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第八話 月と太陽(3)地平線を追う日

 とりあえず、勉強した。本も読んだ。それが一番気が紛れたし、決して裏切ることなく何よりも堅く己を守ってくれる気がしたのと、それ以外に自分をどこか別の場所へ連れて行ってくれるものが思い当たらなかった。学校の狭い図書室では飽き足らず、地域の大きな図書館に入り浸った。それが自分なりのグレ方だったのだろう。人を殴ったり物を壊したり、自分以外の何かに感情をぶつける行為はどうにも嫌悪感があって、やはりどう転んでも、自分の中にはヒーローの血が流れているのだということを思い知らされ、やはりそれにも、腹が立った。

 ただ、年齢的にそうではない人種というのは周囲に掃いて捨てるほどいた。英斗のように一人自分の世界に入っているのを傍から見ていて、どういうわけかちょっかいを出したがる輩が。鬱陶しい。そういう(はえ)みたいな奴らから身を守るために、大人を上手く利用する方法を覚えた。同時に、万が一喧嘩になっても自分一人でどうにかできるくらいには鍛えた。以前、中途半端にやると碌な結果にならないということは十分学んだので、今度は徹底的にやった。それこそ相手が、桜庭英斗にやられたのだと口を割ることすら憚るほどに。自分のことも他人のことも、本当にすべてがどうでも良いと思っていたから何の躊躇もなく理性という最後の留金を外すことができて、それはそれは気分が良かった。その甲斐あって、そういった煩わしい蠅が静かにしてくれるようになるまで、さほど時間はかからなかった。

 ところが、それからまたしばらく経つと、今度は別方面が騒がしくなった。女の子が寄ってくるようになったのである。

「私、桜庭くんのことが好きで……」

 それ、どういう意味?

 話をしたこともないのに、キミは、一体『桜庭英斗(ぼく)』の何を知っていると言うんだい?

 同じ台詞を同じ顔色をした女の子に言われる度にそう思った。はじめのうちは、好きだから何なのだろうと思って相槌を打っていただけだったが、段々と、途中で止まってしまうその台詞の先に隠れた本意や欲求を理解してきた。

 だから、ある時、それに応えたらどうなるのだろうという興味が湧いて、応えてみることにした。

 いい加減、意向に添えないと伝えて泣かれるそのシチュエーションにも飽き飽きしていた。だから試しに言われること、誘われることをすべて受け入れ、相手の欲しそうな『答え』を先回りして用意しておき、それを引っ提げて、ニコニコしながら隣を歩いてみることにしたのだ。

 経験は、何事にも代えられぬ学びである。皆、それはそれは良い顔をした。嬉しそうに、楽しそうに、笑う。いつも他人を殴って黙らせているだけだったこの手を愛おしそうに握って、予め用意しておいた台詞を吐くだけのこの口に接吻をして。

 ——ああ、なんて、退屈。

 どんな女の子もキラキラしていた。『弾ける笑顔』とはああいうのを言うのだろうと思った。自分にとっては取るに足らないほんの些細なことで一喜一憂できる、その無知な頭が羨ましかったし、自分にとってはただの教材(あそび)に過ぎないのに、未来永劫、この時間がずっと続くなんて夢を抱ける単純な思考回路しかない彼女たちがあまりに気の毒で、おかげでずっと笑っていられた。

「英斗くんは優しいね」

 付き合う、という関係になることを希望した女の子が、必ず一度は口にしたのがこの言葉——正直、自分には理解できなかった。

「そうかな? ありがとう」

 だからいつもそういう回答しかできなかった。でも、何度も、何人にもそれを言われ、徐々にどういうことなのかがわかってきた。至極、単純明快なことだった。『誘われることをすべて受け入れ、相手の欲しそうな答えを先回りして用意しておき、ニコニコしながら隣を歩いて』いたから、優しかったのである。

 だからと言って、優しさというのが特別なハイスペックなのかというと、そうではないらしい。自分の思うとおりに動かなかったら、欲しい答えをもらえなかったら、ちょっとしたことでも皆「なんで⁉︎」と泣き喚いて、怒り出すのだから。要するに、欲しいのは『桜庭英斗』そのものなのではなくて、『私の期待する桜庭英斗』ということだ。彼女たちの言う「優しい」は、己にとって都合が良いということとイコールである。

 教材(あそび)は日々そういうことを自分に教えてくれ、その度に面倒臭さは増して、もういい加減にこんな暇つぶしはお開きにしようかと考え始めた頃、英斗は自分自身にとって決定的な気付きを得る機会に巡り合うこととなる。

 それは一つ年上の先輩と遊んでいた時。

 今日はいつもより少し大人な遊びをしようと言って、その先輩は英斗が着ていた制服を脱がせて、自身も裸になった。女の人の全裸なんて初めて見た。母のでさえも見た記憶がない。その人は別に太っているわけではなかったのに、なんだかいろいろと丸いのだなと思った。美術の授業で見た石膏の像に比べたら不恰好ではあったが、見るからに柔らかそうで、たぶんこの人は今まで幸福に包まれて生きて来たのだろうなと、何となく思った。

 相手のことが好きかどうか、興味があるか否かにかかわらず、体は年相応に反応するもので、でも不思議と頭の中はとても冷静だった。唇を重ねて、肌を重ねて、その中で明確に感じたことがある。


 ——コレじゃない。


 違う、と思った。

 何が違うのかわからなくて、事の最中も終えてからも、そのひんやりとしたままの頭でずっと考えていた。そして帰り道、ふと浮かんだそれに、思わず足が止まる。


 ——ああ、なんだ。そういうことか……。


 その答えは呆気ないほどすっぽりと、何の抵抗もなく自分の中に収まった。気付いてしまえばとても単純で、簡単なことだったのだ。

 思えばずっと前から、自分はその違和を感じていた。英斗のことが好きだと言う女の子たちと洒落た喫茶店でケーキを食べるより、葵と食べたちんけな店のラーメンのほうがよっぽど美味しかった。葵と話す時にはじめから答えを用意していたことなんてない。勉強を教わって、学校やヒーローの話をしている時間は、今女の子と話しているより何倍も楽しかった。葵が頭を撫でてくれて、抱き締めてくれるほうがよっぽど安心したし、葵はいつだって、良い匂いがした。

「……」

 違って、当然じゃないか。だって葵じゃないんだから。

 もう、何年会っていないのだろう?

 あの日、熱に当てられたぼんやりとした頭で、最後に見た葵の顔が脳裏を(よぎ)った。

 ——「帰ってきたら、ラーメン行こう」

 あの時彼女と絡めた左の小指の感触が蘇る。あの後一人で決戦に臨んだ彼女はヒーローを引退して、今はメディアでもその姿を拝むことはできない。

 全部、自分のせい。

 会いたいなどと願う資格は、自分にはない。

 それでも、自分は——。

「僕は、葵が好きだったんだ」

 申し訳なくて、悔しくて、涙が止まらなかった。でもそれは過去の自分自身が積み重ねてしまった、結果で。

 ありがとうも伝えていない。謝ることもできていない。きっと葵は怒っているだろう。恨まれていても、当然だ。そもそも、もう英斗のことなんて記憶にすらないかもしれない。

 ——それで良い。

 英斗という存在は葵にとって嫌な記憶にしかならない。怖かった、痛かった、悲しかった——そんなものを思い出させるくらいなら、消してもらったほうがよほど良い。

 自分が今苦しいのは、罰だから。


 ——でも、神様。

 もしいるのなら、どうかお願いします。僕は良い。けど、葵が辛い思いをするのは、どうかやめてください。

 葵は何も悪くない。悪いのは全部僕だから、葵を苦しめないで。

 世界のどこかで、彼女が幸せであってくれるのなら、それで良い。

 それだけで、良いから——。


 付き合いをやめた。自分にとってメリットがないと思う人間関係は構築しないことにして、それまで遊んでいた女の子からも離れ、また静かな一人の時間を取り戻した。

 残りの中学時代をそうして過ごし、高校に上がる時、家を出た。

 本を読み、勉強ばかりしていたから学校の成績は良くて、中学三年の進路を決める段階になっても進学先には事欠かなかったし、教員らはレベルの高い学校をいくつも薦めてきた。

 幼い頃から、自分が将来どこへ向かうのかは何となくわかっていたような気がする。その他の選択肢なんて考えたこともなかったし、漠然としてはいたものの、この状況になって自分はそこへ行かなければならないという気持ちはますます強くなっていた。だから頭の中にあったのは、そこへ行くにはどうしたら良いか、ということだけだった。

 母は、金には困っていないから気にせず好きにして良いのだというような趣旨のことを、不器用な言葉を並べてしきりに言っていた。だから、寮があり、成績の良し悪しで学費が免除になる制度が存在する学校に入れてもらった。高校までは何としても卒業しなければ、その先、自分が行きたい場所には行けないとわかっていたし、申し訳ないが、自分はまだ子どもで、結局のところ親に援助してもらうしか大人になる方法がないということも、英斗は理解していた。

 欲しいものを手に入れ、且つこれ以上、母の人生の邪魔にならないようにするには、偏差値やネームバリューなんかより、それが最も重要なことだった。家を出ていく時も母は何も言わなかったから、きっと、これで正解だったのだろう。

 これで良い。これで、良いのだ。

 玄関を出る時も、いつも歩いていた坂道を下る時も、振り返らなかった。

 電車に乗ろうとして鞄を漁った時、入れた覚えのない風呂敷が収まっていることに気付いた。中には見慣れた銀色の包みの丸いものがいくつも入っていた。

 なぜこんなに鞄が重いのかと思っていたその理由が、漸くわかった。

 ——……馬鹿じゃねえの。

 頼んでもいないのに、持たせるにも限度がある。一人でこんなに食べ切れるわけがない。それに、たぶん梅干しも入れすぎている。アルミホイルを広げなくてもわかる。

 可笑しかった。やっぱり何にもわかっていない。

 たしかにおにぎりは食べるが、それは母の作る他のものが控えめに言って不味いから、唯一まともだったおにぎりをよく食べていただけで——。

「……」

 振り返りたくなるようなことをしないでほしい。

 嫌いなんだよ。嫌い。自分は、あの人のことが嫌い。こんなのどうせ気紛れだ。どうせ、また、だから——。

 溢れてしまいそうな涙を飲み込む代わりに、心に決めた。自分は必ず、あの場所へ行く。拝んでやりたい。母が、自分の子よりも愛してやまなかった世界を、この目で。

 ——知りたい。


 ヒーローって、一体、何なんだ?


* * *


「大変優秀ですよ。学力も申し分ない」

 英斗が中学に通っていた三年間、担任教師との面談で学校へ行く度に言われ続けた台詞——たしかに、そう言って担任が見せてくれるテストなどの成績はいつだってほぼ満点で、学年では常にトップ争いをしているとのことだった。少々物静かではあるが、クラスメイトをはじめとする他の生徒とも特に問題なく過ごしているという。髪が長いことが唯一の校則違反だったが、「ヘアドネーションをしたくて伸ばしている」と本人が言ったらしく、担任は逆に感心して、応援すらしていた。いつ誰に訊いても「優秀だ」という評価は変わらず、その口から語られるのは幸子がまるで知らない英斗の姿ばかりであった。

「家ではほとんど、話をしないものですから……」

 ほとんど、ではない。会話と言える会話をしたのがいつだったか思い出すのも苦労するくらいに、ここ数年、まったく家では言葉を交わしていなかった。

 しかしだからと言ってどこかで問題を起こしてくるわけでもない。夕食の頃になるとふらりと帰ってきて一緒に食卓にはついてくれるし、きちんと家で寝起きしている。「これくらいの子にはよくあることですよ」と、教員らが口を揃え、取り合わないのも無理はなかった。むしろ一緒に食事をしてくれるなんて良いほうだ、と言われたこともある。

 自分から、もっと歩み寄れば良かったのかもしれない。だって話し掛けたり質問したりすれば、英斗は返事をする。決して存在を無視されているわけではないのだ。ただ英斗の前に分厚い雨戸のようなものがあって、ずっとそれが閉まったままなのが見えるから、近寄れない。雨戸を叩き、声を掛ける勇気が幸子にはなかった。その向こうで、英斗が本当はどんな顔をしていて、何をしてほしくて、どんな言葉を掛けてやったら良いのか、まったくわからなかったから。

 ——きっと、葵ならわかるのだろう。

 あの日——左腕切断の重傷から退院してきた葵にヒーローを辞めることを告げた日から、彼女には一度も会っていない。

 最後に会った時、会社に残ることにしたと言っていたから、変わりないのならばまだ葵はあそこにいるだろう。会いに行こうと思えばいつだって行ける。しかし、彼女にもう一度会う勇気もなかった。一体、どんな顔をして会えば良いのか。葵はきっとこうなることもわかっていて、散々止められたのにそれを聞かなかったのは自分だ。

 知らないこと、ばかりだった。

 ヒーローを辞めてすぐに、本当に自分にはヒーローしかなかったのだと思い知らされた。他の世の中のことなんて何も知らないし、何もない。近所付き合いも、保護者同士の付き合いも、したことがない。今さらどうやってその輪に入れば良いのかもわからない。ヒーローだった頃は何の躊躇いもなく他人と交流できたのに、幸子に戻ったら、まるでできない。

 それどころか、幸子がヒーロー——ハッピー・シャイニーであったことが、一般人との関係構築の弊害にすらなっていた。ヒーローは顔を隠さないから、変身していなくても、幸子がハッピー・シャイニーだと気付く人間も多い。話したこともないのに「調子に乗っていてむかつく」と陰口を叩かれたり、挨拶をされても無視されるなんてことは日常茶飯事だったし、酷いケースになると、決戦の時になぜ出てこなかったのかと道でいきなり罵声を浴びせてくる者もいた。それが怖くて、ほとぼりが冷めるまで外に出るのを控えていた時期もあるくらいだ。

 しかし決戦後、まもなくしてシールドが完成し、世界にモンスターというものが現れなくなった。これまでのようにヒーローが戦いに出て負傷したり、命を落としたりすることもない。人々が怯えて暮らさなければならない世の中は、とうとう終わりを告げたのである。

 急速に、世界は平和に変わっていった。それと共にヒーローのことも——ハッピー・シャイニーのことも騒がれることはなくなり、いつしか現実は逸話となり、歴史となり、伝説となっていった。それが寂しくなかったかと言えば嘘になる。ヒーローのことを小耳に挟む度に、そこへの未練が再燃しそうになるのを感じたし、騒がれなくなるほど自分がそこからどんどん遠ざかっている気がした。だからこそ、見ないようにした。テレビも、新聞も極力触れないようにして、自分の中に封印することに躍起になった。

 それでも街を行けば、日に日に世界が穏やかになっていくのを肌で感じた。それは素直に良かったと思えたのだ。モンスターのこと、ヒーローたちのこと、最強と言われた8号のこと——すべてが世界の誰からも忘れられても、もし自分のこれまでの行ないがそれをもたらすのに少しでも役に立ったのなら、それはそれで良い。悪と戦うヒーローなんてものは空想の中だけで十分だ。ヒーローなんて、本当はいないほうが良い。

 ただ、もう、世界の中に自分の存在して良い場所はない。

 何者でもない。何者にもなれない。

 望んだのは自分だ。でも、わからなくなってしまった。本当にこれで良かったのか? これが、自分の望んだ姿だったのだろうか?

 自分は一体、何がしたかったのだろう?

 何か、別の勤めに出ることも考えたことがある。だが、英斗と一緒にいたくてヒーローを辞めたのに、それは何かが違うような気がした。それなのに、その英斗とすら関係を築けず、言葉の一つすら交わせない。昔よりずっと近くに——すぐ、目の前にいるのに。

 玄関のほうで物音がする。ふと時計を見上げると、いつの間にか十九時になろうとしていた。

 廊下に顔を出すと、帰ってきた英斗が靴を脱いで、自室に入るところだった。

「……、おかえり。もう、ご飯食べる?」

 英斗は一瞬だけ立ち止まり、うん、とだけ頷いて部屋に入ってしまった。

 期待していた。ヒーローを辞めれば、これからはずっと母として傍にいられる。そうなれば、きっと英斗は喜んでくれるのだろうと。だが、あの日の英斗の反応は自分の想像していたものとはまるで違った。あの日から、完全に迷子になってしまったのだ。

 本当は、聞きたい。学校の話、友人の話、食事の感想——何でも良い。しかしもし話し掛けて、聞いて、自分の言葉でこれ以上英斗を傷つけるようなことになったら? 関係を悪化させるようなことになったら? ——そう思うと、怖くて言葉が出てこない。

 今ならまだ、英斗はきちんと毎日家に帰ってきてくれる。自分と一緒に食事をしてくれる。何の会話もなければ、美味しいとも不味いとも言わない。それでも、その時間があるということだけが、幸子にとっては救いだった。

 もし、ヒーローを辞めたりしなければ——心のどこかに響くその声を止めてくれる、最後の砦。もしそれが自分の一言で壊れてしまったら、きっと自分はその後悔に勝てない。

 だから、これで良い。

 高校への進学を考える時になって、英斗は寮のある学校へ行かせてほしいと言った。成績も良く、レベルの高い学校も狙えるのに勿体ないと教員らは残念がっていたが、英斗の希望は変わらなかった。

「アンタは何にも、気にしなくて良いんだよ?」

 母親が働いていないから、経済的なことを気にしたのかとも考えた。だが、そうではないらしい。理由を考えたが、わかるはずがなかった。ただ、たしかにこんな母親とここで暮らしていても息が詰まるだけだろうと思うと、やはりそれ以上は何も言えず、結局本人の希望したとおり、中学を卒業してすぐに家を出ることになった。

 正直なところ、思うことはあった。英斗は昔からしっかりしているし、自分のことは何だってこなせる。しかしどんなに大丈夫だと自分に言い聞かせても、まだ十六にもならない子を見送るのは不安のほうが大きかった。

 それでも。

「行ってらっしゃい」

 そう、言うのが精一杯だった。いつも学校へ行くのと同じように、玄関で靴を履く英斗の背中に向かって。

 何か言葉を掛けてもやりたいがわからず、何か持たせてもやりたいが何が欲しいのかもわからない。それでもせめてと思い、おにぎりと多少の小遣いだけは黙って鞄に詰めておいた。食の好みも知らないが、梅干しのおにぎりだけは昔からよく食べてくれるから、おそらく好きなのだろうと思った。気に入らないのならば、捨てて構わない。

「……じゃあ」

 いつもどおりに出ていった。振り返らなかった。

 ドアが閉まってすぐに、ハッとして、慌ててドアを開けたがそこにはもう姿はなく、外が見える窓辺に駆け寄った。前の坂道を下る、後ろ姿が見えた。

 立ち止まることも、振り返ることもない。

 その足取りがたしかであることは遠くからでも見て取れた。その瞬間、ふと思い出す。先ほど玄関に立っていた英斗が、とっくに幸子の背丈に追いついていたことを。

 ——いつの間に、そんなに大きくなっていたんだろう?

「……ごめんね」

 すぐ近くにいても、同じだった。

 自分は何も見ていなかった。傷つけたくないからと目を背け、顔を背け、見ようとしていなかった。

 傷つけたくなかったのは英斗ではない。

 自分自身じゃないか。

 ——ここにいよう。

 いつか、もしかしたら、あの子はここに帰ってくるかもしれない。その時まで、ここにいよう。

 たった一人でも。




 それから三年の月日が流れた、春のはじまり。

 家を出たきりたった一度の音沙汰もなく、そろそろ高校を卒業する頃であろう英斗が、突然に家に帰ってきた。配達業者くらいしか鳴らさないインターホンが妙な時間に鳴って、出てみると、玄関に立っていたのである。

「……どうしたの」

 おかえり、と言ってやるべきだったと、一つ遅れて気付いた。英斗の帰宅はそれくらいに突然で、幸子をひどく動揺させた。毎日忘れたことなどない、あの日からずっと待ち望んでいたはずの、息子なのに。

 また少し背が伸びていた。少し痩せたのだろうか、丸かった幼い顔がほんの僅かに大人びた気がするが、三年もの間会っていなかったとは思えぬほどその姿は変わっていない。

「……、とりあえず、上がったら」

 促しても英斗は玄関から動こうとはせず、ドアは閉めたが靴すら脱ごうとしない。高校の制服を着ているのを初めて見た。また少し背が伸びたような気がする。

「一応、報告に来ただけだから」彼の視線は斜め下の床に落ちたまま、抑揚のない口調で話す。声も少し低くなったかもしれない。

「報告?」

「高校は、ちゃんと卒業できるから」

「……そう。良かった」

「ありがとうございました」と、英斗は仰々しく頭を下げてきた。

「よしな、何言ってんだよ。それくらい、当たり前だろう」狼狽えてしまう。まさかこんな形で余所余所しく、改まって礼を言われるとは思ってもみなかった。「それで? 大学はどうする? やりたいことでも見つかったかい?」

 高校でのことは何も聞かされてはいないが、英斗のことだ。おそらく勉学に関しては特に問題なく、最低でも平均よりは良かったのではないかと予想した。だとするなら中学の時のように教員らは進学を薦めているかもしれないし、英斗自身が何かをより詳しく学びたいと考えていても何ら不思議ではない。

 もちろん、そう言われたなら協力は惜しまないつもりだった。だが、英斗はゆっくりと頭を上げ、今度はしっかりと幸子の目を見据えた。

「大学には行かないよ」

「え?」

「働くから、もう援助は必要ない。今日はそれを伝えに来たんだ」

 淡々と話すその顔に表情というものはない。

「ああ……そうかい」その道を選んだ理由として、瞬間的に様々な可能性が頭を(よぎ)ったが、問い詰めることなどできるはずもない。「まァ、それならそれで良いじゃないか。自分で決めたことなら——」

「あの会社に入ることにしたから」

 だが、これだけは、まったく想像の外であった。


 ——『あの会社』?


「あの会社って……、まさか、——」

「そうだよ」

 英斗は視線を逸らさず、はっきりと頷いた。相変わらずそこに表情はないが、幸子と再び重なったその視線は一切ぶれなかった。

 ——間違いない。

 この子はヒーローになろうとしている。でも、一体、なぜ——?

 わかっているのだろうか? ヒーローというのは幸子がやっていた仕事——英斗の嫌いな母親と、同じになるということだ。

 高校は卒業できる。就職先も決まった——それは、めでたいことだ。喜ばしいことだ。しかし理解できない。

 なぜ?

 その理由が思い浮かばない。ヒーローなんて嫌いだったのではないのか? それこそ、その単語一つ聞くことも憚られるくらいに。

 ——どうしよう?

 応援、できない。

 英斗がヒーローになる? 大丈夫なのか? だって、ヒーローは——

「それだけだから。じゃあ」

「待ちな!」

 くるりと背を向けるのを思わず強い口調で引き止めてしまった。

 英斗は、優しすぎる。昔からそうだった。もしその性格が今も変わっていないのだとしたら? そんな子がヒーローになんかなったら?

 この子は知らない。優しいだけでは、ヒーローにはなれない。

 ヒーローの仕事は、傷つくことだ。体も、心も。それがヒーローの現実だ。そんなところに、こんなに優しい子が行ったら?

 そんな場所にこの子を行かせるのか?

 あの会社に入ったからといって、必ず希望した全員がヒーローになれるわけではない。訓練や試験、適正審査で振り落とされる可能性は大いにある。それでも、きっとこの子はヒーローになる——なってしまう。

 自分にはわかる。

 この子は、ヒーローの子——史上最強と謳われた8号、ハッピー・シャイニーの子だから。

 今は世界に安寧が流れているとはいえ、いつまた以前のような戦乱の世が再来するやも知れない。そうなれば、ヒーローは否応なしに本来の役割に戻される。

 あの戦場に、この子を行かせるのか?

 これまで奥底に封じ込めていた記憶が、頭の中に一気に押し寄せてくる。崩落していく街に響く銃声と轟音、誰かの悲鳴や怒号、舞い上がる土埃の臭い——仲間が死んだ時の、痛み。

 すべてが、今もあの場所に立っているかのように、鮮やかだ。


 ——「大丈夫よ。私を誰だと思っているの?」


 葵のように腕や脚を失ったら?

 屍となって帰ってきたら?

「……おまえに、ヒーローが務まるのか?」

 傷つくのはわかりきっている。この子はきっと誰よりも傷つくだろう。

 英斗はゆっくりとこちらを向いた。その顔は、笑っていた。

 幼い少年のようなあどけない笑顔は、昔から一つも変わっていなかった。だがそれを見た時、自分はまた、何かを間違えたのだと一瞬で悟った。

「英斗、——」

 言い掛けた何かは、彼の無言によって制された。

 笑っていたんじゃない。英斗がやっとのことで吐き出した息は、震えていた。

「やっぱり、アンタに報告しに来た僕が馬鹿だったよ」

 そう言い残して、彼は玄関を出て行った。

 追えなかった。

 違う。自分は、ただ、心配だっただけ。傷ついてほしくないと思っただけ。でも、そう思うことすら、もはやあの子にとっては邪魔になってしまうのか。

 大切にしたいと思うだけなのに、ただ幸せであってほしいと願うだけなのに、それすらもできない。自分は一体どうしたら良かったのだろう?

 何もわからないくせに、なぜか確信できたことは、もうあの子がここへやって来ることはないだろうということ。連絡先も、どこに住む予定なのかも聞いていない。ただ一つわかるのは、あの子があの会社に入る——ヒーローになるということだけだ。これまで最も無難にこなせていた経済的な援助が不要だと言われた今、自分にしてやれることはもう何もない。あとはただ、見ているだけ。

「……」

 見るならせめて、一番近くが良い。

 ヒーローをやっていれば、遅かれ早かれメディアには露出する。今のヒーローは幸子がやっていた頃とは打って変わり、半分以上がアイドルのような存在だ。街で誰かの困り事を処理する何でも屋業の傍ら、歌ったり踊ったり、雑誌のモデルやどこかの何トカ大使、時にバラエティ番組やワイドショーに出演することだってある。

 ずっと点けていなかったテレビやラジオを点けるようになった。

 新聞や雑誌を買うようになった。

 どこかにあの子の姿が一瞬でも映ったりしないだろうかと、探した。

 毎日、毎日——。

 それでも、もっと近くにいたい。

 そんな時、あの会社のすぐ近くで、古いビルが売りに出されていることを知った。

 金ならある。自身の老後を考えてももう必要ないというほど、政府からは元ヒーローとしての補償を受けている。だから、迷わず購入を決めた。住んでいたマンションを引き払い、買ったビルの下に移り住んで、店を構えた。

 料理は苦手だし、客商売をしようと思ったわけでもない。それは単なる暇潰しに過ぎない。ただこの場所なら、あの子の近くにいられる。運が良ければそのうち、どこかで顔くらい見掛けることがあるやもしれない。或いはあの会社の関係者が店に来て、ちらりとあの子の話をすることがあるやもしれない。

 それだけで良い。

 それだけで、もう自分には十分だ——そう思っていた矢先、彼女が、店を訪ねてきた。


「お久しぶりですねェ。八年ぶりですか」


 それは全身を真っ黒な服で包み、淡々とこちらに言葉を投げてきた。顔はまったく見えなかったが、声を聞いてすぐに葵だと思った。暫しの間固まってしまったのは、その認識が間違いではないかと考えたからだ。葵がここへ来るはずがないと、思っていたから。

「幸子さん、私、わからないの?」

 くすくすと相変わらず腹の立つ笑い方をして、被っていた大きな黒いフードを後ろへやった。現れた素顔は、最後に見た時から何も変わっていなかった。

「……わかるに決まってる。アタシを誰だと思ってんのよ」

「ふふふ、良かったァ。呆けるにはまだ早いもんね」葵はそう言いながら再びフードを被り直した。「今、仕事中だから、ごめんね」

「何しに来た?」

「随分な言い方ねェ。せっかく()()()()に来てあげたのに」

「……」

「長話してる時間ないから簡単に言うけど、英斗が会社に入ってきたよ。まァ、いろいろ苦労はしているみたいだけど、何とかやってる。気が向いたら見張っておくから、心配しなくて良いよ」

「……うん」

「今度はもう少し余裕がある時に来るわ。それじゃね」

「葵、どうして……、——」

 どうして、来てくれたの?

 ここに店を出したことをなぜ知っているの?

 訊きたいことは山のようにあるが、何から訊ねたら良いのか。あまりに多くの感情や疑問が押し寄せ、言葉が喉元で痞えて出てこない。

「……あなたのフォローをするのが、私の役目でしょう」

 また、小さく笑っているのがわかった。フードに隠れた目元が、三日月のような形になっているのが見える。

「次来るまでにさ、珈琲用意しておいてよ。私、あんまお酒飲まないんだよね」

 葵はそれだけ言うと音もなく去っていった。

 左側の黒い袖は、途中から中身が入っていなかった。それでも、葵は葵だった。何も変わっていなかった。

 ——ずっと、見ていてくれたのだろうか?

 あんな別れ方をしたのに、葵の忠告を聞かず逃げるように会社を辞めてしまったのは自分なのに、葵は怒ってすらいなかった。もう二度と会うことはない、たとえあったとしてもそれは葵が自分のことを罵倒する時だと思っていたのに。

 未だ痞えたままの言葉の代わりに、涙が溢れて止まらなくなった。嬉しかった。他人とこんな風に話をするなんて何年ぶりだろう? しかもその相手が葵で、仕事を抜け出し、まさか英斗のことを知らせに来てくれるだなんて。

 また来ると葵は言った。ここで店を続ける理由が、もう一つできた。珈琲なんて真剣に選んだことはないが、近いうちに焙煎所にでも行ってみようと思った。


* * *


 会社に入ったら、どうしても行ってみたい場所があった。

 昔、英斗がまだ学校から帰ってランドセルを放り、お菓子を食べながらテレビに齧り付いていた頃、一度だけ見た景色がある場所——会社の屋上に取り付けられた、見張りのための鉄塔である。モンスターが出現した時に使用されているものだったため、モンスターがいない現在はもうただの飾りに過ぎないのだろうが、英斗は入社したら必ずそこへ行こうと決めていた。

 そこへ行けば、何かが見つかるのではないかと思っていた。

 素直に屋上へ行こうとすると、最上階の扉は鍵が掛かっていて外に出られなかった。別のルートはないのかと考えながら社内を散歩していると、とあるフロアで非常階段の鍵を開け、外に出ていく集団を目撃した。陰に隠れてこっそりと観察していると、どうやら彼らは愛煙者で、秘密の一服を楽しむために非常階段の踊り場を利用しているようだった。

 彼らが室内に戻ってからその扉に近づいて、周囲を気に掛けながらそっとドアノブを捻ると簡単に開いた。位置としては建物のちょうど裏側にあたり、吹き曝しで所々が錆びついた鉄の外階段がずっと上まで伸びている。

 あの集団の様子から、本当は使ってはいけない階段だということはわかる。だが、英斗は迷わず外に出て、鉄階段を上った。人目には付かないが、一段上がる度に足音が立つのがひどく気になる。

 何度も何度も踊り場を折り返し、今自分が何階にいるのかもわからなくなって、漸く頂上かと思いきや、今度は建物に沿って外廊下が続く。さらに一階分の鉄階段を上がって、今度こそ、やっとのことで屋上に出た。

 その昔、テレビの向こうで見たあの鉄の塔は、たしかにそこにあった。

 息を切らしながら塔の下に近づく。先ほど上ってきた非常階段よりさらに老朽化が目立ち、螺旋階段の上り口の手摺りには錆びたチェーンが掛かっていた。

 この上で、母が——伝説の8号、ハッピー・シャイニーが街を眺めている——そんな画がテレビから流れてきたのは、まだ英斗が葵に出会うよりも前のことだったと思う。二つに括った長い髪が強い風に靡いて、背中の大きなマントが激しく翻って、それでも8号の視線はぶれることなく、ただ真っ直ぐに世界を見ていた。その姿がなぜか、強烈な記憶として今も脳裏に焼き付いている。

 あの日、母は何を見ていたのだろうか? どんな景色を見て、何を考えていたのだろうか? ——ずっと知りたかった。それは、即ち十歳の頃、あの夕暮れの川辺で母に訊ねた質問の答えでもあるような気がした。

 漸くここまで来たのだ。正直今すぐにでもこの朽ちたチェーンを払って上っていきたい。が、それは堪えた。自分はまだ、会社に入ったというだけでヒーローになってすらいない。今ここを上ったところで、母と同じ景色が見られるとは思えなかった。

 代わりに、この場所から見渡した。目の前に広がっているのはただの街だ。建設中の建物が目立ち、上のほうでタワークレーンが回っている。数年のうちには真新しい背の高いビルが建ち並ぶことになるのだろう。どこまで行っても灰色の、無機質な街。

 案の定、何も感じない。それでも、今日ここまで来ることができたのは自分にとってはプラスだった。

 ——早く行こう。あの上まで、誰に何と言われようとも。

 その覚悟を改めて噛み締め、その日は屋上を後にした。次にここへ来る時は、自分がヒーローになった時——そう、心に決めて。

 予想はしていたことだが、自分がヒーローの子であるという『洗礼』は初日から既に浴びるほど受けていた。今年の新入社員の中にいる桜庭英斗という人物があの8号の子どもらしいという噂は、入社した時には既に社内中を漂っていた。たしかに事実ではあるが、ヒーローは基本的に本名が一般に公表されてはおらず、ヒーローネーム——問題の8号で言うなら『ハッピー・シャイニー』という名前が『本名』になる。だからおそらく英斗の履歴書を見て入社前から素性を認知していた社内の上のほうの人間か、或いは人事関係の部署から漏れ出たものだというのは容易に想像がついた。

 シールドの存在がすっかり浸透し、世界が平和に溺れていくに伴い、『ハッピー・シャイニー』という最強のヒーローも伝説の偉人化しつつある。特に若年層には比較的良いイメージが定着していたため、その噂に付き纏う視線や陰口の数々もさほど悪いものではなかった。しかし想像はしていたが、やはり母の退職は決して綺麗なものではなかったのだろう。当時を知る、ある一定以上の立場の人間からは嫌な視線を向けられたし、しばしば嫌味を言われ、名乗った途端にそれに気付いて舌打ちをされたり、共に入社した同期の中からも「将来が約束されている」などという何の根拠もない嫉妬心をぶつけられたりした。

 敵意や嫌悪の感情をスルーすることは慣れている。むしろ得意だ。何よりはじめから期待されていないだなんて、素晴らしいハンデではないか。

 噂に関しては知らぬ存ぜぬを貫き、ただ黙々と鍛錬の日々を送った。会社に入ったところで終わりではない。自分にはまだ、行かなければならない場所がある——そう思うだけで、いつだって自分には厳しくいられたし、周囲のくだらない感情はただの生活音の一部でしかなくなった。

 現在の街の人々にとって、ヒーローはただのマスコットだ。警察が介入してこないほんの小さな困り事を処理して回り、アイドルのような可愛らしい服を着てファンサービスを行なう。やればやるほど、感じる。この世界に倒すべきモンスターはもういない。当然、母や葵のやっていたそれとは、まるで別物だ。

 しかし有事に備え、実際のモンスターとの戦闘が想定された訓練は今も必須で、何よりヒーロースーツを着こなすことができなければ、ヒーローにはなれない。英斗もまた入社と同時に、その不可思議な衣服を着ることとなった。己のリミッターを自在に外し、自覚する限界値のその先の力を発揮すること、そしてそれをコントロールすること——愕然とした。テレビの向こうで、母や葵が至極当然のように使いこなしていたそれが、こんなにも難しいものだったなんて。加減を間違えれば簡単に吹っ飛んでしまうし、物も壊す。怪我は絶えない。一番怖かったのは、訓練中に突然、体が動かなくなってしまった時——所謂『フリーズ』と言われる症状で、そのまま気絶して医務室送りになったことも何度もあった。

 当初は何人もいたはずの同期入社の多くが、その訓練に耐えられず部署異動したり、退職したりした。

「そりゃあそうだ。皆、ヒーローって名前のアイドルになりたくて入ってきた奴ばかりなんだからな」

 誰かが言ったその言葉が、妙にしっくりきた。

 そんな中で、本物の馬鹿か、或いはよほどの変わり者と言われるほどトレーニングばかりしていたおかげで、英斗は早々にヒーロースーツを着こなすようになった。だが、いつ表に出ても良いとは言われたものの、ヒーローの席は九名分しかなく、誰かの空席が出なければデビューはできない。タイミングが合わず、結局正式にヒーローとして表舞台に立っても良いとお許しが出たのは、英斗がそろそろ二十歳になろうという頃だった。

 衣装庫へ自分用のヒーロースーツを仕立ててもらいに行った時、番人の爺に再会した。会うのは、約十年ぶりだった。

 入社して間もないうちから、社内のあちらこちらで「英斗くんよね?」と声を掛けられてはいた。昼食のために食堂へ行った時にも、たまたま配膳をしていた女性にそう声を掛けられ、「幸子ちゃんによく似てるわね」と懐かしがられた。そう言われても英斗にはほとんど記憶になかったが、おそらく幼い頃母の都合で会社に連れて来られ、様々な部署に預けられて世話になったり、会社の中を勝手にうろうろと歩き回ったりしていたせいで、その当時からの勤続者には覚えられていたのだろう。

 そして爺も、例外ではなかった。

「デカくはなったが、変わらんな」

 今日英斗がやって来るとわかっていたのか、爺は開口一番少しガッカリした口調で首を傾げた。散々同じ反応をされた挙句のこれでは、こちらとしても何とも面白くない。

「よろしくお願いします」

「まさかお前さんの分まで作ることになるとはなあ」

 だが、その後手際良く採寸を行いながら、何度も何度も「デカくなったなあ」と言われ、それは爺の独り言だとわかっているのに、言われる度になんだかとてもむず痒かった。

「先に言っておくが、お前さんは黄色だからな」母とは違うと言ってくれようとしたのかもしれない。「上掛けが付くんだが、左と右、どっちが良い?」

「……右で、お願いします」

 正直なところ、不自由なく両方使える。だが右手は、特別な時だけ使うという自分の中のルールがある。もしかしたらもう二度と使うことはないかもしれないが、それならそれで構わない。

 ほんの数分のやり取りで作業は終了、三日後にもう一度来るように言われた。

「聞いたぞ、英斗? 歌以外は、満点だったらしいな」

 入社試験のことを言っている。それぞれの科目の獲得点数は明かされていないから知らないが、歌に関しては昔から得意ではないと自覚している。あまり触れないでほしい。「……満点かどうかは、わからないけど」

「アオが言うんだ、間違いないさ」

「え?」

 ——アオ、って……

 一瞬、聞き違いかと思った。それかたまたま響きが同じであるだけ、とか。

 しかし——。

「アオだよ、鷹野葵。まさか、お前さん覚えてないのか?」

 爺は怪訝な顔をこちらに向けているが、覚えていないはずがない。ここで聞くことになるとは想像もしていなかったその名前に、思わずキョトンとしてしまっただけだ。「……まだ、いるの? この会社に」

「なんだ、知らなかったのか?」

「……」

 胃が持ち上がるような感覚に見舞われた。心臓の音が耳のすぐ後ろで聞こえ、勝手に顔が緩みそうになって困る。頬が熱を持っていることを悟られたくなくて、必死に奥歯を噛んだ。

「お前さんらの『裏方』をしているよ。表ん時からそうだったが、あいつぁやり手だぞ」うんうん、と頷いてしまう。当然だ。だって葵なのだから。「まあお前さんもこの会社に入ったんなら、そのうち顔合わすこともあるだろう」

 そうは言ったが、爺の話に出てきた『裏方』というのが何のことだか、この時の英斗はまだよく知らなかった。「表側にいると見えない」という補足も理解に苦しむ。そんなこと、あり得るか?

 しかし些細なことは、どうだって良い。

 葵がまだこの会社にいる——残ったということは何となく聞いていたが、まさか今もまだいてくれたなんて。

 こんな感覚は初めてだった。ずっと重たくて仕方がなかった体がふと浮き上がってしまいそうで、懸命に両足を地面について耐えた。いつか、どこかで、もしかしたら会えるかもしれない。元気にしているだろうか? まだラーメンばかり食べているのだろうか? 自分のことを覚えているだろうか?

 そう考えた時、ふと、あのことを思い出した。


 ——「モンスターと戦って、左腕を切断したんだ」


 そうだ。葵は、もう自分の知っている葵ではない。

「……」

 急に怖くなった。会えない。自分には、会う資格がない。

 感情の浮き沈みをまったくコントロールできず、一気に血の気が引いて気持ちが悪くなってきてしまった。背中が嫌な汗をかいていて、採寸が済んだ後のことで良かったと心底思う。

 葵と顔を合わせる?

 そんなこと、できるわけがない。だが、同じ会社にいる以上、その瞬間はいつ訪れてもおかしくはない。

 そうしたら、何と言おう? どんな顔をすれば良い?

 葵には会いたい。昔のようにまた話せたらどんなに良いだろう。しかしそんなことを望むこと自体、身の程知らずだという自覚もある。

 だって葵は、自分のせいで——

「そうそう、お前さんのヒーローネームだけどな、——」

 突然トーンの違う爺の声が部屋に響いて肩が震えてしまった。恐る恐るそちらに顔を向けると、爺は少し頬を紅潮させて前のめりになっていた。

「え……」

「名前だよ。とびきりのやつを考えてやったからな」と、得意げな顔のままわざとらしく咳払いをし、ひと息置いてから、また一段と大きく明瞭な声で発表する。「良いか? お前さんのヒーローネームは『レモンパンナ・コッタ』だ」

「……は?」


* * *


「アッハハハハ! 何その名前、美味しそう! ハハハハハ」

 葵は涙をぼろぼろと溢しながら腹を抱えた。その横で爺は口をへの字に曲げている。

「良い名前だろう?」

「うん、美味しそう! 食べちゃいたくなる」

「それなのにあの野郎、気に入らないとか抜かすんだ。生意気になったもんだな、まったく」

 一見レモンのように酸っぱくて手が付けられなそうではあるが、実際のところは顔も中身も甘々の甘ちゃん——それが由来だそうだ。

「そっかァ……あの子も大きくなったんだねェ」

「なぜ会わない? 俺ぁてっきり会ったんだとばかり……」

「いや、会ってはいるんだよ、私はね。あの子が知らないだけ」

 英斗が会社に入ってきたことは葵も知っている。正直言って、最初に名前を見つけた時は驚いた。同時に、心が騒いだ。嬉しさと戸惑いが、手を取り合ってぐるぐるとダンスを踊っている。

「……あの子、何か言ってた?」

「いや。まあ、驚いてはいたようだったが……少し、顔色が悪かったな」

「……そう」

 今も、ぐるぐると、踊り続けている。

 英斗に会いに行く——話し掛ける勇気がなくて、ここへ来た。

 爺は完成した英斗のヒーロースーツも、ひと足先に葵に見せてくれた。薄めの黄色にグリーンの差し色はまるでレモンのような色合いで、縁取りとシャボの白色は甘い生クリームのイメージだそうだ。上掛けは英斗が要望したとおり右側の肩、下はやはりレモンカラーのかぼちゃパンツ。

 ——そうか。あの子が、これを着るのか……。

「……可愛い。これ。王子様みたい」

「そうだろう? あいつにぴったりじゃないか。スーツも、名前も」

 結局、名前はそのまま確定したそうだ。あまりに微妙な反応を示したため、一度前側に『プリンス』を付けることを提案してみたが、そんなものはもっといらないと断られてしまったと、爺は憤慨している。

 英斗のその顔は、すぐに瞼の裏に浮かぶ。最後に会ったのは、彼が十歳の時だ。あんなに小さかった『弟』が、一丁前に口答えをするようになり、葵が着ていたのよりもずっと大きなヒーロースーツを着ているだなんて。

「そっか……私も年を取るわけね」

「ハッ! ヒヨッコが何を言うか」

「もう二十九!」

「何、本当か? あのな、弟のことばかり気にしてないで、お前さんもそろそろ真面目に考えんと行き遅れるぞ」

「黙れ黙れ、そこら辺の日和った男なんざ興味ないんだよ、私は」ほんの一時のことだが、これでも最強の背中を仰せつかっていた身なのだ。それくらいのプライドはある。

 ——それなのに本人に会うのが怖いだなんて、笑い話も良いところだ。

 でも、怖い。何度想像してみても。

 衣装庫を出て、誰もいない廊下を歩きながら、徐ろに左半身に目をやる。持ち上げた左腕は、やはりどう見ても途中で袖が不自然に垂れ下がる。

「……」

 たった数十センチ腕がないというだけで、左右のバランスが大きく崩れ、はじめは真っ直ぐに立つことさえ違和感を覚えた。義手を装着することも選択肢の一つとしては勧められた。だが、着けたところで結局自分にとっては飾りにしかならない。もちろん悪くはないし、用意もしてもらったが、今も絶対的に必要な場面に遭遇しなければ着けることはない。幻肢痛と闘いながら歩いて、走って、右腕一本でひと通りのことを済ませる知恵と力をつけ、黒衣として「非常に優秀」と評価されるようになって、気付けば副統括を仰せつかるまでになっていた。それでも、まだ、存在している。もう十年近くが経とうというのに、自分の頭はこの先に左手があるものと認識している。こうしてふと見たら、実は腕がないということのほうが気のせいで、本当は当たり前のようにそこに左手があったりしないだろうかと、どこかで考えている。

 だから、がっかりするのだ。そんな無意識がまだ自分の中にあることに。

 ——こんなの、見せられないよなァ……。

 葵がモンスターと戦闘の果てに左腕を切断したことを幸子は既に英斗に話している。どんな言い方をしたのか知らないが、彼女のことだ。きっと言葉足らずで、フォローもできない。幼かった英斗にはその衝撃だけが残っただろう。

 そうなんだ、と軽く流すことができるような子ではない。あの子は一人、その理由を必死に考えたはずだ。3号が怪我をしたのは、なぜか?

 それはシャイニーがいなかったからではないのか?

 シャイニーがいなかったのは、なぜか?

 あの日、幸子が家にいたから。

 自分のために。

 自分のせいで。

 そうじゃない——いくらそう言ったところで、一度自分の中で出来上がってしまった筋道とその終着点を他人が変えるのは非常に難しい。腕が再び生えてくれば別だが、そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ない。

 自分自身でさえ、未だにこの落胆だ。英斗が見たらどう思うだろう? かといって、隠せるものでもない。

 可笑しな話だ。そもそも、十歳の頃にほんの少しだけ一緒にいた赤の他人の『おねえさん』のことなんて覚えているかどうかもわからないのに、全部都合の良いように考えている自分が、気の毒で嗤える。

 英斗がこの会社に入ってきたのは、間違いなく、幸子の影響だ。あの子は何だかんだと言っても、結局母親の背中を追うことを選んだというだけ。あの子が自分なりの探し物をするステージに、たまたま自分が居合わせただけ。もしこの先どこかで縁があったなら、それはそれとしてまた手助けはするつもりだが、それまではただの『通りすがりのA』で良い。

 黒衣はヒーローには見えない——それだけが幸いだ。葵が近くにいても、英斗はそれを認識しない。陰ながら、見守ることはできる。あの子が必死に己の中でつけてきた折り合いを崩してしまうことだけは避けたい。

 衣装庫で見せてもらった英斗のヒーロースーツを思い出す。それを着たあの子の姿は、静かに想像するだけで、何よりも可愛かった。


* * *


 ヒーロースーツを受け取った日、再び屋上の見張り塔を訪れた。しかしそこに広がっていた景色は、建設中だったビル群が完成しているくらいで、以前訪れた時と何ら感じるものは変わらなかった。

 それでも、この時はまだ、仕方がないと思えた。『2号』として名前を授かり、ヒーロースーツと口上ももらって、これから本格的に外に出ようという時なのだ。経験も何もない紙のような自分がここに立ったところで、何もわからないのは当然だ。

 とにかく今は、この道をひたすら進むしかない。ヒーローネームが気に入らなくても、口上が鳥肌が立つほどにダサくても、後戻りするという選択肢は英斗にはなかった。

 レモンパンナ・コッタ——変な名前だ、と感じているのは自身の美的感覚が世の中とズレているからなのかもしれないと無理矢理に思うことにして街に出た。しかしやはり我慢ならず、基本的に自身では2号としか名乗らず、周囲にも名前は呼ばせないことにした。指示された口上も酷いもので、言っている途中で蕁麻疹が出る思いだったので、御披露目の時期だけ何とか乗り切った後は基本的には使わずに封印し、「聞けたらレア」という希少価値を勝手に作った。

 相手が大人なら、たいていが空気を読んで、そういうキャラクターなのだと認識してくれた。が、子どもは残酷なまでに正直だ。案の定「へんななまえ」と初期から散々な反応をされ、己の価値観が間違っていないことを早々に証明してくれた。ただ、やはり自覚していることを改めて指摘されるのは、たとえ相手が子どもであろうとかなり凹んだ。それも自身の力ではどうすることもできない部分を容赦なく刺され、揶揄われるので、本当に痛かったし、この件については爺のことを未来永劫恨むと決めた。

 ——……だって、おかしくないか?

 なんでレモン? パンナコッタって何?

 母は『幸子』だから『ハッピー』というのは百歩譲って理解できる。葵は苗字が『鷹野』だから『ハーク』だったのもわかる。なぜ自分は何の関連性もない名前を付けられたのだろう? いくら何でももう少しまともな名前が思い付かなかったのだろうか? よりにもよって——考えていると鬱々とするので蓋をすることにした。

 そんな苦痛に満ちたヒーロー生活のスタートを切って一年が経ち、二年が経ち、2号の認知度も人気もそれなりになって、その間、幾度となくあの屋上へ行った。初めて現場に出た日、単独で任務を完遂できた日、ヒーローの人気投票でランキングトップになった日、依頼主から理不尽なオーダーをされて罵倒された日——しかし何度塔に上り、変わりゆく世界の姿を見ても、そこに自分の望むものがあるとは思えなかった。

 ただ呆然とするばかりだった。会社に入った。同じ場所に来た。ヒーローにもなった。それなのに、何も見えない。わからない。

 これ以上どうすれば良い?

 訓練が足りないのか? もっとたくさんの現場に出て、ヒーローとして経験を積んだら何かが変わるのか?

 答えはもう、わかっている。


 ——無理だ。

 だって自分は、『本物のヒーロー』ではないのだから。


 世界は変わった。この世界にはもはや『本物のヒーロー』は存在しない。モンスターが来ない以上、必要がないのだから。今の自分がヒーローとしてやっているのは、ただくだらない些細なことで助けを乞う人間の小間使いに過ぎない。

 気付いてしまった。わかるわけがなかったのだ。はじめから。

 目の前が真っ暗だ。ここまで一心不乱に走っては来たが、出口だと思っていたその場所は行き止まりだった。もう、何を頼りにどこへ行けば良いのか、自分にはわからない。

 どうしよう?

 このままでは落ちる。そんな気がした。何でも良いから、掴むものが欲しい。そうしないと、立っていられない。

 そんな危機的状況でも、呼び出しのアラームは鳴る。

 ——参ったな……。

 もし理不尽な依頼でもされたら、今の自分は何をしでかすかわかったものではない。いつもどおりの冷静な判断ができるか非常に不安だ。

「……ん?」

 そう思って取り出したポケベルを見て、首を傾げた。

 珍しいこともあるものだ。手元の画面に表示された信号は、『応援要請』——どこかでヒーローが助けの手を必要としている。

 一般的に、一つの事案に対して複数名のヒーローが当てがわれることは稀だ。新人ならば誰か勝手のわかるヒーローを先生役として同行させることはあるが、一人前になってしまえば、大規模災害でも起きない限り単独行動が基本になる。一般人との間でトラブルが発生した場合は統括が呼ばれるため、他のヒーローに応援要請をして会社が許可を出したというのは、よほど遂行困難な事案に当たったということだ。

 屋内に戻り、更衣室へ駆け込んで手早く着替えを済ませ、指定のエリアへ向かう。先日海開きのイベントがあったばかりの、人気の海水浴場——奇しくも、少し前に困り事対応のために一人で訪ねた海水浴場のすぐ近くだ。

 水難事故ならヒーローの管轄外であるから、それ以外の内容であるとは容易に想像がつく。先日の案件もたしか、海の家のオーナーが営業開始のための準備を手伝ってほしいという内容だった。が、こんな場所で応援を要請するほどの困り事が発生しているなんて、一体どれほどのものだろう?

 現地へ到着すると赤色のヒーロースーツを着た1号と、見慣れないピンク色のヒーロースーツを着た女の子がいた。

「8号のピンキー・マリーです!」

 彼女はハキハキと甲高い声でそう名乗った。そういえば少し前に新人がデビューするだ何だと連絡が来ていたことを思い出す。そのお守り役が1号で、新人はコイツだったというわけだ。

 何と表現するのが適切か非常に悩ましいが、言葉を選ばずに言うなら、馬鹿そうだというのが第一印象だった。

「2号です」

「よろしくお願いします! レモ——」

「『2号』です。よろしく」

 顔色を見るによく理解してもらえていない気がするが、早々会うこともないから良しとすることにして、1号に視線を戻す。「何があったんです?」

「ごめんよ。ちょっと厄介でさ……あと、7号が来ることになっているんだ」

「え?」

 意外なことに声が出てしまった。呼ばれたのは自分一人かと思っていたのに、さらにまだ他がいるとは。

 1号は右手で後頭部の辺りを掻きながら溜め息を吐いている。現在のメンバーの中ではベテランの部類に入り、面倒見が良いから2号自身も新人の頃に世話になったことがある。その彼が担当するたった一つの事案にこれほどの人手が当てがわれ、しかも現場経験も多い彼自身がそんな様子とは、想像どおりかなり難しい依頼なのだろう。

「指輪を失くしちゃって、探してほしいっていう依頼なんです」代わりにピンクが答える。

「指輪? もしかして、浜で失くしたってこと?」

「はい。大事なものだったみたいなんですけど……」

 たしか、8号と言ったか? 淡いピンク色ベースのヒーロースーツだが、縁取りや飾りは草の色——二つに分かれた三つ編みの髪が頭の高い位置から垂れ下がって、頭頂部にティアラが光っている。さすがは爺のセンスだ。可愛らしい『桜の精のお姫様』でも作ったのだろう。

 これが現在の『8号』——昔から号数と担当色は固定されておらず、号数は前任者が抜けて空席となった数字、色はその都度本人に似合うものの中から他と被らないよう決められるのが慣わしだ。何となく、彼女がオレンジ色でなくて良かったとホッとしている自分がいる。

 ——なぜ? そんなこと、どうだって良いはずなのに。

 おそらく1号と二人で相当探し回っていたが、まったく見つからず応援を呼んだ、といった具合だろう。悲しそうに肩を落とす姿を見ていると気の毒になってくる。

 それにしても、砂浜で指輪探しとは、とんでもなく難易度の高い依頼である。新人でそんなケースに当たるなんて何という強運だろう。

「……良いよ、仕方ない」今夜は帰れないかもしれないと、内心覚悟を決める。「四人もいれば少しは捗るだろ」

「悪いね、2号」

「構いません。仕事ですから」

 その後、さほど遅れることなく7号もやって来た。夏の青々とした深緑のような爽やかな色合いのヒーロースーツだが、彼本人はそういうタチではない。「……何だ、この人数」

「ごめんよ、忙しいのに」

「俺いらなくね?」

「そんなこと言わないで付き合ってくれると助かるよ。ちょっと人手が必要なんだ。『氷漬け』は避けたいからさ……」

 基本的に、ヒーローに依頼された任務は途中で放棄することができない。どれほど時間がかかろうとも、受けたものは必ず完了しなければならず、万が一途中で完遂不能と判断した場合はコールドケース入りとなる。

 2号自身はまだそういった事案に遭遇したことはないが、言わずもがな、いろいろと面倒なのだそうだ。そもそも社内の上の人間が認めてくれないし、仮にその壁を越えられたとしても依頼主を納得させるのが至難の業で、実質凍らせるのは不可能に近いと聞く。

「で? 依頼は?」7号は少し苛々しているかもしれない。先ほどの8号の説明をもう一度繰り返すと、ますます顰めっ面になってしまった。「マジかよ。見つかるわけねぇじゃん。なんでそんな依頼受けたんだよ」

「すみません……」

 まるで汚いものでも見るかのような視線を向けられた8号は小さくなって謝っているが、8号がそれを決めているわけではないのだから彼女に非はない。

「一応、この付近の店には訊いて回ったんだけど、届いてないって。まもなく日没だから、人が引いてから再開しよう。みんな、よろしく頼むよ」

 依頼主ははじめその指輪を外すのを忘れて海に入ってしまったらしく、途中で気付いて自分のスペースまで戻って外した記憶があるという。だが、その後鞄のどこを探しても見つからず、落としたか盗まれたのではないかと焦って助けを求めてきたようだ。

「ふざけんなよ。盗難は管轄外だろうが」

「そ、そうなんですけど……」

 どうやら依頼主は警察とヒーロー双方に連絡をしているらしい。この手の話は警察に届けを出しても具体的に動いてはくれないから、ヒーローのほうが期待されてしまう、というのはよくある。

「あるかもわかんねぇモン探せってか? 時間の無駄だろ」

 7号が憤るのも理解はできる。ヒーローは特殊能力が使える超人ではないのだ。透視も予知も不可能である。

 1号もそれがわかっているからこそ、7号に対しては低姿勢を貫いている。こちらが見つけるのが先か、誰かに遺失物として届けられるのが先か、存在するのかもわからぬ窃盗犯が捕まるのが先か——いずれにしてもやり甲斐のない、雲を掴むような事案である。

「でも絶対ないとは言えないですし、誰かが見つけてくれたんならそれで良いんじゃないですか?」

「お前馬鹿かよ⁉︎」7号は声を荒げる。そこは大いに同感だ。

「で、でも、せっかく遠くから遊びに来てくれたのに、大事なもの失くした思い出で終わっちゃうなんて可哀そ——」

「知るかよ! マジあり得ねぇ、絶対あとで上に文句言いに行くからな!」

 7号はそう吐き捨て、金属探知機を手に広い砂浜へ繰り出した。その背中は不機嫌そのものであったが、8号にはそれがピンと来ないらしく首を傾げている。

「一応、捜索エリアは依頼主がパラソルを置いていたっていう付近に絞っているよ。海岸沿い全部は当たれないからね」

「それは、そうですよね」

 そう言う1号が苦笑いを浮かべているのは、そのパラソルのあった位置というのが「たぶんこの辺だったはず」という非常に曖昧な依頼主からの情報しかないからだそうだ。

 とりあえず行くしかないので7号に続く。足取りが重いのは1号も同じで、8号だけが踊っているかの如く砂浜に飛び込んでいった。

「ワクワクしますね、宝探しみたいで! 頑張りましょ!」

 前向きすぎる。自分の場合、重い足を引き摺る動力はもはや義務感しかないというのに。

 夏の盛りを待つ夜の潮風は生暖かくて、体中に纏わり付いてはさらに動きと思考を鈍らせる。あんな風に頭の中がお花畑だったら、もう少しいろいろなことが楽しかったりするのだろうか——いや、無理だ。だって見ていて苛々するもの。

 ——その後ろ姿も、物言いも、誰かに似ているような気がして。

 砂の中は思いの外金属だらけで、探知機はしばしば反応を示す。その度に砂を掘っては、出てくるのはゴミばかり。期待しては落胆することを繰り返していると余計に疲弊する。

 案の定、とっぷりと日が暮れ、浜辺に誰の姿も見えなくなって、波の音だけが辺りに響き渡る深い夜に突入しても、依頼品の指輪は発見できなかった。真っ暗な海に月の光が落ちてぼんやりと明るいが、足元はよく見えない。

「なあ! もうやめようぜ⁉︎」7号が持っていた探知機を放り投げて声を荒げた。「こんなじゃ見えねぇし、キリねぇよ!」

「そうなんだけど、仕方ないんだよ。朝になったらまた海水浴客が来て、探せなくなっちゃうだろう?」

「違くて! もう凍らせりゃ良いじゃんてこと!」

「そ、そんな……ッ——」やはりここでも反対の声を上げるのは8号だ。「持ち主の人、とっても困ってたんです! 失くしたままなんて可哀そ——」

「知るかよ、失くすのが悪ィんだろ⁉︎ そんな大事なモンなら家ん中飾っとけって話!」7号は鋭い声を上げて8号を制圧すると、1号のほうに向き直る。「なあ、俺らだって暇じゃねんだからさぁ、いつまでもこんなことやってらんねぇだろ」

「それはそうなんだけどね……」1号も7号の言葉に理解を示してはいる。ヒーローが四人で掛かっても不可能だったとなれば、コールドケースも多少認められ易くはなるだろうが。

「今何時だと思ってんだよ。な? 子猫ちゃんはお家に帰ったほうが良いんじゃないのか?」仕舞いには皮肉たっぷりの嘲笑を8号にぶつけ始めた。「パパとママがするぜ? こんな夜中まで男に囲まれて、ミニスカ穿いて海で『宝探しごっこ』してたなんてな」

 7号の気持ちは正直わからなくはないのだが、些かやり過ぎである。

 8号は暗闇でもわかるくらいに顔を赤くして、唇を噛んでいる。不思議と、8号の気持ちも理解できてしまう自分がいて、もどかしい。

「それくらいにしとけよ」ここでピーピー泣き喚かれても迷惑だ。

「何だよ、2号。お前、猫派か?」

「そんなくだらないことしか言えない口で恥ずかしくないのかって言ってんだよ」

「おい、調子に乗んなよ」

「まあまあ、二人とも喧嘩しないで」1号が咄嗟に間に入り、場を宥めてくれる。「ヒーロー同士の仲が悪いなんて、子どもたちに示しがつかないじゃないか」

 つい本音が漏れてしまって恥ずかしい。こんなくだらない言い争いをしているなんて、自分もまだまだ未熟者だ。「2号、悪いけど、8号とあっちをもう一度見てきてくれない?」

「わかりました」

 以前から、7号とあまり馬が合わないということは自認している。自身は決して嫌っているつもりはないし、至極真っ当なことを言っているとも思うのだが、なぜか向こうからは顔を合わせる度に睨まれるし、舌打ちもされ、当然必要がなければ話し掛けてもこない。仕事に支障はないからそのまま放置しているが、第三者を巻き込むのはいただけない。

「あの、——」ついて来た8号がおずおずと声を掛けてくる。7号のは完全に悪口であったが、こうして見てみるとたしかに小さくて子猫のようではある。「ありがとうございます。庇ってくれて」

「別に」素っ気ない返事になってしまった。が、他に何と返せば良いのかわからない。「ねェ、なんでそんなに一生懸命探すの?」

「えっ?」

 少し意地悪な質問だった。7号のことも8号のことも理解できてしまう自分がいて、やはりこちらも先ほどから頭の中で喧嘩をしている。それを鎮めるために、彼女の答えが役立つかもしれないと思った。

 だが、8号は少しの間キョトンと2号を見て、それから平然と答えた。

「だって、持ち主の人、困ってたから」

「……」

「あの……それが、何か?」

 ——……何か?

 それだけ? 仕事だから仕方なく、とか、1号がやめるって言わないから、とかでなく、そんな単純で、純粋な理由なのか?

 呆れて言葉を返せずにいる2号を見て、8号は慌てた様子で自分なりの補足を喋り出した。

「だ、だってあたし、ヒーローなんです、困ってる人を助けるヒーロー……あ、知ってますか? 伝説の8号、ハッピー・シャイニー!」

「……え?」

「えッ、あッ、あれ? 知らない? 学校の授業とかで、習わなかったですか? えっと、大きいオレンジ色のマントに、こう、ふりふりのスカートを穿いてて、あとここに大きいリボンが付いてて、頭は金色の——」

「知ってるよ」だから、これ以上その話をするな——そう言いたかったのに。

「本当ですか⁉︎」

 そう叫んだ8号は嬉しそうにジャンプしながら頬を赤らめた。「あたし、小さい頃からずっと憧れだったんです! あたしも大きくなったらシャイニーみたいなヒーローになりたいなって……そしたら同じ番号もらっちゃって、もうこれって運命ですよね⁉︎ 諦めないで頑張ったら、神様はちゃんとご褒美をくれるんだなって……」

「……」

「だからあたし、諦めません!」

 一人でも必ず見つけてみせます、と8号は真顔で言った。

 ——うざすぎる。

 その真っ直ぐすぎる視線も、穢れのない正義感も、虫唾が走る。自分には耐えられない。しかもその原点が、何だって?


 ——「知ってますか? 伝説の8号、ハッピー・シャイニー!」

 

 まさかその名前が、ここで登場するとは。

 知っているよ。嫌というほど知っている。だからこそ、恍惚とした彼女の顔を見ていると全部をぐちゃぐちゃに壊してやりたくなる。阿呆臭い。

 最悪だ。コイツは、絶対に途中で任務を放棄しない。馬鹿みたいな正義感で見つかるまで突っ走り、見つかったら「良かったですね」とか言いながらヘラヘラと笑う。

 ——なんで、わかっちゃうんだろう?

 酷く、不快だ。自分の中の喧嘩を鎮めるどころかますます激しくなってしまう。だからといって、今ここで突き放すこともできない。「じゃあ好きにして」とでも言ってしまったら、それはそれでその瞬間、自分の中に罪悪感にも似た何かが勝手に生まれる。それを振り切る自信は、ない。

 救いようのないほどに中途半端で、嫌になる。

 本当に、嫌だ。

「お前さ、依頼主から話を聞いたんだよな?」

「えッ? は、はあ……」

「ゆっくりで良いから、最初から一言一句違わず聞かせろ」

「は、はい、えっと……——」

 戸惑いながらも、8号は記憶を辿り、依頼主へヒアリングした内容をそのまま復唱し始めた。


 ——「昼前くらいに来たんですけど超混んでてぇ、場所取り大変だったんです、超歩きました」

 ——「座ってた場所? どこだったっけ? あの辺、かなあ……たぶんあの辺です。よくわかんない、あはは」

 ——「指輪は母の形見なんです。ここに模様が入ってて、裏にはイニシャルが……」

 ——「途中で海の家行きました。あと、トイレ? もぉ超混んでて並びました」

 ——「焼きそば食べたんです! ほら、あのすっごい有名なやつ! 超美味しかった、たぶんあの辺! 有名なんですぐわかると思う!」


 くだらない話を延々と、しかしおそらく本当に聴いた依頼主の言葉そのままなのだろう。

 トイレが混んでる? 当たり前だろう。焼きそばの感想なんかどうだって良い。

 そんな話ばかり聞かされたのか? 依頼主は本当に指輪が失くなって『困っていた』のだろうか?

「……以上です」

 8号は小さな声でそう言って話を終えた。再演を終えた時、見ていた2号が怪訝な顔をしていたから、居た堪れなくなったのかもしれない。

「……どうでも良い情報ばっかだな」

「すみません……」

「お前のせいじゃないよ」

 思いは溜め息と共に流し、大人しく8号の言葉を頭の中で反芻する。砂浜ばかりを探し回っているが、それ以外のところで失くした可能性だって否定できない。元々人間の記憶なんて曖昧で頼りないものである上、ほとんど無意識下での行動ならばその信憑性は格段に下がる。海中で落としていたらどうにもならないが、その他に落としそうな場所は? 駐車場? 途中で行ったという海の家やトイレで紛失したことは考えられない——?

 ——……焼きそば?

 内陸のほうに目をやると、真っ暗な闇の向こうに似たり寄ったりの掘っ立て小屋が点々と並んでいる。海が開いている期間は連日大変な賑わいを見せている海の家だが、当然この時間では誰もおらず、灯りもない。

 海水浴も、海の家も、有名な焼きそばも、興味はない。ただ2号がそれを知っているのは、本人がそう言ったからだ。先日、隣の海水浴場にある海の家の店主が、依頼を片付けた後の2号に向かって。


 ——「ありがとう、助かったよ! 開いたら食べに来いよ。お礼に奢ってやっからさ。一応ここらじゃ有名なんだぜ? うちの焼きそば」


「……ここじゃない」

「へ?」

「有名な焼きそば食ったんだろ? それ、隣の海岸の海の家だよ」

「え、と……隣?」8号は目を丸くしている。

 この海岸沿いは二つの海水浴場が並んでおり、狭間にある岩場を越えると名前が変わってしまう。遠方から来る観光客は特に、その二つの海水浴場の瓜二つな名前を混同して間違える。

 たしかに、依頼主が告げた海水浴場の名前はここだが、依頼主が行った有名な焼きそばは隣にある海の家のものだ。場所取りしようとして超歩いているうちに岩場を越え、知らないうちに隣の海水浴場で楽しんでいたということだろう。

「依頼主がいたのはこっちじゃない。探すなら向こうに行かなきゃ」

「えッ……ええっ?」

 1号にエリア変更の報告をするため、先に行って探しておくようにと指示して場を離れる。


 ——ああ、むかつく。

 纏い付く潮風も今はさらりと躱せる。ワクワクしているんだ。まるで、本当に宝探しをしているみたいに。


 何なんだ? 秘宝へと続く難解な暗号を解き明かしたかのような昂揚感。もちろん隣に行ったところで必ず見つかる保証なんてない。砂浜で指輪を探し出すなんて奇跡みたいなことが起こらない限り無理だ。それは、変わらない。

 それでも、ワクワクするんだ。もしかしたら、本当にできてしまうんじゃないかって——。

「クソが」

 平静を取り繕って1号に声を掛ける。7号は散々文句を言ったが、不可思議な昂揚感の前には全部どうでも良かった。

 二人を連れて隣の海岸へ向かうと、8号は砂まみれになって、煩わしいほどの笑顔を浮かべて指輪探しをしていた。なんだかその様子が、躍った己の心を見ているかのようで、さらに不愉快だった。

 指示のとおりだが、本当に馬鹿な奴。効率というものすらまったく考えていないではないか——それでも、そんなにも楽しそうに、その感情を隠そうとすらせず一途に奇跡を期待できる彼女が、少しだけ羨ましいような気がした。

 やがて薄らと空が青くなって、暗闇がぼんやりと蒼白い世界に変わる頃、8号はとうとう宝を探し当てた。特徴的な模様と、裏にイニシャルの入った、依頼主の母親の形見。

「良かったァ」想像していたとおり、8号はそう言って目を細めた。心底満足しているその表情は7号とは対照的だ。

「本当にありがとう。先に戻っていてもらって構わないよ。これは夜が明けたら依頼主に返却しておくから」

 1号が気を利かせてそう言うと、7号は目にも止まらぬ速さで帰っていった。ここまではっきりと不服を呈してくれるともはや清々しい。

「8号も、もう良いよ。疲れてるだろう?」

「いえ、あたしは全然、——」

「それは8号に返しに行かせてやってください」

「「え?」」

 1号も8号も目を丸くしている。口にしてから、なぜこんなことを言っているのだろうと自分でも疑問に思ったのだから当然だ。「どうせ疲れてないんだろ? お前のおかげで見つかったんだ、お前が返してくるべきだよ」

「……」

「頼めるかい? 8号」物分かりの良い人だ。1号は見つけた指輪を載せた掌を8号に差し出した。

「……良いんですか?」

「もちろん。僕も同行するけど、君が渡したら良いよ」

「……ありがとうございます!」

 声を弾ませる彼女の大きな丸い瞳に、差し込んできた朝の光が反射している。見ていると息をするのが苦しくなるのはなぜなのだろう?

「……では、僕は先に戻ります」

「お疲れ様」

「あの! ありがとうございます、レモ——」

「『2号』!」何度言わせれば気が済むのだ? 人の話を聞いていないのだろうか? 「……お前さ、もう少し用心したほうが良いよ」

「へ?」

「7号の言っていたこと、強ち間違いじゃないよ。可愛いんだからさ、もう少し女の子だってこと自覚しないと食われちゃうかもよ?」

「……」

「じゃあ」

 ——なんでそんなこと言っちゃったんだろう?

 本部は戻る道すがら、まだ少し冷たい湿った空気を掻き分けながら、悶々としてしまった。あんなに馬鹿なお人好し、見ていて苛々するだけだし、痛い目に遭ったって自業自得だ。少し反省ってものを経験したほうが彼女のためだと思う。

 でも。

 あの記憶力は率直に言って感心した。一言一句違わずに聞かせろとは言ったが、本当にそうするなんて思わないじゃないか。

 彼女の再現がなければ捜索範囲が違うことに気付けなかった。それは事実だ。馬鹿そうに見えるし、実際に馬鹿なのだろうが、あの記憶力は他の誰よりも抜きん出た、才能だ。

「……」

 馬鹿で、お人好し。

 素直で正直で、人をすぐに信用する。自身のことなんて考えることすら後回しで、ただ一途に走っていく。

 ああいうのをヒーローと言うのだろう。

 きっと向いている。自分なんかよりも、ずっと、——。


 ——……苛々する。


 気付いたらあの階段を上っていた。

 酷く疲れている。体もそうだが、中身が疲れている。気温はさほど高くないはずなのに、顔の輪郭に沿って汗が滴っている。膝が笑っているのはわかっていたが、上りたがるのを止められなかった。

 頭がくらくらして、眠い。

 夜明けの街は綺麗だった。湿度が都合良くモザイクを掛けて、ぼんやりと見えたから、かもしれない。

 これからどうしたら良いのだろう?

 母が仕事をしているところなんてテレビの向こうでしか見たことがないのに、まるで母と仕事をしているかのように感じた。そして何となくわかってしまった。

 少なくとも今の自分には、受け止められない。今の自分のままでは。

 ——ああ、本当に、参った。

 どうしよう? 考えなくては。立ち止まってしまったら、もう歩き出せない。

 今の自分に、まだ、やれることは——?


* * *


 英斗が表側から身を引くという話は、既に副統括から統括への昇進話が一部で持ち上がっていた葵の耳にはすぐ飛び込んできた。デビューから三年を待たずしてのヒーロー引退は少し早いとは思ったが、ここまでは比較的すんなり納得できた。彼の日頃の様子を覗き見ていて、長くはもたないような気がしていたから。

 ——なァんだ、可愛かったのに、見られなくなっちゃうのか……。

 気落ちしたのはほんの束の間、意外だったのはここからだ。会社ごと辞めるのかと思ったら、違った。なんと内側に入ってくるらしい。

 英斗の可愛いヒーロー姿が見られなくなるのがつまらないと思いつつも、不思議と、逆にワクワクしている自分もいた。黒衣である葵はヒーローと交流がないばかりか、存在を認識すらされない。それが内側の人間になれば、業務上いつかどこかで顔を合わせるチャンスが巡って来るやもしれず、表と裏でいるよりは距離感は縮まる。

「今日は随分と上機嫌じゃない?」

 葵自身がそんな期待を抱いていることに気付いてもいないうちから、それを見抜いていたのは幸子だった。葵が一般人の客を装ってEightに寄った時、いつもと変わらぬ珈琲を出され、そう指摘された。この頃、黒衣として会社にいる英斗の様子を時折盗み見ては、それを幸子に伝える——それがすっかり葵の日課になっていた。

「え……そう?」

 英斗に会うのが怖いと思っているのは今も変わらない。にもかかわらず『上機嫌』と評されるのはだいぶ矛盾してはいないだろうか?

「何か良いことがあったの?」幸子は他の客の酒を作りながら含み笑いをしている。何となく、その顔を見ていたら腹が立ってきてしまった。

 できあがった淡い橙色のカクテルグラスを幸子の代わりに背後のテーブルまで配達し、カウンター席に戻る。珈琲を一口含みながら上目で幸子の様子を窺い、どう仕返ししてやろうかと考えて、話を再開する。

「英斗がヒーローを辞めるよ」

 さらりと、取るに足らない世間話をするかの如く、軽い口調で告げてみた。珈琲の入ったカップを置きながら再び幸子を見ると、目論見どおり、彼女は一瞬で笑顔を消して、目を丸くして明らかに動揺した後、どこか寂しそうに口を閉ざした。嘘はついていないが、脅かすには十分だったということだ。

 まったく興味がなさそうなふりをして、実際は誰よりも2号のファン。息子のことが掲載された新聞や雑誌のページはすべて切り抜いて保存しているし、映るかどうかもわからないテレビやラジオ放送は常にチェック。そもそもこの店だって、誰かの口から零れるかもしれない2号の小話を聞きたいがために開けているようなものだ。時折葵がもたらす裏情報をこの場所で、何よりも楽しみに待っている——そんな彼女がこの一言を聞いて、平静でいられるはずがない。

「……なんで?」

 一言告げたきり、しばらく放ったらかしにして平然と珈琲を飲んでいたら、いよいよ泣きそうな顔をして訊ねてきたので、勘弁してやろうと思う。

「内側に入ってくる」

 その意味は、元同業者の彼女にはすぐに理解できる。「……なんで、また?」

「知らないよ、そんなの」

「じ、自分で、そう志願したの?」

「そうだよ」

「なんで……どっか、怪我したとか? あ、何か嫌なことあったのか? 無愛想だしなァ、あの子、誰かに文句でも言われたのかなァ……?」

 幸子はそんな取り止めもないことをべらべらと並べ立てては狼狽している。英斗はヒーローに向いていないと、自分が一番よく言っていたくせに。

「そんなの、本人に訊きなよ」

「……意地悪……」

「どこが? 自分の息子でしょう?」

 居場所は知っていて、すぐそばにいる。行こうと思えばいつだって会いに行ける。だが、これまで何度誘っても幸子は頷かなかった。本当は会いたくて堪らないはずなのに。

 今日も、幸子は頭を振る。

「内側に入られたんじゃあ、アタシからはもう見えないねェ」

「優秀だからできることだよ。褒めてやってよ」

 組織の運営やマネジメント業務を行う、所謂『内側の人間』は、ヒーローや黒衣とは求められる能力が異なる。ヒーローのようにただ外見がそれなりに整って、歌って踊れるアイドル要素と体力、戦闘センスがあればそれで良い——というわけにはいかない。だからそもそも募集枠も別だし、当然、入社試験の内容や採用基準も違う。もし入社後にその垣根を越えて異動することを志願した場合、まず社内試験をパスしなくてはならず、たいていのヒーローはその試験に合格できない。ヒーローが引退後に内側に入ってくることなく退社していくのは、そういう理由もあるのだ。

 英斗の場合、社内試験は余裕の合格だった。あまりに成績が良かったものだから、本部長が小躍りしていたくらいだ。

「そりゃあ、わかってるよ。昔からすごい子だったもの、あの子は」

「だから、自分で直接そう言ってやってよ」

「……」

 溜め息をつかずにはいられない。最後に息子の顔を見てから一体何年経ったと思っているのだろう? 未だに、何も成長していない。こんなに近くまで来ておいて、最後の一歩を踏み出す勇気がないなんて。

 幸子は母親だ。葵とは違う。それだけで会いに行く理由は十分じゃないか。それなのに。

「……珈琲豆をグレードアップしてくれたら、もう少し頻繁に来てあげても良いんだけど」

「良い商売してるねェ、アンタ」

「酸っぱくないやつが好きなの。考えておいて」

 そう言い残して店を出た。正直、ブルーマウンテンくらい用意しておいてくれても良い。妥当と言える以上の対価は支払っているつもりだ。ただ、たとえ幸子に情報提供するという日課がなかったとしても、葵はきっと彼へのストーカー行為は働いていただろうと思う。

 その証拠に、英斗が内側に入ってきた初日、迷ったが、やはり見に行ってしまった。それは初日の彼の様子を幸子に報告しなければならないから——という理由ではなく、単に、葵自身が見たくて仕方がなかったからである。たしかに勉強はできるかもしれないが、あの愛想のない英斗が、内側の面倒臭いしがらみの中でどう立ち回るのか、興味はあったし心配でもあった。

 ——……心配?

 馬鹿みたい。もう子どもじゃない。大の大人に対して、何を心配することが?

 自分で自分を嗤いながら、昼休みを返上して社内を探し回り、そうしてやっとのことで見つけたのは葵の知る英斗ではなかった。

「……」

 幸子が立っているのかと思った。

 今にもこちらを振り返り、「葵、お疲れ!」と、夏の太陽のような笑顔で手を振ってきそうな錯覚に陥った。十数年前、たしかにそこにあった光景。

 何? あれは、英斗、だよな?

 2号の時も髪はそれなりに長かった。だが、あれは男の子として、だ。目の前にいるのは違う。ふわふわの金色の長い髪を垂らして、にっこりと微笑みながら挨拶をしているその姿は、どう見ても女の子である。

 ——……なんで?

 呆然としてしまった。廊下ですれ違う社員は皆、一度は振り返ってその姿を見ている。当然だ。この会社にあんなに可愛らしい社員がいただろうかと誰もが思うだろう。そしてその正体が無愛想で有名だった元・2号だとはわかるまい。なんだ、周囲にニコニコと笑顔を振り撒いて、ヒーローの時よりサービス精神が旺盛ではないか。

 とにかく目立ちすぎだ。あれで内側の人間? 自覚があるのか知らないが、まったくそのオーラを隠しきれていない。


 ——……可愛い。


 やめろやめろ! いくら作った顔とはいえ、誰でも彼でも微笑み掛けるな、可愛さを安売りするんじゃない! むかつく。一番に自分が言ってやりたい言葉なのに、皆は平然と口にしていて自分は言えないこの状況——ッ!

 そんなことを考えながら恨めしい視線を向けていたら、気が緩んだのだろう。気配を悟られた。一瞬、本当にこちらを振り返ってきて、慌てて隠れる羽目になった。心臓が壊れそうなくらいに弾んで、その音が漏れ聞こえたらどうしようかと焦った。隠そうとすると代わりに顔が綻んでしまう。

 自分の中で感情がせめぎ合っている。声を掛けたい。話したい。可愛いね、と、昔みたいに頭を撫でて。


 でも、——。


 ——「帰ってきたら、ラーメン行こう」

 あの日切った小指はもうない。

 それでも、約束を果たしに行っても良いだろうか? あの約束を言い訳に使っても許されるだろうか? とっくの昔に過去の人となった自分が今さら現れて、彼はどう思うのだろう? ごめんなさい、誰でしたっけ——そんなことを言われても、自分は平然としていられるだろうか?

「……嘘つき」

 通りすがりのAで良いなんて、嘘っぱちじゃないか。

 久々に、ないはずの左腕が痛くて、涙が止まらなかった。


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