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第六話 西の英雄(3)災厄の日

この話には『東』『西』『南』『北』という地方の、それぞれの特有の言語(方言)が登場しますが、実在する地方ならびにそこで使用されている言語とは異なる、この物語の世界独自のものです。あらかじめご承知おきください。

 現在より十年前——チーフが西部支部へ赴任してから一年ほどが経った頃のことだ。

 チーフの正体が男性であるということを知っても、西部支部長——一平はなぜかチーフのことをよく可愛がってくれた。女にしか興味はない、と他の男性職員のことは冷たくあしらうくせに、お役所巡りやら街の巡回やら、時には復興対象外エリアの視察やお偉いさんとの会食まで、事あるごとにチーフを同行させてあれこれと教えてくれた。「今週は暇だから歴史の授業をしてやる」などと言い出し、突然社会科見学ツアーを開催して西部の歴史や重要文化財のことを教えてくれたこともあった。

 なぜだろうと不思議には思いつつも、部下の教育には熱心なのかもしれないと考えたり、或いは使い勝手の良い小間使いを養成しているつもりなのかもしれないとも思えた。いずれにしても何も知らない余所者の自分にとってはありがたい話であることに変わりはなく、おまけに夕飯まで付いてくるのだからメリットのほうが多かった。もっとも、男性であることに気付いていない周囲からは支部長の新しい愛人だと噂になっており、それについては一平本人からも直接謝られたが、正直なところどうでも良かった。

 やはり見た目が女に見えていれば関係ないのだろう、という結論でその疑問に自分の中で折り合いをつけた頃、どうやらそうではないらしいということを知った。

 一平はほぼ毎晩のようにどこかで飲み歩いているようではあったが、それほど酒に強いわけではなく、一緒に食事をしていても浴びるほど酒を飲んでいる印象はないし、泥酔するなんてことはまずなかった。が、その日の彼は朝から何かが少しだけ違って、昼間珍しく一人でどこかへ外出していたかと思ったら夕方頃にふらりと戻ってきて、飲みに行こうと誘われた。その時点で、今夜この人は潰れるだろうと予感した。

 理由は訊かなかった。どこに行っていたのかも訊かなかった。予感は当たり、チーフがご飯を食べ終わる頃には、彼は店のカウンターに突っ伏して寝ており、顔馴染みの店主が「珍しい」と驚いていた。少し酒を飲んだだけで顔が赤くなるのはいつものことだったが、何となく今日のは、それだけではないような気がした。

 幸い、引き摺って家に帰すくらいの力は素の状態でもあるので、店を出て、呼んでもらったタクシーに放り込み、運転手に一平の自宅の住所を告げて出発してもらった。以前、中元を送りたいからと聞いておいた住所がまさかこんなところで役に立つとは。

 半分以上寝ているのに帰巣本能はあるのだろう。マンションの下でタクシーを降り、引き摺られつつもきちんとその足で自宅まで辿り着き、ポケットから鍵を出して勝手に開けて中に入っていった。足元が覚束ず、どこかに頭をぶつけやしないかと心配だったので、自力でベッドに入るまでしばらく遠目に見守ることにした。が、まもなくして途中のソファにダイブしてそのまま眠り込んでしまった。

 決して寒い季節ではないはずなのに、なぜだか部屋の中がどことなく冷たいと感じ、申し訳ないが勝手に室内を物色させてもらい、何か掛けるものを探した。一角にあったカラーボックスに、写真と位牌が並んで置いてあるのを見つけたのはその時だった。暗い空間の中で、不思議とそこだけが浮いて見えた。

 顔を少し近づけると、写真の中で微笑んでいるのは明るい雰囲気の女性だった。優しそうというより溌剌として元気の良い人なのではないかと感じた。それはもしかしたら彼女が纏う黄色いヒーロースーツのせいかもしれない。

「……」

 目鼻立ちのはっきりとした、和美人。普段、一平が声を掛ける女性たちとは種類が違う——どちらかと言えば真逆に近いタイプだと思った。そしてその隣で彼女の肩を抱き、幸せそうな笑顔を浮かべている赤いヒーロースーツの男性は、かなり若いが、間違いなくそこで転がっている一平だ。

 ツーショット写真の横に位牌があって、二人のうち一人は生きているのだから、これはおそらく彼女のものだろう。

 まさか、一平がヒーロー上がりだったとは知らなかった。街の歴史や女については煩わしいほどに喋るくせに、そういえば自身の歴史はほとんど聞いたことがないと気付く。一平は普段からよく大口を開けて豪快に笑っているが、この写真に写っている彼のような笑顔は、一度も見たことがなかった。

「決戦が終わったら、結婚しよう思うとってん」

 眠りこけていると思っていた一平が、そこに立っていた。「今日でちょうど、二十年経つんや。まだ二十二やからな。俺もええ男やろ?」

 ふらふらと寄ってきて、こちらを一瞥することもなく、写真立てを手に取る。そして、愛おしそうな目でそれを眺めては、撫でる。その手はゴツく、見るからに硬そうで、古い傷が目立つ。

「……ええ女やったんやで」

 浮かぶのは女の話をする時とも、自分を誘ってきた時とも、他の誰かを口説く時とも違う、真に愛しき者を見る、本物の目。

 覚醒しているのか否かはわからない。ただ、俺には勿体無いくらい、と呟いたその口調は、つい先ほどあれだけの酒を入れて酔い潰れていた人間のものとは思えないほど明瞭で、冷静で、本気だった。

「桜庭。これからお前は東に戻って、上に行くやろ。今はええけど、いつまたあのバケモンがやってくるかもわかれへん。そうなったら、自分はヒーローに戻るんか? 内側から命令を出すんか?」

「……」

「どっちでもええ。せやけど、どんだけ偉なっても、これだけは忘れんといてや。仲間だけは、死なしたらあかん」

「……」

「そのためやったらなんぼでも教えたる。せやから、桜庭、絶対に、忘れんといてや。仲間だけは死なしたらあかんぞ」

 頼む、と一平は言った。暗闇の中で、その瞳だけが光っていた。何かを、託されたと思った。

 その帰り、無性に声が聞きたくなって、気付いたら電話をしていた。こちらから掛けることなんてあまりなかったものだから、電話の相手は少しだけ驚いて、またあの支部長が破廉恥なことをしてきたのではないのかと怒り、それを宥めた後、新しくできたラーメン屋に行ってみたら味がイマイチだったなどという至極どうでも良い話をした。声を聞きながらも、頭の中には支部長の言葉がずっと繰り返し響いていて、もしこの声がある日突然聞こえなくなったら自分は一体どうなるのだろうと考えた。そして、この声の主が今この瞬間、すぐ隣にいないことを幸いに思った。おそらく、もし手の届くところに彼女がいたら、自分は自分を止められない気がした。

 翌朝、一人で会社の書庫へ行って、過去の履歴を調べた。興味があったわけではないが、そうしなければならないような気がした。決戦の時、西部支部で前線に行ったヒーローは一号、唐紅(からくれない)——一平支部長を含め、九名。うち、帰還しなかったのは七号、蒲公英(たんぽぽ)——写真の彼女、ただ一人だった。




 西の街を北東から南西へ抜ける川に沿って、一般人に対しては避難命令が出されており静まり返っている。あれだけ観光客でごった返していた大通りも今は人影一つ見当たらず、フィクションなどにありがちな異世界じみていて気味が悪い。昔ながらの平屋の建物ばかりが並んでいるおかげで、河原から立ち上る砂煙が遠くからでも確認でき、駆け抜けてくる銃声もまた、とても近くに感じる。

 今や東ではそれなりに名の通ったヒーローであるハッピー・シャイニーだが、西部では物好きくらいしか認識していないだろうと思っていた。が、意外にもそうではないらしく、自衛隊の設営した仮設拠点に寄ったら名乗るより先に武器を貸してくれたし、頼んでもいないのに現状入っている情報を細かく流してくれた。おかげで無駄足を経ることなく、戦闘エリアを見つけることができた。

 暗い。まだターゲットに発光弾も撃ち込めていない。

 会議で報告した新種のデータはヒーローたちに伝わっているのだろうか? と、声を掛けるより先に、目に付いた二人組を咄嗟に両脇に抱えて跳んだ。

「あ、あんた、東の——」

 一番近い橋の上に着地すると、赤色のほうが驚きの声を上げた。

「水辺には近寄るな。死ぬぞ?」

 瞬間的に何が起きたのか理解できていないようだが、浅瀬で飛沫を上げながら駆け回っていたこの二人の足元には、黒い帯状の影が忍び寄り、あと一瞬遅ければ引き摺り込まれるところだった——のだが、赤色ヒーローは非常に気が立っているようだ。「何なん、あんた⁉︎ 余計なことせんといて!」

「……真紅」

 しかし、不満を全身で表し、今にも掴み掛かりそうな勢いで食ってかかってくる赤色を静かに片手で制したのは、今し方拾ってきたもう一人——ヒーローカラーは緑。その顔を冷静に見て、覚えがあると思った。

 それがわかったのか、彼女はふっと嬉しそうに相好を崩す。

「助けてもろて、おおきに、()()()()。会えて嬉しおす」

 柳が静かにそう言うと、真紅と呼ばれた赤色は尖らせていた目を丸くする。「柳ねえさん、知ってはるん……⁉︎」

「知ってるもなんも……うちがまだ駆け出しやった頃、えろうお世話になったお人やさかい」

 驚きと疑念の入り混じった真紅に対して、至って冷静に、ゆっくりと、柳はそう言い聞かせる。息巻く彼女を落ち着かせようとしているのかもしれない。

「本部ゼロ号、ハッピー・シャイニーです。……あんなに泣き虫だったのにすっかりおねえさんね」

「やっ、ねえさん! この子らぁには内緒にしとおくれやす!」

 変わっていない。揶揄うと眉がへの字の困り顔になって、そのぷっくりと膨らんだ頬に赤みが差すところ。あの頃よりさらに輪郭は丸くなったかもしれないが、彼女の纏う陽だまりのように柔らかなオーラはより一層強くなっていて、きっとこの殺伐とした情勢においても、周囲に揺るがない安心感を与えているに違いない。

 見知らぬ余所者と親しげに話し始めただけでなく、やり込められてオタオタし出した柳を見て真紅は丸い目がさらに大きくなっている。

「積もる話はアレを片付けてからにしましょう。全員ここに召集できる?」

「へえ……真紅、みんなを集めて」

「せやけど、ねえさん——」

「ええから」

 柳がいてくれて助かった。真紅の納得がいっていないのはありありと伝わってくるものの、彼女は柳の指示に従い、渋々他のヒーローを呼び集めに走ってくれた。

「……すんまへん、ねえさん」柳は申し訳なさそうにやや下を向く。「みんな頑固なんどす。特にリーダーの菖蒲は……」

「わかってる」

「姉として、先に謝らしとおくれやす。ねえさん、よろしゅうお頼申します。うち、あの子らぁにこれ以上傷ついてほしないんどす」

「アナタの立場が悪くならない?」

「そら心配してもらわんとよろしおす。うちは、ねえさんを信じてますさかい」

 すぐに真紅に連れられ、不機嫌そうな面々が橋の上に集まってきた。青色と、黄色——駅で会った山吹だ。

「柳ねえさん、どないしはったん⁉︎」やってくるや否や、青色のほうが柳に詰め寄る。「なんでこないな余所者の言うこと聞かはるん⁉︎」

 二人とも息が切れている。興奮しているからではないだろう。この調子で戦い続けたらすぐに落ちてしまう。

「真紅、おおきに。菖蒲はどこ行きはったん?」柳は息巻く青色の質問には答えず、相変わらず落ち着いた口調で真紅に訊ねた。

「……ポイント探してはったよ。速すぎて狙えんて」

「アイツは水中では動きが速すぎるの。処理するなら陸に上げて、速度を落としたほうが良い」

「余所者が指図せんといて!」柳は青の彼女を瑠璃と呼んだ。真紅に負けず劣らず元気は良いが、額には薄らと汗が滲んでいる。「うちらはあんたの指示には従わへん」

「川に引き摺り込まれたら死ぬわよ。水辺には——」

 その時、周囲に銃声が轟いた。

 一瞬遅れ、川底が眩く煌めき出す。

 本体は川の中央付近を漂っているが、そこから四方八方に帯状のものが伸びている。

「菖蒲ねえさんや」

「——っしゃ、これでよう見える!」

 あの速度で動く物体に対して発光弾を撃ち込めるというのは正直なところ驚いた。葵も顔負けの技量だろう。

「上陸させなさい! 水辺に近づいたら駄目よ!」

 嬉々として戦況に戻ろうとする面々には余所者の忠告を聞く気はないらしい。

 それで構わない。だが、これだけは守ってもらわないと本当に死人が出てしまう。それだけは避けなくてはならない。

「せやったらどないして戦うん⁉︎ うちらは街を守らなあかんさかい、陸には上げへんで!」

「そんなことをしたら今度は怪我じゃ済まないわよ?」

 このチームでは既に二人のヒーローが立て続けに重傷を負って戦線を離脱しており、一人はまだ意識すら戻っていない。それについて、何も感じていないはずもあるまいに。

「怪我したんはあの子らぁが未熟やっただけやろ。うちには関係あらへん」

「真紅ねえさん、そないな言い方……」

 真紅は即答したが、山吹はさすがに眉を顰めており、瑠璃には思うところがあるのか、唇を噛んで顔を背けている。柳は泣きそうな顔をしているし、こんなにバラバラなチームでよく前線に立つ気になれると呆れてしまった。

「えろう賑やかでよろしおすなあ」

 ここで漸くリーダーのお出ましである。

 背中に長い狙撃用のライフルを背負い、左手には四〇口径連射型という装備で現れた菖蒲は、こちらに近づきながら、粘り気のある視線でこちらを舐めてくる。

「素敵なお召し物どすなあ、統括はん」

「お褒めの言葉をありがとう。担当者に伝えるわ」それが嫌味だなんてことは百も承知である。

「みんな先行きよし、あとはうちがやるよって」

 菖蒲の一言により真紅と瑠璃、山吹は即座に戦闘に戻っていったが、柳だけはこの場に残っている。

 こちらを睨む菖蒲の視線は鋭い。「あんたが世話焼なんはようわかりおした。せやけど、これはうっとこの話やさかい、放っといてもろうてかましまへん」

「生憎、自殺志願者の集団を放置しておけるほどドライじゃないんだよ」東の青色なら言われたとおり放っておくのかもしれないが。「作戦を変更しろ。アンタ、リーダーなんじゃないのか?」

「甘ったれの東と一緒にせんといてや。うちらは古都を守るために戦わしてもろうてんのえ。街を傷つけてしもうたら元も子もおへん」

「どうだって良いでしょう、そんなもの!」思わず声が大きくなってしまう。大人気ないのは自覚しているが、西の連中のその価値観は理解に苦しむ。「死んじゃうよって言っているの。自分らの命よりも、たかが街の景観がそんなに大切?」

「何言うてはんの? 歴代のヒーローが身を賭して守ってきはったこの都を捨てられるわけおへんやろ」

「菖蒲」

 これだから余所者は嫌なのだと憤る菖蒲だったが、そこに待ったをかけたのは柳であった。「あんた、本気でそないなこと思うてはるん?」

「ねえさん、——」

「牡丹や漆黒のことあないに気にしてはったやないの! あんたがそないなこと——」

「うちらは西部のヒーローどす‼︎ ねえさん、どないしはったん? ねえさんやってわかってはるやろ? うちらが何を守らなあかんのんかて……」

「せやけどうちは……そないな顔させとうて、あんたをリーダーにしたんやおへん……!」

「しゃあないやろ。うちらは……うちらには、命よりも優先せなあかんもんがあるんや」

 泣きそうな顔をしてよくそんな台詞が吐けるものだ。

 なんと阿呆臭い。

 大切にしましょうと、教わって育ってきたのだろう。ここにあるものは、過去そのもの。一度失えばもう二度と手に入らないものだから、壊してはいけない、傷つけてはいけないと、そう言われて。

 それを守って死ぬのは美徳か? そうして死んだら、美しい最期だったと、良くやったと讃えられるのだろうか?

 それこそが『ヒーロー』だと?

 ——……馬鹿じゃねぇの?

 本当は何が一番大切なのか、とっくにわかっているのだろうに。

「西は揃いも揃ってマゾヒストだなァ、恐れ入るよ……」

 菖蒲に一歩寄る。後退りそうになるのも目を逸らしそうになるのも懸命に堪えて逃げないのは褒めてやっても良い。

 一つ短い息を吐く。視界の隅では相変わらず浅瀬を駆け回る危険度の高い戦闘行為が行われているが、先ほどから橋よりも上流に移動している。このまま橋から離れていかれると助けに入るのが間に合わなくなってしまう。

 あまり時間がないから、端的に行こう。

「柳、もうやめろ。言っても無駄だ。コイツは、本質的なことを何にもわかってない」

「ねえさん……」

「みんなで仲良く死なせてやれ。それが良いんだろ?」

「……」

「ま、待っておくれやす、ねえさん、そないな——」

「ただ、一つ訊こうか」取り乱しそうな柳を抑え、菖蒲に問う。「例えば今日、アンタらの誰かが死んで欠員が出たら、その穴は誰がやるんだ? 今日全滅したら、誰が明日から西のヒーローをやるんだよ?」

「そ……そんなん、うちらの志を継いでくらはるお人は他に——」

「いつの時代の話してんだよ、馬鹿なのか? 気持ちだけでヒーローになれんだったらアタシらいらねぇよ。素人が一日二日でなれるもんじゃねぇだろ、ヒーローは。アンタそんなこともわかんねぇの?」

「そ、れは……」逃げようとする視線を捕まえる。菖蒲は言葉に詰まったまま戸惑っている。

「甘ったれはどっちだよ? 言っとくけど、本部から応援なんか絶対(ぜってえ)出さねぇからな? こんな街守るために命賭けるなんてあり得ねぇし、アタシのチームに死んでも良い奴なんかいない。そっちだって、余所者に守られるなんてごめんだろ? アンタらがこの街のために『名誉の死』を遂げたところで、一日二日で壊滅だな」

「……」

「それで良いならお望みどおり、手ぇ出さねぇからさっさと行って死んでこい」

 もっとも、自身が最初に死ねれば良いが。

 目の前で仲間が先に死んでいくことに彼女が耐えられるとは思えない。菖蒲のことはよく知らないが、そこまで冷酷になる覚悟を背負っているかと問われたらきっと答えはノーだろう。もしイエスなら、そもそもこんなところで自分と会話など成立していない。

 だから、万が一そうなった時、たぶん一番しんどいのは他の誰でもなく、——

「こぉら! お口が悪すぎィ‼︎」

 その時、まったく空気を読まない甲高い声が辺りに響いた。

 柳と菖蒲が振り返る。背中だけで二人がギョッとしているとわかったのは、自分も同じか、それ以上にギョッとしたからだ。

 なぜならその先にいたのはこちらへ駆け寄る大きな『道明寺』——すっかりマリーに変身を遂げた、真理子だったのだから。


* * *


「——ッんでアンタがここにいんのよ⁉︎」

 マリーの姿を見たシャイニーには開口一番そう怒鳴られたが負けてはいられない。

「お口が悪すぎよ!」目と鼻のすぐ先まで詰め寄り、次の言葉が出てくる前に押し返す。「そんな可愛い格好でそんな口の利き方しちゃダメって何ッ回言ったらわかるの!」

「だって——」

「だってもさってもないの‼︎ 言いたいことはわかるけどねェ、言い方ってもんを考えなさいよ! いい大人なんだから! ……ッとに誰に似たんだか!」

「……」

 シャイニーが悔しそうに押し黙った一瞬の隙に、唖然としている二人の西部のヒーローたちに挨拶を済ませてしまう。「本部8号、ピンキー・マリーよ。よろしくねェ」

「へ、へえ……柳と、菖蒲どす……」

「ワァ、可愛いお名前ね! ごめんねェ、この人必死になるとちょっとお口が悪くなっちゃうのよ。でもあなたたちのことが心配でしょうがないだけなのよ。傷ついてほしくないだけ」

「余計なこと言わなくて良い‼︎」シャイニーは赤面しつつ横で怒っている。「アンタが来たならちょうど良いわ、コイツらの相手しといて」

「えっ、あんたどうするの?」

「アタシはこの先の中洲でアイツを処理するから」

「待って、中洲は——ッ」

 何かに気付いたらしい紫色の菖蒲は、一瞬で顔色を変えた。が、シャイニーは視線だけでその口を黙らせてしまった。

「……仲間を守りたいなら水辺には近づくな。死にたい奴は勝手にしろ。アタシはそこまでお人好しじゃない。マリー、コイツらの相手が終わったらアンタは帰りなさい。良いわね?」

 シャイニーはそう吐き捨てて、川辺で戦闘を続ける集団を追いかけて行ってしまった。

「……あかん」菖蒲は激しく首を横に振り、焦りのあまり泣き出しそうである。「中洲はあかん……なんでや、なんで放っといてくれんの? 柳ねえさん、うちらも行かな——」

「待って、菖蒲ちゃん」

 妨害をするつもりではないが、彼女にはそう取られたのだろう。呼び止めた途端、キッとこちらを向いた蒼白な顔には鋭い視線が浮かんでいる。

「そう怒らないで? あなたの気持ちもわかる」

 この街には、他にはない長い歴史がある。この街の人間が昔々から受け継いで、受け継いで、時に大きな犠牲を払いながらも、何千年も守り続けてきた歴史の街であり、現代の子どもたち誰もが学校で必ず習うくらいの、この世界にとっても非常に重要な歴史が至る所に鎮座している。今なお未来ではなく過去を重んじているからこそ、余所者には冷たい。ひなたの言う「なんか怖い」というのはそういうことなのだろう。

「あたし昨日来たばっかりだけど、それでもそう感じたんだもの。ずっとこの街で暮らしてるあなたたちなら大切さも人一倍感じてるだろうし、何が何でも守ろうっていう気持ちは当然だと思うわ」

「ほんなら、わかってえや! うちらのことはもう放っておいておくれやす!」 

「でもね、これだけは覚えておいてほしいの。もしあたしが過去の人だったら、あなたたちの未来を犠牲にしてまで、守ってほしいとは思わないわ」

「なんであんたにそないなこと——」

「だってあたし、ママだもの」

 自分はいつか、娘の過去になる。

 ひなたが生きていく世界の、過去になる。

 その時、自分が願うのは、たった一つだけ。

「もしいつか娘が、ママの生きてきた世界を守りたいって言い出したら、とっても嬉しい。嬉しいけど、でもそのために娘が自分の未来を犠牲にしようとしていたなら、あたしは全力で止めるわ。そんなこと、しなくて良い。してほしくない」

 過ぎた時間は戻ってこない。

 だからこそ失えば二度と手に入ることはない。それでも、娘には未来を生きてほしい。それは決して、過去を捨てることとは違う。たとえそこに姿形がなくなったとしても、人の記憶と心には在り続けると信じているから。

「もし守ってくれるって言うなら、どっちかっていうと、形なんてどうなったって良いから、志とか信念のほうを、未来に継いでほしいかなって。偉そうなこと言うけど、そっちのほうがあたしは嬉しい」

 きっとこの街を守ってきたヒーローだって、そう思って戦っていたのではなかろうか。

 くるりと背を向け、シャイニーを追う。彼女たちにどれくらいこの話が通じているのかはわからない。だが、もうここにいても自分にできることはもう何もない。終わったら帰れと言われたような気もするが、おそらく空耳だろう。

 上流方向に進んでまもなく次の橋が見え、銃声はその少し手前で飛び交っていた。水面から突き出た岩の上ではためくオレンジ色のマントを見つけたマリーは、その傍の小さな岩に飛び降りる。

「帰れって言ったわよね?」呆れている台詞なのに棒読みである。まるで来るのがわかっていたかのようだ。

「ごめん、聞こえなかったわ」

「都合の良い耳ね。どうしたの、あの子たちは?」

「さァ?」

「さァって……——」

「わかんないわよ。でもあたしの言いたいことは言ってきた」

 シャイニーは小さく舌打ちをする。「アンタねェ、——……」

 怒り出すのかと思って身構えたが、意外にもシャイニーはそこで言葉を飲み込み、乱暴に息を吐いて顔を背けてしまった。この数ヶ月共に前線に出て、諦めるということを覚えたようだ。

「で、どうするつもり?」

「何が?」不機嫌なことに変わりはないが。

「考えてるんでしょ? あんたなりに、いろいろと」

 二刀流がきくシャイニーが持ってきている武器は、通常の陸上戦闘で用いる銃二丁の他にもう一丁、水中で使うための銃も持ち合わせていることにはとっくに気付いている。表向きは陸に上げろと主張してはいるが、自身の頭の中ではそうせずに処理する方法——彼女たちの街を壊さずに済ませる方法を描いているはずだ。

「指示ちょうだい、あたしも——」

 できることはやる、と続けようとしたところで、突然シャイニーがすぐ足元に向かって右手の銃を発砲した。

 反射的に飛び上がり、下を見る、と同時に足を踏み外した。

 黒い帯のような何かが足元にいるのが見えて、直感でこれはヤバい奴だと思った、次の瞬間には、自分は宙に浮いていた。

「ああ、もォ……ほんッと、アンタってトロい」

「なん——ッ」

「あと重すぎ‼︎」

 反論する間もなく、文句と共に橋に向かって放り投げられた。

 条件反射の宙返り、そして、着地——我ながら上手くいったと思う。

 一瞬遅れて、ドンッ、と背後に音が響く。振り返ると、涼しい顔をしてこちらを見下ろすシャイニーの姿。

「……いろいろ考えてはいるけど、問題があるのよ」

 シャイニーは真顔になって、低い声で言った。数秒前のマリーへの問題(セクハラ)発言については当然なかったことになっている。

「……問題って?」

「アタシがアイツを連れていこうとしている中洲にはね、デッカい桜の樹があるの」

「桜?」

「この街の歴史そのものみたいな、化け物級の樹齢の桜がね」

 そう言ってシャイニーが指したさらに上流には、たしかに川の真ん中に広い中洲がある。そしてそこには、一本の巨大な木——真っ暗な闇の中に聳える黒々とした影は不気味で、まるで大型のモンスターのようにも見えた。

「あれって……」

 マリーでも知っている。あの桜は西の街の象徴とも言える有名な樹で、たしか天然記念物か何かにも指定されているはずだ。

「怒られるだろうなァ」シャイニーは苦笑いを浮かべているが、悪びれる様子はなく心は既に決まっているといった口調だ。

 もし街や人命を優先し、あの中洲で決着をつけようとするならば、戦闘の果てに桜樹に傷がついて枯れてしまう可能性は高い。それがどういう結果をもたらすのかをシャイニーは理解しているのだろう。

「アンタも引っ込んでたほうが良いわよ? 共犯になりたくないのなら、ね」

 そう言い残して、シャイニーは再び橋の下の戦闘に戻っていった。

 ——共犯、ねェ……。

 こんな街中を流れる河原で戦闘が行なわれていれば、人の目につくのは必然であり、おそらくマスコミ各社も中継をしている。そんな中であの桜樹を枯らしたら、誰がそれをしたのかは一瞬で世界に知れ渡るだろう。そうなればこれから先どこへ行っても後ろ指を刺され、責められる。そんな未来は簡単に想像がつく。

 しかしそれをやったのが『余所者』だったならば。

 世間の恨みをすべて背負って東へ帰れば、西部のヒーローたちが街の人から責められることは避けられるかもしれない。この街でこれからも生きていかなければならない彼女たちの居場所がなくなることもない。

 半ば呆れ、同時に嬉しくなってしまう。

 ——本当、どこまでも馬鹿な上司だこと。

 いかにもシャイニーらしい。それでもその道を選ぼうとするところも、マリーが共に『お尋ね者』にならぬよう、自分なりの精一杯の気遣いをして遠ざけようとしてくるところも。

 川岸に飛び降り、後を追う。シャイニーは西部の危なっかしいヒーローたちの足元に忍び寄る黒い影を払って回りつつ、水中のモンスターの周囲に向けて発砲を繰り返していた。

「だからなんでついてくんのよ⁉︎」

 息を切らし、苛々して怒鳴ってくるが、構わずその口の前にずいと右手を突き出した。

「一丁貸して!」

 シャイニーは目を丸くしてこちらを見ているが、気にせずさらに右手を突き出し、要求する。「あたしだって余所者よ。仕事するわ!」


* * *


 シャイニーが言った中洲には、大桜樹がある。千年以上もの間、戦乱に耐え、天変地異に耐え、毎年見事なまでに咲き続けている。この街のシンボルであり、歴史であり、世界を見守る神様のような、特別な存在。みんなの、宝物。

 この街のヒーローは、そんな宝物たちを守るためにある。人々を守り、皆の宝物を守る——それができなければ、価値はない。

 この街に、存在させてもらえない。


 ——「そんなものはどうだって良い」


 どうして?

 なぜ簡単に、そんなことが言える?

 ここにあるのは時間そのもの。数多の命の積み重ね。ここで死んだとしても、自分もまた、その一部になるだけ。


 ——「ほんまにそないなこと思てはるん?」


 思っていなければならないんだよ。

 だって。

「菖蒲!」

 柳が呼んでいるのは聞こえているが、振り返れない。どんな顔をしているのか想像がつくから。

 きっと、それを見たら、揺らいでしまうから。


 ——「この人はあなたたちに傷ついてほしくないだけ」


 ああ、本当に甘っちょろい。

 傷ついてほしくないとか、無理に決まっているじゃないか。

 だって。

「だって、うちは……——」

 皆の宝物を守らなくちゃならなくて。

 誰かのために傷つくことこそが生業で。

 そんなこと、わかっている。わかっていて、ヒーローをやっている。

 格好良かったのだ。西の街の人々のために日夜駆け回るヒーローの姿が格好良かった。いつか自分も、あのヒーローたちのように、誰かの役に立つ大人になりたい——でもそれはただの憧れで、ただの夢。だから、ごく普通の大学を出て、ごく普通の企業に就職して、ごく普通の会社員をやった。

 でも。


 ——「これで大卒? 恥ずかしくないの?」

 ——「こんなこともわからないの? 本当使えないねえ、君」

 ——「君のどうしようもない意見なんて求めていないから」

 ——「いっぺん死んで、人生やり直したほうが良いんじゃない?」


 現実の自分は夢からは程遠く、なりたいと思った自分なんかどこにもいなかった。

 だから、蓋をしようとした。やっぱり夢は夢なのだ。そんなものがチラつくから惨めになる。ならば、見えなくなれば良い。あれは遠い昔の御伽噺か、或いは自分のいるところとはまるで違う世界の出来事で、決して手が届くものではない——そう言い聞かせて、ショーウィンドウに映る自分自身を嗤った。


「ダメダメ、そんな顔したら! 可愛いお顔が台無しよ!」


 春の訪れを告げる風の吹く中、どこからともなく現れたその人は桜の精のような姿をしていた。

 人の心に追い風を吹かせて応援するのが自分の役目なのだと、彼女は頼んでもいないのに自分を励ましてくれた。花粉症になっちゃったかもしれないの、とくしゃみをしながら言われ、さっき道端でもらったばかりのポケットティッシュをあげたら、こちらが恐縮するほど感謝された。鼻水まみれで応援されてもまったく説得力がなかったが、なぜか見ず知らずの他人であるはずの自分を一生懸命に元気づけようとしてくれていることが嬉しかった。

 彼女はショーウィンドウを鏡代わりに笑顔の作り方を教えてくれて、やがてくしゃみをしながらまた風の中に消えていった。

 その日、西へ帰ろうと決めた。

 数年ぶりに降り立った西部の街で、実家に帰るよりも先にあの桜の樹を見に行った。どんなにかけ離れていても、いつだって、どうしても忘れられなかったもの——昔々、自分が生まれるよりも前にあった決戦の時、西の街を守って死んだヒーローのこと。

 押し寄せた観光客の頭の隙間から覗いた桜はもう散り始め、所々に青々とした葉が見えていた。

 蓋なんか、できるはずがなかったんだ。

「うちは、西部のヒーローなんよ……」

 ここで許してしまったら、全部が無駄になる。彼女をはじめとする、犠牲になったヒーローたちに申し訳が立たない。

 そう思っていた。

 ——「そのために自分の未来を犠牲にしてほしくない」

 そんなはず、ない……。

 足が動かない。

 あの東からの迷惑な客を追って、早く、止めなくては。

 西の街がめちゃくちゃにされてしまう。あの桜の樹がなくなってしまう。

 ヒーローを止められるのは、ヒーローだけ——自分だけなのに。

「菖蒲」肩を抱かれた。柳だった。「菖蒲はどないしたいん?」

 柳は静かに訊ねてくる。

「……そないなこと、うちは……——」

「うちは菖蒲に訊いとるんよ」()()()どうしたいのか、と柳はもう一度訊ねた。

「……うちは……——」

 答えは決まっている。

 もうわかっている。足が動かないのが——あの二人を追えないことこそが、答えなのだ。

 しかし()()()答えなんて誰も求めていない。自分が言ったところで、誰も——。

「菖蒲‼︎」

 突然の聞いたことのない声に思わず顔を上げる。

 真剣な顔つきの柳ががっしりと両肩を掴んできた。すぐ目の前に、真っ直ぐな鋭い視線があって逃げられない。

「あんたはリーダーなんよ⁉︎ あんたが迷ってはる間に、あの子らが傷つくん! あんたぁそないなこと望んでんと違うやろ⁉︎」

「せやけど、——」

「ねえさんらぁのことは心配いらへん。上手うやってくれはる」

 柳はそう言って中洲のほうに視線をやった。西の景色に似合わない、ピンク色とオレンジ色の、派手派手しい俗なヒーロースーツ。

 シャイニーは弾丸を込めている。が、柳によく見ろと言われ、気付いた。彼女の手に握られているのは水中銃だ。それも最近開発されたばかりの最新型——水中での射程距離が短くなった代わりに、殺傷能力が極めて高くなったものである。

 西ではあれを使いこなせるヒーローはまだいない。体の一部として振り回すには重すぎるし、余計な体力を使ってしまうからだ。

 岸からでは届かない。水辺に寄るなと騒いでいるくせに、自分は川の中に入るつもりだ。入って、瀬戸際まで近づいて終わらせるつもりなのだ。一撃で。

「東のねえさんらぁのこと、信用してしもて、ええんやろか……?」

 あの人はきっと、水の中ですべてを終わらせる。

 そのためには他のヒーローが邪魔だ。自分でも狙撃して感じたが、アイツはたしかに動きが速い。仲間を撃ち抜かぬよう余計な気を使っていては、いつまでも仕留められない。

「ねえさん、うちは……うちはみんなに死んでほしうない、怪我もしてほしうない、みんなが傷つくのはもう嫌や、せやから……——」

「わかった」

 いつも朗らかで優しい柳の、野太く芯のある声を初めて聞いた。それは夜の静かな川縁を抜ける風の如く、よく通る。「攻撃やめ、全員退避せえ!」

 西部の面々の困惑は免れない。だが、柳は構わず叫んだ。

「全員川から上がり! これは菖蒲(リーダー)の命令や!」


* * *


「……あんた、それ使うの?」

 足首まで水の中に踏み込み、水中用の銃に弾を装填しているシャイニーにマリーは思わず問うた。シャイニーが使おうとしている銃はつい最近実用化が始まったばかりの最新鋭の水中銃で、まだ使い慣れていないヒーローも多い。

「重いのよねェ、コレ」

 シャイニーが溜め息を吐くのも頷ける。マリーも試し撃ちの際に感じたが、見た目のゴツさを裏切らない重量があり、片手で扱うには少々機動性に欠けるのだ。一撃の殺傷能力のみに重きを置いており、水中での射程距離も短い。ギリギリまで敵に近づいて使うからこそ、効果が発揮される——接近戦を好むシャイニーにはうってつけの武器というわけだ、が。

「アンタはここで待って」

「あんたはどうするの?」

「もう少し入ったとこで仕留める」つまりは自身が囮として水の中に入って誘き寄せ、浅瀬に来たところで撃滅するということだ。

 頭のどこかで予想はしていた戦法だが、実際に言われると胃の辺りが重くなる。寒そうだ、などと本人はぶつぶつ文句を言っているが、そんな単純なことではない。さすがに、同意できない。

 あのモンスターの時、水辺に寄ってはならないというのは先日、東で対峙した時に3号からも言われていることで、一歩間違えれば引き摺り込まれて溺死してしまう危険性がある。それはシャイニーだって当然わかっていて、だからこそ西部のヒーローたちにもそう訴えていたはずなのに。

「足がついて踏ん張れるところまでしか行かない。もし失敗しても()()()だけはするから、そしたらあんたがそれで殺って」

「でも、——」

「あんまり寄せると本当に傷ついちゃうんだもの」ほんの少し振り返って見上げた視線の先には桜の枝が延びている。「可哀想でしょ。木が」

 わざとらしく肩を竦める。本当に、天邪鬼すぎて呆れた上司である。「気持ちはわかるけど危ないわ。葵ちゃんだって水辺禁止って——」

「うん。絶対怒られるわよね……」シャイニーが身震いしているのは水の中で戦うことに対してではない。「もし浮上できなかったら迎えに来て?」

「やめてよ、あたし泳ぐのそこまで得意じゃないわよ?」

「大丈夫でしょ、アンタよく浮きそうだし」

「ねェ! どういう意味よ、それ——」

 文句の言葉は最後まで言えなかった。

 ドボン、という不自然な水音と誰かの悲鳴、そしてシャイニーが錘のような銃をマリーに押し付けたのはほぼ同時だった。

 腰まで川に沈んだ黄色い少女を岸に向かって放り投げたのは見えた。だが、それだけだ。あとは見えなかった。ただふわりと、微かな夜風が抜けていっただけで。 

 代わりに沈んだきり、浮上(あが)ってこない。

 さらに遅れて、思考が追いつく。


 ——あの人、何の武器持ってった……?


「シャイニー‼︎」

 躊躇いはなかった。

 押し付けられた銃を携え、気付いたら川縁の岩を蹴り飛ばしていた。

 飛沫の鎮まりかけた川の中に飛び込む。突如として訪れる、暗くて、辺り一面音もない、ただの闇。

 ——どこ……?

 水が痛いし、どことなく重い。

 周囲を必死に見渡す。もはやどっちが左で、どっちが右なのかもわからない。黒くぼやけた視界は自分の手すらも識別できないのに、オレンジ色のそれだけが、ほんのりと明るく光って見えた。

 手を伸ばす。

 掴んだのに重くて引き寄せられない。何かが纏わりついていて、取れない。

 暗黒の視界の中で、最も深く、暗い場所——氷のような冷気がそこにあると感じる。

 銃口を向ける。

 ——悪いけど、この人そっちに行かせるわけにはいかないの。

 引き金を引く。音はない。

 衝撃で、不安定な体が少し後ろに弾かれると同時に、冷たい気配が消えた。

 体が軽くなる。一気に引き寄せ、居場所を教えてくれたマントを外した。錘にしかならない銃も、もういらない。

 シャイニーの長い髪が羽衣みたいに漂っている。

 さほど深くはないはずなのに、水面が遠い。

 まずい。息がもたない。でもここで離したら、もう自分は迎えに来られない。

 焦りが余計に酸素を消費する。

 ——ああ、苦しい、苦しい。

 どうしよう、意識が飛びそう、——。

 その時、ふっと、下から何かが自分のことを押してくれたような気がした。

 まだモンスターがいるのかと思ったが、違う。それは、なんだかとても暖かかった。

 まるで、陽の光を浴びているかのような。

 一瞬、振り返って、見たいと思ったが、できなかった。水面から思い切り顔を突き出し、大きく息を吸う。

 すぐ近くに大きな桜の樹が見え、何も考えずにそこに向かうと、すぐに両足が川底についた。

 抱えてきたシャイニーを岸に引き摺り上げる。

「シャイニー、シャイニー、わかる⁉︎」

 呼び掛けても、蒼白い頬を叩いても、重たいまま何も言わず反応もない。

 頭の中が真っ白だ。

 どうしよう、どうしたら良い?

 こういう時、何をしなければならないのだっけ?

 わからない。それなのに、体が自然と動く。何をどうして、こうしなければならないと、勝手に、震えることも忘れて。

 自分の体じゃないみたいだ。救命措置なんていつ習った? 少なくとも真面目に講習を受けた記憶なんかない。でもそうしなきゃいけないってことだけはわかる。

 ヒーローだって人間だ。

 死ねば生き返らない、ただの、人間。

「シャイニー、冗談やめてよ!」

 本当、冗談みたいだ。

 だって一瞬前までいつもどおり、ハラスメントを働き、散々憎まれ口を叩いていたじゃない。

 ひなたを抱っこしてくれて、一緒に夕飯食べたわよね?

 葵にお土産を買わなきゃいけないって言ってたわよね?

 それ、全部、どうすんのよ?

「ダメダメ、ダメよ、戻ってきて、チーフ! 英斗! 起きて、ねェ‼︎」

 葵ちゃんが怒る——そう言った瞬間、激しく咳き込みながら川の水を吐き出した。

 砂利の上で寝返りを打つその姿を見て、漸く自分も呼吸することを思い出す。

 息が震えて、吐けない。上手く吸えない。

 胃袋の辺りを握り潰されそう。

 気持ちが悪い。

「……死ぬかと思った」

 シャイニーは咳き込みながら這いつくばって嘔吐しつつ、やっとのことでその声を出した。

 大丈夫なの、と訊きたいが、声が出ない。

「ナイスアシストね、マリー」咳き込みながらも珍しく褒めてくれる。ガラガラの掠れた声で、夕飯に食べた豆腐まで出てきそうなどと呑気に冗談を言っているのも聞こえる。

 どれも、ぼんやりと、響く。

 喋っている言葉なんて、たぶん理解できていない。

 体の底から湧き上がる震えが止まらない。

 それなのに目の前に転がっているシャイニーは、地べたに伏せたまま、今度は沸々と笑い出して。

 ——……何なのよ……?

 焦った。本当に。

 自覚している以上に、自分は焦っていた。

 まだ水の中にいるみたいだ。なんだか上手く呼吸ができなくて、自分の頭の中が冷え切っているのがわかる。首から上に血が巡っていない感覚。

 吸っても、吸っても、苦しい。

 引っ叩いてもやりたいが、体も動かない。

 ただ呆然と、笑い続けているシャイニーを見ていることしかできない。

「ねえさん‼︎」

 西部の子たちの声がする。いつの間にかすぐ背後に気配があり、誰かが肩からタオルを掛けてくれた。が、そのあまりに異様な光景に、誰もそれ以上シャイニーに近寄れない。壊れたと言ったら、誰もが信じるだろう。 

 笑っていられるくらいなので大事ではないのかもしれないが、全身ずぶ濡れで、四つん這いのまま一向に起き上がれず、しかもずっと笑っているだなんてどう考えても正常ではない。

「……ね、ねェ……本当に、大、丈夫……?」

 やっとのことで声を発する。そっと伸ばした手は音が聞こえそうなほどに震えている。

 が、それが背中に届くかどうかというところで、漸く、シャイニーは「大丈夫」と遮り、むっくりと上体を起こした。

 大きく、ゆっくりと、深呼吸をする。

 シャイニーはもう笑ってはおらず、至極冷静に口を開く。「……あのさ、マリー」

「な……何……?」

「アタシって、もう、いい年のオジサンじゃない?」

 突然何を言い出すのか。

 戸惑いと驚きのあまり、一瞬返す言葉を見失ってしまった。

「……どう、したの、急に?」

 おそらく西部のヒーローたちには意味すらもわからないだろう。

 だが、ぺたんと尻を地面につき、立ち上がるでもなく、何を考えているのかまったく察することのできない表情でしばらく天を仰いだシャイニーは、やがてゆっくりと目を閉じ、息を吐いた。

「さすがに、二徹でコレは、キツすぎる」

 そう呟くと、ぷつんと何かが切れたかのように、シャイニーは意識を手放してしまった。

 頭の重みで後ろにひっくり返る体を慌てて抱き止める。

「シャイニー⁉︎」

「ねえさん!」

「ちょッ、全然大丈夫じゃないじゃない! ねェ、ちょっと!」

 信じられないくらいに重い。水中とは比べ物にならない。

 慌てて柳が駆け寄ってきてくれた。「救護班に来てもろて、早う!」

 その指示を皮切りに、堰を切ったように皆が激しく動き出す。指示のとおりに誰かが救護を呼びに走ってくれた。

「ねえさん、これ酸素!」

「おおきに!」

「シャイニー、しっかりしてよ! ねェ!」

 なんで? また人工呼吸しないと駄目? 何かやり方間違えた?

「ねえさんのおかげでモンスター消えたんよ⁉︎ せやのにこんなとこで死んだらあきまへんえ⁉︎ ねえさん!」

 いくら呼び掛けても反応はない。

 が、よく見れば先ほどとは様子がまったく違い、スヤスヤと気持ち良さそうな寝息が聞こえるし、呑気な寝顔は血色もほぼ元どおりに戻っているのである。

 ヒーロースーツの警報音も鳴っていない——となれば、これはただの……

「寝てはるだけや」

 誰かが言った。

 たしかに、ちゃんと呼吸はしている。

「……ほんまや」

「人騒がせなお人やなあ……」

 ——寝ているだけ? 本当に?

 本当に、寝ているだけと思って良いの?

 近くに黙って座り込んでいた黄色いヒーロースーツの彼女が泣き出した。先ほどシャイニーが川の中から放り出した子だ。

「すんまへん、ねえさん、ほんまに……おおきに」菖蒲に頭を撫でられながらしゃくり上げる彼女は小柄で、とてもヒーローには見えない。

 自分も体が震えている。全身ずぶ濡れになって冷えたのだろう。鼻水が垂れそうになって、ぐっと顔を上に向けると、大きく広がった桜の木の枝の隙間に星々がちらついていた。

 腹の底から息を吐く。

 ——ああ……あたし、生きてる。

 どこか遠くのほうで、サイレンの音が聞こえる。まだ少し続く夜の空は、とても静かに瞬いている。


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