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第七話 暮色蒼然(2)伝える日

 ぼんやりとして、暑い。纏わりつくそれを必死に払い除けようとするのに、体が言うことを聞かない。遠くでサイレンのような音が鳴っていて、自分は行かなければならないとわかっているのに、焦りが募るばかりでもどかしい。

 似ている。大都会の真ん中で人の波に呑まれている時、増水した河の中に落ちた時、或いは力の使いすぎでフリーズしてもうまもなく意識が飛ぶかもしれないという時、とか。

 ——駄目だ、駄目だ。

 温かかった右の手が急速に冷めていく。同時に、鉛のようだった瞼が薄らと開いた。

 何かのロックが外れたかのように、体が楽に動かせる。着ているパジャマがじんわりと濡れていて、乱れた髪も少し湿っているような気がするが、あれだけ重かった頭は非常にすっきりとして意識を保っている。そこにいたはずの人がいなくなっていて、それがあのサイレンの——ポケベルの音のせいであるということを瞬間的に察知できるくらいには。

 慌てて布団から這い出て、ぴったりと閉められた戸を勢いよく開けると、見慣れた長い黒髪の束が青い蝶々を伴って玄関先で揺れていた。

「あ、ごめん。起こしちゃった」

 振り返った葵は既に両足に靴を履き、今まさにドアを開けようとしているところだった。「ちょっと行ってくる」

「何だって?」

「情報はまだだね。センリが出てるらしいけど」

「葵は? 出るの?」

「たぶんね」葵は微かに首を傾げながらも即答した。「まだ決まってないけど、とりあえず戻って確認する」

「誰と?」

「……出るならたぶん、モノクロかな」

「え?」一瞬、顔が強張るのを隠せなかったのは自覚がある。だから葵は、大丈夫、と笑ったのだ。

 頭を振った。「駄目、一緒に行く」

「馬鹿、今日はやめときな」でも、と言おうとしたのを葵の手が止めてくる。「内側の仕事も表の仕事も、両方やって疲れてんだよ」

 その手は乱れたままの頭を優しく撫でながら寝癖を整えてくれる。駄目なのに、わかっているのに、この手に言い聞かせられると逆らえない。

「大丈夫だから。ね? 病み上がりはやめときなさい」

「やだよ、もう熱下がってるし一緒に行ける」モノクロにはいろいろと問題がある。葵だってそれは十分認識しているはずだ。

「まだ本当にそうなるかわかんないし。ね? 大丈夫だよ」

「でも、——」

「英斗」葵はしっかりと目を見て、ゆっくりと芯のある声で発音した。「大丈夫だから」

 怒っているのではない。

「……ちゃんと呼んでくれる?」

「うん」

「何かあったらすぐ戻って。危ないことはしないで」

「わかった」葵は素直に頷いた。「真理子ちゃんに、お礼の連絡しておいて。あと、ちゃんと休んで、早く元気なチーフに戻って。平気なら、夜ラーメン食べに行こうよ」

「うん」

「じゃあ行ってきます」

 葵はにっこり微笑むと、ドアを開けて出て行った。

 ゆっくりとドアが閉まり、葵の残り香だけがそこにあって、本当にこれで良かったのだろうかと胸が騒いだ。昨夜、葵はずっと傍らにいてくれて、ほとんど眠れなかったのではなかろうか? 食事だって摂っていないかもしれない。

 ——「大丈夫だから」

 その言葉を信じないわけではない。葵は3号、スカイ・ハーク——最強のヒーローなのだ。今も、昔も——。

「……」

 心臓が痛い。

 頭からすっと温度がなくなって、息ができなくなる。大丈夫、大丈夫、と言い聞かせて布団に戻り、頭から被った。掴みどころのない漠然とした不安から逃れたいのに、頭の中に止めどなく湧いてくる。早く元気になれと言われたのに、また体調を崩したらどうするのだ。

 大丈夫、大丈夫。

 もしかしたら相方はマリーかもしれないし、1号や2号だっている。問題があるとはいえ、モノクロだってこれまでまったく連れて行ったことがないわけではないし、訓練だってきちんと受けたヒーローだ。

 大丈夫。だって、葵なのだから。葵は大丈夫だと言ったのだ。何かあれば連絡してくれるとも言った。

 布団から這い出し、風呂場に向かう。自分はせめてそれに備えよう。シャイニーの背中を守ってくれるのが3号であるなら、自分もまた、彼女を守る者でありたい。

 葵は休めと言ったが、この状況だと休まないほうが精神衛生的にはよろしい。シャワーを浴びて頭髪を作り、『いつものチーフ』の顔面を作って、真理子が残していった食料を空きっ腹に入れる。昨日の礼と詫びの電話をしようかと思ったが、討伐に出ているかもしれないことを考え、それは今しばらく待つことにした。鍋を洗い、皿を洗い、粗方のことを終えても手を止めたくなくて珈琲を淹れた。ふと時計を見上げると昼を過ぎた頃だった。

 ——落ち着かない。

 3号たちは帰還しただろうか? 誰も怪我していないだろうか? モンスターはどんな奴だったのだろう?

 じっとしているとそんなことばかりが巡る。他に考えることがない自分がほとほと嫌になる。

 会社に行って、部屋で事務仕事をしているくらいなら、葵も許してくれるのではなかろうか——そう考えていた時、傍らに置いていたポケベルがけたたましく鳴った。


「……え?」


 もう聞き慣れたと思う普段と変わらない着信音が、何となく嫌な鳴り方だと感じたのは気のせいではなかった。画面に表示されていたコードは、ここ最近——少なくともチーフがシャイニーに変身するようになってから、一度も見たことのないものだった。

 コードの発信間違いか何かであることを祈りながら、手早く身支度を整えて家を飛び出した。だってそんなこと、あるはずがない。今朝討伐に出たのはあの3号で、いくら心配だとはいえ他に二人も連れて行っている。

 ——……誰が?

 いや、しかし、あり得ない——。

 たしかにモノクロの前線での行動は目に余るものがある。それについては自身も、彼女らと組んだことのある他のヒーローも、似通った感想を持っている。ただ最近は徐々に前線の緊張感が体に染みつき、戦い方も様になってきて、少なくとも勝手に離脱したりといった危険行動は見られなくなってきていた。だからこそ今回も二人同時に3号につけるという判断ができたのだろう。

 だから、あり得ない、はずなのだ。いくらあの性格が変わらずとも、まさか、そんなはずは——。

 だが、本部に着いたその足で向かった会議室の前には、眉を顰めた1号が立っていて、彼女のその顔を見た瞬間、あのコードは——遭難者がいるということを示すあのコードは、間違いでも何でもないのだと悟った。

「チーフ……、——」1号は何か言いたげではあったが、言葉が見つからないのか、下を向いて押し黙ってしまった。

「他は知ってるの? このこと」

「いえ、まだ……」

「そのままにしておいて良いわ。伝えるのはアタシがやる」

「……」

「あとで報告する。控え室に戻って、待機して」

 声が震えないようにするのが精一杯だったから、まともな顔をしていたかどうかは自信がない。ただ1号はそれを汲んでくれたようで、それ以上何も訊かず、小さく頭を下げて廊下を駆けていった。

 意を決してドアを叩き、中に入るとそこには本部長の他、黒衣部門の副統括とセンリ、そして今し方討伐から戻ってきたのであろうモノクロ——4号と5号の姿があった。

 正直、混乱した。自分がここに辿り着くまでの間、頭の中で想定していたいくつもの事態の中で、最も可能性が低いと思っていた景色だった。

「単刀直入に言うが、3号が帰還していない。4号、5号、再度現場の報告を」

 本部長が促すと、二人は面倒臭そうに溜め息を吐きながらお互いの顔を見合った。

「……だからぁ、あたしら言われたとおりにしただけじゃん。なんで文句言われなきゃなんないの?」

 明らかに不機嫌なのは伝わってくるし、この状況下でこの態度というのは平手打ちの一つもしてやりたいくらいだが、本部長はかなり下手に出て二人に話をするよう『お願い』をしている。

 渋々話し出した二人のわかりにくい報告内容は要するに、当初の目標(ターゲット)を討伐完了後に初見のモンスターに遭遇して戦闘になり、退避してきたということだったが、問題はこの後なのである。

「退避しろって言われたから従っただけ。待ったけどオバサン来ないしさ」

「……それで、そのまま置いてきたの?」

「だって寒いもん、外」

「撮影、遅刻しちゃうし」

 言葉がなかった。

 口を開いたら、同時に手が出てしまいそうで、何も言えない。体の横で握り締めた拳が震えていた。

 同じ感情を持っていたのは、センリだった。被っていなければならないはずのフードが外れたのも構わず、彼女は二人に掴み掛かろうとした。

「やめなさい、センリ」

 咄嗟の声に反応して足を止めた彼女は、鋭い眼光でこちらを睨んだ。

「なぜですか……⁉︎」彼女の目は真っ赤になって、声が震えている。「こんな人たちがヒーローだなんて、ジブンは認めたくないです」

「黙れよブス、文句なら鏡見てから言え」

「そもそも、こうなった原因、貴女の()()が悪いから、では?」

「それは……」

「もういい」少し強い口調になった。体の底のほうで何かが蠢いていて、それがふとした拍子に出てきてしまいそう。「……4号、5号。一つだけ訊くけど、その新種のモンスターはどんな奴だった?」

「え、わかんない」4号はけろっとしている。「うちらちゃんと見てないし」

「強いて言うなら、お化け、みたいな」

 何が面白かったのか、その説明に吹き出した4号に釣られて、5号もくすくすと笑い出す。一刻も早くこの二人を退場させないとこの場は悪化する一方だ。

「わかった。二人とも、怪我なく戻ったことは幸いでした。控え室に戻って、指示があるまで待機して」

「はぁい」

 モノクロは今日この後に控えている撮影のことを楽しそうに話しながら部屋を出ていった。

 どうすれば良かったのか、わからない。

 どうしたとしても、きっと二人にはわからない。たしかに上が出した命令には従うのが原則で、3号は本当に二人に退避命令を出したのだろう。行動は何も間違っていないし、本人たちも一体それの何がいけないのか理解できないから、たとえ叱っても諭しても意味がない。

「まったく、どういう教育をしているのか呆れるよ」

 ドアが再び閉まった途端、本部長はわざとらしく溜め息を吐き、気怠そうに大きなソファに座って踏ん反り返っている。つい今し方のモノクロへの態度とは雲泥の差だ。「チヤホヤされているからって、少々表に夢中になりすぎなんじゃないのかね?」

「すみません」

「自分の部下くらいきちんと躾けろ。どうするつもりだ? 頼むから死人は出さないでくれよ? 今の時代、ヒーローが前線で死んだなんて世間体が悪いじゃないか」

 ——何だろう?

 頭の中が氷のように冷たくて、考えるのが面倒臭い。

 誰に、何をさせるか、そのためには何を言って、どう立ち回れば良いのか——考えるのも、喋るのも、したくない。

 自分がやらねばならぬこと——やりたいことは、ただ一つだけしかない。

「自分が捜索に出ます」

「討伐もだよ! 新種が野放しなんて、マスコミに知れたら何と弁解すれば良いんだ、ええ? 頭を下げるのは私なんだよ⁉︎」

「承知しました」

「私はこれから会合があるから、よしなにやっておけ。連絡は明日以降だ。悪い知らせは受け付けないからな」

 本部長は振り向きもせず出て行った。自分も、行かなければ。

「ジブンも連れて行ってください!」

 後ろから引き留めてきたのはセンリだった。

「アナタは黒衣でしょう」

「偵察には出ています! 万が一もあるからと、鷹野統括(チーフ)から戦い方も教わってきました! だから——」

「駄目よ」

 センリは一瞬肩を震わせ、喉元まで出かけた言葉を呑み込むと、同時に唇を噛みながら下を向いた。

 気持ちはわかるが彼女は今正常とは言い難い。連れて行って、フォローができるほど、自分にも余裕がない。

 彼女だけではない。誰と組んでも、周りに気を配るのは無理だ。落ち着かなければ冷静な判断ができない、客観的な視野を回復しろ——そう思うのに、どこかでその指令が寸断されて、届かない。自分もまた、もはや平静とはとても言えない状態だ。

 そんな状態でここから先、自分がどうなってしまうかもわからない。見られたくない。誰にも。

「あと頼みます」

「ご武運を」副統括は淡々とそう言った。本当にそう願っているのかも、何か他に思うものがあったのかも、わからない。


* * *


 溜まっていた報告書と精算の申請をやっとのことで終えて気分爽快の真理子は、誰もいないチーフの執務室にそれを置きに行ったその足で訓練場に行くことにした。何度やっても、パソコンの画面と睨めっこするだけの事務作業はほとほと性に合わないらしく、全身が凝り固まって実に窮屈だ。溜まりに溜まったストレスを発散するのは、機械をボコボコにするのが一番良い。

 いつもなら絶対にエレベーターを使うところだが、今は張り切って階段を下り、更衣室へ向かう。と、廊下に出たところでちょうど男性用更衣室の扉が開いた。

 意外なことに、中から出てきたのはシャイニーだった。

「あれ、シャイニー?」今日はまだ休みなのだと思っていたが、出社して、しかも変身しているとは恐れ入る。「どうしたの? もしかして出動?」

 いつもの調子で右手を振り振り、呼び掛ける。「え、風邪は? もう大丈夫な——」

 想定外の速度で距離が詰まり、すれ違う。それはシャイニーの歩みが異様に速かったからだ。が、それだけではない。呼び掛けに応えもせず、真理子の脇を無言で通り抜けたその顔面が、蝋人形のように蒼白だったことは、一瞬横目に見ただけで気付いた。

「待って!」反射的に振り返り、シャイニーの腕を掴んでいた。「ちょッ、待って待って、どうしたの⁉︎」

 ただ軽く掴んだだけのはずが、シャイニーはよろめいて危うく転倒するところだった。が、口はまったく逆のことを低い声で言う。

「退いて」

「ねェ顔真っ青よ?」俯いた顔を下から覗き込んで見ると死人のような色をしている。「あんたまだ具合悪いんじゃないの?」

「平気」

「全然そう見えないわよ、今日くらい休んでたら良いじゃない、なんで——」

「いいから退いて」

「退かないわよ!」

 直感で、絶対に退いてはいけないと思った。同時に、自分でも驚くほどの速度で脳が回転している。シャイニーに変身しているということは訓練か、討伐か——まさかこの様子で訓練はあり得ないだろう。だが今この瞬間、出動命令なんて出ていただろうか? モンスターの出現警報は発令されていただろうか?

「説明しなさい。あんた絶対碌なことしないもん、どこ行くつもりなの⁉︎」

「退いてよ‼︎」

 するとシャイニーは突然目を真っ赤にしてそう叫び、両手で顔を覆って泣き出してしまった。「退いてよ、行かせてよ、なんで邪魔するの? 早く行かなきゃいけないのに!」

 さすがに驚いた。やはり只事ではないとすぐに察した。チーフであろうとシャイニーであろうと、決して真理子の前では泣かなかった人が、子どものように地団駄を踏んで号泣し、呼吸もままならない。

 両肩に手を置いて宥めようとするも、しゃくり上げるばかりでどうにもならない。ただただ早く行かなければならないと繰り返すばかりで、状況はまるでわからず、真理子も狼狽えてしまう。

「落ち着いて、シャイニー。ちゃんと落ち着いたら行って良いから。ね? でも何があったのかは聞かせて?」

「……」

「ほらほら、お化粧落ちちゃうわ。せっかく可愛いのに台無しじゃない」

 真理子はポケットからティッシュを取り出してシャイニーに持たせた。よくよく見るとリボンは曲がっているし襟は折れているしスカートも()っていて全然変身できていない。

「どうしたの? 何があったの?」訊ねながら廊下の隅に連れて行って、泣きじゃくるのを宥めつつそれを一つずつ直してやる。「ね? まずは落ち着いてからよ。ほら、急いては事をナントカって言うじゃない? あんたらしくないわよ? どうしたの?」

「……葵が帰ってこない」

 漸く絞り出した声は今にも消えてしまいそうで、シャイニーはとうとうその場に蹲ってしまった。抱えた膝に顔を埋め、大きく息をしている。

「……え、——」さすがの真理子も、その一言の意味を瞬時に呑み込めなかった。聞き違えたのかと思ったほどだ。「……嘘でしょ? なんで……?」

「今朝、出動命令が出て……——」声が段々潤んでくる。「朝まで家にいてくれたの。アイツ、寝てないはずなんだ。なのに、一人で行かせちゃった、わかってたのに、問題があるの、なのに大丈夫って言うから、玄関で見送って……」

 動揺しすぎてもはや何を喋っているのか自分でもわかっていないのではないかと思う。だが、3号が前線に出たきり行方不明になっていて探しに行こうとしているのだということは察しがついた。 

「……、ちょっと、しっかりしてよ」丸まったシャイニーの背中を撫でる。「探しに行くんでしょ? 待ってて、着替えてくる。あたしも行くから」

「いい、やめて、一人で行く」

「何言ってんの?」

「あそこにいるモンスターは新種なの。みんな初見で得体が知れないし、何があるかわからない」

「だから一緒に行くのよ。その顔色じゃ、とてもあんた一人では行かせられないわ」

「お願い、真理子、やめて——」

「一人で行くより二人のほうが早く見つけられる。とにかく探し出すのが優先でしょ、時間ないのよ。あんたはそこにいて、すぐ戻ってくるから。良いわね? 動くんじゃないわよ?」

「真理子、——!」

 返事はしなかった。していたら埒が明かない。

 詳しい状況や経緯は二の次だ。現場での遭難は時間との勝負になる。特にモンスターが討伐されていないのなら一刻も早く探し出さなくてはならない。負傷やフリーズで動けなくなっている状態でモンスターと対峙することは、イコール、死を意味する。

 既に死んでいるなどということは、考えたくない。3号に——葵に限って。

 更衣室に駆け込み、無我夢中で着替え、靴をつっかけながら再び廊下に出る。髪はエレベーターの中で適当に縛った。怒られるかもしれないが、真理子も完璧な変身とは言えない。

 息急いて元の場所に戻ると、シャイニーはまだ廊下の隅に蹲ったままそこにいた。小さくなった背中に手を添えると、ハッと肩を震わせて顔を上げた。目が泣き腫らしてウサギのように真っ赤になっている。

「ほら、顔」真理子は袖からハンカチを取り出してシャイニーに差し出した。「本当、可愛い顔が台無し。そんなんじゃ迎えに行っても葵ちゃん怒るわよ? あんたのこと可愛い可愛いって、いつも言ってんだから」

 鼻を啜りながら、まだしゃくり上げているシャイニーは素直にハンカチを受け取り、目元を直しているが、長い睫毛が濡れて艶々している。

「少し落ち着いた?」

 うんうん、と小さく何度も首を縦に振り、先ほどよりは冷静な自分を取り戻しているようだが、なかなか涙は止まってくれない。

「……ごめんね」

 シャイニーは目の下にハンカチを当てながら、潤んだ声でやっとそう一言口にした。あのシャイニーの台詞とはとても信じられず、思わず肩を抱いて摩る。「大丈夫大丈夫。あんた一人じゃないんだから、必ず見つかる。ね? ほら、一緒に行こう」

「うん……」

 ハンカチを持ったままふらふらと立ち上がったシャイニーの手を引いて屋上に出る。その手がまるで死人のように冷たくなっているのが手袋の上からでも感じられた。

「場所は? わかってるの?」

「広域しか、わかんない。近くまで行って、あとは、足で探すしか……」

「あんたねェ……——」呆れて溜め息が出てしまう。「本当馬鹿なの? そんな無謀なこと、本当に一人で何とかできると思ったの?」

 魔法が使えるわけでもあるまいし。

 だって、とまた泣き出してしまいそうなシャイニーの手を引っ張る。「良い運動だわ。途中で倒れないでよ? 二人も担いで帰るの嫌だからね」

 現地に向かう道中で、徐々に落ち着きを取り戻してきたシャイニーから詳細なことの経緯を聞いた。一度派手に涙腺を崩壊させてしまっているシャイニーは、喋りながらもまだ時折メソメソしていて、子どもよりたちが悪い。考えたくはないが、これで葵にもしものことがあったらマリーではもうフォローのしようがないとさえ思う。

 頼むから無事でいてくれと願う一方で、シャイニーからの説明を聞けば聞くほど、自分の中で3号の生存可能性が下がっていくのもまたたしかだった。最後に目撃されたのはモンスターとの戦闘の最中だ。

 つい最近のことだが、例のヒーロースーツの警報音が鳴る仕様は導入されている。だから正常に発動さえすれば自身が危険な状態にあることは把握できるはずだし、通常ならそれで退避するか、どこかに身を隠すことを考える。

 だが、3号はどうだろう?

 モノクロの二人を逃がそうとしたのだろうとシャイニーは予測した。そのために残ったのだとしたら、たとえ警報音が鳴ってもモンスターを引きつけておく必要がある。もしかしたら戦闘をやめなかった可能性も否定はできない。

 単独での戦闘中にフリーズした場合、当然助けてくれる者はない。逃げることもできず、ただ殺されるのを待つだけだ。

 たとえ戦闘を放棄し、逃げてどこかに隠れることを選択したとしても、討伐されていないモンスターは付近に存在している。見つかれば殺されてしまうし、もし怪我を負っていればそちらが原因で死亡する可能性も否定はできない。

 兎にも角にも時間がない。

 各ヒーローに渡されているポケベルには発信機が付いており、通常身に付けていればおおよその位置は特定できるようになっている。今回も、最後に受信した3号のポケベルからの信号により、捜索範囲の目安までは把握できているのだ。しかし常に形を変える瓦礫の山と化した現場の中で、ちっぽけなたった一人の人間の正確な位置をその信号だけで見つけ出すのは困難を極める。退避途中でポケベル本体を落としてきてしまったり、破損して使えなくなったりというケースもままある。

 そのため、前線に出るヒーローは必ず非常用の救難信号弾を持たされる。万が一救援が必要な事態に陥った時は、それを装填して上空に向かって発射すると、遠くにいる誰かに自分の居場所を知らせることができるというものである。

 非常に原始的な方法だが、弾道を辿ればほぼ正確にその位置がわかる。ただ、打ち上げた信号を誰かに見つけてもらえなければ意味がないし、自力で発射することができない状態にある時は役割を果たせない。今回の場合も、3号はその信号弾を打ち上げていない。

「たぶん……ほぼ間違いなく、フリーズしてると、思う」シャイニーはそう言葉を絞り出す。

 フリーズして動けない状態に陥っていると仮定すると、救難信号を上げられるかどうかは五分五分だ。負傷もしくは気絶している場合、自力では上げられない可能性が高いし、仮に上げられる状態にあったとしても、それによってモンスターにも自身の居場所を知られることになってしまうというリスクがある。もし今、どこかに身を隠して無事であっても、再びモンスターに遭遇してしまったら一貫の終わり。戦うことはおろか、逃げることすらできずにあの世行きである。

 瓦礫の山が一面に広がる復興対象外地域——もはや見慣れたはずのその景色が、絶望に追い打ちをかけてくる。

「気絶しているか、最悪は、死んでいるかのどちらかね」

 シャイニーはわかっているのだ。もし救難信号を自力で上げられる状態なら、3号は自分の足で帰ってくる。それをしていないということは、そういうことなのだと。

「……行こう」

 なるべく離れず、お互いの姿が確認できるギリギリの距離を保ちながら、砕け散ったコンクリートジャングルの中を進む。

 野良猫一匹見当たらない。とても静かだ。お互いの足音が小さく木霊し、瓦礫の隙間を抜けていく風の音がコーラスみたいに響いている。

 戦闘不能の状態でモンスターに見つかりやすい場所に身を置くとは考えづらく、生きているとしたらどこか瓦礫や物陰に隠れているのは明白だ。ヒーローは魔法なんか使えない。考えられる範囲の中を隅から隅まで、自分の足で探し歩くしかない。

 時間だけが刻々と過ぎていく。積み上げられた瓦礫の山が行く手と視界を阻み、容赦なく体力と時間を奪っていく。見つけるのが遅くなればなるほど、生存の可能性は下がっていくというのに。

「今朝……——」ずっと黙っていたシャイニーがぽつんと口を開く。何もない自身の右手を見つめている。「呼び出しがあって。一緒に行くって言ったんだ。でも、病み上がりは引っ込んでろって、大丈夫だからって、そう言うから……」

 葵らしい。その光景が容易に目に浮かぶ。きっと彼女は笑っていたはずだ。

「……今言ってもどうにもなんないわ」自責の念に潰されかけているのはわかるが、今はとにかく発見するのが先だ。「しっかりして、シャイニー。あんたが見つけてやらなくてどうすんのよ」

 たとえ既に死んでいたとしても、葵はきっと、英斗を待っている。必ず迎えに来てくれると信じている。

「一人でなんか、行かせなきゃ良かった……」

 シャイニーは両手で顔を覆い、そう声を絞り出した。

 空は茜と群青が混ざり合い、まもなく紫紺の夜を迎えようとしている。陽を失い、夜闇に冷やされた風は肌に当たる度に気力と体温を奪い去っていく。

 もう、限界だ。

 マリーは周囲の崩れたビル群の中から適当なものに目星をつけ、頂上まで駆け上がった。

「3号‼︎」力の限り、大声で叫ぶ。「3号、聞こえる⁉︎ 信号弾を上げて‼︎ 3号‼︎」

 声は辺りに木霊し、すぐに消えてしまう。それでもマリーは西に、東に、叫び続けた。時折裏返ってしまうが、そんなものは気にしない。とにかく自分たちがここにいることが飛んでいけばそれで良い。もっと、もっと遠くまで。

 隣のビルに飛び移り、また叫ぶ。声を聞いたシャイニーが慌てて後を追ってきた。「よせ、マリー! そんなことしたら——」

「何よ、モンスターが来るからダメ? そんなこと言ってる場合⁉︎」

 シャイニーが止めるのも無理はない。規定では原則、モンスターの消滅が確認されていない地域で消息不明者の捜索をする場合は、隠密行動をするよう定められている。それは万が一モンスターが近くに潜伏していた場合に、声や音を立てることで位置を特定され、奇襲されることを防ぐためである。ヒーローを守るための規定ではあるが、その分、不明者の捜索は捗らない。

「あんた、白い顔してる割に呑気ね。見つける気ぃあんの?」

 もう十分隠密に探した。それで見つからない。時間が経つほど生存率は下がっていくのだから、もうやむを得ない。原則なんかクソ喰らえだ。「あたしらでヤバいってことは、3号はもっとヤバいってことでしょ。あんた、この期に及んで3号ならきっと大丈夫とか思ってんじゃないでしょうね?」

「そんなこと……——」

「たしかに3号は強いわよ。けど、どんなに強くたってただの人間よ、あんたがいつも言うことじゃない。良いの? このままじゃ葵ちゃん死んじゃうよ⁉︎」

「……」

 もう日が暮れる。この季節の夜は冷える。ヒーロースーツ姿のまま屋外で意識を失くしていたら、確実に凍死してしまう。万が一、怪我を負っていたら尚更だ。今例外を使わずしていつ使うと言うのか。

「規則もモンスターもどうだって良いわ! 来たらあたしらで、ぶちのめすまでよ!」


* * *


 声が聞こえるような気がした。あまりに微かで、途轍もなく懐かしい声だったから、きっとそれは夢の入り口から聞こえてくる幻聴なのだと思った。現に、ギリギリ意識があるだけで頭がぼんやりしているし、いつ落ちてもおかしくはない狭間に自分があることも認識しているから、余計に現実味がない。

 モノクロの二人なら自分が時間を稼いでいるうちにおそらく逃げ切ったろうし、英斗はそれで悲しまないはずだ。それに、本当なら三十年も前に死んでいたはずの自分、別に今ここで死んでも悔いはない。

 それなのに、どうして今さらそんな幻聴が聞こえるのか。

「真理子ちゃんらしいなァ……」

 討伐対象の消滅が確認されていないうちは、そのエリアで大声を出したり音を立てたりすることは禁止されている。モンスターに気付かれて攻撃される危険性があるからだ。

 たとえそこに仲間がいたとしても隠密行動が原則。特に、今回のように生死不明の遭難者を探すのにリスクを冒すなんて、絶対あとで怒られる。上司に——シャイニーに。

「3号!」

 今度はそのシャイニーの声がする。

 馬鹿だなァ、いつも危ないことするとすぐ怒る人がそれやっちゃう?

 ——……やらないよな。

 やはりこれは幻聴なのだろう。得体の知れないガスも吸ったし、頭も朦朧としているし。

 だけど、変なのだ。別に、死ぬのは怖くない。

 それなのに、どうしてなのだろう?

「あおい‼︎」

 ——馬鹿。その名前で呼んじゃダメだって。

 それもそんな泣きそうな声で。

 思えば最初からそうだった。普通、年上のおねえさんにはせめて「あおいちゃん」とか「あおいおねえさん」とかそういう呼び方するもんじゃない? なのに最初から容赦なく呼び捨て。

 だからね、「ちゃん」とか「さん」とか付けろって、言ってやろうと思ったんだよ。本当は、そう思ったのに、ずるいんだ。恥ずかしそうに視線を逸らして、ごちそうさまって言うの、あざとすぎ。

 だから言えなくなっちゃった。呼び方なんか何でも良いし、ラーメンなんていくらでも奢ってあげるって、その時思ったんだ。

 ——ああ、どんな顔しているんだろう? 風邪、良くなったのかな?

 嫌だなァ、どうしてなんだろう。

 今、すごく、顔が見たい。

「必ず見つけるから、信号を上げろ」

 本当に? あんたに見つけられる?

 母親に似てドジで、背中が隙だらけの、泣き虫なあんたに。

 救難信号弾は持っている。それを上げればモンスターにも自分の居場所を知らせることになるから上げていないだけだ。自分は逃げられないし、相変わらず聞こえてくる二人の声が幻聴ではないという保証はどこにもない。

「ハハ、おっかしい……」

 違う。違うよ。

 自分は死ぬのが怖いんだ。英斗に会いたい。死ぬならもう一度、顔を見てから死にたい。

 いつからそう思ってた? きっと、たぶん、もうずっと前からだ。ただ自分がそれを認めなかっただけで、本当の自分はとっくにそう思ってた。

 だってそうでなきゃ、おかしい。

 ——あぁあ……ほんとむかつくなァ……。

 なんで死を背中に携えたこの状況で思い出すのが、血の繋がった両親でも弟でもなく、赤の他人の英斗なんだよ。

 考えた末、身を潜めていた瓦礫の下から這いずり出した。吹き抜けになった天井から見える空は黄昏れていて、この上なく美しいと思った。

 右手はまだ、辛うじて動く。

 もしも、本当に見つけてくれたなら、それほど嬉しいことはない。

「頼むよ……私、こっちしかないんだからさ……」

 その空に向かって力の入らない右手を無理やり伸ばし、引き金を引いた。

 花火のような音がして、青の煙幕が空に膨らむ。小さなフレームいっぱいの綺麗な茜色をじわじわと穢しているようで、地面から眺めるとこんなにも不快なものなのかと、後悔の念すら覚えた。

 考えてみたら、この手で、自分のために打ち上げたのは初めてかもしれない。あの時——三十年前のあの日、決戦の終わった後で、帰ってこないヒーローを探しに出た時——自分が左腕を失くしたあの瞬間だって、打ち上げた記憶はない。

 打ち上げようなんて考えもしなかった。

 はっきりと覚えている。目の前に人間だったものが転がっていて、自分は初見、1号が死んでいるのだと思った。着ていたヒーロースーツは白かったはずなのに、地面に横たわる彼は真っ赤に染まっていたから。

 既に事切れたその手には彼の代名詞とも言える武器が握られたままで、救難信号を発する弾が装填されていた。きっと、誰かを呼ぼうとしたのだろう。

 このまま連れて帰ってやりたいが、あともう一人、探しに行かなくてはならない。だから、彼が最期に相棒に託そうとした信号弾を、そのまま空に向かって打ち上げた。ずっと高いところでパァンと破裂する音がして、夕暮れの美しい空に青い煙が雲のように拡がる。

 これで誰かが迎えに来てくれる。端切れ一枚、或いは、肉片ひと欠片となることが多い中、五体満足で還れるなんて、彼は運が良い。

 だからもう少し、待っていて——。

 そう心の中で手を合わせて、立ち上がった瞬間、嫌な匂いが鼻をついた。残党だった。 

 普通の状態なら一人で余裕だった。しかしあの時、自分は結構ギリギリだと自覚していた。散々戦って、捜索活動も経て、武器は所持しているが体力上の問題だ。長くはもたない。

 わかっていて、戦う選択をした。

 応援は呼べない。呼んだって、皆、状態は今の自分と同じだ。被害が増えるだけ。打ち上げたばかりの信号弾に導かれて、まもなく救護隊もやってくるだろう。その前に、ここで自分が仕留めるべきだ。どんな結末になろうとも。

 右の側頭部が温かいと感じた。少し前に、英斗が撫でてくれたところだ。

 ——みんな、きらい。世界なんか、いらない。

 あの子はそう言って泣いていた。


 ——そうかな?

 私はキミがいるこの世界が好きだよ。キミが、そう思わせてくれたんだ。

 ただ漠然と、自分は何のために生きているのかと思っていたその答えを、キミがくれた。

 キミの生きていく世界に、こんなものはあっちゃいけないんだ。

「ごめんね。約束を守れなくて」

 腕を失くしたのは英斗のせいなんかじゃない。自分で決めた。手榴弾のピンは、自分で抜いた。あの時自分は死んでも良いと、たしかにそう思っていた。

 それが自分の価値。

 それが、己の——鷹野葵の、正義だと。


 それなのに、死ななくて、その結果三十年も生きてしまった。

 三十年も生きてしまったからこんな感情を抱く羽目になった。

 もし今聞こえているこの声が幻聴だったとしたら、それはきっと罰なのだ。一度いらないと言ったものなのに、今さら手放すのが惜しいと、思ったりしたから。

「——……あおい、わかる?」

 今度はすぐ近くで声が聞こえた。なんだか体がとても暖かいような気がする。

 怠い。瞼が重くて開けられない。でも、感触は本物だ。

 陽の光のような匂いがする。

 自分が一番好きな匂いだ。


 ——どうして……?


 探しに来たの? 本当に?

「あおい」

 まだ眠りたくない。

 でも、目を開けるのが少し怖い。

 だって、——

「あおい、あおい、わかる? おきて、おねがい……」

 だってもしこれが幻だったら?

 目を開けて、そこにいなかったら、自分は一体どうすれば良い?

 怖い。

 それが、途轍もなく、怖い。

「おねがい、あおい」

 でもその顔を見て、返事をしたい。だってそうしないと、きっとあの子は泣くんだもの。

 側頭部が暖かい。そういえば昔、とても寒い雨の降る夜、こんな風に自分を撫でてくれた手があったっけ。


 ——ああ、そうだ。


 あの時もこの子は、こんな顔をしていた。


「人の本名を大声で呼ぶんじゃないよ……」

 3号は漸くやって来た二人を気怠そうに叱った。オレンジ色と、ピンク色。その姿を見るのはひどく久しいことのように感じる。

「……ごめん……ッ!」

 今にも泣き出しそうな顔をしたシャイニーは3号を抱き締め、その顔を体に埋めながら何度も何度もごめんと言う。あんまり強く抱くから苦しくて体が壊れそう。ただ、今はそれすらも心地良い。

 ——変なの。

 どうして自分が泣きそうなの?

 今、堪えられる自信がないのに、困ったな。

 マリーが眉を顰めて覗き込んでいる。「3号、怪我は?」

「……ううん」シャイニーの肩の上に頭を置いたまま目を閉じる。「疲れているだけよ。大丈夫」

「良かったァ……」

 大丈夫と言ってもシャイニーは離してくれる気配がない。頭を撫でてやりたいのに腕が動かなくてもどかしい。

 見かねたマリーがシャイニーの背中に手を置いて宥めている。「信号を上げてくれたから、見つけられた」

「ありがとう」

「無事でいてくれて良かった」

「あの二人は、どうした?」

 せっかく苦労して先に逃がしたのだ。よほどの阿呆でなければ、まさか帰還できなかったなんてことはあるまい。ただ、シャイニーのこの様子を見ているとどうにもその不安が頭を過ぎってしまう。

「4号と5号なら、心配いらないわ」マリーが代わりに答えてくれる。「あたしは会ってないけど、帰って来てるって」

 なら、良い。しかしもう少し喜んでくれたって良いではないか。せめて、良くやったと、褒めてくれるとか。

 シャイニーはやはり顔を埋めたまま何も言わず、一向に離してくれそうにない。抱き締められているとじわじわと体温が移ってきて、自分が本当はものすごく寒かったのだということを思い出して、勝手に体が震えてしまう。心配するから止めたいのに、せっかく温めてもらっても息を吸う度に冷たい空気が入ってきて、なかなか震えが治まらない。

 すると、ふと顔を上げたシャイニーは徐ろに自分のヒーロースーツのマントを外して、3号に掛けてくれた。何か言いたげな顔をしていると思った。兎のような目をして泣きそうなのを我慢しているせいか、怒っているようにも見える。

 何だろう? アンテナが働かない。この人はすぐに溜めてしまうからちゃんと言わせてやらなきゃいけないのに。

「ごめん。もう少しだけ我慢して?」それなのに、口調はとても穏やかだ。シャイニーのマントは大きくて暖かいが、とても重かったのだということを初めて知った。「寒い?」

「泣いていたの?」

「えっ?」

 じいっと顔を見ていると、目が真っ赤に充血して腫れているし、目の周りだけ化粧が落ちている。

 なんで泣くんだ。せっかく人が苦労して、死人を出さないようにしたのに。それが一番望んでいることではないのか。「……馬鹿ねェ。可愛い顔が台無しじゃない」

「……ッ、誰の、——……!」

 それが何かのスイッチだったのだろう。シャイニーは声を詰まらせ、再び3号を抱き締めて、とうとう子どものようにわあわあと泣き出してしまった。「誰のせいだと思っているんだよ!」

 泣きながら、怒っている。せっかく堪えていたものを決壊させてしまって、全然言葉になっていないが、怒っている。

 ——誰のせい、って……。

 体が温かすぎて、心配になる。本当はまだ治っていないのに、自分を探すために無理をして出てきたのではないかと。「そんなに泣かないで……あんた、熱は? 大丈夫なの?」

 訊ねても泣くばかりで全然答えてくれない。

「勘弁してよ、3号」マリーが苦い顔をして笑っている。だが、その丸い瞳にはじわじわと水が溜まっていく。「この人、泣き出しちゃうと、宥めるの大変なんだからさァ……」

「……」

「心配したんだよ。葵ちゃん」やがてそれはポロポロと溢れ出し、丸く膨らんだ桃色の頬の上を伝って落ちる。シャイニーと同じように。「あたしでもこうなんだからさァ、この人なんか無理に決まってんじゃない」

 心配した、って——。

「もう、あたしじゃ慰めるの無理だから、何とかしてやって?」

 何とかって言われても。

 手が動かないのが本当にもどかしい。英斗はいつも頭を撫でてやると嬉しそうな顔をして嫌がる。幼い頃から変わらず、泣いていたら泣き止むし、パニックになっていても冷静になる。今こそそれを使ってあげたいのに。

「……ごめんね、英斗。心配してくれたの?」

「したよ」シャイニーは即答する。怒っていて、自分を抱く両手に、さらに力がこもったのを感じる。「したよ、何言ってんだよ、当たり前だろう? どんだけしたと思っているんだよ。葵も一緒に帰って来なかったら、意味ないんだよ」

 シャイニーは人のことを馬鹿だの阿呆だのと、泣きながら散々文句を言った。泣きすぎて過呼吸にでもなりやしないかと案じてしまうほどだ。

「マリー、悪いんだけど……私の手、この子の頭に、載っけてくれない? 自分じゃ、動かせなくて」

 マリーは黙って微笑むと、脱力して垂れている右手を握って、ゆっくりとシャイニーの頭に触れさせてくれた。

 その瞬間、不意に、申し訳ないという気持ちが自分の中を支配する。

 堪える隙も、誤魔化すこともできず、勝手に涙が出てきて止まらなくなってしまった。

 その様子を見たマリーは困惑している。「3号、ど、どうしたの⁉︎」

 自分でもわからない。

 それに反応したシャイニーも狼狽えている。

「ごめんね、痛かった?」

 違う。

 頭を振っていると、困惑したシャイニーがハンカチで涙を出して拭ってくれた。マリーがいくら宥めても泣き止まないシャイニーのために貸したものらしいが、全然笑えない。いくら拭ってくれても後から後から止めどなく溢れてきてどうすることもできないのは、今、3号自身だからだ。

「どうしたの、あお……3号、ごめんね。ちゃんとするから泣かないで? 3号は馬鹿じゃないよ、冗談だから、ごめん……」

 違う。シャイニーのせいじゃない。

 やめてほしい。そんな風に、心配そうな顔をするのは。

 自分には、そんな風に怒られる資格も、心配される価値もない。

「ごめんね、英斗、私……——」

 冗談なんかじゃない。そのとおり、馬鹿で、阿呆なんだよ。

 だから謝らないで。

 だって、自分は、——。

「簪落として来ちゃったの」

 外れたのはわかっていた。でも、拾いに行けなかった。ヒーロースーツの警報音が鳴ったからだ。

 拾いに行ったら動けなくなる。あの場で動けなくなったらもう逃げられない——生きては帰れないだろうと思った。あの瞬間、たしかに、自分は——。

「そんなもの、どうだって良いんだよ……!」

「でも、——ッ」息を引くばかりで呼吸が上手くできない。「でも、英斗に貰ったん、だもん」

「どうだって良い、簪なんかいくらだってまた買ってあげる」

「違うの、——」

 こいつは何にもわかってない。

 あれが良かったんだ。だって、あれは英斗が自分のために、初めて英斗自身で選んでくれたもの。「大事だったの、あれは、私の、……——」

 夢を見させてくれるものだった。決して、叶うことのない夢を。


 英斗にはわからなくても、自分にはもう、わかってしまった。


 ただの友人? ただの同僚? ただの仲間? ——違うだろう。

 しっくりこなくて当然だ。とっくにわかっていたんだ、そんなこと。あと数秒後には死ぬかもしれない状況下で、ただの友人の顔なんかチラつかない。ただの同僚がくれたものに縋ったりしない。仲間の顔が見たいなんて思わない。

 赤の他人にもう一度会いたいから生きて帰りたいなどと願ったりするものか。

「良いんだよ」シャイニーは今度はそっと包むように葵を抱きながら、いつも葵がしてやっていたように背中を撫でて宥めようとしている。「葵が大事にしてくれていたのはわかっているよ。でも葵のほうがずっとずっと大事。葵が生きていてくれたから、それだけで良いの」

 英斗の言うことは理解している。ただ、自分はひたすらに悲しくて、不甲斐ないのである。

 お前の抱いたそのくだらない夢は、決して叶うことはないのだと、突きつけられているような気がして。

「一緒に帰ろう? 葵」

 ——わかっているよ。

 もう、十分だ。こうしてもう一度顔を見て、声を聞くことができたのだから、それだけで、十分だ。

「……ありが——」

 その時、臭いがした。

 頭で認識するよりも体のほうが先に強張った。シャイニーの手にも力が入っている。シャイニーの肩越しに、ガスの揺らぎを見た。

「ダメ、引いて!」

 二人とも反応が早い。気付いたら瓦礫の山を抜け、表に飛び出していた。外はすっかり日が落ち、遠い地平線だけに微かな茜色が残っている。

 二軒分程度隣にある鉄筋の飛び出したコンクリートの上まで退避すると、二人は足を止めて振り返った。先ほどいた瓦礫の周りは黒い煤のようなものに覆われてしまっている。

「吸ってない?」

「大丈夫だよ」

「今は退避して」

「あれが新種?」

「そう。完全新種」戦闘履歴のあるモンスターの進化型やハイブリッド型ではない。記憶が正しければ、あのタイプのモンスターはこれまでに出会ったことが一度もないはずだ。「あれは、見える部分、全部ガスなの」

 眠い。眩暈がするし、気持ちが悪い。意識が飛びそうだが、これだけは何としても伝えなくてはならない。万が一自分が落ちている間この二人に何かあったら、自分は自分を殺してしまう。

「ガス体部への攻撃は、無効、吸うと、幻覚が見える。たぶん、あの中、小さい……核みたいなところを、破壊しないと、撃滅できない」

「引こう。戻るよ、マリー」

 言いたいことが伝わっているのか不安だったが、シャイニーは即座に判断を下した。現状はそれが最適解である。

「了解。先に行って」

「え、アンタは?」

「囮役はあたしの仕事でしょ」

「でも——」

「いッつもやらせてるくせに何よ? こういうのはねェ、専門家に任せとけば良いのよ」

「マリー」3号が掠れた声で呼び掛ける。「あれを、吸わないで、絶対に……——」

「大丈夫、3号。わかってるわ」

 ほらほら、とマリーは手でひらひらと払い除け、反対の方向へと駆けて行ってしまった。その背中を見るシャイニーは不安げな顔をしているが、すぐさま切り替えて先へ進み出す。

 崩れそうな瓦礫の上を慎重に選びながら跳び渡っていく。足元が悪く、人間を抱いていては余計にバランスも取りづらいだろうに、まったく不安定さを感じない。時折マリーが来ないかと後ろを振り返っては、また少し進んで振り返り、を繰り返している。

 空が、紫色から、そろそろ紺色に染まる。

「ごめんね。もう心配ないから、寝てて良いよ。キツいでしょ」

 何度目か、立ち止まり振り返った時、そう言った。いつの間にか吐く息が白くなっている。

 半分寝惚けているのか、それとも極度の緊張から逃れるための反応なのか、脳味噌は至極平和で、不謹慎なことを考えている。英斗って細いなと思っていたのに、こうして見ていると、案外結構ガッチリしているんだな。こんな風に抱えられるのなんて初めてだけど全然怖くない。以前から本人は腕やら脚やらの形を気にしていたが、自分はなぜ悩んでいるのか理解できなかった。だが、今なら納得する。

 どうして『女の子』でいることに何の違和感もなくいられたんだろう? たしかに可愛いが、こいつは間違いなく『男の子』である。

「どうしたの?」じいっと顔を見ていたから不安がっていると思われたのかもしれない。「大丈夫、絶対落とさないよ」

「どうして探しにきたの?」

 なぜそんな馬鹿みたいな質問をしたのか、自分でも疑問だ。

 シャイニーが戸惑うのも無理はない。だって訊ねなくともこの人が何と答えるのかなんてもうわかっていて、たとえ何度訊ねようともその答えが変わらないこともわかっていて、訊くだけ無駄な質問だと自分でもわかっているじゃないか。それなのに、何を、今さら。

「どうして、って……——」

 やっぱり、寝惚けている。

 でも、聞きたいと思ってしまったのだ。

 いつも自分が一番怒るくせに規則まで破って、体調だってまだ万全じゃないはずなのに無理をして、モンスターは新種だって情報は入っているのに、マリーまで連れてきて。

 全部、らしくない。

 そんなことをされたら、期待してしまうじゃない。自分にはそれだけ、価値があるのかなって。

「どうしてって……ッ、どうしてって、何⁉︎」意外にも、シャイニーは声を荒げた。「大丈夫って言ったのに、全然大丈夫じゃないじゃん! こっちは三十年以上初恋拗らせてんのに、勝手に死なれたら困るんだよ!」

 ——……何、それ?

 一瞬、飲み込むのを躊躇った。それは想像していた答えと少し違って、その言葉をどう噛み砕いたら良いのかわからない。自分が処理しようとする解釈は、あまりに自分にとって都合が良すぎる。

 やっぱりこれは夢なのだろうか? 本当の自分はまだあの冷たいコンクリートジャングルの中に横たわったままで、逝く時くらいはせめて幸せな夢でも見せてやろうと、神様が気を遣ってくれたとか?

 ——そうだったとしても、もう、良いか。

 陽だまりの中にいるような心地だ。遠い昔、まだ幼かった頃、実家の陽の当たるベランダで日向ぼっこをして、そのまま眠りこけてしまったことが……——

 ——いや。

 違う。あれは、そう、英斗がまだ小さかった頃だ。体調が優れなかった自分に英斗が自分の布団を引っ張ってきて掛けてくれたことがあって、それに包まって微睡んでいたら不思議とそんな昔のことを思い出したのだ。そしてその一瞬の間だけは、自分がヒーローであることも、日々戦下に身を置いていることも、すべてを忘れて世界がとても平和であるような気になって、僅か数分であったろうに、久しぶりにとてもよく眠れたのである。

 あの時と、似ている。

 何て言うんだっけ? こういう、感覚——。

 駄目だ。このぼんやりと霞がかった頭では到底解析できない。考えるのも疲れたし、期待するのも苦しい。望んだとおり英斗の顔は見られたのだから、もうそれだけで十分だ。

 あとはもう、何も——。


* * *


 3号を医療班に託し、シャイニーと共に本部に戻って一応報告に行ったが、案の定『会合』に出掛けた本部長は外出のままだったため、問答無用で無視することにした。変身を解き、更衣室から慌てて出てきたチーフは、髪を結っていた痕さえも消えておらず、スーツのジャケットからはシャツの襟がはみ出していたりと、やはり気持ちばかりが急いて見るからに危なっかしい。

「アンタは先に帰って良いから」

 引き留めて一つずつ直してやっているとチーフがそう言った。一体どの口が言うのか。せめて病院までは同行しないと真理子の気が済まない。

 こんな時でも体面をきちんとしなくてはというクソ真面目な頭は残っているらしく、チーフは病院へ出る前にまず黒衣の部屋や医療班へ報告とお礼に回った。報告に来たチーフに対し、皆一応は事務的に応対するものの内心ホッとした様子を見せたり、早く行きなさいと気を遣ってくれたりした。最後にヒーローたちが普段いる控え室にも寄ると、定時は過ぎているというのに1号と2号は心配そうな面持ちで待っていてくれて、3号を保護したと伝えると1号は泣いて喜んでくれた。

「報告に来るのが遅くなってごめん」

「何言ってんスか、俺らのことは良いんで、早く行ってくださいよ」と、常識的な2号に急かされ、漸く会社に出た頃にはぽつぽつと雨が降り出していた。

 大通りでタクシーを拾い、医療班に教えてもらった病院の名前を告げて、走り出す。さほど遠くないはずだが、その沈黙はひどく長いもののように感じられた。

「……ありがとう。真理子」一瞬、誰のものか迷ってしまうほどの小さな声だった。「一緒に、探しに行ってくれて」

 チーフは窓の外に顔を向けていたが、時折すれ違う対向車のヘッドライトが、窓ガラスに付いた水滴と共にその不安げな表情を映し出す。見ているとなんだか苦しくなってしまって、それを堪えると、代わりに涙が溢れそうになる。

 回避するには、もう、言うしかなかった。

「……余計なお世話かもしれないけど、……——」

 ずっと疑問だったことだ。なぜ、そうしないのか。

 チーフは一度、ひどく抵抗した。きっと何か、真理子には図り知れない訳があるのだろう。しかし、どんな理由があったとしても、チーフはやっぱりそうするべきだ。

 そうしなくてはならないと、思う。

「オバサンとして、あんたのためにハッキリ言っておくわ。葵ちゃんの目が覚めたら、ちゃんと自分の気持ちを言いなさい。言いたいことあるでしょう?」

「……」

 沈黙は拒否ではなく、迷いを意味していると察した。だが、もうそんな悠長なことをやっている場合ではない。「わかってるでしょ? あたしたちは、いつ、伝えられなくなるかわかんないの。言う資格があるとかないとか、現場がどうとか仕事がどうとか、そんなのはどうだって良い。言ったからって何か変わるわけじゃないかもしれない。けどこのまま伝えないでいたら、きっとあんた一生後悔するわよ」

「……」

「葵ちゃんは、これだけは絶対に自分からは言わないわよ。だって、あんたより自分のほうが先に死ぬって、わかっているんだもの」

 以前、Eightで葵と話した時のことを今さらになって思い出した。「だから、あんたが言うのよ」

「……」

「あんたにしか、言えないのよ」

 チーフはわかっているはずだ。自分が何を言いたくて、何を言わなければならないのか。ただ口にすればもう戻ることはできないから、迷う。おそらくずっと前から——真理子の知らない、二人だけが過ごしてきた長い時間、ずっと言わないことを選択し続けてきたのだろう。

 どんな理由があるのか知れない。己の選んできた道を今になって裏切るのは勇気のいることだ。それでも、チーフは言わなければ駄目だと思った。自身のためにも、葵のためにも。

 タクシーの中で、チーフは首を縦に振らなかった。タクシーの運転手には病院の裏にある夜間用の入り口まで連れて行ってもらい、下車した。ただでさえ歩幅が大きいチーフはいつも以上に歩くのが速くて、真理子は小走りになって追い掛けるしかなかった。

 幸い、葵のほうは今時点で行なうことができる検査を全体的にしたが、オーバーワークしたこと以外大きな問題はなさそうとのことで安心した。今は眠っており、予想したとおり数日は目が覚めないだろうとの見解で、少し熱がある状態らしいがそれは過労の反動ではないかということで経過観察となっていると教えてもらった。

「顔だけ見てきなさいよ」そう促すと、チーフは一人で葵のいる病室に入っていった。真理子自身も気にならないわけではなかったが、今は二人にしておいてあげたい。

 チーフは相変わらず先に帰って良いと言っていたが、その強張った表情が緩むまではどうにも気掛かりで、廊下の椅子に座って、チーフが戻って来るのを待った。健一にはメッセージで状況を伝えて了承をもらっているから問題はない。

 すぐには戻ってこない——ひょっとしたら朝までここにいることになるやもと内心覚悟をしていたが、チーフは案外早く病室から出てきた。

「何、もう良いの?」会話できないとはいえ、随分とあっさりな面会だと思った。「どう? 大丈夫そう?」

 コクコクと頷く割に、チーフは思い詰めた表情をして、真理子の前に立ったまま長い金色の髪を一束両手で掴んで口を噤んでいる。泣くのを我慢しているせいなのか、目が少し赤い。

「どうしたの?」

 何か言いたいことがありそうな気がして、じいっと待っていると、だいぶあってからその口が恐る恐る開く。

「……朝になったら、一つ、お願いがあるの、頼まれてくれない?」

「うん。あたしにできること?」

「アンタは得意だと思う。たぶん」

「何?」

「……もし、……——」


* * *


 葵が目を覚ますと一週間が経過していた。はじめのうちは膜が張ったようにぼうっとして、一瞬、ここがどこなのかわからず、なぜ病院で目を覚ましたのかも理解できなかった。思い出せる記憶の断片を掻き集めて漸く状況を呑み込み、どうりで体が動かないわけだと納得した。長年使われずゼンマイが錆びついてしまった時計みたいに、動かそうとするとあちこちが軋んで痛い。

 あの()()()をしたのなら当然と言えば当然の報いだが、この状態では完全に元通りとなるには相当な時間がかかりそうである。下手をすると、もう今までどおりは無理かもしれない。

 チェックにやって来た看護師に血圧を測られながらぼんやりと天井の虫みたいな模様を眺めていたら、ふとシャイニーの顔が浮かんだ。あの子は、どうしているだろう? 今回はひどく心配を掛けてしまったようだが、これまで逆のことは何度もあったのだから、人の気持ちを理解するにはちょうど良い機会だったに違いない。

 ——……泣いてないかな、あの子。

 そんなことを考えていたら誰かが知らせてくれたようで、さほど時間が経たないうちに本人が病室を訪ねてきた。きちんとスーツを着て、仕事の途中で抜けて来たようだった。平然と、いつも会社でするような事務的な挨拶をしただけでなく、今日はまだモンスターの出現は報告されておらず日常は平和そのものだというどうでも良い報告までしてくれた。全然、泣くどころじゃない。通常運転だ。

「調子はどう?」

「寝すぎだわ。頭が痛い」

「落ちるまでいってるんだから、ちゃんと休まなきゃ駄目よ。検査結果は良好だったから、まだ良いけど」

 一週間も寝たきりの状態だとベッドに座っているのすらも辛い。こんな感覚になるのはいつぶりだろうか。

「そうね。しばらくは戻れないな」

 以前はかなりやんちゃな力の使い方をしていたが、ここしばらくは控えめにしていたつもりだ。当然フリーズもしていない。半世紀も使い倒してきたこの老体に、久々のリハビリはきっと堪える。

 半端に距離を置いたままキュッと口を結んで俯いてしまったチーフに、とりあえず座ったら、と脇にある丸椅子を勧めた。だが、チーフは口籠ったまま、そこに座ろうという様子もない。

 単に目を覚ました自分の顔を拝みに来ただけではないということは何となく感じた。そしてそれが少なくとも自分にとって、良い話ではないのであろうことも。でなければせっかくの可愛い顔を台無しにして、黙りを決め込んだりなどするものか。

 そういうところが本当に、不器用。

「……ねェ。訊きたいことがあるんだけど、訊いても良い?」

 チーフが何を言いに来たのかは、何となく察しがついている。なら、こちらも一つ質問をしよう。このまま忘れたふりをして流してしまっても良かったが、気が変わった。 

「何?」

「現場から逃げる時、あんたが私に言ったことって、私の幻聴?」

 掻き集めた記憶の断片の中にはきちんとその言葉も残っていて、葵の心をざわつかせた。同時に、どこか浮ついた自分に不快感を覚えた。

 馬鹿みたい。差し迫った状況であったとはいえ、あの言葉はあまりに、()()()()()

 いつもみたいに、ちょっと揶揄ってやろうという()()だった。そうしたら少しはその痞えたことも吐き出す気になるやもしれない。たとえ今言えなくともいつかは必ず言わねばならぬことだ。抱えたまま時間だけを流すのは、互いに良くない。

 だから、それって何だったっけ、とか、何か話したっけ、とか、そういう返事で十分だった。違う、そんなわけないでしょ、と顔を赤くして、狼狽えて。むしろそういう返事こそ、今の自分は求めていた。

 そうすれば、葵だってまた日常を取り戻せる。ほんの一時の夢を見ただけだったのだと確証が持てる。

 チーフならきっとその期待に応えてくれると思っていた。いつだって、チーフは葵の期待したとおりに、時にはそれ以上の貢献をしてくれてきたのだから。

 でも、そうはならなかった。

「本当だよ」

 真っ直ぐに自分を見た英斗は、はっきりとそう言い切った。誤魔化すことはおろか、そう答えるのに躊躇した風もない。

「幻聴でもないし、嘘でもない。僕はずっとそう思ってた」

 動揺する他ないが、英斗はそこに確定の追い討ちをかけた。

 本気で言っているのはすぐにわかった。こんな真剣な顔、冗談でできるような人じゃない。きっとこの場に真理子がいたとしても、英斗は迷わずそう答えたのだろう。

 でも、——。

「それ、は……——」

 でも、そんなこと、受け入れられない。

 そんな怖いこと——。

「それは、どういう意味?」声が震えているのを何とかしたい。「どうしてそうなんの? 私は……私は、ただの幸子さんの代わりで、——」

「なんでそんなこと言うの?」

 なんでって……。

 そうじゃなきゃ……——。

「代わりじゃない。葵は葵だよ」

「違う。代わりだったんだよ。あんたが……、一人で、寂しくないようにって、だから、——」

「だから、何?」

「……だから、……——」

「葵は葵だったよ。ずっと、僕にとってはね。葵が良かったし、葵じゃなきゃ嫌だった。今も、全部葵が良くて、葵じゃないと嫌」

「……意味がわかんないな。何、それって……それって私と……、キスとか、セックスがしたいって、そういうこと?」

 そんな質問などしなくとも、わかっていた。そんなものが欲しいんじゃない。でも、決してその本当の意味を理解してはいけないと思った。

 体はこの上なく重たいくせに、油断しているとふわふわと、地に足をついていられなくなる。そうだよ、とでも言ってくれたらどんなに良いだろう。体目当てだと言ってくれたなら距離を置く理由になる。何の躊躇いもなく、突き放せる。彼にも、自分にも、言い訳が立つ。

 否定してほしかったのだ。自分の中にあるこの感情ごと、すべてを。

 だってその感情は、壊れてしまうものだから。とても脆くて、何かの拍子に、簡単に壊れてしまう。だから認めたくなくて、この半端にぬるい関係で良いと、この心地良さがあるだけで十分だと、言い聞かせてきた。

 だから、早く否定して。

 今、目の前にあるその感情は、自分の持つものと同じだとわかっているから。

「今さらそんな安っぽいものを強請るような奴だと思われているなんて心外だな」

 英斗は静かに怒っていた。当たり前だ。そうなるように訊いたのだから。

 それで良い。怒って、呆れて、どこかへ行ってしまえば良い。

 そう思うのに、どうしてなんだろう?

 今、とても哀しい。

「葵」

 俯いていたら、いつの間にか英斗がベッドに腰掛けて、右手を握っていた。咄嗟に振り払おうとしたが、離してくれない。

「もう、わかっているんでしょう?」彼は静かに問う。「葵は昔から頭が良いから、わからないはずないよ」

 必死に首を横に振る。

 知らない。わかんない。

 手を離して。どっか行って。これ以上掻き乱さないで。

 全部言いたいのに、何一つ言えない。彼を否定して、突き放さなくてはならないのに、できない。したくない。

 自分はどう頑張っても、英斗と同じ時間を生きることはできない。どう頑張っても、自分のほうが彼より先に死ぬだろう。その時、もしも彼が悲しむのだとしたら、それは最小限のほうが良い。

 だから、自分は、戻さなくてはならない。 

 まだ、戻れる。今ならまだ戻れる。錯乱した頭がありもしない幻想を見せただけだと言い張って、眠っている間に夢を見ただけと忘れ去ってしまえば良い。今ならばまだ、それができる。

 ——私は、幸子さんの代わり。

 英斗はただの『弟』のままで、遠い日、あの中華料理店の前で初めて会った時から変わらない可愛い弟で、生意気で泣き虫で、ちょっと揶揄ってやったら困って狼狽えてしまうような、頭を撫でてやるとすぐ頬を赤くしてはにかむ、そういう可愛い弟で、それ以上でもそれ以下でもない。その可愛い弟が、母親に会えなくても寂しくないように面倒を見るのが、自分の役目——そういう存在に、戻れる。

 今ならば、まだできる。

 そうしなければ駄目なんだ。この感情はきっと、自分にとって未練になる。

 自分が逝く時、そう、必ず、思ってしまう、だって、もう、思っているんだもの。


 ——私は死にたくない。


 一度死を恐れてしまったら、ヒーローにはなれない。

 お助けヒーローならともかく、現状討伐に行って殉職する可能性は非常に高い。だがそれ以前に、葵に残されている時間は英斗より十年も短い。しかもそれは幸子と同じ年齢になるまで生きていられたらの話で、葵自身、きっとそこまで自分はもたないと予想している。

 そういう使い方をしてきてしまったから。

 あとどれくらい一緒に生きていられる? 自分自身がその時間が削られていくことを恐れてしまった。一分でも、一秒でも良いから、長く、鷹野葵としてこの世界に存在していたい。

 そんなこと、考えたこともなかったのに。

「僕はただ葵に、自分より長く生きていてほしいだけなんだ」

 無理だ。そんなこと。

 それはきっと英斗自身もわかっている。わかっていて、願っている。

 もしもそれが叶うのなら、あとは何もいらない。

 英斗が右手に何かを握らせてくる。それはあの現場で失くしてきたはずの簪だった。「これが良かったんでしょう?」

 ハッと顔を上げると、英斗は陽だまりのような朗らかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

 葵が何を言わんとしているかもわかっているのだろう英斗は、少し照れ臭そうに視線を逸らした。「真理子を……フルーツパフェで買収して、付き合わせたよ。あの人、昔から探し物は得意だから。そうしたら、1号と2号まで連れて行く羽目になっちゃってさ」

 だとして、モンスターは未討伐のままだろう。そんな危険な場所に、皆して探しに行ってくれたなんて。

「でもやっぱり少し壊れているところがあって、直してもらったんだ。爺に」頷きつつ、ふっと笑みを溢す。「怒られたよ。「俺は鍛冶屋じゃないぞ」って。こっちも良い腕してると思うんだけどねェ」

 英斗は笑っているが、本当に素晴らしい腕前だと思う。どこが壊れていたのかすぐにはわからず、少し揺り動かせば、青色の蝶々はまた鎖の先で踊る。葵が最後に手にした時とまったく同じ状態に見える。

「渋々って感じだったけど、その割に張り切ってやってくれたよ。あの人らしいよね」

「……ありがとう」簪の載った右の掌を握る。まだ力が上手く入らないが、もう二度と手放したくない。

 病院を出たら礼を言いに行かなくては。爺にも、真理子にも、皆にも。

「いつも着けてくれているのはわかっていたけど、そんなに気に入っているとは思わなかった」

「だって、……——」いい年をして、と嗤われても良い。「これは、特別なの」

「自信がなくてさ」

「え?」

「……葵がそういう装飾品を身に着けているところなんて見たことがなかったし、変身しても頭飾りは着けていなかったから、好きじゃないのかと思っていたんだよ。だから、きっと似合うだろうとは思ったけど、そんなものを渡して、困らせたらどうしようって散々迷って……探している時も、店でも、買ってからも、迷ってて……」

 いかにも英斗らしくて笑いが出てしまう。いつの間に買い求めたのかと思っていたが、はたから見れば怪しいくらいに挙動不審だったろう。「迷いすぎ」

「……葵は怒ってたし。あの時」

「ごめん」

「……また、着けてあげる」英斗の右手が、簪を握る手に被さってくる。顔に似合わず骨張っていて、あまり女の子らしいとは言えない。何より、葵の拳が容易く覆われてしまうほどに大きくて驚いた。「いくらでも、着けるし、可愛くする。世界中の誰よりも、可愛くする。だから……、だからもう、前線に出るのは、やめてほしい。上が何と言っても、もう、現場には出さない」

「……」

「良い?」

 英斗は今も迷っているのだろう。だからそんなに、苦しそうな顔をする。最後の選択を自分に任せてくれる。葵にとってヒーローとは何なのか、彼にはわかっているからこそ、それを取り上げることになってしまうと考えているのだろう。

 そんなこと、考えなくて良い。

 不思議と、抵抗はない。片腕を失くして、ヒーローにはもうなれないと思った時のほうが、ずっと何かが痞えて不快だった。

 今はむしろ、清々しいくらい。

「わかった」

 葵が頷くと、英斗はぽろぽろと涙を溢した。本当にいつまでも泣き虫で困ったものだ。

「ごめん。もっと早く、言えば良かったんだ。僕がずっと臆病で、葵に甘えていたのが悪い」

「違う」

 楽しかった。再び3号として、シャイニーの背中を任せてもらうのは、この上なく光栄だった。もう二度とないと思っていた表舞台に今になって立たせてもらえるなんて、英斗には感謝している。

「泣かないで。可愛い顔が台無し」

 彼の背中を務めることができたのが、自分にとって、最高の誇り。その時間があったからこそ、今、胸を張って手放すことができる。

 その選択が間違っていただなんて思わないで。

「……英斗」

「何?」

「お願いがあるんだけど」

「うん、良いよ。何?」

「……馬鹿みたいって、笑わないでほしいんだけど……——」

「……ん?」 

「頭を、撫でてほしい」

 英斗は、ほんの一瞬目を開いて、それから繋いでいる右手はそのままに、一つこちらに寄って、左手で体を手繰り寄せて、抱き締めるように頭を撫でてくれた。昔と全然違う。遠い日に一度だけ、雨の中、傘も差さずに頭を撫でてくれたあの幼い少年と、同じ匂いがするのに。


【ヒーローずかん】※抜粋


◆スカイ・ハーク(3号)

 〜夜闇貫き天空に咲け

   濡羽の眼は剣の如くに〜


 おおきな そらに たかく とびあがった すがたは

 とりみたいに ゆうだいだよ!


☆いろ   あお

☆ねんれい もうオバチャン!※

☆おおきさ 160cm

☆おもさ  51kg

☆とくぎ  なわとび、しゃてき

☆すきなたべもの  あまいもの、コーヒー

☆きらいなたべもの すぶたに はいってる パイナップルは ルールいはん!


※三十年前は実年齢が記載されていました。

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