋の隙間は、自分で食べるアイスではなく、葵が白い渦巻きアイスを満足げに食べているのを眺めていることで埋めたかったのである。
「葵、家どこなの? 遠いの?」
「あっち」彼女は渦巻きアイスを舐めながら、今歩いている道の前方を適当に指差した。幼稚園児レベルの道案内だが、一応、自宅へのルートの上を歩いているらしい。
「一人暮らし?」
「そうだよ。他に誰がいるの?」
「いや、——」彼氏とか旦那とか、と言おうとして、やめた。「……お化け?」
「ふざけんな。殴られたいの?」
「冗談だよ。ほら……ペットとか?」
「馬鹿、飼えないよ、そんなの」
「だよね」わかってはいたが、人間の部類を回答すると怒り出しそうな予感がしたのと、何となく自分がその存在を聞きたくなかったのと、半々の理由でそう答えただけだ。
そうしたら、それについては葵のほうから勝手に回答してくれた。
「早く死ぬってわかってんのにさ、一般人となんか付き合えないよねェ。詐欺みたいなモンじゃない?」
葵は自虐的に笑っているが、その心は察することができない。
「……そもそも付き合いたいと思う一般人がいたの?」
「それよ! ねェ聞いて⁉︎」葵が急にこちらを向いたのでドキッとして怯んでしまった。その口から語られようとしているのが何なのか、気になるけれども聞きたくはなくて、しかし葵は待ってくれない。「私って、すっごい強いヒーローだったじゃない⁉︎」
「う、うん……」
「しかも美形でしょ⁉︎」
頷かないと酷い目に遭いそうだから頷くが、それ自分で言うか?
「はっきり言って結構モテるの、でも、全然駄目なの! 私より強くて格好良い奴なんかいないもん!」
「……」
本人からそう言われたら、靄々していたのが馬鹿みたいだと思った。容易に想像がつくではないか。
言うように葵は美人だから、おそらく寄ってくる奴は本当にいるのだろう。が、たぶんごく一般的な人は皆、すぐ葵に良いように揉みくちゃにされてついていけなくなるか、会話が成立しないか、ラーメン地獄に根を上げて、逃げ出す。
大いに納得したし、腹の底から笑って、心底安心した。それを言うと葵は絶対に怒り出すから決して口には出さないが、可笑しくて可笑しくて堪らなかった。
「そういうあんたはどうなの? いい歳こいて彼女の一人や二人いないわけ?」
あんまりそうして笑っていたから葵は膨れ面になってしまった。しれっと「一人や二人」と言ったが、二人もいたら些か問題なのではと思う。
「いないの? 男の子なのに? 大変じゃん、溜まっちゃって」
「ねェやめて」
「手伝ってあげよっか? さすがに童貞じゃないよね?」
「ごめんなさい、僕が悪かったです、お願いだからやめて」酷い仕返しである。年を食った分、タチも悪くなっている気がしてならない。
英斗が困り果てているのを見た葵はケラケラと笑いながら歩いていってしまった。いくら人の気を知らないとはいえ、葵の口から聞きたくないのである。
家の方角はまったく曖昧すぎてよくわからないが、彼女のことだからそのうちもういらないと勝手に一人で帰り出してしまうだろう。自分は少なくともそこまではついて行くことにした。
だが、今の彼女にはそれを言ってもどうでも良いらしく、それより早く二つ目のアイスの袋を開けてくれとせがんだ。一瞬目を離した隙に、白い渦巻きアイスは跡形もなく消えていた。
「あとさ、訊こうと思ってたの。連絡先教えてくんない?」
少し驚いた。何でも知っていると豪語する彼女ならそんなことくらいとっくに把握しているのかと思っていた。
「だってそういうのはさすがに、プライバシーじゃん?」彼女の口からその単語が出てきたこと自体が意外だが、一応そういう観念は持っているらしい。
「良いけど、会社の携帯しか持ってないよ?」
「は?」
彼女の声が裏返っていて、何かまずい返事をしただろうかと狼狽えてしまう。「え、ご、ごめん、だって、あの、必要ないから……」
「固定は?」
「え、引いてないよ」
「……」
「だ、って、必要ない、から……」
「……」
葵は絶句してしまったが、本当に必要ないのである。今さら自分に連絡をしてこようという友人もなければ、家族もいない。自分からどこかへ連絡しなければならないということもない。あるのは仕事上の繋がりだけで、それならば会社からの貸与品だけで十分事足りるのである。
葵はアイスのパウチを噛みながら顰めっ面をして黙り込んでいる。パウチが気の毒で申し訳ない気持ちになってくる。
「あの……」別に悪いことは何もしていないと思うが、こういう時に何と言えば良いのか、自分には役立つ経験がない。
懸命に言葉を探していると、葵のほうが少しだけ早くその不機嫌そうな口を開いた。「今何時?」
「えっ?」慌てて腕時計を見る。「……もうすぐ八時だよ。五十二、三分くらい」
「ああ、じゃあ平気だ。一緒に来て」
「え、ど、どこに?」
「携帯屋」
「は?」
「大丈夫、一円あれば買えるから。何でも良いでしょ、使えれば」
展開が急すぎてついていけないが、それを拒否する権限が自分にないことだけは即座に理解した。
携帯ショップに連れて行かれ、帰りたそうに店先に立っていた店員を捕まえて長ったらしい契約手続きをさせ、気付いた時には真新しい二つ折りの携帯電話が自分の手の中に収まっていた。もちろん、葵の連絡先入りである。ひらがなで『あおい』と入れられてしまったから、おそらくこの先ここに誰を登録することがあっても一番上に彼女の名前が出てくることになるだろう。
そして、もう一件。
「……『Eight』って、何?」
葵は自身の連絡先の他に、その知らない名前の知らない番号を登録していた。この町の市外局番から始まる、固定電話——また何かの悪戯をしたのかと思って彼女の顔を見ると、意外にも、そこに表情はなかった。
その瞬間、すべてを察した。
あの店の名前は『Eight』というのか。
真顔でこちらを見つめていた葵がふっと息を吐き、相好を崩す。
「自分のタイミングで良いよ。でも、忠告はしたからね。もし私が必要なら、呼んでくれたら良いから」
彼女はそれだけ言うとくるりと背中を向けて、歩いていってしまった。
なんだか、全然、駄目な気がする。
たしかに大きくはなった。身長だって彼女を抜いて、手だって大きくなったし、たくさんの本を読んでいろいろな言葉も覚えた。アイスが食べたいと言われたら買ってやれるし、ねぎは相変わらず好きではないけれど食べられるようにはなったし、大盛りのラーメンだって完食できる。重たいものも持てるようになって、あの頃彼女が抱き上げていた自分のほうが、きっと今では彼女を軽々と抱き上げられるだろう。
でも、全然駄目だ。
彼女の隣に並ぶには、もっと、強い人でなければ駄目なんだ。
思い知らされる。そうだよ。葵の言うとおりだ。
どんなに大きくなっても、可愛い女の子の姿になっても、英斗は英斗なんだよ。それでやっぱり葵の魔法の手で頭を撫でられるのが好きなんだ。
何も変わっていない。葵はまだ、ずっと先にいる。
今の自分なんかでは、遠くにあるその背中を見つめるくらいが精一杯で、隣にすら並べない。
「ねェ、何してるの?」葵が立ち止まり、振り返っている。「近くまで送ってくれるんじゃなかったのー?」
そうやって呼んでくれるから、存在していられるだけで。
携帯を畳んでポケットに押し込み、小走りで彼女の左側まで寄る。早く自分の力で並んでいられるようになりたい。彼女がいつか立ち止まってくれなくなっても、自分でそこにいられるように。
当てもなく彷徨っているかのように思えた彼女の散歩にはきちんと終わりがあって、葵はやがて暗い住宅街の坂を上り、その先に建っている何の変哲もないありふれた外観のマンションに入っていった。
ここは、英斗の家である。
「葵、知ってたの?」
「まあね」エレベーターを呼びながら、鼻歌のように軽く返ってくる。葵のことを送っているつもりだったのに、いつの間にか送られていたのは自分のほうだったらしい。やはり彼女の前にはプライバシーなんて存在しないと思う。
「なんでよ、僕が近くまで送るって——」
英斗の話を聞いているのかいないのか、やってきたエレベーターにさっさと乗り込んだ葵は、迷うことなく3と8のボタンを点灯させた。
ふと、首を傾げる。
たしかに自分は八階に住んでいるが、なぜ、三階——?
「アイス、ごちそうさま」彼女はゆっくりとこちらに顔を向ける。そこには三日月の目が浮かんでいた。「近くまで送ってくれてありがとう。楽しかった。また会社でね」
——まさか。
三階で止まり、開いたエレベーターの扉から葵が降りようとして、咄嗟に腕を掴んで引き留めた。「待って、どういうこと⁉︎」
「どういうって……」葵はわざとらしく首を傾げる。「奥から二番目が私の家」
「はァ⁉︎」
「よろしくねェ、ご近所の桜庭クン」
「いやいやいや、待ってよ!」閉まろうとする扉を足で止めたら大きな音が立ったが、そんなことを気にしている場合ではない。
「ねェ静かにして? 近所迷惑。あと足癖悪すぎ、女の子はそんなことしない」
「誰のせいだよ! え、いつから? ずっと住んでたの?」
「そうだよ」余裕綽々、平然と肯定。「いや、英斗がここに引っ越してきたのは偶然だったんだよ? 最初に会社からいくつか候補出されなかった?」
混乱する頭で懸命に記憶を辿る。たしかに入社する時、空いているマンションだと選択肢を与えられてここを選んだのは自分だ。正直どこでも良くて、本当に適当に選んだのを覚えている。
「いッくら何でも新入社員の家まで決める権限ないわ。まァ同じ会社なんだし? 使ってる不動産屋も同じなんだから似たような物件になってもおかしかないよね」
「……」
「ああ、あとね、あんた自分は男の子って思ってるみたいだけど、その格好してたらどこからどう見ても女の子だから。人の心配する前に自分の身を守ることも考えないとダメだよ? そこら辺にいる大したことない男に食われたら、私ただじゃおかないからね?」
口をぱくぱくさせるのがやっとで何も言えない。冗談みたいな話だが、ペラペラと流暢に喋っている葵はおそらく全部大真面目だし本気だ。
「じゃあ、おやすみ」
彼女はそんな自分をエレベーターに残し、最後まで平然と挨拶をすると、廊下をつけつけと歩いていき、奥から二番目の部屋の鍵を回してドアを開けた。最後にこちらに笑顔と左手の袖を振って、家の中に消えた。
ふらふらとエレベーターの壁に凭れると、勝手に扉が閉まって八階に上昇していく。
「……ああ、ほんとに——……」
笑いがこみ上げてくるのを抑えられず、その場に蹲った。まったく、どこまで人を揶揄えば気が済むんだ。
——本当に、最高に性格の悪い女。
彼氏がいないのも結婚できないのも全部、その最悪な性格のせいだろうが。
頭がぼうっとする。ごく短時間で情報を多く入れすぎたのだ。感情は終始ジェットコースターみたいだったし、今日はもうほとほと疲れた。
それなのに笑いが止まらなくて、涙まで出てくる始末だ。
葵は英斗のことをちゃんと覚えていてくれた。葵は葵のままだった。それだけが、ただただ嬉しい。
十三年前のあの頃の続きみたいで。
葵が撫でてくれた左の側頭部がほんのりと温かいような気がする。
ああ、なんて楽しい夜だったろう。
きっと己の人生の中で、最も楽しい夜だった。
* * *
「——……へェ、そうかい」
それは一ヶ月ほど前のことである。
相も変わらずまったく興味などない、という風を装った素っ気ない相槌ではあるが、目の前の彼女にとってこの手の話が待ち侘びるほど恋しいものであるということを葵はよく知っている。もっとも、それを指摘してしまうと天邪鬼が悪化することも熟知しているから、葵はいつもマイペースに猛進するふりをして話を続けることにしている。
「だからね、近いうちに顔を合わせることになると思うの! どんな風に揶揄ってやろうかなって、ちょっと楽しみなんだァ」
カウンター席に座りながら、葵は向こう側にいるオレンジ色の店主に向かって笑みを向けた。裏の者として、感情をもすべて押し殺すことを生業とするようになってから既に十年以上が経過している。その技術については自信があると思っていたが、それがまったく効果を示さないほど自身がその日を心待ちにしているとは意外だった。
「あんまり虐めないでやっておくれよ」
「わかってるってば」
呆れたように鼻で笑いながら、湯気の立つコーヒーカップを差し出してそう言うところを見ると、やはりきちんと案じているではないかと思う。
当然だ。だって葵が心躍らせて考えている悪戯のターゲットは、彼女の何よりも大切な愛息なのだから。
「英斗、私のこと覚えてるかなァ……?」
それだけが不安だ。前に会ったのは彼がまだ十歳の時で、さよならも何も言わないまま姿を消してしまったのは葵のほうだ。それから十三年もの間、時折遠くから見守ってはいたが、一度も会ってはいない。
いくら英斗がしっかりしている子だったとはいえ、幼少期の頃の記憶なんて時間と共に簡単に消し飛んでしまう。それも関わりがあったのはほんの僅かな期間だけ——自分だけが楽しみにしていて、実際に声を掛けたら「アンタ誰?」なんてことも十分に考えられるし、覚えていてくれたところでこの左腕のこともある。覚悟しているつもりでも、拒絶されたらと思うとやはり足は震える。
自業自得だとわかってはいる。が、もし本当にそうなってしまったらきっとショックすぎてしばらく立ち直れない。
その様子を見た幸子がくすくすと笑っている。「珍しいねェ、アンタがそんなに不安そうな顔するの」
「だって……、——」
「忘れるわけないじゃないか。アタシと違ってあの子はしっかりしてるって、よく知ってるだろう?」
「……」
これからも可愛がってやってくれ、と幸子は微笑んだ。その顔を見る度に、葵の中に湧き立つ、とある感情がある。
——幸子さんは、会いたいと思わないの?
幸子がこの場所に店を構えてもうすぐ五年になる。ヒーローを辞めて以降、再び社会に出て働くこともなく、ずっと家に篭っていた彼女が突然あの会社の近くで売りに出ていた古いビルを買い、得意でもない酒や料理のスキルを伴う店を始めたのは、紛れもなく息子の身を案じて近くで見守りたいと考えたからだろう。金に困っているわけでもなく、客商売がしたかったわけでもない。別に客なんて一人も入らなくとも、彼女にとってはどうでも良いことなのだ。
会いに行けば良い。居所はわかっていて、行き方もわかっていて、何を躊躇う必要がある? 会わないほうがお互いのためと幸子は言うが、葵にはそれが未だに理解できない。
だってお互いに、会いたいはずなのに。本来なら自分なんかよりも先に、幸子が会うべきだ。
「……幸子さん。英斗ね、可愛くなったんだよ」
「可愛いのは当然だろう、アタシの子だよ?」相変わらず親馬鹿としか言いようがない台詞を何の躊躇いもなく口にするところは何年経とうと変わらない。「けど可愛い可愛いってねェ、あの子ももう良い大人なんだから……アンタにとっちゃ弟みたいなモンかもしれないが、いい加減その可愛いってのはどうなんだろうねェ?」
「幸子さんだって可愛いと思うでしょ?」
「それとこれとは別だよ」
どこが別なんだ。
呆れて溜め息が出てしまう。葵が今日ここへ来たのは、この目で見たとある真実を幸子に伝えるためであったが、いよいよその時が来たようだ。
「違うの、幸子さん、本当に可愛くなったの」訳がわからないという様子で眉間に皺を寄せる幸子に、葵はニンマリとして、それを告げる。「驚かないでってほうが無理だと思う。あの子、今女の子の姿をしているんだよ」
「……はァ?」
幸子は眼玉がこぼれ落ちそうなほど目をまん丸くして、あんぐりと口を開いたまま固まってしまった。思ったとおりの反応でとても嬉しい。
葵はふと目を閉じて、今日こっそりと見てきたばかりの英斗の姿を思い出す。きっと本人は盗み見られていることなんてこれっぽっちも気付いていなかっただろう。
「髪型は2号の時と似てるけど、前髪ができた。化粧も上手だよ、練習したのかな? センスあると思う。スーツはまァ普通のだけど、ちょっとだけヒールがあるパンプス履いてて……元々男の子にしては細かったし、可愛い顔だったからね。全然違和感ないし、あれはどう見ても若い女の子だね」
「冗談だろう?」
「本当だよ! 格好はまァ、アレだけど、幸子さんにそっくりでさァ、びっくりしちゃったわァ」
案の定、幸子は呆然と言葉を失っている。それはそうだ。いくら息子が可愛いとはいえ、これは本当に、意味がまるで違う。
「なんでまたそんな……」
想像していたとおりの顔で、想像していたとおりの反応を示してくれたのが嬉しくて、笑いが止まらない。「可愛いよ。見てみたくなった?」
しかし英斗は中身まで女の子になっているのではない。ただ好きな服を着る延長であの姿をしているだけで、それは幸子がオレンジ色の洋服やアクセサリーを好んで身に付けたり、この店の内装をオレンジ色にしているのと感覚は同じだろう。そしてその理由についても、葵には何となく察しがついている。
ただ、——。
「幸子さんにはわからないかもね」
大嫌いだという母親の後を追うように同じ会社に入り、同じ仕事に就いて、それだけでもどういう風の吹き回しかと驚いたというのに、ヒーローとして飛び回る合間を縫ってあの社屋の屋上へ足を運んでは、彼はいつも街を眺めていた。自身の母親が幾度となく見たであろうその景色を見に来ているのだろうと思った。しかし何度訪れ、日々変わりゆくその眺望を拝んでも、屋上を去るその瞬間に彼の表情が晴れていたことは一度たりともなかった。
そこで、何を見たかったのか。何を感じていたのか。
何を探していたのか。
もどかしくて仕方がなかった。探し物の手助けをしてやりたいが、こればかりは彼自身でしか見つけられない。葵にできるのはただ陰で見守っていることだけだ。
カウンターの上に肘をついて頭を掻いている幸子には、きっとまるで理解できない話だろう。だが、ずっと陰から見てきた葵には何となくわかってしまった。きっと、その表情が物語っていた。彼が表舞台から身を引いたのは、もう耐えられないと悟ったからだ。いくらその場所へやって来ても、欲しいものが手に入らなくて。
「まったく……アタシゃ娘を産んだ覚えはないよ。これ以上年寄りの心に負担を掛けないでもらいたいね」
どっちもどっちだろう、と言ってやりたい。英斗は自身が潰れる前に、内側に逃げる道を選んだ。大人になって、そういう判断は利くようになったのだろう。それにしても、まさかあの姿で現れるとは思わなんだ。
——まァ、あれが彼にとって、思いつく限りの最後の手段だったのかもしれないが。
葵にとっては何だって良い。それで英斗が英斗でなくなるわけではないし、ある意味あの子らしいとも思う。相変わらず『あおいおねえさん』のことが大好きな可愛い可愛い『弟』——そうであってくれたなら、それだけで十分だ。
「なァに言ってんの、まだ四十ちょっとでしょ? おばあちゃんにはまだ早すぎだよ」
「そうも言ってらんないよ! 最近、どうも急にガタが来始めたような気がするしねェ、いつ逝っちまったっておかしかないよ!」
一瞬、心臓が止まりそうになった。
何気ない一言ではあったが、冗談として受け取るにはあまりに現実味がありすぎて、躱しきれなかった。
「やめてよ、そんな……」そんな相槌では誤魔化そうとしたのが見え見えだ。しかしそれくらいしか咄嗟に言葉が出てこなかった。
「何かあるんだね」
案の定、幸子はそう返してきた。意外だったのは、彼女が既にその『何か』の正体を知っているかのような口ぶりだったことだ。
ハッとして、刹那、どう答えるべきか迷う。だが、彼女の表情を見た瞬間、それは無駄なことと悟った。
もう、気付いているのだ。
「……データが、ある」今の自分にでき得る限り、淡々と、平静であるように努めた。「大体みんな、六十くらいが、限界みたい」
「そうかい」
「証明されているわけじゃないんだよ」
「そりゃそうだろうね。そんなもの、証明なんかできやしないよ」
幸子は鼻で笑いながら即答した。瞬間的に悟ったのだろう。もしそれを証明してしまったら、ヒーローは存在できない。そうなれば誰も、世界を守ることなどできなくなる。
シールドは絶対ではない。形あるものはいつか壊れる。物も、そして、人も。
平和を手に入れたこの世界に、そのことに気付いている人間がどれほど存在するだろう? おそらく保身に駆られて目先の問題を除けることを優先し、ヒーローは排除される。その瞬間、世界は終末に向かうことになる。
「死ぬのが怖い?」
無意識に俯いていた。顔を上げると、幸子がこちらに微笑み掛けている。「アンタらしくないねェ」
「違うよ」葵は即座に頭を振った。自分のことなどどうでも良い。「……そうじゃ、なくて」
スカイ・ハークはたったの二年足らずだ。大した長さではない。
幸子に比べたら。
「良いさ。何となくねェ、変だとは思っていたんだよ。単なる老いとは何か違う気がして」
「……」
「いつから知っていた?」
「……3号だった頃から、おかしいとは思っていたよ。私も。でも、それが気のせいじゃなかったってわかったのは、最近」
以前から、会社のネットワーク関連のセキュリティが甘すぎると再三指摘をしていたのだが、機械に疎い上層部には相手にしてもらえなかったため、ならば自分で侵入して、オジ様方の大好きな報告書にしてやろうと思った時に、見たのだ。これまでヒーローとして従事し、世界のために戦ってきた人間のうち、殉職や事故、病気によるものを除いて、そのすべてが還暦を迎えることなく自然死している。
明らかに、おかしな数字だった。ヒーローという職種が生まれて約三十余年、まだその年齢に到達した人の数は少なく、たとえ証明しろと言われてもデータが少なすぎて立証は困難だろう。だが、それまで健康であったはずの人が、急速に老いて自然死するなどあり得るだろうか?
早い人は、四十代で逝ってしまう。
「まァ、普通じゃあり得ない力を使っていたんだ。それ相応の代償があってもおかしかない。みんなきちんと、平等ってことさ」
「……そうね」
「わかって良かった」幸子は一つ何かを吹っ切ったかのように頷き、葵のカップを下げると、まだ半分くらい入っていた中身を流しにこぼしてしまった。
「ショックじゃないの?」
「いんや。むしろハッキリして清々したね」首をゆらゆらと振りながら、頼んでもいないのに新しい珈琲を淹れ直してくれる。「老後のことを考えなくて良いってのは最高だね。呆ける前に死ねそうだし」
「物は言いようね……」
「けど、アンタね、——」再び湯気の立ち上るカップを目の前に置くと、幸子はじいっと葵の顔を見つめてきた。「そこまでわかっているんなら、昔みたいにやんちゃするんじゃないよ。討伐なんて物騒なことはないけど、黒衣になったからって、使い所はゼロじゃないんだろう?」
「まァ、それはね」
「英斗に会うんなら、それだけは約束して」
「……」
——ほら。ちゃんと、気にしてるくせに。
出してもらった珈琲を口に運ぶ。熱くて、苦い。幸子が葵の好みに合わせて用意している豆。
「アンタが早くに死んだら、あの子はきっと悲しむから。アタシ以上にね」
結局のところ、自分が、この親子を壊す要因の一つになっていることを、葵は未だに否定できずにいる。あの瞬間の自分の判断が誤っていたとは思わないし、後悔もない。もしああしなくとも、自分の死は確実だった。むしろ死なないほうが計算外だったのだ。だが、おそらくあそこで自分が左腕を失くしてこなければ幸子はそれからも8号だっただろうし、そうすれば英斗が自身を責めることもなかったはず——そんな思考の堂々巡りをもう幾度となく繰り返していて、その度に、ないはずの左手が痛む。
片腕が少し欠けた程度でもこれだけおかしくなっているのだから、本当に死んだらとんでもないことになるのは葵でも目に見えている。たしかにそうなるのなら、再会なんてしないほうが良い。
英斗のために。
でも——。
「……わかったよ」
会いたかったのだ。誰よりも、自分自身が。
不思議な話だ。実家を出てもう十年以上経つが、実の両親や弟には未だ会いたいなどとは一切思わないのに。それがなぜ、英斗には会いたいと思うのだろう?
どんな顔をしたら良い? 何と言葉を掛けようか? ——気付けばそんなことばかり考えていた。
そして、今日——。
「桜庭です。よろしくお願いします」
あの部屋が暗くて良かったと初めて思った。もし蛍光灯が点いていて姿が丸見えだったら高揚を隠し切ることはできなかっただろう。
率直に言って嬉しかったのだ。小さい頃の面影そのままに成長した弟はやっぱり可愛かった。不器用なところも、表に出ない驚きや戸惑いの感情も、全部が葵の知る英斗そのものだった。ずっと怖かったことも、不安だったことも、目の前で顔を見たらすべてどうでも良くなってしまった。もし『あおい』のことを覚えていなかったとしても、またはじめましてからスタートすれば良いとさえ思った。
大人になり、葵のいない約十年分の経験と言葉が蓄えられた英斗はますます生意気になってしまったし、あろうことか容姿は男の子ですらなくなっているけれど、どうあっても英斗は英斗だった。呼び方までそのままだ。いい加減、呼ぶ時に敬称くらい付けたらどうなんだ? 『葵さん』だろう、普通は。子どもの頃はそれも小生意気で可愛いと思って許していたが、あの顔で呼ばれるとなんだかむず痒いのである。
——反則だろう、あんなの。
自覚がないところが本当にむかつく。幸子に似ていると思ったが、近くで見るとそうでもない。両親の良いところが寄せ集まったのか? 子どもの頃にルックスが良いと途中で道を外れるなどというのは、英斗の前では単なる迷信にすぎない。
「……あぁあ……」
物音一つしない、仄暗い部屋。
平静を装って閉めた玄関のドアに背中を預けたまま、その場にしゃがみ込んだ。溜め息と共に膝の力が抜けてしまって、同時になぜか腹の底から沸々と笑いが込み上げてきて止まらなくなってしまった。
堪えようとすると、代わりに涙が出る。
——大丈夫だった? 自分は、ちゃんと普通にできていただろうか?
彼女はいないと言ったが、いつかそのうちあの携帯電話に『あおい』ではない誰かの番号が登録されたり、『あおい』ではない誰かの前で格好つけてねぎを全部食べたり、『あおい』ではない誰かにアイスを買ってやったりするのだろうか? そしていつの日か、「葵、僕の彼女を紹介するね」とか「葵、僕結婚することにしたんだ」とか報告に来たりするのだろうか?
そうなったら良いと思う反面、面白くないと思う自分もいる。
なぜだろう? 英斗には幸せであってほしいし、いつでも笑っていてほしい。でも「ごめんねェ、先に嫁いじゃって」とか言ってきたら本気で殴ってしまいそうだ。
——馬鹿だなァ。自分。
良かったね、と言いながらいつもどおりに揶揄って、枯れたら慰め、実れば心から祝福してやるのが、自分に課せられた『姉』としての役目だろうに。
「参ったねェ……」
未だに『弟離れ』できていないのは、どうやら自分のほうらしい。
* * *
その日、幸子はいつものように、行きつけとなっている近所のスーパーへ買い出しに出掛けた。少し前に降り出した雨のせいか、季節の割にやや肌寒いと感じる陽気だった。
品物を入れたビニール袋を片手に提げて、自動ドアの前で何の気無しに傘を広げようとした時、ふとその脇に若い女の子がしゃがみ込んでいるのに気付いた。雨粒を落とし続ける空を悲壮な表情で見上げる彼女の周りは、彼女自身の体から滴ったのであろう雨水が溜まって地面が変色している。
「どうしたの?」
声を掛けてしまったのはほぼ無意識だった。行き交う人は皆、怪訝な顔で彼女の横を通り過ぎていくばかりだというのに。
女の子のほうもびっくりしたのか、体を震わせて幸子を見た。その時、初対面ではないことに気付いた。
「真理子ちゃんじゃない?」
少し前、職場の先輩らに連れられて店に来た。彼女は、駆け出しのヒーローだ。
彼女のほうもそれに気付いたのか、一瞬あって、あッ、と声を上げた。どんぐりのようなくりくりの目がさらに丸くなっている。
「あ、あの時は、ごめんなさい! ご迷惑、掛けちゃって……」すぐに立ち上がった彼女は小さな体をさらに小さくして頭を下げてきた。以前店に来た時、酒がめっぽう弱かった彼女は、一緒に来た先輩から奢られた一杯目を飲み切る前にへべれけになってしまったのである。
「よしなよしな! 何してんの、こんなところで、びしょびしょじゃないの」
思わず首に掛けていた長細いタオルを彼女に渡した。あまり綺麗ではなく申し訳ないが、受け取った彼女はまったく気にしていない素振りで体を拭いている。
「すみません、ありがとうございます……」
「傘は? ないの?」
「あ、はい、いえ、あ、大丈夫です、その……」口籠り、彼女はバツが悪そうに下を向いてしまった。
変身していないから仕事中というわけではなさそうだが、しきりに「大丈夫です」を繰り返す。見たところ傘は持っておらず、全身ずぶ濡れの状態で、幸子にはどうしたって大丈夫には見えないのだが。
「何かあったの?」
「いやァ……」
「じゃあとりあえず、店にいらっしゃい」どのみちこれから戻って開けるのだ。混む店でもないし、フライングが一人いたところで何も変わりはない。さほど遠くないから二人で傘に入っていっても問題はないだろう。「それじゃ風邪ひくでしょ。店でご飯でも食べな。お腹空いてんの?」
「えっと……」
真理子ははじめのうちこそ渋っていたが、どういう理由か、困っていたのは事実のようで、最終的に幸子の持っていたビニール袋を持って一緒について来ることとなった。
店に着き、新しいタオルと、間に合わせに幸子の服を貸してやって着替えさせたが、その間も真理子は恐縮しきりだった。買い出しへ出掛ける前に仕掛けていった炊飯器がちょうど完了の音楽を奏でており、場の空気を入れ換える目的で一緒におにぎりを握ることを提案してみた。
「作ったことないんです」
どうやら彼女のお祖母さんが握ったものを食べるのが専門だったらしい。おにぎりなんて作り方も何もないのだが、適当に丸めるだけだと教えてやると、真理子は炊き立ての白飯を両手いっぱいに貼り付けながら楽しそうに握っていた。
自家製の梅干しを入れていくつか丸めたそれをカウンターで食べていた真理子は、酸っぱいというクレームを言いつつも目を爛々とさせて、あっという間にすべて平らげてしまった。
「ほら見な、腹ペコだったんじゃないか」
「うう……す、すいません……」食べ終えた真理子はカウンターの椅子に座ったまま再び小さくなって肩を落とした。小柄な見た目に反し、食欲は旺盛らしい。「本当に、ご迷惑掛けっぱなしで……」
「良いんだよ。これくらいしかしてやれなくて悪いね」
本当はもう少し気の利いたものを出してやれたら良かったのだが、生憎、料理は得意とは言えない。手軽に作れてマシなものとなると、今の幸子にはおにぎりくらいしか思い浮かばなかったのである。
——あの子も、梅干しのおにぎりだけはよく食べてくれたっけ。
考えてみれば、英斗がどんな顔をして食べていたのか、思い出せない。もしかしたら、見たことがないのかもしれない。真理子のように、酸っぱいとか、美味しいとか、そんなことを言っていたのだろうか?
「まさか、覚えていてくださるなんて」
「当たり前だろう」自分と同じ『8号』を背負っている。それも、あの8号に憧れてここまで走ってきた——そんな衝撃的な話を聞いておきながら、忘れるほうが無理がある。
「ここ、ご飯もあったんですね。あたし、てっきり飲み屋さんだとばっかり……」
「まァ、飲み屋は飲み屋だよ。ただ……うちはいつでも炊くことにしているのさ。もしかしたら、必要な人が来るしれないからねェ」
今日のアンタみたいに、と付け加えたのは誤魔化しのためだ。これはここに店を構えてからの、もはや習慣である。「で? 何たってあんなとこで座ってた? 何かあったの?」
たらふく食べるだけ食べたのだ。訳を話してもらわなくては割に合わない。
「え、えっと……——」しばらく待っていると、やっとのことで、真理子はおずおずと口を開いた。「実は、鍵を、失くしちゃって……」
「鍵? 家の?」
真理子はこくんと首を振り、漸くスーパーの前にしゃがんでいた理由を白状した。探していたら途中で雨が降ってきてしまい、仕方なくあの場所に避難していたのだそうだ。
「何だ、どこ住んでるの? アパートか何かだろう? 管理人に連絡した?」
「えと、はい、でも繋がらなくて……」
店の電話を貸して再度連絡させてみたが、やはり繋がらなかった。「ありがとうございます。朝になったら自分で何とかするので、本当に大丈夫です」
「朝になったらってアンタねェ、それまでどうするつもり? 会社の仮眠室なんかオッサンどもが占領してて使えないだろう」
「ま、まァ……すごいですね! バーのママって、そんなことまでわかっちゃうんだァ」
——ぎくり。
「そ……そりゃあね。アタシを誰だと思ってんの」
つい昔の感覚が顔を出してきて無意識に喋ってしまったが、真理子には自身もまたヒーローであったことは言わないと決めている。
言えるわけがない。
悟られたくもないから、できればもう会いたくもないと思っていた。それなのに自分から拾ってきてしまうなんて、何とお粗末な話であろう。
正直、真理子の話を聞いた時は嬉しかった。もう十年以上前、一世を風靡した8号、ハッピー・シャイニーに最後に向けられていた世間の目は、決して良いものではなかった。引退し、会社を辞めても、それは長いこと尾を引いていた。『シャイニー』にはとても申し訳ないことをしたと、幸子は今でも思っている。
それが、こんなにも好きでいてくれる人が、まだこの世界にいたなんて。
ありがとう、と言いたかった。しかしその言葉は決して口に出してはならないと思った。真理子の口から語られ、熱烈な視線を浴びるハッピー・シャイニーは、あくまでも『伝説の8号』——長い時の中で、その存在は現実とは程遠く、かなり美化されたものに成り果てていた。その正体がこの自分であるなど、言えるはずがない。
夢は美しいまま、夢のままであったほうが良い。だから、言わない。これから先も、絶対に。
「寝心地は保証できないけど、今日はそこに泊まっていきな」
「えッ⁉︎ で、でも——」
「ごちゃごちゃ言うんじゃないよ! もし気にするなら店の掃除でもしておくれよ、最近腰が痛くてね」
相変わらず恐縮している真理子に、幸子はそう言い捨てた。この年になるまでおにぎりすら握ったことがなく、見るからに何もできなそうな顔をしていると思っていたが、祖父母に育てられたという真理子は掃除なら小さい頃からよくやっていて得意だと張り切って、本当に店中を綺麗にしてくれた。
そして、楽しそうに掃除をして回る彼女の姿を見ていて、なぜだかわからないが続けてこうも言ってしまったのだ。
「酒が飲めないならまた夕飯でも食べにくれば」——と。
【ヒーローずかん】※抜粋
◆ガーネット・スターリー(2号)
〜数多連なる星より落つる
灯すは銀河一等の煌めき〜
つきあかりのない よるも
スターリーがきらめけば こわくないね
☆いろ きいろ
☆ねんれい 28さい
☆おおきさ 185cm
☆おもさ 75kg
☆とくぎ サッカーとか
☆すきなたべもの ハンバーグ、からあげ
☆きらいなたべもの やさい




