第五話 それは、夢か現か(2)星灯りの日
帰りの電車に乗る頃になって覚醒したひなたは、外した『おみみ』を大事そうに抱えながら自身の足で歩いて自宅マンションが見えるところまでやってきた。途中、もうさすがに離脱しても良いだろうと思い、「じゃあまた明日」と口を開きかけたが、既に帰宅し状況を知っている健一がどうしても一言礼を言いたいからと、半ば強引に真理子の家まで連れて行かれることとなってしまった。
ひなたは少し昼寝をして体力を回復しているため、電車の中でも歩きながらもずっと遊園地の感想を喋っていた。乗り物に何個乗ったとか、どこでおやつを食べたとか、そんなたわいもない話だがまったく終わる気配がなく、真理子が聞き疲れて根を上げたほどだ。
よほど楽しかったのだろう。それなら良いのだ。これが今朝手がつけられないくらいに大泣きしていた子だと誰が信じよう?
ところが、マンションの下でエレベーターを待つ頃になって、ひなたは今朝のことを思い出したのかどことなく不機嫌になり始め、自分で歩いてここまで来たのにまた抱っこをせがんできた。
「ママの抱っこじゃないの?」
そう訊ねるも、ちがう、と首を振ったひなたは、少し屈んでやると自分から寄ってきて首元に抱きついてきた。やはり疲れて眠いのもあるだろうが、またグズグズと泣き出してしまったらどうしようかと不安になる。
「ごめんね、チーフ。重いでしょう」
「だからアンタより全然軽いって」
「黙んなさいよ」すっかり荷物係になってしまっている真理子がボタンを押してくれたが、なんだか少し乱暴だった。「ほんッとあんたってどこまでも小憎らしい奴よね! いつか絶対訴えてやるんだから!」
——誰が見ても明白な事実を述べただけなのに。
家の前に着くと、ドアを開ける前からカレーの匂いが漂っていた。トラブルに見舞われていた健一は既に帰ってきて待っており、真理子がドアを開けた瞬間、ただいまと叫ぶよりも早く奥から転がり出てきて、いつもの似合わないエプロンをくしゃくしゃに丸めて脇に挟んだまま頭を下げてきた。
「どうもほんッと、今日はすみませんでした! いろいろとご迷惑をお掛けしてしまって、本当に何とお礼を申し上げて良いやら……」
健一は感謝と謝罪の意を込めて、どこまで下げるのかとツッコミを入れたくなるほど深々と何度も頭を下げてくる。今日自分たちが遊園地を堪能している間、こうして先方でも頭を下げまくり、疲れて帰宅してきたのではないのだろうか。
「いえ、えっと……そんな、お気になさらないで、ください」自分が頭を下げることはあれど、こんな猛烈な勢いで頭を下げられることはあまりないので狼狽えてしまう。「お仕事は大丈夫だったんですか?」
「はい、お陰様でなんとか丸く収まりそうで……本当に、ありがとうございました」
「いえいえ、それなら良かったです、はい。もう、だから、そんな頭を下げないで、あの、下げるならこっちのお姫様にお願いします」
抱っこされたまま、降ろそうとしても全然降りてくれない姫は、健一のことを見るや否やプイッと顔を背けると、また首元に抱きついて離れようとしない。
「ひな、ごめんな。今度ちゃんと埋め合わせするから。また遊園地行こう、な?」
ひなたはムスッとしたまま何も言わず、顔すらも向けようとしない。真理子も苦笑いを浮かべており、さすがに見かねて声を掛けることにした。
「ひなた、パパがごめんねって言ってるんだから、何かお返事しなくちゃ駄目よ? 練習したでしょう?」
「……」
遊園地で乗り物の行列に並んでいる間、健一に高級子供服ブランドの洋服をしこたま要求するための算段をこれでもかというくらい打ち合わせた。ひなたは頭の良い子だからきっと上手くやるはずだ。
漸くゆっくりと顔を上げると、その頬はパンパンに膨らんでいて笑いそうになった。
「……ゆるさない」ポツンと低い声で呟き、じっとりとした眼差しが健一に向けられる。「ごめんねしてもゆるさない。おんなのことのやくそくをやぶるなんてサイテーなの」
「ごめん、ひな。そうだよな、楽しみにしてたもんな。本当にごめん」
「ゆるさない。パパきらい。チーフがいい」
プイッとまたひなたはそっぽを向き、また力強く首元に抱きついてくる。もちろんそんな台詞は練習した台本の中にはなく、パパはショックを受けている。プロ顔負けの大女優っぷりだがアドリブがすぎる。
「ひなはチーフとデートができて楽しかったのよねェ」横からニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながら真理子が茶々を入れてくる。
——母親のくせにいらん援護射撃をするんじゃない!
「チーフがいい。パパはしらない。やくそくやぶったらひどいめにあうって、まえにチーフにおしえてもらった」
「すみません、本当に」決して間違ったことを教えたつもりはないが、謝罪の言葉しか出てこない。
「でもあたしにおようふくをかってくれたらゆるしてあげてもいい」
「お、お洋服? どんなお洋服が欲しいの?」
「キューティフィールドのかわいいやつ」
「わかった。パパお洋服のことはよくわからないから、あっちでカレー食べながら教えてくれる?」
ひなたはキッと疑いの眼差しをぶつける。「ほんとうにかってくれる?」
「うん、いいよ。どこに売ってるの? 一緒に買いに行こう」
そんな安請け合いをしてしまって、後悔することにならないと良いと心から願う。
漸くひなたは腕から降りてくれ、靴を脱いで部屋に上がると、軽い足取りで廊下の先の洗面所へ入っていってしまった。その背中を見て、きっともう大泣きすることはないだろうし、大丈夫だと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、アタシはこれで失礼します」改めて健一のほうに顔を向け、踵を返そうとすると、健一はパッと目を丸くした。
「え、桜庭さん、帰っちゃうんですか? 御夕飯まだですよね? カレーを作ってあるので良かったら一緒に食べていってくださいよ」
「え、いや、さすがにいつもいつも申し——」
「遠慮なく! どうぞ、上がってください! いつもカレーで申し訳ないんですけど‼︎」
「や、あの——」
健一はそう言って、また慌ただしく部屋の奥に引っ込んでしまった。人の話を聞いてくれないのは真理子だけではなく、この家の人間が皆そうなのかと改めて気付く。真理子も相変わらずチーフのことなど放置でさっさと上がってどこかへ行ってしまうし、一体自分は何なのだろうと玄関先に取り残されたまま呆然としてしまう。
ただでさえ、普段ひなたに呼ばれてここに来ると、毎回カレーやら何やらを出してくれて恐縮しきりだというのに。もう少し上司としてのメンツを保たせてほしいのである。
どうしようかと考えていると、ひなたが奥から現れた。
「どうしたの?」
「チーフはカレーどれくらいたべるのって、ママがきいてる」
「……」
「ママはおおもりだって」
溜め息が出る。「……少しで良いって伝えてくれる?」
「わかった」
ひなたはまた小さな足音を立てて廊下の先に消えてしまった。
ここの家のカレーが美味しいのはもう十分知っているし、少しと言ってもそれなりに満足する量が出てきてしまうこともわかっていて、正直自分はそれが好きだとも自覚している。だから出してもらうのは嬉しいし、ありがたいと思っている。あまりに食べる機会が多くて、昼に社食でカレーの類いを注文することが一切なくなったほどだ。ただ、この家の生温かい雰囲気だけは、何度来ても未だに慣れない。特に食事をしているとそれを露骨に感じて、何となく息がしづらくなる。
もう少し、息をするのが上手だったら、もっと美味しいと感じたりするのだろうか。
廊下の向こうから早く来いという声が聞こえる。もう諦めよう。今日は夢の国へ行った余韻でまだ少しテンションが狂ったままだから、息苦しさは紛れるかもしれない。
念のため、遊園地から戻っていることと真理子の家にいることを葵にメッセージで伝えたが、相変わらず何の音沙汰もない。今日一日、業務連絡が一切なかったため、会社内がどういう状況になっているのかわからないのが少し不安だ。定時はとっくに過ぎているが、何かトラブルにでも見舞われたのだろうか——そんなことを考えていたら、メッセージが開封されたという印が付いて、「良かったね」と一言だけ返信が来た。葵とのやり取りはいつもこんな感じだから、変わりはないようで何よりだ。
手を洗ってからダイニングへ行くと、テーブルの上には既にカレーを盛った皿が並べられており、真理子がいそいそと席につくところだった。
「食べよ? あ、葵ちゃんに連絡した?」
「したわよ」
「返事来た? あたしもさっきから送ってるんだけど……、早く座んなさいよ」
すっかり定位置になってしまった席を勧められる。少しで良いと言ったのに、その席に置かれたカレーの皿には案の定、溢れそうなほどのルウ。
「……」
「いただきまァす!」
本当に人の話を聞かない奴だ。
ひなたはカレーも食べず、健一に洋服のおねだりをしている。健一がスマートフォンであの高級子供服ブランドの名前を検索しているようだが、笑顔が強張っているところを見るとおそらくそこに表示された価格を認識したのだろう。自分も遊園地にいる時、一緒にオンラインストアを見て選んでいたが、凍りつくほどの値段だった。申し訳ないが、ひなたにはその服を頭のてっぺんからつま先まで強請るという演技指導をしてきてしまったから、おそらく健一のこんがりと焼けた顔はどんどん白くなっていくだろう。
「このおぼうしがいいの。あとね、みずいろのね、ふわふわがついてるコートでしょ、それから……——」
「チーフ、らっきょう食べる? ハイ」
もちろん真理子はカレーに夢中で助ける気なんて更々ない。鈴木家に限ったことなのか一般的なのか知らないが、お父さんというのは大変な職業のようだ。
健一を見ているおかげで父親のイメージがだいぶ変わった気がする。健一はいつも朗らかで、家族に対する傲慢さなんて欠片もないし、見ていて気の毒になるほど娘が好きで、真理子のことを愛している。おそらく本人はこれが『大変な職業』だなんて微塵も思っていないのだろう。
「あとこのくつしたも!」
「エッ、これも⁉︎ ひな、本当にこれ全部買うの……?」
当然だという顔をしてうんうんと大きく頷いているひなたの貫禄は凄まじく、健一は押し黙ってしまった。
最終的にショッピングカート内の合計金額がいくらになったかは訊かないでおこうと思うが、この交渉知識をひなたに植え付けてしまったのは自分である。今度Eightでファッションショーくらい開催してやらなくては健一が浮かばれないなとこっそり思った。
真理子はいつもどおりカレーをおかわりしていたが、自分は最初に盛られたものだけで断った。葵といい、真理子といい、皆の胃袋がどういう構造になっているのかいつか調べてみたいものである。
全身分の洋服を買ってもらってご満悦のひなたは漸く席に座ってニコニコしながらカレーを食べ始めたが、先ほどまで帰り道で話していた今日の遊園地の——『デート』の感想を今度は健一に向かって喋り続けていた。自分の食事を終えてもなかなか帰宅できなかったのはそれに付き合っていたためである。そのうち真理子がいい加減にしなさいと叱り始め、食べ終わったひなたを健一が強制的に風呂に連行して、漸く室内が静かになったほどだった。
真理子と軽く茶飲みをしながら互いに労いの言葉を掛け合った後、玄関先で靴を履いていると、後ろから仄かな石鹸の香りと共に小さな足音が駆け寄ってきた。
「チーフ、きょうはありがとう」すっかりパジャマ姿になり、赤くなった頬に眠そうな目をしているが、その顔は嬉しそうに笑っている。
それと大体同じくらいの高さになるよう屈む。「こちらこそありがとう。ひなたのおかげでとっても楽しかったわ。ひなたはエスコートが上手ね」
「ほんと? ひな、じょうず?」
ひなたはさらに嬉しそうに笑うが、温まって相当に眠くなったらしく、今にも閉じてしまいそうな瞼をゴシゴシと手で擦っている。一年生はもうおねえさんだから、と普段は一生懸命一人称を『あたし』に直しているのに、それも今は外れてしまっている。
「ほら、アナタもう眠いんでしょう。早く寝ちゃいなさい、アタシ帰るから」
「うん」
「またね、お姫様」
立ち上がろうとすると、ひなたは耳元に顔を寄せてきて、コソコソと小さな声で囁いた。「チーフだいすき。また『デート』してあげてもいいよ」
ばいばい、とひなたは顔の横で右手を揺らすと、部屋の奥に戻っていった。真理子にはよく聞こえなかったのか、呑気な顔をしている。
「何だって?」
可笑しくて、笑いと共に溜め息が出てしまう。「……真理子。アンタ、ヒーローなのは良いけどさ、娘の教育はちゃんとしなさいよ? マジで」
将来的にとんでもない女になりそうな気がして今からひどく心配なチーフなのであった。
家までの夜道で漸く盛大に深呼吸をし、葵に特大クレームを入れようとしたら、まるで見ているかのようなタイミングで電話が震えた。
「——、楽しそうにしてたじゃない?」
聞こえてきた葵の第一声は上機嫌で、思わず笑みが溢れる。図られたような気分だった。
——『楽しそう』ね……。
ここ最近自分の中に得体の知れない感情が漂っているのは感じていたが、人はそれをそういう風に言うのか。
「……夢の中にいるみたいね」
「——、遊園地はそういうところよ」
「いや、そうじゃない」
「——、ん?」
「もう、何て言うか……全部、そうなの、最近……自分が知ってる世界と違いすぎて、怖い」
「——、良いことじゃない?」
葵は簡単に言うが、それが良いことなのかわからない。昨日まで平然とモンスターを撃滅し、それは日常で、明日からも変わらないはずで、自分の身はそういう世界にこそあるべきなのに、ひとたびヒーロースーツを脱ぐと、代わりにこの身を包んでいるのはそんなものとは無縁の生温い平和。
それに溺れてしまったら、もう二度と、浮かび上がってこられないような気がする。
「ねェ」
「——、何?」
「葵って、遊園地好きなの?」
変な意味で訊いたつもりはなかったのだが、葵はしばらく黙り込んでしまった。電波が悪いのかと不安になってしまうくらいに、何も聞こえない。
「もしもし、葵?」
やっと反応が返ってきたのは、もしかして切断されてしまったのではと本気で考え始めるくらいにだいぶ後になってからのことだった。「——、……なんでそんなこと訊くの?」
「え? いや……、どうなのかなって」ひなたにそう言われたからとは、どうしてか答えようと思わなかった。
「——、……子どもの頃はよく行っていたけど……どうかな? もう遊園地って年でもないし……今はラーメン屋のほうが好きかも」
思わず笑いが漏れてしまったら、電話の向こうからムッとした声が追いかけてきた。「——、なんで笑うの」
「ごめん」
「——、ちゃんと答えたのに。意地悪。あんたいつからそんな性格悪くなったの? 私そんなこと教えてない」
「ごめんって」人のことはいつも散々虐めてくるくせに、自身はすぐ臍を曲げてしまうのだから困ったものである。「葵がちゃんと葵だったから、ホッとしただけ」
「——、……何なの、それ」
ぽつねんと、低い声だった。
怒っているのだろうか?
よくわからない。いつも聞いている声なのに、なんだかどことなく不自然。聞いたことのない声で落ち着かない。あり得ないが、よく似た偽物と喋っているかのような心地になる。
「葵、今日、何かあった?」
「——、え?」唐突な質問だったのは否めないが、それでも一瞬間が開くのが気になる。「——、……何か、って……ああ、今日は、ちょっとだけ、出たよ」
「え、本当に?」
「——、ちょっとだけね」
「連絡くれなかったじゃん」
今日のチーフは非番だった。休暇ではない。有事には連絡が来て、仕事に出なくてはならないはずだが、ポケベルは一度も鳴らなかった。携帯だって一度も、メッセージに返信すらなかった。
もしかして本当に電波が悪くて繋がらなかったのではと不安になったが、どうやらそうではないらしい。
「——、いらないよ。偵察だけだもん」
「誰と?」
「——、5号」
息が止まるかと思った。だが、葵はこちらが怯んでいるうちに構わず話を続ける。「——、討伐は1号と2号に行かせようと思ったの。そうしたら、偵察だけで終わっちゃった」
「どういうこと?」
「——、消滅? あり得ないと思ったけど、勝手に消えちゃった」
話の意味が理解できない。モンスターが討伐されたわけでもないのに消えるだなんて、聞いたことがない。だが、葵が行ってそう判断したのなら、きっと間違いないのだろう。
「——、だから、討伐はなし。本当にやばかったら呼ぼうかなって思ったけど、いらなかったわ」
明日会社に行ったら詳しい話を聞かなくては駄目だ。そんな事例を放っておくわけにはいかない。葵もそれはわかっているはずだ。当然、しつこいくらいに上には報告させられたのだろうが、アイツらの興味は保身だけだ。きっと真剣にモンスターのことなんて考えてくれていないだろう。
「……今度からは、ちゃんと呼んでよ」
「——、わかってる。今日は良いんだよ。今日は、私からの頼まれ事を遂行するのが、あんたの仕事だったんだから」
「……」
「——、助かったわ。姫のご機嫌も直って、楽しい思い出もできて」
良かった良かった、と葵は満足しているようなことを言っているが、どうも釈然としない。嘘をついているようでも、何かを誤魔化しているようでもないのに、何がしっくりこないのか、自分でもわからなくて気持ちが悪い。
「……ごめん」
自分が『夢の中』を楽しんでいる間、葵は変わらぬ現実世界にいて、いつものとおりのヒーロー——『スカイ・ハーク』をやっていたのだ。もし自分がさっさと夢から離脱して現実に戻っていれば、この腑に落ちない何かの正体がわかったかもしれないと思うと情けなくなってくる。
「——、なんで謝ってんだよ、馬鹿タレ」
「だって……——」
「——、大丈夫。あんたは可愛いよ」
「え?」
可愛いねェ、と、もう一度、電話の向こうから聞こえてきた葵の声は、まるで頭を撫でてもらっているかのような心地がしてむず痒い。口に出しては言えないが、どういうわけか、できればもう少しこのまま話をしていてほしいと思った。
葵の声を聞いていたい。
もっと、ずっと、長い間。
やっぱり何か変だ。絶対おかしい。でも何だかわからないし、もしかして変なのは自分の頭のほうなんだろうか? 葵が今どんな顔をしているのか見たくて堪らない。
「……葵、今どこにいるの? 店?」
訊ねても、葵は返事をしない。
黙りのおかげで、電話の向こう側の世界の音が聞こえる。外界の音だ。Eightじゃない。
だが、運悪くどこかから救急車の音が聞こえてきてそれを邪魔する。続けて消防車まで連なっている。今夜は月がないから星が綺麗に光るはずの夜なのに、街のどこかで炎が上がったのかもしれない。
葵は何も答えてくれない。
振り返っても誰もいない。それなのに、電話の向こうでも、救急車の音がしている。
* * *
昼間、真理子から葵の元へ送られてきた写真の中にいる英斗は、三十年も昔に見たような顔をしていた。
できれば幸子にも見せてやりたかった。そして、自分以外にあんな顔をさせられる存在が現れたことに一抹の寂しさを覚えつつも、同時に心から安堵している自分もいる。
「——、……ごめん」
「なんで謝ってんだよ、馬鹿タレ」
「——、だって……」
謝る必要なんて何もない。むしろ、良かったのだ。これで。
自分の残り時間は、少ない。
どう頑張っても、自分と英斗との間に寝そべる十年という時間差は埋まらない。決して埋められない。だから、これで良いのだ。
「……大丈夫。あんたは可愛いよ」
ただただ、愛おしいと思った。
だから、これで良い。
これで良いのに、どうして——?
「——、葵、今どこにいるの? 店?」
英斗の問いには答えられなかった。どうにも駄目だ。今日は、きっとどこか調子が悪いのだろう。勝手に湿り気を帯びてしまうこの声が電話の向こうまで届かなければ良いと、月の影に身を潜めて静かに静かに息をするのはとても苦しい。
自分の中に、もう一人、いつの間にか知らない何かが入り込んで、居座っている。そいつのせいでバランスが取れなくて、この狭い体の中、互いに己の居場所を確立しようとせめぎ合っている。収まりが悪いのはわかっているが、収拾がつかない。つけ方が、わからない。
情けなくて、涙が出てくる。
こんな寂寞の感に堪えぬ己の姿など絶対に悟られてなるものかという反面、こういう時に限ってなぜか、この電話を切りたくないと思ってしまう自分がいるのもまたたしかで。
——嫌だなァ……。
ずっと見てきた。今と同じように、裏方として、それこそ彼が会社に入ってきた時からずっとこうしてきた。陰からヒーローを支え、見守るのが、自分の仕事であり責務。
表に出るようになったからといって、裏の仕事がなくなったわけではない。こんな調子では、裏方なんて務まらない。今まで何の苦もなく、いろんなものを押し殺していられたはずなのに、どうやっていたのか、それすらも思い出せない。
裏にいるのが、辛い。
あの子の隣に並んでいたい。あの背中を守るのは、いつだって自分でありたい。
いつまでも。
何をどう願おうと、どうにもならないことだと理解している。いくら悲嘆しても仕方のないことで悩むほど愚かなことはない。それなのに、頭から消えてくれない。もしも、——だったなら。
早く何か答えなければと思うが、声を出すと、すべてが迸る気がして出せない。どうしよう、と焦っているうちに不自然に間が開いて、英斗はきっと勘繰っている頃だろう。それを何と言って誤魔化せば良いのか、またそれを考えるのも一苦労である。
通り過ぎていった救急車と消防車が沈黙を掻き消してくれたのはほんの束の間だった。再び住宅街が静寂に包まれた途端、電話の向こうから聞こえてきた声はがらりと違って、低くて抑揚がなかった。
「——、ねェ葵……さっきから誰かがついてくる気がするの」
「えっ……」心臓が大きく飛び跳ねる。反射的に周囲を見回すが、誰も見当たらないし気配も感じられない。「何……マスコミか何か?」
「——、え、わかんない……」
鼓動が速くなる。つい先日あの記事が出て、まだ世間においてはシャイニーと3号は良くも悪くも渦中の人である。このご時世、妙なちょっかいを出される可能性はゼロではない。それも、シャイニーは女の子であるというのが世間一般の認識なのだから。
英斗は男だし、本人も言うように喧嘩もそれなりに強いから、並みの一般人が素手でかかってきても相手にできるだろう。だが複数人で来られたり、武器を持ち出されたら話は違ってくる。
最近はそれが怖い。少し前ならあり得なかったような卑劣な手段を当然の如く使ってくる輩がごまんといる。ヒーロースーツでも着ていればまだ何とかなるかもしれないが、今は丸腰だ。
「——、葵、なんか嫌だ。怖い」
気が付いたら、目の前に飛び出していた。
だが、それを見越していたかのように、彼は上から降ってきた葵を両手で抱き止めて、してやった顔をしている。
状況がわからずキョトンとしていると、英斗は葵を地面に下ろして申し訳なさそうに笑った。「ごめんね。冗談だよ」
「は?」
「葵が近くにいるんじゃないかと思って、嘘をついたの。普通に言ったらきっと、出てきてくれないと思って」
耳に当てていた携帯電話をポケットにしまいながら、英斗は平然とそう言った。
言葉が出てこない。何? 要するに、図られたってこと?
「……」
「どうしたの? 泣いていたの?」
「えッ……——」反射的に下を向き、首を横に振る。「ううん……違うよ」
「あ、ごめん、汗臭い? ごめんね、今日外めちゃくちゃ暑くて、あんまり近寄らないほうが良いかも、ごめん」
英斗は犬みたいに鼻を啜りながら自分のあちこちの臭いを嗅いでいるが、さして気になることではないし、どちらかと言うと好きな匂いがする。
「……なんで、そう思ったの?」
「え? なんか、珍しい顔してるなって……ごめん。怒った?」
「……何でもないの?」
「うん。大丈夫」
まだ心臓が煩くて、上手く話せない。
本当に意地悪で、性格が悪くなった。誰に似たのだろう? それなのに不思議と、自分は腹を立てていない。
「あと声が、何となく、元気がないような気がしたんだけど……気がしただけかな? ごめん。そういうの、葵みたいによくわかんなくて」
「……」
「あ、これ、葵にお土産ね」
英斗はそう言って、手に提げていた遊園地の可愛らしいビニール袋から、大きな丸みを帯びた缶を取り出して渡してきた。一面にカラフルなキャラクターの絵が描いてあり、中身はチョコレート菓子のようだ。
「……お土産はいらないって、——」
「そう言ってたって、話したら、真理子に怒られちゃった」英斗は苦笑いを浮かべる。「そうしたらひなたが、これが美味しいって言うから」
それにしてもデカいし重い。一体どれだけ大量の菓子が入っているのだろう?
「……こんなにたくさん食べたら、太っちゃうじゃんかァ……」
「え! 葵はたくさん食べたいかと思って大きいのにしたのに……」
馬鹿な奴。
なんでこの子は、昔から——。
「……ありがとう」
ビニール袋に戻すのも惜しい。ずっと持っていたい。英斗が初めて行った遊園地で自分のために買ってきてくれたお土産だから、なんだか特別な感じがして愛しいのだ。英斗の『お姉ちゃんっ子』は今に始まったことではないが、いつかは好きな子でも作って勝手に『姉』から卒業していくのだろうと思っていたのに、四十を過ぎてもこのとおりその気配がまるでないから困ったものだ。
そう心配しつつ、実は自分も相当に『弟』が好きという自覚もまたあるのが悔しい。
——……それで、良い、のだよな……?
「あと、こっちは真理子から」
英斗はそう言って、今度はポケットから小さなマスコットの付いたストラップを取り出した。遊園地の女の子キャラクターが、何やら歪な形のプレートを持っている。
「……これってさ……」
葵にはすぐにわかった。これは、片割れなのだ。対になるもう一匹のキャラクターがいるはずで、案の定、それは英斗の携帯電話にぶら下がっていた。
「なんかね、仲の良い子と半分こにして付けるものなんだって。アタシがこっちで葵がそっちって、真理子の指定」
してやられた。真理子の顔が目に浮かぶ。「……あの子は、もう……ッ」
「いい年のジジババがこんなの恥ずかしいって言ったんだけど、関係ないって押し切られちゃって。いつものとおり」
「……」
「まァ、恥ずかしかったら付けなくても良いんじゃないかなァ? 葵がそういう人って、真理子もきっとわかってると思うし」
「……ううん、付けるよ。せっかくもらったんだもん」
ポケットからスマホを出して差し出すと、英斗は貰ってきたストラップを取り付けてくれた。携帯電話に飾りが付いているなんて何年ぶりに見る光景だろう? もしかしたら学生以来かもしれない。ずっとケースに開いていた穴が初めて役に立った気がする。
「ありがとう……」
あとで真理子に連絡をしておかなくては。お礼と、クレームを言うためだ。英斗は知っているのか定かでないからこの場で口には出さないが、これはたしかに仲良し同士が分かち合うものだけれども種類が違うだろうと言いたい。
でも、何だろう? スマホに飾りなんて邪魔でしかないはずなのに、能天気な顔をしてスマホの先で揺れているこのキャラクターを見ていると、なんだか嬉しくなってしまうのだ。
「ねェ葵、やっぱり元気ないよね? お腹空いてるの?」英斗が顔を覗き込んでくる。「これ食べる? ラーメンが良い?」
頷きたいが、頷いてはいけないのではと躊躇してしまう。世間体もあるが、どちらかというと自分自身の問題だ。これ以上英斗に近づくと、決して知ってはならない己の何かを知ってしまうような気がする。とても長い間、自分が絶対に見ないようにしてきた、何かを。
「……」
「あれ、違った? じゃあ、何だろう、焼肉はこの前行ったばっかりだし……デザート? 甘いものが良いかなァ?」
「……」
あの週刊誌の記事の内容を葵は発売前から知っていた。自分にはそれが世に出ることを阻止し、葬り去ることだってできたのだ。
でも、それをしなかったのは。
「やっぱり、怒ってる?」
それを、しなかったのは——。
「……ラーメンが良い」
頭を振り振り、そう答えると、眉を顰めていた英斗の表情がふっと緩んで明るくなった。「うん。良いよ」
——……可愛い。
憎たらしいほど、可愛い。
目元を切れ長に見せたいのか、普段はそういう化粧を施してあるが、本当はもっと目は丸い。カラーコンタクトなんていらない、くっきりとした輪郭の、幸子さんと同じ目。
徐ろに頬を摘む。白くて綺麗な、女の子みたいなほっぺた。
「……痛い」当然訳のわかっていない英斗の視線は戸惑い一色だ。「葵、やっふぁり怒っへうれしょ」
まだ子どもだった頃、この頬を葵が突いたり摘んだりすると「やめてよ!」と少し赤い顔をして手を払い、むくれていたっけ。それがまた可愛くて、葵はしょっちゅうそんなちょっかいを出して英斗を揶揄っていた。
摘んでいた頬を掌で包んで撫でる。
——いつの間に、こんなに大きくなっちゃって……。
「……ごめんね。英斗」
性格が悪いのは、自分のほうだ。
左の頬だけが赤くなっている英斗は不思議そうな顔をしているが、それを直視しているのが辛い。普段のあの馬鹿みたいに高いヒールの分、ほんの数センチがないせいで、今日はいつもより目線が近い。
いつか、頷いてしまった今日の自分を恨む日が訪れるような予感がして、それが、とても怖い。




