第八話 月と太陽(1)廻り出した日
出会ったのは、九歳の時だった。
物心がついた頃、既に母は有名人だった。家にはほとんどおらず、自分のことを育ててくれたのは会社の食堂で働くパートのおばちゃんたちだった。迎えに来てもらえるのはいつだって夜で、もしかしたら、夜も更けた頃にいつも息急いてやって来るその人のことを母親だと認識していなかったんじゃないかと思うくらいに、接点が少なかった。けれど、それで何か問題があったのかと言われると、そうでもない。そういうものなのだと思っていたし、それが自分の——桜庭英斗の日常だった。
小学校に上がると徐々に家で一人待つようになったが、そもそも起きている間に母に会うこと自体が珍しかった。そのせいか、今思えば同年代の子どもたちに比べてかなりしっかりしているほうだった。遊びもするし、勉強だって平均より少し上くらいで可もなく不可もない。大人からすれば手の掛からない『良い子』だったはずだ。ただ少し愛想がなくて、物静かだっただけで。
人前で大人しくしていたのは何も、好き好んでそうしていたわけではない。自分だって他のクラスメイトのように、訳のわからないくだらないこと——例えば、階段の何段目から飛び降りることができるかとか、ダンゴムシを何匹集められるかとか、目を瞑ったまま自転車に乗れるかとか、ジャンケンで負けた奴が好きな子のスカートを捲ってくるとか——そんなことで毎日を埋めて、笑い転げていたかった。でもそうしなかったのはたぶん、幼心に何となく理解していたのだ。子どもというのは段々楽しいものが重なり過ぎてくると、想定外のところで崩れて大事になってしまう時がある、と。
自分の場合、それをすると仕事中の母を学校に呼び出すことになってしまう。母はみんなのヒーローで、いつも世界の平和のために、懸命に悪いモンスターと戦っている。自分ごときの小さな世界の秩序くらい、自分で何とかできなくてどうする。
だから、そういうことをしそうな雰囲気には近寄らないと決めていた。それで自然と本を読んだり、何かを作ったり、テレビを見たり——自分一人だけの世界で完結できる時間の使い方をするようになった。別に、水溜りの上で踊って全身泥だらけになるのが嫌いだったわけではないのである。
当然、母とどこかへ行ったという記憶はないし、学校のイベント事にも一度だって来てくれたことはない。ただ、運動会や遠足の時だけ、いつも朝になるとテーブルの上におにぎりが置いてあったのを覚えている。これがバランスが悪くて、梅干しが入りすぎているから食べていて酸っぱくて仕方がないのだが、なぜかそのおにぎりは自分の中で特別なお弁当だったから、それがある学校行事は嫌いじゃなかった。
寂しくなかったかと訊かれたら、よくわからない。だが、そういう日常が苦だと思ったことは一度もない。だって自分の母親は世界中が認める最強のヒーローなのだから。自慢すると妬まれるし、男の子なのに『ママが好き』というのはあまり印象が良くないようだったから口には出さなかったが、世界を守って悪と戦っているなんて、それも数いるヒーローの中で一番だなんて、誇る以外に何がある? 母より強くて、格好良い人を自分は知らない。大きくなったら自分もそういう人になりたいと、ずっと心に決めていた。
終業のチャイムが鳴って『帰りの会』が終わったら、ランドセルを背負って教室をしれっと出る。階段を一段飛ばしで下りて、上履きを履き替えて、正門にいる『みどりのおばさん』に挨拶をしたら、駆け出す。この時ランドセルが弾んでしまって本当に邪魔臭いのだが、家までの坂道も止まらずに走って、マンションの階段を駆け上がって、玄関のドアの鍵を開けて、ランドセルも背負ったままリビングまで行ってテレビをつける。そうすると決まって同じ顔のアナウンサーが画面の向こうで難しい話をしている。それを見て、ああ、今日も間に合った、とホッとするのである。そうして漸くランドセルを下ろして手を洗う。この難しい話が終わると、その日活躍したヒーローのことを紹介してくれるコーナーがあって、それを見ながらおやつを食べるのがその頃の自分のルーティンだった。
けれど、その日はそれが少し違っていた。
いつもと同じように息を切らしながら玄関のドアに鍵を挿すと、ドアは既に開いていた。もしかして今朝家を出る際に鍵を閉め忘れたのではないかとヒヤリとして、ドキドキしながらドアを開けると、母の靴が玄関に脱ぎ散らかしてあるのが見えて驚いた。家に帰った時に母がいるなんて、いつ以来だろう?
心がジャンプするみたいだったが、深呼吸をして、いかにも興味がなさそうな風体を装い、部屋に上がる。
「母さん、いるの?」
ただいまなんて言わなすぎて使い方を忘れていたが、こういう時にこそ言えば良かったと思う。
返事がないのでそのままリビングに行ってギョッとする。長い茶髪をツインテールにしたままの母が、前面に意味不明な外国語のプリントを施したダサいトレーナーを着て、何やらバタバタと支度をしていた。
「あ! おかえりィ、英斗!」顔を見るなり、母は今まさに穿こうとしていたジャージのズボンを放り出し、もの凄い勢いで駆け寄ってきて抱きつくと、激しく頬擦りをしてきた。「元気にしてたァ? いつ見ても可愛いねェ、英斗」
これがヒーロー史上最強と持て囃される8号、ハッピー・シャイニーの素の姿である。
「ちょ……やめてよ、母さん」
「良いじゃない、たまには息子を堪能させてよ、せっかく久しぶりに早く帰って来たのにィ」
たまには、と言うが起きている時に会ったらいつもこうだ。悪い気はしないが、子どもからすると恥ずかしくて全身が痒くなってしまい耐え難い。
「ねねね、おかえりのチューして良い?」
「やめてってば! ねえ、何してるの?」
「あ、そうだそうだ!」母は漸く何かを思い出したらしく、放ったジャージを拾い上げていそいそと穿く。「ねェ、ご飯食べに行こ? お腹空いてる?」
「うーん、まあ……」
「じゃあ行こ! 大丈夫、歩いてたら空くから! ランドセル置いてきて!」
「うん……ねえ、そのカッコで行くの?」
「え、なんで?」
「……」淡く期待した答えは返ってこなかったので、諦めた。母はそういう人だ。わかっている。訊いた自分が愚かだった。
恥ずかしいので、外では母の少し後ろを歩いた。家からそう遠くないところにある小さな中華料理屋。その看板が見えてきたところで、急に母が駆け出した。その向こうに、片手を上げる人影がある。
「ごめん、お待たせ!」
母はその人に軽く声を掛け、親しそうに話をする。会ったことはないはずなのに、見覚えがあると思った。色白で、ネコみたいな目。後頭部の上のほうで黒くて長い髪を一つに括っていて、彼女が首を振る度にその青い先端が尻尾のようにゆらゆらと揺れる。
少し遅れて母に追いついた時、漸く彼女が母と同じヒーローであり、いつも母と共に戦っている3号、スカイ・ハークその人だということに気付いた。服装のせいか、テレビで見るよりずっと大人っぽくて、凛とした佇まいに、綺麗なおねえさんだなと思った。
が、彼女はこちらに顔を向けると、一瞬だけ丸く見開いた目をすぐに三日月みたいに細め、頬を紅くした。
「ねェ! 幸子さんの息子さんなの⁉︎」
「エッ?」びっくりした。風船が弾けたような、高い声。可愛い、といきなり抱きつかれて、頭をわしゃわしゃと撫でられる。
「そう、可愛いでしょ?」
「可愛いぃ、もう食べちゃいたいくらい可愛い! やだァ、幸子さんそっくりじゃない! ねェ、いくつ? もっと早く紹介してくれたら良かったのにー!」
目が回る。イメージと違いすぎてついていけない。ハッピー・シャイニーはいつも煩いくらいに元気で賑やかだが、スカイ・ハークはそうじゃない。いつも冷静沈着で、モンスターと戦う時もスマートだし、じっと遠くから獲物を狙っているハンターみたいなクールで強くてカッコ良い人なのだと思っていたのに。
全然、違う。
一体何なんだ、この人たちは。人のことを可愛い可愛いって、それは女の子に向かって使う言葉だろう?
——ぼくは、男の子なのに!
「こんにちは。鷹野葵です」彼女は自分の前にしゃがんで目線を合わせると、そう名乗った。「キミのことはママからいつも聞いているよ。ずっと会ってみたいと思っていたんだ」
葵はそう言って急にとても優しい顔で微笑むから、恥ずかしさのあまり顔を直視できず思わず母の背中に隠れた。これならセンス皆無の部屋着姿の母のほうがまだマシである。自分のほっぺたが冷めなくて困った。本当に、最悪の初対面だ。この時食べた中華そばの味なんてほとんど覚えていない。
しかしよほどのことがない限り、今後葵に会うことはまずないだろう——そう思って完全に油断をしていたら、どういうわけか翌日以降、葵は度々家を訪ねてくるようになった。母は相変わらずなかなか帰っては来ないが、いつも大体決まってワイドショーを見ながらおやつを食べ終わった頃に、ドアチャイムが鳴る。出るとほぼ一〇〇%の確率で葵が立っていて、「ラーメン食べに行こうよ」と誘われる。
なぜいつもラーメンなのだろうと疑問ではあったが、嫌と言うのも気が引ける。お腹が空いていないと言っても葵は「じゃあ空くまで遊ぼ?」と待っていてくれて、学校の宿題も教えてくれた。「英斗は頭が良いんだねェ」とよく褒めてくれたが、それは葵のほうが頭が良くて教えるのが上手だったからである。あと、こんなことは口が裂けても言えないが、葵は褒めてくれる時に必ずポンポンと頭を撫でてくれて、それが好きだったから頑張ったというのもある。姉ちゃんが云々、とよく話しているクラスメイトがいたが、姉兄がいるというのはひょっとしたらこういう感じなのかもしれないと思った。そういうわけで、一度、勉強するのは嫌いじゃないと言ったら、「は? 頭おかしいんじゃないの? 勉強なんか嫌いで良いんだよ」と言われたことは今でも納得がいかないが。
最初のうちは狼狽えることが多かったが、そういうことがひと月、ふた月と続いていると段々それが当たり前になってきて、ワイドショーを見ながらおやつを食べるという習慣がなくなった。だって、葵が連れて行ってくれるラーメン屋で食べるラーメンのほうが、ずっと美味しかったのである。
それに、葵に箸の持ち方を直してもらったおかげでラーメンを掴むのが格段に楽になった。
「英斗は左利きだったんだねェ!」
そうか、そうか、と葵は何度も頷きながら持ち方を教えてくれた。自分の箸や鉛筆を持つ手が多くの人と逆であることは認識していたものの、深く気にしたことはなかった。だが、何となく葵と同じが良いと思って、右手での持ち方も教えてもらった。左のままでも良いじゃないかと葵は言ってくれたが、練習すると意地を張った。すごく持ちにくいし力が入らないからやっぱり食べる時は左手に戻ってしまうのだが、宣言どおり家に帰って練習したし、気が向いたら右手でヘタクソな字を書いたりもした。段々と使えるようになってきたらやっぱり葵はそれも大袈裟なほど褒めてくれて、それが嬉しくて早く右手でラーメンを上手に食べられるようになりたいと思った。
食事に行くと、葵がその日の仕事中のハッピー・シャイニー——母のことをたくさん話して聞かせてくれるのも嬉しかった。ロボットみたいなアナウンサーが教えてくれるより面白かったし、ずっと母を近くに感じられた。案の定、母は仕事中もドジで抜けているようで、テレビアニメになっている『ハッピー・シャイニー』とは全然違ったが、そのほうがなんだか安心した。そして、母がああやって家に帰って来ることができるのは、3号——葵が母の背中を守っているおかげなのだと確信した。
葵は本当に母と同じ仕事をしているのだろうかと疑いたくなるほどしばしば家にやってきた。でもテレビに映っているスカイ・ハークはどこからどう見ても葵で、目の前でラーメンを食べたり勉強を教えてくれたりするのも葵で、英斗のことを可愛い可愛いと抱き締めたり頭を撫でくりまわしたりするのもやっぱり葵だった。たった今テレビに映っていたはずなのに、次の瞬間には玄関のチャイムを鳴らしていたこともあって、幼い英斗の頭は混乱した。
同じ仕事をしているのになぜ母は帰ってこないのだろうと疑問に思って葵に訊いてみたら、「幸子さんは私より全然忙しいし、時間の使い方が下手」と言われた。ドジだから何か物事を済ますのに普通の人より時間がかかるし、親切心で仕事をさらに増やしてしまうのだそうで、それが母らしくて妙に納得した。それでも時折、ごく稀に、葵と母がセットで帰ってくる時があって、その時はいつも以上に心が躍るのを必死に誤魔化したものだ。
そんな感じだったものだから、葵は本当に何でもできる魔法使いなのだと、すっかりそう思い込んでいた。でも、そうではなかった。葵だってただの人間で、ひょっとしたら何かの拍子に、いとも簡単に壊れてしまうかもしれないのだと、ある時気付いた。
その日も葵は変わらず夕方頃に玄関の呼び鈴を鳴らしてきた。ラーメンを食べに行こうと誘われることはわかっていたから、上着を玄関の近くに置いて、あたかも興味のない、どちらかと言えば面倒臭そうな表情を作ってからドアを開けた。が、そこに立っていた葵は何となくいつもと雰囲気が違っていた。
何が違うのかと問われたら明確には答えられないのだが、とりあえず最初に目に付いたのは近くのスーパーのビニール袋を提げていたことだ。
「英斗、今日お家でラーメン作らない?」
そのビニール袋の中にはラーメンを作るための材料が入っているらしい。不思議だとは感じながらも、葵は家でもやっぱりラーメンなのだなと思い、反対する理由も見当たらないのですぐにその提案を承諾した。
「英斗の嫌いなねぎもあるよ」
知っている。だって袋からはみ出ているんだもの。そういう意地悪なところも普段と何も変わらないのに、なんだかその顔に浮かぶ三日月にも霞が掛かっているように見えるのだ。
葵が買ってきてくれたのは鍋で作るインスタントのラーメンだったから、手を洗いに行っている間に台所の下からフライパンを引っ張り出した。自分で料理をすることはあまりないが、する時は面倒なのですべてこのフライパンで何とかすることにしている。家にあるのが煮るのも焼くのも何でもできるちょうど良い大きさのもので、こんなに便利な神器を作ったフライパンの会社の人は天才なんじゃないかと英斗は思っている。
水を入れて火にかけていると葵がやってきたが、立っているとどうもいつもより猫背だし、時々お腹を摩りながら溜め息をついていて、やっぱりなんだかおかしいと思った。
「あおい、どうしたの? どっかいたいの?」
しかし勇気を出してそう訊いても、葵は何でもないとしか言わない。絶対何でもないはずがないのに、どうして教えてくれないんだろう?
「英斗、お湯沸かせるの? すごいじゃん」
「それくらいできるよ」
椅子に座っている葵に背を向けて、フライパンの底に小さな泡が沸々と溜まっていくのをじいっと眺めていた。いつもだったら、こんなに部屋が静かだなんてこと自体がまずあり得ない。たいてい葵が何か学校のことやら何やらを訊いてくるし、現場での母の様子を勝手に話し出して聞かせてくれる。でも、今日の葵はとても大人しい。
悶々と考えてしまう。どうしてなのだろう? 葵はヒーローだから、もしかしてどこかにモンスターをやっつけに行って怪我をしてきたとか? それとも治らない大変な病気になってしまったから言えないのか——頭の中で考えていると段々と怖くなってきて、いつもの調子でちょっと反抗的な言い返しをしたことにも後悔し始めて、こんな風に呑気にラーメンなんて作っていないで病院に行ったほうが良いのではないかと取り止めもない不安に襲われ、思わず沸き立つ寸前だったフライパンの火を止めてしまった。
「どうした?」
背後から葵の声がする。
思い切って振り返ると、相変わらず椅子に座ってこちらを見ていた葵はやっぱり顔色が良くないと思った。
「あおい、……——」
「ん? どうしたの? お湯沸いた?」
どうしよう。
息が上手くできない。
「あおい、どっか、病気なの?」
「え?」
「いつもとちがう。なんで? どっか病気なの? 死んじゃうの?」
自分で質問しておきながら、そうだよ、なんて返事が来たらどうするかは何も考えていなかった。葵の口がどんな風に動くのか見るのが怖くて、勝手に視線が下へ行く。
ほんの少ししか時間は経っていないはずなのに、沈黙はとても長く感じた。やがて葵がくすりと小さく息を漏らしたのが聞こえ、恐る恐る上目で見てみると、葵はいつもと同じ三日月の目でこちらを見て微笑んでいた。そして徐ろに手を伸ばしてきたと思ったら、両の掌で英斗の顔を優しく包んでは、頭や頬を撫でてくる。
「可愛いねェ、キミは。本当に可愛い」
葵の手はいつもと違って温かく、それはそれで英斗の不安を煽って泣きそうだった。
「ごめんごめん、余計な心配させちゃった、ごめんね。そうかァ、やっぱり英斗には敵わんなァ」葵は観念したのか苦笑いを浮かべながら溜め息を漏らした。「大丈夫です。あおいは病気じゃないです」
「本当に?」
「うん。えっとね……ハハ、もう誤魔化してもしょうがないね」顔を包んでいた両手がするすると下りてきて、今度は柔らかく両手を包んだ。「あのね、今日、あおいはお腹が痛いの」
「エッ……大じょうぶ? トイレ行く?」
「今はいいや、あとで借りるね」
「なんでおなかいたいの? 病気じゃないの? ラーメン食べすぎたの?」
こっちとしては真剣に心配して訊いているのに、葵は笑っていて面白くない。「あおい!」
「ごめん、わかった、ごめん。……うーん、学校ではまだ習わないんだろうなァ、きっと……でも英斗はお利口ちゃんだから、わかるかな」葵は首を傾げて何かを考えているようだったが、やがてまっすぐに英斗の目を見て話を続けた。「あのね、あおいは女の子なので、時々病気じゃないけどお腹が痛い時があるんです。あおいだけじゃなくて、大人になった女の人はたぶん大体みんなそう」
不思議な話を聞いている気分だった。大人の女の人は皆お腹が痛いなんて聞いたことがないし、街ゆく人々からはそんな素振りは微塵も感じない。
「いつもじゃないんだよ? 痛くない時もあるし、お腹じゃなくて頭とか腰とかが痛かったり、気持ち悪かったり、人によっていろいろなの」
「なんで? それって病気じゃないの?」
「違うの。何だろう……どっちかって言うと、怪我してるみたいなもんかなァ? 例えるのが難しいよねェ」
葵は普段勉強を教えてくれている時よりも真面目に何かを考えながら喋っていて、だからきっとこれは学校の宿題なんかよりもずっと難しい話なのだと思った。「英斗、怪我して血がいっぱい出たら痛いと思わない?」
「いたい……」
「だよね。女の人は大人になると一ヶ月に一回、勝手に怪我をしている時があると思って? 幸子さんもそうだよ」
「え、母さんも?」
「そう。英斗の年じゃまだいない、かなァ、どうだろう……たぶん、もう少しお兄さんになったら、そうね、五年生とか六年生くらいになったら、もしかしたらクラスでそういう女の子がいるかもしれないな」
「それ、ケガしないようにできないの?」
「できないんだなァ、これが。これがないとねェ、赤ちゃんが産めないんだよ。そういう、うーん……システムなの。人間の、女の人のね。しょうがないの、こればっかりは」
「そのシステム良くないよ」
「アッハハ、そうなんだよ、これは神様が悪いね! どういうシステムなのかはたぶんそのうち学校で教わると思うけどね」
「いたいの、かわいそう。どうしたらなおる?」
「人によるねェ。あったかくしたり、お薬飲む人もいるし……でもみんな自分は怪我してますよーなんて言わないから、普通にしてたらわかんないんだよね。みんな、我慢して、痛くないふりをするの。だから、女の子にはいつも、優しくしてあげなきゃ駄目なんだよ」
「……」
「ね、あおいのお話わかった? あおいは病気じゃないし、死なないから安心して?」
話は何となく理解したが、葵は怪我をしていてお腹が痛いのにラーメンを食べに来たということなのだろうか。そういう時は治るまで大人しくしていなさいと教わったはずなのだが。
「なぁに?」
そう思っていたのが顔に出ていたのかもしれない。葵は首を傾げて、英斗が何を口にするのか待っている。
「あおい、おなかいたいんでしょ? ぼくがラーメン作ってあげるから、あっち行ってて良いよ」
「えッ⁉︎ 英斗、ラーメン作れるの?」
「作れるよ! だからあっちで休んでて」
「大丈夫? 火ぃとか包丁とか危ないよ?」
「ほうちょうなんか使わないよ! もう! 平気だからあっち行って!」
なんだか段々と恥ずかしくなってきて、最後は無理矢理に隣のテレビのある部屋に連れて行って置いてきてしまった。葵がいない時は一人で何でもやっているのだから心配しなくても何も問題はないのに。
再度フライパンに溜まったお湯を沸かそうとした時、そういえば葵は何味のラーメンを何個食べたいのか訊くのを忘れたと思い隣の部屋を覗くと、葵は相当にしんどかったのか、放ってあったクッションを枕にして、電気カーペットの上で丸まっていた。
それを見ていたら何かしてやりたい衝動に駆られたが、何をしたら良いのか考えても名案が浮かばず、先ほどの葵の話を思い出してとりあえず自分のベッドから掛け布団を引っ張ってくると、転がっている葵に掛けてやった。
「え、ありがとう。貸してくれるの?」
「うん……」やっぱり少し照れ臭い。
「優しいねェ、ありがとう、一緒に寝る?」
「ねないよ、ぼくはラーメンを作るんだってば!」
「そうだった。怒んないで? 英斗。可愛い顔が台無し」
「……何味が良いの?」
「何でも良いよ、英斗が好きなやついっぱい食べなね? 私は残ったやつで良いからさ。上に載せるものもあったでしょ? あ、赤い袋のやつは辛いから気を付けな?」
「うん」
とは言っても、葵はラーメンを十食分くらい買ってきているため、ほとんどが残るのである。普段の葵なら間違いなく全部食べてしまうだろうが、今の葵はお腹が痛いのでたくさん食べるのかどうかもわからない。
貸してやった布団に包まっている葵にこれ以上質問するのも気が引けて、とりあえず数が一番多いものを開けた。『しょうゆ』と書いてあるからきっとラーメン屋でよく食べる味のやつだと思う。包丁は使わないつもりだったし自分は嫌いだが、葵は食べるからと思ってねぎも切ってみた。ぬるぬるしていて切りにくく、おまけに何度手を洗ってもねぎの臭いが取れない。やっぱりねぎは嫌いだ。
ほとんど使ったことのない母の丼ぶりを出してきてよそったら、いつも葵がラーメン屋で食べているラーメンのようなてんこ盛り状態になってしまい、重くて腕が震えると縁からスープが溢れてしまうから持っていくのが大変だった。
顔まで半分覆い隠して丸まっている葵は近づいても反応せず、起こしてしまうのが申し訳ない気持ちになったが、ラーメンが伸びたらそれはそれで悲しい顔をするのだろうと思い、軽く肩を叩いた。
「……わァ、もうできたの?」葵はすぐに目を覚まし、ローテーブルの上で湯気を立たせる丼ぶりを見て目を丸くした。「すごいじゃん、英斗! 美味しそう!」
「あおい、ほんとに大じょうぶなの?」
「大丈夫! ありがとう、英斗のおかげで治ったよ」
「……本当?」葵は今日最初に見た時よりはずっと顔色が良いし、英斗に笑い掛けるその顔もはっきりして見える。葵が大丈夫だと言ったらきっと大丈夫なのだろうとは思うが、どうしても不安だった。
すると、葵はこちらに両手を伸ばし、おいで、と言った。おずおずと近づくと手を引っ張られ、葵の細い腕の中にすっぽりと収められてしまう。
「大丈夫だよ。心配させてごめんね」と、いつも以上にぎゅっと抱き締めながら優しく頭を撫でてくれる。もしこの魔法の手が失くなってしまったらと思うとすごく嫌だ。
「……おなかいたいんなら、おうちに帰ってねれば良かったのに」
「英斗に会いたかったんだよ」
また調子の良いことばっかり言って——いつもなら絶対そんなことを返しているだろうに、今はもしかしたら葵が消えてしまうかもしれないという漠然とした不安のほうが勝って、葵の匂いがする柔らかな服を無意識に掴んでいた。葵がねぎの臭いになったら困ると思ったが、それよりもどこかへ行ってしまうのではないかと、そっちのほうがとても怖かったのだ。
消えないように。壊れないように。
葵は何かを察したのかもしれない。背中を摩りながら、大丈夫大丈夫、としばらく囁いていた。
「ちょっと寝たし、英斗のラーメン美味しそうだからお腹空いちゃったよ。伸びちゃうから、早く一緒に食べよ?」
痛くてもお腹は空くのかと思い、二つ分しか作らなかったことを少し悔やんだ。ラーメン屋にいる時と違って、葵のすぐ傍で並んで食べるラーメンはなんだか緊張して、もうだいぶ上手く使えるようになったはずの右手での箸が思うように動かせなかった。
それでも葵は「もうすっかり右利きじゃん。すごいすごい、上手」と褒めてくれて、英斗が作ったラーメンも「世界で一番美味しい」とあっという間に平らげてしまって、挙げ句の果てに足りないからもっと作ってとせがまれた。ねぎを切ったことも、危ないと怒りつつももういい加減にしてほしいくらい褒められた。また手がねぎ臭くなるのが嫌だったからもうねぎは切りたくないと言ったら葵がやってくれた。軽快な包丁の音を立てる葵の姿を見ながら、一瞬、葵の作ったラーメンも食べてみたいと思ったが、目の前で山になっていく大量のねぎを盛られそうな気がして言えなかった。
日常が変化して数ヶ月、英斗が十歳になった頃、モンスターの侵攻は激しさを増していた。母も、葵も、連日ヒーローとして前線に出てはモンスターとの戦闘を繰り返すようになっていた。あれだけ家を訪れていた葵ですら、最近では顔を合わせる機会は減り、母はおそらく家に立ち寄ってすらいないという状態だった。
一度、夜中に物音がして目を覚まし、こっそりとリビングを覗いたら母が帰っていたことがあるが、本当に久方ぶりに見る母の姿は自分の記憶とはまったく異なっていた。おかえりと声を掛けようと思ったが、それすらもできなかった。きっと自分がここで出て行ったら、母は『いつもの母』を取り繕うだろうと思った。それすらもさせたくないと思うほど、明らかに疲弊していた。
何かがおかしいと、子どもながらに感じた。それが後に知る『ヒーローの代償』について、最初に勘づいた瞬間だったのかもしれない。
しかし、世界の平和のためにと戦い、消耗し続けているにもかかわらず、相変わらず止まないモンスターの侵攻に苛立った人々の中には、ヒーローに対して不平不満を言う者が日に日に増えていった。この頃のマスメディアの論調もそれを助長するようなものが目立ち、学校から帰宅して見るワイドショーの特集はヒーローの活躍を紹介するものではなく、ヒーローを批判する内容へと変わっていった。
ここの立ち回りが良くなかったとか、この時こうしていればどうだったとか——どうでも良いじゃないか、やっつけたんだから。自分たちは平和な画面のこっち側にいるだけのくせに、毎日毎日そうやって粗を探して、責めて、ヒーローの質が下がったとか文句ばかり並べる。最悪だったのは、忙しいヒーロー本人を番組に呼びつけて、みんなでサンドバッグにする内容だ。母が呼ばれていたこともあったが、ヒーローは皆、絶対に反論なんてしない。勝手なことを言うなと怒れば良いのに、どんな無茶苦茶な批判を浴びても、皆、絶対に怒らなかった。
息ができなくなって、気持ち悪くてトイレで吐いたこともある。だから自然とテレビは点けなくなった。音のない部屋で宿題をしていると、意外にも静かすぎて集中できないものなのだと知った。葵がいたら教えてもらいたいと思うことはたくさんあったが、解消されないまま溜まる一方で、結局わからないまま学校へ行って先生に訊くことが多くなった。
また、日常が元に戻っただけだ。元々は一人で家にいて、ラーメン屋にも行かないし、勉強を訊いたりもしない。それが普通だった。だから、そんな放課後に戻ったって、何も、思うことなんてない——ない、はずなのに、何が違うんだろう?
テレビも見ないし外出もしなくなったため、その分本を読むペースが上がって、読書感想文を書いたら学校で表彰された。でもそれを報告する相手はいない。
——つまらない。
もらってきた賞状を見ていたら、なぜか喉の奥が痛くなった。葵に言ったらきっと、頭を撫でてくれるのに。
そんな一人の放課後を過ごし、完全に日が落ちて、夕ご飯に何を食べようかと考えている時、久々に玄関のドアチャイムが鳴った。
「ごめェん、英斗。ご飯食べちゃった?」
葵だった。ドアを開けるまで気付かなかったが、外は雨が降っているようで、葵は扉の前で濡れた傘を畳んでいた。なぜかその姿を見た瞬間、目が急に熱くなって、とても痛かった。
「……ううん」びっくりはしたが、瞬きをたくさんして誤魔化した。開けたドアから冷たい外気が入ってきて、靴下を穿いていても足が寒い。
「そう、良かった。ラーメン食べに行こうよ」葵が喋る度、口元に白い靄が立つ。その台詞を聞くのも久方ぶりのような気がしたが、葵は変わらない顔で笑っていた。「あれ? なんか背ぇ伸びた?」
「わかんない」
「まァ男の子だもんね、大きくなんなきゃ。モテないよ」
葵は意地の悪い顔で笑うが、元々色白の顔がさらに白く見えて、どことなく葵も疲れているのではないかと思った。光の加減のせいかもしれない。
「行こ? 何か上着着ておいで、それじゃ寒いでしょ」
どうしようか迷って、体が動かない。素直について行って良いのだろうか。
「どうかした?」葵は不思議そうにこちらを見ている。「お腹空いてない?」
「いや……」英斗は口籠ってしまい、視線を下げた。久しぶりに葵に会って、誘ってもらえてすごく嬉しいし、行きたいのは本心なのだ。でも、それで良いのかわからない。自分が一緒に行かなければ、葵は早く家に帰って休めるかもしれない。「あおい、無理して来てくれなくて、良いよ?」
「なんで?」
だが、実際口に出してみると、本当は言いたくないのだと気付く。だってするすると言葉が出てこないんだもの。
「……あおいも、いそがしいんでしょ? つかれてるのに……、ぼくは、一人で平気だし、別にラーメンなんて——」
喋っている途中で、葵は右手を差し出した。視線を上げると、葵はやっぱり意地悪な顔で笑っている。
「私が、一人で食べたくないから来るのよ。あんたは黙ってついて来れば良いの」
そう言って、氷のように冷たい手で英斗のことを連れ出してくれた。久しぶりに息をしたような気がする。
——どうして?
葵に手を引かれ、冷たい雨の降る夜の街を歩きながら、思う。
みんな、この光を守るために戦っているのに。
名前も知らない誰かのために、戦っているのに。
こんなに冷たい手になるまで。
どうして誰も褒めてくれないの?
葵は誰に頭を撫でてもらうの?
「英斗、どうした?」
その声にハッとして、瞬間的に繋がれていた手を振り解こうとした。が、葵がぐいっと力を入れて離してくれない。葵の目を見たくなくて傘で顔を隠そうとしたが、彼女は身を屈めて下から覗き込んでくる。
「……」
「何か、難しいこと考えているね。どうした?」
葵の口調はとても優しいが、絶対に逃げられないと思った。だって葵は3号、スカイ・ハークだもの。
この感情をどう説明したら良いのかわからない。上手く伝えられるほど自分は大人ではない。困って、考えて、必死に頭の中を探して、それでもわからない。これまでたくさんの本を読んで、どの物語の中でも、登場人物たちは自分の思いを様々な形で表現していたけれど、そのどれもが何の役にも立たない。何かを言いたいのに、何も出てこない。何を言っても違うような気がする。体の中でぐちゃぐちゃに絡まったものが、涙になって滲み出してしまいそう。
「……学校でね、——」
「うん」
「賞をもらったの」
「すごいじゃん。何の賞?」
「本の、感想を書いたら、もらった」
「すごい、おめでとう。それあとで読ましてよ」
「あと……宿題、が、わかんない……」
「うん。じゃあ、お家帰ったらやろう? 教えてあげる」
「……」
「それから?」葵は微笑みながら待っている。「どんなことがあったの? 教えて?」
葵は絶対に急かさない。雨は降っているし寒いのに、英斗が言葉を探している間もずっと黙って待っていてくれる。
「……最近、テレビがきらい」
「なんで?」
「……」
「英斗?」
「……母さんが、なんか、変。あおい、知ってる?」
この時、ほんの一瞬だけ、葵の表情が止まった気がした。
「……どんな風に?」
その質問には答えられなかった。それを伝えられるだけの言葉を持ち合わせていなかったのである。ただ咄嗟に、右手で持っていた傘を捨てていた。
葵は驚いて、自身が差していた傘をこちらに傾けて中に入れてくれたが、英斗は空いた右手で、自分の顔の前にある葵の頭を撫でた。葵がいつも自分にしてくれるのと、同じように。
なぜ自分がそんな行動を取ったのかはわからない。ただ何となく、自分がそうしたかったのだ。初めて触った葵の髪はつるつるしていて、自分のと全然違うと思った。
葵は丸くした目で素早く瞬きをして、それから無理矢理に、笑った。
「……どうしたの」
誤魔化そうとしたのだ。戸惑っているのは伝わってきた。だがそれ以上に、葵は泣き出しそうな顔をしていた。傘を打つ雨の音がなければ、きっと、その時彼女の掠れた声が震えていたことも聞こえたのだろう。そしてこの時の自分がもし葵と同じか、それに近いくらい年を取っていたならば、もう少し気の利いた言葉の一つも掛けてやれたのだろうか。或いは、その後に待っている運命を少しでも違う方向に変えることができたのだろうかと思うと、もどかしくてならない。
人生で初めて人を殴ったのは、それから数日後のことだった。
相手はクラスメイトの男子だった。きっかけは本当に些細なことだったと思う。ボンクラな教員に何度見て見ぬ振りをされようと、それまで何事もスルーに徹し、言葉ですらやり返さずにやってきた。おそらく相当に大人しい奴だと思われていたから、まさか殴られるなんて思ってもみなかったのだろう。直後は何が起きたのかわからないという様子で目を丸くして、床に転がったまま固まっていた。
当然だ。自分でもどうして手が出たのか理解できなかった。ただ、どうにもこの時は我慢ならなかったのだ。安全な外野から一方的に批判するしか能のない大人に焚きつけられて、得意げにヒーローのことを馬鹿にするゴミみたいな奴らが。
——母さんや葵のことなんて、何にも知らないくせに。
「お前みたいなクズを生み出すような親より、よっぽど世の中の役に立ってるよ」
そいつが立ち上がって掴み掛かってきたから、本格的に殴り合いの喧嘩になってしまって、結局誰かが呼びに行った教員らに取り押さえられ、そのまま生徒指導室に連行された。
初めて学校に呼び出されて迎えに来た母は、教師からひどく偏りのある経緯を説明され、ペコペコと頭を下げていた。何度も違うと反論しようとしたが、止められた。あとからやってきた相手の親はそんな母を見て、「これだから片親の子は嫌なんだ」「親が物騒なものを振り回しているから子どもも暴力的になるのでは」などと意味のわからないことを並べて帰っていった。その物騒なもののおかげで自分たちの生活が成り立っているのを知らないのかと言ってやりたかったが、母は謝るだけで何も言い返そうとはしなかった。それを見て、家であのテレビを見ている時の感覚を思い出し、吐きそうになったが必死に我慢した。
無性に腹が立って治まらない。なぜこちらが悪いということになるのか、まったく理解できない。どうせそんなことを言われるくらいならもっと徹底的にやっつけてしまえば良かった。母も母だ、どうして何も言わない? 家にも帰れず、ボロボロになるまで、毎日死と隣り合わせ。そうまでして戦って、何を守っても責められて、感謝の一つもされなくて、どうして平気で頭を下げていられるんだよ?
帰り道、顔を見るのも嫌で、後ろからついて来ている母を無視して歩いた。
「英斗。ねェ英斗、待ってよ」
そう声が聞こえ、仕方なく立ち止まる。無視して歩き続ける気概のない、結局は中途半端な自分にもほとほと嫌気が差した。せめて振り向きたくはなくて、体の両側で力一杯に拳を握り、地面を見つめたまま唇を噛んで堪えた。
鉄の味がする。
やがて隣に母の影がやってきた。手を繋ごうとしてきたが、振り払った。
「……ねェ、英斗?」母は隣にしゃがんで、自分を見上げている。「先生はああ言ったけどさ、お母さん、英斗が何もないのにああいうことする子だって思ってないんだけど、どうなの?」
「なんで今になってきくの?」自分の声が棘を纏っているのがわかる。「思ってないんだったら、さっきちがうって言えば良かったじゃん。なんで今言うの?」
「英斗、——」
母が浮かべる作った笑い顔が気に入らなくて、滅茶苦茶にぶち壊してやりたいと思った。でも、やり方がわからない。
「そうだよ、ぼくがいけないんだ。アイツのことがむかついたからなぐってやった。それで良いだろ? ヒーローの子どもなのに、良い子じゃなくてガッカリした?」
「やめなさい、英斗。アンタそんな——」
「わかるわけない‼︎」
「……」
「……母さんに、わかるわけないよ。母さんは……あんなクズ共のためにがんばる母さんは、ただのバカだろ……」
違う。
そういうことが言いたいんじゃない。自分には、もっと他に言いたいことがあるんだよ。
それなのに、どうしてなのだろう? いつもみたいに大人しくしていられない。何かが決壊していて、どうにも自分では抑えが効かない。
「ねえ、教えてよ。それが、ぼくよりかちのあることなの?」
苛々する。
自分が自分じゃないみたいだ。
母はその質問に答えてはくれなかった。どんな顔をしているのかと恐る恐る視線を向けると、そこにあったのは困惑だった。
何があれば良かったのかはわからない。ただ、自分はそれが、ショックだったのだと思う。母をその場に置いて走って家まで帰り、ランドセルを放って布団に潜り込んだ。頭の中がぐちゃぐちゃだ。苛々もしているが、それと同じくらい後悔していたし、戸惑ってもいて、怖かった。何よりも悲しかったのは、母に本当は何を言いたかったのか、まったくわからないことだった。
だって、自分はずっと知っていたじゃないか。母にとって、世界は何よりも大切なものだって、自分が一番わかっていたじゃないか。それなのに——。
やっぱり口を開くと碌なことにならない。こんなことで誰かを傷つけるくらいなら、黙っていたほうがマシだ。何を言われたって、何を思ったって、一人で何も言わずにいれば周りの誰も傷つかなくて済むし、自分自身も傷つかない。こんな思いをするのはもうたくさんだ。
その後、母が帰って来たのかどうかは知らない。朝になって部屋から出ると誰もいなかったが、学校へは行かなかった。
テレビも見ず、本も読まず、宿題もしない。ただぼんやりとリビングに転がっていた。頭の中で渦巻く正体不明の何かは一向に晴れず、不快で動く気にもなれない。
食事もしないまま日がてっぺんを越えて、ゆっくりと地に向かって降り始めた頃、ドアチャイムが鳴った。
「英斗ぉ、ラーメン食べに行こうよー」
葵だった。ふと壁の時計を見やるとまだ夕方には遠い。来るには随分と早いが何かあったのだろうかと思いつつ、訊くのはやめた。喋りたくない。
「行かない」
それだけ答えて一方的にインターホンを切った。何か言い掛けた葵の声が途切れ、部屋の中はまた静寂に包まれる。
「……」
寂しくなった。本当は、何となく、葵に会いたかったと思っている自分がいるからだ。
でも、今は——。
ところが、部屋に戻って布団に潜ろうとした時、玄関のほうでガチャガチャと音がして、信じられないことにドアが開いて葵が中に入ってきた。
——え⁉︎ なんで⁉︎
慌ててベッドに潜り、布団を頭から被った。混乱して、悪いことをしたわけでもないのに心臓がバクバクしている。
「ねェ!」直後、ノックもなしに部屋の扉が開けられる。「こら! このあおい様を無視するなんて良い度胸してるじゃんか! 私お腹空いたんだってば、付き合ってよ!」
「一人で行けば良いだろ、大人なんだから」布団を被ったまま答える。
どうして葵が家の鍵を持っているのか、意味がわからない。しかもあろうことか、葵は部屋の中まで入ってきて、たぶんベッドのすぐ横に座っている。
「一人は嫌なんだってば。ねェ、お腹空いてないの?」
この部屋の扉に鍵がついていないことを心底恨んだ。心臓が痛い。一体どういうつもりなんだ、この人は。
何も話したくない。今話をしたら葵にも良くないことを言ってしまいそうな気がして怖くて堪らない。ひょっとしたら母から何か昨日のことを聞いているのかもしれないと思ったが、逆にそれならば話は早い。
「どっか行ってよ、もうほっといて!」
そう頼んでも、葵の気配は消えない。どうすれば消えてくれるのだろう? このままでは眠ることすらできない。
布団の中でどうしようかと考えていると、何かが布団の中に入ってきて頭に触れた。それが葵の手であると気付くのに、そう時間はかからなかった。
「何かあった?」
払い除けたい。今の自分は、葵に褒めてもらえるようなことを何一つしていない。だから頭なんか撫でられたら駄目なんだ——そう思ってその手を掴むところまではしたのに、どういうわけか、葵の氷みたいに冷たい手に触れたら急にできなくなってしまった。やめて、あっちに行って——と、すぐそこまで言い掛けた拒絶の言葉が喉の奥を圧迫していて痛い。
「……言い、たくない」
その隙間から懸命に声を出す。
「本当に?」
「……」
「大丈夫よ。私は、ちょっとやそっとじゃ傷つかないし、壊れないから」
嘘だ。
雨の中で見た葵の顔が頭を過ぎる。傷つかないなら、壊れないなら、あんな顔、しない。
「あんた程度に何されたって、どうってことないわ」
「そんなの……わかんないじゃん」
「じゃあ、やってみたら良いよ」
さらりと言われて、怖くなって、手を離そうとしたら、葵は布団の中で手を握り返してきた。
「やってごらん?」
葵はもう一度そう言った。囁くような、優しい声だった。ああ、やっぱり、どうやったって逃げられないと、悟った。
葵の手は冷たくて、自分の温度くらいではちっとも温かくならない。どうしたら温かくなるのだろう? 自分の手がもう少し大きかったら良かったのだろうか。
昨日振り払った母の手も、こんな風に冷たかったのだろうか。
「……ヒーローなんか……役立たずだ、って、言うから……」
声を絞り出したら、目から水みたいなものが一緒に溢れてきた。布団が濡れるから勘弁してほしいのに、全然止まる気配がない。
「それで友達殴ったの?」
「友達じゃない‼︎」英斗は思わず被っていた布団を払い除け、そこにいる葵に向かって声を上げた。「あんなクズ、友達なんかじゃない! ママの後ろにかくれて泣いてるくらいしかできないくせにバカにしやがって!」
静かな室内に自分の声が反響する。自分はこんなに大きな声が出せたのかと驚いた。だが、葵は表情一つ変えずにただそこに座って、じっと英斗の顔を見つめていた。掴まれた左手は離してもらえそうにない。
「……アイツがッ……——」もう嫌だ。これ以上は言いたくない、言ったら駄目だ——そう思うのに、涙が零れていく度に勝手に言葉も流れ出てしまう。「アイツが、遊園地のみやげをみんなに配って、良いなって言われて調子に乗れるのは、ヒーローが世界を守ってるからじゃないか。なのに、アイツはヒーローなんか役にも立たないおく病者だって言ったんだ。アイツの親は、ぼくがこんななのは母さんがヒーローだからだって言った!」段々思うように声が出なくなってくる。咳は出るし、喉の奥が痛くて苦しい。「先生だってアイツらの味方する。みんな何にもわかってない。ヒーローは、強いけど、大変なんだ。死んじゃうかもしれない。みんな、なんでわかんないんだよ。なんでほめてくれないの? 何にも知らないくせに、母さんのことも、あおいのことも、何にも知らないくせに‼︎」
「……」
「世界なんかきらいだ、大ッきらいだ‼︎ ぼくのきらいなものを守る母さんもきらい!」
そんなものより価値のない自分はもっと嫌い。
「みんなきらい! もういらない、全部いらない! モンスターにやられて、ぐちゃぐちゃになって、こんな世界、なくなっちゃえば良い‼︎」
息が上手くできなくてものすごく苦しい。それなのに涙は止まらないし、息は吸えないし、このまま死ぬかもしれないと思った。でも、たとえそうなったとしてももうどうでも良い。
ただ、目の前の葵の顔を見るのだけは怖かった。
母のように困っていたらどうしよう? 傷ついて泣いていたら? 先日雨の中で見た葵の顔が脳裏を過ぎる。あんな顔、させたくないのに——。
「そうかァ……」やがて葵は溜め息を吐くように呟いた。「英斗は、私たちのために怒ってくれていたんだねえ……」
葵は静かにそう言うと、自分のほうに英斗を引き寄せて抱き締めてくれる。
「ありがとう。キミは、優しい子だね」
わあわあと泣いていても、葵に背中を摩られていると息をするのが楽になる。良いことなんか何もしていないはずなのに頭も撫でてくれる。それが申し訳なくて、また悲しくなる。
わからない。自分は、優しくなんかない。
優しいっていうのは、葵みたいな人のこと言うんだ。こんな風に、自分の言葉で人を傷つけたりしない。触るだけで気持ちが楽になる魔法の手を持っていて、疲れているのに家にやってきてラーメン食べようと誘ってくれて、自分が濡れるのも厭わず傘を傾けてくれるような人のことを言うんだ。
決して自分のような人間のことじゃない。
「英斗、こっちの手ぇ痛くない? 素手で殴ったらさ、痛かったでしょ」
葵は左手を摩ってくれているが、もう何が痛いのか訳がわからない。全部痛いし全部苦しい。
「そんなクズがねェ、何言ったって良いのよ、言わせておけば。キミが痛い思いをするようなことじゃないの」
「ごめんなさい……」
「馬鹿タレ。謝んなくて良いんだよ。次そういうことがあったら私に言いなさい。代わりにボコボコにしてやるわ」
そんなの駄目だ。そんなことをしたら葵が怒られてしまう。
「え、何、駄目なの?」懸命に頭を振っていると、葵が不満げな声を上げる。「なんで? あおいだって強いよ?」
知ってるよ。知らないはずがないじゃないか。むしろ最強なのは母じゃなくて葵のほうだって思ってるよ。
そうじゃなくて、葵が代わりに怒られたり痛いのが嫌なんだ——そう考えているとまた涙が止まらなくなってしまって困った。
「ええ、また泣いちゃう? 本当の英斗は泣き虫だったんだねェ」
むかつく。自分でもこんなに泣くような奴だなんて思っていなかった。葵のせいだ。葵のその魔法の手のせい、それから、葵がとても良い匂いがするからだ。
「良いよ良いよ、あおいにお話しして? なぁんでも良いよ」葵は英斗を抱き締めたままゆらゆらと体を左右に傾けている。それが何となく心地良い。
「……なんでなの? あおい」
「何が?」
「あおいのことも、母さんのことも、だれもほめてくれない。悪口ばっかり言う」
「みんな余裕がないんだよ」
「なんで?」
「臆病だからよ。誰かが悪いってことにしないと、安心できないの」
「……なんで母さんは、そんな世界を守るの?」
「それはあんたのお母さんに訊かなきゃ」
「母さんは答えてくれなかったよ」
「……」
「なんであおいはぼくのことを放っておいてくれないの?」
「なんでかな?」
葵はやっぱりゆらゆらと揺れながら少し考えて、「私が、そうしたいからよ」と答えた。その答えのとおり、葵はその晩ずっと家にいて、英斗のことを抱き締めて頭を撫でてくれた。ちっとも眠れなくて、時折忘れた頃になって突然勝手に涙が溢れてきて止まらなくなることがあったが、それも葵は「大丈夫だよ」とだけ言って、やはりゆらゆらしながら頭を撫でてくれるのだった。
まだ陽が昇るかどうかという頃、漸くほんの少しだけ眠ることができて、腫れて重くなった瞼を擦りながら玄関へ行くと靴を履いている葵を見つけた。呼び出しがあって、これから会社へ行くと言う。
正直、行かないでほしいと思った。寂しいからじゃない。でも、それは言えなかった。
「呼ばれたところに現れるのが、ヒーローですから」
葵はそう言って、笑った。
「……ごめん」その顔を見ていて申し訳なくなった。「つかれてるのに、ねてないんでしょ? おなかすいてるって言ってたし……」
「フン、甘く見ないで。私を誰だと思ってるの?」葵は腰に手を当てて踏ん反り返っている。「最強のヒーロー、ハッピー・シャイニーの片腕よ? まだまだ若いんだから、一晩徹夜したくらい、どうってことないよ」
英斗は少しだけ待つように葵に言って、急いで冷蔵庫から自分用のオレンジジュースの紙パックを持ってきて、玄関先の葵に渡した。それくらいしか自分にできることが思いつかず、悔しいのと同時に恥ずかしくて、やっぱり何もしなければ良かったと後悔したが、葵はとても嬉しそうに笑ってそれを受け取って、ポケットに突っ込んだ。ありがとう、と向けられる三日月の目に、どうにも照れ臭くなって視線を逸らす。
「英斗」葵は少し腰を屈めて左手を肩に置き、もう片方の手で腫れた頬や頭を撫でてくれた。やっぱり葵は手が冷たい。「もう少しお母さんにも好きなこと言ったって平気だと思うよ。だってキミは子どもなんだからさ」
言われていることは理解できるが、自信はない。
だってきっとまた、上手く言えない。思っていることと違うことが口から出て、母は困惑するだろうし、何かを返してくれるとも限らない。もしかしたらあの笑い方をするかもしれない。
自分はまた誰かを傷つけるような気がする。そしてそれは自身にとっても、ものすごく痛いことなのだ。
それがとても怖い。
「大丈夫。大丈夫。あおいはどんな英斗でも好きだよ?」
「何言ってんの?」
「本当だよ? 英斗はとっても優しいし、可愛いから、意地悪したくなっちゃうくらい好き」
意味不明である。好きなら意地悪なんかしないでもらいたい。
だいたい、いつもいつも言うけど可愛いって何だよ。ぼくは男の子だよ? ——いつもならそう言い返すのに、今日はなぜかそれを聞いたら安心してしまって、否定したくないと思った。自分の中でざわざわとしていたものが落ち着きを取り戻す。
「ねェ。英斗は、あおいのこと嫌い?」
「エッ……——」思わず目を逸らした。なんて質問をしてくるのだろう。しかもこちらが答えられないのをわかっていて、葵はニヤニヤとあの三日月のような目でじっとこちらを見てくる。
顔が熱い。意地悪。意地悪!
「ね。忘れないでね。あおいは世界中の誰よりも、英斗が好きだよ」忘れないでね、ともう一度言いながら、葵は頭を撫でてくれた。
「……また……連れて行ってくれる? ラーメン」
体がむずむずするからその時の葵の顔は直視できなかったが、何とかそう訊ねると葵は一瞬驚いて、それから目を細め、もちろん、と頷くと玄関を出て行った。ドアが閉まり、葵の駆けていく足音が聞こえなくなっても、しばらく鍵も掛けずに玄関に立ち尽くしていた。葵の魔法の手があったところが、何となく温かい。
* * *
幸子の考えていることがわからない。
坂道を勢いよく下っていく両足がいつもより地面を強く蹴り飛ばしているのは、得体の知れない感情を放出する術を知らない自分の、細やかな抗議の表れなのだろうか。怒っているのか、嘆いているのか、思いつくすべてが何か一つズレている気がして腑に落ちない。
一昨日の昼過ぎ、共に討伐に出て戻ってきた際に事務室から呼び出された幸子は、葵が更衣室で着替えをしている時に血相を変えてやって来て、英斗のことで学校へ行かなければならないと珍しく慌てて帰っていった。せっかちで抜けている幸子が慌てふためいている姿はしばしば目にしていたが、その理由が英斗のことというのが妙に引っ掛かって、荷物をしまうのも程々に更衣室を飛び出していった幸子の残像を葵はしばらく見つめていた。
そして今日、午前中に出動命令が出て現場で落ち合った8号はいつもと変わらぬ様子を取り繕ってはいたが、明らかに本調子ではなかった。いつも以上にドジで、いつも以上に危険な場面に何度も遭遇したし、最終的にモンスターは3号が仕留めた。
「助かったァ、3号! ナイスアシスト!」
砂煙の上がる地べたに尻餅をついたまま、ニコニコとこちらに顔を向けて親指を立てる8号に駆け寄り跪く。「左手出して」
「え?」
「さっき捻ったでしょ。見せて」転んだ時に変なつき方をしたはずだ。スコープから覗いていたから間違いない。
「ああ……バレてた?」
「当たり前でしょ、私を誰だと思ってるの?」
「ごめェん。でも大したことないから大丈夫大丈夫!」
ヘラヘラとそう言って笑ったが、試しに軽く動かしてみたらお尻が浮くほど痛いのはわかった。折れてはいないようだが、すぐに戻って医務室で診てもらったほうが良い。
3号は髪の結び目に括っているバンダナを外し、手早く応急処置をした。「他は? 大丈夫?」
「うん、大丈夫! やっぱ3号は頼りになるなァ!」
「……何かあったの? 幸子さん」
8号の曖昧な笑みが一瞬固まる。それによって、自分の問いへの答えがイエスだということは確信を持てた。
訊かざるを得ない。今日再び出動しないとも限らないし、明日も明後日もきっとモンスターはやって来る。それまでにこの体たらくの原因を突き止めて、本調子に戻ってもらわなくては死活問題なのである。
「変だよ。今日。全然いつもの8号じゃない。どうしたの?」
「別に……、——」8号は視線を合わせようとしない。「——、大したことじゃないよ」
「大したことだよね?」明らかに動揺して困っているのは感じたが、構わず淡々と詰め寄る。「何? 昨日慌てて帰ったのと関係あるの?」
「いや……その……」
「英斗の学校行ったんだよね? 英斗と何かあった?」
やがて8号は何も返せなくなり、下を向いて黙り込んでしまった。
——やっぱり……。
この人は本当に嘘を吐くのも、誤魔化すのも、隠すのも下手すぎる。まだ幼い英斗が母親のすべてを察して先回りしようとするのも納得である。
「……アタシ、——」消え入りそうなほど小さな声は震えていた。「あの子の、母親なんかやってて、良いのかなァ……?」
赤くなった目に涙を溜めて唇を噛む8号を見て、3号は深々と溜め息を吐いた。痛いはずの左手が無意識にスカートの裾をギュッと掴んでいる。
「……やめな? 悪化しちゃうよ」3号はその手をそうっと撫でて、力を入れないように自分の右手を繋がせた。「とりあえず、本部に帰って医務室に行こう? 何があったのか話して」
彼女は何度も首を縦に振った。いつだって8号は大きくて、それこそ皆の世界を照らす太陽のような人であるはずなのに、この時ばかりはとても小さな、ただの一人の女の子みたいに見えた。
本部に帰還し、幸子を医務室に預けてから食堂へ行き、顔見知りの給仕のおばさんに温かいココアを淹れてもらった。紙コップを二つ持って医務室に戻ると、ちょうど処置が終わったところで、先ほどまで水色のバンダナが巻いてあった幸子の左手は、清潔そうな白い包帯に変わっていた。
「軽い捻挫だからすぐ治ると思うけど、無理しちゃダメよー?」
手当てをしてくれた医務室の若い女性はそう言って席を立った。
「はい」葵はまだ湯気の立つ紙コップを一つ差し出す。「食堂でもらってきた。寒いでしょ?」
「ありがと……これ、返す」
引き換えに差し出されたバンダナを受け取り、ポケットに突っ込む。ふらりと立ち上がった幸子と共に、足は自然と更衣室へ向かう。
誰もいない更衣室は深々と冷えていて、暖房のスイッチを入れたが、少し部屋が暖まるまで着替える気にもなれなかった。しばらく二人してロッカーの前のベンチに腰掛けてココアを飲んでいたが、そこには沈黙が横たわるばかりで、冷え切った部屋を暖めようと懸命に働くエアコンの音だけが響いていた。
「……昨日さ、——」手に持ったココアがほとんどなくなる頃、漸く幸子は口を開き、ぽつりぽつりと話し始めた。「英斗が学校で、クラスメイトの子を殴って、喧嘩になったの」
「え?」耳を疑った。意味がわからないし、普段の英斗を知っている葵からしたらまったく一致しない。「……どういうこと? なんで?」
「わからない」幸子は小さく頭を振った。「相手の子は、英斗が先に手を出したからやり返しただけだって言ったけど」
「そんなはずないでしょう!」思わず声が大きくなってしまう。「幸子さんだってわかるでしょ? 英斗はそんなことする子じゃない」
「そう思ってるよ。けど……」そう言う割に、歯切れが悪い。
「先生は? 先生もそう言うわけ? 何なの、そのクソ教師、クビだろ、そんな奴先生じゃない」ひどく苛々する。その教師に対してもそうだが、ハッキリしない幸子にも腹が立つ。「それで? 幸子さんはどうしたの? 何て言ったの?」
「……とりあえず、相手には謝ってきたよ」
「なんで謝んの⁉︎」
「だって殴ったのは事実だからさ……」幸子は俯いている。「でもアタシも、英斗が何の理由もないのに友達殴るような子だなんて思えなくて、だから、帰り道で訊いたの。そしたら——、……」
幸子はそこでまた口を噤んでしまった。何となくそこから先の嫌な展開には予想がついたが、彼女の言葉が続くまで懸命に堪えた。
「……その子のことがムカついたから殴ったんだ、わかるわけないって、言われちゃった……」
「……幸子さんは英斗のそれを信じたの?」
即時否定してほしくて訊いたが、幸子はしばらく答えに迷っていた。自分の中に感情が蓄積されていくのを感じる。
「……信じ、たくは、ないよ。でももう、わからなくなっちゃった」
「わからないって何? 英斗はあなたの子どもだよ?」
「でもアタシ、あの子のこと何にも知らないの。何考えてるのか、全然わからないし……——」
「ねェ馬鹿なの? なんで……、なんで信じてやらないの? わからないならなんで話を聞かないの? 英斗が本当のことを言ってないって、あなたにだってわかるでしょう⁉︎」
「母親だからって、全部何でもわかるわけじゃないんだよ!」勢いで立ち上がった幸子は肩を窄めてぼろぼろと涙を流している。「アタシじゃ、駄目なんだよ。一緒に歩いてもくれなかったし、手も握らせてくれなかった。もう、怖くて、どうしたら良いのかわかんない。近づこうとしたら、またあの子のこと傷つけちゃいそう」
「……英斗は、今どうしてるの?」
幸子はやはり頭を振る。「……わかんない。今日は、学校があるけど……」
昨日そんなことがあったのなら、今日平気な顔をして学校へ行っているとも思えない。もし自分だったら絶対に行かないだろう。
「幸子さん、すぐ帰ったほうが良い。帰って英斗と話して」
「何を話すの?」
「何って、——」
「アタシ、わかんない。きっとまたあの子のこと傷つける。昨日、アタシ答えられなかったんだよ。英斗に……世界を守ることは、自分より価値があるのか訊かれて、答えられなかったの」
「幸子さん、——」
「今もずっと考えてるけど、わかんないの。葵、お願い。英斗の話、聞いてやってくれない?」
「ええ?」
葵が眉を顰めるのも構わず、幸子は自分のロッカーを開けて鞄を漁ると、鈍色の小さな何かを差し出してきた。
それは、あの家の鍵だった。
驚いて再び幸子の顔を見ると、お願い、と彼女は声を絞り出した。
「アタシじゃ、無理……上手くやれなくて、絶対またあの子のことを傷つけちゃう。それにアタシが話すより、葵のほうがきっと素直に話してくれると思うんだ」
「でも幸子さん、それは……——」
「これ以上、傷つけたくない」
違う。それは葵の役目じゃない。
それは母親のやるべきことで、葵では代わりが務まらない。
自分は、他人である。
わかっていた。だが、幸子があまりにも不器用であることも、葵はよく知っている。英斗も自分の思うことを綺麗に吐き出せない。互いにそんなだから、誤解が生まれるのは必然なのだ。一緒にいて、長い時間を共有してきたのなら、そこにない言葉を補えることもあるかもしれないが、この二人には圧倒的にそれが不足している。
このままぶつけても壊れてしまうだけなのかもしれない。それは避けたい。自分が間に入って上手く取り持てば、少しは近づけられるのだろうか。だが、それをしてしまっては結果として、既に不足している二人の時間をさらに奪うことになりかねないのではないか?
どうするのが良い? どうすれば、二人とも救える?
「……わかった」
散々迷って、葵は結局、差し出された鍵を受け取った。「でも、約束して? 必ず、英斗と話をして。ちゃんと向き合って」
その意味を幸子が理解できたのかどうかはわからない。鍵を受け取ってもらった幸子は心底安心したように、ありがとう、と吐き出しただけだった。
結果論で言えば、ぶつけなくて良かったと思う。あの状態の幸子では、英斗と二人きりにしてしまったら蹉跌をきたす可能性は大いにあるし、そうなった時、壊れるのは英斗のほうだ。
あの子は、大人じゃない。たしかにしっかりしてはいるが、まだ十歳そこそこの子どもである。経験も、気持ちの片付け方も、表し方も、何もかもが不足していて我慢することしか知らない。そうすることが母に対して自分にできる唯一の孝行だと思っている。
連日の報道に感化された周囲の人間たちは英斗にとって敵にしかならない。どこへ行ったって、あの子はあの小さな体で、独りで闘うことになる。
もう、限界なのだ。
限界だということを幸子にわからせなくてはならない。だが、英斗が長年にわたって溜め続けたものは、不器用な幸子が受け止めるにはあまりに大きくなりすぎている。
それでも、受け止めさせなくてはならない。英斗が壊れてしまう前に。
——「なんで母さんは世界を守るの?」
その答えを伝えなくてはならない。その役割は、葵では駄目なのだ。
「……——ッ!」
大声で叫びたいその衝動を、先ほど英斗がくれたオレンジジュースで押し戻す。一つ呼吸を置いたら、漸くその味を感じた。酸っぱくて、甘い。
自分は、家族じゃない。
葵はただの代わりなのだから。




