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第六話 西の英雄(4)修学旅行の日

この話には『東』『西』『南』『北』という地方の、それぞれの特有の言語(方言)が登場しますが、実在する地方ならびにそこで使用されている言語とは異なる、この物語の世界独自のものです。あらかじめご承知おきください。

 西部でモンスターが出たことを葵は夜の臨時ニュース速報で知った。ラーメンを食べた帰り道、スマホが短く震えてその通知を見た途端、せっかく温めたばかりの体が喉の奥のほうから急激に冷めていく心地がした。

 本部管轄のことなら知りたくないことですら即座に耳に入ってくるのに、管轄外のこととなると焦ったいくらいに情報が遅い。社内よりメディアのほうが報じるのが早かったりするのはよくあることだが、葵は普段なら気にも留めない。他の支部からの応援要請が来ることなんておそらく夏に雪が降るくらいの可能性の話だし、いつ何時、どこに出てもおかしくないのがモンスターで、それに応えるのがヒーローだ。中央だろうが西だろうがそこに違いはない。こっちと同じ日常が、西にも訪れている。ただ、それだけのこと。でも今日ばかりはどうしてか、五感がそちらに反応してしまう。

 ——「ま、そっちで出ることはないと思うけど、気を付けてね」

 ラーメン屋で何気なく言った自分の言葉を反芻(はんすう)する。こういうのを虫の知らせと言うのだろうか。自覚はなくとも、体は敏感に危機を予知していて嫌になる。

 完全に止まってしまった両足を再び動かすべく、スマホをポケットに押し込む。西部にもヒーローはいるし、よほどのことがない限り『お客様』であるマリーやシャイニーが応援に出ることはないだろう——と思うことにした。それでも、後ろから何かが追いかけてくるような気がして、家までの残りの道のりは走って帰った。だが、家に着いても、ドアを閉めても、熱いシャワーを頭から被っても、何かが自分のすぐ後ろにあって、その気配が消えることは決してなかった。

 鳴らないでほしいと願いながら枕元にポケベルと携帯を置いて、いつもよりずっと早く床に就いた。妙なことに、起きていると二人の顔がチラついて、変なことばかり考えてしまって落ち着かないのである。だが、そんな状態で眠れるはずもなく、長い夜の果て、明け方近くに携帯のほうが鳴った。相手は真理子だった。

「——、葵ちゃん、ごめん」

 電話口で真理子は最初にそう言った。心のどこかで予感していたからか、始発の新幹線に飛び乗る羽目になっても、不思議と冷静な自分は失わずに済んだ、と思い込んでいた。閉まった自動扉を背に息を吐いた瞬間、自分の手が震えていることに気が付くまでは。

 ホームから滑り出して、二時間と少し——たったそれだけの時間がものすごく焦ったくて、席に座っていられなかった。余計なことを考えてしまって、昨日から冷めたままの喉の奥のほうがさらに冷たくなっていくのがわかるのだ。まるで徐々に凍りついていくかの如く、呼吸が上手くできなくなっていく。そんな経験をしたことがなかったものだから、その得体の知れない感覚が怖くて、ずっとデッキで膝を抱えていた。モンスターのことも他のヒーローたちのことも西部の支部長のことも、はっきり言ってどうでも良い。真理子に会って、平静な自分でいられるかどうかがとても不安だ。

 新幹線の扉をこじ開けるように降りて改札を飛び出すも、右も左もわからず、適当に一番近くの出口から外に出てタクシーに乗った。病院の前まで行くと明らかにそわそわした様子の真理子が立っていた。

 彼女は自分が来るのを待っていてくれたらしく、姿を見るなり駆け寄って「ごめんね、葵ちゃん」と泣きそうな顔で再び謝ってきた。

「英斗は?」なぜ真理子が謝るのかと訊きたかったはずが、口からは違う言葉が出てきてしまった。

「大丈夫、寝てる……」彼女はコクコクと小さく何度も頷きながら、葵を落ち着かせてくれようとしている。「お医者様はね、心配ないって。寝不足で疲れが出たんでしょうって、擦り傷はいろいろあるけど、大きな怪我はしてない」

 真理子がこんな風に気を遣ってくれるだなんて、自分を鏡で見るのが怖い。やはり相当に酷い顔をしているに違いないから。

 しかし部屋までの道すがら、懸命に会話をしながら朗らかに笑おうとしてくれる真理子の手も震えているのは見過ごせなかった。先ほどからずっと体の前で両の手の指を組み合わせたり、掌を擦り合わせたり、忙しなく動き続けている。

「……真理子ちゃん、大丈夫?」静かなエレベーターの中で、葵が思わずそう訊ねてしまうほどに。

 真理子はしばらく黙って、やがて「怖かった」と声を絞り出した。いつもなら、大丈夫大丈夫と繰り返しながらニコニコと笑って親指を立てる真理子が、だ。

「だってね、葵ちゃん……——」ぱっとこちらを振り向いた真理子は涙目になっていた。「チーフ、すごい重たいんだもの。いっつもあたしに重い重いって文句言うくせに自分だって重くて、しかも何にも言ってくれないのよ? 目も開けてくれないし顔色悪いし息もしてないしあたしどうしたら良いのよって思って、そんな人初めてだったし……」早口で捲し立てる真理子はやがてぽろぽろと泣き始めたが、それでもその口は喋るのをやめない。「さっきまで普通に話してたのに、このまま起きなかったらどうしようって。葵ちゃんがいないところで、絶対死なせるわけにはいかないと思ったの。だから電話しちゃった、忙しいの、わかってたのに……」

「そんなこと気にしなくて良かったのに」

「ごめんね、葵ちゃん、ごめんね。大丈夫なのはわかってるんだけど、今も、ちょっと離れてる隙に死んじゃったらどうしようとか考えちゃって、怖くて……」

「ありがとう。真理子ちゃん」真理子の丸い背中を撫でながら、葵は心からの礼を述べた。真理子があの場にいなければ、おそらく川底に沈んだままだったろう。「真理子ちゃんが謝ることなんてないんだよ。ありがとう。真理子ちゃんがいてくれて本当に良かった。あの馬鹿のことは、ちゃんと叱っておくから」

 部屋の前まで案内してもらった葵はそう言って、家族をどこかに待たせているのだろう真理子を先に帰した。今の彼女は一刻も早く、自分が一番安心できる場所へ帰ったほうが良い。それに、正直なところ自信がなくて、この後どうなるのか想像がつかない自分自身を見られたくなかった。

 無機質な白い扉の取手がやに冷たく感じられた。中に入り、恐る恐るその寝顔を覗き見る。顔を近づけると微かに寝息が聞こえた。河辺の砂利で負ったと思われる裂傷を隠すように包帯が巻かれた右手に体温があることを確認した瞬間、一気に全身の力が抜けて床にへたり込んでしまった。

 腹立たしい。呑気な顔して眠りやがって。どんだけ心配させたら気が済むんだ、馬鹿タレが。

 なぜ自分がこんなに苛々しているのかよくわからない。真理子が電話口で「モンスターと戦ってシャイニーが川で溺れた」と言ってきた時は正直血の気が引いた。すぐにすべての事情を聞いたからその報告に語弊があるのもわかっていたし、大丈夫なのも知っていた。なのに。

 ああ、本当に腹立たしい。こんな余計な感情を抱くようになってしまった、自分が。五十年も生きていて、こんな瑣末な感情ひとつ満足に処理できないとは、みっともない。

「……どうしてくれんの……?」

 ヒーローは人間だ。怪我もするし、致命傷を負えばいとも簡単に死んでしまう。本当に脆い、ただの人間だ。

 桜なんかどうだって良い。こんな過去にしがみつくばかりのクソみたいな街なんて壊れてしまえば良い。そんなものよりも、もっと、ずっと大事なものがあるだろうに。

 でもわかるのだ。いくら言ったって、たとえどんなにクソだとわかっていたって、英斗は守ろうとする。だって彼は、根っからのヒーローだから。

 あの伝説のヒーローの子だから。

 思わず両手で顔を覆った。これから西部支部へ行って英斗がやり残してきた仕事を片付けてこなければならないのに、本当にどうしてくれよう。こんな状態で行って、何事もなかったかのように涼しい顔をしてやり過ごす自信がまるでない。

 空気を読まない英斗が今このタイミングで目を覚ますと本当に困る。自分自身、こんな風になったことがないから誤魔化し方すら知らない。早く落ち着かせて一旦外に出よう。こんな暗い場所にいるからこうなるのだ。

 もう行こう、この場を立ち去ろう、そう思うのに。

 この静寂の中、可愛い弟が立てる気持ち良さそうな寝息をもう少しだけ聞いていたいと思う自分がいるのもまたたしかなのであった。


* * *


 はじめは、真理子が呼んでいるのだと思っていた。とても遠く、水の音に紛れて微かに耳に届いてくるそれは、夢のものなのか現実のものなのかも区別がつき難く、何と言っているのかもよく聞こえない。ただどういうわけか、自分を呼んでいるのだということだけは認識できて、そして何となく自分のとても好きなその声は泣いているようにも聞こえた。だから早く返事をしないといけないと焦っているのに、自分は声を出せない。たぶん水に沈んでいるせいで、出そうとしても体から出ていくのは空気ばかりで音にならないのである。

 息が吸えないから苦しくて、でも苦しさが増すほど聞こえてくる声は鮮明になっていく。そうして、あれはどう考えても真理子ではないと確信を持つ。だいたいのうちから真理子は自分のことを「英斗」とは呼ばない。

 じゃあ、誰——?

 呑気に疑問符を浮かべている自分の他に、ひどく焦っている自分がいる。早く起きろ、こんなところで寝ている場合じゃない。

 なぜ? そもそも、どうして自分は寝ているのだっけ?

 ああ、そうだ。不味そうなタコみたいなモンスターと戦って、川に入ったのだ。そうしたら上がれなくなっちゃって、でも——そう、あれはたぶんマリーだったと思うが、彼女の姿が一瞬だけ見えた。浮上できなかったら迎えに来てとは言ったけど、半分冗談のつもりだった。でも本当に来て、別に良いじゃん、放っておけば、危ないのに、相変わらず馬鹿な奴って思ったけど、でもなんだか嬉しかったりもして、もうあとは任せようと決めたら急に意識が飛んでしまったんだ。だって昨日も今日も寝ていなくて、本当に疲れてしまったんだもの。

 ——早く起きて、返事をしろ。

 そんなことを言われても、本当に眠くて眠くて瞼を開けられない。体は怠いし最悪だ。老化って嫌だなァとつくづく思うのは、こういう時。

 それにたぶん、というかほぼ確実に、起きたら怒られる気がする。()()()はしたら駄目だと言われた記憶があるが、自分はその言いつけを破って川に入ったのだ。絶対に怒られる。


 ——誰に?


 誰がそんなことを言って、誰が怒るんだっけ?

「英斗」

 その声に反応して、薄らと目を開ける。既に日が高く高く昇っていることは、部屋の明るさから感じられる。衛生的な空間の臭いが鼻をつく。ぼんやりする世界の中で「おはよう」とはっきりと聞こえたのは、夢の中でずっと自分を呼んでいたのと同じ声だった。

 ふと自分は今どこにいて、これは誰の声だっけ、といまだ動きの鈍い頭で考える。徐々に覚醒してくる意識の中で、漸くその答えを探り当てた時、同時に違和感を覚えた。夢と現実の狭間を右往左往して、やっとのことで現実のほうに辿り着いたと思ったが、自分の記憶と整合しない現実は果たして本当に現実なのかという新たな疑問が瞬く間に生まれる。

 だが、ピントが合ってクリアになった視界にやはりその声の主は存在して、上から自分のことを覗き込んでいる。何度瞬きをしても消えたりしない。そうなると、間違っているのは自分の認識のほうなのだろうか。

「……え? なんで葵がいるの?」声が掠れてうまく出ない。冷たい川の水を吸ってしまったためか、まだ気管支が痛む。

「お迎えに来て差し上げたのよ、『お(ひい)様』」

 優しさなんてものはひとつまみも入っていない純度一〇〇%の嫌味を浴びせられ、そこにいるのが本物の葵だとわかる。が、平然とそこに立っている葵は今頃本部にいて、こんな遠く離れた西の病院になどいるはずがない。

 懸命に起き上がると全身が筋肉痛で軋む。ストレッチもしないで眠りこけていたせいだと痛感する。

「なんで……? 真理子は?」

「先に帰った」

「は?」状況がまるでわからず混乱はさらに深まる。「帰った? え? なんで?」

「入れ替わりに私が来たの」

「なんで?」

「真理子ちゃんがそうしてって言うから!」

 葵は少し苛ついているのか、急に声が大きくなって驚いた。

「……ったく、あんたがぶっ倒れてたのはただの寝不足が原因だし、一応調べてくれたけど異常はないから、起きたら帰って良いって」流れるように話しつつ、葵は部屋の隅から見覚えのある鞄を引き摺ってくる。「ホテルも引き上げてきたから。はい、荷物これね。忘れ物はないと思うけど一応中身確認してね? ああ、着替えがいる? 化粧は? するの?」

「え、っと……」

「あと会議は代わりに出ておいてあげたからね、もう支部も行かなくて良い。支度ができたらこのまま帰るよ」

 質問しておきながら答えも待たずにツラツラと喋られてしまったが、寝起きの、しかも混乱中の頭ではまるで理解が追いつかない。情報過多でパニックにならないようにするのが精一杯で、もう少しゆっくり説明してと頼む余裕すらない。ただ、葵がとても不機嫌であるということだけは十分に伝わっている。

 ベッドの上に座ったまま狼狽えるばかりで言葉すら発せない無様な姿を見た葵は、呆れて溜息を漏らした。

「あのねェ……——」葵はニコニコしながらベッドの縁に腰掛けると、突然力一杯に胸を突いて押し倒し、驚いて何もできない間抜け面を見下ろしながらすぐ横に右手を突き立てた。「忘れてるかもしれないけど、私も一応『統括(チーフ)』なの」

 臨時体制が長引いているせいでおかしな状態になってはいるが、たしかに葵は部署違いの同格——しかも就任したのは自分よりもずっと前だから、同格であっても正確に言えば立場は葵のほうが上である。

「他所様のところで好き勝手してくれちゃって。大変だったんだからね? 新幹線駆け込んで、会議出てあちこち謝ってさあ!」

 だから呼ばれたのだ。表の統括が機能しなくなったから、裏の統括が出てきた。真理子が呼んだのもあるだろうが、状況がわかって支部の会議に出られる立場の人間は葵しかいないから。

 他人の尻拭いなんて一番嫌な役回りをするために。

「ご、ごめん……」

「気を付けてって言ったのに! 馬鹿タレ!」

 語気は強いがまだ丁寧なので本気で怒っているのではないことはわかるが、何を考えているのか読めず、それがまたさらに頭を混乱させる。なんで? 自分が知っている葵と違う。怒っているはずなのに怖くはないし、よくわからないが哀しそうにも見えてこっちが苦しい。こんな怒り方をされた経験がないから、何と返せば良いのかもわからないし、どうしたら良いのだろう。

 西に来るのが嫌だった? 忙しいのに遠くまで呼びつけられたから? 他人の残務整理なんてやりたがる人間はいないし、それは本当に申し訳ないと思っているが、それで怒っているにしては何か違和感がある。朝早くに叩き起こされて寝不足だから不機嫌なのか、それとも朝食を食べ損ねてお腹が減っているから機嫌が悪いの?

 考えるほど理由は山のように湧いて、わからなすぎて本当に泣きたい。

 葵が怒っているのは嫌だ。だってすごく怖いんだから。でも今日のは違う。これだったらいつもみたいな怖い葵のほうがずっと良い。こっちの葵はなんだかすごく嫌だ。見ていて自分自身がすごく苦しくなる。

「ごめん、ごめんなさい、迷惑掛けて……」

「そんなことはどうだって良いの!」

「ごめん、怒らないで」

「怒るよ! あんたなんで私が怒ってるのかわかってないでしょ!」

 葵はどんなに怒っていても自分のことを殴ったことは一度もないが、もしかしたら殴られるかもしれないと思うくらいの気迫があった。でも不思議と、全然怖くはない。

「……全部聞いたの。真理子ちゃんからも、西の子たちからも」影になっているせいだろうか。葵の珍しく真剣な顔つきは、どこか泣き出しそうにも見えた。「勝手するのは良いけど、一歩間違えばあんたが死んでたの、わかってる? あのモンスター相手の時は水辺はダメって私言ったよね? なのに、わざわざ自分から川に入る奴がある? あんたの死体を引取りに来る羽目になるとこだったのよ⁉︎」

 葵の顔がすぐ近くにあるから、彼女の吐く息が震えているのはすぐに感じた。こちらを見下ろし、影が落ちた表情の中で、その瞳だけが水面のようにゆらゆらと光っている。

 怒っているのではないのだと、漸く理解する。

 もうほとんど覚えていないけれど、ずっと遠い昔にもこんな風に、自分のことを想ってくれた人がいたような気がして、やはりどうにも、息をするのが苦しい。

「……ごめん。葵」

 自惚れているだろうか。

 疲れているだろうに、寝起きの街で新幹線に乗り、彼女だって得意じゃないはずの西部の街までやって来て、会いたくもない面々と出たくもない会議に出て頭を下げ、わざわざ宿に出向いて他人の私物まで回収して、寝不足で爆睡しているだけの自分のことを心配して待っていてくれただけ——ただ、それだけだったのではないか。

 自分にそんな価値があるのかもしれないなどと考えてしまうのは、思い上がりだろうか。

 やっと、自分が何を言いたいのか、わかった。

 目が合っていたから一瞬でそれを読まれた気がしたが構わない。それでも口で言いたいと思った。だが意外なことに、それで先に顔ごと視線を背けてしまったのは葵のほうだった。

 ハッとして、立ち上がろうとする、その一瞬前、顔の横に突いていた彼女の右手を掴んだ。もう片方の手で彼女を無理矢理引き寄せる。

「ごめん。大丈夫だから」自分だけ好きなように言いたいことを言っておきながらこちらには最後まで言わせてくれないなんてズルすぎる。「大丈夫だから、葵。お願いだから、そんな顔して怒らないで」

「……」

 普段なら葵のことを小柄だなんて思うことはないのに、こうして腕の中に囲んでいるととても小さく感じる。戸惑っているのは十分すぎるほど伝わってきたが、頷いてくれるまで放す気はなかった。彼女の顔を見ないようにしたのは自分なりの気遣いのつもりだ。

「ありがとう。もう、わかったから。僕が悪かった。葵がそんなに心配するなんて、思ってなくて」

「……」

「ごめん。迎えに来てくれて、ありがとう」

「……」

 どれほどの間、そうしていたのかわからない。葵は腕の中で黙って息をしているだけだったが、体が冷えているのが服の上からでも感じられた。それほどに長い間、ここで目覚めるのを待っていてくれたのかと考えると、もはや「ごめん」などという安い言葉で許しを乞うこと自体、申し訳なくて何も言えなくなってしまった。

「……本当に何ともない?」

 やがて彼女は消えそうなくらいに小さな声で訊ねてきた。

「うん」

「二次溺水ってのもあるんだから少しでもおかしかったらちゃんと言って」

「うん」

「すぐだよ? あんたそういうの言わないけどちゃんと言って。わかった?」

「うん。言う」先ほど掴んだはずの葵の右手が、いつの間にか自分の左手を握ったまま離してくれなくて、とても温かい。「ちゃんと言うから。すぐ」

 葵はそれを聞くと、何かを鎮めるように一つ深くて長い息をした。体を捕まえていた腕の力を解いても、葵はそこに座ったままだ。

「……感謝してたよ。西を守ろうとしてくれたこと」

「え?」

「それは伝えてって言われたから」

 誰が、とは言わなかったが、何となく察した。そんなことを言うような人だと思っていなかったから驚いたが、悪い気はしない。

「……あの子たち、どうなった?」

「元気にしてたよ。あんたが男だったってことは、トラウマ級の衝撃みたいだったけど」

「あー……」毎度隠しているわけではないのだが、それは麗しき乙女たちに申し訳ないことをした。人間不信にならないことを祈るしかない。

「中央はおかしな奴ばっかだって。私まで変人扱いじゃん。どうしてくれるの?」

 葵は不服そうに左腕で腹の辺りをど突いてくるが、それは強ち間違いでもないのでは、と思いつつとても口には出せない。

 古都に破損はなく、一般人もヒーローも大きな怪我なく済んだのは幸いだった。中洲の大桜については、詳細な調査はこれからではあるものの、現段階では目立った外傷は見られず、おそらく来年も問題なく咲けるだろうとのことだった。が、やはりそれは結果論であって、一部からはあの桜を傷つける可能性のある戦法を取ったことについて、早くも非難する声が上がっているらしい。

 それならば良かったと言って喜ぶべきところなのだろうか。余計なことをしただけだったかもしれない。何とも中途半端で、情けない結末。自分が手を出さないほうがより良い結果が生まれていたかもしれないし、葵ならもっとうまくやったかもしれない。

「大丈夫」どう反応したら良いのか迷っていると、ふっと顔を上げてこちらを向いた葵と再び目が合った。「あんたが守りたかったものは全部ちゃんと守れてるよ」

 葵はそう言って目を細めた。その顔を見ていたら何ともむず痒い気持ちになり、思わず布団の中に潜り込んだ。

 頭から布団を被っているとその上に葵の手が乗ってきた。

「何にもなくて良かったよ、英斗。よく頑張ったね」

 仕返しされているのだろうか。何だかいろんなものが溢れてしまいそうで困った。小さい頃から葵の手が頭に乗っているのはとても好きなのだが、嬉しそうにしているのはどうかと思うし、とにかくこそばゆくてかなわない。頬は(ほて)って冷める気配がないし、どうしたら良いのだろう。

「……子ども扱いしないで」

「いつまで経っても世話の焼けるクソガキじゃない」必死に探して返した言葉は、馴染みの意地悪な葵に簡単に一蹴されてしまった。「子どもじゃないんだったらねェ、こんなとこまで迎えに来させるようなことするんじゃないの。このあとラーメンとお土産たんまり奢ってもらうんだからね、覚悟しといて」

 頭に被った布団を剥ぎ取られまいと必死に応戦していたのに、吹き出した一瞬の隙に奪われてしまった。

 呆れた。本当にこの人には敵わない。

「アンタって本当、安い女ね」




 想定が甘かったというのはその後、病院を出てすぐに思い知った。ラーメン屋を三軒ハシゴして、土産物を大量に買わされ、荷物持ちまでさせられた。「これは真理子ちゃん用」と葵が珍しく悩んで選びきれなかった漬物が重くて仕方がないし、いつ食べるのか知らないが巨大な食パンまで買わされた。どうやら西で訪ねたい店のリストが存在したらしく、絶対自分が旅行に来たかっただけじゃないか、という台詞を幾度となく喉元ギリギリで堪えた。

 そうしてすっかり夜の帳が下りた頃、最終の新幹線に乗り遅れるからとやっとのことで駅まで連れて戻ってくると、来た時と同じように菖蒲と山吹——そして二人の間に柳が立って、改札前で待っていた。

「やあっと来はった……何やその荷物は」

 菖蒲はこちらを認めるなり怪訝な顔でドン引きしている。その感想が出るのは至極当然であろうと思うので反論はしないが、これが全部自分のものだとは絶対に思われたくない。

 買ってもらったの、と身軽な葵は横で嬉しそうにしているからまだ良いが、代わりに両腕に大量の、それも特大サイズの紙袋を提げているチーフを菖蒲と山吹は暫し舐めるように見ていた。この姿がとても格好良いと言えないことは重々理解しているため、穴があったらすぐにでも入りたい。しかもこのタイミングで討伐の時のやり取りや、そういえばこの二人は既に自分が男であることを知っているのだということまでも思い出してしまい、気まずいことこの上ない。

 あの桜の樹のこともある。大きな問題はなさそうと言うから良いものの、それが確定しているわけではない。自然のものは人間の手には負えない。必ず咲くという保証はないし、余所者の分際で彼女たちの制止を無視して、怒られても文句は言えない戦い方をしたのも事実だ。あの時はあれが最善と思って行動したが、今になってみれば本当にそれで良かったのか、考えるだけで胃が痛い。

 バツが悪すぎて俯いていると、三人は交互に顔を見合わせて小さく笑い、やがて代表して菖蒲が口を開いた。

「おおきに」

 それは、とても意外な一言だった。驚いて顔を挙げると、菖蒲の表情は朗らかで、決して不満があるようには見えない。

 が、考えが及ばず呆然と立ち尽くすばかりのチーフに痺れを切らした菖蒲は、急に体の前で両腕を組んで怒り始めてしまった。「何や、そないな……しゃんと気張りなはれ! あんた統括やろ」

「菖蒲」柳が苦笑いしながら嗜めている。

「せやかてねえさん、こないに頼りのうなってしもて……うち、詐欺にでも遭うた気分やわ、あないに図々しかったんどないしてん?」

「王子様みたいやったわあ」山吹は相変わらずふわふわと掴みどころがなく、微かに紅みの差した頬に両手を添えて嬉しそうに微笑んでいる。咄嗟のことで何の気遣いもなく放り投げてしまったのは覚えているが、見たところ怪我もなく、元気そうなので安心した。「おおきに」

「……ほんまに、おおきに。ねえさん」

 柳が寂しそうに微笑みながら、真っ直ぐにこちらを見ている。完璧な勘だが、本当はその先に何か言いたいことがあるのではないかと思った。

「『泣き虫ちゃん』」

 ふと思い立ち、懐かしい名前で呼んでみたらば、それまで落ち着き払っていた柳はスイッチが押された人形のように急におたおたと慌て始めた。初対面の時の印象から付いた、愛称だ。すぐ泣くし、着こなせていない緑色のヒーロースーツが芋虫みたいだったから『泣き虫芋虫』が正式呼称であるが、芋虫なんて嫌、と言うから省略して『ちゃん』を付けてやったのである。

「も、もう泣き虫やおへん!」

「そう? アタシが東に帰る時もわんわん泣いていたくせに」

「ねえさんッ! せ、せやからそれは、この子らぁの前では内緒て言うてはりますやろッ!」

 頬を赤くしながら必死に首を横に振る。何も変わっていない。初めて自分の前に現れた十余年前のあの日から、何も。

「ねェ」葵が肘で突いてくる。「あんた、西でもそうやって意地悪してたの? 自分が虐められても文句言えないじゃない」

「だって本当のことよ?」いつの間にか、すっかり立派な成虫になってしまったが、昔々は本当にすぐ泣いてしまう可愛らしい芋虫であったのだ。

 菖蒲と山吹はそんな彼女の様子をくすくすと笑いを堪えながら横で見ている。おそらく、あの時の姿が容易に想像できたのだろう。

「引退するの?」

 こちらで柳のことを見た時から、ずっと引っ掛かっていた質問だ。

 柳は驚かなかった。菖蒲は思い当たる節があったのか、ほんの僅かに目を見開いて、それから奥歯を噛み締めながら下を向いた。

 観念したように、少しだけ微笑みのままに視線を下げ、短く息を吐く。「……何でもお見通しやなあ、ねえさんは」

「柳ねえさん、ほんまなん?」

 山吹は柳の顔を覗き込みながら訊ねている。菖蒲は何となく感じ取っていたのだろう。ぐっと口を噤んでいるが、その表情は複雑だ。

「……うちももう三十二になりますさかい、ええ頃合いやと思うて……この子らぁもしっかりしてはりますし、うちなんかが心配せなあかんようなことは、何にもあらしまへん」

 そう話しながらも柳は、せやけど、とすぐに言葉を繋いだ。その顔を見ていれば何となくそうするだろうと予想がついていたから、特に驚きはしない。

「ねえさんらぁ見てたら、もう少し、気張りとうなりおした」

 柳は清々しいほどにサッパリと笑ってそう言い切った。数年前、西部を出る時にはみっともないくらいに泣いていたから、本当に久しぶりにちゃんと笑った顔を見た気がする。

「お気張りやす」

「へえ。おおきに、ねえさん」くりくりと丸い瞳が煌めいている。「また会いとおす」

「そのうちね。今度はアンタが東に来なさいよ。もう西は勘弁して」

 みんなに笑われたが、結構本気なのである。

「本当にうちの統括(チーフ)が、お世話になりました」

「ねェ、やめて」仰々しく頭を下げる葵がこれ以上何かする前に止めたいが、両手が塞がっていてもどかしい。「……こちらこそありがとう。皆によろしく伝えて。支部長にも」

 最後の新幹線の時間が迫っているため、もう立ち話もしていられない。簡単な言伝だけを頼み、改札をくぐる。階段を上がりながら、新幹線がホームに滑り込んできた音が聞こえ足が慌てるも、両腕の荷物が重くて思うように走れない。

「桜庭統括‼︎」

 その時、聞き慣れた東言葉が背中から聞こえて、思わず半身を翻した。改札口の端で、こちらに身を乗り出して叫んでいるのは菖蒲だ。「マリーねえさんに、よろしくお伝えください!」

 なぜ、彼女が東の言葉を綺麗に話すことができるのか、わからない。ただその言葉は、必ず伝えてやらなくてはならないものだと何となく思った。

 三人は人混みの真ん中で子どものように大きく両手を振り、姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

 発車のベルが鳴り響くホームに上がり、一番近くのドアから新幹線に駆け込むと、背中ですぐに扉が閉まった。葵はさっさと席を探しに行ってしまったが、自分は荷物が多すぎてうまく歩けない。漸く通路で手を振る葵に追いつくと、彼女は無言で買ってやった紙袋の中から土産の菓子をいくつか席に放り出して、残りを荷棚の上に全部載せてしまった。

「窓側は譲ってあげるよ」と彼女が言うので、特に考えもなく二人掛けの奥側に入ってしまったが、これが間違いだった。

 あんなにラーメンを食べてきたばかりなのに、葵は席に座った途端、テーブルを出して菓子折りを並べると、順番に開封して食べ始めた。甘いものは別腹とはよく聞くが、それにしても食べ過ぎではと少し心配になってしまう。

 それに、なんだか先ほどから葵から不機嫌なオーラが漂っていて気が気じゃない。これが美味しいとか、こっちのほうが好きとか、言っているその様子は普段と変わらなく見えるのに、何かが怖い。

「……あのさ、葵。何か……怒ってない?」

 勇気を出して訊いたのに目も合わせてくれない。絶対怒ってる。なぜだかわからないけれど。

 ただ黙々と食べ続けて、途中で車内販売に来たおねえさんから珈琲まで購入させられて、好きだと言った八ツ橋の箱が空になる頃、漸く葵はその沈黙を破った。

「あの黄色い子、可愛いかったね」

 あまりにも唐突で、最初何の話をしているのかわからなかったほどだ。

「黄色い……って、山吹のこと?」たしかにあの子は背も小さくてハムスターみたいだし、『美人』とか『綺麗』とかいう表現よりは『可愛らしい』が似合うタイプだ思う。ああいう女の子が好きだという人は多いのではなかろうか。

「なァんか西の人たちってみんなこう……何て言うの? 気品があるっていうかさ、柳さんは綺麗だし、菖蒲さんも凛としていて」

「うん、そうね。けど、なんでそんなことを?」

 そう返してから、少なくともこの回答だと不正解なのだと気付く。だって葵の顔色に変化がないから。

「……もういいわ」溜め息と共に彼女はそう呟いて、こちらを見向きもせずに八ツ橋の空き箱を潰している。

「え、待って、良くない。どうしたの?」

「良いの。あんたに訊いた私が阿呆だった」

「なんでよ?」チーフがその手を制して空き箱を取り上げてしまうと、それはそれは不機嫌そうな目つきで睨まれ、思わず怯んでしまった。「ご……ごめん、だって、何て言ったら良いのか……『葵のほうが可愛いよ』なんて台詞聞きたくないでしょ?」

「やめて、キモすぎなんだけど」

「ほらね……」はなから言うつもりなど毛頭なかったが、拒否するにも言い方というものがある。「言ってくれないとわかんないよ」

 葵は珍しいくらいに不逞な態度で、結んでいる自分の青色の毛先を指先で弄んでいる。

「……なんでいつもみたいに『アタシには敵わないけどね』とか言ってくんないの?」

 その尖らせた口で渋々発したのがそれで、チーフは呆気に取られてしまった。おそらく、それもきっと彼女には気に入らなかったのだと思う。

「はぁあ、つまんな……ま、実際可愛いもんな。『王子様みたい』だってさ。聞いた? 昔の黄色いあんたを思い出すよねェ。何だったっけねェ? あんたの()()()()

 突然彼女の口から禁断の昔話が飛び出して血の気が引いた。今にも心臓が止まりそう。「え……、急に何、やめて——」

「なァんか美味しそうな名前だったよねェ?」葵は平然とリクライニングを倒して寛いでいる。「周りから散々ボロクソ言われてすんごい気にしてたのどこの誰だっけ?」

 背中を汗が伝っていく。一つずつ疑問符が付いてこちらに投げかけてはいるものの、本人は全部鮮明に覚えている。そう顔に書いてある。

「葵、その話やだ——」

「私は、ちゃあんと覚えてるよ? あの()()()色のかぼちゃパンツ」

「お願い、やめてよ……」両手で顔を覆った。本当に泣きそう。でも葵は全然やめてくれる気配はなく、左腕の先でツンツンとつついてくる。

「アレ可愛かったのにねーェ。可愛いっていうのはね、ああいうのを言うの。私とお揃いの髪型しちゃってさ、口下手でツーンとしちゃってて。私ちゃんとぜぇんぶ覚えてるわよ。アレに戻るのも悪くないと思うけどねェ」

「や……、ヤダ、やめて、それは嫌だ」懸命に首を横に振って訴える。「本当にやめて、お願い」

 顔面蒼白で必死になって頭を振っているチーフを横目に、葵は余裕の表情を浮かべて鼻で笑っている。しまいには、はんなりと垂れた左の袖口でふわふわと頭を撫でてくる始末だ。

「あんたがいっくら必死に隠そうとしたって私が吹聴して回ったらおしまいねェ。帰ったら真理子ちゃんにでも言いつけておこうかしら」

「やッ、ねェお願い、それだけはやめて、本当にお願い、——」

「うるさい」まるで鋭利な刃物だ。加えてその冷え切った目で睨まれるともうどうしようもない。声も出せないし、身動きも一瞬で封じられてしまう。「もう私寝るわ。あんたのせいで寝てないんだから。着いたら起こしてね」

「え、寝ないで、待って、——」

「静かにして。おやすみ」

「ねェ待って、待ってよ! なんで怒ってんの、葵ぃ……」

 この状態であと二時間近くもここから逃げられないだなんて、想像しただけでゾッとする。お土産も、ラーメンも、気の済むまで買ってあげたのに全然機嫌が直っていないじゃないか。もう何十年も一緒にいて、葵のことなんてたいてい何でもわかると思っていたのに、今回のことで自分は全然彼女のことを理解していないことが身に染みた。

「ごめんって。もう許してよ……」

 聞いているのかいないのか、彼女は目深にフードを被って寝ており返事もしてくれない。フードの下から僅かに覗く彼女の口元がほんの少しだけ笑っているように見えたが、訳がわからない。

「……」

 徐ろに、足元の鞄の中から小さな茶色い包みを取り出した。今回西に来ることが決まった時、これが唯一、西へ行くのも悪くないではないかと自分を説き伏せることができる理由だった。本当はもっとじっくり探す予定だったのに、モンスター騒ぎのせいでまったく時間がなくなって、仕舞いには葵が直々に迎えに来てくれてしまったものだから探すに探せず、結局葵に街中を連れ回されている隙に何とか見つけて購入したものである。

 買ったは良いが、実際いつこのカードを切れば良いのかと思っていた。どれほどの効力があるのかまるで未知だが、考えた末、そっと葵の肩を叩いた。

 何度か叩いて、痺れを切らした葵が怒って起き上がった。「ねェ何なの⁉︎ 人の睡眠を邪魔しないで——」

「……ッ、……」ふと、突き返されるかもしれないと思ったら何も言えなくなった。効力は必ずしもプラスに働くとは限らないのだ。

 葵の視線は差し出された包みとチーフの顔とを行ったり来たりして、最終的に怪訝な目をチーフに向けた。「……何?」

「あ、げる……」

「何? 食べ物?」

「食べ物じゃないよ……」この上まだ食べ物とは、毎度のことだがその体のどこにそんなブラックホールを飼っているというのだろう。

「……」恐る恐る包みは受け取ってくれた。「……開けて良い?」

 頷いたら、顔が上げられなくなった。心臓が止まりそうだった。葵が包みを開ける音が聞こえている間、トイレに逃げ込む自分を何度も想像した。

 やがて。

「わァ、可愛い!」

 葵が高い声を上げる。「(かんざし)? え、もらって良いの、これ?」

「うん、あげる……」

「ありがとう! いつ買ったの? 私が来る前?」

「……さっき……」葵が漬物屋で真理子の土産選びに悩んでいた時だ。一瞬だけ場を抜け出して買いに行ったから、知るはずがない。

「英斗が選んでくれたの?」

「……そうだよ」

 でも、今になってよく考えたら、やっぱりやめておけば良かったかもしれない。簪なんてあげても片手でその長い髪をまとめるのは苦労するだろうし、そもそも葵は髪の毛どころか身体中のどこにもアクセサリーの類を付けない。昔から付けているところなんて見たことがないし、スカイ・ハークに変身した時だってそうなのだ。だからこんなものをあげてもかえって困らせるだけなのではなかろうか。

 できるなら渡す前に時間を巻き戻したい——返事をしたきり黙り込んでしまった葵の顔を見るのが怖くて、おっかなびっくり視線を上げていく。と、そこにあったのは、右手に握りしめた簪を満面の笑みで見つめている葵の姿だった。

「……」

 見たことのない種類の笑顔だったが、おそらくとびきり喜んでくれているのだろうことは察した。

「ねェ!」

「は、はい」

「つけ方教えて? 練習するから」

「え、い、今?」

「はい!」目深に被っていたフードを後ろへやると、いつもよりほんの少しだけ紅い頬の上に三日月のような目があって、あげたばかりの簪を勢いよく差し出してきた。細い軸の先に付いている青色の蝶々の飾りがゆらゆらと揺れている。受け取ると、葵はくるりと背中を向けて大人しく座った。

「……何しても良いの?」

「良いけど変なのにしたら許さない」

 相変わらず無茶苦茶なオーダーをしてくる奴だ。が、今日はこちらが怒らせている側なので不服申立ての機会はない。

 何の飾り気もない髪ゴムをそうっと外す。彼女にできるやり方は今度教えるとして、今日はとびきりの表情に似合うとびきりのやつにしようと思った。

 トンネルに入ったせいで、通路を挟んで反対側の席の窓に、上機嫌な葵が映っているのに気付いて急に手が震え出す。葵は黒い髪が綺麗だからきっと似合うだろうと思ってはいたが、なぜいつものように髪を結っているだけなのにこうも緊張するのか甚だ疑問だ。

「……はい、できましたよ。お(ひい)様」

 そう告げると、葵は即座に席を立ち、いそいそと化粧室のあるデッキのほうに行ってしまった。そしてしばらくした後戻ってきた彼女の目は爛々として、弾む声が大きくならないよう袖口で口元を抑えていた。

「よく見えないけど、なんかすごい!」

「すごいのにしたの」目と鼻の先でそんなにも嬉しそうにされるとこっちが恥ずかしくなってしまう。「……機嫌、直してくれた?」

「それとこれとは別の話ね」

「……」

「冗談だよ」と戯笑する葵に、やはり蝶々の簪はとてもよく似合っていると思った。嬉しそうに頭を振る度に、頭にぶら下がる小さな青い蝶が舞う。「ありがとう。大事にする」

 やはりその顔を向けられるとむずむずして痒い。まともに見ていられなくなって、目を逸らした。

 後ろからわかるように写真を撮ってとせがむので、携帯のカメラで撮影してやったら、それを見てまた子どものようにはしゃいで、あれほど寝不足だと文句を言っていたはずが、その後は一瞬も眠ることはなかった。

 そんなことをしていたら、遠いと思っていた東までの道のりはあっという間で、気付けば見慣れた景色の中に戻ってきていた。

 もしかして、これまで幾度となく見かけてきた修学旅行生のあの楽しそうな表情はこういうことだったのかもしれないと、ふと心の中で思った。



To be Continued...

 作者です。ここまで長々とお付き合いくださいました皆様、ありがとうございます。漸く折り返し地点でございます。この話は既に最終話まで書き終えており、ここから先も淡々と更新してまいりますので安心してお付き合いいただければ幸いです。

 さて、ここから先はかなり険しい山道となってまいりますので、時折気晴らしに、子ども向けの『ヒーローずかん』の内容を少しご紹介していきたいと思います。

 ——どんなものかって?

 そうですね。例えば、このような。


◆ハッピー・シャイニー(8ごう)

 〜捧ぐは太陽 照らせよ暗晦

   煌めけ あなたに無限にハピネス〜


 しあわせいろを まとって かけまわり

 みんなに ハッピーを とどける

 たいようの けしん


☆いろ オレンジ

☆ねんれい 30さい

☆おおきさ 164cm

☆おもさ ないしょ

☆とくぎ かけっこ

☆すきなたべもの おにぎり

☆きらいなたべもの ない



 こちらは三十年ほど前の情報のようです。

 本物の『ヒーローずかん』は可愛らしいイラストで溢れているようですが、小生、絵心皆無ですのでこちらにイラストはありません。ご容赦を。

 ちなみに、ずかんに載っているのはヒーローとしての公式情報であり『設定』なので、時々嘘も混じっているとかいないとか。

 ここからは時折、このような抜粋をご紹介していきたいと思いますので、併せてお楽しみにしていただければありがたく存じます。それでは。


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