第六話 西の英雄(2)思ひ出の日
この話には『東』『西』『南』『北』という地方の、それぞれの特有の言語(方言)が登場しますが、実在する地方ならびにそこで使用されている言語とは異なる、この物語の世界独自のものです。あらかじめご承知おきください。
街に夜の帳が下り、また違った賑わいを見せ始めた頃、漸く支部から解放されて宿に辿り着いたチーフは、荷解きもせず、仕事着のままでベッドの上に倒れ込んだ。おかしな皺がつくし形が崩れるのでせめて上着くらい脱がなくてはとわかっているのに、体が重くてその体勢から動く気になれない。
うつ伏せのままでポケットから携帯を取り出し、アドレス帳一番上に出てくる名前で通話ボタンを押した。コール音が数回の後、途切れる。
「——、クレームならお断りよ?」
スピーカーから聞こえてきた第一声に思わず笑みが吹き溢れてしまう。「だったらどうしてこういうことするの」
「——、あら、ご不満?」わざとらしい口調。電話の向こうは賑やかで、時間的にも向こうは今ラーメン屋にいるなと察する。「——、お土産の情報はさっき送っておいたけど見てくれた?」
「見たよ」
真理子から予告を受けていた葵のお土産リストは退屈な会議の途中に机の下で盗み見た。が、そこに載っていた品目は途中でスクロールしなければならないほど多くて、『お土産』という名目で気軽に頼まれるような量ではなく、失笑を防ぐのが大変だった。もはや呆れること必須だが、彼女に「全部?」なんて訊ねるのはもっと野暮だと思った。
「——、よろしくねェ。楽しみにしてるから」彼女がどんな顔をしてそう言っているのか、手に取るようにわかる。
「そっちは変わりないの?」
「——、ええ、問題なし。今日は討伐に出たけどね、一瞬で終わっちゃって少し物足りない」平然と、危ないことはしていないと言うが、本当にこの電話の相手は人の不安を煽るのが得意だ。「——、私も行きたかったなァ」
「暇なら休みを取って来たら良いじゃない」
「——、ねェナメてんの? 暇じゃないから。それとも来てほしいの?」
「いや。来ないほうが正解だよ」
「——、虐められた?」
「ええ。それはもう」
「——、ヒドいなァ。昔から英斗のことを虐めて良いのは私だけって、みんな知らないのね」冗談なのはわかっているが、何とも頼もしい台詞である。「——、ラーメン来たから切るわ。ま、そっちで出ることはないと思うけど、気を付けてね」
電話はそこで切られた。毎日ラーメンばかり食べてよく健康診断に引っ掛からずにいられると感心してしまう。
急に室内が静かになり、このままだと知らぬ間に朝を迎えてしまいそうな気がするので早く起き上がらなくてはと頭では思っているが、まったく体が言うことを聞かなくて困る。せめてジャケットくらいは脱がないと、本当に明日縒れたスーツ姿で支部に行く羽目になってしまうというのに。
とろとろと微睡んでいると今度はポケベルが鳴った。目覚ましよりも効果的で憎らしいほど素直に体は反応し、即座に飛び起きる。
乱れた髪を掻き上げながら見ると、送られてきたのは見覚えのある特別な呼び出し番号だった。
軽く身なりを整え、急いでホテルを出て指定の場所へ向かう。人間の記憶力というのは恐ろしいもので、ホテルを出て街の中心部へ行くために何の気なしに選んだ道は、昔々、自分がこの地へ赴任していた頃によく通っていたルートだった。
その体に染みついた癖——もはや習性とも言うべき行動に気付いたのは、とある橋を渡った時だ。街を横断している川に架かる何の変哲もない橋だが、何となく惹かれるものがあって、急いでいるはずなのに自然と足が止まってしまった。
橋の上で少しだけ考えて、思い出した。ここから下流の方角を眺めると、その景色の中に一本の桜の樹が立っていて、当時の自分は無意識にそれを横目に見ながらこの橋を往来していた。
川の向こうは暗くて、今はよく見えない。が、この季節はきっと赤茶けた葉を落としている頃だろう。
——懐かしい。
数えるともう十年以上も前だが、覚えていることがある。あれはチーフがまだ統括ではなかった頃——西部支部へ異動したばかりの、花冷えの季節。
頭のおかしな依頼主に当たってどうにもならないという報告があって、まだ慣れない西の街に出た。
本部と違って元々内側の人員配置が少ない西部支部では、現場で問題があった時には支部長が出ていくのが慣例となっていたが、この時支部長は視察という名の旅行へ出掛けており不在だった。
絶対に碌な返答は得られないと思いながらも一応電話を掛けて事情を説明したが、「おまえで十分やろ」という一言で切られた。そうだろうと予想したとおりだったからもうどうでも良い。
仕方なく、一人で現場に向かった。まだ地図が頭に入っておらず、迷いながら向かったから予定より時間がかかってしまって、やっとのことで辿り着いた時には、担当のヒーローは一般人から怒鳴られ続けて半べそをかいているばかりか、バケツか何かで水を掛けられたようで全身ずぶ濡れになっていた。抹茶クリームみたいな色のヒーロースーツを着た、柳と呼ばれる女の子だった。
「ごめんなさいね。遅くなってしまって」
この頃、怒っている人に東の言葉で話すとなぜか怒りの矛先がこちらへ向くことが多い、という謎に満ちた西の人々の習性に気付いていたチーフは、今回も敢えてはっきりと東の言葉を使って話し掛けた。すると、相手方は案の定、一瞬ぐっと言葉を詰まらせた後、お決まりの「東のモンが」を始めてくれたので助かった。とりあえずこれで柳は理不尽に怒鳴られなくて済む。
西部へ来て驚いたが、こちらにはトラブルに見舞われた時の対応マニュアルが存在しない。おそらく支部長が直々に出向いて、自分の裁量で勝手に対応を決めるという文化だからマニュアルなんて不要なのだろうとすぐに納得はいったが、自分のような下の人間が対応しろと言われた場合は困る。今回は本部にいた時に少し学んだ対応法と、一つ前に北部支部にいた時に培った経験で何とかするしかない。
幸い、問題の依頼主はそれほど駄々を捏ねずに帰っていってくれたから良かった。本当に、世界中どこにでも頭のおかしな奴は存在するものだと、深い溜め息と共に下げた頭をゆっくり起こしてきてギョッとした。つい今し方まで半べそを堪えていたはずの柳が、その大きな瞳からぼたぼたと大粒の涙を溢しながら立っていたのだ。
「え、えッ、ちょ、あの、大丈夫です、か……?」
「……ッへえ、すッ、すんまへんッ、きッ……気にせんといてッ、くださいッ……」
どう見たって大丈夫ではないのだが、柳は掌でごしごしと涙を拭い、しゃくり上げながらそう言った。
ぽたぽたと髪や袖の先から滴が垂れ、彼女の周りには水溜りができている。ひとまず着ていたコートを脱いで彼女に掛けてやった。もう桜の咲き始めた春盛りのはずが、今日は日が翳って冬のような肌寒さが戻っており、濡れたままでは風邪をひいてしまう。
だが、彼女はそれでも全然泣き止まない。
正直、参った。見たところ二十歳そこそこ。ヒーロースーツに着られている、と言ったほうがしっくりくるその佇まいからは、まだヒーローになりたてという雰囲気がありありと見て取れた。先ほどの依頼主はそれもあって柳に対してかなり強気に出ていたのであろうが、いきなり訳のわからない難癖を付けられ怒鳴られたらそれは怖いに決まっている。それはわかるのだが、さすがにここまで子どものように号泣されるのはちょっとレアケースである。
誰かが大泣きしている時にはどうしてやるべきなのか、現状自分の中に存在する数少ない引出しを大慌てで探し回って、やっとのことで見つけたたった一つの経験をとりあえず当て嵌めてみる。
「大丈夫です」右手を頭の上にそうっと置いて、ぽんぽん。「そんなに泣かないでください。可愛い顔が台無しです」
自分は昔から泣いていたり褒めてもらったりする時にこうしてくる人が近くにいて、これが好きだったし、とりあえず試しているのだが、柳は丸々に見開いた目を瞬かせキョトンとしてしまった。滝のように溢れ出していた涙は止まったが、これで良かったのかよくわからない。
細かな水滴の付いた長い睫毛が動く度、ぱち、ぱち、と音が聞こえてきそう。困ったなァ、他に方法なんて知らないのに。
「えっと……あ」もしかして自分のことを知らないのではなかろうか、と漸く気付いた。考えてみれば、チーフ自身も名前は知っているものの、実際顔を合わせるのはこれが初めてである。「ごめんなさい、ご挨拶がまだでしたよね」
「へっ?」
「私は、桜庭です。階級は班長です。本所属は本部なのですが、昨年は北部におりまして、先日こちらに配置替えになりました。よろしくお願いします」
「……」
できる自己紹介はこれくらいしかないのだが、柳は相変わらず狐に摘まれたような顔をして固まっている。
「あの……柳さん?」
「へっ?」
ひょっとして、自分が東の人間だと言ったから、そんな反応なのかとも考えた。この街に暮らす人々は余所者に対してとても嫌悪感が強いらしく、自分もまた例外ではない。社内にいても風当たりが強いのは日々感じていて、支部長が馴れ馴れしいのは元々がこの街の出身ではないからだろう。
余所者と話をしていると良く思われないとか、そういう慣例があるのだとしたら申し訳ない。
「すみません。今日は支部長が不在で、代理で自分が参りました。その……もし不愉快でしたらこれで失礼しますので、支部に戻ったら報告をお願いします」
そう言うと、突然今度は慌てふためき出した。なんとも忙しい子である。
「やっ、あ、す、すんまへん! そないなこと、あのッ、違うて——」両手を体の前でブンブンと音が出そうなほど振り回し、そうして漸くそのぷっくりと丸みを帯びた頬に赤みが宿る。「え……、えらい、お綺麗な方やなあ、思いまして……」
「え? ああ、……え?」
「す……すんまへん、しょうもないことを……」
「いや、嬉しいです。えっと……『おおきに』」
「……」
「あれ? ごめんなさい、使い方間違ってます?」
「やややや、合うてます合うてます! すんまへん、すんまへん……」
柳はそういう人形みたいに忙しなく何度も頭を下げている。なぜそんなにも狼狽えるのか——狼狽えるというよりもはやパニックに近いかもしれない。個人的にはその姿が面白くなってきてしまうのだが、顔を真っ赤にして半べそに戻り、俯いているのを見ているとまた大泣きし始めそうで下手なことを言えない。
せっかく褒めてもらったはずなのに、流れている沈黙がとても気まずく感じ、思いつきでポケットに入れていたハンカチを渡した。
「とりあえず、一緒に支部に戻りましょう。濡れたままでは風邪をひいてしまいますから。……よろしいですか?」
柳はおずおずとハンカチを受け取り、へえ、と小さく頷いた。
——その時、支部に帰る道すがら、この橋の上からあの大きな桜の樹が見えたのだ。川の中洲に大昔からあるというその樹は観光スポットとしても人気がある、という話はその時初めて柳から教わった。そして、昔あの場所で殉職したヒーローがいるということも。
この街の住人らの間では有名な逸話らしく、柳はあの桜の元へ行くと悲しくなってしまうから行けないと言った。空から降り注ぐ陽射しをその一身に受けて満開近くまで花を咲かせているその樹の下で、カメラに向かって楽しそうにピースサインをする彼らはほとんどがそのことを知らないと聞いて、なんだかとても申し訳ない気持ちになったことを覚えている。
あの子は元気にしているのだろうか? あれ以降、なぜか「ねえさん、ねえさん」と会う度に後ろをくっついてくるようになったが、もうとっくに三十を過ぎているだろう。ヒーローを辞めていても何ら不思議ではない年だ。馬鹿かと思うほど素直だったから、あの女たらしの支部長が何か言う度に純粋に従おうとしてしまって、守ってやるのが大変だったっけ。
「チーフ」
我に返る。橋の向こうから、小さな影が駆け寄ってくる。今夜、自分を呼び出した依頼主だ。腰を落として構えると、それはまもなく衝撃と共に胸に飛び込んできた。
「今朝ぶりね。旅行は楽しんでる?」
抱きついてくるひなたを体の前で抱えて立ち上がる。が、どうにも様子が変である。
ひなたは首元に回した腕にぎゅっと力を入れて、肩に顔を埋めたままうんともすんとも反応しない。疲れていて機嫌が悪いのか、朝早かったから眠いのか、何となく泣いているようにも感じられる。
「……どうなさいましたか? お姫様」訊ねながら、小さな背中を軽く叩いて摩ってやるも、腕の力は俄然弱まらないし、肩に顔を埋めてものを言わない。
そこへ、ゆっくりと後ろを歩いていた真理子が追いついてきた。
「ごめん、チーフ。まだ仕事だった?」真理子は珍しく恐縮している。
「ううん、今日はもう終わり。何かあったの?」
「なんか怖いんだって」
ひなたは首元に両腕をしっかりと回して抱きついたまま、服をぎゅっと掴んでいる。今朝方の新幹線の中で見たあの嬉々とした様子は微塵もない。
「何が怖いの?」
「よくわからないのよ」真理子は肩を竦める。「けど、不思議な街よね。ここ」
そう言いながら、自分たちの歩いてきたほうを振り返る。ぼんぼりの灯りに照らし出された石畳の道を眺める真理子の感性は、何となく理解できると思った。おそらくひなたはそれを『怖い』と表現しているのだろう。
今朝、駅のホームで別れた後、健一が仕事へ行くのを見送った二人は少しだけ観光をしたり散歩をしたりして街を回っていたらしいが、比較的早い段階からこんな様子だったらしく、チェックイン時刻を過ぎてすぐホテルに引っ込んでしまったという。
「むかァし昔、修学旅行で来た時はそんなこと全ッ然思わなかったけどなァ」
「ババアになったってことじゃないの?」
「黙んなさいよ、あんた」
トラブルに見舞われているという健一は案の定まだ仕事が終わらず、とりあえず晩御飯のために再び街へ出てきたらしい。が、ひなたがあまりに怖がって、チーフを呼びたいとせがむため、ダメ元でポケベルを鳴らしてみたということだったようだ。
「ごめんね、仕事なのに。チーフ、ご飯食べた?」
「まだよ」
「もし時間あるならちょっと付き合ってくれない? あたし、この辺全然わからないし」
「アタシも詳しくないけどねェ」
以前、西部支部に所属していた頃に一時住んでいたが、離れてもう五年以上が経つ。いくら古の街とはいえ、それだけ年月が経てば変わるもののほうが多い。今も少し歩いてきただけで、最近流行りのスイーツ店やカフェなどの新しい店舗をいくつも見た。この辺りでどんな生活をしていたか、思い出すきっかけになりそうな景色はあまり残っていないように思える。
「お姫様は何をお召し上がりになりますか?」
訊ねるとコソコソとひなたが耳打ちしてくる。「さっきアイスたべちゃったの」
「あら、アタシも食べたかったわ。美味しかった?」
「うん。ママはね、2このやつたべてた」
「ひなァ、何か余計なこと吹き込んでるでしょ」
真理子が頬を膨らませている。耳元で小さく笑っているひなたの様子に少し安堵しつつ、この街の異様さは子どもには刺激が強すぎるのだなと思う。
「そうねェ……」記憶の奥底に眠っていた古い地図を引っ張り出し、頭の中で懸命にサーチする。「……ああ、じゃあお豆腐でも食べますか?」
実は先ほど支部を出てくる時、たまたま入口に立っていたのが自分が西部にいた頃から知る守衛だった。当時その守衛に教わり、よく通っていた店があることをふと思い出した。
「おとうふのおみそしる?」
「ふふ、お味噌汁だけじゃないわね」
昔は店に行ったら話し掛けられる程度には認知してもらっていたが、今も自分のことを覚えているかどうかはわからない。が、あそこならば店の主人が変わっていなければおそらく「なんか怖い」とは感じないだろう。
「変わってなければそんなに高くないわよ。子連れでも入れてくれるはずだし、ひなたはお行儀が良いから問題ないわ」
「任せるわよ。チーフは良いもの食べてそうだし」
「豆腐ならアンタがどんだけ食べても罪が軽くて済むと思うの」
「あんたはね、一言多いのよ、一言!」
アイスを二つも食べたのなら全然多くない一言だと思うのだ。今のヒーロースーツがキツくて入らないと言い出したらタダじゃおかない。
姫は歩きたくないと言って降りるのを拒否したので、仕方なくこのまま運搬することにした。自分で言い出した割に、何となくの場所と店構えだけが薄らと頭に浮かぶ程度だったから本当に辿り着けるか不安はあったが、意外とすんなり、当時の面影そのままに店はあった。己の記憶力が衰えていなかったことを褒めたい。
最初に応対してくれた女将は変わっていたが、カウンターの中で菜箸を操る大将は変わっていなかった。やはり十年以上の歳月は感じさせる風貌になっていたが、見た瞬間に同じだとわかった。日頃のラーメン屋とはまるで違う上品な挨拶の際にこちらを一瞥した後、何か留まるものがあったのだろう。もう一度顔を向け、今度は確と目が合い、その瞳がみるみる大きく開く。
「こらまた、えらい懐かしゅう……」
大将は瞬間的に昔のことを思い出したようだ。堅物そうな強面がふと緩み、目尻にくっきりと皺が寄る。
「アタシのこと覚えてはるの?」
「覚えとらん、思い出したんや! そないな髪色、うっとこの街じゃあんたくらいしかおへん」
たしかにそれはそうだ、と納得してしまう。「いけずやわあ。恥ずかしがらんと、ベッピンの顔は忘れられんて正直に言うてほしいわ」
子どもを抱いていたから余計に驚いたことだろうが、まったく似ていないから親がどちらかはすぐに察したと思う。西へやって来て初めて、自分のことを純粋に歓迎してくれる人に会えたような気がして、意外にも安堵してしまった。おふざけの西言葉が自然と口に出たのは当時の名残りだ。
「どないしてん? 仕事か?」
「ええ、そう。ちょっと野暮用で。おにいさん、こちらの可愛い姫に美味しいお豆腐を食べさせてやってほしいと思ったんだけれど、今晩空きあるかしら?」
大将はたまたま今夜キャンセルが出て一つ空いているのだと、奥の座敷に通してくれた。あとから健一がやってくるかもしれないことを伝えて上がらせてもらう。
「あんた、西言葉話せたの?」
「んなわけないでしょ、あんなの『なんちゃって』よ。本物は無理」
方言はその人がその土地で育ったことを示す証。ほんの少し羽休めをした程度の余所者が簡単に習得できるものではない。
ひなたは最初こそ強張っているのが伝わってきたものの、個室に入って注文を取りに来た女将が愛想良く話し掛けてくれるものだから、すぐに慣れてまたご機嫌な姫に戻った。
「うちは二人男の子なので煩くて煩くて。上の子は最近段々口も利いてくれなくなっちゃって……」と笑い、初対面のはずの真理子ともママトークをして盛り上がっていたから母親というのは恐ろしい。
「いつ頃こっちにいたんだっけ?」女将が退室して一息吐いた頃、真理子がそんな質問をしてきた。
「三十の手前くらいに来て……何だかんだ五年くらいいたのかしらねェ」曖昧だが、北部支部から戻ったと思ったらすぐに行かされたから、まだぎりぎり二十代だったのは覚えている。「昨日話したかもしれないけど、その頃はまだ支部長も違って、ギラギラしたオッサンだったわ」
「ええ?」真理子は声を裏返したが、おそらく信じていない。「そんな人、今内側にいた?」
「今はいないわ。とにかくギラギラしている人だったから、あれは辞めさせられたのね、たぶん」
「嘘でしょ? やらかしたわけ?」
「やらかしたっていうか……まァ日頃の行いの積み重ねじゃない? 本当に女好きで、今だったら絶対、即刻クビが飛ぶようなことをやっていたわねェ」
考えてみればやっていることは今の2号と大して変わらないように思うが、あの支部長は自ら口説き落としに行ってしまうから2号より酷い。当時のことを思い返してみると、沸々と笑いが込み上げてしまう。あの人の名前は、何というのだったろうか。「自慢じゃないけど、アタシも口説かれたわ」
真理子は爆笑している。その様子を見ていたひなたは不思議そうな顔を傾けている。「ママ、なんでわらってるの?」
「アタシが昔から可愛くてモテモテだったっていうお話だからよ」
「自分で言うんじゃないわよ」
今でも覚えている。赴任して初日に懇親会をしようと言ってサシで飲みに連れて行かれ、話をしているうちにこれは早いところ真実を伝えてやらないととても申し訳ないことになる予感がして、自分から「ジブンは男ですが、それでも良ければ」と告げた。はじめは当然信じてくれなかったが、いろいろと身分証を出したら理解してくれて、ひどくショックを受けていたし残念がられた。
別に、今も昔も本当の性別を隠しているわけではないし、そもそも桜庭英斗という社員のデータは予め支部長の元にだって届いていたはずで、すべてはそこに記載されている。だから、書類によく目を通してさえいればそんな誤解は生じなかったと思うのだ。もっとも、あの支部長が面倒臭い書類をきちんと読むかと訊かれたら首を傾げてしまうけれども。
——そういえば、そのことを後に葵との電話で伝えたら、珍しく憤慨していたっけ。
しかし個人的にはそんなことはどうでも良く、むしろ当時まだ模索中で不安定だった己の美的感覚を面と向かって肯定されたようなものだったから、正直不快に感じるよりも勝るものがあったのだ。たしかにあの支部長の女癖は褒められたものではなかったが仕事はできる人だったし、意外にも彼はその後、男である自分をよく可愛がってくれたと思う。しばしば良い店があるからと食事やお茶を奢ってくれ、外出に同行させられたこともある。もしかしたら図らずも互いの本性がバレてしまったので、遠慮なくそういう話ができる見た目は『良い女』の同性部下ということで都合が良かったのかもしれない。よく「良いか、女というのは……云々」という話を聞かされたものだ。
だから、不思議と、嫌な印象はない。今の自分を形成している価値観は、ひょっとするとその時代にインプットされたものが大半を占めているのかもしれないし、そもそもあの支部長がああだったのには理由がある——と思っている。それを誰かに話したことはないし、話すつもりもないが、きっと、あの人は、本当は違う。ただ、ああしていなければやっていられなかっただけなのだ、と。
唯一嫌だったのは葵がしょっちゅう怒っていたことだ。あの頃も葵は相変わらず過保護な姉さんだった。
「じゃあ、この店もそのチャラい元・支部長に教えてもらったわけ?」
「ううん、ここは支部の守衛さんが教えてくれたのよ。『若い女の子が一人で行っても平気そうな店』って」
「若い女の子、ねェ……」真理子は薄ら笑いを浮かべている。
「言うとおりそういう店だったから、ここにはよく来たわね」
良くも悪くも当時から代表的な観光地であるため、観光客向けの店舗も多く、下手な店に入ると高くて不味いと守衛は言った。そのとおりだと思ったから素直に信用することにしたのだ。彼の親切には今でも感謝している。
——そうだ。たしか、当時店に立っていた女将は大将の奥方で、同じ年くらいの娘がいるのだと言っていた。だからついつい気に掛けてしまうのだと、よくデザートだ何だと、頼んでもいないのに出してくれた。
「……ねェ、ちょっとお訊ねしますけど、——」料理を並べに来た女将に声を掛けてみる。「以前こちらにいらした女将さん、今どうされてるかご存知ないかしら? もう六、七年くらい前のことですけれど」
「ああ、それならきっと母のことだと思います」
さらりと答えられて驚いた。ということは、この女性こそ当時話に聞いていた同じ年くらいの娘である。
「実は、昨年体を壊してしまいまして」彼女は皿を並べるのと同じように淡々と話す。「元々足が悪くて、近頃は店に立つのもしんどいと話してはいたんですが、夏に入院したのをきっかけに本格的に退くことになりまして」
「そうだったの……」
「ただ父だけですと、やはり、やりくりも大変で。私、大学からずっと東に住んでいたんですけれど、やっぱり私がやるのが一番良いのかなぁと思いまして、仕事を辞めて戻ってきたんです」
「親孝行ねェ、偉いわァ」真理子が感心している。「どうりで東言葉が上手いわけねェ」
「……覚えてらっしゃるかはわからないけど、お母様にはとてもお世話になったんです。もし機会があれば、よろしく伝えてください」
「ええ、もちろんです。喜ぶと思います」
女将はそう微笑むと、変わらぬ口調で並べた料理の説明をして部屋を出ていった。
ひなたは見たこともない姿形になった豆腐を眺めている。柔らかな間接照明がその丸い瞳に反射して光っている。
「これ、みんなおとうふなの?」
「そうよ。ちょっと『おねえさん』な味がするかもしれないけど」
西の食事は上品だから、まだまだお子様なひなたには少々大人っぽかったかもしれないと思ったが、生姜が辛いと言った以外は大体どれもお気に召したようだ。
「あたしもうおねえさんだからだいじょうぶなの」と、ひなたは自信満々な様子で食べていたが、先ほどアイスを食べたと言っていたのにプリンを強請ってくる辺りはやはりお子様である。いつもの調子に戻ったひなたを見て、真理子も少しはホッとしたかもしれない。
あらかた食事を終える頃になって、真理子からの所在の連絡が飛んでいた健一が漸く店に現れた。現場からそのままやってきたのだろう、作業服の上着を片脇に挟み、頭はヘルメットの跡がついて不自然に窪んだヘアスタイルとなっている。
「どうもすみません、いつもいつも……」健一は毎度の如く恐縮しているが、肝心のトラブルのほうは想定より早く片付けられそうだということで、少しホッとした顔をしていた。
「構いません。ちょうど夕食に出ようと思っていたところでしたから。アタシはこれで失礼します」
「え、そんな、のんびりしてってくださいよ」
「いえ、まだ仕事も少しありますから」
「え、何、チーフ仕事終わってなかったの⁉︎」
「いや、違う違う、……——」誤解を訂正しつつ、刹那、何と言えば良いのか迷う。「その……葵に頼まれている土産物を、探さないといけない」
「ああ、それは大事な仕事だわ」一番大事、と真理子は大きく頷いている。
それに一応、明日のくだらない会議の資料くらい目を通しておきたいとは思っている。ホテルに戻って眠くならなければ、の話だが。「あとは家族水入らずで、ゆっくり楽しんでください」
「あしたもあえる?」
自分の知る味噌汁ではない豆腐を食べてすっかりご満悦のひなたは、帰り際にそう訊ねてきた。おそらくこの後自分の食べた料理の数々を健一に説明してあげるのだろう。
「呼んだ人のところに現れるのがヒーローですから」
にっこりと笑いながら、おやすみ、と言うひなたに手を振って、個室を出る。こっそりと大将に声を掛け、ここまでの会計とプラスアルファは勝手に済ませておいた。日頃の鈴木家のカレーと、昨日から続いていた食欲不振を解消してくれた御礼だ。あとは好きにやってくれたら良い。
「お気張りやす」
大将の鋭い眼光。自分の正体を知っていての、その言葉だと思った。
「おおきに」
女将に見送られて外に出るとひんやりとした風が路地を抜けていった。そろそろ冬が近いことを感じる。
ホテルまでの道のりはタクシーを使わなかった。疲れていないわけではなかったし、久方ぶりの満腹感と昨日の寝不足が祟って正直かなり眠いのだが、何となくそうしたいと思ったのだ。この調子では戻って資料に目を通すなんてとてもできそうにない。
ふと、あんなに美味い料理を出す店だったろうかと考えて、やめた。美味しいと思ったのなら、それで良いではないか。
まるで湯たんぽのような不思議な暖かさを胃袋の辺りに抱えながらふらふらと夜の街を遠回りして、とりあえず葵の土産物リストの中からコンビニで手に入りそうなものだけを調達しつつ、ホテルに帰り着いたのはおおよそ三十分以上が経過した頃だった。先ほどのチェックインの際にフロントで貰った入浴剤を使うのを楽しみにロビーでエレベーターを待っていると、ポケットの中で電話が震えた。
スッと、熱が冷める。
鳴ったのは仕事用のほうだった。それも、使うことなどないのではと思いながら遠い昔に登録した、西部支部の緊急用。
「……桜庭です」
——残念だが、入浴剤はおあずけだ。
昨夜、トランクを前に迷っていた自分の勘がほとほと憎らしい。
ヒーロースーツなんか、持ってくるんじゃなかった。
支部に戻り、オペレーションルームに向かうと、ほぼ同じくらいのタイミングで他の支部長たちも集まってきた。部屋の場所は知っていたが、まさか自分がここを使う日が来るなんて思いもしなかった。
紫色のヒーロースーツ——リーダーの菖蒲だけが、現状報告のために戻ってきていた。西部支部所属のヒーローのうち、動けるメンバーは出動済み、全員現地付近で待機しているという。
「湾から遡上してきはったようどす。現在も上流に向かって進行してはります」
「一見さんやな」
西部にとっては初見でも、チーフにとっては見覚えがある。先月討伐した水中型——今日の昼間、会議で報告したばかりの新種だ。
この型は水中にいる間は動きが速く、攻撃を当てるのは葵でも苦労するほどの至難の業だ。そしてもう一つの厄介な問題は、コイツにはタコやイカのように帯状の手足が複数本存在し、水中にいる間はそれが伸縮する点である。
しかし上陸させれば速度が格段に鈍り苦なく仕留められることがわかっているし、サイズもあまり大きくなさそうだから、どこか途中で上陸させれば被害は少なく済むだろう。しかし西部のチームはそれを渋っている。
「引き摺り込まれたら死人が出ますよ」
わかっているはずだ、そんなこと。
しかしそれでも菖蒲に限っては何とかするの一点張りだし、西部支部長もそれを躊躇うのはここが古都だからだ。陸に上げて戦えば古都の破損の可能性は否めない。傷つけないよう注意深く戦闘行為を行なうなんて無謀な話だ。だから、それを許可するということは、古都が壊れても仕方ないと認めたことになる。
「水辺に近づいて戦うのは危険です。ヒーローの安全を優先するなら、可能な限り距離をとって、上陸を促すべきです」
「陸には上げまへん」はっきりと拒否したのは支部長ではなく、菖蒲だった。「うちらが優先するのは古都どす。命に換えても、古都は守ります」
「人の話聞いてないの? 死んじゃうよ?」
「かまへん。うちらは西のヒーローやさかい、覚悟はできとる」
「無駄死にする覚悟なんかいらないのよ。仲間が死なないように考えるのがアナタの役目じゃないの?」
「余所者が口挟まんといておくれやす!」菖蒲は声を荒げる。「支部長はん、うち行かせてもろてよろしおすか?」
「リーダーはあんたや。あんたの好きにしなはれ」
理解しかねる。
ここは自分の管轄外だ。口を出す権利はないし責任も取れない。でも、それで良いのか? 本当に?
西部支部所属のヒーローは在籍が七名——そのうちつい先日の戦闘で二名が立て続けに負傷して離脱しており、動けるのは五名であると昼間の会議で聞いたばかりだ。
負傷したどちらのケースも、相手は決して討伐の難しいモンスターではなかった。それなのに、生死に関わるほどの重傷を負うだなんてどれほど未熟な状態で前線に出したのかと思ったが、違う。二人とも、戦えなかっただけだ。街の損傷を避けるために。
本部と異なり、西部ではチーム全員での行動を基本とする戦い方をしているらしいが、二人マイナスの状態で常に全員が稼働しているとなれば、当然一人の負荷は大きくなる。
「お気張りやす」
「おおきに。行ってきます」
脇を素通りし、菖蒲は部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送る西部支部長が顔色一つ変えないことも、面白くない。何を考えているのかわからない。
それが伝わったのか、支部長はやはり表情そのままに口を開く。「うちかて、あの子らぁが死ぬのは見とうない」
「なら——」
「せやかて、うちは前線には行けへん。現場のことは、現場のモンが一番ようわかってるさかい、うちは口出ししいひんと決めてます」
「だからといって、危険だとわかっていることを黙認するのは違うでしょう」
「なんもなんも、少し落ち着きなさいよ!」割って入ってきたのは北部支部長である。「郷に入ってはと言うだろう。それにこれは西部支部長殿の御采配だ、たかが統括のキミが物を申すのは失礼というもの。ここは『西部ヒーローズ』に任せようではないか!」
この場合の正解は、そうですね、と頷き、ここで共に『観戦』することだ。
しかし、それではきっと後々の自分に、自分で胸を張れない。
「ジブンが礼を失する程度で人が死なずに済むのなら安いものです」
「ああ、これだから二世はよろしくないんだよ! 自分は特別だとでも思っているのかい⁉︎ キミがそうデカい態度をとっていられるのはただの親の七光だろう!」
「そうです」自分が今ここにいるのも、こんな気持ちに苛まれるのも、全部、母のせいである。「アタシ、『伝説』の子ですから」
だから、こんなところでじっと見ているのも無理。
内側のことしかわからない人たちの話をこれ以上聞くつもりもない。
「行ったらあかんえ」背を向けた瞬間、言葉を刺された。一切荒げることはないのに、思わず足が止まるほどに鋭い。「ここは西部や。大事なお客様にそないなことさせられまへん」
「……お客様ですから、好きにさせていただきます」
そのまま部屋を出た。やはりヒーロースーツは持ってきて正解だった。ここで変身するつもりはなかったが、管轄外とはいえ、同僚が死んでいくのを目の前で指を咥えて見ているだけというのは耐え難き苦痛である。
それに、何となく気になるのだ。ほんの僅か——もしかしたら自分の杞憂かもしれないが、先ほど部屋を出ていく時の菖蒲の声が違ったように思う。今朝駅に迎えに来た時の彼女は、嫌味ったらしくも、自信や誇りを纏っていたように思うのだ。しかし、それが先ほどの彼女には感じられなかった。
一見すれば、強く、頼もしく見えた。だが——。
——「桜庭、仲間だけは死なしたらあかんぞ」
声が聞こえる。記憶の彼方からする声だ。
上に行っても忘れるな、とあの人は言った。そういう人だったから、嫌いじゃなかったんだ。口説かれそうになっても、女癖が悪くても、肝心な時にいなくても、彼は根本的にはそういう人だった。
思い出した。彼の名前は、一平和仁。
知っていたのだろう。
彼自身が、仲間を死なせた人だったから。
今、自分一人が出ていって大きく役に立つとは思えないし、反発は間違いなくあるだろう。だが、誰も死なずに事を済ませるくらいのことは、できるやもしれない。それに良くも悪くも、自分は余所者である。
余所者には、余所者にしか、できないことがあるのだ。




