第七話 暮色蒼然(1)子守唄の日
その日は朝から深々と寒かった。前日の夜のニュースでも、今年一番の冷え込みになると気象予報士が盛んに話をしていて、「皆さん、どうぞ暖かくしてお出掛けください」という気配りの定型句がどの番組でも飛び交っていたが、ヒーロースーツしかないマリーたちにとっては嫌味にしか聞こえない。年始の駅伝選手と同じで、戦っていればすぐに汗だくになってしまうのだからダウンコートなんて着ていられないのは重々承知しているしそれで良いのだが、そうなるまでが地獄なのである。特に、今日みたいな日は、尚のこと。
「ちょっと、オッサンみたいな溜め息吐くのやめてくれない?」
たまたま着替えのタイミングが同じでエレベーターに乗り合わせたシャイニーが、怪訝な眼差しを向けながらそう言った。沿岸地域に出現したモンスター二体を討伐してくるようにという指令が、先ほど出たばかりなのである。
「あ、ごめん、聞こえてた?」
「当たり前でしょ、まだ耳は遠くなってないわ。アタシでも吐かないわよ、そんな溜め息」
シャイニーはいつもどおりの調子で言葉を返してくるが、マリーは苦笑いを浮かべるのが精一杯だった。腕も脚も丸出しのシャイニーのヒーロースーツに比べれば、新スタイルとなった自分のはまだマシだが、それでも冷える。もう人生の半分以上付き合ってきたのだからよく知っているが、生理って、こういう当たってほしくない日に限って当たってしまうものなんだよな——いや、この場合、モンスターのほうが当たってきたというのが正解なのだろうか?
もはやどっちでも構わないが、とにかく今日のマリーは腹が痛いのである。
エレベーターの壁に寄りかかった背中が勝手に丸まってしまう。腹巻きとカイロを仕込んできたが、この独特の腹痛に対してはあまり効果がないように思える。
やがてエレベーターが停まり、扉が開いたのを感じた。が、操作盤の前に立っているシャイニーは一向に降りる気配がない。不審に思って顔を上げると、シャイニーは開ボタンを押したまま、こちらを見て眉を顰めていた。
「ねェ、アンタ顔色悪いよ? どうしたの?」
「あー……」一瞬躊躇ったが、質問に答えるまで降りるつもりはないという様子のため、早々に観念して正直に伝える。「いや、ごめん、ちょっとさ……、お腹痛くて」
「はァ? ——」
「待って、違うわ、食べ過ぎとかじゃないから、ただの生理痛、ちょっと今日酷くて」
「……——」
「あ、でも大丈夫」続きを言いそうなシャイニーを咄嗟に制して解顔する。「カイロいっぱい貼ってきたし、さっき薬も飲んだから」
「余計に大丈夫じゃないでしょ」シャイニーの声が上擦る。たしかに力を使う前に薬を摂取するのはあまりよろしくない行為だとマリーもわかってはいるが、今日ばかりは飲まないほうが危険だと思ったのだ。
「ていうか、それアタシに言うって正直すぎない?」
「言うでしょ、嘘ついてどうすんのよ」言わなかったら言わなかったで悶々と勘繰るくせに。「上司なんだから、部下の体調は知っとかないと」
「……」
意外にもシャイニーはそれ以上返してこず、少し考えて、まったくオッサンらしくない溜め息を漏らすと、インカムに向かって声を掛けた。「黒衣、聞こえる?」
「——、はい」機械じみた黒衣の声が聞こえる。
「マリーは引っ込めるよ。2号と二人で行く」
「え、え、え、待って待って!」咄嗟にシャイニーに手を伸ばして止める。「大丈夫、一緒に行くわよ!」
「手負いはいらないの。やめて」
「そんな言い方ある⁉︎ 大丈夫って言ってるじゃない!」
「ねェ馬鹿なの?」シャイニーの浮かべる冷笑がデリケートになっている神経を逆撫でしてくる。「そんなんで行っても危ないだけよ、わかるでしょ。前線がどんなところかも知らないペーペーじゃないんだから」
「わかってるから嫌なの! 今日二体なのよ? 本当は三人で行くはずだったのに、それでアンタや2号に何かあったらあたし絶対嫌よ!」
「だからって、——」
「どうかしましたぁー?」
いつの間にか廊下の向こうから黄色い人影が気怠そうに歩いてきて、エレベーターの前で立ち止まった。今日共に討伐へ行くことになっている2号である。扉を開いたまま言い争っていたら、それは不審に思って当然である。
シャイニーが自分を案じて止めてくれているのはマリーも頭では理解している。だが、言い方も気に入らないし、気を遣ってもらうこと自体に苛々してしまう。
「本当に大丈夫なの! どうせあんたにはわかんないんだから放っておいてよ! 過保護すぎ!」
マリーはそのままエレベーターを降り、シャイニーのことも2号のことも置き去りにして廊下を歩いていった。こんなのただの八つ当たりだとわかっているのに、自分を抑えられなくて嫌だ。
その不機嫌な後ろ姿を見ながら、続いてエレベーターを降りてきたシャイニーの肩を2号が抱く。
「あぁあ、何したんスかぁ、姐さん? めっちゃおこじゃないスか」
「黙って」誰にでも出る軽薄な2号の手を淡々と摘み上げて捨てる。「女にはああいう時があんの。本人は大変なのよ。アタシにはわからないけど」
「俺のカノジョもあるんスよねぇ。何なんスかね? 何もしてないのにいきなり怒り出して、どこに地雷あるかわかんなくて生きた心地しないんスよ」
「生きた心地がしないのはカノジョを作りすぎてるからじゃなくて?」シャイニーは再びインカムに向かって話し掛ける。「ごめん、このまま行くわ」
「——、大丈夫?」
「2号がいるから、何とかなるでしょう」
「——、了解。チャラ男に気を付けて、いってらっしゃい」ぷつん、と交信が切れる。気を付けるのはモンスターではないのかと思いつつこちらもスイッチを切り、傍らの『チャラ男』に視線をやる。その姿は黄色というよりもはやゴールドに近い。
「……頼りにしてるわよ、2号」
「姐さんに言われたら張り切るしかないっスねぇ」
思わず溜め息が漏れる。優秀なはずなのに、相も変わらずどうしてコイツはこうなんだ?
「……アンタねェ、いつも言うけど、もう少しそのチャラいの何とかなんないの?」
2号の良さはルックスよりもその声質である。シャイニーですら羨ましくなるくらいに良い声をしていて、聞いていて心地が良いから、おそらくそれで口説かれると女の子はすぐ落ちてしまうのだと思う。しかしだからと言って、曜日ごとに別々の担当の女を作っているなんて、ヒーローである以前に同性として呆れる。彼と時折交信する葵も「耳の保養」と評しているものの、「電話しかしないほうが女の子は幸せ」と苦言を呈している。
ただ最近はまるでタイプの違う1号と仲良くしてくれているようで、素直に言いつけを守るところや、ヒーローという仕事に対しては至極真面目に取り組む点は高く評価しているのだが。
「俺、姐さんだったら男でも全然イケる気ぃするんスよね」
「馬鹿言わないで」ある意味褒められているのだろうが、全然嬉しくない。「アタシそんな安くないから。ちゃんと仕事してカノジョを整理してくれたら、晩のオカズくらいなら許してやっても良いけどね」
「そぉれはちょっと難しい条件っスねぇ……」
なぜ真っ昼間の社内でこんな破廉恥な会話をしなければならないのか。二十代ってそんなものだったっけ、と顧みつつ、インカムが間違いなく切れているか再度確認してしまった。
モンスターに群れを成して行動するという習性がある、という説は現在までのところ否定されている。今も大概が単体での出没であり、三十年前の決戦の時が異常事態だったと言えよう。だが、今回のように二体同時に出没するというケースもまったくゼロというわけではない。
偶然なのか、仲良しなのか——協力して攻撃してくるということはないため、おそらく前者であろうが、どちらにしても迷惑であることに変わりはない。幸い、今日は二体ともさして討伐に苦労する種ではないためまだ良いが、これが水中型や飛行型であったら笑えない。1号と3号も呼んできて、総力戦をやることになってしまう。
「2号、マリーと大きいほう行って。終わったら合流ね」
「了解」
2号がとても便利なのは、武器に不得手がないことだ。今日は特大サイズがいることと、組んでいるのがマリーとシャイニーであるという理由から、いつも3号が使うようなライフル装備にしてもらったが、中短距離も投げ物もお手のもので3号と組む時はそっちの装備になる。本人曰く、『雑食』なのだそうだ。
マリーも平均的に何でも扱えるが狙撃は苦手意識があるようだし、3号の言葉を借りれば「シャイニーは前に出たがり」であるから持つのは中短距離型の武器ばかり。特に人手不足の現状においては、2号のようなオールマイティな存在は非常にありがたい。あまり本人にそれを言うと「どんな女も女は女」という意味のわからない彼の持論に繋がってしまうので、滅多なことがない限り口にしないようにしているが。
——「背中に気を付けなさい」
そんな声が聞こえるような気がする。二人があっちを片付けている間は単独戦になる。合流してくるまでにはこちらも終わるだろうが、よもや屍となって待つなんてことにはなりたくない。
シャイニー側の出没地点は、中心部からはかなり離れた場所にある神社の境内である。樹齢数百年という御神木がそれなりに有名な神社であるが、今回はその木がやられた。
偵察してきた黒衣の情報によれば、相手は寄生型——主に樹木に寄生する少し珍しいタイプである。当然、樹木であるから移動はしないが、枝葉で攻撃してくるので近づくのが厄介である。おまけに樹齢数百年の大樹の枝葉となれば相当に攻撃範囲が広い。武器をいつもの短距離から中距離をカバーできるものに変更してきたのはそのためだ。
神社関係者や近隣住民はもちろん退避済みだが、何とかあの樹を救えないだろうかとは訊かれた。ほぼ一〇〇%、無理だろう。現在において有効と判明している討伐方法は憑かれた樹本体の根を破壊することくらいで、当然、討伐後は本体諸共例の黒い砂塵となり跡形もなく消えてしまう。気持ちはわかるが、他に手段がない以上どうすることもできない。
ここが西部でなくて本当に良かった。だが、きっとすべてを悟っているのであろう、あの年老いた神主の「お願いします」の一言は、いつまでも脳内で再生され続ける。何となく、爺に雰囲気が似ていると思った。
頭を振る。そんな余計な思考、重荷になるだけだ。
銃弾は、着弾後にさらに爆発する特殊タイプのものを装填してきた。全部で六発。上が良い顔をしないからと、それ以上の予備弾はもらえなかった。その理由はこの弾の値段が高いかららしい。
——何なの、それ。アタシのほうが安いってわけ?
「失礼しちゃうわね」
地面を蹴る。
そんなにお望みなら一発くらい残しておいてやる。
よりによって御神木に集るなんて本当に良い度胸をしている。振り回される枝葉が周囲の社殿を傷つけないよう立ち回るのは神経を使うが、こちとら3号に仕込まれた速度だ。老耄の枝葉なんて、静止画も同然である。
すぐ終わっちゃって物足りない、と言う3号の気持ちが、今だけは少し理解できる。
「ごめんね。神様」
せめて、モンスターに引き摺られて地獄へ堕ちるようなことがなければ良いと願う。
太い根元部分にぐるりと五発、着弾。一つの呼吸の後、それは弾けた。ぐらりと傾く巨木は計算どおりに——とはいかなかった。自重に耐えられず、倒れる途中で幹が折れてしまったのだ。
慌てて蹴り飛ばそうと跳び上がった。が、根を絶たれた老木は地に落ちるよりも先に、さらさらと黒い砂のように変化し、ふわりと舞い上がって消えてしまった。
風に漂う砂の屑が木漏れ日の中で煌めいている。
「——、だから詰めが甘いの。あんたは」
耳元のインカムから声が流れてくる。呆れているとも怒っているとも、はたまた嗤っているとも取れる、何とも分別のつかない無機質な声。全部見知っているからこその、声色だ。
「……ごめん」
「——、良いよ、合格。お疲れ様。あっちに合流して」
「了解」
反省するのは後だ。呼吸を整え、境内を去る。おそらくつい今朝方まであの神主が落ち葉を掃き、いつもと何ら変わらぬ世話をしていたであろうその空間には、ぽっかりと穴が開いている。明日からその場所で手を掛ける相手は、もういない。道連れを伴う寄生型はこの後味の悪さが本当に堪える。
帰ってきた神主がどんな顔をするのか、それだけが気掛かりで、胸の辺りがすっきりとしない。これで良い、こうするしかなかった——それでもやはり本当はもっと他に手立てがあったのではないかと取り止めもないことを考えてしまうのは、自分の悪い癖である。
送られてきたもう一つの座標点に近づくと、橋の欄干から丸いものが逆さ吊りになっているのが見えた。目を細めてじっと見ると、それは足にケーブルが絡まった状態でぶら下がっているマリーであった。
「馬鹿が……」
何をどうしたらあの状態になるのか理解に苦しむ。が、それ以前に、今日は昨晩の雨のせいで普段より水嵩が増している。懸命に絡まりと格闘しているが、どうやらあのままケーブルを解いてしまったら川にダイブしてしまうということに彼女は気付いていないらしい。
増水して流れの速くなった川に命綱なしで落ちたらどうなるかくらい想像できるだろうに、あれを馬鹿と言わずして何と言えば良いのか。
2号の姿が見えないが、周囲に対象の特大モンスターは見当たらず、代わりにすっかりお馴染みとなった黒い砂煙が立ち上っているのが確認できたため、おそらく討伐は済んだのだろう。
「……何やってんの、アンタ」
マリーの下がっている欄干に降り立ち、しゃがんで下を覗くと、マリーは慌てた様子で捲れ上がったズボンの裾を掴んだ。
「あッ! ちょっとダメッ、そこ! 丸見えじゃない‼︎」
「まァお互いにね」おそらくマリーの位置からはこちらのオレンジ色のふりふりパンツが丸見えのはずだ。「中身までは見えないはずよ」
「当たり前でしょ‼︎ あんたの中身なんか見たかないわ!」
強気な口調で威嚇してくるが、何とも情けない姿である。
シャイニーは自身のケーブルの先を欄干に引っ掛け、マリーのすぐ隣まで降りていくと、片手を伸ばした。「ほら、起き上がれる?」
「……」
悔しそうに唇を噛みつつ、マリーはその手を掴んで起き上がった。逆さ吊りの時間が長かったせいで顔が赤くなっている。
「ああぁちょっと待って、頭がぐるぐるする……」
「急に起き上がるからでしょうに」また重くなったのではと文句の一つも言いたいところだが、今はやめておこう。「とりあえず上がるわよ」
マリーを片手で抱えてケーブルを縮め、上へ戻って欄干に座らせる。足に絡まったケーブルを解こうとしていると、討伐を終えた2号が戻ってきた。
「うす」
「ご苦労様。怪我はない?」
「俺は余裕っす」さすがと言うべきか、汗が滲むどころか僅かな息切れさえもない。「姐さん、平気すか?」
さらに2号はどこから仕入れてきたのか、ココアの缶飲料をマリーに差し出した。訊かなくてもわかる。温かいやつだ。
「ごめんね、大丈夫よ。ありがとう」
「俺こそ、さっきあざっした」2号の話によると、臨港の発電所に向かっていたモンスターの進路をマリーに変更してもらったらしい。「俺のコイツじゃ無理だったんで、助かったっス」
たしかにライフラインに関わる施設がやられると非常に面倒なことになるため、上司という立場からしてもお手柄だったと言ってやりたいところだが、素直にそうも言えないほどこちらは重過失なのである。
「アンタねェ、これ……メンテ、サボったでしょう」漸く解けたケーブルを格納しながら思わず口をついて出た。予想だが、二日ほど前に湾岸エリアでの討伐で使ってそのままにしている。真っ直ぐ格納できていないし、若干だが錆が出ている。宙吊りになった原因はおそらくそれだろう。「これくらいちゃんとしなさい。マジで死ぬわよ?」
「ごめんなさい」
大人しく欄干に座ったまま素直に謝ってくるマリーに肩透かしを喰らってしまった。いつもだったら「だって」とか「これくらい」とか、絶対言い返してくるくせに。
身構えていただけに、行く当てを失くした数々の叱責と嫌味の言葉が致し方なく溜め息に変わる。考えてみれば、彼女だってもう初心者ではない。気持ちだけが先に行きたがるのは彼女の性格で、それは自分ももう十分知っている。それなのに今日来るのを止めなかったのは、明らかに自分にも非がある。
「……今日は何ともなかったから良いけど、それは結果論なの。これに懲りたら、もう無理して来たらダメ。アンタの気持ちだけは、受け取っておくから」
「……ごめん」
「あと、このケーブルは真面目にちゃんとしておいて。できてなかったら予備もあるんだから、出る前に申告して。わかった?」
マリーは素直に頷いた。こんなつまらないことで死なれたら、こちらとしても堪ったものではないのである。「大事にならなくて良かったわ」
「ありがと」
こくんと、首を縦に振った——その時、マリーの頭頂部で煌めいていたティアラが音もなく川のほうへ落下した。
「あッ——!」咄嗟に手を伸ばしたマリーの手は間に合わず、反射的に掴もうとしたシャイニーの手も、ティアラは弾むように躱してしまった。
なぜなのか、わからない。ティアラなんてまた爺に言えば、文句を聞く必要はあっても用意してもらえる。なのに、体は勝手に、落ちていくそれを取りに行ってしまったのだ。
「シャイニー!」
間一髪でケーブルは延ばすことに成功したが、掴んだ瞬間、水の中だった。冷たい。増水して流れが速いから、ケーブルが間に合わなかったら万事休すだった。
ケーブルが切れないことを願いつつ巻き上げ、何とか水面に浮上する。
——今日は汚れなくて済んだと思ったのに……!
自分の行動には疑問しかない。それでも、左手にマリーのティアラがあることを確認したら、ケーブルにぶら下がったまま安堵の溜め息が漏れた。
「姐さん!」
「シャイニー、大丈夫⁉︎」
上からマリーと2号の声がする。顔に張り付く髪を指先で退けて、何倍も重たくなった頭を振りながら懸命に上を向く。
「……落とすな! 殺す気か!」
マリーが悪いのではない。ただいろいろと、諸々、カッコ悪すぎて、腹が立つ。こんなところで死んだらダサすぎるし、何より葵に怒られる。
橋の下を風が抜けていく度、吹き曝しの濡れた体が凍りつきそうで、早く帰って温かいシャワーを浴びたいと心の底から思った。今風邪をひくわけにはいかないのである。
* * *
翌日、チーフは会社を休んだ。心配したとおり、風邪をひいたらしい。
ああ、やっぱり……と、トレーニングルームまで探して伝えに来てくれた1号の前で思わず顔を覆ってしまった。昨日あの後自衛隊のテントに寄った時も、濡れた体をタオルで包みながら「大丈夫。大丈夫」とシャイニーはしきりに言っていたが、何となく、熱を出すと思ったのだ。母親という立場にいる者特有の勘というものがあり、これがまた憎らしいほどによく当たる。
「——なので、すみません、真理子さん」深々と溜め息を吐く真理子を前に、1号は非常に言いづらそうに眉を顰める。「もしかしたら、急に出ていただくことになるかもしれません」
「うん、大丈夫」今回ばかりは原因がほぼ確定しているため心が痛む。「何でも言って? やるから。チーフ、他に何か言ってた?」
「いえ、ジブンが直接取り次いだのでないもので……ただ、真理子さんのせいではないので、気にしないようにと仰っていたそうです」
自然と鼻息が漏れる。体調不良であっても反応まで予測しているとは何ともチーフらしい。「んなこと言ったってねェ……まァ、うん、わかった。ありがとう。何かあったら、呼んで?」
「ありがとうございます。……真理子さん、それ、素で持てるんですか?」
1号はスッと視線を横にズラし、中断しているバーベルを指した。「え、うん、そうよ」
「すごいですね。ジブン、重量挙げ全然駄目なんです」
トレーニングなんて一番嫌いだ。それでもここによく通うようになったのは葵の影響だろう。真理子はたしかに足が遅いが、物を投げたり持ち上げたりするのは長けているからそこを伸ばしたら良いと言ってくれ、それ以来少しずつ鍛えるようになった。
「全部得意な人なんかいないって、あお……3号がね、だから、あたしはこれにしようって思って。でももうオバサンだからさァ、全然ダメよ、なッかなか増やせなくって」
「そんなことありませんよ。少しずつやらないと体壊しますし」
ジブンも頑張ります、と1号は小さく頭を下げて去っていった。
しかし一人になり、褒めてもらったばかりのバーベルを再び持ち上げようと思ったが、もはやそんな気分にはなれなかった。同じ重量を上げるだけの気合いが、今の自分にはもうない。他のマシンに挑戦することも考えたが、この状態でやってもあまり意味がない気がして、静かにトレーニングルームを出ることを選んだ。
しかし廊下を歩いていても、シャワーを浴びていても、悶々と考えてしまう。チーフが風邪をひいたのは十中八九、昨日川に落ちたせいだ。昨日自分がつまらない意地を張って現場に行ったりしなければそうはならなかったかもしれない。気にするなと言われても、気にしないほうが無理である。
——……どうしよう?
チーフは一人住まいのはずだ。もし体調が悪化して部屋の中で倒れていても誰も助けてはくれない。誰にも気付かれず、発見した時には死んでいました、なんてことになったら……——?
「……ダメよ、そんなの!」
絶対にないとは言えない。ヒーローの四十歳はもう高齢者である。
こうなったら見舞いに行って様子を確認しよう、と濡れた髪を乾かしながら決める。ここで悶々と考えているより、行って自分の目で生きていることを確認してスッキリしたほうが健康に良い。
何を差し入れたら良いかしら? 子どもの風邪なら経験はあるが、大の大人は何が必要? とりあえず何か食べるものが良いのかしら? でもチーフって体は大人だけど中身は子どもみたいなもんだし、やっぱり子どもが欲しいって言いそうなものが良いの? ゼリーとか、プリンとか……あ、オレンジジュースが良いかしら?
そんなことで頭の中をいっぱいにしながら急いで着替えを済まし、ロッカールームを飛び出したところで、はたと、あることに気付く。
——チーフの家って、どこよ?
迂闊であった。思い返してみれば一人で住んでいることは当然の前提として話をしているのに、どこに住んでいるのか聞いたことがないのである。
あれだけいつもEightで駄弁り会を開催しているのに、肝心なことを知らないなんて——と驚きつつも、この時の真理子は内心何とかなるだろうと思っていた。長いこと会社に属していれば、普通は誰かしら聞いたことがあるものだろうから。
ところが、である。
どこで誰に訊いても、その度に返ってくるのは皆同じ「知らない」という一言だけなのである。
そもそもチーフと親交のある社内の人間が少なすぎる。誰に訊けば良いのかまったくわからない。たしかによく考えてみればあのチーフと親しくプライベートの話ができる人物なんてそう思い当たらないし、そんな場面を見たこともない。
考えて、考えて、唯一可能性のありそうな衣装庫の爺を訪ねてみたが、やはり答えは変わらなかった。
「知らん。それより、ヒーロースーツの着心地はどうだ?」
正直、爺にとっては孫みたいな存在なのかと思っていたから、そこまで無関心だとは思わなかった。
今はそれじゃない——とは言えず、「バッチリよ!」と親指を立て、大きく頷いて部屋を出た。
——……どうしよう?
というか、こんなに存在感がないとは予想外だった。せめて、例えば飲み会帰りに駅まで一緒だったとか、世間話の最中にどこに住んでいるのか訊いたことがあるとか、入りたての会社というわけではないのだからそれくらい話したことがある人がいてもおかしくはないだろうに。
なんだか不安になってしまう。会社から出た途端、チーフという一人の人間の痕跡が綺麗さっぱり消えて、足跡一つ残っていない。まるで、真理子しかその存在を認識していないもののように。
——でも、そうか。
思い起こせば真理子だって、ほんの少し前まではそっち側の人間だったのだ。会社を出てしまえば何も関係ない、道ですれ違う見ず知らずの誰かと一緒。もしかしたら食事も摂らない人形なのかもしれないと思っていたくらいだ。それが偶然に偶然が重なり、いつしか自宅にカレーを食べに来るような仲になってしまっただけで。
そう、チーフはちゃんと人間だったのだ。シャイニーに変身するようになってますます人間味が増した。おにぎりも齧るしオレンジジュースも飲むし、泣いたり怒ったり、時折ヤダヤダと子どものように駄々を捏ねる、真理子と何も変わらない人間だった。
だから風邪をひいたらしんどいはずなのである。何かできることがあればと考えたが、まさか自宅がわからないとは。そう遠くない場所に住んでいるのだろうが、いつもいつも家に来てもらうばかりでそういう質問をしてこなかったことが心底悔やまれる。
結局誰に訊いてもわからず、ダメ元で総務部にも行ったが、案の定個人情報は教えられないと断られてしまった。
打つ手なし。途方に暮れながら昼過ぎ頃に食堂付近を通り掛かった際、聞き覚えのある笑い声が鼓膜を掠めた。
ちらりと中を覗くと、昼時の混雑がひと段落し始めたカウンターのところに、青色のヒーロースーツが見えた。着替えもせず、配膳トレーを片手に食堂のおばちゃんと話し込んでいるのは葵だ。
——いるではないか、ここに!
ヒーローのことなら何でも知っていて、中でもチーフのことならば本人より知っていそうな人物が‼︎
おそらく巡回から戻ってきてお腹が空いたからと食堂に直行したのだろう。サバの味噌煮と丼ぶりに山盛りの白飯をおばちゃんから受け取り、嬉しそうにしている葵に駆け寄った。
「あ、真理子ちゃん、お疲れェ!」こちらに気付いた葵は満面の笑みで左の袖を振る。「どうしたの、これからお昼? 一緒に食べようよォ」
近寄ってよく見るとサバの味噌煮は大きな身がダブルになっていて、トレーの上には他にも納豆に卵、サラダに漬物に味噌汁——といった小皿が所狭しと並んでいる。
「……葵ちゃぁん!」
至って通常運転の葵を見ていたら何となく安心してしまった。この人なら絶対にチーフの存在を証明してくれる。
昼食は先ほど食べたばかりなのである。葵について行って同じテーブルに着き、向いで納豆をかき混ぜている葵にことの経緯を話した。
「誰も知らないって言うの。あの人何なの? なんか幻の妖精か何かに思えてきちゃって……」
「アッハハ、妖精! ハハッ、まァある意味そんな感じだよね、ハハハハ!」
葵はスプーンを持ったまま、涙を流しながら爆笑している。考えてみれば阿呆みたいな話であるが、真理子は結構真面目に悩んだのだ。
「てか真理子ちゃんが気にすることないってェ! あれはあの子がトロかったのが悪いんだから」
「いや、でもさ……」
「私なら絶対あんなとこで落ちない」
自信満々に言いながら、かき混ぜていた納豆をご飯の上へ注ぎ、そこへ卵の黄身を載せている。たしかに葵ならそれが可能であったかもしれない。
「ん、あ、そうだ、じゃあさ——」と、やがて葵は目を見開いて声を上げた。「ちょうどこれから見に行こうと思ってたところなんだよ。一緒に来る?」
彼女がかなり上機嫌だったのは、美味しそうな納豆かけご飯の上に卵の黄身を綺麗に載せることに成功したからなのかもしれないが、その提案を受けた真理子は、自身の空腹を思い起こさせるほど美味そうにそれを食す葵を最後まで見物した後、これ幸いと同行することにした。
葵の話によると、チーフは借り上げの社宅に一人で住んでいるらしい。予想どおり会社からもさほど離れておらず、隣町だという。
少し前を歩く葵の頭の後ろで、最近見かけるようになった青い蝶がゆらゆらと踊っている。以前あった西でのモンスター騒ぎの際、向こうの病院で最後に葵と別れた時には何も付いていなかったはずが、東へ戻ってきてまもなくお土産を届けに来てくれた時にはもう蝶はそこに留まっていた。葵が自身で買い求めるとは思えなかったため、きっとチーフだろうと勝手に納得していたら、「英斗がくれたの」と葵のほうから嬉しそうに教えてくれた。それから毎日欠かさず、ヒーローに変身した時も、蝶は後頭部で揺れている。
これまでそういったアクセサリーを一切身に付けなかった3号が突然綺麗な簪を挿すようになったものだから、もちろん妄想が大好物の世間は黙っていない。お披露目の初日は当然の如くSNSにトレンド入りし、どういう心境の変化だと様々な憶測が飛び交った。3号自身も「もらった」とだけ答えたものだから火に油の大炎上である。誰にもらったのか、という議論は日夜ネット上を騒がせ、最近になって漸く落ち着きを取り戻してきたところだ。
当の本人は「一応気を遣ったつもり」らしいが、盛り上がる世間を横目に終始我関せず、まったくの他人事のようであった。それが葵らしいと言えば葵らしいのであるが。
「本当に何もないんだよねェ、あそこ。エロ本の一つもなくてさ、ほんとつまんない家」
向かう道すがら、葵はチーフの自宅について笑いながらそうこき下ろした。口ぶりから、おそらく何度も行ったことがあるのだろう。
「ベッドの下にも何もないの。逆に心配になっちゃうよね、あの子、大丈夫なのかなァ?」
どう反応するのが正解なのかもわからないし、葵と違って未だにあれを『女の子ではない』と認識するのに何クッションか置かないと処理できないくらいにチーフを女の子だと思っている真理子からすると、何もなくても正直まったく違和感を覚えないのである。
実際、ベッドの下に『何か』があったら、葵は一体どういう反応をするのだろうかというのは、少し興味があるのだが。
「ああ、もし何かやりたいことがあるなら、必要なものは調達して行ったほうが良いよ。たぶん真理子ちゃんが想像してる以上に何もないから」
真理子の身の回りには私生活について話すほど親しい男性がいないためピンとこないが、男の子の部屋なんてそんなもの、という台詞自体はよく耳にする。ただチーフの場合、それが当て嵌まるのかどうかは疑問だ。人一倍美容だの健康だのに気を遣っていそうな日頃のチーフの姿とそれが、真理子の頭の中ではまったく一致しない。先ほどから思い浮かぶのはいかにもSNSに出てきそうなフォトジェニックでリア充満載、生活感がなくてスマートな部屋の光景ばかりである。
しかし、ことチーフに関して、大先輩・葵の助言ともあらば絶対に素直に聞いたほうが良いというのは真理子でもわかる。途中にあるスーパーマーケットに立ち寄って、簡単な買い物だけはしていくことにした。
「やっぱ真理子ちゃんはお母さんなんだねェ」買い物カゴを物珍しそうに覗き込む葵が感心したように言う。
「え、そう? なんで?」
「なんか買い物が上手」
どういう意味だかよくわからないが、褒められているのは間違いない。おかげでチーフはねぎが嫌いだという公式情報を思い出し、迷わずカゴに入れてしまった。
その後、葵に連れてこられたのは、ありふれたごく普通のマンションだった。見た目は古くも新しくもなく、無駄なものが一切ない無機質なエントランス。真理子のイメージとまるで違う。今時のオートロック機能もないため、葵は勝手にポストから郵便物を取り出すと、エレベーターホールまで行き、上から二つ目の八階のボタンを押した。
「葵ちゃん、よく来るの?」思わず質問する。葵の動きにはどこにも迷いがなく、まるで自分の家に帰るかのように自然なのだ。
「気が向いたら、かな」葵は僅かに首を傾げる。「まァ近いしねェ。でも玄関から入るのは、ちょっと久しぶりかも」
——待って、どういうこと? いつもどこから入っているの? 窓?
頭が混乱しているうちにエレベーターは扉を開き、葵は外廊下を進んで角の手前の部屋の前で足を止めると、何の飾りも付いていない鈍色の鍵を取り出し、上側の鍵穴に突っ込んだ。
「この鍵はあの子の会社のデスクに入ってるから、何かあったら使いな? 二段目の引き出しの、箱の下ね」
相変わらず不用心であるが、葵専用の合鍵というわけではないところが少し意外だった。何となく、そういうものが存在すると勝手に思い込んでいたから。
開錠し、葵はまるで自分の家のように部屋に入っていく。あとから遠慮がちに中に入ると、電気は消えていて薄暗く、微かにいつものチーフの匂いがした。玄関から家の最奥まで眺められてしまいそうなくらいの、本当に簡素な部屋。真理子が想像していたのとは正反対である。
それにしても、汚い。
何だろう? 見たところゴミが落ちているわけではないが、とにかく雑然としている。しかもその原因のほとんどが本や雑誌、新聞といった読み物である。机の上でも床でも、積まれてはいるがとにかくあちこちに置いてあって、傍らを通り抜ける時にもれなく崩してしまいそうで怖い。フォトジェニック? スマート? ——とんでもない。
真理子が玄関で呆然としている間に、葵はあちこちに点在している本の山を軽々と避けながら奥の部屋まで侵入し、そっと引き戸を開けている。真理子は音を立てないよう靴を脱いで、葵が戻ってくるのを待つことにした。
買い物袋を置きたくてテーブルの上を見ると、今月出たばかりの雑誌と昨日の夕刊がそのまま置いてあり、その上に先ほど葵がポストから出してきた郵便物が乗っている。よく見ると、郵便物はすべて今朝の分の新聞で、大手の全国紙と地方新聞社のものが合わせて五種類もある。
昔から新聞なんて触るだけで具合が悪くなってくる真理子からすると信じがたい光景である。これは一瞬で新聞受けが満杯になってしまうのも頷けると、真理子は読みかけと思われる雑誌のページの間に新聞を挟んで机の上を整頓し始めた。雑然とはしているが、几帳面なのか、本も雑誌も新聞もすべて綺麗で、見えたテーブルの盤面もまったく汚れていない。
そのうち葵が足音もなく戻ってきた。
「チーフどう?」
「死んでなかった」心配して訊いたのに極力抑えた第一声がそれで、真理子は笑ってしまった。「どうする? 真理子ちゃん、何か作る?」
「葵ちゃんは?」
「私はいつも来ると片付け……整理整頓するの」本は捨てたらいけないから片付かない、と肩を落とすお姉さんは苦労が絶えない様子である。
今日も同じことをすると言うので、真理子が手伝いを申し出ると表情がパッと明るくなった。「ありがとう、真理子ちゃん、助かる!」
「大丈夫、あたし『お母さん』だもの」真理子は沸々と笑った。さっきスーパーで褒められて調子に乗り、思わず大量に仕入れてしまったねぎをあとでどうやって全部使おうか考えているだけでとても愉快だ。
要するに、チーフがきちんとしているように見えるのは表面に出ている姿だけなのだろう。以前Eightであった不法侵入者の件もそうだが、とにかく仕事をしていない時のチーフはほとほとダメなのだと、真理子は洗濯機にパンツを放り込みながら確信を持った。こんなの幸子に報告したら嘆き悲しむに違いない。
「できないはずはないんだけどね……だって子どもの頃はやってたんだから」
実際必要に駆られるときちんとやるし、最低限のことはできるのだと葵は苦笑いを漏らす。初めて聞く話だが、子どもの頃のチーフは所謂『良い子』『よくできた子』の典型だったようで、幸子が仕事で家を空けがちだったため、十歳にもならない頃からすべてのことを一人でこなしていたらしい。
「面倒臭がりの兆候はあったんだけどさ、——」葵は扉一枚隔てた隣室に聞こえないよう、吐息のような声で話す。「まァその年の子どもにしてはちょっと出来すぎというか、頑張りすぎだったから、少しくらい良いと思って放っといたの。そしたらこうなっちゃって」
現在置かれている室内の惨状に目を配る。少し責任を感じているようだが葵のせいではない。三十年も経てば、良くも悪くも人は変わる——チーフの場合、おそらく変わりすぎだ。まさか当時の葵だってチーフがああなるとは夢にも思っていなかっただろう。
「……勉強家なのはよくわかったわ」
「それは、うん、そうなんだけどね……」
子どもの頃のチーフは勉強するのが好きだと言っていたというから理解に苦しむ。そんなに勉強が好きならなぜ片付けを勉強しないのか。
「……とは言ってもね、私、あの子が十歳くらいまでのことしか知らないんだけどね。その後は、いろいろあって……」
「いろいろ?」
「うん」葵はすぐに頷いたが、それからしばらく考え込んだように黙りとしてしまい、やがてだいぶ経ってから溜め息混じりに呟いた。「そうだねェ……いろいろだねェ……」
積み上げられた冊子の上に落ちた視線は、どこか遠くを見ている。
三十年前の決戦の後、葵は一度ヒーローを引退している。その理由は言わずもがな、左手の欠損だろう。
しかし——。
「まさか……私ね、幸子さんがシャイニーを辞めるなんて、思わなかったんだよ。それで、ちょっと、疎遠になっちゃってさ」
「え、そうなの?」
これは意外だった。ハッピー・シャイニーとスカイ・ハークといえば知らぬ人はないというほどの名コンビだったし、真理子の引退騒動の際も、幸子と手を組んでいたというくらいだからてっきり引退後もずっと仲が良かったのだとばかり思っていた。
「あの人はずっと、何があってもヒーローなんだろうって、思ってた。それなのに、あんな風に、あっさり辞めちゃってさ。それで八年……九年くらいかな? 会ってなかったんだよ」
自分も若かったのだと葵は振り返り、力なく嗤いながら、中身の入っていない左袖を体の横で振る。「私もこんなだから、ずっと、英斗にも会いに行ってなくて」
「どうして?」
「……行こうと思えば、たぶん、行けたよ」葵はそこで本を積む手を止めた。雪の被った道を踏み締めるかの如く、言葉を噛む。「私、知ってたから。でも、行けなかった。責任を感じさせるんじゃないかと、思ったら」
片腕を失くした葵の姿を見た時、チーフがどんな顔をするのか想像ができてしまった葵は、それがとても怖かったという。葵の口から「怖い」という言葉が出てくることがとても意外で、葵でも怖いと思うものがあるのかと一瞬驚いたが、すぐに腑に落ちた。
——だって、葵なんだもの。
「英斗は何も、悪くないんだよ。あの時幸子さんに、決戦に来なくて良いって止めたのは、私なの、でもあの子はそうじゃないと思ってる。今も……——」葵は泣きそうな顔をしている。「どんなに違うって言っても、私がいる限り、英斗はそう思い詰めちゃうの。だから……幸子さんとの仲が最悪なのもわかってたし、ずっと気になってはいたけど、どうしても会いに行けなかった。そうしたら、ある時、うちの会社に入ってきたんだよ。驚いたよ、もう……、当たり前だけど、大人になっててさ」
当時はまだ男の形であったと葵は笑ったが、葵の中で十歳の姿のまま時が止まっていたのならば、それが突然大きくなって目の前に現れたらその衝撃は相当なものであったに違いない。
「まァ、大人でも相変わらず可愛かったんだけどさ、まさか……この会社に入ってくるとはね」
英斗に一番向いていない仕事、と葵は眉を顰めながらもハッキリと言い切った。以前、Eightにて二人で茶話会をしていた時にも、葵はそう言っていた。
葵は徐ろに、自身の頭の右側に手をやる。「……私の頭を、撫でてくれるような子だったんだよ。本当に、マセたガキンチョでさァ……そんな優しさは、この業界じゃ、足枷になるだけだもんなァ」
それは真理子には決して理解することのできない、葵だけの感覚。寂しそうにはにかむ彼女のその視線の先には、三十年前のその日の景色がきっとある。彼女がそんな顔をするのを初めて見た。
きっとチーフという人は、見た目は違えど、その中身は子どもの頃からあまり変わってないのだろう。面倒臭がりなくせに頑張りすぎるところも、憎まれ口ばかり叩くくせに変に気を遣って優しいところも、たぶん、葵のことが大好きなところも。
崩れかかった本の山を整頓して部屋を縦断する獣道を拡張し、発掘した小鍋を使って簡単にお粥を炊いた。買ってきたねぎを全部ぶち込んでしまおうかとも考えたが、本当に嫌いでまったく口をつけられなかったら気の毒だと思い、刻んで別盛りにしておいた。そんなことをしていると、いつの間にか葵がダイニングの椅子に座ってお茶を淹れてくれていた。
余分がないからと、葵は普段自分が使っているという青みがかったマグカップのほうを真理子に差し出し、自分は黄色っぽい色味のカップを使っている。おそらくそっちがチーフのものなのではないかと真理子は思った。葵はここに一緒に住んでいるわけではないのだろうが、この部屋はまるで誰かと二人で暮らしているかの如く、何でも二人分のものが存在すると、掃除していて感じた。このマグカップにしても箸にしても、たいていが青と黄色なのだ。名前などなくとも誰のものかなんてすぐに見当がつく。
「ありがとう」
「ごめんねェ、せっかく来てもらったのにいろいろ頼んじゃって」
「良いのよ、そのために連れてきてもらったんだもの」とっ散らかっていたのは予想外だったが、謎だったチーフの生態系がまた一つ垣間見えた気がする。「チーフが、ちゃんと人間っぽくて安心したわ」
「そう?」
「ええ。ちゃんと、妖精じゃなかった」
「それな」葵は沸々と思い出し笑いをしている。「真理子ちゃんがいる時の英斗は、あれ結構素だよ?」
「あれが素? いつも怒ってるじゃない」
「それだけあの子の気が緩むってことねェ」葵はそう笑うが、真理子にとっては死活問題である。
「私の知ってる英斗は本当に、……——」
その先に何を言おうとしたのかはわからない。ただチーフの話をしている葵の顔を見ていると、彼女は本当にチーフのことが可愛くて仕方がないのだろうと感じる。「ねェ、訊いても良い?」
「何?」
「葵ちゃんってチーフのことどう思ってるの?」
「え、どうって何?」葵は顔色一つ変わらずに笑っている。「可愛くて、生意気な……弟? 今じゃ妹のほうが正しいか」
「チーフは葵ちゃんのこと大好きじゃない?」
「そりゃ『葵お姉様』だからね。けどあれもねェ、昔からああなんだけど、いい年のオッサンがいつまでもシスコンてのも……——」と、急に何かを思い出したのか、葵は沸々と笑い出した。「そうそう、昔ね、ふふ……それこそ昨日の真理子ちゃんみたいに、私が生理痛酷かった時があって、ほら、こういう仕事だからさ……不安定じゃない? わかるでしょ?」
「うん、わかる」
「で、その時お腹痛くて、ちょっとラーメン屋まで歩いて行ける自信なくて、家で作ってあげるって言ったの。そしたらあの子、ふふふ……可愛いの。まだガキンチョだしそんなのよく知らないのに察しだけは良いから、「あおいはどっか病気なの? 死んじゃうの?」って涙目になって訊くの」
「あのチーフが?」
「そう、可愛いでしょう、本当可愛くてさ、アハハハ……死なないよって、いろいろ教えたの、その時。まだ早いかなァって迷ったんだけど、頭の良い子だったし、誤魔化すと、逆にもっと不安になっちゃうんだろうなァって思って。幸子さんはそんなの教えなそうだしさ、だから、女の子は、大事にしなきゃいけないんだよって、教育しちゃった」
「あの人それを守ってるのね、今も」
「……早いなァ。あれ、もう三十年も前なのか……」ぽつねんと、溜め息と共に呟いたそれは、なんだかとても寂しそうに聞こえた。
「葵ちゃんの教育の賜物ね」
「でも考えたらさァ、もうちょっと脅かしておけば良かったよ。あの頃から私のこと呼び捨てだったんだよ? 生意気だと思わない?」
葵は不服そうに頬を膨らませているが、それはそれで満更でもなかったのだと思う。
そして幼いチーフがその時『女の子を大事にすること』と共に無意識に自身の中に刻んだのが、『葵を大事にすること』だったのではないかと、何となく思った。
「……結局あの時、英斗がラーメン作ってくれたんだけど、あれ、美味しかったなァ……」
ただのインスタントだと葵は笑った。いつも葵が大喰らいだから何袋やれば良いのかわからずチーフが困っていたことも笑いながら話した。それが美しく大切な思い出として葵の中に今もくっきりと輪郭を持っているのだと思うと、腹の底が温かくなる。
その時、小動物の鳴き声みたいな小さなくしゃみが聞こえ、奥の部屋から物音がする。引き戸が開いて立っていたのは起き抜けのチーフだった。
「……アンタら、何してんの? 人ん家で」
長い金髪を緩い三つ編みのお下げにして、袖口で鼻を擦りながらこちらに恨めしい目を向ける。寝起きだからか、いつもより声が少し低くて、瞼が腫れぼったく重たそうに見える。
「お茶を飲んでいるんだよ」
「ごめんね、チーフ。起こしちゃった? 体調は大丈夫?」
チーフは何も答えず、ただ深々と溜め息を吐いて項垂れてしまった。化粧なんて何一つしていないはずなのに顔が普段とほぼ同じだし、ふわふわの暖かそうな可愛らしいパジャマ姿はやはりどう見ても女の子である。
「なんか、ゆるいチーフも新鮮で可愛いわ」
「そうでしょう⁉︎ あのパジャマ、私があげたの! 似合ってるよね⁉︎」葵は自分のことのように嬉しそうにはしゃいでいる。たしかによく似合っているし、ファッションサイトや雑誌に掲載されていても不思議ではないルックスだ。
「もォ……」その様子を尻目にチーフは頭を抱えて呆れ返っている。「帰って、何してんの、二人揃って。馬鹿なの?」
「悪いかなとは思ったんだけどね……——」
「あんたが死んでないか確認しに来たんだよ」葵の言葉はこんな時も一切の遠慮がない。「あんたさァ、もう若くないんだよ? このままいったら自分が孤独死まっしぐらだってこと理解してる? ここを事故物件にする気?」
「やあよォ、あたし。腐ったチーフなんて見たかないわよ。だったら非常識なオバサンのほうがよっぽどマシ」
「ありがとう、とりあえず生きているから大丈夫よ。早く帰って。ほんと、感染したくないし……化粧もしてないのに……ほんと最悪……」
嫌味っぽい口調だったかと思えば、今度は半泣きになりながら両手で顔を覆って引き戸に凭れ掛かっている。
「チーフ、何か飲んだほうが良いわ。はい、これ買ってきたから。お腹は? 空いてる?」
「ううん……——」
「熱は? ハイ、これで測って。汗かいてるなら着替えないと駄目よ? 違うパジャマある?」
「……」
普段だったら怒鳴られて摘み出されているところだろうが、そんな気力もないのか何も言わず、押し付けられたペットボトルと体温計を手にふらふらと洗面所のほうへ行ってしまった。
「大丈夫かしら?」
葵が首を傾げながら唸っていると、洗面所に消えたばかりのチーフが明らかに狼狽えた様子で即座に戻ってきた。元々ふらついていた足元がさらに覚束なくなっているし、顔色も悪い。
「どうした?」
「ねェ、せ……洗濯したの?」
「真理子ちゃんがやってくれた」
「ここにあったの全部⁉︎」
「何言ってんの? 洗ったわよ、当たり前でしょ、そこに干してあるわよ」
「……」鴨居にぶら下がる物干しを見上げたまま口を半開きにして、ぱくぱくと、高級な金魚みたいだ。
「一応、靴下とパンツは分けて洗ったから安心して?」
そういうこだわりがあるのかどうかは知らないが、気にする人もいると思い、自分なりに気を遣ったつもりだ。が、なぜか愕然として言葉を失ってしまったチーフは、それ以上口を開くことなく、ペットボトルと体温計を抱えたまま再びベッドのある奥の部屋に引っ込んでしまった。
「チーフ? どうかしたの、大丈夫?」
「もォ帰って! 放っておいて、一人で平気だから!」戸の向こうから覇気のない怒りの声が聞こえてくる。「いろいろやってくれたのはありがたいけど! けどパンツまで洗うことないじゃん、馬鹿ァ!」
葵は吹き出してしまった。
「え、なんで? あれ洗うんじゃなかったの?」
「真理子ちゃん、そういうことじゃない……」よく分からないが、葵は腹を抱えて笑っていて言葉にならないようだ。「ごめん、英斗、アッハハ……あおいが悪かったんだよ、ごめんね、もう帰るから、ごめんごめん」
引き戸に鍵は付いていないから開けようと思えば開けられる。しかし葵はそうせず、懸命に笑いを堪えながら、ピシャッと閉められたままの戸の向こう側にそう言うと席を立ち、空になったカップを洗って帰り支度を始めた。
「ごめんね、真理子ちゃん。ありがとね」
「あたしは良いんだけど……」
「いろいろ手伝ってくれて助かったよ。今度ちゃんとお礼する」
チーフが生きているのを確認できたのは良かったが、ここに来たのが本当に正解だったのか、疑問が残ることとなってしまった。
部屋を出るまでの間、チーフが再び姿を現すことはなかった。
* * *
静かに玄関の扉が閉まる音がして、突然に静けさが空間を支配する。掛け布団の擦れる音が煩わしいと思うほどに、物音一つしない。それが普通であるはずなのに、やたら静かすぎて気持ちが悪いと感じた。ここだけが世界の中から切り離されて、時が止まっているかのようだ。
——暑い……。
頭から布団を被っていたせいか、体温が籠ってじんわりと汗をかいている。一日大人しくしていればどうにかなると思っていたのに、平熱に戻っていないのは感覚でわかった。
心地が悪くてベッドから這い出し、違うパジャマを引っ張り出して着替えた。これも、さっき着ていたやつも、みんな葵がくれたものだから自分の趣味ではないのだが、暖かくて肌触りが好きだからこの時期になるとよく着る。葵は、誕生日とクリスマスがほぼ隣近所である自分に、プレゼントを一緒にされて可哀想と言って、毎年必ず上下揃いのパジャマを一つくれる。本人曰く、上が誕生日で、下がクリスマスのプレゼントらしい。だから昔から毎年一セットずつパジャマが増えていって、今では冬の寝巻きに困ることは一切ないのだが、モコモコと嵩があるものが多く、しまう場所には苦労する。着せ替え人形にされているような気も否めないが、そこは考えないことにしている。
キッチンに顔を出す。つい今し方まであんなに賑やかな人たちがいたはずの空間には、既に冷気が漂い始めていた。あれは本当は夢の中の出来事で、本当は誰も訪ねてなど来なかった——そんな気もする。
だが、あちこちに積まれている本や新聞の山は整えられて少し歩きやすくなっているし、徐ろに冷蔵庫を開けると何もなかったはずの透明のトレーの上にはヨーグルトだの切った果物だのが行儀良く置かれ、ご丁寧に刻まれたねぎまで並んでいる。使いどころがなさすぎて捨てようかと思っていた小鍋は、コンロの上でその役割をきちんと果たしていて、結露し始めている鍋蓋を少しずらしてみると、白くてドロドロしていそうな見た目のものが入っていた。
まるでこの部屋に生き物が存在しているみたいだ。自分の中にある得体の知れない感情に正直戸惑っている。こんなものに滞留されてさぞ不快だろうに、なぜかことさら悪くないと思っているのだから、本当によくわからない。
駄目だ。起きていると重たい頭がぐるぐると回って平衡感覚がなくなる。こんな熱っぽい頭で考えているから碌な感性にならないのだと無理やり説き伏せて部屋に戻る。葵には叱られるが、頭を冷やすにはベッドよりも床の上で微睡んでいるほうが冷たくて気持ちが良いので、そっちのほうが好きだ。
床に転がりながらふと思い出す。昔、そうしていたら突然葵がやってきて、珍しく慌てた様子で怒りながら、介抱してくれたことがあったっけ。
「……」
遠くで、夕焼け放送が聞こえる。きちんと聞いたのなんていつぶりだろう?
いつの間にか窓の外は黄昏れている。だからだろうか? 懐かしいと思うのに、なんだかとても物悲しい気分になった。
* * *
真理子を途中で見送った後、近くのドラッグストアで所用を済ませ、英斗の部屋に戻った時には完全に日が暮れていた。先ほど自分で締めたばかりの玄関の鍵を再び開けて中に入ると、出た時と何も変わっていない暗闇が広がっていた。
いや、目が慣れると微かに変わっている。鍋の蓋とか、あと奥の部屋の引き戸が僅かに開いている。引き払った後にもう一度起きてきたのだろう。部屋の灯りは点けず、足音を立てぬように気を払いながら暗闇の中を進み、緩んだ引き戸に手を掛ける。
そっと開けて、ギョッとした。ベッドの中で枕を抱いて丸まっていたはずの英斗が布団も掛けずに床に転がっている。
「えッ、ねェ、何してんの……?」呆れ返りながらも床に膝をつき、抱き起こそうとするが重くてうまくいかない。
体が熱い。着ていたパジャマが変わっていて、先ほどまで着ていたものは近くの床で抜け殻のようになっている。
呼び掛けても反応がない。ヒーロースーツさえ着ていれば人間なんて簡単に持ち上げられるのに、今は重くて片腕ではまったく歯が立たない。昔は抱きかかえてベッドまで運ぶなんてことも容易にできたのに、いつの間に図体ばかり大きくなってしまったのか。
と、やきもきしていると、ふっと体が軽くなった。
「なんで戻ってきたの?」英斗が自力で体を起こし、怠そうに訊いてきた。どうやら起きていたらしい。
思わず溜め息が漏れる。「床で寝んのやめてよ……」
「ここ冷たいから気持ち良いの」
「馬鹿タレ! びっくりするし、全然休まらないじゃない。布団も掛けないで何やってんのよ!」
「あちこち痛い。筋肉痛」
「それは熱のせい! 痛いならこっち戻ってよ、ほんと馬鹿なの?」
葵の説教に対し、ベッドに凭れながら相槌を打っている英斗は、やはりそれなりに調子が悪そうだ。最初にここへ来た時も、部屋を覗いて、ベッドの中で枕を抱きかかえながら小さく丸まって寝息を立てている英斗に一応小さく声を掛けたが、まったく反応がなかった。
これはもはや職業病だと思っているが、英斗も自分も、普段は非常に眠りが浅い。寝ながら会話ができるというのは大袈裟だが、眠っている時に話し掛けられたら即座に起きてその会話の続きができる程度には浅い。もし寝ている英斗に声を掛けて反応がなかったら、それは変身中にフリーズして落ちた時か、それに準ずる程度にキツい状態の時と決まっていて、今は後者だというのはすぐにわかった。
部屋を片付けていても薬の類が一切出てこなかったため、何も飲まずにただ寝ているだけだというのも想像がついた。
だから真理子を先に帰した。英斗は絶対に真理子の前では大丈夫なふりをする。一瞬顔を見せに出てきた時だっておそらく虚勢を張っていた。
「真理子はどうした?」
今だって、ベッドの上に腕を這わせて枕を探しながらそう気にしている。呆れた。こんな時まで他人の心配なんてしなくて良いのに。
「帰してきたから、安心して」
答えながら探し物の枕を渡してやると、英斗はそれを膝の上に置き、顔を埋めて丸くなってしまった。ベッドにはまだ戻りそうもないため、布団を引き摺り下ろして掛けてやる。
「お粥作ってくれたの真理子ちゃんだから、今度お礼言っといてね」
「なんで真理子まで来るの、信じらんない……」英斗は顔を隠したまま不貞腐れているが、どこか安心しているようにも見える。
「あんたのところに行きたいって言い出したの、真理子ちゃんよ? ひどく心配してた、あんたが風邪ひいたの自分のせいだからって」
「関係ないって言ったのに……」
「気にするなってほうが無理よ。あんた熱測ったの?」
「体温計怖い」
「何馬鹿なこと言ってんの、測んなさいよ」
「ヤダ」枕に埋めた顔面を擦り付けながら全力で拒否。「これ絶対熱あるもん、数字見たらもっとしんどいもん、ヤダよぉ……」
——クソガキが。
仕方なく、葵は買ってきた袋から薬と水を出して差し出した。本当は食後にと書いてあるが、案の定本人は食べたくないと言うのでそれは諦める。とりあえず飲んでくれさえすれば葵の仕事は終わったようなものだ。
英斗が素直に薬を飲んでいる間に冷凍庫を開けに行く。先ほど真理子と来た時に仕掛けておいた氷が良い具合にできている。
「一個ちょうだい」
「わァ!」気配もなく後ろに立っているから飛び退いてしまった。「驚かさないでよ」
「ごめんね」
そこには謝罪の意など欠片も含まれていない。怯んでいる葵の横で、英斗は満足げな面でできたばかりの氷を製氷皿から一つ取り、それを飴玉代わりに口内で転がしている。その様子を見ていると段々腹が立ってくる。葵が左後方に弱いことを知っていてやっているからむかつくのである。
むかつくのに、甲斐甲斐しくその氷を袋に詰めて、枕を作ってやっている自分はもっと気に入らない。
「これあげるから、床じゃなくて、ベッドに戻って」
「ありがとう」
英斗はそれがお気に召したようで、渡すとすぐ大事そうに抱え込んで、言われたとおりベッドに戻っていった。静かに後を追って、枕を抱えて縮こまっている英斗の横に腰を下ろす。
「これ好き」と嬉しそうにしているが、本当は頭を乗せてほしいのに、英斗はなぜか枕を抱いて寝てしまう。小さい頃から変わっていない寝相なのだが、あまり効果を期待できないなと思いつつ、本人が気に入っているから良しとしよう。
布団を引っ張って顔まで隠しているくせに、足がはみ出ているので直してやる。
「……心配だったのは本当なんだけど、ごめんね。怒ってる?」
「ううん」布団からはみ出ている乱れたおさげ頭を撫でていると、英斗は即座にそれを否定した。「違うの、ごめん、家の中が煩いって経験が、あんまりなくて、よくわからないけど……悪い気はしなかったの。それは本当。最近、昼も夜もいつも煩いから、慣れちゃったのかな」
「良いことじゃない?」
「……まさか、下着まで洗われるとは、思わなかったけど……」そこは相当ショックだったようで、聞きながら葵は笑いを堪えられない。「どういうことよ? 信じらんない。ねェ上司のパンツ洗う? 普通。もう嫁に行けないよ」
「行く気もないくせによく言うわ」だからハラスメントは程々にしろとあれほど忠告したのに、今さら仕返しされても文句を言う資格はない。
ふと思い立ち、先ほど驚かされた腹いせにもう一言付け加える。「下着まで女の子じゃないのねって」
「もうやめて。アタシ男なの。大事なのは実用性なの。真理子に言っといて」もう滅茶苦茶である。
葵は笑いながら頭を撫でる。ずっとそうだが、嫉妬するくらいに綺麗な頭だと思う。
「……偉かったねェ、英斗」子守唄を歌っているかのように話し掛ける。そうして静かに話していればおそらくそのうち寝るだろう。「真理子ちゃんに八つ当たりされても、怒らなかったでしょう」
昨日出動した時の話だ。
「……」
「偉かったね」
「……そういう、時があるんだって、昔、葵が言ったよ」
「ちゃんと覚えているんだね」
「……当たり前でしょ。全部、覚えているよ。葵が言ったことは、全部……だから……——」
「……なぁに?」
ぎゅっと布団の縁を持って、何でもない、と英斗は言った。どんな顔をしているのかわからない。
「真理子ちゃんがね、チーフは勉強家なのねって」
「なんで?」
「そう言ってた。次は片付けの本でも買ったら、って」
「勘弁してよ……」
揶揄ってはみるものの、書物が多いだけで不衛生なゴミ屋敷ではないので、これはこれで葵としては良しとしてやりたいところだ。足の踏み場がないのは些か問題だが、それにこれがきちんとしてしまっては、葵がここへ来た時、本当にすることがなくなってますますつまらない家になってしまうし。
相変わらず布団を被ったままで息苦しくないのだろうかと思ったが、顔を覗かせてくれる気配はない。寝息が静かにその下から聞こえてきて、丸く山になった体のラインが微かに上下している。
しばらく黙って頭を撫でていたが、反応がないのでそうっと手を離してみた。すると布団の縁を掴んでいた大きな手がゆっくりと伸びてきて、顔も出さずに自分の頭の周りで何かを探り始めた。
試しにスマホやペットボトルを渡してみたが、違うらしい。「これじゃない」と不貞腐れた声が聞こえてくるだけで、明確に何が欲しいと言わないところが何とも英斗らしいのであるが、おそらく頭からいなくなったこの右手を探しているのだろう。
何とも滑稽な光景だと思いながら何も言わずに見ていたが、段々と可哀想に思えてきて、探し物を自ら差し出してしまう自分が本当に甘くて嫌になる。
「……葵」布団の中からくぐもった声が聞こえる。
「ん?」
「もう、帰っちゃう?」
「なんで?」
「……」
「どうかした?」
「……暇なら、もう少し……そこにいてほしい、と、思って……」
段々と声が小さくなっていって、最後のほうは何を言っているのか聞き取るのがやっとだった。可笑しくなってくる。先ほどまで早く帰れと言っていたあの威勢の良さはどこへ行ってしまったのだろう?
嫌だなんて、まさか言うとでも思っているのだろうか。
ふと思い出す。ある時、何の前触れも気配もなく、突然にその存在を知ることとなった幸子の子ども——母親がほとんど家に帰っていないことも、育児らしい育児なんて何一つできていないことも、話を聞かずともわかった。だって毎日、一日のほとんどの時間を葵はその母親の隣で過ごしていたのだから。
一体どれほど我儘放題に育っているのだろうかと恐々とした。幸子は口を開けば自分の子を可愛い、可愛い、と言って顔を綻ばせ、しっかりしていて良い子だと話す。親馬鹿もいい所だと思った。そんな親の手が行き届いていない、言ってしまえば雑草みたいな子どもが良い子なわけがないだろう。だから、その存在を認知してからずっと、会ってみたいと思っていたのだ。
初めて会ったのは会社の近所にある中華料理店の前。その日、幸子に連れられてやって来た英斗はまだ幼く、自分はたしか十九歳だった。自分を見上げて目が合うと、モジモジと困ったように視線を逸らし、俯き、しまいには幸子の背後に隠れてしまう、恥ずかしがり屋の男の子だった。そして、幸子の言うとおり本当に可愛かったのである。
店に入ってからも基本的に何も喋らず、幸子の隣に大人しく座っているだけ。恥ずかしいのか、何が食べたいのか訊かれた時だけ「ふつうのラーメン」と即答したくらいで、あとはじっとテーブルの盤面を見つめたまま顔を上げてくれない。
ただ、幸子よりずっとしっかりしているという言葉は本当なのだろうと思った。だってどちらかというと食事をしながら紙ナプキンでテーブルを拭いたり水を注ぎ足したり、あれこれと世話を焼いているのは幸子ではなく、その幼い子どものほうだったのだから。
——「……英斗くん、いつも一人でお留守番してるんだって?」
葵が顔を覗き込みながら話し掛けてみると、テーブルの向こう側から、はい、と小さな声が返ってくるが、下を向いたままそれ以上の言葉は続かない。
「すごいねェ。お母さんから聞いてるよ? お家のこと何でもできるって」
今度は少し斜めに傾く。やはり口元はぎゅっと結ばれたまま、喋ってくれる気配はない。が、空気を読むことを知らない幸子は構わず茶々を入れる。
「葵が可愛いから照れてんの」
「やめて、母さん」
「なぁんでよ、良いじゃない。可愛いでしょ? 葵。良かったね、素敵なお姉さんができて」
「……」
全然似ていないのに、ふと自分の弟が小さかった頃を思い出した。もっとやんちゃで煩くて、姉の言うことなんてまるで聞かず、生意気でよく喧嘩をした記憶しかない。家を出てくる時は反抗期の只中にあったから碌に口も利いておらず、最後にどんな会話をしたのだったかもよく覚えていない。
可愛い。母親に揶揄われ、赤くなって膨らんでいる頬を突いてやりたいと思った。だが、やがて運ばれてきた湯気の立つ中華そばを目の前に置かれた瞬間、その仏頂面がほんの僅かに緩んだように見えた。
気のせいだったのかもしれない。渡してやった割り箸は妙な持ち方をして、食べにくそうに丼ぶりを抱える姿もまた年相応の子どもだ。
「英斗くん、ラーメン好きなの?」
食事中、葵が訊ねると、英斗はやはりキョロキョロと視線を泳がせて、バツが悪そうに箸を止めてしまった。何気なく質問しただけのはずが、何かいけないことを訊いてしまったのだろうかと不安になる。
「……うん」
しばらく考えてから、英斗は短くそう頷いた。やっぱりこちらを向いてはくれないが、その赤くなった頬は膨らんではいなかった。この子にもう少し食べやすくなる箸の持ち方を教えてやりたいと思った。
だから、次の日、幸子に提案したのだ。人気者で忙しすぎる幸子の代わりに、葵が英斗のところへ遊びに行くのはどうだろうか、と。
「そりゃすごい嬉しいし、英斗も喜ぶだろうけどさ、葵が大変じゃない」
幸子はそう言ったが、葵が食い下がった。もちろん幸子と仕事が別で、葵が早く上がれなければ行くことはできない。だから仕事中はかなり集中したし、討伐も瞬殺できるようにますます訓練を積んだ。
家に迎えに行っては、よくラーメンを食べに付き合わせた。話せば話すほど、我儘とは程遠い、大人びた子どもだとわかった。母である幸子に対して言いたいことはあるようだったが、子どもながらにいつも気を遣って、小さな体の中にすべてを押し隠していたのだろう。何が欲しい、何が食べたい、何がしたい——はじめのうちはそういった己の欲求をまるで表に出してくれなかった。徐々に葵に慣れてくると、あれこれと意思を表すようにはなったが、それでも恐る恐る、葵の顔色を窺っていたように思う。
——そういえば、今のように金髪ではなかったがあの頃も男の子にしては髪が少し長かった。訊ねたところ、幸子が留守でなかなか床屋に行けないから自分で切っていたけれど、面倒になって今は結んでいると淡々と答えてくれたっけ。
「ふうん、良いじゃん。似合ってるよ。お揃いね」
そう言ったら、やっぱり英斗はギョッと顔を赤くして視線を逸らしてしまった。本当にそう思ったから言ったのだったが、もしかしたら嫌がって、帰ったら切ってしまうかもしれないと少し後悔した。しかしそれ以降、葵は英斗の髪が短いのを見たことがない。後に2号としてヒーローをやっていた時も、彼の頭髪は肩の高さを優に越えていた。
掴まれたままの右手がじわじわと暖かい。随分と素直に自分の気持ちを表せるようになったと思う。
「……しょうがないなァ。今日は特別ね」
目を合わせようとするとすぐ下を向いてしまうくせに、生意気に「葵」と呼び捨てにしてくる、それすらも可愛い、年の離れた弟のような存在——だった。
——今は?
——「葵ちゃん、チーフのことどう思ってるの?」
どう、って——。
友人? 頼りになる同僚? 大切な仲間?
全部そうだが、なぜしっくりこないのか、よくわからない。そこだけが、昔と違う。いつの間にか立派に大きくなっているが、無防備に眠るその顔も、生意気なところも、氷枕が好きなところも、子どもの頃と何も変わらないのに。




