表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/36

第六話 西の英雄(1)旅立ちの日

この話には『東』『西』『南』『北』という地方の、それぞれの特有の言語(方言)が登場しますが、実在する地方ならびにそこで使用されている言語とは異なる、この物語の世界独自のものです。あらかじめご承知おきください。

 季節は巡り秋の気配が強まってきた頃——。

 真理子は退勤後、すっかり日課になったEightでの茶話会を葵と楽しんでいた。今日は久方ぶりにひなたのいない『大人のEight』だから、いつもよりのんびりと茶が飲める。と、そこへ上層部からの呼び出しで遅れていたチーフがげんなりした様子で帰ってきた。

「どうしたの?」

 ドアカウベルからかなり遅れて姿を現したチーフは肩を落としてその場に立ち尽くすばかりで、それを見た真理子は思わずそう訊ねてしまった。一目でわかるほど消沈して覇気のないチーフなど滅多にお目にかかれない姿である。

「どしたどした、こっちおいで」

 カウンターに座っていた葵が体を捩って小さく手招きをすると、チーフはソファの上に荷物を放り出してからふらふらとこちらへ寄ってきた。金色の頭の上にどす黒い雨雲が立ち込めている幻覚が見える。

「大丈夫? オレンジジュース飲む?」

 うんうん、と無言で頷くチーフだが、口は固く結んだままで、なんだか泣き出しそうな顔をしている。いつもならここへ来ると真っ先に手を洗いに行って、文句を垂れ流しながらも真理子の作ったおにぎりを嬉しそうに齧っているのに、今日は葵が勧めた空席にすぐよじ登ってちんまりとしている。ほんの一、二時間前に会社で会った時はこうではなかったはずだが、この短時間に一体何があったというのだろう? お馴染みの紙パックを出してやったらひどく感謝されたのも気持ちが悪い。

「どうした、英斗。ジュース美味しい?」

 葵が椅子を寄せてチーフの背中に腕を回してポンポンと叩いている。それでも黙って頷くばかりでストローを咥えていたチーフだったが、やがて紙パックをカウンターの上に置くと、一つ息を吐いてから、漸く重苦しい口調で言葉を発した。

「……出張になったの」

「出張?」葵が目を丸くしている。「なんであんたが? いつ? そんなの私聞いてないけど」

「だって本当に、今さっき決まったんだもの」

 チーフは深々と溜め息を吐く。普段ならそういう情報はいち早くキャッチしている葵のはずだが、今回のこれは初耳の様子だ。どうやら今日チーフが一緒に会社を出られなかった理由——ちょうど帰りがけに上から呼び出された用件がそれだったらしい。

 羨ましい話である。ヒーローには基本的に出張というものはない。全国に支部が点在していて管轄が定められており、その中をそれぞれのヒーロー部隊が守護しているため、よほどの強敵でもない限りは遠征する必要がないからである。現に、真理子はこれまでヒーローをやっていて遠方に出張したことは一度もない。

「良いじゃない、出張! どこ行くの?」

「良くない‼︎」涙目で睨まれ、反射的に大人しくなってしまう。「三日間も行くのよ? アタシが何したって言うの、拷問よこんなの……」

 真理子からすると理解に苦しむ。出張と言ったって、二十四時間会社に拘束されるわけでもあるまいに、ホテルに泊まったりその土地の美味しいご飯を食べたり、主たる用件以外は旅行へ行くようなものではないか。会社の金で旅行に行けるだなんて、想像するに夢のような企画である。

「だから、ごめん、葵。明日からのローテーション、変更して?」

「や、それは別に良いんだけどさ、行き先は北? 南?」

「……西」

 チーフがぽつんと呟いたそれに、葵はプッと笑って何度も首を縦に振った。何かを悟ったらしい。「御愁傷様ァ」

 皮肉たっぷりの台詞を投げ掛けられ、チーフはとうとうカウンターに顔を伏せてヤダヤダと駄々を捏ね始めてしまった。その背中を相変わらず不吉な笑みを浮かべた葵が優しく撫でている。

 ここまで子どもになってしまうチーフはかなり激レアだし、ひなたでもこうはならない。個人的には動画でも撮って、何かに備えて保存しておきたいレベルである。

「西って西部支部のことよね? なんでそんなに嫌なの?」真理子は本部で雇用されているため、行ったことがないどころか本部以外の支部のことは時折全国ネットのテレビなどで報じられるのを見る程度で、その情報量は一般人とさして変わらない。「良いじゃない、あたしも粉モン食べたい」

「なんでアンタはすぐそうやって肥大化しようとすんのよ!」

「八つ当たりしないの。ごめんね、真理子ちゃん」葵はチーフを宥めながら代わりに謝罪してくる。「西はねェ……ちょっと難アリなんだ」

「西だけじゃないわよ、支部はどこも変!」

「いやいや、あの西の感じは特別よォ。あれなら南のほうがマシね」

 チーフと葵のそんな会話を聞いていてもやはりピンとこない。と、真理子が首を傾げたままでいることに気付いた葵は、苦々しく補足をしてくれる。

「あそこね、すごく変わっているんだよ。女しかいなくてさ、表も裏も内側も、ほとんど女なの」

「え、何それ、大奥?」

「いや、まさにそんな感じだよ!」冗談のつもりで言ったのに、葵の声色がワントーン高くなった。「すごい、良い例え!」

「そ、そうかな?」

「本当ね、異様なの、雰囲気が。特に今の支部長がヤバい、本当、いろいろと……強すぎ、癖が、……」葵は興奮しながらも途中で堪えられなくなったのか、チーフの丸まった背中に顔を伏せて抱腹している。「あんた大丈夫ゥ? 殺されちゃうかもしれないよねェ」

「笑い事じゃないのに……」

「ごめん、だってさ、……」葵は緩んだ口元を袖口で隠しながら憐れみの目を向けている。「でもあんた何しに行くの? 統括の用事ってないじゃん、まさか討伐応援とかじゃないよね?」

「……ただの会合よ。代理の、代理でね」

 普段よりもさらに低い声でチーフは答えた。

 シールドが壊れて再びモンスターが襲来する世の中と化してから、討伐状況の報告や新種のモンスターの情報共有などの目的で頻繁に各組織のトップ会合が行われるようになったのは真理子も知っている。が、当然トップ会合であるから出席するのはいつも本部長で、そこから長い伝言ゲームを経てチーフが情報を要約し、伝達してくれている。

 机に突っ伏していたチーフが漸くむっくり起き上がる。死んだ魚の目というのはたぶんこういうのを言うのだと思った。先ほど見た雨雲の幻影はまだ頭上に滞留し、今にも大荒れの嵐と化してしまいそう。

「元々今回は、選挙関連の公務で本部長が駄目だからって、副本部長が代わりに行く予定だったのよ。それが行けなくなって……」

「なんで? 副本部長も選挙? 平和だねェ、みんな」

「違う」チーフは頭を小さく左右に振る。「副本部長は、ノロウイルス……子どもにもらったんだって」

「ああー……」そういうことね、と葵と二人で何度もゆらゆらと頷き合う。「そりゃ無理だ、一大事だもん」

「でしょう? 行ったらバイオテロだし、トイレからテレビ会議じゃ行く意味ないもの」

 最近寒くなってきたせいか、ひなたの学校でも流行り始めているらしく、注意するよう学級新聞にも書いてあったのを思い出す。まさかこんなところでその影響を身に沁みて感じることになるとは。

「要するに玉突き事故ね。まァ古巣に顔出すと思ってさァ、気楽に行きなよ」

「どこがよ、全部変わってて懐かしくも何ともないわ」

「何、チーフも大奥にいたの?」

「違う! 当時は大奥じゃなかった!」その否定にはかなりの焦りが窺える。「女好きの支部長はいたけどね、今よりずうっとマシだった!」

「あれもかなり問題だったけどねェ」葵はその支部長を知っているらしく、沸々と思い出し笑いをしている。「結局それが原因でいなくなったようなもんでしょ?」

 笑って軽く流すような内容ではない気がするが、二人にとってはさして問題ではないらしく、呆然と会話を聞いていた真理子はすっかり置いてけぼりを食らっている。

「どうすんのよ、中央だって手薄にできないし、だから頑張って三日にしてもらって……」

「それでも三日かァ……ハハ、きっつ、私絶対やだわ」

「人ごとだと思って‼︎」チーフは怒って再びカウンターに両腕を突いて伏せてしまった。「もう良いわよ! もうアタシ向こうで死んじゃうかもしれない、空気が合わなくて息ができなくて窒息死よ、きっと」

「アッハハ、大丈夫だってェ! いっくら『大奥総取締』だって何も殺しゃしないって。取って食われるかもしれないだけで」

「バカバカバカ、意味おんなじじゃない! 葵の阿呆!」もう良いもう良い、と繰り返しながらチーフは席を立ち、大股でソファのほうへ荷物を取りに行ってしまった。「もう帰る!」

「え、何か食べない?」

「いらない! 葵には虐められるし出張のこともあるしもう食欲ない! 新幹線始発なの、じゃあね、戸締りしてってよね!」

 チーフは鞄を引っ掴みながらマシンガンみたいな勢いでそう言うと、綺麗な金色の髪を振り乱して店を出て行ってしまった。葵はその様子を見てまだくすくすと笑っている。

「余裕なさすぎ」

「あんなに嫌がるの珍しいわね」

「本当に嫌なんだろうね。わからなくはないけど」葵はすっかり冷めてしまったであろう珈琲を口に運び、一つ息をついてから続ける。「前はねェ、全然変じゃなかったんだけど、今の支部長になってから本当変わってね、あれよあれよって、女だらけの組織になっちゃってさ」

「そんなに変わるもの?」

「まァ……トップの色はね、出るよ」葵は苦笑いを浮かべている。「たいていの人はさ、英斗が男だなんて、言われなきゃわかんないでしょ?」

「ええ、言われてもわからないわ」

「それがあそこの人は下手すると一瞬で見抜いちゃうだろうからね、それも嫌なんじゃないかな」

 真理子は何年もずっと気付かなかったし、今でも女の子だと思っているのに、西部支部とは一体どんな目利きがいる組織なのだろうと興味すら湧く。

 チーフなんていつも意地悪ばかり言うし、勝ち気で気丈で、真理子に対するハラスメントの応酬は茶飯事である。こういう時こそザマアミロと言ってやるチャンスなのに、なぜ自分は、あろうことか気の毒だなんて思ってしまうのだろう? 「お人好し!」とチーフが自分を怒る理由に初めて納得がいった。

「あたしが代わってあげたいくらい」

「たしかに真理子ちゃんなら上手くやっちゃうかもね」

 コーヒーカップを空にした葵は、次にチーフが残していったオレンジジュースの紙パックを手に取り、残りを飲んで解体している。「まァ、ただの会議だから、心配ないよ。あんなでも、あの子は仕事はちゃんとやる」

「葵ちゃん、大丈夫?」

「え? 何が?」

「何が、って……——」訊かれてみるとたしかによくわからない。何がって、何なんだろう? 自分で訊いておきながら意味不明だ。

 葵はぺしゃんこに潰して丸めた紙パックを差し出してきた。「ごめん、これ捨ててくれる?」

「あ……うん」

 平然としているものの、さすがの情報通の葵も管轄外の西部で起こったことは感知できないらしく、珍しく少し気にしている様子が見受けられた。この二人がそこまでして警戒する西部支部とはどんなところなのか、真理子の興味は唆られるばかりなのであった。


 その後、真理子が自宅へ帰ると、玄関を開けるや否やその音に反応した健一がすっ飛んできて、突然頭を下げだした。

「ママぁ、ごめん! ほんっと申し訳ない!」

 額が膝につきそうな勢いのお辞儀に、思わず靴も脱がずに後退ってしまった。「え、何? あたし、何かされたの……?」

 何事かと驚いていると、健一は深々と下げた頭の前に合わせていた両手をおずおずと下げて、上目でこちらを見た。

「実は……、現場でトラブルがあって、明日、対応で、急遽出張しなきゃいけなくなっちゃって……」

「え? 大変じゃない。大丈夫なの?」

「ああ、いや、トラブル自体はそんなでもないんだよ!」今度は両掌をこちらへ向けて、顔と共に勢いよく左右に振っている。「ただ、お客さんの手前、落ち着くまで俺が面倒見なきゃいけなくてさ、申し訳ないんだけど、何日か、家を空けることになりそうなんだよ、ね……」

 健一は終始恐縮している。おそらくひなたの面倒を見るのに真理子が都合をつける必要があるからだが、いつも家のことをすべて任せきりにして仕事をしている恩もある。せめてこういう緊急時くらいは何とかしたい。

「大丈夫よ。気を付けて行ってきて」

「え、ママ、大丈夫なの? 本当に? だってヒーローは?」

「こっちは気にしないで。頼りになる上司が二人もいるんだもの、何とかなるでしょ」一人はメソメソしていて頼りにならなそうではあったが。「大丈夫大丈夫!」

「ありがとう! さすがママだよ、愛してるよ! ちゃんとお土産も買ってくるから!」

 健一は真理子の両手をギュッと握ってまた深々と頭を下げると、始発に乗るからと忙しなく寝室へ向かった。

 靴を脱ぎ、漸く家に上がる。出張用の旅行鞄に荷物を詰め、いそいそと玄関と寝室の間を往来している健一を見ながら、ひとまず葵に状況を話して相談してみようと考え、鞄からスマホを取り出す。先ほど店で分かれたばかりだからもしかしたらまだ帰り着いていないかもしれないが、明日からチーフはいないし、あの状態では連絡する気にもなれない。

「でも面白いもんよねェ、同じ『出張』なのに人によってこうも違うなんて」電話帳から葵を探しつつ、支度をする健一に何気なく話し掛ける。「チーフなんてさっき、この世の終わりみたいな顔してたわよ」

「え、何、桜庭さんも出張?」

「そ。内側の人はあるんですってェ。良いじゃないねェ、用事が済んだら美味しいものくらい食べられるんじゃないの?」

「ハハハ、ママは食いモンばっかだな!」健一はヘルメットのせいでパンパンになった鞄のジッパーを懸命に締めながら笑っている。「まあそうだな。俺はまず怒らんなきゃいけないと思うけど、落ち着けば飯くらい食えるだろ」

「良いなァー! ねェ、ところで出張ってどこ行くの?」

「え? ああ、ごめんごめん、言ってなかったっけ! 今回は、——」

 健一の口から飛び出たその回答に、真理子は驚くこととなる。


* * *


 夜明けの頃、自分とよく似た寝ぼけ眼の蒼い街は少しひんやりとしていて眠気覚ましにはうってつけだった。いつもごった返している駅の構内はまだ人の姿もまばらで歩きやすく、想定よりも早く乗り場に到着してしまった。なんだか行くのが楽しみで仕方がない人みたいで嫌だ。

 出張なんていつぶりだろう? この会社の支部は全国にあるが、内側にいても統括程度のポジションの人間が所属の管轄外へ出るのは稀で、今回のように誰かの代理とか、他支部からの応援要請とか、そういった特例に嵌まらなければ出張させられることなんてまずない。新幹線に乗ること自体が珍しく、切符の買い方を忘れていなくて良かったとつくづく思った。

 新幹線が運休になってくれたら良いのに、と縁起でもないことを心の奥底で願いつつ、いつだかの記憶を辿り、始発に間に合う時間帯で唯一開いているチェーンのコーヒーショップに立ち寄ってから、出発を待つ新幹線の2号車に乗り込んだ。お気に入りというわけではないが、何となくいつも座る八番目の窓側——本当はE席が良かったが、先客のものと思われる鞄が座っていたので反対側のA席に座った。

 荷物を載せて身の回りを整理し、漸く落ち着いた頃になって、思い出したかのように睡魔がやって来る。

 仕事なのだからと割り切っているつもりでいるのに、腹は減らないし昨夜は結局ほとんど眠れなかった。ぼんやりと外を眺めながら、その鬱々とした気分を買ってきた熱い珈琲で流し込む。胃が重いのは寝不足のせいか、それともこれから行く先のことを考えているせいか。このままだとせっかく一緒に買ってきたスコーンが無駄になりそうな予感がする。

 もう既に帰りたい。だが、無情にもまだ仄暗いホームに鳴り響く出発のベルが車内まで聞こえてきて、自分を乗せた新幹線は静かに滑り出した。

 諦めと共に目を閉じ、余計な思考回路を切断する。BGM代わりの車内放送がすぐ次の停車駅に着くことを告げている他は、時折足音が通り過ぎていくくらいでとても静かだ。

 と、後方の車両から子どもの声が入ってきたような気がする。すぐ近くで何かを見つけたと嬉しそうにするその声はどこか聞き覚えがあるが、子どもの高い声なんて皆似たようなものである。これから家族旅行にでも行くのか、早朝にもかかわらず気分が浮き足立っているのが聞いているだけで伝わってきて羨ましい。自分もできれば新幹線にはそういう気持ちで乗ってみたいものだ。

 小さい頃、母にどこかへ連れて行ってもらった思い出はないし、中学も高校も修学旅行には行かなかった。だから新幹線なんて乗ったことがなくて、この仕事に就いて地方転勤の辞令が出た時に初めてその乗り方を知った。この列車に乗るスーツを着ていない人はほとんど——中でも学生服を着た集団は特に嬉々としていて、彼らは自分とはまるで別の世界に住んでいるのだと感じた。西部支部のある街は修学旅行先としても観光地としてもよく選ばれる地域だったから、新幹線を降りたばかりの彼らに遭遇することもままあって、横目に見る度に、動物園にいる珍しい生き物を見ている気分だった。

 もしや、今あの街は一年で最も観光客の多いシーズンではないかと気付く。また訳のわからない人混みに揉みくちゃにされるのかと思うと、一層気分が重くなる。

「お隣よろしいですか?」

 そんなことを考えながら飲んだ味のない珈琲の熱さが喉元を通り過ぎている時、不意にそう訊ねられたのは自分だと思った。いつの間に三列シートを埋めてしまうほど混んだのかと驚きながらも「どうぞ」と何気なく顔を上げた、その瞬間、飲んでいた珈琲を吹き出しそうになった。

「——ッんでアンタがここにいんのよ⁉︎」

 センスのない私服姿でそこに立っていたのは真理子で、嬉しそうに隣の席によじ登っているのはひなたであった。

 咽せ返りながらやっとのことで訊ねるも、真理子は笑いながら大きな旅行用鞄を頭の上の荷棚に放り込んでいる。

「いやァねェ、旦那が急に出張になっちゃってさァ!」よっこらしょ、と豪快な溜め息と共に通路側の席に腰を下ろす。「そしたらなんと行き先が同じだったのよ、もう超偶然よねェ、笑っちゃったァ!」

「お願い、いろいろ恥ずかしいから静かにしてて」

「あ、ごめんごめん。でも会えて良かったわァ、偉くても自由席なのね」

「当たり前でしょ、経費削減よ!」

「グリーンでも乗ってたらどうしようかと思っちゃった」

 そんなものに乗れるのはくだらないステータスしか気にしていないお偉いさん方だけである。

 文句の一つ二つでは済まないくらいに言いたいことは山ほどあるが、隣の席から嬉しそうな満面の笑みを向けられているとそうもいかない。

「おはよう、チーフ!」ひなたは三列シートの真ん中に腰掛け、両手を両側の肘置きに置いてご満悦の様子である。

「……おはよう、ひなた。会えて嬉しいわ。こんな朝早くから二人でお出掛け?」

「ううん、パパはあっちにいる」ひなたは後方のオフィス車両を指差した。それに真理子が横から補足をする。「なァんかねェ、トラブっちゃったんだって。昨日帰ったら急に言われてさァ」

「だからってなんでアンタがついて来るわけ?」

「旅行よ」

「でしょうね。そんなイカれた格好で仕事に行く奴いないわ」

「失礼ね。安心してよ、ヒーロースーツは持ってきたから」ドヤ顔で膝の上のトートバッグを叩いているが、旅行に行くのになぜそんなものを持ってきているのか理解不能だ。「一応非番扱いなんだもの。誰かさんのおかげで有給残ってないから、葵ちゃんが融通してくれたの」

「なんで葵が?」

「しばらく旦那がいないから、あたしがひなのこと見なきゃいけないって相談したのよ。そしたら「じゃあ旅行でも行ってくれば?」って言ってくれて」

 その光景が目に浮かぶ。本当にとんでもないことをしでかしてくれる奴だ。

 呆れて何も言えなくなったところへ、さらに真理子からのダメ押しの一言が飛んでくる。「あ、お土産よろしくって葵ちゃんが。昨日言うの忘れちゃったからあとでリスト送るって」

「……」

 どいつもこいつも何もかも滅茶苦茶だ。とうとう何か言い返す気すらも失せてしまい、倒していた背凭れに体を預けて深々と溜め息を吐いた。

「あのね、チーフ、——」とんとん、と小さな手に腕を叩かれる。「あたし、しんかんせんはじめてのるの」

「そう、楽しい旅になると良いわね。……お外見る?」

「うん。あとね、かみのけゆわいてほしいの。ママにあたらしいの、かってもらったんだぁ」ひなたはそう言いながら、ご自慢のリュックから新品の頭飾りを取り出した。青色の細いゴムに、青い透明のウサギ型の飾りが付いているものを二つ、チーフが出した掌に載せる。

 すべてを諦め、珈琲のカップを窓際に置き直してテーブルを畳むと、ひなたを持ち上げて膝に乗せてやる。「さて……今日はどうなさいますか? お嬢さん」

「かわいくしてほしいの」

「それは難しいご注文ですねェ」

「あのね、チーフ。このまえのやつがすきなの。ここがね、ギザギザしてて、こっちがくるんってしてて、かわいいやつ」ひなたは自分の頭のあちこちを一生懸命指で差して説明してくれる。

 こっちがくるん、はおそらくその時のひなたの髪についていた癖の産物なのでどうしようもないが、その他はきっと編み込みのことを言っている。ひなたに施したアレンジのうち、出来上がりに可愛いと即答するものは編み込みや三つ編みが入っていることが多いから、おそらくそれが好みなのだろう。

「ああ、あれね。かしこまりました」真理子から櫛を借り、小さなお姫様のお仕立てをする。

 ひなたはずっとキラキラした眼で高速で流れる窓の外の景色を見ていた。きっとチーフが話し掛けるよりもそちらのほうがずっと気持ちが惹かれるのだろうと、今は可愛くするというオーダーに応えることだけに集中することにした。気分を落とすことしか能のない無益な思考回路を強制的にシャットアウトできるのは、正直助かる。

 ——昔みたいに。

 小さい頃はもっと自然にそういうことができたはず。むしろ得意なほうであったはずなのに、最近それらを抑えるのがとても難しいと感じるのは年のせいなのだろうか。本を読んでいても運動していても、ひなた用の新しいヘアスタイルを探していても、付き纏ってくる嫌なものを払い除けられないことがあって、頭が痛い。

「……はい。できましたよ、お(ひい)様」

「おひいさまってなに?」ひなたが上半身を捩ってこちらを向く。集中した甲斐あってイメージどおりのヘアスタイルが完成し、自分としては満足である。

「おひめさまってこと」

「あたし、おひめさま?」嬉しそうに照れ臭そうにニコニコと笑うひなたはしばらくその特等席から退く気はないらしい。

 せっかく寝ようと思っていたのにすっかり眠気も覚めてしまったし、そもそもこの状態では到着まで寝られそうにない。真理子がきちんと席に座るよう注意しているが、重いわけでもなし、別にこのままでも構わないと思った。先程まで抱えていたはずの鬱蒼とした気分は、不思議なことにいつの間にやらどこかへ消えている。

「チーフ、わるいやつとたたかいにいくの?」再び自分の座席によじ登りながら、ひなたが訊いてくる。『わるいやつ』とは一体何のことを言っているのだろう? もし支部長のことだとしたらとても面白い。

「悪い奴ではないわよ」

「ふうん……でも、げんきがないねぇ」

 そんなことはない、という嘘が咄嗟に出てこなかった。笑って誤魔化すが、こんな子どもにまで勘付かれてしまうくらいに自分は鬱々としているのかと思うと、本当に嫌気が差す。

「じゃああたしがおまじないしてあげる」

「え、おまじない? どんな?」

 するとひなたは何を思ったのか、隣の座席の上で膝を立てて小さな手でチーフの頭を撫でてくれた。「チーフは、つよくて、やさしくて、かっこよくて、かわいい」

 そう言われ、葵が真理子に非番をやって寄越した理由が何となくわかったような気がした。

 撫でられたところがむずむずしてくしゃみが出そう。「……ありがと」

「げんきになった?」

「ちょっとなったかも」

 そして突如横からずいっと伸びてきた真理子の手には、可愛くも何ともない丸いアルミホイルの包みが載っている。

「——ったく、そんなんじゃ『大奥総取締』に勝てないじゃない。シャキッとしなさいよ、シャキッと! いつもあたしに怒るみたいに」

「……」

 何とも悔しい気持ちを噛み締めながらその包みを受け取る。相変わらずスコーンは食べる気がしないが、なぜかそのアルミホイルの中身には唆られた。




 数時間の後に目的地で新幹線を下車すると、真理子とひなたは別車両に乗っている健一を探してホーム上を見渡した。案の定、観光シーズンということもあって駅は降りてきた観光客でごった返しており、その中から一人を見つけるのはなかなか骨が折れると思われた。

「じゃあね、真理子。旅行楽しんで。ひなた、またね」

 チーフは慌ただしさに紛れて早口で別れを告げると、ストーカーするなと釘を刺し、一人でそそくさと改札に向かう。真理子は何か言いたげではあったが、ばいばい、と手を振るひなたにだけ笑顔を向けてその場を立ち去った。個人としても上司としても、真理子を西部支部長には会わせたくないと思った。

 古都として世界中に名を馳せる西部の街だが、駅舎はそうとは思えぬほど近代的な作りの建物となっており、多くの在来線も乗り入れているため非常に複雑である。以前この街にいた時も慣れるまでにそれなりの時間を要した記憶がある。その頃から大きく変わっていないことを信じ、古の感覚を頼りに乗り換えのバス乗り場へ向かう。

 案内板を横目に改札口へ近づいていくと、急に視線を感じて体が強張った。元を辿ると、正面で二人組の女性が立ち話をしながらこちらを窺っている。何も語らずとも、同業者だと察した。片方は紫、もう片方は黄色。黄色いほうが頭一つ小さく、女性の中でも小柄な部類に入る。おそらく紫のほうが立場が上だろう。

 目を逸らさずに改札を出て、ゆっくりと彼女たちに歩み寄る。

「ようこそおこしやす。統括はん」

 黒い結い上げの髪に紫色の飾りをしたほうが微笑みかけてくる。この揺らぐような口調を聞くと西部に来たことを実感する。「菖蒲(あやめ)どす。これは山吹(やまぶき)。よろしゅうお頼申します」

「本部統括の桜庭です。……迎えは、頼んでいないはずですが?」

 二人はいやらしい微笑みを浮かべたまま訳を話そうとはせず、ついてくるようにとだけ言った。外のロータリーに停まっていた車の後部座席に乗るよう促され、ドアまで開けられた。二人とも微笑んでいるだけなのに、この威圧感は一体何なのだろう?

 乗らないという選択肢は与えられていないと瞬間的に察した。大人しく従って乗り込むと、すぐに車は動き出し、まもなく駅は見えなくなった。車内とは思えないような香が鼻をつく。

 誰もが一言も言葉を発しないまま車は走り続け、まもなく観光客で混雑する街中を抜けて住宅の建ち並ぶ閑静な地域に入っていった。三十分もしないうちに車は目的の支部に到着し、再びドアを開けられる。

 ——ああ、そうだ。こんな場所だった。

 降りた瞬間、懐かしいと感じた。そこに棲む人間は変わっても、風格は自分がいた頃のまま変わっていなかった。

 西部支部は日本庭園の中に屋敷があるような佇まいをしており、同じ会社とは思えない。初めてここへ来た時も、歴史か何かの博物館とか、文化財の類か、或いはどこかの金持ちの大邸宅かと思った。同時に、門から建物までがかなり離れているため、一度中に入ってしまうと鳥籠に放り込まれたかのような錯覚にも陥る。

 朝の陽射しの中に枯れた草木の香りがする。先ほど山吹と紹介された小さいほうの女性が屋敷の中へ案内してくれた。なるべくゆっくり歩くように気を付けたつもりだが、自分から比べて頭二つ分以上背が低い彼女はどうしても小走りになってしまい、前を行くその姿が栗鼠みたいに見える。ちょろちょろと走る度、菖蒲と同様結い上げた髪に挿さる簪の飾りが忙しなく揺れている。

 屋敷の中で一番奥の部屋に通されると漸く大奥総取締——西部支部長がいた。更に今回呼び集められた他支部の長も顔を揃えている。

「これはこれは……また随分と可愛らしい統括はんが来はりましたなあ」

 以前自分がここに所属していた時の支部長は、自分が本部に異動してまもなく退いてしまったから、現支部長には初めて会う。前支部長の時はこのようなはんなり口調でもなかったし、香で鼻が曲がりそうな思いをした覚えもない。無類の女好きではあったが、自分はあっちのほうが性に合っていたと再認識すると共に、交代したのが自分がいる時でなくて本当に良かったと心底思った。

 初対面に障らない挨拶をして、本部のツートップが揃って会合に出席できないことを詫びた。本来であれば統括程度の肩書きの人間が出て良い会合でないのは事実である。この部屋の中にいるのも全員が他支部の支部長クラスであろう。東部支部長だけは本部と連携した組織であるため顔を知っているが、他は初対面となる。もっとも、その隣に立っているのが南部支部長であろうことは、その雰囲気だけでわかるのだが。

 その時、部屋の扉が開いて男性が一人入ってきた。

「いやあ、お待たせして申し訳ない! 飛行機が遅れてしまって!」北部支部長だろうが、びりびりと鼓膜の振動を感じるほど声がデカい。「どうも支部長! この度はお招き感謝します!」

「相変わらず元気そうやなあ」

「やや! 支部長殿もご機嫌麗しゅう!」

 皆平然としているのが不思議で仕方ない。爽やかなのはよろしいとして、この密閉された空間でこの声量を聞き続けたら耳鳴りがしてしまいそうである。まだ内側に入って間もない頃に北部支部へ異動していた時期があるが、その時の支部長はもっと年配の男性だった。話をしていると心地良くて眠くなってしまうくらいにのんびりとした、物静かな人だった覚えがある。

 と、西部支部長への挨拶を終えた北部支部長は、くるりとこちらを向いて他の支部長への挨拶をした後、目の前に歩み寄ってきた。

「キミが本部の代理代理の統括クンだろう⁉︎」

「……はい。桜庭です。この度は——」

「キミの噂は北の果てまで届いているよ!」

「はい?」

「ここにいるみーんなキミのことは知っているさ! 何せあの『伝説』の再来だからね!」たしかに四方から視線を感じるが、そちらを見るのが怖い。「いやあ、こうしてお目にかかれる日がくるとは! 本物はやはり一層美しいね!」

 勝手に手を取られてブンブンと握手される。何と答えるのが正解なのかわからない。

 冗談だろう? こっちは何も知らないというのに、気持ちが悪いことこの上ない。おまけにこの中では自身が最も立場が低いため、返答一つにも気を配らなければならずやりづらくて仕方がない。

「なんもなんも! 気負わずにいこう、期待はしていないから! 政治家でもタレントでも、二世に実力が伴わないことくらい、どの業界でも常識だからねえ!」

 北部支部長はそう言って左の肩を激しく叩いて豪快に笑った。なんと爽やかなありがたい御言葉だろう。

「ありがとうございます」

 営業用の顔でそう微笑み、和やかに話を終わらせたが、やめておけば良かったと少し後悔した。

 ——……帰りたい。

 東に、Eightに帰りたい。全然静かではないし、仮眠なんてとんでもないし、もしかしたらまたゴ**リは出るかもしれないが、それでもあそこに帰りたい。冗談のつもりだったが、こんな空気の悪いところにいたら本当に窒息してしまいそうだ。

 これがまだ初日の、それもまだ始まってもいないただの前座なのかと思うと、溜め息しか出てこない。息ができなくて死んでしまう前に、一刻も早くここから消えたい。


* * *


 ぽかぽかと柔らかな昼下がりの陽射しを浴びながら、街の中央を流れる川の土手に腰を下ろして持参したおにぎりを頬張る。その隙間でついつい漏れてしまう数々の溜め息は、決して体力的な疲れからくるものではないと、真理子は何となく勘づいていた。

 今朝方、駅に到着した人の波が去った頃に漸く健一と合流することができた真理子だったが、健一は改札を出るとすぐ問題の現場へと向かった。健一の乗ったタクシーを乗り場で見送った後、ひとまず真理子は読めない地図を片手に西の街をひなたと散策することにした。

 特に行きたい場所や見たいものがあるわけではなかったが、せっかく遠路遥々やって来たのだからと、オーソドックスな観光ルートでも巡ってみようと考えたのが間違いだった。ちょうど紅葉狩り真っ只中の西の街はどこも観光客でごった返しており、土地勘のなさと慣れない人混みに、大して歩いてはいないはずなのにどっと疲れてしまったのである。

 まだ幼いひなたは神社仏閣に興味があるわけでもなく、真理子自身も学生時代に勉強したような気がするだけで寺も仏像もすべて同じに見える。結局午前中は有名どころを一つ見に行ったくらいで、たまたま通り掛かったこの陽当たりの良い河原で小休憩と思って何気なく腰を下ろしたら、立ち上がる気が失せてしまった。

「ママ、またうめぼしいれすぎたでしょー」隣でおにぎりを齧っているひなたからクレームが入る。「すっぱぁい」

「ごめェん。大きい梅干しだったのよォ」

「はんぶんにすればいいのにぃ」いつかどこかで聞いたような台詞である。自分の娘が日に日にどこかの誰かに似てきているような気がするのは思い違いだということにしたい。

「チーフ、いじめられてないかなぁ?」

 不意にひなたが寂しそうに言った。

「どうしてそう思うの?」

「ここのひと、なんかみんな、こわい」

「ええ?」

 一瞬その感性に驚いたが、たしかに言われてみると、街の人たちは皆にこやかだがどこかよそよそしく、その笑顔に威圧されているかのように感じて、何となく居心地が悪い。それは旅先の右も左も知らない土地だからそう思うだけなのかと考えていたが、子どもまで何となくそう感じるとはよっぽどである。

「……、大丈夫よ! ひなのおまじないがあるもの。チーフは強くて優しくて格好良くて可愛いんでしょ?」

「うん。あたし、おひいさまだから、かえってきたらあそんであげるの」あのチーフを完全に従者として扱っているのだから、我が娘ながらとんだ大物である。

 健一はトラブル対応のため何時に戻ってくるかわからないと言っていたし、ひなたもこの調子なので早めにホテルに入ることにしよう。

 同時に自分もまた、チーフは大丈夫なのだろうかと心の片隅で案じていることに気付いて可笑しくなる。チーフはそんなタマじゃないことは、よく知っているはずなのに。

 ひなたは口を動かしながら、中身のなくなったアルミホイルを小さく丸めて差し出してきた。それを持ってきた袋に入れて鞄にしまう。

「ひな、アイスでも食べに行こうか」

「またたべるのー?」

「あれ、いらない? デザート」

「うーん、あたしはいいけどぉ……」くねくねと首や体を左右に動かしながら、こちらに視線を流してくる。「ママ、またチーフにおこられない?」

 姫様はよくご存知で。

「内緒にしとけば大丈夫よ」


* * *


 街は暮れなずみ、秘色の中に歩道の石燈籠が仄かに揺らぎ始める頃、巡回に出ていた菖蒲は、組んでいた山吹に先に戻るよう伝え、その足で町の中央病院に立ち寄った。

 ここへは二週間ほど前からよく来るようになった。前線での戦闘中に負傷した二人がここに入院しているからだ。

「菖蒲ねえさん、——」

 ちょうど看護師に車椅子を押されて戻ってきた牡丹(ぼたん)と病室の前で鉢合わせた。牡丹は目を丸くして、それから恐縮そうに肩を窄め、下を向いてしまう。「また来てくれはったんどすか」

 菖蒲が訪ねていく度に、牡丹はそう言って小さくなってしまう。怪我をしたのは彼女のせいではないはずなのに、意識を取り戻して以降、申し訳ないとばかり口にする。

 牡丹を連れてきた看護師に自分が代わると申し出て、二人にしてもらった。

「怪我はどないしはった?」

「いつもすんまへん。おかげさんでだいぶ良うなりました」

 とは言っても、頭部の外傷に加えて右足と肋骨が数本、完全に折れていると聞いている。怪我が治っても、落ちた筋力を元に戻さなければ現場には出られない。復帰するのはまだだいぶ先になるだろう。

「顔の傷、残らんくて()かったなあ」

「先生の腕が良うて、綺麗にしてもらいおした」

「無理したらあかんえ? みんなのことは気にせんでええ、しっかり治さな」

「ねえさんこそ、うちのことなんか気にせんといてください。ただでさえ大変な時期に穴開けてもうて、うちみんなに申し訳のうて……」

「あんたが気にすることやあらしまへん。何遍も言うとるやないの」

 今でこそこうして会話ができるほどに回復したものの、負傷した当初はかなり危険な状態で、手術を経て一週間は目が覚めなかった。「生きててくれはっただけでええんや」

「せやけど、うち、瑠璃(るり)ねえさんにも心配掛けてもうて……」

 青色を司るヒーローである瑠璃に、菖蒲は牡丹の指南役を任せていた。正直、菖蒲自身と瑠璃は上手くいっていないが、牡丹のことは可愛がっていたし、よく面倒も見てくれていたのを菖蒲は知っている。今回牡丹が怪我をしたことに誰よりも心を痛めているのは瑠璃だと思うし、菖蒲には絶対に言わないだろうが、きっと見舞いにも来ているはずだ。

「かまへん、気にしたらあかん。瑠璃だってそう思っとるに決まっとるやないの。皆、あんたが戻ってくるの待っとるんよ?」

 おおきに、と牡丹は頷くが、きっと彼女自身の中で折り合いがついていないのだろう。以前の彼女にあった大きな花のような印象は見る影もない。

「……瑠璃ねえさん、うちが怪我したこと、えろう気にしてはるみたいで……」

「話したんか?」

 牡丹は頷く。「瑠璃ねえさんは何も……、うちがあかんかっただけで——」

「何をしょうもないことを……誰が悪いとか、そんなんあらしまへん。あんたはただ早う治して戻ってきてくれはったらそれでええ。怖い思いさしてもうて、堪忍な」

「ねえさん、やめとくれやす」牡丹は頭を振りながら俯いてしまった。「……漆黒(しっこく)、は……どないなったんどすか?」

 ハッと、言葉に詰まる。

 漆黒は牡丹が負傷して入院した後、同じように前線へ行って負傷、今も重体である。同じこの病院にはいるが、未だに集中治療室から出られていない。

 嘘はつけない。迷った末、素直に本当のことを話した。想像はしていたが、牡丹の表情はますます曇り、泣き出してしまいそうにも見える。

 この話題は良くない。咄嗟にそう思った。ただの負の堂々巡りだ。

「い……今な、西に、お客さんが来てはるんよ」

 必死だった。何か違うことを話さなくてはと考えて、考えて、しかし他に思いつく話題など何もない。必死に考えたのに結局それしかなくて愕然とする。自分はなんてつまらない人間なのだろう。

「お客さん?」しかし幸いにも牡丹は興味があるのか、ふと顔を上げて目を丸くしている。

「そや。お偉い方々の会議があってな、出迎えせえて支部長が言わはって。うちは本部の担当やったさかい、今朝山吹と駅まで迎えに行ったんよ」

「どんなお人やったんどすか?」

「え、何やろ……——」

 今朝方のことを思い出す。新幹線の改札口から出てきたその人は菖蒲の想像を見事に裏切った。まるで満月が落ちてきたかのような金色の髪を垂らしたすらりと背の高い女性で、一目で一般人ではないとわかった。にもかかわらず、当の本人はおそらく周囲の人が振り返って見ていることに気付いてもいない。

 どこかで見た覚えがあると思った。が、すぐには思い出せず、支部へ戻るまでの道すがら、静かな車の中で思い出した。最近東のほうのニュースに頻繁に出てくる、『ハッピー・シャイニー』とかいうけったいな名前のヒーロー。

「……派ッ手なお人どっせ」

「何ですの、それ」プッと吹き出した牡丹は口元を隠しながら小さく笑っている。「もう、笑わせんといてください」

 骨が折れていて痛い、と言う割に彼女は楽しそうに笑っている。こちらは真面目に答えたつもりだったのだが。

「最近、東部関連のニュースによう出とる、橙色のお人や」

「え? ヒーローやのに会議に来はったんどすか?」

「統括なんやて」しかしいくら変身していないとはいえ、あまりに愛想がないので驚いた。

 他の支部長らは以前、同じように西部支部で会議が行われた際に出迎え、見たことはあった。どいつもこいつも普通ではない。煩いし、野蛮だし、一個人として言うなら生理的に受け付けない部類の人間ばかりだった。だが、今回は中でも、群を抜いて得体が知れない。

 そもそもヒーローなのに統括? 統括というのは内側にいる人間がなるものだ。本部はそれほどまでに人手が足りないということなのか? いや、それ以前に、内側にいる人間がすぐさまヒーロースーツを着こなし前線で活躍できるなんて、普通ならあり得ない話だ。

 物好きとしか言いようがない。

 化け物なのか? 得体が知れないにも程がある。その経歴もさることながら、そこにいるだけで見た者を釘付けにして離さないオーラも、あの、何もかも全部見通しているかのような、目も——

「や、ねえさん、興味津々どすなあ」

「えっ?」

 ハッと我に返る。いつの間にか、こちらに顔を向ける牡丹の目は細くなっていた。「う、うちは、別に、そないなこと……——」

「お顔に書いてありますえ」

「そッ……そないなことあらへん、見間違いや。あ、姉を揶揄うのもええ加減にせえッ」

「ふふふ、堪忍してくれおす」

「……ほ、ほんまにッ、派手なだけやて。何やの、あのキンキン頭は。おかげで目ぇがチカチカしてかなわんかったえ!」

「ねえさんがそないに夢中にならはるお人、()うてみとおす」牡丹は口元に手を当てて、一生懸命に笑いを堪えているようだった。自分が笑われているのは何とも複雑だが、あの泣きそうな顔をされるよりはよほど良いと思った。

 しばらく取るに足らない会話をして、病室を出た。帰り際、牡丹はしきりによく休むようと言って眉を顰めた。手負いの『妹』に気を遣われるなんて、本当に自分は駄目な『姉』である。

 その足でICUを少しだけ覗かせてもらった。漆黒とは会話はできない。体中に何本もの管がついていて包帯だらけ、未だ夢路から戻ってこない。

 彼女は西部のヒーローの中では最も経験が浅かった。牡丹と違い、指南役の真紅(しんく)とまったく馬が合っていないことは菖蒲も気付いていたし、早く手を打たなくてはと考えていた矢先の事故だった。

 真紅は真紅で、自身の『妹』が大怪我を負って今も生死の狭間を彷徨っているというのに、そのことについて気に掛けるどころか、お荷物がなくなって助かったとさえ言う状況だ。菖蒲自身、もうその感覚について行けず、頭を抱えてしまっている。

 ここにいても、自分にできることは何もない。早く支部に戻って、残りの仕事を片付けなくては——わかっているのに、足が動かない。ぼんやりと、まるで自分のほうが夢の中にいるみたいだ。

 自分の中に立ち込める霧の正体が不安や後悔だということは何となく認識している。だが、それをどうしたら良いのか。

 その時。


「ここにおったんか、菖蒲」


 ぽん、と後ろから優しく肩を抱かれた。

(やなぎ)ねえさん……!」

「戻ってこおへんから、心配したえ」柳は優しく肩を摩りながら隣に立っている。ガラスの向こうにいる漆黒の姿に眉を寄せる。「早う起きてくれはったらなあ。みんな待っとるさかい」

「……」

「あんたも、無理したらあかんえ?」

 漆黒のことを案じているのはわかるが、柳のその声はどこか冷静で、菖蒲とは違う余裕がある。漆黒に向けられる視線や言葉より、自分を抱く彼女の手のほうがよほど心配の比率は大きいように感じる。

「……やっぱり、柳ねえさんのほうが良かったんやて」

「菖蒲」

 悔しい。それでも、自分には何をすることもできない。「うち、ねえさんみたいにできひん」

「……」

 本当は、柳がトップを務めるのだと思っていた。

 菖蒲だけではない。きっと西部のヒーローは皆、そう思っていただろう。それなのに突然菖蒲が抜擢された。柳本人からの指名だった。

 柳は菖蒲がヒーローになった時から、すべてを教えてくれた『ねえさん』だ。だから柳がチームのリーダーになるのなら、そんなに嬉しく、誇らしいことはないと思っていた。

 それなのに、その柳から直々に指名を受けて、嬉しいなんて気持ちは欠片も生まれなかった。なぜ、という疑問と困惑、そして不安だけが、一瞬で自分の中に広がった。そして今もその感情は収拾がつかないまま自分の中に滞留している。

「……菖蒲、うちにその可愛いお顔、よう見せてや?」

 唐突に柳がそんなことを言い出し、思わず顔を上げた。すると、柳の柔らかな微笑みがあると思った瞬間、バチン、という音と共に額に電流が走った。

「——痛ッたぁ……!」

 反射的に両手で額を押さえ、涙目になりながらやっとのことで再び視線を上げると、右手の中指で思い切りデコピンをした柳がじっとりとした視線をこちらに向けていた。

「そないなこと考えたらあかんて何遍言うたらわかりはるのえ? うちは菖蒲なら務められると思うたさかい、指名したんよって」

「……すんまへん……」

 おでこが痛い。

 柳の視線も痛い。

 全部、全部、痛い。

 目に浮かんだ涙がどんどん溜まって、このままでは溢れてしまう。だから上を向かなければいけないのに、そこには柳の顔がある。

「ほんまに、あんたは……——」

 額に置いたままの両手の向こうから溜め息が聞こえたかと思うと、「可愛いお顔が台無しやないの。あんたがそないな顔したら、ねえさん悲しおすなあ」

 柳はさらさらと、その手で頭を撫でてくる。「……ねえさんの、デコピンのせえどす……」今度はそれが恥ずかしくて、菖蒲はやっぱり下を向いた。

 彼女に促され、漸くICUを離れることができた菖蒲は、そのまま病院を出た。もう日はとっぷりと暮れ、金青(こんじょう)の空の果てが薄らと白けているくらいだった。

 タクシーに乗ったらすぐに支部に着いてしまうから嫌だなと思っていたら、柳のほうから歩こうと提案があった。今日は気候が良いから散歩がしたいと彼女は言ったが、何となく本当のところは別なのではと思った。

「今日、あんた、駅の担当やったなあ」

 歩きながら、突然柳が訊いてきた。出迎えの話だろうとすぐに察する。「へえ」

「本部のお人と()うたんか?」

「へえ。えろう派手なお人が来はりました」

 そう答えると、柳は牡丹と同じようにプッと吹き出した。それが何とも悔しくて必死に食らいつく。「ほ、ほんまやよって! 誰も信じてくれへん……」

「ふふっ、わかるえ。うち、あの統括はん、知っとるさかい」

「へ?」

 ニヤリと笑った柳は、なんと数年前、あの本部統括は西部支部にいたと言った。「うちがお会いしたんはまだ『統括はん』やのうて『班長はん』言うてはった頃やろか……けど、あんたがそう思たんなら、きっと変わってへんいうことやろなあ」

 彼女の話が冗談ではないということはその表情を見ていれば明らかだった。しかし菖蒲と違ってそこに嫌悪感はまるで見られず、浮かんでいるのは純粋な懐古の情だけだ。

「ねえさん、知ってはるん? あんなキンキンキラキラの……なんやえろう無愛想やし……——」

「無愛想なのは昔からや」柳は大笑いしている。「でもええお人なんよ。何年も前のことやさかい、うちのこと覚えてはるかは、わからへんけどなあ」

 そんなことを言われても信じられない。たしかに柳は現在西部支部に在籍しているヒーローの中では最も古株で、菖蒲が来る以前のことも知っている。きっと本部統括がいたというのはその頃の話だろう。

「あの頃はまだ、支部長も殿方で、今とは雰囲気がえろう違うて……懐かしゅうなあ」

 聞いたことがある。今の支部長の前、ひどく女癖の悪い男性の支部長がいてそれが問題になり、結局左遷だか解雇だかになったのだと。

 想像するだけで不愉快になる。もし自分がここに入った時にその支部長がいたら間違いなく辞めていただろう。

 ——これも、運命だとでも言うのだろうか。

 ヒーローの募集要項には、年齢制限は特に設けられていない。書類選考の他、学力や体力の試験などに合格すれば良い。ただ、実際に合格するのはほとんど高校もしくは大学を出てすぐの、二十歳そこそこの若者である。そんな中に、菖蒲は二十四歳で飛び込んだ。

 ヒーローがなぜ若いのか——その理由を菖蒲はずっと『アイドル』だからだと思っていた。『アイドル』というのは若くなければなれない、なってはいけないものだから、若くて外見の整った『可愛い子』が採用されている——だが、それは違った。採用基準の一つに外見的な要素があることは否定できなかったが、それよりも体力とセンスなのだ。スポーツ選手と同じようなもので、おそらく年を取ったらこの仕事はできないと、菖蒲は入社後まもなく思うようになった。

 菖蒲は今年二十九歳になった。しっかりと四年制大学を出て、社会人まで経験してからのヒーローデビューというのは異色だった。しかしヒーローとしての経歴は、まだ五年と少しだけ。他のヒーローたち——まだ漸く二十代の半ばに差し掛かる瑠璃や真紅と比べても、年は上だが経験値は大して変わらない。それなのに、十年以上もこの業界に身を置くベテランの柳を差し置いて自分がリーダーになるだなんて、どう考えてもおかしな話だ。瑠璃が自分に対して反抗的になる気持ちも理解できてしまう。

 だから、何も言えない。

 相応しくない。自分は、ここにいるべきじゃない。

 何を言うか、じゃない。誰が言うかが重要なのだ。自分が言うのと柳が言うのとでは、同じことでも効力が違う。柳には許されることでも、菖蒲では許されない——そんなことが山のようにある。

 まだ『アイドル』のままなら、それでも良かったのだ。でも、今は——。

 少し前を歩く柳は自分より小さいはずなのに、いつだってその背中はずっと大きく見える。

 大きくて、手が届かないほど、遠い。

「菖蒲」不意に、柳が振り向いた。「もう一遍デコピンしたろか?」

「やっ……ねえさん、堪忍しておくれやす……」先ほどの痛みがぶり返してきて思わず右手が額に行く。摩りながら背中までも丸まってしまう。

 それが面白かったのか、柳はくすくすと笑って、しまいにはその本部統括が菖蒲と少し似ているかもとまで言い出した。

「ねえさん、いけずやわあ! うちはあないな……おへん‼︎」

 柳は良い意味だと言うが、悪口よりタチが悪いと思う。柳は優しいが、時々菖蒲には意地悪だ。

「菖蒲は笑っとうのがええよ。うちの可愛(かあい)い妹やさかい」

 そう言って頭を撫で、柔らかな春の陽だまりのような顔で笑う。

 知っているのだ。その笑顔の裏側で、彼女が本当はヒーローを引退しようと一人考えていたこと、そしてそれがシールドの結界によって叶わぬものとなってしまったことを。

 彼女は自分たちのために、ここに残ることを選んでいるのでは——それはひとえに、自分がリーダーとして頼りないからで。

「……すんまへん。ねえさん。ほんまに……」

 それが申し訳なくて、情けなくて、彼女が照らしてくれる陽だまりに入っているのが、菖蒲は時々どうにも耐えられなくなるのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ