第五話 それは、夢か現か(3)きょうだいの日
怒涛の夏休みが過ぎ去り、新入生用の黄色い通学帽を卒業したひなたは、少しだけお姉さんになった顔をして再び学校へ行くようになった。いくらひなたがしっかり者で、健一もいるとはいえ、やはり仕事に行っている間に子どもが家にいるというのはなかなか忙しなく落ち着かない。一ヶ月強という長きに亘るそれがとうとう終わりを迎えたことは、真理子にとっては密かに万歳三唱してしまうくらいの喜ばしいことなのであるが、その解放感のせいか、昨夜ついうっかりEightにスマートフォンを置いて帰ってしまった。
この失態を少なくともチーフには知られたくないと思っていた真理子であったが、夕方、退勤後にこっそりとEightを訪れると、いつもの隠し場所に鍵がなかった。
嫌な予感がしてそうっと入口の扉を引くと、ドアカウベルが音を立ててしまった。薄暗い廊下の先に、灯りが漏れている。何となく、いるのは葵だけではない気がした。
仕方ない、と腹を括り、店の奥へと進む。と、そこでは珍しくチーフが一人でパソコンを持ち込み、カウンターに座って仕事をしていた。
「……あら、珍しいわねェ」
チーフがこんなところに仕事を持ち込んで作業しているのも珍しいし、ここに一人きりでいるというのも珍しい。思わず真理子がそう口に出してしまうと、これもまた珍しく、チーフはぼんやりとパソコンの画面を眺めたまま、いつになくはっきりとしない生返事をした。
相当に仕事が立て込んでいるのか、それきりまったく反応はなくなってしまった。邪魔をするのも申し訳ないと思い、カウンターに置きっぱなしになっていたスマホを黙って手に取った。すっかり充電が切れてしまっているだろうと思っていたが、持ち上げた画面は煌々と点灯し、電池残量は一〇〇%になっている。
誰かが充電しておいてくれた? でも誰かって、誰?
候補になりそうな人物は目の前に一人いるが、まさかそんな気の利いたことをしてくれるなんて。また忘れたのか、物忘れ外来へ行ったらどうだと、とチクチク嫌味を言われるならわかるのだが。
実に不思議なこともあるものだ、と真理子が首を傾げながらスマホをポケットに押し込んでいると、横から湿っぽい溜め息と共に話の続きが飛んできた。
「ラーメン、食べ行こうよって言われてて」
相変わらず視線は画面を見つめたまま微動だにしないチーフであったが、真理子の発した一言の中身を察知して、答えを用意してくれたのだろう。
輪郭のぼやけた、眠気混じりとも取れる覇気のない声は、面倒臭いという心の内の表れかとも思ったが、次に続いた言葉でそうではないことを悟った。「待ち合わせをしていたんだけど、ここで。さっき、用ができて行けなくなったって連絡があったから」
漸く腑に落ちた。どうりでこの様子である。
二週間ほど前のことになるが、仕事終わりに葵と公園で仲良くアイスを食べていたところを写真に撮られ、「シャイニーと3号がデートをしている」とSNSで拡散されてしまったチーフは、ほとぼりが冷めるまで二人で出掛けないことにしようと、葵とのラーメンを控えていたのである。チーフの言い分によれば、葵とアイスを食べていたのは事実だが断じてデートではないとのことで、少なくとも話題がトレンドから外れるようになるまでは行かないと宣言していた。
本人たちにその気はないのかもしれないが、醸している雰囲気がもはや皆の期待するそれなのである。そんな馬鹿なことをしなくても良いではないかと真理子は笑ったが、他人の視線を感じながらラーメンを食べても美味しくないし、葵に迷惑が掛かるのは嫌だからとチーフは意地を張った。が、当の葵はまったく気にしていない様子で、逆になぜ駄目なのかと怒り、これ見よがしに真理子を誘ってラーメン屋に通っていた。
「はッはァん、だから元気ないのね?」ここぞとばかりに鼻で笑ってやった。きっと漸くトレンドに上がらなくなり、今日葵に誘われて内心とても喜んでいたのだろう。だから痩せ我慢なんてやめておけば良かったのに。「ああもォ心配して損したわ。あんた、葵ちゃん大好きだもんねェ」
「うん」
——……『うん』?
思わずチーフのほうを凝視して固まっていると、チーフ自身も自分の返事に違和感を覚えたのか、画面から視線を外してゆっくりと首を傾げた。しばらくそのまま無言で何かを考え、おそらく記憶を辿っている。
やがて、はたと我に返る。
「……いや違う、うんじゃないよ、何でもない、間違えた」椅子に座ったまま急に狼狽え始める。何をどう間違えたのか知らないが、やっといつもの芯のある声に戻った気がする。「や、あの、聞かなかったことにして。忘れて」
「無理でしょ」
「……」
この世の終わりみたいな顔をしているのでついでにダメ押しの一手をプレゼントする。「聞く前から知ってたけどね?」
「なん——ッ……」耳まで赤いのは泣きそうだからなのかもしれない。「……アンタのそういう鋭いとこ、ほんときらい……ッ!」
「いやいやいや、鋭くなくてもわかるでしょうよ、見てれば。誰だって」むしろ気が付かないほうが問題だと思うのだが、チーフはそうは考えていなかったらしく、おそらく皆が知っていると教えたところ、ショックのあまり言葉を失くしてしまった。
「あたし言いふらしてないからね? 勘違いしないでよ? あたしは、何も、言ってない」
「……なんでよぉ」下を向いて、ぶるぶると頭を振っている。「違うの。そんなことない。葵のことは好きだし、信用してる。けどそういうんじゃない」
そういうんじゃないのならその慌てっぷりは一体何だと言うのか。「なんか、うん……オバサン、安心しちゃったわ」
「どういう意味よ?」
「チーフにもちゃんとそういう感情があったんだなって」
「アタシのこと何だと思ってんの⁉︎」
「まァまァまァ良いじゃないの。応援してるから、ね、頑張って。てかもう——」
「やめて! 違う、もォほんとなんで女ってそういう話好きなの、信じらんない。もう忘れて、一刻も早く。少なくとも葵には黙ってて」
「なんで?」
「いいから。絶対ダメ、黙っててお願い……」
「大丈夫よォ、言えば良いじゃない、自分で」
「言わない」
「なァんでよ、葵ちゃんだってあんたのこと——」
「駄目なの‼︎」
突然、声が変わった驚きで怯んでしまった。
怒っているのではない。泣き出す直前の子どもみたいな顔をして、懇願しているのだ。「だめなの……言わないで。絶対に、葵には言わないで」
お願い、とチーフはもう一度言った。
何かある。それは単に葵に冷やかされるからとかいう薄っぺらいものなんかではなく、もっと重大な、それこそチーフに本当に終わりが訪れてしまうようなとんでもない理由なのだろう。が、その正体を訊くこともできず、真理子はただ了承するしかなかった。
「……ありがと」チーフは小さな声でそう言うと、またパソコンの画面に戻ってしまった。
「……言わないけどさァ、それ……あんたはそれで良いの?」
「良いも何も、アタシにはそんなこと伝える資格ないし、今のままで十分」
「馬鹿ねェ、今のままがいつまで続くかわかんないわよ? どうするのよ、今日だってもしデートとかだったらさァ」
「それはそれで、良いの。葵が、それで幸せだと言うなら、それで」
つまらない回答である。余裕そうな素振りを見せてはいるが、おそらくフリだけだ。真理子の勘が正しければチーフは相当に葵のことが好きなはずで、本当に葵に男性の影があったら寝込んでしまうんじゃなかろうか。
当然、昨日や今日で突然そうなったのではないだろう。それこそ下手をすれば何十年という単位で想い続けているのだとしたら? 仮に何か訳があるにしても、我慢強いというレベルをとうに超えている。
それがチーフらしいと言えばそうなのかもしれないが、葵も罪な人間である。
「チーフ、珈琲でも淹れてあげよっか?」
先ほどからぼんやりとパソコンの画面を眺めてはいるもののまったく手が動いていないその姿が何とも不憫に見えてしまったのである。おそらく気を紛らわせたくて、仕事をすることにしたのだろう。
それにしても葵に所用だなんて、それくらいあって当然ではあるのだが、普段何事よりもチーフを優先する葵がそのように約束を反故にするとは、随分と珍しいことが続くものである。
「アンタ忘れ物取りに来たんでしょ? 早く帰んなさいよ」
「帰るわよ。でもせっかく来たし、これ充電しといてくれたのあんたでしょ? 一杯くらいお礼に淹れてあげても良いわよ」
「そう? なら、ありがたくいただくわ」
相変わらず素直でないチーフのそれにもすっかり慣れて、もし自分の子が男の子だったら、いつか反抗期を抜けたらこんな感じになるのかもしれないとさえ思うようになった。本当は夜食用におにぎりの一つでも作っておいてやりたいが、生憎今日は炊飯をしていないため、珈琲くらいしか用意してやれないのが不甲斐ない。
ところが、カウンター下の冷蔵庫から葵用の珈琲豆を取り出したところで、チーフのポケベルが鳴った。
体が強張るのは条件反射だ。手を止め、がばっと体を起こしてチーフのほうを見る。が、意外にもポケットからポケベルを取り出すチーフは比較的落ち着いていて、画面を一瞥するとふと笑みまで溢した。
「ごめん、やっぱ珈琲はいらないわ」
「何? 出るの?」
「ううん」首を横に振るチーフはやはりその顔にほんのりと笑みをたたえ、ポケベルの画面をこちらに向けた。「アタシにも『お家デート』のお誘いが来たのよね」
* * *
今やすっかり通い慣れてしまった道を真理子と駄弁りながら歩き、マンションのエレベーターに乗りながら胃袋をカレーライス用に修正する。つい先ほどまでまったく空腹を感じていなかったはずなのに、そのスイッチを切り替えた途端に食欲が湧いてしまうのだからカレーというのは不思議な食べ物である。
エレベーターを降りた瞬間、共用の廊下までカレーの匂いがするのはいつものことで、これがトドメを刺してくる。ここ数ヶ月、異様にその頻度が多くて近隣には申し訳ないことをしている気がする。
「ああ良い匂い、お腹空いちゃったァ! 今日は何カレーかしらね?」真理子がはしゃぎながら玄関のドアに飛びつく。
が、ドアを開けた瞬間の違和感は、おそらく匂いの違いからだ。通常、余所者だからこそ察知できるはずのそれを、今日は一歩前にいた真理子も感じ取ったらしい。ただいまという彼女の声は、いつもより些か弱々しく聞こえた。
ふと視線を下に向けると、足元にはひなたの小さな靴の隣に、見慣れない奇抜なハイヒールが揃えてあった。とても真理子のものとは思えない趣味だが、どこか見覚えがある。先月発売のファッション誌のどれかに掲載されていた、とあるハイブランドのものではないだろうか。
「あ!」廊下の向こうからひょっこり顔を出したひなたが目を輝かせながら駆け寄ってくるのを真理子の頭越しに見る。「ママぁ、おかえり!」
「ただいま、ひなた」
「チーフきたぁ!」
「こんばんは、お嬢さん。今夜は何でお困りかしら?」
「あのね、チーフ! あのね、——」何やら興奮した様子のひなたが口を開きかけた時、この家では聞いたことのない声が廊下の向こうから響いてきた。
「ヤダァ、マリー、久しぶりじゃなァい!」
急接近してくるそれに、思わず顔を上げる。普段着とは思えぬ派手な色使いの服を纏う、スレンダーな女性。キツい香水の香りは彼女から漂ってくるものだ。
「えッ、何、いつ帰ってきたの⁉︎」
「さっきよォ!」戸惑っている真理子をよそに、婦人はハグをしたりキスをしたりと熱烈なスキンシップを施す。「もォ相変わらず愛くるしいフォルムねェ、マリー。元気でやってるの?」
「うん、まァ、ぼちぼち——」
「あら! あらあらあらまァまァまァあなたなの⁉︎」
婦人はチーフのほうに顔を向けるなり目を丸々と見開いて、真理子を廊下の端に追いやり、体がぶつかりそうなほど近付いて両手を握った。真理子の返事なんて最後まで聞く気もない。
「こんばんは。はじめまして」
状況は何一つ飲み込めていない。このぶっ飛んだ婦人が一体誰なのかもわかっていない。が、憎らしいほど勝手に、スイッチは切り替わる。突然両手を掴まれ、強引で豪快な握手をされても平然とにこやかに対応できる、営業用の自分。
「ちょっと、おか——」
「え、本物なの⁉︎ ヤダヤダどうしましょ、あたくしったら! 嬉しくって緊張しちゃうわ!」婦人は真理子を一切寄せ付けず、チーフの両手を握ったまま、ぴょんぴょんと体を弾ませながら興奮している。「あたくし鞠恵よ。お会いできて嬉しいわァ!」
「桜庭です。こちらこそお会いできて光栄です」
「エッ、エッ、しかも何ちょっとヤダ、これうちのメンズラインじゃないの!」今度はチーフの着ているスーツを見てそう叫んだ。何とも忙しい人である。「えええ嬉しいわァ、よく似合ってるじゃなァい! こんなお綺麗な方に着てもらえるなんてェ!」
ますます状況がわからない。だが、何だろう? 先ほどから、何となくどこかでこの婦人を見たことがあるような気がするのだ。しかし婦人が容赦なく繰り出す数々のオーバーリアクションが、必死に思い出そうとする頭を妨害している。大きな声に、踊っているかのような身振り、手振り——もはや笑顔を作って立っているだけで精一杯なのである。
頼みの綱の真理子が横から介入して来ようとしても、この婦人の前ではなす術もなく、こちらを見る視線には「ゴメン」と書いてあるのが見える。
「あのね、チーフ」
その時、傍らから聞こえてきたのは唯一この目が回りそうな状況にも怖気づくことなく、平然とやり取りを見ていたひなたの補足だった。「きょうはね、ばぁばがチーフにあいたいっていったの」
「え、『ばぁば』……?」聞き慣れない単語に一瞬思考が止まる。「『ばぁば』って……?」
「ばぁば」
ひなたは先ほどから両手を離してくれない目の前の婦人を指差した。釣られて再びその顔に視線を戻すと、婦人は仰々しく頭を下げた。
「真理子の母です」母は仰々しく頭を下げる。「いつも娘と孫がお世話になって、ありがとうございます」
「え……ええ?」
ばぁば、というのは『おばあちゃん』のことだ。
しかしとてもそんな年には見えないし、そもそも真理子と全然違うじゃないか。——体型が。
「あんた今、碌でもないこと考えたわよね?」廊下の壁に背中を貼り付けた真理子がこちらを睨んでくる。口には出していないはずなのに、なぜコイツはこうにも鋭いのだろう?
「ほんとにまァ、こォんな素敵な方にお世話になってるの、マリー?」
「あたしがお世話してるのよ。お母さん、それより——」
「ほほほ、ごめんなさいねェ! 甘やかして育てちゃったものですからこんな奔放な子になっちゃって。大変でしょォ、ほんッとにねェ! 誰に似たのかしら……」
しかし人の話を聞いていないところは同じだし、よくよく見るとどことなく目元の雰囲気が似ているような気もする。
——でも、ちょっと待って?
今になって漸く頭が回り出す。玄関にあったあのハイヒール、その服装、鞠恵という名前、そしてずっと引っ掛かっていた既視感。
まさか、でも、そういえばさっき、このスーツのことをうちのって——。
「あの、——」声が震えそうで怖い。「失礼ですが、『Merry Marry』の『マリエ』さん、ですか……?」
「あら! ヤダァ、あたくしのこと知ってくださってるの⁉︎ 嬉しいわァ!」婦人は目を輝かせながら、さらに激しく飛び跳ねている。
やはり、そうなのか。
この婦人は真理子の母でありひなたの『ばぁば』——そして世界的にも有名なドレスのトップブランドである『Merry Marry』——通称、メリマリの創業者であり、代表デザイナーの『マリエ』だ。
唖然としてしまった。
というか、反応の仕方がわからない。情けない話だが、営業用スイッチが入っている状態でも、自分が取るべき行動がまったく思い浮かばない。
「あなたそのスーツ本当によく似合っているわよ。もう感激だわァ、あたくしの服をハッピー・シャイニーに着てもらえるだなんてェ!」
「もォお母さんってば!」真理子が横から口を出す。「その人はシャイニーだけど、お母さんの知っているシャイニーとはべ、つ、じ、ん!」
「ああ本当に可愛いわァ、想像していたよりずっと可愛らしい!」やっぱり全然話を聞いていない。「ねェ、あたくしと一緒にお写真撮ってくださらない?」
「はい?」
「あたくしねェ、ふふ……昔ッからあなたのファンなの‼︎」
「ごめんね、チーフ、ほんとごめん」真理子が後ろで必死に謝っており、この時ばかりは真理子のことを気の毒に思ってしまった。
「えっと……写真くらいは、別に、構いませんけれど……——」
「きゃあああ嬉しい‼︎ やっぱりとっても優しいのね、あなた!」
鞠恵は若い女の子のような黄色い声を上げながら、自身のスマートフォンで写真を撮りまくっている。こんなことになるならもう少しきちんと化粧を直してくれば良かった。
「嬉しいわァ、これ今日からあたくしの待受にするわね! 本当にね、あたくしずっと前からあなたのファンなの。夢が叶って本当に嬉しい」
恍惚として撮った写真を眺める鞠恵の姿に、ますます罪悪感が大きくなる。真理子の言うとおり、彼女の好きなシャイニーは元祖のほうだ。自分ではない。
「あの、マリエさん……」
「なぁに?」
「ガッカリさせてしまって、申し訳ないんですが……たぶん、マリエさんの好きなハッピー・シャイニーは、アタシの……母のこと、だと思うんです。自分はただの、偽物で……」
「あらヤダ、素敵じゃない。あなた娘さんだったの?」
「はい、いえ、えっと……——」
「最近のシャイニーは昔と雰囲気が違うと思っていたけど、そういうことだったのね。娘に後を継いでもらえるなんて、ほんと素敵。お母様も喜んでるんじゃなくて?」
「それは、どうだか……」
「喜んでるに決まってるじゃないの。あたくしだったらとっても嬉しいと思うわよ。偽物だなんて思わなくて良いの、あなたはあなたでしょ。こんなに可愛いらしいんだから自信持って」
「や、あの……——」
「あ、そうだわ!」ハイトーンだった鞠恵の声がさらにもう一段高くなり、どんぐりのような目がまん丸に見開かれる。「ねェ! あなた、今度うちで出す新作のモデルをしない!?」
「え?」
「背も高いし、きっと映えるわよ! あなたみたいな可愛い子にぜひ着てもらいたいの! 素敵よォ、あのグラデーションの入ったドレスなんか絶対似合うわ!」
「……」——どうしよう……?
「お母さん、いい加減にして! チーフ困ってるじゃない」
「あらあら、ごめんなさいね。でもあたくし本気よ? あなた本当に可愛いもの。是非、お願いできないかしら?」
この姿をしていると、「可愛い」「綺麗」「美人さんね」とはよく言われる。もはや定型化してしまい、その言葉に価値を見出せなくなるほどに聞いている評価であり、感想だ。そして自分はそれが再び特別な言葉にならないように努力をしている。
でも、今は、特別だ。だってそれを言うのがあの『マリエ』——自分がこの姿になるよりずっと前から憧れた、雲の上の人なのだから。
「……ありがとうございます」
嬉しくないはずがない。でも。「マリエさんにそう言っていただけて、本当に嬉しいです。ただ、でもその……」
自分はやはり偽物なのだ。
シャイニーとしても、チーフとしても。
「自分、は、お……男なので……」
初めて目にした時から惹かれるものがあった。特に可愛いものが好きだったわけではないし、女の子の服を着たいと思っていたわけでもない。しかしそのドレスを見た時、こんな風に夢を具現化できる人間がこの世にいるのかと心底驚いた。自分が社会人になり、メリマリが新たにドレス以外のファッションアイテム——中でも男性向けの服の取扱いを始めると知って、当時、まだ多くなかった給料を掻き集めてスーツを作りに行ったことは、未だに覚えている。
今や世界的に有名な、一流のドレスブランド。その看板として、偽物が立つわけにはいかない。
「あなた……男の子なの?」
「はい、そう……です。すみません、隠しているわけではないのですけど、公にはなっていなくて、その、誤解させるようなことを——」
「素敵じゃなァい‼︎」
——あれ?
「ますます気に入ったわ! あなた可愛いだけじゃなくて時代の最先端を行ってるのね!」
「あの……——」
「他所に比べて遅れてると思ってたけど捨てたもんじゃないのね。多様性の時代だもの、どうだって良いわよねェ。このスタイル本当に素晴らしいじゃない、努力の証だわ」
「ありがとうございます……」
「今回のコンセプトにもぴったりよ! どう? あたくしのドレスを着てみてくれないかしら?」
「……」
何だろう? 靄々する。
憧れの一流デザイナーが目の前で自分と喋っていて、あろうことがブランドのモデルをしないかと誘っている——どう考えたって、夢みたいな話だ。それなのになぜ、快諾できないのだろう?
そんなことをすればシャイニーが男であるという事実が世界中に知れ渡り、大騒ぎになってしまうのは間違いない。だが、そんな単純なことではない気がする。
——何だろう?
「あの……」
嬉しいのに、嬉しいはずなのに、何かが違うと思ってしまうのだ。
「……せっかくですけど、ごめんなさい。アタシ、討伐もあってなかなか、その……時間のお約束が難しい立場にありまして、そんな、重大な役を仰せつかるわけにはいかないんです。ごめんなさい。でも、お話は本当に、すごく嬉しかったです。ありがとうございます」
しどろもどろで言い切り、まだ続きそうな鞠恵の話を何とか躱して鈴木家を逃げ出した。
心臓がドキドキしている。緊張していたのだ。憧れがすぐ目の前にいたこともそうだが、他人のリズムに呑まれて自分がどこにいるのか見えなくなって、コントロールを失うかもしれないことに底知れぬ恐怖を感じた。
——何か、失礼なことを口走っていなければ良いのだが……。
だからだろうか。視野は狭くなって、家へ向かう足取りは無意識に速くなっていた。おそらくそのせいで気付かなかったのだ。誰もいないはずの自分の部屋に、既に電気が灯っていることに。
回した鍵の手応えがなくて初めてハッとした。勢いよくドアを開けて顔を突っ込むと、ダイニングで一人のんびりと寛ぐ人影があった。
「おかえり」
葵はマグカップを片手にこちらを見るなり微笑んで、落ち着いた声を掛けてきた。その瞬間、あれほど荒れていた自分の中が不思議と鎮まり、煩かった心臓の音も聞こえなくなった。
ゆっくりと足元に視線を下げると見慣れた葵の靴が無惨にも散らかしてある。たぶん別のところから入ってきて、靴だけここに放ったのだ。ジャージ姿で椅子に座って珈琲を啜る彼女はまるで自身の家にいるかのように優雅だ。
「出掛ける時はベランダの鍵を締めなさいって言ってるでしょ」
呆然と玄関に立ち尽くす英斗に向かって、葵は淡々とそう指摘する。もちろんだが、締められない、とわかっていてそう言うのだ。
「……来る時は玄関から入りなさいって言ってるでしょ」
靴を脱ぎ、葵の分も揃えながら、心ばかりの反論をする。実はこういうことは以前からよくあるのだが、不定期に突然、それも玄関ではなくベランダから侵入してくるものだから、ベランダはいつも鍵を開けておくようにしているのだ。
出ていく時は玄関からなのに、なぜ入る時も同じようにしないのかわからない。そうでなかったら締めるし、開いているからといってそこから平気で侵入してくる葵も葵だと思う。が、一向に改めるつもりはないらしい。
——……まァ、良いんだけどさ。それで。
「ごめんね。今日、行けなくなっちゃって」なんだかいつもより元気がないような気がする。
「ううん。用事済んだの?」
「大丈夫。ご飯食べた?」
「いや、それがさ……」部屋に上がりながらふと疲労感を思い出してしまい、急に体が重くなる。「真理子の家に呼ばれて、行ってたんだけど、なんかタイミング逃しちゃって、食べないで帰って来ちゃった」
帰りに買ってきたコンビニの袋を見せると、葵はがっくりと机に伏せてしまった。「あぁあ、終わった時連絡すれば良かった! せっかくラーメンの口になってたのにチマい居酒屋メシになっちゃってさ!」
「え、お腹空いてるの? もう一回出る?」
「いい。もう疲れちゃった」
「じゃあこれ一緒に食べるのはどう?」
「ありがとう……」
元気がないのはせっかく食事に行ったのに満腹にならなかったからだろうと察した。葵にコンビニ袋を預け、一旦洗面所へ向かう。葵が満足するほどの量は買ってきていないのだが、冷蔵庫に何か足しになるものがあったろうかと考えつつスーツを脱ぎ、汗で濡れたシャツを洗濯機に放り込んだ。
ハンガーにスーツを掛けながら、ふとメリマリのタグが目に付き、マリエのことを思い出した。可愛い、よく似合っている——あの言葉の数々は本当に嬉しくて、夢を見ているかのような心地がした。
が、それはもう、良い。
せっかくいただいた賞賛だ。自信の一部にして、これからも大切にしまっておこう。それだけで良い。十分すぎる。
年季の入り始めた部屋着を頭から被り、適当に髪を括り直す。いっそのこと出前でも取ってしまおうかなどとあれこれ考えながらダイニングに戻ると、葵は既に買ってきた食料に手をつけていた。
自分の分がないじゃないかと文句の一つも言ってやろうと思ったが、軟弱なプラスチックフォークにパスタを団子状になるまで巻きつけて頬張るその幸せそうな表情を見たら言う気が失せた。あまりに嬉しそうに食べるものだから、コンビニ弁当よりもチマい居酒屋メシなんて、一体どこに行ってきたのだろうかと逆に気になってしまった。コンビニにいる時に冷静な頭でなかったせいで、買ってきたものにまるでセンスがないことが非常に悔やまれる。
——「あんた、葵ちゃん大好きだもんねェ」
不意に湧く、過去からの声にギョッとする。首を振り、頭の中のリフレインを必死に払い除けた。その光景がよほど可笑しかったのだろう。葵は怪訝な目つきでこちらを見ている。「どうした?」
「何でもない。良いよ。全部食べても」
「なんで? 英斗は?」
「なんか、あんまお腹空いてなくなっちゃった」正確に言うといっぱいになってしまったのだ。「足りそう? ピザとか頼んでも良いよ?」
「それはいい」
葵は食べていたサラダと大盛パスタを潔く半分くらい残し、綺麗に一つの皿に盛り付け直すとこちらに渡してきた。遠慮しなくて良いのに、とこちらが言うより先に、何を思ったかそそくさと冷蔵庫を開けに行く。
「ねェ、それ終わったらさ、ケーキ食べない?」葵はそう言いながら、少し大きめの白い箱を取り出し、嬉しそうにこちらに見せてくる。
「どうしたの? それ」
「買わせたの」
「誰に?」
「私の好みも満腹レベルも理解してない、どっかの誰かさん」
その誰かさんが誰なのかは気になるところだが、葵の一番重要な部分をわかっていないのはかなりの致命傷だと思う。お残しの理由に合点がいった英斗は躊躇いなく『パスタプレート』を頂戴することにした。
葵はその白い箱をテーブルに置き、いそいそと珈琲を淹れている。目の前のその箱が早く食べろと無言の圧力を掛けてくる。それにしても一体いくつのケーキが収まっているのだろう? 箱のサイズからして、とても二つだけとは思えない。
「英斗も飲むよね?」
返事なんかしなくても、もう葵の手元にはマグカップが用意されている。知らぬ間に家にあった、黄色いパステルカラー——葵が使っているのは同じ形の青色のもの。住んでいるわけではないはずなのに、この家にはいつからか、そういった葵のものがあちこちに存在する。
少し大きめの最後の一口を懸命に咀嚼していると、ケーキボックスの傍でスマホが唸った。反射的にそちらに目が行き、上を向いた画面に着信の相手の名前が表示されているのを見てしまった。
スマホは何の感情もなく葵を呼び続けているが、葵はこちらを振り向きもしない。
「……電話、鳴ってるよ?」
「ああ、うん、良いの」抑揚のない返事。「あとでやるから、放っておいて」
葵は相変わらずフィルターの上でポットをくるくると回しているだけでこちらを見ない。
何となく、靄々する。英斗はその名前の人物を一人、知っている。もしその人物と、今電話を掛けているのが同一だったとしたら、それなりに大切な用件があるのではないかと思うのだ。
『茜』——画面に表示されたその名前は、葵の実弟のものだ。
葵が実家と縁を切っていることは知っている。だが、そんな中で七歳下の弟とだけは稀に連絡を取ることがあると聞いている。
その彼がこうして葵の電話を鳴らし続けるということは、何かそれなりの訳があるのではないのかと勘繰ってしまうが、かれこれ二十回程度震えたスマホは漸く大人しくなり、それを待っていたかのように葵はゆっくりとこちらを向いた。
「はい」湯気の立つマグカップが、静かに目の前に置かれる。
「……ありがとう」
「ご飯足りた?」
「うん」葵の目がぎこちないことは一旦気が付かないふりをする。「ケーキ、あるから」
「そう、いっぱいあるの。どれが良い?」葵は再び淹れたての珈琲で満杯になった自分のカップを持ってきて席に着く。箱を開けるとたしかに言うとおり、色とりどりのケーキが綺麗に収まり、狭そうと感じるほどだった。
すべて違う種類なのかと思いきや、一種類——カステラの間に生クリームとプリンが挟まっているケーキだけは二個ある。
「プリンは英斗の好きなやつだから、これは一個ずつね、全部食べて良いよ。他のは……半分こでどう?」
そう笑顔でフォークを差し出してきたが、おそらく半分こになんかならないのだ。でも、それで良い。ぎこちなかった葵の目がまたキラキラと嬉しそうに煌めいているのは、ケーキを何十個用意されるよりも価値がある。
こんなに買わされたらさぞ良い値がしたろうに、それで肝心の彼女が喜ぶ姿を見ているのが自分だなんて一応申し訳ない気持ちにはなる。
——「どうするのよ、今日だってもしデートとかだったらさァ」
ふと、再び真理子の声が頭の中に響いた。
もしここにいるのが英斗でなかったとして、葵はそいつの前でも広げた箱の上でケーキを食べたり、半分こしようとか言うのだろうか? そんな、キラキラな目をして?
——「葵が、それで幸せだと言うなら、それで」
嘘つき。
絶対思ってないだろ。そんなこと。
「どうかしたの?」
相当訝しげな顔をしていたに違いない。葵は半ば吹き出すように笑いながらそう訊ねてきた。「あんた今日なんか変だよ?」
変にもなる。真理子がおかしなことを言うからいけないのだ。自分は本当に、それで——「……このケーキ、誰に買ってもらったの?」
「え? なんで? 好きじゃなかった?」
「いや、違う違う、なんか……——」必死に言い訳を考えるが、碌なものが思いつかない。「こんなに買ってもらっちゃって、半分は知らない人が食べてるって、なんか、悪いなって」
「何気にしてんの? 良いんだよ、そんなの。私を満腹にさせてくれなかったのが悪い」
それはごもっともなのだが。
英斗のほうがよっぽど自分のことを知っている、と葵はケーキを突きながら憤慨しているが、それは当然そうだろう。一体何年こんな滅茶苦茶な奴と一緒にいると思っているのだ?
そう、そんな風に、あまりに長く近い場所に、当たり前にいるから、時折ふと忘れてしまうのだ。自分はただ、ここにいることを許されているだけなのだと。
「……」
——いつまで、許してもらえるのだろう?
真理子の言うとおりだ。今のままが永遠に続くなんて、あり得ない。葵は今も甲斐甲斐しく『英斗の姉』をやってくれているけれど、そんなの、いつかは——
「ねェ、今日真理子ちゃん家で何してたの?」
「へ?」唐突な質問に一瞬たじろいでしまった。「ああ……いつもどおり、お姫様からの呼び出しだったんだけど、行ったら、おばあちゃんが来てて」
「おばあちゃん?」
怪訝そうな葵に、先ほど真理子の家であったゴタゴタを話して聞かせた。今考えても非常に奇妙な時間であったため、説明を順序立てるのが極めて難しい。「とにかく、すごかった、勢いが。真理子なんてもんじゃない。葵、知ってた? 真理子のお母さんがメリマリのデザイナーって」
「うーん……知ってたような気もするけど、——」何と言っても彼女は黒衣である。自称、ヒーローのことなら何でも知っている、黒衣。「忘れた。いらない情報は忘れる主義でさ。でもあんたが昔からメリマリの服が好きってことは知ってる」
調子の良いことばかりである。
「良いじゃん、モデル。楽しそう。やれば?」
「勘弁してよ」意地悪な奴だ。そうやって嗾けておきながら、本当はなぜ断ったのかなんてとうに察しがついているのだろうに。
葵は断りもなくショートケーキのトップに輝く苺にフォークを突き刺して食べてしまった。当然譲るつもりではいたが、そこはせめて確認くらいしてくれても良いのに。
「あんたはシャイニーをアイドルにしたくないんだよね」
片側のほっぺたを丸く膨らませながら、葵は三日月の形をした目をこちらに向けた。
——ほらね。やっぱりわかってる。
英斗自身よりも、ちゃんと。
何となく嬉しくなって、モンブランの頂上に鎮座する大きな茶色い栗を食べてしまったらものすごく怒られ、納得のいかないほろ苦さが残った。
* * *
母・鞠恵は仕事があるとのことでしばらくは都心のホテルに滞在すると言っていた。あの日以来家には顔を出していないが、健一とひなたは時折誘い出されてランチやディナーをご馳走してもらっているようで、「ばぁばに買ってもらった」とひなたは新しい文具などを見せてくれる。
以前も稀にこういうことはあった。鞠恵は昔から多忙で、世界中のあちらこちらを転々と動き回り、取材やショーといったことを毎日のようにこなしている。そのスケジュールの中で、今回のようにたまたま故郷に帰ってくることがあった時、立ち寄る。だから事前の連絡なんてないし、やって来る覚悟を決める余裕もない。
きっと、普段真理子なんかでは行くことのない類いのレストランに連れて行っているのだろう。健一やひなたはいつも満足そうにしているが、食が一番の楽しみと言っても過言ではない真理子が唆られないのは、鞠恵と長時間一緒にいると疲れるからだ。
これまでも嵐のようにやって来てはいなくなる鞠恵だったが、一瞬慌ただしいから疲れたと感じるだけなのだと思っていた。が、今回わかった。自分はピンキー・マリーとして、モンスターカスタマーの相手をしているほうがよっぽどマシだと思っているのだ。
「こういうの、社畜って言うのかしらねェ……」
ついつい溜め息と共に心が漏れてしまう。最近会社の近くに曜日限定でやって来るようになったキッチンカーまで弁当を買いに行った、帰り道のことだ。まさか実の母親よりもチーフと話すほうが気楽だと感じるようになるだなんて、可笑しくて、半年前の自分に聞かせてやりたいくらい。
会社に戻る足取りがいつになく軽やかなのは、昼休みのスタートダッシュに成功したおかげで狙っていた弁当が買えて、もはや今日の仕事は終わったかのような気分だからだ。高級レストランでの窮屈な食事より、たった五〇〇円の弁当で十分幸せは味わえる。
手提げのビニール袋を断ったせいで、出来立ての弁当の熱が使い捨て容器を通り越してくる。蓋を開けるのが楽しみで仕方なく、足取りは徐々に速まって、会社の前まで来た時には駆け足になっていた。
と、ひっきりなしに開閉する自動ドアに駆け込む直前、視界の隅に見覚えのある後ろ姿が入ってきたような気がして足を止めた。エントランスの太い柱の影に、先の青いポニーテールが揺れている。
「おーい、葵ちゃ——」
ついいつもの調子で声を掛けようとして、上げかけた腕をサッと引っ込めたのは、葵の向かいにもう一人、スーツを着た男性が立っていることに気付いたからだ。
黒い、短髪——当然チーフではない。それどころか同じ会社の人、ですらない気がする。全員の顔を知っているわけではないため確証はないが、何となく、この会社の人が纏っている目に見えない何かが、その男性にはないように感じられた。
一瞬、絡まれているのかと思った。こちらに背を向けている彼女の表情こそわからないものの、その二人の雰囲気から、会話の内容がただならぬことであるのは察した。見てはいけない、聞いてはいけない——とは思うが、普段異性の影など微塵も見せない葵が白昼堂々痴話喧嘩をしているというのは、オバサンのマスコミ根性を擽るには十分すぎる要素だ。
まもなくして、葵が男性の前から離脱する。男性はまだ話があるのか、葵を引き留めようとしているが、葵はそれを振り切って、足早に社屋の中に入っていってしまった。残された男性は小さく肩を落としつつ踵を返し、昼時の落ち着かない街中へと消えていった。
真理子は急いで葵を追いかけ、エレベーターホールに佇む彼女を発見して声を掛けた。
「葵ちゃん!」
振り向いた葵はこちらを認めるなり、『いつもの葵』の顔に戻る。「あれ、真理子ちゃん。どうしたの?」
「お弁当買いに行ってたの。知ってる? 最近あっちの公園に来るキッチンカー」
「あ、あれちょっと気になってたんだよね。美味しい?」
「私は好きィ。値段も良い感じでさァ、これ五〇〇円なの。安くない?」
「へえェ、今度行ってみよっかなァ」
たわいもない会話もやはり『いつもの葵』である。
葵も食堂へ行くのかと思っていたら、これから訓練場へ行くらしい。「なんかさ、新しいロケットランチャーを開発したとか言って。私それ専門外なんだけどなァ。真理子ちゃん、やんない?」
「あたしにできるかしら?」
「大丈夫じゃない? 真理子ちゃん、力持ちだし。今日様子見ていけそうだったら使い方教えるわ」
「ありがとう」
開いたエレベーターの扉から人が溢れ出し、空になった箱に乗り込む。どういう巡り合わせか、混み合った昼休みにもかかわらず、このタイミングでエレベーターに乗ったのは葵と真理子の二人だけだった。
ドアが閉じた瞬間、しんと嫌な沈黙が流れる。こういう時間が一番苦手だ。
「……葵ちゃん、何かあったの?」
何か話題がないかと考えた結果、やはり気になる先ほどのことを遠慮がちに訊ねてみた。
「何かって?」
「ごめん、さっき、外で話してるの、見ちゃって……」
「あー……参ったなァ、見られてたかァ」戯けているかのような口調だが、何となくバツが悪そうに葵は笑う。
「ごめんね。一瞬、助けに入ったほうが良いのかなって思ったんだけど、大丈夫そうだったから」
「ああ、うん、良いの良いの。あれはね、私の弟だから」葵は苦々しく笑いながら、本物の、と最後に付け加えた。
葵に弟がいるだなんて初耳だが、たしかに葵だって人の子だ。兄弟の一人や二人いても何ら不思議ではない。むしろ、もしあの男性が葵の彼氏か何かであったら面白くないと内心思っていたから、その回答には何となくホッとしている。
「弟さんってうちの会社なの?」
「ううん、違うよ。普段は滅多に会わないし」
そこまで話して、エレベーターの扉が開いた。いつの間にか真理子が指定した食堂のフロアに着いている。不完全燃焼だが、致し方なく葵に別れを告げ、エレベーターを降りた。戸が閉まる直前、振り返ると葵はこちらに手を振ってくれた。が、そこにあったのは黒衣の時に浮かべているのと同じ顔で、どうにも後味が悪い。
食堂の隅に陣取り、楽しみにしていたはずの弁当の蓋を開けたが、想像していた感動は得られなかった。大盛りにしたせいか、圧密された白飯は蒸気の逃げ場を失ってべちゃべちゃになってしまい、気分は盛り下がる一方だ。
先ほどの光景が頭の中を巡っている。気にしないようにしたいところだが、気になってしまうのがオバサンの性。どうしようもない。
そもそも実の弟と言う割に、わざわざ昼休みに別会社まで訪ねてくるなんてよほどだ。にもかかわらず雰囲気は険悪という何とも言えない状況であったことも腑に落ちない。しかし他人の家族事情を詮索するのもどうかと思うし、葵自身もあまり深く追求してくれるなというオーラを出していた。久々に見たあの仮面のような感情のない笑顔が、それを如実に物語っている。これ以上、訊ねるわけにもいくまい。
さて、そういう時はどうするか——?
早々に弁当を平らげ、綺麗にテーブルを拭いて席を立つ。自分は真っ赤な他人だが、そうではない人に報告すればきっとわかることもあるし、あとはそっちで何とかするだろう。
執務室に行ったが不在。広い社内を探し回るのは食後の運動にちょうど良い。あちこち歩き回り、まもなく昼休みが終わるという頃に覗いたトレーニングルームで漸く大きな金髪の団子頭を見つけた。
「いたいた、チーフ」
懸垂のバーにぶら下がっていたチーフは、声を掛けるとちらりとこちらに視線を投げた。「お疲れ様」
「トレーニング中にごめんね。ちょっと話があってさ、探してたの」
「そう」
「終わってからで良いわよ。待ってる」
「ううん」チーフは素直にバーから飛び降りると、両の掌を擦り合わせながら呼吸を整えている。スーツを着こなすところを見ていることが多いため、ぴったりとしたトレーニングウェアにタオルを引っ掛けている姿はなんだか新鮮味がある。
「アタシもアンタに用があったの。ちょうど良いわ」
「え、あたしに? 何?」
話の先を譲ると、チーフは傍らのペットボトルを口に運び、額に細長いタオルを当てながらその続きを話す。「アンタさ、婦人誌とか読む?」
「え? あー……読むけど、美容院の待ち時間くらいかしらねェ? なんで?」
「一つ、依頼が来てるの」
訊くと、元々は葵とチーフ——3号とシャイニーに来た依頼らしい。所謂、中年世代をターゲットに体力づくりや美容、仕事への向き合い方を取材して特集を組みたいという趣旨だそうだ。
「良いじゃない。チーフがやれば」
「ねェ話聞いてる? アタシ『婦人』じゃないの」そういえばそうだった。「オカシイでしょ、オッサンが答えた『婦人向け』のQ&Aが雑誌に載ってたら」
思わず笑いが出てしまう。「ごめん、そりゃそうだわ」
しかし婦人向け雑誌の取材とは珍しい。ヒーローがエンタメ誌などに載ることはままあるが、その場合の多くが若年層ターゲットであることから、対応は『討伐組』ではなく、アイドルヒーローのモノクロの二人に振られているのが現状である。しかし今回は中高年向けの雑誌の特集であり、インタビュー内容もそれに沿っていることからモノクロを出すわけにはいかない、とチーフは頭を抱えたのだろう。
「興味があるなら葵と取材対応してきてくんない? 綺麗なドレス、着られるわよ」
「ドレス?」
皮肉にもその特集は『世界で活躍する女性』ということで、メリマリの新作とのコラボ企画になっているらしい。
「え、何よ、それこそチーフがやったら良いじゃない」
先日の鞠恵との対面は突然すぎたが、これはれっきとした仕事だ。自分の好きなブランドで、直接母からの打診もあったのだ。断る理由が見当たらないが、いくら真理子が促してみても、チーフは無理だと答えるばかりで首を縦には振らない。
なぜそこまで頑ななのか、不思議で仕方がない。しまいには、嫌ならば手が空かないと取材を断ると言って、中断していたトレーニングを再開してしまった。
ベンチプレスに寝転んだチーフが持ち上げているバーは、真理子がいつもするよりだいぶ重い。汗だくでも髪を上げていても相変わらず可愛いし、すらりとして男性にしては線が細いと思っていたが、こういう光景を見るとやはり男は男なのだなと思う。そう再認識した頭でその姿を見ていると、体のパーツごとに人が違うようで脳がバグを起こしてしまう。
「チーフって意外と男らしい体つきをしているのね。……あ」思わずそう口にして褒めたことで、自身で納得してしまった。チーフにとって、それは褒め言葉にはならないのだ。
「そうよ」投げやりな返事。「鍛えないと、やっていけないのに、やればやるほど、『女の子』からは、遠ざかる」
自分は頑張っているのだとチーフはよく言うが、たしかにそうだ。年齢も性別もまったく異なるチーフが『ハッピー・シャイニー』になるのは一筋縄でいく話ではない。当然、器用に隠して誤魔化している部分も多いのだろうが、基準はあくまであのヒーロースーツである。他のものでは適合しないのだ。
「だからドレスは駄目なのね?」
「そう」
「わかったわよ。取材はあたしがやるわ」
「ありがと」
「けどさ、見るだけ見に来れば? メリマリ好きなんでしょ? それにせっかくドレス姿の葵ちゃんが見られるチャンスなんだからさ」
「どういう意味よ、それ」
「どういうって……」わかっているのかいないのか、とりあえず気遣いに対して鼻で笑われたのがむかつき、そろそろこちらの本題を教えてやろうと思った。「良いの? 葵ちゃん、可愛いし、ドレスなんか着ておめかししたらもっと人気出ちゃうかもね。ああ、さっきも会社の前で男の人と会っていたっけね」
少々意地悪な言い回しだったのは自覚している。が、チーフはその瞬間、持ち上げていたバーを落としてしまうという想像以上に酷い動揺を見せた。
挟まれてもがいているチーフを救出しながら少々申し訳ない気持ちになり、つい補足を入れてしまう。「素敵な弟さんだったわ」
バーを退けてやると、補足を聞いたチーフはベンチに座ったまま項垂れてしまった。
「あんたねェ、そんなに気にするなら自分で取材行ってきなさいよ。3号の相手がシャイニーだったら、誰も文句言わないって」
チーフは深々と溜め息を吐く。「……他の人には、頼まないよ。アンタだから良いかなって、思っただけ」
「馬鹿じゃないの?」
「……」
「弟さんと何話してたのかは聞かなかったけど、あんまり良い雰囲気ではなかったわよ。チーフなら何か知ってるかと思って」
「……いや」
「なァによ、冷たいわねェ。好きな子が困ってそうなのに放っとくわけェ?」
「だからそういうんじゃないの、もう忘れてよ」少し揶揄っただけで不貞腐れてしまった。「葵の家のことでしょ。アタシが口出す筋合いないわ」
「気にならないの?」
チーフはしばらく黙って膨れっ面のままそこに座っていたが、やがて観念したのか、頭をゆらゆらと左右に振って、下を向いてしまった。
「……葵の家のことって、アタシも詳しく知らないのよ。ただ、小さい頃、訊いてみたことがあって、その時はたしか『お薬屋さん』て言われた」
「薬剤師ってこと?」
「いや、たぶん違う。アタシが子どもだったからわかりやすく言ってくれただけで、製薬会社のほうだと思う。でもアタシが知ってるのは、葵はヒーローになる代わりに、実家から縁を切られているってことくらいね」
「どういうこと?」
葵は昔からほとんど家族のことを話してくれなかったという。だが、たしかに縁を切られているのであれば、先ほどエレベーターの中で葵がちらりと口走った、滅多に会わないという言葉に合点がいく。
ふっとチーフは冷笑を浮かべる。「もしかしたら、真理子が訊けば、教えてくれるかもしれないよ」
「どうして?」
「どうして、って……」
「葵ちゃんのことを一番わかってあげられるのはあんたでしょう」
「……」
「違うの?」
チーフはだいぶ長いこと考えて、そうだったら良いと思う、とだけ答えた。そうでないことなんてないと思うのだが、真理子がそう口を開くより先にチーフはすっくとベンチから立ち上がった。
「取材は来週よ。詳細はまた連絡するから、よろしく」
チーフは早口でそう言うと、さっさとトレーニングルームを出て行ってしまったが、何となくその背中を追う気にはなれなかった。真理子に対してはいつも自信満々に威張り腐っているくせに、こと自分の——葵のこととなると急に引っ込んでしまうのだから困ったものだ。
こうなったらトレーニングでもして気を紛らわせるしかない。真理子はいそいそと更衣室へ向かった。
* * *
廊下を歩きながら先日の晩のことを思い出す。葵の弟——茜が訪ねてきたのはおそらく、葵が彼からの電話を無視したからだ。ひょっとしたらあの日だけでなく、葵は度々彼からの着信を放置しているのかもしれない。
葵とは随分と長い付き合いになるが、彼女から実家の話を聞いたことはこれまでに数えるほどしかない。わかっているのは本当に、真理子に話した内容だけ——彼女はヒーローになるために家族と縁を切り、それきり音信不通であるということだけだ。
いつだったか、弟とだけは稀に連絡を取ることがあると言っていた気がする。携帯に連絡先が登録されているというのはそういうことだろう。しかしたとえ何度か電話に出なかったからといって、会社までわざわざ会いに来るというのは、稀に連絡を取る程度の間柄ではどう考えても普通ではないし、緊急性の高い用件か、拗れた話が裏側にあるとしか思えない。
気にならないのか? なるに決まっているではないか。正直、ずっと靄々している。でも、だからどうしろと言うのだ? 自分にはそんなことを訊く資格なんてない。母との関係が良くないことを誰よりも知っていたのは葵だ。そんな悪い見本にしかならない奴に、一体何を話すと言うのだ?
普通にしよう。とにかくいつものとおり、いつもの英斗でいる。これに尽きる。この後に執務室で打ち合わせも控えている。妙な顔色をしていたら逆に葵に突かれる。
——「葵ちゃんのことを一番わかってあげられるのはあんたでしょう」
そうだったら良い。そんな贅沢なポジションに置いてもらえたならどれほど良いだろう。でも、仮にそうだったとしても、そうだからこそ、言えないことだってある。
約束の時間ギリギリに執務室に戻ってくると、葵はまだ来ていなかった。いつもなら少し前にやって来て、珈琲くらい出してもてなせとソファで踏ん反り返っている頃なのに。
遅刻をしているわけではないが、いつもと少しでも違うことがあるとつい過敏に反応してしまうのは悪い癖だ。と、一つ息を吐いたところで部屋のドアがノックされた。それだけで、扉の向こうにいるのが葵ではないとわかる。
「どうぞ」
失礼します、とドアを開け、滑るように入ってきたのは葵と同じ影ではあったが、やはり葵ではない。
「久しぶりね、センリ」
それは黒衣の『アオイ』の弟子にあたる。
葵は本来、本部所属の黒衣たちの統括であり、当然そちらにはそちらの部下という者たちがいる。センリはその中で最も歴が浅く、3号としてこちらに引っ張られるよりも前から葵の直下で修行をしている。黒衣であるため年齢も性別も不詳だが、どうやら葵と同じであるということは察した。もう少し華があったなら、きっと黒衣ではなくヒーローだったと思う、というのが葵の彼女に対する感想で、他の黒衣よりずっと気が利くし優秀だと評価している。
そのためか、一番下っ端であるはずのセンリは、統括の代理を務めることがしばしばあり、最近ではヒーローに先立ってモンスターの偵察にも行くようになった。いつ独り立ちさせても良いと評しながら葵が一向に彼女を手放さないのは、単に自分の優秀な片腕がいなくなるのが惜しいから——というのは内緒にしてくれと言われている。
しかし、何でもない常時に代理を立ててくるなんてこれまでになかった。よほどのことがあったのかと心配になってしまう。
「アナタの上司はどうしたの?」
訊ねると、センリはロボットのような口調で不在だと答えた。「代理で訪ねるよう仰せつかりました」
「そう」
詳細を訊いたところで望む回答は得られないとわかっているため、それ以上の詮索はやめ、予定していた打合せを淡々と進めることにした。葵から預かったという書類を持って来たセンリは、まるで葵の中身をコピーしてきたかのように適切な応対をして、あっという間に用件は片付いた。
「部署内で展開しておきます。ありがとうございました」
「あ、ちょっと待って」会釈をし、踵を返すセンリを呼び止める。「これ持ってって?」
椅子の上に置いておいた上質な茶色い紙袋を手に取り、センリに差し出す。最近流行りの洋菓子店のものだ。「これ、さっき来客があって、いただいたの。口に合うかどうかはわからないけど、良かったら」
本当は葵にあげて、ここでお茶でもと思っていたものだが、せっかくおつかいに来てくれたのだから彼女に渡してもバチは当たらないはずだ。「アナタが持って帰っても良いし、みんなで分けても良いし、任せるわ」
「ありがとうございます。部内でいただきます」
センリはやはり淡々と変わらぬ様子で袋を受け取ったが、黒いフードに隠れた表情がほんの微かに緩んだような気がした。
その隙を突いて、少しだけ世間話を試みる。
「最近、鷹野統括とはどう? 前みたいにいろいろ教えてもらえてる?」
「はい、——」センリは即答した。「ジブンももうすぐ三年目ですので、早く自立して、統括の負担を減らしたいです」
「それは……——」思わず顔が綻びそうになるのを既のところで堪える。「どうかしらね? アナタはセンスが良いって褒めていたから、まだしばらくお守りさせられちゃうかもね」
センリは首を傾げている。「それは喜んで良いことなのでしょうか……。ともあれ、今後も精進します」
「頑張るのはありがたいけど、アナタきちんと休めてる? 申し訳ないわね。人手不足は表側の問題なのに」
「いえ。黒衣は前線に出ませんから、大きな影響はありません。それにあくまでジブンの私見ですが、鷹野統括は、以前より楽しそうにしていらっしゃると思います。最近少しゴタついているようではありますが、ジブンとしましては、無事帰還していただければそれで良いかと」
「ありがとう。えっと……ゴタついてるっていうのは、業務が?」
「詳細につきましてはジブンの預かり知らぬことですが、てっきり桜庭統括ならご存知なのかと」
てっきり、の意味が一瞬わからなかったが、たしかに立場上、そういうことを念頭に置いていなければならないのは自分だと気付き、口籠ってしまった。
「……ごめん。あの人そういうこと全然言わないから……悪いとは思っていたんだけど、やっぱり、もう少し負担を減らしたほうが良いわよね」
二足の草鞋を履かせ続けることがどれだけの負荷になっているかは想像に難くない。この数ヶ月、わかっていて目を瞑ってきた——具体的な手を打たないのは、ひとえに自分の力不足である。
やはり、きちんと葵を呼んで、そういった話をしよう。きっと彼女は大丈夫だと言い張り、あしらおうとしてくるだろうが、彼女の声を汲めるのが自分しかいないというのは事実だ。
「ありがとう。早いうちに話して、その辺ちゃんとするわ。教えてくれて助かった」
センリはしばらく黙りとそこに立っていたが、やがて微かに、短く息を吐いた。「……仕事ではないと思いますよ」
「え?」
「今も外しているのは私用です。おっと、口が滑りました」センリはわざとらしく顔を背ける。「無駄話にお時間を取らせてしまい申し訳ありません。こちらありがとうございます。では、これにて」
音もなく姿を消したセンリが、菓子折りの礼と、おそらく自分に気を遣って口を滑らせたのだろうことは明白だった。先日、弟君からの電話を無視していたことや、真理子が見たと報告してくれたこと——順繰りに、頭の中に蘇る。
「……」
栗を食べてしまって怒られた日から、まともに話もしていない。食べ物で釣るのは本意ではないが、そうでもしないと誘い出す理由がスムースに思い付かず、ほとほと自分はつまらない人間だとうんざりしてしまった。
普段よりかなり遠回りをし、右手側に気を遣いながら歩いてきた帰り道、マンションの前でふと見上げて足を止めた。
——あれ?
またしても自分の部屋から灯りが漏れている。朝は電気を点けない習慣になっているから消し忘れはあり得ず、それは先に侵入者がいるということを意味する。
ネタは仕入れてきたが、どういう言い訳をして呼ぶか、訪ねるか、と考えていたところだった。都合は良いが、まさか彼女は今日自分に呼ばれることを察知して先手を打ってきたのだろうか?
いそいそとエレベーターに乗り、三階は素通りして八階へ。玄関の鍵は取り出すこともせず、ドアノブに手を掛けた。
しかしいつもならすぐに聞こえてくるはずのおかえり、という声はなく、座っていることを期待したダイニングのテーブルは整然としている。玄関には靴が脱ぎ散らかしてあるため室内にいることは間違いないのだが。
手洗いにでも立っているのかと、提げていた紙袋をそっとテーブルに置き、奥の部屋を覗く。と、今朝抜け殻状態にしていったはずのベッドが蓑虫みたいに丸みを帯びて膨らんでおり、その中から青色の髪の毛の束がひょろりと垂れ下がっていた。
なぜわざわざ人の家に来て、人のベッドを占領して寝ているのかわからない。電気も冷房も点けっぱなし、きっと少しごろごろしているつもりで丸まっていたらそのまま寝落ちてしまったのだろう。疲れているのなら自宅に帰って休んだら良いのに。
気持ち良さそうな寝息が聞こえるので起こしてしまうのは忍びない。おそらく自身と同じで眠りは非常に浅く、すぐに覚醒してしまうとは思うが、できるだけそっとしておいてあげたい。
テーブルに置いた紙袋から慎重に中身を取り出し、一旦冷蔵庫にしまう。彼女への詫びのつもりで調達してきたものだが、今しばらく登場はお預けだ。こういう時、中身がスカスカの冷蔵庫のありがたみを感じる。
洗面所に行って濡れたシャツを洗濯機に放り込み、シャワーを浴びながら、葵は今日何の仕事をしていたのだったかと思い返す。今日は討伐要請がなかったから、葵は黒衣に徹していたはずだが、そちらでも大きなトラブルがあったという報告は来ていない。
洗面所でひと通りのことを済ませて部屋に戻ると、いつの間にやら葵が起きてきて、台所で珈琲を淹れていた。
「おかえり」眠いのか、やや歯切れの悪い声である。
「ただいま。ごめん、うるさかった?」
「ううん」と葵は頭を振る。「珈琲飲むよね? 私、牛乳で割るけど、あんたはどうする?」
「……良いよ。葵と同じで」
「ん」
葵の短い返事を聞きながら、いつもの調子で冷蔵庫を開けると、さっき自分で入れた大きな箱が入っている。すぐにでも出してしまいたいが、何となく今はタイミングではない気がして、ペットボトルの水と、まもなく葵が欲しがるであろう牛乳パックだけを取って扉を閉めた。
珈琲を淹れてくれている葵の傍に牛乳を置いて、ペットボトルに口をつけながら隣で彼女の様子を窺った。ゆっくりと珈琲が落ちていくのをぼんやりと眺めながら、彼女は一言も言葉を発しない。それはまだ寝起きで睡魔が取り憑いているからなのか、何か考え事をしているせいなのか、判別は難しい。
話をしようと、決めていたはずだ。なのに、どう切り出したら良いのかわからない。それどころか、この期に及んでやはり話さないほうが良いのではないか、などと考えている自分までいる。
——……情けない奴。
でも、どう考えたってこの状況では問題の原因があるのは葵の実家だ。それを葵がいつもの調子で話してこないのは、話したところで英斗には理解できないとわかっているからだろう。だって、英斗には『家族』と言える家族がいないと、誰よりもよく知っているのは葵なのだから。
——「葵ちゃんのことを一番わかってあげられるのはあんたでしょう」
わからない。わかりたい気持ちだけは一丁前にここにあるが、きっと理解できない。家族なんて知らない。なのに、他人のそれを理解しようとするなんて、おかしくないか?
どうせ碌なことを言えない。そうなんだ、へえ、大変だね、などと適当な相槌を打つくらいしかできないのならそっとしておいたほうがマシではないのか? それこそ、下手に何か言えば傷つけることになるし、何も言わなくとも、やはり理解できないのかと失望させるしかない。
そんなの、御免だ。
「あ」気付くと葵がこちらを見ていた。ちょっと怒っている。「もォ、またそうやって。大きいのはラッパ飲み禁止って言ってるでしょ」
「ゴメンナサイ」
まったく、と頬を膨らませながら、葵はペットボトルを取り上げ、残っていた水をすべてポットの中へ入れて火にかけてしまった。冷蔵庫のポケットにはあとで新品のボトルを補充しておこう。
温めていない牛乳を熱い珈琲の入った黄色いほうのマグカップに注ぎ、軽くかき混ぜる。葵が時々作ってくれる、猫舌専用の温いカフェオレの完成である。
「ありがと」
先に席に着き、カフェオレをいただきながら、自身の熱々カフェオレを作る葵の後ろ姿を眺める。普段ブラックばかり飲んでいるためか、珍しく舌触りの丸いものが入ってくるとなんだかあちこちが緩む。
葵の黒くて長い髪が、そのすらりと細い背中を隠しながら、艶々と灯りを反射して光っている。英斗と同じか、それ以上のトレーニングメニューをこなし、一般的に見ても決して小柄ではないはずの彼女が、その台所に立っているだけでとても小さく見えるのはどうしてなのだろう?
「……ねェ」
「んん?」電子レンジの前で牛乳が温まるのを待っている葵は、こちらを振り向かずに生返事をする。
あれだけ躊躇していたその問いが、何の引っ掛かりもなく出てくる。「実家で何かあった?」
「……」
「最近、弟さんと連絡取ってるよね?」
「……」
葵が何も反応してくれず、心拍数が急上昇する。カフェオレを一口飲んだくらいでは、到底鎮まらない。
「ごめん。それがどうってわけじゃないんだけど……なんか、元気ないから、疲れてるのかなって、思っただけ。気のせいだったら、ごめん、でも、えっと……葵の家の話って、全然聞いたことなかったから、よく、わからないし、人ん家の心配できるような、立場じゃない、し、自分に何か、できるってわけでも、ないんだけど、何となく、その……もし、疲れてるなら、ちゃんと言っ——」
その時、空気を読まないレンジが突然に温めの完了を告げ、驚いた拍子に何を言おうとしていたのか吹っ飛んでしまった。静まり返った部屋の中、葵は平然とそれを取り出している。こちらは勝手に必死になっていたが、その話を聞いてくれているのか不安になった。
滞留する沈黙の冷たさに寒気がするが、体は熱って、おそらく額に汗が滲んでいる。温かいカフェオレも飲んでしまったし、シャワーなんて浴びてこなければ良かった。せめて髪を結びたいところだが、身動きすることすら憚られる。
やはり訊ねてはいけなかったのだろうかと後悔し始めた頃、葵は漸く僅かに首を傾げ、ねェ、と声を掛けてきた。
「……もしかして、私のこと、気にしてくれてる?」その声からは彼女の心の内を推察することはできない。
「……ごめん。余計なお世話だね」
「ううん」葵はゆっくりと首を横に振る。「ありがと」
「……」
しかしそう言ったきり葵は何も話さず、レンジから取り出したマグカップに珈琲を注いでいる。きっとこのことは他人が頭を突っ込んで良いものではないのだろう、とそれ以上の詮索はしないつもりでいた。が、カフェオレを作り終えた葵は、カップにそうっと息を吹きかけて口をつけながらゆっくりと向かいの席に座ると、小さな一口を含んでから、一つ息を吐くと共に、相好を崩した。
「やっぱり敵わんな。英斗には」
ぽつんと、張り詰めた水面を優しく揺らす。
観念した、という意味だ。と同時に、今まで黙りしていたのが嘘のように、彼女はすらすらと話し始めた。「この前、ラーメン行けなかった日、あったじゃん? あの時ね、弟が来ていたの」
意外な話で少し驚いたが、今はまだ黙って聞いていることにして、うん、とだけ頷いた。
「会社出たら外に立っててさ。急に来るんだもん、びっくりしちゃった」カップを顔の前で小さく回しながら、彼女は少しだけ笑う。神出鬼没なのは姉弟共通なのだろうか。
「……弟さん、は……何か、葵に用があって来たんじゃないの?」
「そ。父がねェ、呆けちゃったんだって」
「え?」
「まァもう八十過ぎてるしねェ、仕方ないんだけどさ。わかったのは割と最近らしいんだけど、進行が早くて、もう結構いろいろわかんないんだって。母のことも、弟のことも。それでね、最近よく「葵はどこへ行ったんだ?」って、そればっかり訊くんだってさ。私がまだ、高校に通ってると思ってるの」
「……」
「施設に入ってて、たぶんもう長くないから、一度会ってやってくれないかって、言うんだけど……」
そこで言葉が止まってしまった彼女に続きを促そうと口を開きかけた時、テーブルの下で、足元に何かが触れた。葵の足だと思う。テーブルの上には平然とカフェオレを飲んでいる葵がいる。
しばらく様子を見ていたが、噤んでいる口とは対照的に、両足はズボンの裾を摘んだり引っ張ったり、突いたり蹴ったりと行儀が良くない。
あまりに良くないので、とうとう脚の間に挟んで捕まえてみた。
「……行かないの?」
訊ねると、捕まった葵の足は急に元気がなくなってしまった。挟まれて大人しくしていると靴下の下から冷え切っているのが滲みてくる。
「……どうしようかなって」表情は相変わらずだが、頭が少し傾いている。「あの時は、適当にはぐらかして、帰ってきちゃったんだけど」
やっと流れが繋がった。それであの日、彼女は先にここにいたのだ。「あの電話、そのことだったんじゃないの?」
「そうだよ。でもさ、そんなの急に言われたって……いッくら親っつったって、こっちはもう三十年以上会ってなくてさ、もはや他人と同じだよ? しかも呆けててさ、たぶんもう行ったって認識もされないじゃない」
「どうし、て?」純粋な疑問ではある。が、口に出してから、訊いてはいけなかったのではないかと思った。「……葵は、いつも、母に会えって、言っていたよ」
「うん」
「なのに、どうして?」
テーブルの下で繋がっている足先から畏怖の念が伝達してしまいそうだが、今この冷たい足を離したくはない。
葵の視線はテーブルの上をゆっくりと這う。落ち着いているように見えるが、おそらく困っている。ただその視線の動きとは裏腹に、足はまったく逃げる気配がない。
「なんか……ごめん、上手く言えないんだけど……可哀想かなって、思っちゃって」
「可哀想?」
「会いに行くのは、良いんだ。別に。ただ、私のことを高校生だと思っているってことは、本人の頭の中は、たぶん三十三、四年前なんだと思うの。その頃の葵は、今とは、全然、違うからさ」
「どう違うの?」高校生の葵を頭の中で想像してみるが、いくら頑張っても英斗の中ではやっぱり葵は葵にしかならない。
「あの頃は、ヒーローになりたいだなんて、考えてもいなかった。父は、私がヒーローになること、反対だったんだよ。母もね。なるなら勘当だって言われたから、出てきたの」
「嘘でしょ?」
「本当だよ」
滅茶苦茶な話に聞こえるが、何となく安心している自分もいる。やっぱり葵は昔も葵じゃないか。「え……何、じゃあそれから、帰ってないの?」
「そうだよ」だって帰りたいと思わなかったから、と葵は平然と言った。人には母に会え会えと散々言って、最終的には強制的に連行したくせに。
一瞬呆然としてしまった隙を突かれ、葵の足はするりと脚の間を抜け出し、今度は甲の上に移動する。
「冷たッ……」
「英斗の足あったかいね」
「ごめん、寒かった? クーラー消そうか」と提案するも、両足の甲を踏まれているのでリモコンのところまで行けない。消さなくて良いという意味なのだろうが、ぺたん、ぺたん、と人の甲を踏みながら嬉しそうに笑っているのを見るとサイコパスの気質を感じる。
「……高校の時のさ、——」葵は相も変わらず淡々と話を続ける。「従順な娘が来ると思っちゃってるんだと、ちょっと……どうかと思わない? 実際はもう五十のオバサンでさ、自分が猛反対して、勘当してまで止めようとしたヒーローになってて、もう三十年以上帰ってないとか……しかも片腕よ? ショックすぎない?」
「それ、は……」
「だからさ、もうこのまま、父にとっての『綺麗な葵』のまま逝ってもらったほうが、幸せなんじゃないかって……、——」
そこまで言って、急に葵の足の動きが止まった。代わりに、深い溜め息と共に頭が振られる。「ごめん。違うわ」
「違う?」
「うん。違う。そうじゃない」嗤っている。「ショックを受けるのは父じゃない。私」
「どうして?」
「……私の知ってる父は、とても厳格な人で……いつもスーツをビシッと着ててさ、『人に迷惑掛けるな』『自分のことは自分でやれ』ってそればっかりで、大企業の社長だったのに、現場が好きでさ……私もガキだったってのもあるとは思うけど、何て言うか……わかる? それがボケボケの爺さんになっちゃってるわけでしょ? 家族の顔もわからない、自分のこと……下の世話さえ他人の手を借りなきゃならない、赤ちゃんみたいにさ」
「……」
「何だかんだ偉そうに言ったって、結局、私はそれを見るのが怖いんだね」
しきりに甲を叩いていた葵の足は大人しく上に載っているだけになって、やはりじんわりと冷たさが伝わってくる。
思い切って下にいる自身の足を引っこ抜いてみた。
「あッ——」びっくりしたのか、拍子に声が漏れる。構わず、今度は葵の足の上に自分の足を置いた。このほうが、たぶん暖かい。
「……葵は、どうしたい?」
軽蔑されるかもしれないが、生い先短い老人への気遣いよりも、自分としては葵のほうがずっと大事なのである。
怖かったら逃げてしまったって良い。葵の口から怖いという言葉が出てくるなんて相当だろうし、そんなことで傷ついてほしくない。しかし葵はじっとしたまま、長いこと考えてから、どちらでも良い、と答えた。
「私、薄情なの」
十八で家を出て、それから一度も帰っていない、帰りたいと思ったことがない、と彼女は笑った。嫌だったわけでも、避けていたわけでも、ないのに。
決戦で大怪我を負った時も帰らなかったというのはさすがに引いたが、しかし彼女の言葉を聞きながら、きっと本当にそうなのだろうと納得してしまった。葵は何かに執着したり、過去をチラチラと振り向きながらいつまでも後ろ髪を引かれるようなことはない。来るもの拒まず、去るもの追わず——淡々と、ただ淡々と、己の今を流れていく。そういう人だと思っている。
英斗とは、違う。
でも——。
「葵が嫌なら、会わないほうが良い。でも……もし本当に、どっちでも良いなら、僕は……僕は、会っておいたほうが良い、気がする」
そんな人に、自分なんかが意見する資格なんてないことは百も承知だ。ただ『どちらでも良い』というのはつまり、『そうしたい』がゼロ%ではないということだと思う。「何となく、だけど……そのほうが、葵が苦しくならないんじゃないか、って……もし必要なら、一緒に行くよ。意味があるかは、わからないけど……」
「……」
話している自分自身に腹が立つ。何を、偉そうに。情けなくて、顔を上げられなかった。こんなこと、自分が言えたことじゃない。
でも嫌なんだ。葵が悲しかったり、苦しかったりするのは。
少しあって、前方から小さく鼻息が漏れた。ちらりと上目に見やると、葵は少しだけ頬を赤くして、目を細めていた。その表情の意味は理解できないが、少なくとも悪い印象ではないと思う。
「英斗がそう言うなら、そうしよう」
「えッ、で、も……——」
「ついて来てくれるんでしょ?」葵の足が下でモソモソと動いていて、擽ったくて思わず足を引っ込めた。それなのに目の前には嬉しそうな三日月が浮かんでいて、まだ全身が擽ったい。
「いや……うん、でも、何の役にも立たないよ……?」
「そんなことないさ。私は頼りにしているよ。本物の弟より、よっぽど私のことをわかってる」
「そんなこ——」言い掛けて、はたと気付く。「もしかして、この前のケーキ……」
「そうだよ」その口調からは何も感じられない。感謝の念もなければ、恐縮した様子もない。むしろ、その奥にあるのは怒りである。「あんたとのラーメンを台無しにしたにもかかわらず、私を満足させなかった罰」
それはおそらくとんでもない重罪なのだと思うし、それをやらかしたのが自分でなくて良かったと心の底から思うが、何も知らない弟君の立場からするととても気の毒な話だ。
「あの顔はウケたな、ケーキ選んでる時の……唖然としちゃってさ。きっと一個か二個買うくらいだと思ったんだよね。こんなに誰と食べるんだって怒るから、頭に来て、一人だよ悪いかって言い返してやったら、もう何も言えなくなってて」
その光景が目に浮かぶ。だが、それが弟君で良かったなどという不謹慎で、的外れなことを考えている自分がいる。「なんか、悪いなァ……」
「なんでよ⁉︎」葵は身を乗り出して訴えてくる。「あっちが悪いの! 私お腹空いてたのに、姉の好みも胃袋のサイズも知らないなんて!」
「まあまあ、それは、えっと、そうなのかもしれないけど……あ」そういえば、と思い出す。すっかり大切なことを忘れていた。
席を立ち、冷蔵庫に歩み寄って扉を開ける。今日のメインはこの大きな白い箱なのだ。「はい、これあげるから、機嫌直して?」
「何?」すっかり頬が膨らんでしまったが、この箱の中身にはそれを簡単に萎ませるだけの効力があると信じている。
「この前、栗食べちゃったから、お詫びね」
テーブルの上で箱を開け、中からトレーを引き出してやると、思ったとおり、葵の目がキラキラと煌めく。
駅ビルに入っている洋菓子店の大きなモンブランタルトをホールで予約しておいたのだ。この前は一つしか載っていなかった栗の甘煮がたくさん飾り付けられているものを選んだ。
「えッ、これ、食べて良いの?」
「良いよ。食べたかったら、全部」
「ありがとう!」
珈琲を淹れ直すと言う彼女に、今度は自分が淹れるからと制してフォークを渡した。ナイフなんて、きっと彼女には不要だろう。
二人分のブラックを用意して、てっきり先に食べ始めているだろうと思って振り向くと、葵はフォークをテーブルに置いたままじいっと待っていた。早く座れと急かされ、青色のほうのカップを渡すと、嬉しそうな顔をして丸いケーキにフォークを突き刺した。ケーキのホール食いなんて子どもにとっては夢の行為であるが、いけないことをしているかのようなワクワク感は大人になっても変わらないものだ。
「葵」
——美味しい?
口いっぱいにケーキを入れて横に膨らんだ顔がこちらに向く。ラーメン屋で、葵がよくそう訊いてくる理由が、何となくわかるような気がした。
二日後、約束どおり英斗は葵に連れ添い、葵の父親が入所しているという施設に行った。都会の喧騒とは縁遠い、郊外の閑静な老人ホームで、少なくとも母・幸子が晩年を過ごしていたところとはまったく毛色の違う佇まい——遠目に見るだけで、おそらく経済的にかなり裕福な人々が暮らしているのだろうと感じた。
「ここで良いよ」葵は道の先に施設の門が見えるところまで来ると、一度足を止めてそう言った。「すぐ戻ってくるから」
「待ってるから、慌てて帰ってこなくて良いよ」
「だってこの辺何にもないよ?」
「大丈夫」言うとおり周囲には何もないが、先ほど駅から歩いてくる途中に一軒だけ小さな喫茶店があった。営業しているかどうかはわからないが、困ったらそこへ行けば良いし、たまには長閑な田舎町を散歩するのも悪くない。
「いってらっしゃい」
葵は小さく頷いて、施設に向かって駆けていった。中に入るところまで見送って、周囲を見渡す。コンビニの一つもなく、吹いてくる風は土と葉の匂いがする。
ふらりふらりと小道に逸れながら、何となく駅がありそうな方向へと歩く。この町には人が住んでいないのかと錯覚してしまうほど、誰ともすれ違わず車も来ない。側溝の蓋の上を猫が一匹歩いていたくらいだ。
比較的古い家が多いのを見て、そういえばこの地域はモンスターが出現したことがないと気付く。先ほど見た喫茶店も、古い一軒家を改修したような外観だった。どうりで、電車を降りた瞬間から空気が違うと感じたわけだ。
シールドの壊れたこの世界に絶対的な『安全地帯』というものは存在しない。だが、今となっては希少価値の高いこの混じり気のない平和の香りは、今後も、そのままここにあってほしいと思う。
喫茶店に入るのは最終手段と思っていたが、歩き回るうちにどこからともなく珈琲の良い香りが漂ってきて、気付いたら吸い寄せられてしまっていた。匂いがするということはおそらく開店しているということだろうと踏んで、ドアを開ける。カランカラン、という金属の当たる音が頭上で鳴った。どこかで聞いたことがあるが、それより品の良い音色だった。
扉の向こうのこじんまりとした空間には、さらに強い珈琲の香ばしい匂いが充満していて、やや薄暗い木目調の空間の中、年のいった女性客が一人カウンターで本を読んでいた。
「いらっしゃいませ」
黒いエプロンを付けた店員と思われる女性は意外と若く、好きな席に座って構わないと愛想良く応対してくれた。店内に一つしかない窓際の二人掛けのテーブル席を選択し、着座すると、女性がメニュー表を持って来てくれた。
「今日はキャロットケーキがあります」という子守唄のような女性の口調が心地良かったので、珈琲とそれを頼んだ。珈琲には種類があるらしかったが、キャロットケーキに合うものにしてほしいとだけ伝えて任せることにしたら、女性は嬉しそうに頷いて去っていった。
落ち着いたところで、ここにいることを葵にメッセージで送ろうかとスマホを取り出し、出だしの文章を打ち始めて、やめた。葵から連絡が来てから返しても遅くはないだろう。普段嫌になるほど騒がしい仕事用の電話は今日は珍しく大人しく、どうでも良い内容のメールが一通来ているだけだった。
手持ち無沙汰ではあるが、仕事用のパソコンを持ってこなくて良かったと思った。やることは山のように残っているが、こんなところで作業なんて到底やる気にならない。まもなくして店員の女性が持ってきてくれた珈琲とキャロットケーキをいただきながらぼんやりと窓の外を眺めていたが、道行く人はほとんどなく、時間が止まっているかのような静けさがある。
どれくらいの時間が経った頃か、店の前に一台の黒い車が停まったのも、珍しさのあまり目についてしまった。
車から降りてきたスーツ姿の男性は、迷いなくこの店に入ってきた。
「こんちには」
知っている顔なのか、店員の女性は慣れた雰囲気でそう挨拶をした。
「どうも」男性のほうも軽く会釈をしながら、カウンターに座っている女性の元へまっすぐ歩み寄った。「お待たせ、母さん」
「ああ、ありがとう、アカネ。悪いわね」
「出れる? 外に車停めてあるから」
静かであるが故に、小声での会話にもかかわらず丸聞こえだ。反射的に振り向かないよう、カップを口元へ運ぶことで誤魔化した。葵の弟の名前も、アカネだ。
「いつもの珈琲豆、ご用意できていますよ」
「ありがとうございます。いつもすみません」
男性は金額を言われるより先に支払いを済ませ、杖を突いている女性を連れて店を出て行った。車のドアを開け閉めする騒がしい音が聞こえた後、お気を付けて、またお待ちしています、という女性の高い声がして、やがてエンジンは遠ざかっていった。何事もなかったかのような静寂だけがそこに残る。
その時、テーブルの上に伏せていたスマホが短く唸った。見ると、葵が自分を探している旨のメッセージが届いていた。
喫茶店の地図を送り、今度は画面を上にしてテーブルの上に戻した。すぐ戻るなんて強気なことを言っていたが、やはり想定どおり三十分以上経っている。程なくしてやって来るだろう葵にキャロットケーキを残すかどうか迷って、珈琲と一緒に全部食べてしまった。
「恐れ入りますが、珈琲豆を見繕っていただけます?」
もっとのんびりすることもできるが、葵のことは外で待つことにした。
会計をして外に出ると、来ると思っていたのと反対の方向から葵が歩いてきた。
「お待たせ」
「もう良いの?」
「うん、早く帰ろ」葵は何となくそわそわして、辺りを気にしている。
「何かあるの?」
「ないけど……会いそうじゃない。ここ、一軒しかないんだもん。喫茶店」
「ああ」彼女のその勘は、きっと当たっている。やはりキャロットケーキは食べてしまって正解だったと思いながら、受け取ってきたばかりの紙袋を差し出す。「はい、お土産」
「何これ?」良い匂い、と彼女は鼻を近づける。「ありがとう。一緒に飲も?」
「うん」
駅までの道を歩きながらも葵はどことなく挙動不審で可笑しかった。いつも歩く時は道ではないところを跳んだり跳ねたりしているくせに今日は至極大人しいし、背中で踊っているはずの青色の毛束も黒い上着の中に息を潜めている。気配を消すなんて得意中の得意であろうに、陰に隠れたいのか非常に体の距離が近い。
「どうだった?」
訊ねてみると、葵は少しだけ首を傾げた。「葵によく似てるって言われた」
「良かったじゃん」
「良かったのかな?」葵は沸々と笑い出し、どこか満足しているようにも見える。「こんなこと言って良いのかわかんないんだけどさ」
「うん」
「私らって、きっとああなる前に死ぬじゃない?」
「たぶんね」
「なんかさ……——」ふっと短く息を吐き、天を仰ぐ。釣られて見上げた空は、気の早い太陽がもう仕事を終えようとしている。「人それぞれあるとは思うけど、自分が自分でいられるうちに死ねるって、もしかしたら幸せなのかもしれないなァとか、考えちゃった」
「……」
「ねェ、英斗は、——……」
葵はそこまで口にして、押し黙ってしまった。その先に何を言おうとしたのかは見当もつかない。
「英斗は、何?」
訊ねても、葵は首を傾げたり下を向いたりするばかりで何も答えなかった。が、やがて英斗の目をじいっと見て、それから頭を小さく横に振って相好を崩した。
「……ううん。いい。何でもない」
葵が笑っているのは好きだが、今のその顔は好きじゃないと思った。どこが、と具体的には答えられないのだが、何となく喉の辺りが苦しい。
他人の家の話だ。余所者にできることなんて何もない。施設で父親とどんな会話をしたのかなんてことを訊けるはずもない。葵は目の前にいるのに、嬉しいのか悲しいのかもわからないし、その心の内を想像するだけの経験もない。
何も、できない。
ただ、とにかくその顔で笑うのをやめてほしくて、唯一知っていることをした。右手を頭の上に置くと髪がつるつるしていて、葵の頭って随分と小さかったのだなと思った。
少し大きくなった黒い瞳がこちらを向く。
「……どうしたの?」
「良くない? たまには姉さんを労っても」
「……」
「お疲れ様。お腹空いてる?」
「え? うーんとねェ……」
「ラーメン食べる?」
「食べる! え、何、奢ってくれるの?」急に声のトーンが上がって、早口になった。
「うん」
「やったァ、本当に⁉︎ なんで⁉︎」
「いや、何となく……」あまりに現金で笑いが出てしまうが、やっぱり葵は葵であって、嬉しい。「今日は、特別」
* * *
翌週、真理子はチーフの指示に従い、葵と共に婦人向け雑誌の取材に臨んだ。
インタビューは真理子の好きに答えて構わないが、変なことを言うなと再三釘を刺された。事前に質問される内容は教えてもらっていたが、そう言われると回答に困る。
「大丈夫大丈夫! 好きにやったら良いんだよォ」
メリマリの新作ドレスに身を包んだ葵は、緊張で固くなっている真理子を見てそう笑い飛ばした。しかし雑誌の取材なんてもう十年以上やっていないし、つい余計なことを喋ってあとで大目玉を食うのはごめんなのである。
「口では煩いこと言ってるけど、英斗もそれくらいわかってるってェ」
「そうかなァ……?」
「気にしない気にしない!」
そんな風にあっけらかんと笑っているといつもの葵だが、普段あまり化粧気もなく黒っぽい姿ばかり見慣れているせいなのか、あまりのギャップに一挙手一投足にも見入ってしまい、うまく会話を続けられない。プロのヘアメイクアーティストの手が入っているのもあるだろうが、イメージが異なりすぎて、黙ってそこに立っていると誰だかわからないかもしれないというレベルだ。
「葵ちゃん、可愛い。とっても似合ってる」
スタイリストに髪をセットしてもらいながら、思わず口から感想が溢れ落ちてしまった。葵が着ているのは今シーズンのメリマリの新作で、あちこちにフリルや宝石があしらわれたグラデーションカラーのパンツドレスである。女性らしくも男性らしくも見えるのは、丈の長いオーバースカートが良い仕事をしているせいだろうか。
「そう? ありがと。真理子ちゃん、髪下ろしてるの似合うね」
「ありがとう……」
「すごい、それめっちゃ脚長く見える。やっぱ一流デザイナーは違うんだねェ」
葵が感心しているこのドレスも、メリマリの新作だ。母が作っている服のはずなのにまったくその実感はないし、メリマリというブランドの服自体、今日初めて袖を通した気がする。
普段より数倍厚く施された撮影用の化粧に、顔が呼吸できないと悲鳴を上げている。セッティングされた照明の中に入り、指定された場所に葵と並んで立っただけで、汗が背中を伝っていった。
何枚か写真を撮られたが、笑顔が固すぎると指摘された。「いつものファンサと同じだよ」と葵は言うが、それをどうやっていたのか思い出せない。少し時間が経てば慣れるかと思ったが、自分にはそのつもりがなくともファインダー越しにはそう見えるらしい。
焦るからますます汗が溢れてきて、何度もメイク担当の女性が直しに入ってくれる。そろそろうんざりしているかもしれない。メリマリからは社員が一人来ているだけで、鞠恵本人の立ち会いがなかったことだけが幸いだ。
「アンタって緊張することあるのね」
その時、傍らの明るすぎるライトのほうから聞き慣れた声が飛んできた。思わず顔を顰めるほどの強い光で姿こそ見えないが、その小憎らしい言い回しは間違いなくチーフである。
「……そりゃあるわよ。あたしを何だと思ってんの?」
「別に。アンタいつもヘラヘラしてるから、こういうのも得意なのかと思ってた」
今日は他の仕事があるから行けないなどと言い訳をしていたくせに、わざわざ嫌味を言いに来るとは恐れ入った。
チーフは場にタイムを要求し、こちらに歩み寄ってくる。いつも神々しい頭が照明の下ではさらに煌びやかに見える。
「せっかくの可愛い服が台無し」
「悪かったわね! 何しに来たのよ?」
「予定が一つキャンセルになったから様子を見に来ただけよ」
「ねェねェこれどォ? 可愛い?」葵が嬉しそうに微笑みながらその場でくるくると回っている。本当のところはこれを見に来たのではないのかと大声で指摘してやりたい。
「可愛いよ」
「ありがと!」
——それだけなの?
もう少し何か気の利いたことを言えないのかと呆れるが、葵は嬉しそうにしているので良しとするしかない。
「チーフもせっかく来たんなら着せてもらえば?」
「もう着てる」と、肩を竦めたチーフが着ている自前のスーツは普段からよくローテーションしていて真理子も見覚えがあるが、おそらくメリマリのものなのだろう。「せっかく腹と尻と短足を誤魔化してもらってるんだから、ちゃんと真面目にやって?」
「久しぶりに聞いたけどそれ思いっきりセクハラだからね?」
「事実でしょうよ。よく入ったわね、それ」
「うっさいわね! これはおかあ……——」つい言い掛けて、悔しくなって、ぐっと押し黙る。チーフの指摘は図星で、通常サイズでは真理子はこの服を着ることはできない。「母が……、特別に直してくれたのよ! 今日の被写体があんたじゃなくて、あたしだってわかったから」
「……」
チーフは何も言わず、ただ僅かに頭を傾けながら一歩下がり、真理子の足元から頭の先までを舐めるように見た。その刺々しい視線が久方ぶりすぎて、心臓が痛い。
「……ふうん」
随分と長いこと焦らしたくせに、発した言葉はたったそれだけで無性に腹が立った。本当にむかつく。当初の予定どおりチーフがこの取材を受けていたら、こんな恥を晒さなくて済んだのに。
「何よ⁉︎ だいたいねェ、ほんとはあんたが——」
「やっぱり、どう転んでもマリエさんはアンタのママなのね」
「え?」
「そう思わない?」
話を振られた葵はニヤニヤしながら頷く。「そうだね」
「どういう意味よ?」
「たぶん、どうしたら娘が一番煌めくことができるかをちゃんとわかってるのね」
嫌味を言っているのではないということはわかった。そしてそれが、チーフにとっては最大限の褒め言葉なのだろう。本当に、憎らしいほど天邪鬼である。
「……ありがとう」
「あの、——」
声が聞こえた。三人して向くと、先ほどからシャッターを切っていた女性がガタイの良い黒々としたカメラを持ってこちらに歩いてくる。
「これ、いかがですか?」
そう言って女性が見せてきた液晶画面に、チーフの顔がギョッと歪んだ。そこには『タイム』の間に三人で言い争いをしている様子が何枚も収められていた。
「いつの間に……」てっきりストロボなどのテストをしているとばかり思っていたが、本当に撮影されていたとは。
「とっても自然で、素敵だと思うんです」
つい数分前まで眉間に皺を寄せていたカメラマンは、晴々しい笑顔を浮かべていた。たしかに、指示されて畏まったポーズを取っているよりも、この写真のほうがずっと自分たちらしい。
「……アタシ、撮られるつもりで来てないのに」
「良いじゃん! あんたは元が良いから問題ないの!」恥ずかしそうに両手で顔を覆っているチーフを葵が宥めている。写っていると言ったってほとんど後ろ姿ではないか。
結局、チーフが纏っているのも同ブランドの服であり問題ないということで、最終的には渋っているチーフの許可をもぎ取り、それらの写真の中から編集の際に選別されて使われることになった。巷がまたヒーローたちのゴシップネタに湧くことになるのは少し先の話である。
To be Continued...




