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第八話 月と太陽(2)運命の日

 幸子と英斗の関係は、それから先も一向に回復の兆しが見えないまま時間だけが過ぎていった。英斗は五年生になり、クラス替えで例の問題があったクラスとは違う顔ぶれに囲まれるようになった。しかしメンバーが総入れ替えになるわけではない上に、あの一件はもはや狭い集団の中では誰もが周知の事実で、先生までグルとあっては救いようがない。相変わらずマスメディアのヒーロー叩きは鎮まる気配を見せず、母親が8号だと知られている英斗は後ろ指を指されることはあっても、新しい友人を作るような環境にはなかった。

 英斗自身、友達が欲しいわけではないし、ちょっかいを出されるくらいなら一人が良いと、あまり学校には行っていないと葵に話した。春先にあった運動会や、五年生が行く林間学校も不参加だったという。普通の子どもが学校にいるはずの時間帯、街中を歩いているといろいろな大人が声を掛けてきて不愉快だからと、町の大きな図書館で本を借りてきては家で読んでいるらしい。少し前に葵が自宅を訪ねた際に見せてもらったのは、小学生が読むにしてはかなり難しい内容のものばかりだったが、英斗はそれを毎回十冊程度借りてきては、一週間で二周回分読み切るという。「最後にどうなるかわかっていて読むと、ちがう話に見える」などという、知らない大人が聞けば生意気でしかない感想を言っても、何の違和感もなく受け入れられた。逆に「宿題がわからない」と言って葵に体積の問題を訊いてくるほうが不思議に感じてしまうくらいだった。

 こんな時こそ、幸子には早く家に帰ってあげてほしいのに、どういう事情かこの数ヶ月ほどの間、モンスターの出現頻度が急激に増した。それはつまりヒーローたちへ下される出動命令が増えるということだ。

 葵は戦いの場へ赴く機会が多くなることを楽しんでさえいたが、葵が3号として前線へ行くということは、幸子もまた、同じなのである。

 母親としての幸子とは反対に、8号は以前にも増して前線で活躍するようになっていった。さすがに背面の大きな隙が消えることはなかったが、3号がフォローする場面は急速に減少していき、スコープを覗きながら3号が常にハラハラする必要はほぼなくなった。

 それは言うまでもなく素晴らしい進歩であり、褒められるべきことだ。世間だって、相変わらずヒーローの粗を探して叩いてはいるものの、ここ最近の8号の目覚ましい活躍を賞賛するコメントも微増している。が、3号はどうしても素直に喜べなかった。彼女のその姿はただ『幸子』から——英斗から逃れるために、必死に8号に変身し、誤魔化し続けているようにしか見えなかった。

 英斗と話をしているか、などという質問は、愚問だ。答えは「ノー」だ。わかりきっている。状況的にも、今の幸子には英斗と向き合って話をする時間はないし、家に帰ってすらいないだろう。それでもやらなければならないという自覚だけは心の中にあるのか、葵がそのことを気にしていると知っている幸子は、討伐から戻るとすぐにどこかへ行ってしまい、ここ数日は葵ですらまともに幸子と話せていない。

 ——これ以上、自分に何ができるのだろう?

 赤の他人である、自分に——。

 当の本人がそんな調子で逃げ続けている以上、どうすることもできない。だが、ここで自分が匙を投げたふりをしたところで、幸子はきっと変わらない。そのツケは、英斗のところへ行ってしまうだけのような気がする。困るばかりで、何一つ良い解決策を見出せない自分自身にも、腹が立っていた。

 スコープを覗く頬に、ぽつん、と冷たいものが当たった。先ほどから急に辺りが暗くなり、湿り気を帯びてひんやりとした風が肌に障ると感じてはいたが、いよいよ灰色の空は重さに耐えきれなくなったらしい。先ほどから遠くで聞こえる轟音のようなものは、瓦礫の崩れる音ではなく、雷鳴だったということだ。

 砂埃の溜まったコンクリートに、点々と丸い跡がついていく。

「……どいつもこいつも……!」思わず舌打ちをしてしまった。落ちてくる雨粒が大きい。これは派手に一雨ありそうだ。

 視界が悪くなれば圧倒的に形勢が不利になる。その前に、アイツを片付けたい。

 その時、先ほどからスコープの中を駆け回っていたはずの緑色の影が、一瞬で姿を消した。

 地面を蹴る。ほぼ同時、条件反射だ。

 壁に叩きつけられる前に彼女をキャッチできたのは幸いだった。彼女が所持していた武器を借り、目の前に迫る黒々とした目標(モンスター)を撃ち抜く。スローモーションみたいな、緩やかな景色だ。

「大丈夫?」

 さらさらと、黒い砂が風に吹かれて舞う中、反対側の小脇に抱えた5号の顔色を覗く。青い顔をして、額に汗が滲んでいる。

 地面に着地し、5号を地面に下ろすと、彼女は大きく息をしながら申し訳なさそうに肩を落とした。

「すみません。ありがとうございました……」

「怪我は?」

「大丈夫です」

 借りた武器を返す。5号は本部所属のヒーローの中で、最も戦歴が浅い。年齢は3号に一番近いが、平均的な新人はこんなものだろう。3号自身、もし自分の指南役が8号でなかったら、きっと今頃こうはなっていないと思う。

 一年目で、技量も体力も精神力も、すべてが一人前ではない。その状態で、よくこの戦渦について来ていると思う。毎日のように前線に駆り出され、戦闘を繰り返していれば相当に疲れは溜まっているだろうし、それだけで集中力を欠くのは彼女に限ったことではない。

 自分より経験の浅いヒーローのことは、前線では皆気に掛ける。だが、いくらそうしてもその瞬間必ず庇えるとは限らない。今も助けられたのは運が良かっただけで、次もそうなる保証はないし、共倒れになると思えば少なくとも3号は助けに行かない。己を守る判断は、己で身につけてもらわなくては困る。

 雨はいつしか激しくなり、黒い砂を纏って地面に落ちてくる。

「無理したら駄目。一応、戻ったら医務室で診てもらって。一人で平気ね?」

「はい」

 置いてきた自分の武器を回収しに行くからと、5号は先に本部に帰還させた。酷い降りだ。体に付着した黒い雨粒があっという間に流れ落ち、川のように地面を這っていた黒い砂も、一瞬で綺麗に流れ去ってしまった。

 瓦礫の山の上で構えていたライフルを回収。自分の身長ほどもある相棒を背負いながら見渡した景色は灰色にぼやけており、地を打つ雨音はまるで滝壺にいるかのように聴力を奪う。時折、割れるような雷が轟き、カメラのフラッシュのように空が光る。

 こうなる前に撃滅できて何よりだった。夕立のせいで辺りは真っ暗だが、それほど遅くはなっていないはずだ。これなら急いで本部に戻り、軽くシャワーをしても、英斗のところに寄れる。

 濡れたヒーロースーツが肌に吸い付いて、ひどく不快だ。


* * *


 六時間目の授業の途中、突如聞こえてきた遠雷に窓の外を見やると空が真っ黒になっていて、授業が終わる頃には滝のような雨が降り出していた。

 夏なんかによくある通り雨だ。しばらく待っていれば止むだろうとは思ったが、授業時間外の教室は居心地が悪くて耐えられない。『帰りの会』が終わると、英斗はいつものようにランドセルを背負い、足早に昇降口へ向かった。

 荷物にはなるが、常にランドセルには折り畳み式の傘を一本入れている。それを使ってさっさと帰ろう。この降りでは差しても多少は濡れてしまうだろうが、こんな空間に一秒でも長くいるくらいなら、そのほうがずっとマシだ。

 下駄箱で靴を履き替え、表に出ると、ポーチの下に赤いランドセルを背負った人影が見えた。よく見ると、自分と同じクラスの女子だ。自分より早く教室を出ていく生徒がいるなんて珍しいこともあるものだと思いながら、取り出した傘を彼女の隣で広げようとした。その時、ふと視界に入ってきた彼女は、雨の中に踏み出すのでもなく、ただ眉を顰めながら、勢いよく雨粒を落とし続ける黒々とした空を見上げていた。

 彼女とは特に仲が良いわけでもなく、会話をしたこともあまりない。苗字くらいは覚えている程度だ。ただ、その佇まいから何やら困っているのだろうことは感じて、ふと、そういえば昼休みに自分の机の近くで(たむろ)していた女子グループの中に彼女がいて、今日は学校が終わったらお母さんと待ち合わせをして買い物に行くのだと嬉しそうに話していたような気がすると思った。

 クラスメイトのそんな会話なんて正直どうでも良いし、普段なら気にも留めない。ただ、今になってその時のことを思い出したのは、その時話をしていた『仲良しグループ』の女子たちは皆、彼女のその話をあまり面白く思っていないということが、横目で見ても感じ取れたからだ。彼女がその自分に向けられた負の感情に気付いたのかどうかは知らないが、もし彼女が今ここで足止めを喰らって困っていることを知ったら、きっとあそこにいた女子たちは皆、喜ぶのだろうなと思った。

「カサ持ってないの?」

 いきなり英斗が話し掛けたものだから、彼女はびっくりしたのか小さく肩を震わせた。先日の『暴行事件』以降、皆はさらに英斗から一歩距離を置くようになった。この春から初めて同じクラスになった面々も少なくないはずなのに、きっとそういう他人の宣伝活動が好きな奴がいるのだろう。実にご苦労なことである。

 そのことをふと思い出し、そんな問題児に話し掛けられるなんて、可哀想なことをしてしまったかもしれないと思った。だが、彼女は視線を左右にちらちらと動かしながら小さく頷いた。

「お母さんに、今日はふるかもしれないから持っていきなさいって言われたのに、忘れてきちゃったんだよね」

「ふうん」英斗は広げようとしていた自分の傘を彼女に向かって差し出した。「はい」

「え?」クラスメイトの丸くなった目が、英斗の顔と傘の間を行ったり来たりしている。

「使えば?」

「え……でも、……——」

「まち合わせにおくれたら、お母さん、心配するでしょ」

「でも、桜庭くんはカサ、どうするの?」

「ぼくは別に、なくても平気だから。かわいくないけど、ごめんね」

「……」

「いいよ。早く行きなよ」

 英斗はそう言って戸惑う彼女を急かした。待ち合わせに遅刻することもそうだが、ここでクラスのならず者が傘を貸しているのを誰かに見られると彼女の立場が良くないし、彼女の『仲良しグループ』のメンバーがやって来る前にこの場を去ったほうが良いと思った。

「……ありがとう」

 しばらく迷っていた彼女が漸く傘を受け取ると、英斗は彼女よりも先に、そのまま大雨の中に飛び出した。

 きっとあの場所で彼女が渡した傘を広げ、歩いていく背中を見送って、あともう少し屋根の下から雨粒の行方を観察していたなら、きっとこの雨は止んだだろう。でもそうしなかったのは、彼女に気を遣ったからでも何でもなく、ただ自分が濡れて帰りたかったからだ。

 気分が良かった。全身ずぶ濡れで、きっとランドセルの中にある教科書や筆箱も濡れるだろうとわかっていた。いつもと同じ道をいつもと同じように全力で駆けていくだけなのに、そんなくだらないことなどどうでも良いと思えるほどに、爽快だった。

 家のドアを開け、玄関で荒く乱れた呼吸を整えている少しの間に、自分の足元に水溜りができた。濡れたランドセルを脇に置いて、ぐしょぐしょの靴は水溜りの真ん中に置いたまま、足にへばりついた靴下を何とか剥がして部屋に上がる。肌に吸い付く服を一枚ずつ洗濯機の中に放り込みながら、こんなに濡れているなら洗わずに干すだけで良いのではないかと思ったりもした。

 タオルで頭を拭きながら、自分の体がいつもより冷たいような気がした。その辺にある服を適当に来て、宿題をしなくてはと思い、玄関先のランドセルを開けに行ったらランドセルの周りにも小さな水溜りができていて、案の定中まで濡れていた。教科書だけ取り出して部屋に戻り、机の上に置いて乾かすことにした。

 昇降口の彼女は、待ち合わせに間に合ったのだろうか——冷蔵庫から出してきたオレンジジュースを飲みながら、ふとそんなことが頭を(よぎ)った。間に合っても間に合わなくても、自分には何も関係ない。ただ、彼女が予定どおりに母親と楽しい買い物をしてきたら、明日学校でその報告をするだろう。もしかしたら、買ってもらったとでも言って新しい服を着てくるかもしれない。それをあの面々がどんな顔で見るのかは、是非拝んでみたいと思った。

 机の上の教科書はまだまだ乾く気配がない。何となく、頭がぼんやりとして、眠い。

 どうせ乾かなくては宿題もできない。見たいテレビ番組があるわけでもない。床に寝転がりながら窓の外を見ると、雨はもう止んでいるようだった。

 母は今日もまた、モンスターと戦いに行ったのだろうか。あの酷い雨の中、ずぶ濡れになったのだろうか。ニュースを見ていないからもう何もわからない。

 きっと行ったのだろう。雨だろうが、雪だろうが、母は戦いに行く。だって母は、ヒーローだから。風邪をひいていたって、きっと行く。

 母の顔なんて、もうどれくらい見ていないんだろう。いや、見られるタイミングはあるのに、自分が見ようとしていないだけだ。自分の気持ちを話せと言われても、どうしたら良いのかわからない。話したらまた同じことになりそうな気がして怖いから、何て言おうかと考えているうちに、母はまたいなくなってしまう。

 ——……聞きたくもないか。そんなこと。

 お母さんと買い物へ行って、一体どんなことを話すんだろう? 学校のこと? 好きな洋服の話? 夕飯のメニュー? どうやって話すんだろう? 何が欲しいとか、何が食べたいとか言うんだろうか? それでお母さんは困ったり、悲しい顔をしたりしないんだろうか? 

 何にもわからない。

 なんでわからないんだろう? やっぱり自分はどこかおかしいのだろうか?


 ——ぼくが、ヒーローの子だからわからないの?


 やめよう。もう、どうでも良い。全部、面倒臭い。

 眠い。このまま寝てしまおう。そうしたら何も考えなくて済む。なんだか少し寒いような気もするが、もう動きたくもない。

 眠りに落ちる寸前、ふと、もし自分が風邪をひいたら、母は家に帰って来るのだろうかと思った。が、そんなはずはないとすぐに思い直した。だって母には守らなければならないものがある。

 それは、自分ではないもの。

 大丈夫。自分のことは、自分で何とかする。そうすれば誰も傷つかなくて済むし、母の邪魔にもならない。

 もう、それで良いや。

 でもなぜなのだろう? 欠伸を噛み締めただけなのに、目尻から水みたいなものが流れて落ちていった。いや、そんな気がするだけだ。今、途轍もなく眠いからそんな夢を見ただけだ。

 きっと、ただ、それだけ。




 どれくらい時間が経ったのかわからない。ガタガタと騒々しい物音がして目が覚めた。が、頭は起きているはずなのに酷くぼんやりしていて、体が重くて言うことを聞かない。

「——、英斗!」

 葵の声がする。またラーメン食べに行こうと言いに来たのだろう。でもまだお腹が全然空かないし、眠くて瞼が開かない。返事をしようと思うのに、声も出せない。

「英斗、あんたなんでこんなとこで寝てんの⁉︎ 玄関のあれは何⁉︎」

 なんだか珍しく怒っている感じがする。葵が怒るようなこと、何かしたんだっけ? 靴やランドセルをびしょ濡れにしたから?

 葵の冷たい手がおでことか首とかを触っていて心地が良いが、体は相変わらず言うことを聞かないばかりか、背筋が何となくゾワゾワして気持ちが悪いし方々が痛い。

「……寒い」

「当たり前でしょ、馬鹿タレ! あんた熱あんじゃん!」そう怒りながら、葵は自分のことを軽々と抱え上げてベッドまで運んでくれた。「濡れて帰ってきてそのまんまにしたでしょ!」

「ちゃんとふいたよ……」

「拭くだけじゃ駄目なの! おまけにあんなとこで寝て!」

 布団を頭まで引き寄せて丸くなる。葵が怒っているのが怖いのもあるが、何よりそうしないと寒くて仕方がないのだ。

 頭の上のほうで葵の溜め息みたいなものが聞こえ、やがて足元の布団をそっと整えてくれたかと思ったら、ふっとその気配が遠ざかる。

 どこ行くの、と訊きたかったが、訊けなかった。葵が怒っているのは怖くて嫌なのに、一人になるのも怖くて、心の中で早く戻ってきてくれないだろうかと思った。

 おかしい。さっきまで何も掛けずに床に転がっていても何とも感じなかったのに、どういうわけか今は腹の底から寒気が湧いて口から出てきそうだ。力一杯布団の端を掴んで堪えるその手指だけでなく、腕やら背中やらあちこちが痛くて、自分は一体どうしてしまったのかと不安に駆られ、やはり体は震えてカチカチと奥歯が小さな音を立てる。

 葵はどこへ行ってしまったのだろう? 怒っていたし、英斗なんかもう知らないと呆れてしまったのだろうか?

 謝るから早く戻ってきてよ、と布団を被りながら祈っていると、遠くからまた足音が聞こえてきた。

「信じらんない。なんでこの家って薬の一つもないの?」葵は文句を言っているが、その声が聞こえることでひどく安心している自分がいる。

 と、急に頭の下に何か冷たいものが入ってきた。枕の中に何か固いものが入っていて、寒いのになぜかこれがあるとすごく楽になる。

「これ、好き」

 布団の中から気に入ったことを正直に伝えると、葵は一瞬の間の後にほんの少し笑ったように聞こえた。

 何でも良いから、そのまま何か喋っていてくれないだろうか——そんなことを思っていたら、布団からはみ出た頭に何かがそっと触れてきた。

「ねェ、なんでよ? あんたいつも傘持ってんじゃん。それどうしたの?」葵はゆっくりと頭を撫でながら、それまでとはまるで違うとても落ち着いた静かな口調で訊ねてきた。それを聞いて、もしかしたら葵は怒っているわけではなかったのかもしれないと思った。

 正直に言うのは何となく恥ずかしいし格好悪い気がして、代わりの言い訳を探した。が、それを見つけるより先に、葵がとても低い声で訊ねてきた。「もしかして、誰かに盗られた?」

「ち、ちがうよ」

「本当? 隠されたとかじゃない?」

「うん、それは、ちがう。ぼくが……クラスの子に、かした」

「貸した?」

「その……——」葵はクラスで嫌がらせを受けていないかを心配してくれているのだ。その声には疑念が混じっていて、顔は見ていないがたぶんとても怖いから見ないのが正解だ。今下手に真実を隠したらとんでもないことになる。「こ、こまってた、から……お母さんと、待ち合わせ、ちこくしちゃう、って……」

 本当のことを言ったのに、葵はしばらく何も言ってくれず、信じてくれていなかったらどうしようかと内心ひやひやしていた。布団から様子を窺おうにも恐ろしくてとてもできない。

「……——ッとにもォ……」或いは、なぜ、と責められるかと思ったが、違った。溜め息の音は、いつもの優しい葵に戻っていた。「偉かったね。その子、嬉しかったと思うよ」

「……わかんない」

「きっと助かったと思う。……優しいねェ。それ女の子?」

「うん」

「英斗の好きな子?」

「ちがッ、ちがうよ‼︎」どうしてか葵には絶対にそう思われたくなくて、気付いたら布団を()いで飛び出してしまった。葵の驚いた顔がすぐ近くにあって、ほんの一瞬怯んでしまった途端、頭が重くてぐらぐらすることを思い出してしまい、その先が続かない。「ちがうもん、なんでそんないじわる言うの……」

 いつもならきちんと言い返せるのに、それができないのがもどかしくて涙が出てきてしまう。違うのに、これでは誤解されてしまうではないか。葵にそう思われるのだけは、なぜだかものすごく嫌なのだ。クラスの誰かに嫌がらせをされるほうがよっぽどマシである。

「ああ、ごめんごめん、あおいが悪かった!」葵はすぐに謝って、体をぎゅっと抱き寄せて、頭をたくさん撫でてくれる。「英斗があんまり良い子で、可愛いから、揶揄いたくなったの。ごめんね」

 本当に葵は調子の良いことばっかり言う。でもやっぱりこの魔法の手には逆らえないのが、悔しくて仕方がない。

「……お母さんと、待ち合わせって言ったから、おくれたら、かわいそうだなって思っただけ」

「……そっか」葵の左手がトントンと背中を叩いている。「少し待ってたら止んだのに、なんで無理に帰ってきたの? やりたいことでもあった?」

「……」濡れて帰りたかったから、とは言えなかった。それは決して言ってはいけないことのような気がした。「……ごめんなさい」

「謝んなくて良いんだよ。でも、英斗がしんどいじゃない」

「……」

「今度から、雨に濡れたらちゃんとお風呂に入るんだよ。あったかいお湯入れて、肩まで浸かってゆっくり百まで数えるの。わかった?」

 なんでそんな子どもみたいなことしなくちゃいけないんだ、と文句の一つも返してやりたかったが、葵が頭を撫でながらトントンと規則的に体を叩いてくれるのが何とも心地良くて、言うよりも先にまた眠たくなってきてしまう。不思議と先ほどまでの体の震えも、不安も、どこかに消えてしまっている。

「……あおい」眠りに落ちてしまう前に、どうしても一つ言いたいことがある。「一人で大丈夫だから、母さんには連らくしないで」

「なんで?」

「しないで。お願い。あおいももう、帰って良いよ、もう一人で大丈夫だから、ありがとう」

 葵はしばらく黙っていたが、やがて、わかったよ、と頷いた。「幸子さんには連絡しない。でも、私はもう少しここにいるから」

 何となくそれは自分のことを安心させるための嘘のように感じられて、英斗は何度も何度も葵に訊ねた。

「大丈夫。しないよ」葵は何度訊ねても優しくそう返してくれた。「連絡しない。大丈夫だから、もう寝な?」

「本当にしない?」

「うん。でもその代わりちゃんと寝て、早く治して。良い?」

「……うん」

 そんなやり取りを何度も繰り返した。体はしんどいし眠いのだが、葵にくっついているととても安心するし、ゆらゆらされるのが心地良くてできるだけ起きていたかった。だが、ふと葵が自分の代わりに熱を出してしまったらどうしようと考えると申し訳なくなってしまい、どうか葵は元気で、また自分の熱が下がったらラーメンを食べに行こうと迎えにきてくれますようにと祈っているうちに、眠りに落ちてしまった。


* * *


 幸子は夜になって自宅に帰ってきた。英斗はしきりに幸子へ連絡することを拒んでいたが、葵の腹の虫が治まらなかったのである。

 リビングの椅子に座って幸子の帰りを待つ間、葵はずっとテーブルに両肘をついて頭を抱えていた。言いたいことは山のようにあるのに、何をどう言えば良いのかわからない。何を言っても、幸子が変わってくれるイメージができない。様々な想像をして、あれも、これも、全部しっくり来なくて、何度目かもわからない溜め息を吐いた頃、漸く玄関の戸が開いた音が聞こえた。

 さすがに息急いて帰ってきたことは少しホッとしたが、それでも葵が連絡を入れてから、いつの間にか三時間近くが経過していた。もし英斗が部屋で寝ていなかったら怒鳴り散らしていたと思う。

「——……そういうことだから」

 結局、淡々と説明するに徹した。幸子は終始黙って聞いていて、最後に一言だけ、ありがとう、と言った。

 ——それだけ?

 自分が今説明したことをどこまで理解しているのか、まったくわからない。全部受け止めてくれたと思いたいが、彼女の中に葵の思いが沈んだ手応えがないのだ。

「……英斗は、あなたに連絡するなって言っていたの。お願いだからしないでって、何度も、何度も言うの。だから私、わかったって嘘をついた。そう言わないと、あの子は寝てくれないし、大丈夫なふりをしてしまうの」

「……」

「どうしてだと思う? 幸子さん」きっと幸子は答えられないとわかっていて訊ねた。案の定、彼女は押し黙って何も言わない。「あなたに、余計な心配させて、あなたの邪魔をしたくないからだよ」

「……」

「私は母親になったことがないから、母親としてのあなたの気持ちはきっと理解できない。でも、子どもだったことはあるから、英斗の気持ちは、何となく、想像はできる。私は……——」

 声が詰まってしまう。ずっとわかっているつもりだったが、改めてそれを言葉に出すと思うと、途方もなく、ただ寂しかった。自分の見ていたものは夢で、現実は違うのだと認めることになるから。

 それでも、言わなければならないと思った。

 英斗のために。

「私は、他人なんだよ。幸子さん。どんなに仲良くなったって、私は家族じゃない。どうしたって、越えられない一線があるの。母親(あなた)にしかできないことがあるの」

 自分は、代わり。

 どんなことをしても、絶対に一番にはなれない。

 あの子の太陽には、なれない。

「一生懸命背伸びして、聞き分けの良い子のふりをしているけど、英斗はまだ十歳なの。子どもなの。生意気でマセたこと言うけどただのお母さん大好きな子どもなの。ねえ。いつまでそっぽ向いてるつもりなの? いい加減向き合ってやってよ、お願いだから!」

 英斗が頭を撫でられるのが好きなことはずっと気付いていた。でも、本当に頭を撫でてほしかったのは葵にではなくて、幸子だったはずだ。学校で賞をもらったと報告したかったのも、一緒にご飯を食べたかったのも、抱き締めてほしかったのも、本当は全部、葵じゃなかったはずだ。

「忙しいのなんてわかってるよ。でもそうじゃないんだよ。いくら会えなくても、独りにしないでやってよ。どうして教えてあげないの? 世界中の誰よりも愛しているよってこと。違うの? それが……それが、あなたが世界を守る理由なんじゃないの⁉︎」

 思っているだけでは駄目なのだ。声に出さなければ伝わらない。その想いは存在しなかったことになってしまう。

「8号の代わりなんていくらでもいる。でも、英斗の母親に代わりはいないんだからね。それだけは、忘れないで」

 今のままでは本当に守りたいものは何も守れていないということに、早く気付いて。

 言えることはもう何もない。英斗のことは心配ではあるが、それ以上は干渉しないことにして部屋を出た。自分自身、この場に居続けるのは正直キツかったのである。他人のお前にできることなど何もないのだと言われているような気がして、そんなことは当然だろうとわかっているはずなのに、それがなぜかひどく苦しくて、涙が出そうになるから。


* * *


 部屋の戸が静かに開いた音がして、ふと目を覚ました。まだ夢の続きかとも思ったが、いつの間にか暗くなった部屋の床に廊下の明かりが細長く落ちているのが布団の隙間から見えた。

 足音が聞こえるが、葵の音ではないような気がして誰だろうと考えた。この家の中を歩き回ることができるのは自分と葵以外にもう一人いるが、それがその人であるというのは現実味がなさすぎると思った。

 動いたら起きているのがバレてしまうため、静かに目を閉じてじっとしていた。喉が渇いているのに、緊張でますます水が飲みたくなる。

 頭に何かが触れてきて、なんだかとても懐かしい気持ちになった。同時に、やっぱり葵ではないと確信した。葵はこんなにぎこちなく頭を撫でたりしないし、この匂いは葵のものとは違う。

 ——それじゃあ、まさか、本当に……?

 薄目を開けて見てみると、頭に触れていないほうの手がすぐ目の前に置いてあった。また傷が増えているような気がする。

「ごめんね。起こしちゃった?」

 頭を撫でていたのは母だった。

 なぜ? 驚きよりも戸惑いのほうが大きかった。やっぱりこれは夢の続きなんじゃないかとさえ思う。仕事はどうしたのだろう? ヒーローは? 8号は? こんなところにいる場合じゃないだろう?

「あおいが連らく、したの?」

「違うよ」母はゆっくりと首を横に振った。「今日は仕事が片付いてね。たまたま早く帰ってきただけ」

 直感で、それはきっと嘘だと思った。絶対に葵が連絡したに決まっている。

 それでも責める気にはなれなかった。もし母に会ったらどんな顔をすれば良いのか、何を言えば良いのか——取り止めもなく考えていたはずなのに、そんなことはそっちのけで、単純に、なんだかとても嬉しいと感じている自分がいるのだ。

 ——なんで? なんでだよ?

 意味がわからない。こんなところにいるよりも、大事なものがあるんじゃないのかよ?

 いいよ、早く、仕事に行きなよ。別に、一人で平気だし、寂しくもないよ。そんなところにいてくれなくたって……——。

「英斗、ごめんね」

 ヘタクソ。

 母は頭を撫でるのが本当にヘタクソだ。

 間近で母の顔を見るのは久々だった。恥ずかしさと、嬉しさと、腹立たしさと——身体中であらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合っている。このままではもっと熱が上がってしまいそうな気がした。でもぎこちなく頭を撫でるその手は退けてほしくなくて、そっと布団を引き上げて顔を隠した。

「……行かなくて、良いの?」

「うん、今日はもう良いの。お母さん、ここにいても良い?」

「……うん」

 ——悔しい。

 嬉しいなんて思っちゃいけない、とわかっているのに、思ってしまう自分が悔しい。

 母は最強の8号、ハッピー・シャイニーなのだ。今だって、きっと本当はこんなところにいる場合じゃない。くだらないことで風邪なんかひいてって、怒っているかもしれない。母は疲れていても、雨が降っていても、世界のために、みんなのために、一生懸命に頑張っているのに。

 なんで帰って来た? 葵からの連絡なんて、無視したら良いじゃないか。

 いつも一人だったんだ。なんで今さら? 少しくらい調子が悪くたって、別に、……——。

 平気だよ、一人で——その言葉が、どうしても出てこない。特別なご褒美をもらったような気分で、この時間が終わらなければ良いのにと、つい考えていることに気付く。

 ご褒美なんてもらう資格は、自分にはないのに。

 今さら期待させないでほしい。そんなことをされたら、もしかしたら自分には、まだ少しくらい価値があるんじゃないかと勘違いしてしまう。

 でも、どうしても言えない。言いたくない。

 本当に、嫌だ。

「ごめんね」

 母は相変わらずぎこちない手つきで頭を撫でながら、何度も何度も謝ってくる。だが、何に対して謝っているのかよくわからない。ただ、何となく自分も謝らなくてはいけないような気がした。この前、仕事があったのに学校に来させてしまったことも、酷いことを言って、手を振り払ってしまったことも。

 思い出すと未だに怒りは再燃する。でも、母のことはわかっていたじゃないか。母が世界を大事にしていることも、みんなのヒーローだから迷惑を掛けたらいけないということも、自分が一番、それで良いと思っていたことも。

 だって自分は、ハッピー・シャイニーである母のことが好きだったのだから。

 全部わかっていた。わかっていたのに、全部、我慢できなかったのは、自分だ。

 だから、謝ろう。熱が下がって、平常に話ができるようになったら、自分の言葉でちゃんと謝ろう。そして誰が何と悪口を言っても応援しているんだって、頑張ってねって、伝えよう。


 ——……そう、思っていた、のに——。


 次に目を覚ました時には、着ていたパジャマが湿っていて、代わりに重たかった体がすっかり軽くなっていた。

 いつの間にか母の姿が見えなくなっていた。代わりに、耳を澄ますと、部屋の外から誰かの話し声が聞こえる。布団を抜け出してそっとドアに近づき、少しだけ押し開けて隙間から覗いてみるが、玄関には誰もいない。

 声はリビングのほうからしている。忍び足で部屋を出て声のするほうに近づいていくと、ベランダの戸の前で話をしている母の後ろ姿が見えた。

 向こう側にいる話の相手は、3号——スカイ・ハークだった。

 ドキッとした。葵が変身した姿で家に来るなんて初めてのことだ。それに母と話をしている顔つきも、英斗が普段見ているのと違う、少し怖い顔なのだ。

 ——何かあったのだろうか?

 心臓がドキドキしている。もしかしたら覗いてはいけない内緒話だったのかもしれないと思うのに、好奇心がせめぎ合っている。小さな声でぽつぽつと話すから内容がよく聞こえず、気になって仕方がない。

 どうしよう? 見つかったら、怒られる? ベッドに戻って、見なかったことにしたほうが良いのだろうか?

 でも、でも——。 

 そんなことを考えて狼狽えているうちに、3号がふっとこちらに視線を振った。

「あ、英斗、起きたの?」

 英斗が覗いていることに気付いた3号は、パッといつもの笑顔に戻って声を上げた。母も釣られてこちらを振り返る。「気分どう? 大丈夫?」

 見つかってしまったので、おずおずと母の隣まで歩み寄る。「うん……大丈夫」

「良かった、良かった」3号は微笑みながらいつものように頭を撫でてくれた。「無理しちゃダメだよ? ゆっくり休みな?」

「葵、戦いに行くの?」

 その質問をした途端、ニコニコと優しい笑みを浮かべていた3号の顔が、ほんの一瞬強張った。「……うん。今日は大入りらしくてさ。ちょっと行ってくる」

「母さんは?」

「8号はお休み」

「えっ⁉︎」

 その言葉に驚いたのは、英斗だけではなかった。激しく頭を振る母はいつにも増して必死だった。「駄目、3号、それは駄目! アタシも行くから——」

「幸子さんは来なくて良い。大丈夫だから」

「でも、——」

「大丈夫だって」食い下がる母を3号は冷静に制した。「今日はみんなのヒーローじゃなくて、英斗のお母さんでいてあげて」

「……」

「他にもヒーローはいるんだしさ、大丈夫大丈夫。私を誰だと思ってんのよ」

 3号はそう言って、三日月のような目をして笑った。母はすぐには頷かなかったが、相当な間迷っていて、やがて最後に、わかった、と頷いた。

「気を付けてね」

「うん、ありがとう。じゃあね、英斗。お大事に」

「あおい!」

 急いた様子で身を翻し、ベランダの手摺に片足を掛けた3号を咄嗟に呼び止めた。状況はまったく知らないが、胸の辺りが騒がしい。

 なぜだか、これでもう葵の顔を見るのは最後になるのではないかという、とても嫌な予感がした。

「また、ラーメン、連れて行ってくれる……?」

 その予感は杞憂だと打ち消してほしかった。

 スカイ・ハークは強い。ドジな母のシャイニーをいつも助けてくれる、最強よりも強い、真の最強のヒーローだ。だから絶対に負けるはずなんてない。けれどこの時はなぜか不安で堪らなかった。母がそういう顔をしていたからか、自分の体調が万全でなかったからか、或いは3号の後ろに広がる空がどんよりと曇っていたからかもしれない。

「……もちろん」

 3号はにっこりと笑って、左手の小指を差し出した。その意味がわからず首を傾げていると、それを察した彼女が説明してくれた。「これはゆびきりと言ってね、小指同士で握手をする約束の儀式だよ」

 言われたとおりに自分の小指をそこに巻き付けると、彼女は軽くその手を上下に振った。「これでね、約束を破ったら、酷い目に遭って地獄に落ちるのさ」

 びっくりして、固まってしまった。なんと恐ろしい儀式だろう。だが、英斗が慄く間もなく、彼女は結んでいた指を切ってしまった。

「大丈夫。帰ってきたら、ラーメン行こう」

 3号はそう言って、一人で前線に旅立った。

 英斗は裸足でベランダに飛び出し、3号がいた手摺にしがみついた。湿り気を帯びた生温い風が吹いていて、手が触れる金属の手摺だけがやに冷たく感じた。決して心地良いとは言えない、肌に纏わりつくような風の中をまるで飛んでいるかの如く駆け抜ける3号の姿を肉眼では捉えられなくなっても、英斗はずっと街を見ていた。

 左の小指に、まだ葵の感覚が残っている。

「……英斗」

 やがて、母が部屋の中から声を掛けてきた。「汗かいてるでしょう? 着替えて、ご飯食べようか。何が食べたい?」

 母はこの日、一度もテレビを点けなかった。何となく、点けてはいけないような気がして、英斗自身も点けようとはしなかった。ただ外が普段より騒がしくて、モンスターが現れた時に鳴る警報の音が、遠くで何度も鳴っていたと思う。それでも、母はこの日ハッピー・シャイニーに変身することはなかった。

 後に、人はこの日の戦いのことを『決戦』と呼ぶようになる。




 日が傾き、気付くと鳴り続けていた警報の音が聞こえなくなっていた。

 ベランダの向こうが暗くなると、母は電話の前をうろうろと歩き回っては数分ごとに受話器を上げてどこかへ電話を掛け、その向こうにいるのであろう人物にしきりに何かを訊くようになった。小さな声ではあったが、確実に焦っていて、それが時間の経過と共に徐々に酷くなっていくのは感じていた。

「……母さん、どうしたの?」

 声を掛けて良いのか躊躇ったが、もう何度目か数えることもできないほど受話器を取る母の様子を見て、結局訊いてしまった。只事ではないのだろうと予想はしていたが、言葉はなくとも、振り向いた母が浮かべていた顔色でそれが良くないことだというのは察した。

「あおいが、どうかしたの?」

 なぜそれが葵のことだと思ったのか、自分でもわからない。葵のことではないと言ってほしかったのかもしれない。

 しかし——。

「……どうもしないよ」

 心臓が止まりそうだった。

 その一言で、何かあったのだなと、確信した。

「行ってよ、母さん‼︎」気付いたら叫んでいた。「ぼくもう平気だよ、熱もない! だからあおいのところへ行ってよ!」

 喋りながら頭がぐらぐらしている。風邪のせいなんかじゃない。

 嘘だよ。だって、約束したじゃないか。

 またラーメンに連れて行ってくれるって言った。葵は約束を破ったりなんかしない。約束を破ったら酷い目に遭って、地獄に落ちてしまうんだから。そんなこと、絶対にしない。絶対に——


 ——しない、よね……?


「母さん‼︎」

 家にいなさい、と言って、母は玄関から飛び出していった。

 一人になった瞬間、膝がガクガクと震えて力が入らず、その場にへたり込んでしまった。


 ——ぼくのせいだ。

 ぼくが熱を出したから母さんは、8号は、戦いに行かなかった。

 今日、母さんがぼくの母さんだったから、あおいは一人で行ったんだ。

 3号のことを——あおいのことを守れるのは、母さんしかいなかったのに。

 あおいに何かあったのなら、それは、それは——。


 思い知る。結局、自分には何もできない。ただこの部屋の中で、どうか、葵が無事でありますようにと、いるのかどうかもわからない神様に祈ることしかできない。

 そんなこと、何の役にも立たない。

「ごめんなさい……」

 部屋の真ん中で呆然と、長い夜が明けても、母は帰って来なかった。


* * *


 死亡——5号、スプリング・オリーブ

 軽症——2号、アンバー・スターライト

     4号、リリハ・ブロッサム

     7号、バイオレット・ホライズン

     9号、シャドウ・シリウス

 重症——1号、フレア・スカーレット

 不明——3号、スカイ・ハーク

     6号、クリア・アイリス


 討伐個体数——十二


 ——それが夜になって幸子が漸く電話で聞き出した、本部所属ヒーローたちの今日の討伐状況だった。

 唖然として言葉もなかった。今日は異様に出現数が多いと、朝方やってきた3号から聞いてはいた。だが、まさかここまでになるとは正直想像もしていなかった。一日に十二体なんて数字はこれまで十年以上ヒーローをやってきた幸子でさえも見たことがないし、誰かの武勇伝にすら聞かない。おそらく前代未聞だろう。

 やっぱり行けば良かった。あの時、3号を振り切ってでも。

 そうしたら少しは何か、違う結末をもたらすことができたのかもしれないのに——。

 電話口で言われた『不明』の意味が理解できず、何度も訊ねたが、確認中であるという回答しか得られなかった。3と6の数字がどこに収まるのか、知りたい気持ちもあったがそれ以上に怖かった。

「行ってよ、母さん‼︎」

 英斗に言われて家を飛び出した。母親のままここで待っているのは、もう耐えられなかった。

 本部へ行き、3号はどこにいるのかと訊いたが、情報が錯綜していて会社の人間ですら詳細を把握できていなかった。駆け回る担当者を捕まえることができず途方に暮れていた時、机の上に放置された殴り書きのメモ用紙を見つけた。幸子が電話で聞いたのと同じ内容の戦績リストの中に、赤いペンで追記されている。

 討伐個体数に勢いよく斜線が引かれ、十三に修正。そして死亡の欄に、6。重症の欄に、3——。

 3号と6号が行動を共にしていたのかはわからない。しかし最後の一体は、3号が殺ったのだと思った。

 顔から血の気が引いていくのを感じる。ひとえに重症と言ったって程度がある。骨を数本折ったくらいならまだ良い。だが、既に予断を許さぬ危篤状態で、容体が急変し、リスト内を移動することも十分あり得る。

 ——「大丈夫大丈夫。私を誰だと思ってんのよ」

 全然、大丈夫じゃないではないか。

 行けば良かった。一緒に。あの瞬間に戻れるのなら必ず一緒に行く。

 あちらこちらの大きな病院や、緊急の受け入れをしている医療センターに手当たり次第に電話を掛け、居所を探した。十件、二十件——民間人の負傷者も相当数出たようで、受け入れが重なり繋がらないところもあった。そうしてやっとのことで隣県の大学病院を突き止めたのは、ほんのりと夜明けが近づく頃だった。

 いてもたってもいられず、朝まだきの街へ駆け出した。

 最初に行った時には、会えなかった。家族ではないからとあまり詳しい状態は教えてもらえなかったが、薄暗い廊下で何時間も待つうち、幸子がシャイニーだと気付いていた看護師の一人が、見かねてこっそりと教えてくれた。手術が終わっても意識が戻らず、集中治療室で全身管だらけだという。

「左腕しか失くならなかったのが奇跡」——そう、説明されたが、頭がついていかず言葉の半分も理解できない。


 しか、なくならなかった、って、どういう意味?

 じゃあ左腕はどうしたの?


 現状を知ったところで帰るなんてできなかった。帰ったって、英斗に何と言えば良い? 葵は大丈夫だったと報告もできない。その場でさらに何時間も、何時間も待って、時折医者や看護師が慌ただしく部屋を出入りする度に、それが葵のためではないことを祈り続けた。

 ——何にもできない。自分は、ヒーローなのに。

 幸子のほうが倒れたら元も子もないからと看護師に説得され、会社と病院との間を行き来した。そうして何度目かの朝が来た日、病院へ行くとちょうど部屋から出てきたあの親切な看護師と目が合い、彼女は幸子に向かって微笑みながら小さく手招きをした。

「何してんの、幸子さん」

 全身管だらけ、包帯だらけ——ベッドに寝たまま、相変わらずの生意気な物言いで半笑いを浮かべた葵は、近寄ってきた幸子を見るなりそう言った。

 咄嗟に言葉が出てこなかった。現実についていけず呆然としてしまって、その場に立ってはいるが、足が床についている感覚がしない。真っ白な布団の上に置かれた左腕は中途半端な長さで、包帯の巻かれた先端は丸みを帯びて未だに血が滲んでいる。

「ここにいること、よくわかったね」

「……」

「酷い顔ね。可愛いのが台無しじゃない」誰の台詞だろう。少なくとも自分ではない。「英斗は?」

 自身のことなど興味はないとでも言うかのように平然と訊ねてくる。こんな時まで、他人の心配なんかしなくて良いのに。

「……元気だよ」

 やっとのことで答えると、彼女は嬉しそうに相好を崩した。「話、できた?」

「……うん」本当は話なんかできていない。ただこの状況でできていないなどとは口が裂けても言えず、頷くしかなかった。「アンタのことを心配してる」

「なんで」

「何があった?」

「私のことより早く帰ってあげなよ。また一人にしてるんでしょ?」

「葵!」

 彼女は話すのを渋った。が、どう考えたって、納得がいかないのである。

 3号のメイン武器は、遠距離型のライフル銃。彼女が通常の戦い方をしたのであれば、敵と近距離で接することはまずない。銃が暴発したとか、爆薬の使い方を誤ったとか、何かそういう事故でもない限り腕がなくなるなんてことはあり得ない。

「なんで? なんでアンタがそうなる? ねェ、——……」

 考えても、考えても、目の前の現実が結び付かない。頭の中に出てくるのは「なぜ?」という疑問、そして、後悔ばかり。

 奥歯がガチガチと音を立てている。必死に堪えていた。一度溢れ出したらきっともう止められない。怒りも、涙も、悔しさも。

「……フリーズしちゃって」

 やがて観念したのか、葵は重たそうにしていた瞼を閉じて、ぽつぽつと言葉を漏らした。

「はじめは、ペアで、やってたの。でも、数が多すぎて、途中から、単独戦になった。みんな。それで状況が、落ち着いても、5号と……6号が、帰ってこなかった、から、探しに行ったの。まだ動ける人……1号は落ちていたから、私と……誰、だったっけ? 6号は、見つけたけど、もう、駄目で……」

 会社の机の上で見たリストを思い出した。既に死亡者リストにあった5号、そして、後から加えられた赤い文字——6号。

「それで、えっと……——」葵はまるで他人から聞いた誰かの話を喋っているかの如く、淡々と頭の中で記憶を再生させている。「……ああ、そう、残っていたの、もう一体。それで、戦闘になったんだけど、すぐフリーズしちゃって、それで、……それで……」

 咄嗟に葵の右手を掴んだ。話は聞きたいが、もう話さなくて良いと思った。これ以上、思い出させたくない。

 驚いて目を開けた彼女と視線が重なり、激しく首を横に振った。声は出なかった。知らないうちに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。

 それでも、彼女は再生するのをやめなかった。

「……手榴弾を、持っていたの。左手に。あれ、美味しそうに見えたのかなァ? ちょうど、噛み付いてきたから、だから……——」

 ——……まさか、——。

「……ピンを、抜いたんだよ。自分で」

 フリーズしていたら、逃げることはできない。そのまま何もしなくても、その状況の先に待っているのは死のみ。

 だからせめて、相打ちにするつもりだったのだろう。

「……なんで……——」悔しくて、声が震える。「応援を、呼ばなかった……?」

「だって、みんな、ボロボロだったし……——」

「なんでッ……——」

 いたじゃないか。

 まだ、傷一つ付いていないヒーローが、もう一人。

「なんでアタシを呼んでくれなかったんだよ⁉︎」

 理由なんて、訊かなくてもわかっていた。葵は、あの日の幸子をどうしてもヒーローにしたくなかったのだ。

「馬鹿なの⁉︎ 葵、なんでよ、なんで……」

 前線にいた葵は悟ったのかもしれない。

 今日、自分が生きて帰れるか、わからない。そんな場所に、幸子は呼べない。もし呼んで帰すことができなかったら、英斗はどうなるのかと。

 馬鹿は、自分のほうだ。

 なぜあの時、行かなかったのだろう? 3号の背中を追わなかったのだろう?

 止められたって、何だって、行けば良かったのだ。自分の意志で、自分の足で。

 防げたことだ。自分がいれば彼女は左腕を失わずに済んだ。

「ごめんね」

 なんで葵が謝るんだ。

 今さら気付いた。3号は、葵は、はじめからずっと『自分が生きること』に執着していなかった。

 何となく掴みどころがなく、一見しっかりしているようであるにもかかわらず、まるで一本の細い綱の上を笑いながら歩いているかのような不安定さと儚さを纏っている——それがいつも幸子が葵に対して抱いていた、漠然とした印象だった。戦闘能力は申し分なく、8号が最強と言われているのがおかしいと自覚してしまうくらいに、3号は強かった。それなのに、なぜ?

 それは、迷いがなかったからだ。

 ——「あなたのフォローをするのが私の役目」

 あの言葉にはそういう意味も含まれていたのだろう。

 強かったのは、その役目のために、自分自身が傷つくかもしれないという躊躇いがなかったからだ。彼女は常に、相打ちになっても構わないと考えていたのだ。

 あまりにも遅すぎる。もしそのことに気が付いていたのなら、自分は絶対に3号を一人でなど行かせなかった。なぜ、もっと早くに気が付かなかったのか。自分はいつだって、一番近くにいたのに。

「帰っては来られたけど、ヒーローはもう無理かなァ……」

 幸子が泣いている横で、葵はずっと笑っていた。けれど、唯一、無機質な天井を見つめてそう呟いた時だけは、どこかとても寂しそうに見えた。




 それからどうやって家まで帰ったのか覚えていない。

 道すがら、頭の中を支配していたのは仲間(ヒーロー)の顔だった。葵だけじゃない。死んだオリーブやアイリスだって、決して知らない顔ではない。何度も一緒に前線に出たし、くだらない世間話もした。オリーブは最年少の女の子だった。彼氏が欲しくて合コンに行くのにすぐ呼び戻されて話にならないと満更でもない様子で嘆いていたのはつい先週のことだ。アイリスは昨年初めての子どもが生まれてパパになったばかりで、自分の子が饅頭みたいで可愛いと緩み切った顔で笑い、家に帰りたいからといつも誰よりも早く任務を片付けてくる人だった。

 自分が行ったところで、結果は同じだったのかもしれない。それでももしかしたら何か、ほんの些細な一つでも、変えられる運命があったかもしれない。彼らが恐怖と闘い、生きて帰りたいと願っている間、自分は何をしていた?

 彼らが己の欲しいものよりも、最期まで目の前の敵と戦うことを選んでいる時に、自分は何をしていた?

 ——これが、ヒーローだって?

「……」

 気が付くと玄関に立っていて、廊下の向こうから英斗が走り寄ってきた。数日ぶりに見る幼い顔は強張り、色が白い。

「……あおいは……?」

 おかえりの挨拶よりも先に、そう訊かれた。ずっとその答えが帰ってくるのを待っていたのだろう。

 自分自身、どんな顔をしていたのだろう?

 こんな時こそ自分が気丈でなければならないのに。自分は、母親なのだから。

 ——母親?

「生きているよ」

 パッと、目が丸くなり、血の気のなかった頬に赤みが宿る。その小さな体いっぱいに溜め続けていた息を漸くすべて吐き出せたのか、両手で胸の辺りを撫でながら、浮かんできてしまう笑みを堪えようと躍起になっているのが幸子にもわかる。

 そうだ。本当なら、この反応が正常だ。何を失おうと命があるというだけで十分なはず。それなのに同じように喜べない自分がいる。

「いつ会える?」

 案の定、英斗はそう訊いてきた。葵の予想どおりだ。

 英斗に嘘は通じない。だから冷静に、正直に話して——葵はそう言っていた。だが、どうして冷静でいられよう? この顔に、一体何と伝えれば良い?

「……すぐには、難しいね。葵、入院しているんだよ」

「えっ……けが、したの?」山の天気よりも酷い変わりようだ。「どうして? あおい、大じょうぶなの?」

 前のめりになってしきりに訊いてくる英斗の姿を見ていられず、思わず顔を背けて口籠ってしまった。その回答を用意したいのに、どう伝えるのが正解なのかわからない。

 冷静に、正直に——?

 この目で見てきたばかりの葵の姿が脳裏を過ぎる。彼女はたしかに大丈夫だと言ったが、幸子から見ればまったく大丈夫なんかじゃない。それに本人も口にしていたが、回復したところで腕が生えてくるわけではない。これから先、一生葵の左腕は肘まで——ヒーローへの復帰は、絶望的だろう。

 それを大丈夫だと伝えたら、嘘をついていることにならないだろうか?

「母さん……?」

 どうしたら良いのだろう?

 夕暮れの川辺で、英斗に手を振り払われた時の感覚が蘇ってくる。

 今、もし伝え方を間違えたら、きっと英斗を一生傷つけることになる。そういう予感がする。でも、わからない。何が正解で、何が間違っているのかが幸子にはわからない。

 一番わかっていなければならない時なのに。

 母親なのに。 

「……何か、あるの……?」

 ——ごめん、葵。アタシわかんないよ。

 葵なら、何て言う? どうする?

「母さん?」

「葵は……——」

 だって自分自身がまだ、受け止め切れていない。認められていない。葵が——3号がもう、いないなんて。

 全然、大丈夫なんかじゃない。

 だって、もう、彼女は——

「葵はもう、ヒーローには、なれない」

 英斗は一瞬キョトンとして、それから段々と顔色が変わっていった。察しの良い子だ。きっと、それが何を意味しているのか、心のどこかで察しているのかもしれない。

 葵はたしかに生きている。

 しかし、3号、スカイ・ハークは死んだのだ、と。

「……どう、して?」

 どうして?

 答えは、一つしかない。

 自分が、——

「アタシが……、……」


 ハッピー・シャイニーがいなかったから。


 そう考えるのは、自惚れかもしれない。

 でももし、あの時——

「母さん‼︎」

 少なくとも、もしその瞬間に自分がいたならば、彼女は左腕を失くしたりなどしなかった。

「……片方の手が、ない」

 全部、自分のせい。

「うそだ……」

「本当だよ。モンスターと戦って、左の腕を、切断したんだ」

 冷静に、正直に、幸子は頷いた。自分にそっくりなまん丸の瞳が、悲嘆と絶望を纏ってこちらを見ている。それを目の当たりにした瞬間、自分の心配は徒労だったのだと気付いた。たとえどんな伝え方をしたとしても、きっと英斗は同じ反応をした。

 こんな顔、させたくなかったのに。

「だから、もう、葵はヒーローには、なれない」

 口にした瞬間、これからのことが頭の中を駆け巡った。これからは、自分一人で行かなくてはならない。前線に行くのも、モンスターと戦うのも、全部、一人だ。

 ふと、考える。

 ——もし、自分も同じように死んだら?

 英斗はどうなる? この子には父親も、兄弟もいない。誰がこの子の味方になってくれる?

 3号、スカイ・ハークはもういない。いくら背面が隙だらけでも、自分で守らなくてはならない。そして、帰ってこなくてはならない。何があっても、あの死亡者リストの中に『8』の数字を載せるわけにはいかない。

 自分にそれができるか?

 ——「あなたのフォローをするのが私の役目」

 いつも必ず後ろにいて、そう言って助けてくれる3号はもういない。

 できるか?


 たった一人で世界の果てへ行くその覚悟が、自分にはあるか?


 たった、一人で——。


* * *


 葵が病院を出て、やっとのことで会社に顔を出すことができたのは、あの戦いの日から約ひと月が経った頃だった。

 予想はしていたが、中途半端に垂れた左の袖を見た誰もが呆然と言葉を失い、明らかに狼狽えていた。それはそうだろうと思ったから特別気には留めなかった。いくら同じ会社に勤めているからと言ったって、前線での出来事を実際にその目で見たことがある人なんてほんの僅かだ。ほとんどの場合は自身には関係のないテレビの向こう側の話で、しかも特にここ最近、ヒーローに対するバッシングが凄まじい中での今回であったから、そこで死亡者が出たり再起不能な怪我を負った人間が目の前に現れたら、反応に困るのは当然だ。世界を守るのがヒーローの責務であるから怪我や死など当たり前だと言う者も中にはいたが、それはごく少数で、あれだけ叩かれたのにそうまでして守ってくれたのだと後ろめたく思う者が大半であった。

 幸子も微妙な反応を示した一人であった。一ヶ月ほど前に病院で一度会ったきり、彼女は再び訪ねては来なかった。こんなに長期間にわたって彼女の顔を見なかったことなんて、おそらく今までなかったのではないかと思う。

 すっかり元どおり、とまでは行かないが、元気になったことだけは伝えておかなくてはと思い、会社に来て早々に姿を探したが、通常いるはずの控え室にはいなかった。またマスコミ対応か、或いは決戦で一気に人手不足に陥ってしまった煽りを受けて巡回に出ているか——などと想像しながら各所に挨拶をして回っていた時、廊下でばったり出会した。その瞬間の彼女の困惑した顔色を見て、単に自分を避けていただけだと感じた。

「久しぶりィ、元気だった?」

 精一杯にいつもの葵として挨拶をしたつもりだったのに、彼女はやっとのことで小さく首を縦に振っただけで会話がまるで続かない。

「ねェお通夜みたいな顔すんのやめてよ。私、まだ死んでないんですけどォ?」

「……ごめん……」

 これまでどんな現場にあっても、アタシを誰だと思っているんだ、と本物の太陽のように燦々と笑顔を絶やさなかった彼女が、まるで深夜の中にいる。

「あ、そうだ、聞いて?」幸子の抱く無駄な自責の念が少しでも軽くなれば良いと思い、つい先ほど決めたばかりの最新情報を提供することにした。「私、会社に残ることにしたの」

「えっ?」

「正直、辞めようと思っていたんだけどね、裏やらないかってスカウトされちゃった」

 ヒーローを『表』とするならば『裏』——黒衣と呼ばれる彼らの存在は社内でもあまり知られておらず、謎に包まれている。その名のとおり、ヒーローが表で活躍する傍らに寄り添い、前線に赴く前の偵察やモンスターの分析などのあらゆるサポートを行なっている集団らしい。葵自身も小耳に挟んだことがある程度で、実在するのかは信憑性に欠けると思っていたが、先ほど本部長を訪ねていった際に黒衣部門のトップだという人物がおり、良ければこちら側に来ないかと誘われた。

「噂には聞いてたけど本当にあるんだねェ、『裏方』。まァ、シャイニーに会うことはあんまりなくなっちゃうかもしれないけどさ、これからもよろしく」

 葵はそう言って右手を差し出した。

 会社に残ることがわかれば少しはホッとした表情を見せてくれるかと思っていた。だが、予想に反して、幸子はその手を取るどころか、泣き出しそうな顔をして俯き、黙り込んでしまった。

「……どう、したの? 幸子さん」

 さすがに、不安になる。

 幸子は差し出された葵の右手を見つめながら、自身の両の手を体の前でぎゅっと握り締めていたが、かなりあって、ゆっくりとその瞳を閉じた。

「……葵、アタシね、……——」

 消え入りそうな声は震える吐息と共に葵の鼓膜を揺らした。


「アタシ、もう、ヒーローは辞める」


 その意味を理解するのにかなりの時間を要した。

「……え?」

 心臓の音って、こんなに煩いものだったっけ?

 おかしい。よく知っている言語であるはずなのに、幸子が何を言っているのかわからない。懸命に理解しようと努力しているのに、頭が空回りして一向に呑み込めない。

「……どういう、こと? なんで、……——?」

「……8号は、引退する」幸子は足元を見つめたまま表情を変えず、また押し黙ってしまった。

 何かあったのか——訊ねても幸子は首を横に振るだけで、その固く結ばれた口を開こうとはしない。

 自分で自分がひどく動揺しているのがわかる。落ち着かなければと思うのに鼓動は速まるばかりで、言葉が出てこない。

「待っ、てよ……」真っ白な頭の引出しを必死に掻き漁る。「なんで、引退するの? 8号がメディアに叩かれてるから?」

 今、先日の戦いに8号が出てこなかったことについて、世間の批判が集中していることは葵も知っている。ここ最近の8号へのバッシングは目に余るものがあり、死亡した5号、6号の追悼番組では必ずと言って良いほど「8号のせい」とも取れる報道がなされているし、3号が怪我で引退するということが報じられた時もそれはそれは酷い言われようで吐き気がするほどだった。

 だが、来るなと言ったのは葵だ。途中で呼び出さなかったのも葵自身であり、他のヒーローたちもその判断を支持した。そしてその現場の判断を本部が最後まで良しとして、たとえ戦況が厳しくなっても強制的に8号を引き摺り出さなかったのは、8号を『最終兵器』として温存しておきたいという目論見があったからに他ならない。しかしそれが、葵の——強いては皆の意に反してメディアに良いように切り取られ、あたかも8号を気遣った他のヒーローたちが素晴らしい英雄であるかの如き表現で報道されてしまっている。

 あの日前線にいなかったから、何だと言うのだ? 8号だってただの人間だ、万能ではない。いれば犠牲者が出なかったという保証なんてどこにもない。ヒーローのくせに家族を取った——何がいけない? 自分と家族が一番大切だと考えることの何が悪い?

「ねェどうしてよ、幸子さん。会社にそうしろって言われたの? 人手足んないって言ってんのにそんなこと……」

 案の定、幸子はゆらゆらと頭を振った。そんなこと言うはずがない。むしろこの状況なら、逆に止めるはずだ。どんな手段を使ってでも。

 沈黙はとても長く感じた。だいぶあってから、漸く幸子はその『理由』を口にする。

「……もっと、英斗との時間を、大事にしようと思っただけ」

「……は?」

 なぜ?

 それを聞いて、真っ先に浮かんだのは疑問だった。納得できないほうがおかしいのかもしれない。母親が仕事より子どもを取るというのは決してあり得ない話ではない。しかしいくら頑張っても頭の中には疑問しか出てこない。

 だって、目の前で話をしている相手は幸子だよな?

 あれほど言っても、聞かなかった人が——?

「……何、それ……?」

 何度も言った。何度も、何度も、英斗と向き合ってと言った。家に帰らなくて良いのかと訊ねた。世界のことよりも英斗を見てと頼んだ。それでも、彼女はいつだって世界を選んできた。必死に母親に呼び掛けようとしていた英斗から、顔を背けて。

 それを今さら、捨てると言うのか?

「本当の理由は何?」

 納得できるわけがない。

 あの日彼女は前線に出なかった。そのおかげで彼女は無傷のままここにある。メディアの批判なんて時が立てば鎮まるし、モンスターはこれからもやって来る。どんなに不満があろうと、世間は8号を受け入れざるを得なくなるだろう。

 一体何の問題がある? ハッピー・シャイニーはこれからもみんなのヒーローで、史上最強という称号は変わらずあり続け——……


 ——まさか。


「私のせい……?」

 ハッとして顔を上げた幸子は、一つ遅れて自身の浮かべた表情に気付いたのだろう。再び顔を背け、狼狽えている。体に掛かる長い髪の一房をその手に握り締め、必死に理由を探しているのがありありと見て取れる。

 そうだ。幸子は、そういう人なのだ。

 史上最強の真の姿は欠点だらけである。ドジで、おっちょこちょいで、特に背中側はいつ攻撃されても不思議ではないほど隙で溢れている。それでも常に前だけを向いて戦ってこられたのは相棒が——3号がいつだって、それを守っていたから。

 でも、8号だって強い。葵が3号として幸子の下につくよりずっと前から、幸子の8号は最強のヒーローだったのだ。葵がどんなに訓練を積んでも、彼女のスピードには追いつけなかった。3号だって、他のヒーローたちだって、彼女のそれに幾度となく助けられて来たはず。

 だからそんなつまらない理由で——たかが同僚が一人、共に働けなくなったくらいで、8号を手離すだなんて考えたくなかった。

「私が腕を失くしてきたから?」

 せめて否定してほしかった。

 そんなわけないだろう、といつもどおりに笑って。アンタなんかいてもいなくても同じ、アタシを誰だと思っているんだ、と、いつもどおりに笑い飛ばして。

「ねェ、——」なぜ黙っている? なぜ否定しない? 「なんでなの、ねェ……! スカイ・ハークがいないから⁉︎」

「違う、——」たしかに彼女は強く、必死にそれを否定してくる。「それは違う、それは関係ない!」

「じゃあなんでなのよ⁉︎」

 でも違う。幸子は、嘘をついている。

 それがわかってしまう。それが、また、悔しくて仕方がない。

「アンタのせいじゃない……」何でも上手くこなせない自分が悪いだけなのだと、幸子は頭を振りながらそればかりを繰り返す。「アタシはただ、英斗ともっと一緒にいたいだけなの」

「違うでしょう⁉︎」

 ——なんでよ?

 幸子は英斗と向き合うのが怖いと言った。自分は息子をこれ以上傷つけるからと逃げて、皆の、世界のためのヒーローであることを選んだ。それなのに、今度はそれからも逃げるのか?


 ——その言い訳を、英斗に押し付けるつもりなの?


「……ふざけんなよ」聞こえてきた自分の低い声が震えていることに気付く。それは怒りのせいか、嘆いているのか、分別がつかない。「何だよ、それ……」

「……アンタにはわからないよ」

「わかってないのはあんたのほうだ‼︎」

 本当に、ここまでわかっていないなんて。

 そんな辞め方をしても、幸子の欲しいものは何一つ手に入らない。

 何より、英斗が壊れる。

 そうなったら今度こそ修復できない。

「ヒーローを辞める? そんな馬鹿みたいな理由で? 笑わせんなよ!」

 声だけじゃない。体が、底のほうから震え上がって、止まらない。「あんた、それ英斗に言った? そんな理由で英斗が納得すると思うの、ねェ⁉︎ アンタのために辞めたのよなんて言われて、あの子が喜ぶと思ってんの⁉︎」

「良いの、もう決めたの!」幸子は一際大きな声で葵の言葉を遮った。「英斗は……英斗は、喜んでくれたよ。あの日アタシがずっと家にいて、一緒に寝たり、ご飯食べたりして、喜んでくれた!」

「だから辞めたほうが良いって思ったの? 馬鹿じゃないの⁉︎」

「そうだよ、アタシ馬鹿なんだよ! だから……辞めなきゃ駄目なんだ。アタシは葵みたいに、うまくやれない……!」

「……そんなに一人で戦うのが怖いのかよ?」

 それは、絶対に訊いてはいけない質問だと、口にしてから気付いた。でも、もう遅い。

 止められない。自分自身を。

「……ああ」

 幸子の声は震えていた。「そうだよ。アンタが後ろで守ってくれないって思うだけでゾッとする。アンタがいないガラ空きの背中で前線に出て、もしアタシが死んだら英斗はどうなる?」

「この臆病者が‼︎」

 掴み掛かろうとしたところを横から誰かに制止された。こんな社内の、人の行き交う廊下の真ん中で大声で言い争いをしていたら、それは注目の的になるだろう。

 でも、誰に何と言われようと、止めなくてはならない。

 甘ったれも良いところだ。そんな理由、駄目に決まっている。「母さんは、最強のヒーローだから」——それだけが英斗を支えてきたすべてだというのに。

「考え直せ! あんたそんなことしたら一生後悔するぞ⁉︎」

「……もう、決めたことだから」

「幸子さん‼︎」

 左腕が痛い。まだ完治していないのに無意識に力がこもっていた。自分の脳は存在していると思っているのだ。もう二度と握ることのできない左の拳が、まだ、ここに。

 だから、涙が出るのだろうか?

 ——なんで? なんでだよ?

 3号は8号がいなくたって、一人で前線に行ったのに。

 本当は辞めたくないんだろう? だから英斗のせいにして、自分は母親だから仕方がないのだと自分に言い聞かせて、前線から帰って来られないかもしれない恐怖から逃げるための口実にしているだけじゃないか。

 そんなことをしたって、残るのは後悔と、未練だけだ。なぜ、それがわからないんだ。

 はじめて、己の揺らぎを感じた。何度振り返っても、あの局面ではあの行動が最善だったし、生きて戻れたことは予想外だったが悔いはない。でも、もし自分が中途半端に、片腕だけを失くして戻ったりなどしなければ、幸子はヒーローを辞めようなんて考えは起こさなかったのではないのか?

 ——どうすれば良かったんだよ……。

 背を向けて走り去ってしまった幸子を、葵は追いかけることができなかった。そっちへ行ってはいけないと、何度もその背中に向かって叫んだが、結局その声が届くことはなかった。幸子は本当にヒーローを——史上最強の8号、ハッピー・シャイニーを引退し、会社を辞めてしまった。


* * *


「……今、何て言った?」

 沸騰寸前だったフライパンの中のお湯は、即席ラーメンを作るために沸かしていたものだ。不思議と手元は冷静にガスの火を消しているのに、頭の中は思考が停止している。

 部屋の中に母の声のようなものが聞こえるが、処理できずに通り過ぎてしまう。もしこれが本当に母の声ならば、留めなくてはならないはずなのに。

「もっと、英斗との時間を作りたいと思って……だから、これからは、ずっと家にいるよ」

 この人は何を喋っているんだろう?

 なぜ自分はこの人の言っていることが理解できないんだろう?

 至極、簡単なことを言われていると思う。仕事を辞めたから、今後は家にいる時間が多くなるという、ただそれだけの。

 ただ、それだけの——?

「……なんで?」

 わからない。

 だってアンタは、ヒーローなんだろう?

 アンタはそれを何よりも大切にしてきたんじゃなかったのかよ?

「なんでって……もうヒーローじゃないからだよ?」

 なんで?

 頭の中で何度も言われたことを整理する。母は今日、会社を辞めたらしい。英斗との時間を作りたくて。仕事を辞めたからもうヒーローではなくて、これからはずっと家にいる。

 ——……なんで?

 8号は?

 ハッピー・シャイニーはどうなるの?

「お母さん、これからは毎日英斗に「おかえり」って言ってあげられるし、一緒にご飯も食べられるよ。どっか出掛けたり、学校の行事も見に行けると思うんだ」

 何言ってんの?

 そんなことされたって、全然嬉しくなんかないよ。

 なんで、今さら、そんなこと——

「英斗だって、そのほうが、良いかなって、思ってさ」

 母のことなんて『嫌い』だった。

 顔なんか見たくないし、家に帰って来た時に誰もいなくたって良い。ご飯を一緒に食べられなくても良い。出掛けられなくても、学校行事に来てもらえなくても良い。だって嫌いなんだもの。だから、勝手にヒーローをやっていれば良いじゃないか。

 良いよ。だって、それが何よりも大切だったんだろう?

 英斗よりも、何よりも、大切だったんだろう?

 それで良いじゃないか。

 それで良いんだよ。だって、ぼくは——

 

 ——ぼくはそんなハッピー・シャイニー(母さん)が、大好きだったんだから。


 だから、傍にいてくれなくても、寂しくない。ぼくの母さんは、世界最強のヒーロー、ハッピー・シャイニーなんだ。誰よりも強くて、誰よりも格好良いハッピー・シャイニーなんだ。だから、寂しくなんかない。

 寂しくなんかない。

 なのに。

「なんで……」

 なのに、そんな簡単に捨ててきたって言うのか?

 世界のことも、8号のことも、そんな簡単にいらないって言える程度のものだったのか?


 ——ぼくは一体、今まで何をしていたんだろう?


「……英斗?」

 何が悔しくて、悲しかったんだっけ?

 なぜだろう?

 なんでこんなに腹が立つ? 何に? 何のために?

 どうしよう?

 思い出せない。ただ、母の顔に浮かんでいた表情には見覚えがあった。

「……」

 何をしなくてはいけないのだっけ? どっちに行けば良いんだっけ?

 何にも出てこない。もう、喜ぶことも、怒ることもできない。


 ——ぼくは、なにがほしかったんだっけ?


 困ったな。頭が全然働かない。

 自分のことなのに、思い出せない。もう。

 でも、それももう、いいや。

 全部、どうでも良い。

 ——ああ、本当に。


 馬鹿みたいだなあ……——。


「英斗、あのね、お母さんはさ、——……」

 本当に、馬鹿。自分は心のどこかで期待していたんだ。

 でも、やっぱりそんなことはなかった。

「もういいよ」

 もう、わかった。

 やっぱり母にとって自分は、その程度の存在だったってことだろう。

 いや。それよりも、もっと、——。

 気持ちが悪い。お腹が痛い。喉の奥がぎゅっと詰まって息ができない。アイツを殴った左手も、今になって痛む。でも、結局、全部何の意味もない。

 阿呆くさい。

 もう、何にも考えたくない。

 良いんだ。嫌いな人に嫌われたって、どうってことはない。


 ——ぼくは母さんのことがきらいだ。


 世界中の、誰よりも——。


【ヒーローずかん】※抜粋


◆サンセット・ハーバー(1号)

 〜母なる海原 遥かなさざめき

   燃ゆる果てより優しき夢路を〜


 ひっそりと こころに もやす ほのおで

 やさしく みんなを てらしているよ


☆いろ   あか

☆ねんれい 27さい

☆おおきさ 153cm

☆おもさ  47kg

☆とくぎ  そろばん

☆すきなたべもの  しろいごはん

☆きらいなたべもの しらこ

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