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第五話 それは、夢か現か(1)新世界の日

 遠くで鳴っているのが目覚まし用のアラーム音ではなく電話だと認識するのにだいぶ時間を要した。毎朝無慈悲に起こしにくるそいつのスイッチを切って床に就いたのは久々のことだったから、ついついいつもの調子で聞こえていないふりをしてしまったのであるが、だいぶ経ってからそのことを思い出した。

 しかし、頭はその電話を早く取れと命令しているのに、体が言うことを聞かない。緊急だったらポケベルのほうが鳴るはずだからきっと緊急の用件ではないという深層心理が睡魔の味方をしているのだ。それでも自分の携帯——しかも個人の私用携帯が鳴ることなんて滅多にない。何せこの携帯に電話してくる人間なんてこの世に一人しかいなくて、もはや目覚まし時計としての役割しか果たしていないため正直いらないのではないかと思っているくらいなのだが、それが先ほどからずっとリンリンと自分を呼び続けているということは、よほど大切なことがあるに違いないのだ。

 やっと左手が動いて、頭の上辺りを手探りする。柔らかな布団の合間に角張った四角いものの感触を見つけて手繰(たぐ)り寄せる。

「——、やっと出た」

「ごめん……」自分の声が掠れている。電話の向こうの葵は少し不機嫌かもしれない。

「——、寝てたな?」

「だって久しぶりの非番だもん……今何時?」

「——、九時過ぎてる。もうすぐ九時半」

「マジか……」そう言われても頭が重くて眠い。電話を繋げたまま再び眠りに落ちてしまいそうである。「どうした? 連絡ならポケベルに飛ばしてくれたら良かったのに」

 九時半ということは、葵は既に仕事中のはずだ。それなのにわざわざこっちの携帯に掛けてくる所用なんて、一体何事であろう? ポケベルの呼び出し音だったら、きっともっと機敏に体は反応したと思うのに。

「——、ちょっとさ、頼まれてほしいことがあるんだよ」

 その言葉に、少し目が覚める。葵が頼み事をしてくるなんて、本当に珍しいことなのだ。「何? どうしたの? 何かあった?」

「——、今日何してる予定?」

「寝てる予定」

「——、ごめん、ちょっとその予定、キャンセルして?」

「ええー……?」

「——、お願い、たぶん、損はしないと思うの」

「冗談だよ。良いよ、何? 珍しいね、葵がそんなこと言うの」

「——、とりあえず顔洗ったら電話ちょうだい。二度寝しないでね」

 一度目はそこで切れた。すぐに布団から抜け出さないと本当に寝落ちてしまいそうだったので、重い頭と体を持ち上げて部屋を出た。急いでシャワーをして、もう一度折り返した時にはすっかり目が覚めていた。

 葵はきちんと起きたことを褒めてくれた後、電話越しに、服装や持ち物などを指示してきた。スーツもハイヒールも駄目だし、鞄は軽くして、動きやすい服が良いけれどジャージは駄目だとかなり細かい注文だった。日焼け止めを絶対に忘れるな、とも言った。葵のことだから何か考えがあってのこととはわかるが、こんな指示を出されたことは今まで一度もなく、一体自分が何をさせられるのか意図がまるで掴めない。

 最近スーツかヒーロースーツしか着ていなかったから、私服のコーディネートなんてどうすれば良いのかすっかり忘れていて、そもそも昨年の夏は何を着て出かけていたのだかも覚えておらず困った。衣替えなんてしていないから収納ケースから引っ張り出したTシャツは樟脳(しょうのう)の臭いがして、くっきりと畳み皺が付いているし、最悪である。昔何かの景品でもらった手持ちアイロンがこんなところで役に立つとは思わなかった。

「髪(ゆわ)いても良い?」

「——、うん、可愛いのにしてね」

「どんなでも可愛いでしょうが」急いでいるとは言われなかったが、電話越しに伝わってくる雰囲気がそのような気がしたのでシンプルな頭にした。

 葵は、ここからだと電車で四十分ほどの県境付近にある駅へ行くようにと最後の指示を出して電話を切った。以前適当に買ったら大きすぎて羽織にしかなれなかったワイシャツを引っ掴んで玄関へ走る。ヒールのない歩きやすい靴なんて、時々ジョギングの際に履くものくらいしかないのでそれを突っかけて家を出た。あまりに久々に着るTシャツに、どこか穴でも空いていやしないかと終始不安が拭えず、赤信号を待つ自分がショーウィンドウに映る度に気になってチェックしてしまう。

 まだ午前中だというのに今日も日差しは容赦なく照りつけ、サングラスをしているにもかかわらず眩しさに顔を顰めてしまう。ほんの少し歩いただけでこの汗は非常にまずい。化粧をしている意味がまるでないではないか。

 溶けそうになりながら指定された駅へ行き、改札を出ると、通路の向こうでこちらに小さく手を振っている人がいることに気付いた。派手な総柄のキャラクターのプリントTシャツにパツパツのチノパン——声を掛けるのが恥ずかしいと思うほどセンスのない私服だが、今日ばかりは人のことを言えないと考え直し、やがてそれが誰なのかを一瞬遅れて頭が認識した途端、細めていた目が一気に丸くなる。

 待っていたのは真理子とひなただった。

 二人の姿を見て初めて、そういえば今日はひなたが遊園地に行くと言っていた日だと思い出す。そうして続け様に、なぜ先ほどからこの駅だけ愉快な音楽が流れ続けているのかを理解した。最寄駅だからだ。

 だがしかし、一体どうして二人がこんなところで自分を待っているのかはまるで理解できないし、とてもこれから遊園地に行くという雰囲気ではない。二人の周りだけどんよりとした重たい空気が漂い、ひなたは不貞腐れて真理子の後ろにしゃがんでいるし、いつも煩わしいほど元気な真理子がかなり疲れているように見える。

「……どうしたの?」

 思わず近づき、その質問が口をついて出てしまった。真理子は苦々しく顔を歪めながら、ちらちらと傍らに座り込むひなたの様子を窺っている。

「いやァその……——」いつも図々しくものを言う真理子とは思えぬほど遠慮がちな口調である。「実は、旦那が急に仕事でトラブって、来られなくなっちゃってさ……」

 その時、見ているかのようなタイミングで自分の電話が鳴った。画面はそれが葵からの着信であることを告げている。

「——、そういうことだから」

 電話を耳に当てた途端に葵はそう言ったが、自分はまるでこの状況に馴染めていない。「ちょッ、ねェ何、全然わかんない、何これ、アタシどうすれば良いの?」 

「——、付き合ってやってよ」

「は?」

「——、お土産はいらないから。楽しんできてねェ」

「えッ、ちょっと待っ——」

 ツー、ツー、と既に話が終わったことを耳元で機械が告げている。呆然としていると、目の前の真理子はすべてを理解しているのか、バツが悪そうにゆっくりと視線を逸らした。

 仕方なく、電話をポケットにしまう。

 ——マジかよ……。

 漂っている気まずい空気を誤魔化したいが、言葉が出てこない。なぜ、自宅にいる時点で葵に詳細を確認しなかったのだろう。もしあの時の自分に会えるなら殴ってでも質問させるのに。

 掛ける言葉を探しながら改めてひなたを見やる。その小さな体全体で不逞(ふてい)のオーラを醸し出し、膝を抱えて蹲っている。が、よく見ると髪はボサボサで、顔も目の周りが赤くなって腫れている。

「今朝ね、——」傍らにいる真理子が口元に手を当てながら、小声で話す。「本当に出掛ける直前に旦那が行けなくなっちゃって、大泣きだったのよ。仕事だから、何とか宥めて旦那だけは送り出したんだけど、ずっとこのままなの」

 話をする真理子の顔にも疲労の色が見え、漸くその理由に合点がいった。同時に、一週間前あれほど嬉しそうな顔をして話していたひなたのことを思うと不憫でならない。真理子が普段、仕事で約束を反故にしてもいつも仕方ないと納得してくれるというひなたが、大泣きをした挙句この様子とはよほどのことである。

「困ってたらちょうど葵ちゃんが電話を掛けてきてくれてね、ついちょっと愚痴っちゃったのよ。そしたら、ひなが嫌じゃないなら何とかしてあげるから、とりあえず行きなよって言ってくれて。何するつもりかと思ってたらあんたが現れたってわけ」

 葵が何を考えているのか知らないが、それが今朝のモーニングコールに繋がっていたというわけだ。ヒールで行くなとか、荷物は少なくしろとか、訳のわからない指示ばかり出してきたのは子どもと遊園地を歩かせるためだったのだろう。

 ムカつくほど陽気な音楽がここまで漏れ聞こえてくるが、この場に限っては嫌味にしかならない。

「……そりゃあ怒るわよね。ひなたが楽しみにしていたのアタシ知ってるもの」

 ひなたはしゃがみ込んだまま、真っ赤なうさぎのような目に涙をいっぱい溜めて堪えている。何も言葉はない。何となく、そうしたくなる気持ちもわからないでもないが、健一が来られないという事実は変えられず、どうしてやることもできないのが心苦しい。

「ごめんね、チーフ、巻き込んじゃって。来てくれてほんとありがたいけど、無理に付き合ってくれなくて良いから」

 非番なのに、とか、あとはこっちで何とかするから、とか、真理子は恐縮してそんなことを並べているが、ここで「あっそう、じゃあね」と帰るのはあまりに薄情であるし、それこそ葵に殺される。

 だからと言って、一体どこの世界に職場の上司と遊園地に行く奴がいるのだ、おかしいだろう? せめて、ひなたの機嫌が少しでも快方に向かって、門の前で行ってらっしゃいと手を振るくらいまでは面倒に付き合うべきだと思うが、そこから先は自分には関係ない。

 ふっと溜め息が漏れる。「そりゃそうでしょ。アンタん家の家族イベントになんでアタシみたいな余所者が乱入するのよ、オカシイでしょ」

 腹を括り、一つ息を吐いてから、再びひなたのほうに向き直る。「ちょっと。そんな不細工な顔してないのよ、ひなた。可愛い顔が台無し」

 何かしら反応するかと思ったが、これにもひなたは膝を抱えたまま顔を背け、黙りを決め込んでいる。とりあえずいつものように髪を結ぶことも提案してみたが、ひなたはぽつんと「ヤダ」とだけ低い声で言って、口を尖らせてこっちを向いてもくれない。

 ——これは重症だな……。

 真理子にはそうでも、他人が言えば少しは取り繕うかと思ったが、甘かった。母親に似て意固地である。可愛らしい抵抗ではあるが、この頑固さはなかなか手強そうだ。

「相手があんただから甘えてんのよ」

「ちがうもん‼︎」真理子がこっそりしてきた耳打ちは、ひなたの地獄耳には裕に届いてしまったようで、さらに臍を曲げてしまった。不謹慎にも、その膨らんだ頬を指先で(つつ)いてやりたい衝動に駆られる。

 おそらく、ひなたのことだ。この状況がもはやどうすることもできないということは、とっくにわかっているのではなかろうかと推察する。不機嫌ながらもここまでやってきたのだから、内心もう良いと思っている自分自身は間違いなくいるだろう。しかし激昂して大泣きして、その結果気持ちに引っ込みがつかなくなって今さらどうすれば良いのかわからず、感情としては怒っているというより困っているのではなかろうか。

 真理子だって母親なのだから、ひなたがそんなことを考えているだろうことくらいとっくに察知しているはずだ。そしてひなたは頭の良い子だから、食事に行こうなどという思いつきの代替案なんかで誤魔化すことができないということも。

「ひなたって、そこの遊園地行ったことあるの?」

 突然にチーフが質問すると、真理子は眉を寄せて首を傾げた。「何回かあるわよ。いつもあたしと二人だったけどね」

「ああ、あるのね」とすると、真理子をダシに使う作戦は使えない。「良いわね。アタシ遊園地って一度も行ったことないのよ」

 そっぽは向いているが、話を聞いてくれている感触はあるので、そのまま続ける。「一度は行ってみたいんだけど、アタシもう大人になっちゃったし、一人じゃ寂しいし、わかんないのよねェ」喋りながら、ひなたの隣にしゃがみ込み、顔を覗き込んでみる。「ねェひなた、パパが来られないなら、今日はアタシと遊んでくれない?」

 ひなたは漸く顔を半分こちらに向けて、疑いの眼差しを流してくる。「チーフ、ゆうえんちいったことないの? ほんとう?」

「うん、本当よ。アタシ、パパいないし、ひなたと同じでママはヒーローだったから遊園地なんて連れてってもらったことないの。可哀想でしょ?」

 遊園地に行ったことがないというのは本当に本当の話だ。が、だからといって何か困ることがあるわけでもなければ、自身が可哀想だなんて欠片も思っていない。一生自分には縁のない場所の一つだというだけで、行かなくても何の支障もないしそれはそれで構わない。ただ、只今のケースでは目の前の姫のご機嫌を回復するのが先決なので、多少なりとも話を盛ることは必要だ。

「ほんとう? おともだちと、いかないの?」

「一緒に行ってくれるような友達がいないからね」

「なんで? あおいちゃんは?」

「え、葵ちゃん……?」突然に名前を出されて狼狽えてしまう。「葵ちゃんは……どうだろう? 遊園地好きなのかな?」実際本当に知らない。「訊いたことないけど、葵ちゃんはラーメン屋さんのほうが好きかもねェ」

「ええ? そんなことないでしょ。ゆうえんちはみんなすきだよ」

「そうなの?」

「だってたのしいもん」

「そっかァ……そんなに楽しいところなら、チーフも行ってみたいなァ。ひなたがもし良かったら案内してもらえるととっても嬉しいんだけれど、どうかしら?」

「……いいけど……」ひなたは少し考えてから、漸くモジモジしながら立ち上がり、ゆっくりと近寄ってきてチーフの耳に手を当てて囁いた。「あたしとおんなじ『おみみ』つけてくれる?」

「『おみみ』って何?」

「こういうやつ」ひなたは頭の上で両手をくるくると動かしながら教えてくれようとするが、チーフには何のことだかわからない。

 そのやり取りを横から見ていた真理子が補足をしてくれる。「そういう……頭に付けるものがあるのよ。今日、パパもお揃いでつけてねって約束してて」

 周囲を見回してみたが、生憎このタイミングでその代物を身に付けている人はいない。

「まァ可愛いものだから、大丈夫だと思う。チーフなら」

 なんといい加減な補足説明だろうかという文句が顎の辺りまで出かけたが、ギリギリで押し戻した。ここまで興味を引いておいて、今さらそれを聞いて嫌だと返すわけにもいかない。

「……わかった。でもごめん。パパの代わりはできないわよ?」

「パパはもういい」ひなたは頬を膨らませながら即答する。「おんなのことのやくそくをすっぽかすなんてサイテー。あたしチーフと『デート』するからパパはもうしらない」

 どこで覚えてきたのか、一丁前に女の言うような台詞を吐いて怒っているひなたにチーフは笑ってしまった。「そうね、しばらく怒ってて良いけど、パパもガッカリしながらお仕事してるでしょうからいつかは許してあげて?」

「ダメ。ゆるさない」

「あらあら困ったわねェ……」苦笑いを浮かべながら、膨らんだ頬っぺたを指で(つつ)いて萎ませる。可愛い顔が台無しなのである。「そうね……アタシなら条件を出すかな」

「じょうけん?」

「そう、例えば……許してあげる代わりに、『キューティフィールド』のお洋服を買ってもらうとか」

 それは女子小学生の間で大流行中という高級子供服ブランドである。例えばブランドロゴのワンポイントTシャツ一枚が一万円越えというとんでもない価格設定に、さすがのチーフも初めて見知った時は度肝を抜かれた。金に困っているわけではないが、自分の服だったとしてもそんなの買わない。ワンポイントなんていらないから千円そこそこのファストファッションで十分事足りる。

 幸いにもひなたはキューティフィールドを知っていたようで、その提案を聞いて急に目がキラキラと輝き出した。

「それがいい! あたしもそうする!」

「じゃあそれはあとで作戦会議をしましょうね」

 ニコニコ笑いながら「かみのけおんなじにして?」とお願いしてくる程度には機嫌が治った。

「本当に良いの?」と横で真理子は眉を顰めている。が、良いも悪いも既に決定事項であるし、何より葵の頼みは断れないのである。

「逆にこっちが訊きたいわ」何とか母娘二人で送り出してやりたかったが、咄嗟に名案が思いつかなかったのは申し訳ない。しばらく様子を見たら、途中でポケベルが鳴ったことにでもして自分はいなくなれば良い。

「あの洋服高いから、パパには頑張ってもらってね」

 ひなたの柔らかな髪を結びながらそう返した。それでも愛娘に嫌われ続けることに比べたら、きっと安いくらいだろう。

 髪を自分と同じ形に整えてやってから、とりあえず葵には遊園地に行ってくるという短いメッセージだけを送ったら、既読マークだけはすぐに付いた。特に返事はなかったが、これはいつものことなので良しとする。

 目が飛び出るほど高い入場料を払って、可愛らしいキャラクターのイラストが描かれたチケットをもらったら、どうしてか内臓が浮き上がるような感覚に見舞われた。踏み入れたことのない領域に緊張しているだけだと思うことにしたが、やたらに凝った装飾のゲートを潜っただけなのに、まるで空気が違って戸惑う。

 正直言って、自分には似合わなすぎる。場違いだ。居心地が悪すぎてアレルギーが出そう。こんなところで迷子になるくらいなら前線で孤立するほうがまだマシだとさえ思う。

「チーフ、こっちきて!」

 立ち止まって固まっている間もなく、ひなたが腕を引っ張ってどこかへ案内し始めた。小さな姫の強引なエスコートはむしろこの状況下では非常にありがたい。

 どこに連れて行かれるのかと思っていたら、入口近くの土産物の店舗が立ち並ぶエリアの一角に入っていって、漸くひなたの言う『おみみ』の正体を目の当たりにした。要するに、カチューシャの上に動物やら何やらの耳の形をした装飾が付いているヘッドドレスである。

 言われてみれば、こんなものを頭につけた女の子が数人でポーズを取っている中吊り広告や雑誌を見たことがあると思い出した。が、これはそういう広告に出てくる学生くらいの女の子がつけるのが可愛いのであって、いい年のオッサンが子どもとお揃いにして笑顔でつけて良いものではない気がする。

 しかしすっかり機嫌の直ったひなたは、鼻歌を歌いながらどの『おみみ』にするか選んでいるので、とてもそんなことは言えず、隣にいる真理子にこっそり訊ねてみる。

「……ねェ、これ、大丈夫? アタシこれしてて捕まらない?」

「大丈夫でしょ」

「……」

「夢の国はね、何でもアリだから夢の国なのよ」

 何とも無責任な見解である。『おみみ』について適当な説明をした真理子に恨めしい視線を向けるが、真理子は気付いていないふりをしている。

 何が夢の国だ。自分にとっては現実でしかない。

「あれとってー」

 自分の頭上でそんな視線が交錯しているとも知らず、ひなたは棚の上のほうにある水色の耳を指差している。チーフは背後からひなたを抱きかかえて手が届く高さまで持ち上げてやった。手に取って、向きが変わる度にスパンコールがキラキラと輝く。

「これがいい」

「わかった。じゃあそれは今日のエスコート代にチーフが買ってあげる」

「え、いいわよ、さすがに悪いもの!」真理子が間から口を挟んでくる。

「アンタと違って金の使い所がないのよ。少しくらい可愛いお姫様に貢いでもバチは当たらないでしょ」

「そんなわけいかないわよ、ここ入るのだって高いのに——」

「じゃああとでチュロスの一本でも買ってよ。アタシお腹空いたのよね」考えてみたらモーニングコールで起こされてそのまま出てきてしまったから、朝から何も口にしていないのである。「この前ひなたが美味しいって言っていたやつが良いわ」

「あのねぇ、ふつうのと、いちごあじのやつがすき」

「じゃあそれ」

 でも、とか、だって、とか、その先も真理子の言葉は続いていきそうな雰囲気だが、真理子の側からするとそもそも上司と一緒に遊園地なんて楽しくも何ともないはずだ。ただでさえ今朝の修羅場のせいで心身共に疲れているだろうに、面倒臭いの最上級だろう。そういう状況にしてしまったのはこちらなのだから、真理子はいつもどおり非常識で煩いマイペースオバサンでいれば良いのである。今さらアレコレと気を回されるなんて、らしくないし気持ちが悪いしこちらも困る。

「アタシがひなたに頼んでついて来てもらってるのよ? アンタはね、アタシのことなんか気にしてないで、いつもみたいに図々しく楽しんでいれば良いの。仕事で来てんじゃないんだからね? はい、もうこの話はおしまい。良いわね?」

 あまり上手くない言い方だという自覚はあったが、真理子は何となく意図を察してくれたのか、ただ頷くだけでそれ以上は何も言わなかった。

「ねぇねぇチーフ」ひなたがトントンと肩を叩く。「『えすこーと』ってなに?」

「こっちにどうぞってやる人のことよ。今日のひなたのお仕事」

「おしごと!」仕事と言われて目をキラキラさせられるのだから羨ましい限りである。

「そう。だから一生懸命エスコートしてくれる?」

「うん、わかった!」そう頷くとひなたは手に持っていたカチューシャをチーフの頭に収めて、満足そうにしている。「おそろい」

「似合ってる? 本当に大丈夫?」

 真理子は頷いているがこれが一番信用ならない。想像がつかなくて恐ろしいので鏡を見たいのだが、設置された小さな鏡の前で学生服を着た煌めきの塊のような女の子たちがキャッキャしていて怖くて近づけない。似合っていようがいまいが約束なので装着しないわけにはいかないが、わからない不安を抱えて外を歩き回る勇気はさすがの自分にもない。

 ひなたを抱っこしたまま鏡を探して店の中を歩き回り、漸く壁に設置されたそれで自分の今の姿を確認して少し安堵する。

「アタシってやっぱり何着けても可愛いわね」

 そんな風に早々に開き直れるくらいには。

「ママのはいらないの?」

「ママはね、おきにいりがあるの」

 ひなたに指摘され、真理子はおずおずと鞄からピンク色の耳を出し、はにかむ。「昔のだけどね」

 持ってるのかよ、とツッコみたくなった。

 店の外に出て、ひなたの『おみみ』が落ちてこないよう髪を結い直していたら、真理子は本当にプレーンとストロベリー味のチュロスを買ってきてくれた。真理子はいつの間にか持参したピンク色の耳を恥ずかしげもなく装着していて、それがいかにも真理子らしい。まん丸の顔にまん丸の耳にまん丸の体——すべてが丸くて、その辺を歩き回っているキャラクターの一種にも見える。

 笑いが出そうになるのを咄嗟に溜め息で誤魔化した。今となってはこれはこれで愛くるしいところはあると思えるようになったが、元の姿を知っているが故に気持ちは複雑である。

「……何か言いたそうな顔ね?」

「いいえ、別に。何にもないです」昔からそうだったが、こういう異様に勘が鋭いところは本当に勘弁してもらいたい。

 ひなたとチュロスを分け合って食べていたら写真を撮られ、あろうことか真理子はそれを葵に送ってしまった。

「何てことしてくれんの」子どもとお揃いのヘッドドレスをつけてチュロスを食べているだなんて、完全に楽しんでいる人のそれと思われる。

「良いじゃない。可愛いわよ?」

「……」

「不貞腐れないで。可愛い顔が台無し」

 誰のせいだと思っているんだ。

 すっかり機嫌の直ったひなたは、隣で口の周りを砂糖まみれにしながら、好物のチュロスで頬をいっぱいにしている。

「チーフ、あーんして?」

 どこで習ってきたのか知らないが、ひなた曰く、『デート』をしている人はこうしなければならないのだそうだ。従わないと怒られるので向けられたチュロスは齧るが、こんな風に食べると味がよくわからなくなるし腹にも溜まらない。

「……あのさ、ひなた」味のないチュロスを咀嚼しながら、懸命に長いチュロスと格闘しているひなたを見る。「これさ、誰にでもやっちゃダメよ? 訳のわからない男の子とかさ、ダメよ? パパとママだけにして?」

「うん。……はい、あーん」

 笑顔で差し向けられる食べかけのチュロスを再び齧る。まったく響いてなさそうで、チーフはひなたの将来がとても不安である。

「良かったわね。()()()にモテて」

「黙れよ」

 そして、現に『訳のわからない男の子』にそれをやっている娘をニヤニヤと見つめるばかりでまったく止めない真理子にも、一抹の不安を覚えた。


* * *


 葵が社内食堂で一人早めのランチタイムを楽しんでいるとポケットの中で携帯が震えた。スプーンを咥えて開いてみると、メッセージが一通届いており、差出人は真理子であった。

 今朝方、真理子にご機嫌伺いの電話をしたのはただの気紛れであり、完璧な勘である。あの一家の家族行事に興味があったわけでもないが、何となくうまくいっていないような予感がしたから冷やかしのつもりで電話をしてみたら、それが当たりどころか大当たりだった、というだけだ。

 完全な他人のプライベートの世話を焼くなんて、ひと昔前の自分なら思いつきもしないだろうに、年のせいなのか、はたまた誰かさんの影響なのか——。

 受信したメッセージを開くと写真が添付されていて、途端に笑いが出てしまった。そこには現地へ遣わした従者が、遊園地のキャラクターを模した大きなカチューシャを着けて、可愛らしい姫君にチュロスを食べさせてもらっている姿が写っていた。

 それで良い。楽しんできてほしいというのは本音だ。あの子は遊園地なんか行ったことがないし、以前に比べて最近笑うことが少なくなったと感じる。モンスターの襲来のせいもあってか、いつも眉間に皺を寄せて溜め息をつき、メソメソと泣いていることばかりだ。だから、こういう馬鹿みたいな楽しみも、少しは味わったほうが良いのである。

 真理子には申し訳ないが、そのために利用させてもらった。存分に楽しませてやってほしい。

「ここ、よろしいですか?」

 ふと声を掛けられ、顔を上げる。食器の載ったトレーを持ち、テーブルの向こうに立っていたのは1号——赤羽湊であった。

「あれ、もう復帰?」

「はい。先日はいろいろとすみませんでした」

「気にしないで。平気なの?」

「お陰様でもうすっかり元気です」

「良かった良かった。ああ、どうぞ、座って」そう促すと、赤羽は小さく頭を垂れ、持っていたトレーを置いて向かいの席に腰を下ろした。

 赤羽は顔の前で両掌を合わせてから食事を始める。彼女と昼食を共にするなんて初めてのことだが、社内では珍しいくらいに育ちの良さが窺えて、見ていて気分が良いし自然と己の背筋も伸びる。

「すみません、お邪魔してしまいましたか?」

 ぼんやりと彼女の食事風景を眺めていたら急にそう訊ねられたため、慌てて首を横に振った。「全然。どうして?」

「それ、桜庭統括ですよね?」ニンマリと彼女の視線が指しているのはテーブルに伏せた携帯電話である。

「ああ……送ってきたのは真理子ちゃんだよ。今日あの子たち、休みだからさ」

「そうだったんですね」

 真理子から送られてきた写真については『チーフ』の名誉のために触れないでおこうと思ったが、ふと、なぜ赤羽は相手が英斗だと思ったのかが気になってしまった。

「何となくですけど、嬉しそうに見えたんです」

 ——え、何それ、どういうこと……?

 そもそも何が嬉しい? 嬉しいと感じた覚えもないのに『嬉しそう』って、一体何? しかも傍からそう見えるって何?

 まさか自分は無意識にそんな顔をしているということか?

 溜め息が漏れてしまう。テーブルに肘をつき、右手を額に当てる。「すごいショック……」

「え! どうしてですか⁉︎」

 だって黒衣なのに。

 感情や表情を殺すのは得意中の得意だと自負していたのに、自分のコントロールを外れた感情が勝手に顔に出ているなんて論外である。ヒーローに復帰して表に出るようになってから、いろいろなものが抑えづらくなって時折一緒に表に出るようになってきてしまったことは何となく自覚があったが、まさかここまでとは思わなんだ。

「……ありがとう。気を付けるわ」

「え、なんでですか? 良いじゃないですか」

「嫌だよ、気持ち悪い」何より死活問題である。が、赤羽は相変わらず緩んだ顔つきのままご飯を口に運んでいる。その微笑みの理由は決してサバの味噌煮が美味しいからではない。

「ジブン、応援しているんですよ?」

「何をだよ。この前のあの記事のことなら、全然、そういうんじゃないんだよ。スポーツ選手だってさ、試合が終わった後にハグして健闘を称え合ったりするじゃない? アレと同じだよ」

「そうなんでしょうか」

「昔から知ってるから、お互いに、いろいろと遠慮がないだけさ」

 赤羽は頷いてそれ以上突っ込んではこないが、合点がいっていないのは見てわかる。英斗が言っていたとおり、随分と生意気になったものだ。

 いや、自分が落ちぶれたのだ。自分よりおおよそ二回りも年下の、それこそ娘と言っても良いくらいの小娘に一方的に茶化されるなんて。

 あの週刊誌の記事に触発されているのだろう。数日前に出たあの記事があちらこちらで様々な憶測を呼んで多方面を騒がせていることは葵も知っている。ヒーロー同士の、それも()()()()()熱愛だとかいう面白おかしい作り話は、モンスターがどこの街を破壊したとかしないとかの変わり映えのない一辺倒な報道にすっかり飽きてしまった一般人にとっては、恰好の撒き餌になったはずだ。

 当然、賛否両論はある。元々そうしたかった部類は大歓喜だったようだが、そうでない人の意見も多い。粗方、この世界の惨事に捧げられた生贄共が色恋にうつつを抜かしているとは何事か、といったところだろう。

 好きに言え。構わない。そもそもそんなくだらない作り話に付き合って一喜一憂しているほどこちらは暇ではないし、根も葉もない噂や憶測で世間が盛り上がったり盛り下がったりすることは昔からよくあって、葵自身は慣れている。

 しかし、英斗はどうだろう?

 あの子はきっと気にしている。彼自身がとやかく言われることではない。葵のことだ。こちらは特に何も問題はないし気遣いは無用だといくら伝えても、彼は絶対に心の中で気を揉む。

 それがとても申し訳なくて、心配になる。あの子は——

「あんれ、お二人さんお揃いで」

 下を向き、短く息を吐いたその時、美声を掛けてきたのは金井光留であった。気付けば食堂は昼休憩の社員で混雑している。

「あら、お疲れ。座れば?」赤羽の隣を勧めてから、彼がまだ手ぶらであることに気付く。「あんた昼は? 食べないの?」

「金欠なんス。姐さん、奢ってくださいよぉ」

「なんでだよ。女に使いすぎなんだよ、あんたは。ちょっとは自制したらどうなの?」

「姐さんまで。勘弁してくださいよぉ。俺いっつも怒られてるんスから……」金井は項垂れているが、当然の報いだと思うのは自分だけなのだろうか?

 すると、大人しくご飯を食べていた赤羽が静かに箸を置いた。

「金井さん、ジブンで良ければ、今日はご馳走しますよ」

 あまりにスマートな誘いに、さすがの金井も驚いたようで急にオタオタとし始めたが、赤羽は本気でそう提案しているようだ。「この前コンポタとおしるこ、たくさんもらっちゃったので、何かお返しをしたいと思っていたんです」

 赤羽はそう言いながら、食事の途中にもかかわらず席を立ち、金井を連れて注文カウンターのほうへ歩いていってしまった。遠くから二人の背中を見ていると、メニューを指差す小さな女の子の隣に、顔二つ分近く大きな男が挙動不審な様子で立っていて、会話までは聞こえないもののそのでこぼこ具合がなんだか面白い。社内にいるにもかかわらず、相変わらず派手でルーズな私服姿であるところも、かっちりとスーツを着こなす赤羽とは対照的だ。

 しばらくすると満足げな赤羽が先に戻ってきて、少し遅れて金井が皿の載ったトレーを持ち、赤い顔をして戻ってきた。山盛りのカレーライスの上に目玉焼きとハンバーグが載っていて、サラダまで付いている。さすがに英斗よりは食べるのだなと思った。

 赤羽は本当にそれを一式すべて奢ってくれたらしい。

「……なんて健気な子なの? あんたには勿体無いわ」さすがに申し訳ないと思っているのか、金井は借りてきた猫のように大人しくなってしまい、小さく頷いている。「しかも女の子に奢らせておいて何なの、その贅沢の極み」

「おおお俺が頼んだんじゃないっスよ!」

「だって迷ってたから」くすくすと赤羽は笑いながら自身の食事を再開する。「男の子だし、食べられるかなって。野菜はジブンが勝手に追加したんですけど」

「……いただきます」

 ——ああ、何だろう……すごく痒い。

 英斗と反対で、赤羽は以前より朗らかに笑うようになった気がする。裏から見ていた時はもっとロボットみたいな人間だと思っていたが、隣で大きな口を開けてカレーを放り込んでいる金井の様子を伺いながらサバの身をほぐす彼女は、どう見てもごく普通の年頃の女の子である。

「……あんた、そんだけご馳走してもらってんだからねェ、来週ちゃんとフォローしてやってよ?」

「来週?」

「研修生の受け入れがあんの。そのお守りを赤羽さんに頼んでる」

 そんなゴミみたいな企画があることを昨日まですっかり忘れていた。英斗からも、来週一週間は1号に討伐任務を充てがわないでくれと頼まれている。

「何スか、その面倒臭そうなの」

 ストレートに自分と同意見を述べてくれて嬉しい。「ありがとう。その意見は否定しないよ」

「一週間だけですが、せっかくチーフに任せていただいたので、頑張ります!」 

 頭の悪い役人どものくだらない思いつきなんかより自分の体調を優先したら良いのに、赤羽のそういうところは本当に真面目で恐れ入る。

「チーフは討伐に出なくて良いと仰っていましたが、何かあれば出ますので、ご指示くださいね」

「ありがとう。キミも頑張り屋だねェ」

「いえ、そんなことは」

「無理しちゃダメだよ? 来週はこの人がたッくさん働いてくれるから、心配しないで。ほら、いっぱい食べな? そんなんで足りるの? 若いのに。あんぱん食べる?」

 大丈夫ですよ、と赤羽は小さく笑ったが、その横で金井は頬を膨らませている。

「俺には奢ってくれないのに」

「当たり前だよ、金のかかる女ばっか囲って! ちょっとは整理したら⁉︎」

「チーフと同じこと言わないでくださいよ。だって、目の前に美味(うま)そうなモンがあって食って良いって言われてんのに、見てるだけって、無理っスよ、普通……食うっしょ、そんなん。チーフじゃないんスから」

 聞いていた赤羽が()せている。

 ——どうして? 男の子ってこうなの? 若いから?

 英斗と全然違う。足して、二で割ったらちょうど良くなるかもしれない? いや、自分が知らないだけで頭の中は大差ないとか? ——……いやいやいや……。

「あれは、チーフがおかしいんスよ? 姐さん、よく我慢してられるっスね」

「我慢って何だよ。あんたもあの記事読んだな?」活字アレルギー持ちな風体をしてそういうことはちゃっかりしているのだから。「だからね、私らはそういうんじゃないし、あんたみたいにギラギラしてないの。ただ昔から知ってる仲ってだけで——」

「てかなんでチーフってあんななんスか? 昔からああなんスか?」

「あんなって何、性格のこと? 見た目のこと?」葵の知る限り性格は小さい頃からああだし、容姿についてもふと思い返すともう二十年近くあの姿かもしれない。「まァ、だいぶ長いことあれだね」

「いや、良いんスけど別に、美人だし、俺最初わかんなかったっスもん。けど普通に男なんだから男の格好してれば良くないっスか?」

「別に良いでしょ、誰がどんな格好だって」

「素敵ですよね、チーフ。お人形さんみたい」

「そうでしょう? あの子ねェ、昔っから本当に可愛いんだよ。髪を結ぶのが上手くてさァ、この前やってもらったんだけどすごい——……」

 もはや条件反射であったが、喋っている途中ではたと気付き、言葉を失う。

 自分、今ものすごく顔が緩んでいないか——?

 向かい側の赤羽は小さい子どもでも見るような目で微笑んでいるし、金井はスプーンを持ったまま苦笑いをしている。

「……よくラーメン屋で逢引してるの俺知ってるっス」

「やめろ、違う、逢引やめろ! あれは模擬戦闘で勝ったほうが晩ご飯を奢るって約束でいつも私が勝つの、だから奢ってもらうの、それだけ!」

「本当にそれだけっスか? それだけじゃなかったことないんスか?」

「おい、いい加減にしろ、真昼間だぞ」

「素敵ですね」

 ふうん、と何を言ってもこの二人の顔色は変わらず、弁解が無意味であることを物語っている。それが事実であるのに、何だろう? なんだか、悔しい。

 駄目だ。この二人といると調子が狂う。そもそも上の人間を揶揄うなんて、最近の若い子は躾がなっていない。こいつらの上司は一体どういう教育をしているのだろう?

 もうとっくに食事は終えているのだから、こんなところで油を売っていないでさっさと戻ろう——そう思い、席を立とうとした時、ポケベルが鳴った。

 すぐさま表示を見る。いつもなら歓迎するところだが、今日に限っては、見たくなかった番号。

「……おふざけは終いだ。仕事だよ」

 その一言で、二人の目つきが変わった。トレーを持って席を立つ。

「偵察は私が行く。1号は準備して、出動命令まで待機。2号は、一分やるから全部食ってから1号と合流して。残したら承知しない」

「「了解」」


* * *


「え? 足りない?」

 先日Eightにいる時からひなたが乗りたいと話していたジェットコースターの入口に連れてこられたところで、可愛らしいデザインのユニフォームを着た係の女性が申し訳なさそうに眉尻を下げた。およそ正確とは思えない身長計測パネルに背中をくっつけているひなたの頭頂部は、たしかにキャラクターが指し示している必要身長ラインに十センチ程度満たない。

「もうちょっとお姉さんになったらまた乗りに来てね」

 そう言って、係員は一枚の『秘密のチケット』をくれた。それがあると次に来た時、長い行列を待たずに乗せてくれるらしい。

 泣き出したらどうしようかと思ったが、意外にもチケットを貰ったひなたは満足そうに真理子に自慢していたからホッとした。ただ、嘘か真か定かでないが、真理子はジェットコースターには乗れないのだそうで、そのチケットは次回パパが一緒に来る時に使われることになりそうだ。

「アンタ、ヒーローやってんのにこれダメなの?」

 こっそりと訊いてみた。ヒーロースーツを着用している時は、それこそマンションの上から飛び降りたり、ケーブルを使ってビルの合間を飛び回ったり、ジェットコースターなんて比べ物にならないような人間離れした行動をしているはずなのに、真理子はやはりぶるぶると頭を振る。

「自分でやってる時は良いのよ。思ってもない方向に行っちゃうのがダメ」

「マジか」

 もっとも自分は乗ったことがないので、真理子の言うこともあまりピンとこない。

「怖いのよ⁉︎ あんたも乗ったら絶対わかる!」そんなに怖いものなのかと疑いの眼差しで真理子を見ていると、真理子は自信満々に、かつ必死にそう訴えてきた。ひなたの言い分とは真逆で、どちらが本当なのか興味はある。

 すると、係員がそっと、この先に子ども用の小さなジェットコースターがあるから行ってみて、と耳打ちしてくれた。何となくその時の表情から、自分の正体を見破られているような気がした。

 言われた方向に歩き出して間もなく、下のほうからシャツの裾が引っ張られる。

「ねぇ、チーフ」

 顔を向けるとひなたがこちらを見上げていた。「なぁに?」

「だっこして?」急にどうしたと思いつつ、自分に向かって両手を伸ばしている姫を抱き上げる。絶対にヒールの靴はやめろとか、リュックを背負って行けという葵の助言は本当に的を得ていると思う。

「どうなさいましたか、姫さま?」

「あのね、——」ひなたは左耳のほうに顔を近づけて一生懸命に小声で喋る。「このまえの、チーフのジェットコースターがね、たのしかったの」

 それは何だったかと瞬時に考えて、きっと夏休み前に変身した姿で学校まで送っていってやった時のアレだなと思い出す。

「ないしょ」ひなたは口の前で人差し指を立てる。

「そう、内緒。きっとこれより楽しいわよ。身長制限もないし」

「あたしもそうおもう」

 ニヤニヤと笑うひなたを横から見ている真理子にはあの一件について詳細な経緯を話していないので、当然住宅の屋根を飛び移りながら学校へ行ったことも、屋上のさらに上まで上って話をしたということも知らない。ただあの日ひなたから聞いた学校のクラスメイトとの話だけは両親に報告しないわけにはいかないため、ママに言わないという約束をしたチーフはその日のうちに、こっそりパパに報告をした。

 その後、健一から話を聞いたのだろう真理子には気持ち悪いほど丁重に礼を述べられ、ひなたの学校での様子は時折真理子からも報告されるようになった。あれから今日までの間、チーフが懸念したような話はひなたから聞かないし、真理子の主観では楽しそうに学校へ行っているらしいので、それはそれで良かったと素直に思っている。

「何よォ、楽しそうにしちゃって。ママには教えてくれないのォ?」

「ダメ。ふたりだけのひみつなの」ひなたは意外と口が堅いようだ。「ゆびきりしたもん」

「あんた、随分うちの娘を(たぶら)かしてくれてるみたいね」

「ごめんなさいねェ。モテるのよ、アタシ」

 ひなたは嬉しそうにしているから良いが、真理子の視線が怖いのである。「ジェットコースターのれるまで、またやってくれる?」

「わかった、今度ね」

 誑かしているつもりはないのだが、ひなたは首元に抱きついて全然離れようとしないから暑い。機嫌が良いのは素晴らしいことと思うが、この調子では、呼び出しがあったことにして途中でいなくなるなんてとてもできそうにない。

 ——どうしよう? 本当に、呼び出しがあったら。

 いや、その時はもちろん現実に還り、きちんと仕事に行くのだけれども。

「……ひなた、ジェットコースターの前にさ、アイス食べない?」

 だがしかし夢を見続けるのは非常に疲れるということを今日身をもって知った。もしかしたら、討伐に行くほうがずっと楽かもしれないと思うくらいに。 


* * *


 ——またこのエリアか……。

 立入禁止と大きく書かれたバリケードの向こうに荒野が広がっている。この景色を見るのは何度目か知れない。それほどに今も、昔も、この場所にはよく来る。

 今回出没が報告されたのは、以前モンスターによって破壊されてしまったまま再建がなされておらず、未だに一般人の立ち入りが制限されている『復興対象外地域』の中だ。3号が幾度となくここを訪れているのは、この地域にモンスターが出没しやすいからである。

 境界線のすぐ手前に常設されている自衛隊の拠点で状況を確認しつつ、共に偵察へ出る予定のもう一人の到着を待つ。もうここの隊員たちともすっかり顔見知りだ。

 神出鬼没なモンスターたちによって被害を受けた地域は、時間はかかるものの再建されるのが基本だ。しかし、中には破壊されたまま、ずっと手付かずで人の立ち入りが制限され続けているエリアも各地にある。その違いは、モンスターが現れる頻度だ。

 理由は解明されていないが、昔からモンスターが出没しやすい場所というのがある。頻繁に現れてその度に破壊されてしまうこういったエリアは、復興したくてもできないのである。そんな危険を孕んだ地域に人間を住まわせ続けるのも問題があるため、ある時政府はこういった場所を復興対象外地域として指定し、一般人の立ち入りを禁じた。要するに、諦めたのである。

 それはもう昔々——それこそ三十年前の決戦よりもずっと前の話だ。シールドが完成し、モンスターが襲来することのない世の中が訪れ、一時その復興対象外地域を復興しようという動きもあった。しかしそれは人類未到の地を開拓するにも等しく、途方もない時間と、金がかかる。当然のことながら復興対象地域のほうが優先されるため、結局、何も手をつけられないまま現在に至っている。

 結論から言えば、復興しなくて良かったのだ。現にこうして再びモンスターは現れ、また破壊は進む。先住の人々には申し訳ないが、昔に見捨てるという判断を下した政府のことは、3号個人としては評価している。

 現状、境界線の向こうへ行くことができるのは管理している自衛隊と許可を得た関連省庁の人間、そして偵察や討伐へ行くヒーローだけである。人もおらず、片付けられるわけでもなく、ただただ繰り返し戦闘の舞台となっているだけのエリア内は、もはやただの荒野——瓦礫の山であり、焼け野原であり、終末の世界だ。かつてそこに文明があったことなど、もはや見る影もない。

 しかしモンスターの出没の他、決まってこういうエリアには立入禁止フェンスを越えて中に侵入する奴——肝試しをしようという馬鹿な輩や、廃墟の写真を撮りたいというマニア、自殺志願者などがいる。そのためフェンスの中は探知カメラやセンサーなどが至る所に設置されており、何か妙な動きがあった時は即座に対応できるよう整っている。今回のモンスターの報告についてもそこから得たものである。

「反応はどう?」

「探知した周辺を中心に、エリア全体を攫ってはいるのですが、正体を確認できません。誤反応か、野生動物という可能性もあるかと」

 カメラにも映らないとなればいよいよ肉眼で確認してくるしかない。

「本日の相方は?」シャイニーですか、という意味が含まれているのは察したが、期待に添えなくて残念だ。

「いや、——」思わず鼻息が漏れる。「シャイニーには別の用を言いつけてあってね。5号だよ。そろそろ来るはずなんだけどなァ」

 今日のチーフは休暇ではなく非番であるため、手が足りないと判断すれば呼び戻さなくてはならないが、個人的な気持ちとしてはまだ、夢を見させてやりたいのである。

 背後に視線を振ったその時、真っ白い服の5号がずるずると引き摺るような足取りでやってきた。ゴシック調のレースをたっぷり盛り込んだドレスに、陶器の人形のような肌、整った顔立ち。シャイニーよりも白い金髪の上には、純白のベールのようなレースのヘッドドレス。丸みを帯びた厚底の革靴から伸びる白くて細い脚——白鳥か、天使か、はたまた雪の精霊か。いずれにせよ誰が見ても申し分ない容姿をしている。——アイドルとしては。

 これで中身も伴っていたら、どんなにか良いだろう。

「お疲れ様」

 3号がそう声を掛けても、頷くより小さく頭を動かすだけで挨拶もなければ、こちらを見ようともしない。

「あのねェ、喋んなくても良いけど、挨拶くらいしたら?」

 完全に無視。傷一つない綺麗な手の先に煌めくネイルの欠けのほうが気になるらしい。

 長年、見た目商売の職業だった。それで雇われたと言っても過言ではない世代だ。そういうところを気にするのは致し方ないとしよう。しかし、いくらアイドルだったとしても挨拶や返事くらいはしたほうが良いと思う自分の感覚は間違っているのだろうか? それはモンスターが来ようが来まいが関係ないと思っているし、最低限の常識というそもそもの認識がもはや古いということなのだろうか?

「5号」

「挨拶しないと、死んじゃうんですか?」

 彼女の喋り方の最大の特徴である『ウィスパーボイス』は、何かのアニメで聞いたような機械じみた声質で、よく耳を澄まさないと聞こえない。

「ちゃんと、言われたとおりに、来たのに、文句、あります? わたし、虐められちゃってます? これって、パワハラっていうやつ、ですか?」

 顔は下を向いているのに上目遣いで真っ直ぐにこちらを見て、ぽつん、ぽつん、と囁く。しかし、話の中身は決して可愛くない。

 ——あー……面倒臭いなァ……。

 呆れて物も言えない。いつものことだが、彼女にはまったく話が通じない。

 別に挨拶しなくても返事がなくても死にはしないだろうが、自身の社会的な地位を殺さないためにはあったほうがだいぶ良いし、何事も円滑だと思うのだ。

 この場にいない4号と二人合わせて『モノクロ』と呼ばれる彼女たちであるが、良いのはビジュアルだけでその他に問題がありすぎる。初めて彼女たちに会った時、既に統括(チーフ)として選考に絡んでいるはずの英斗に、なぜこんなのを雇ったのかと訊いてしまったほどだ。が、おそらく人事部か、もっと上の誰かの好みだったのだろう。「アタシは『不可』のほうに入れた」という彼の言葉に偽りはないと信じている。

 今、猫の手も借りたい状況なのは誰もが知るところだが、このまま前線での戦闘に連れて行ったら死人が出るような気がする、というのが自分と英斗の共通見解であって、彼女たちに限っては引き続き街での困り事の処理か、偵察任務止まりとしている。

 本当に、どうしたものか。

 訓練しているのだからいちいち指示されなくてもできる、というのが彼女たちの主張で、実際にそうならば素晴らしいと思うし、こちらとしても非常に助かる。が、訓練したとおりに現場が動くなんてことは少なくとも自分の経験上はない。どうにもならない状況に陥ってからやっぱり無理だと助けを求められても時既に遅しなのであるが、それを理解してもらうのは難しいようだ。

 彼女たちはまだ若く、自分の半分にも満たない。死にたいのなら勝手だが、若い身空で死に急がなくても良いだろうに、最近の若者は本当によくわからない。

 何を教えても指示してもうんともすんともないから、理解度云々以前に聞いているのかも不明だ。きっとそれで危機的状況に陥ったら、どうして助けてくれないのか、見捨てられた、殺されそうになった、と憤るのだろう。

 水が飲みたいのなら自分で水飲み場へ行く努力はしてもらいたいものだ。椅子に座ったまま黙っているだけでは得られるはずもない。赤子でさえ泣いて訴えるというのに、喋ることも歩くこともできる大の大人がなぜそれをしないのか。

「……お互い死にたくはないだろうし、もし私と行くのが嫌なら、待っていてくれても良いのよ?」

「それって、パワハラに、脅迫、ですか? わたし、お仕事、頑張らせてもらえないですか? 涙が出ちゃいます」

 おそらく会社の人間でこんな馬鹿げた茶番を擁護したり、同情したりしている人間はいない。こういう風潮を作り出したのは、中身のない人間どもが鬱憤晴らしに言いたい放題言う我儘を鵜呑みにして、善悪の分別もなくそれを良しとした社会なのであって、あくまで彼女たちはその被害者なのだと思うと気の毒でならない。

「……もういいや。行こう」

 ああ、本当に面倒臭い。苛々するとかそういう気すら起きない。ただただ、相手をするのが面倒臭い。

 そして、可哀想。

「あなたが待っていれば良いのに」

「え?」

「もう、年なんですし、()()()()()、テレビに映したら、迷惑です」

「……これのこと?」

「やめてください。気持ち悪い」左の腕の先に垂れ下がった袖を振ると、彼女は大袈裟なくらいに眉を顰めて顔を背けた。「わたし、認めません。障碍者のくせに、あなたみたいな人が、表にいるなんて。結局、みんな、腕がないから、特別扱いしてくれるだけ、でしょ。早く、裏に、戻れば良いのに。怖いって思う人も、いるんですから」

 本当に、可哀想。

 結局のところはそこが本心だ。もし自分に両腕があって、年齢が彼女と同じくらいだったなら、そうはならないのだろう。自身より弱者()でなければならないはずの人間が自身より上にいるのが許せないだけ。

 誰かを(おとし)めて優位に立ったつもりになるのではなくて、自分が上へ行く努力をしたら良いのに——いや、無理だな。だって自分が水を飲むために水飲み場にも行けないのだから。

 やはり、英斗を呼び戻したほうが良かったのだろうか。

 何事もなければ良いが、万が一何かあった時、一人でフォローし切れる自信がない。ただ、呼び戻して自分の代わりに行かせても、おそらく同じことになる。彼女はチーフのこともシャイニーのことも同様に気に入らないのだから。それはまた3号とは異なる理由で、内側の人間であるにもかかわらず、あのように誰よりも可愛い容姿をしているから。

 要するに、嫉妬。

 実にくだらない。そんなことをしている暇があったら、努力をしたら良いのだ。何の努力もしないで手に入れたとでも考えているのだろうか?

 これでも彼女は歌や踊りが達者ですごいと赤羽は評価したというのだから、本当に器が大きくて尊敬する。英斗もそうだ。統括としてこんなのにずっと指示を出し、取り纏めてきたのかと思うと計り知れない苦労が窺える。裏にはこんな奴はいなかったから、自分はほとほと幸せな統括だと思う。

「しかも、何ですか? わたしたち、『アイドル』、ですよね? オバサンなのに、スキャンダル、とか、本当に、気持ち悪い、です。チーフも」

「ごめんね」

 そこは正直、申し訳ないと思っているし反論も弁解もするつもりはない。記事が出るのはわかっていたが、手を打たずに放置したのは自分だ。

 なぜ、揉み消さなかったのだろう? それは未だに、よくわからない。ただその判断は間違いなく自分が下したものだ。何も知らない英斗は悪くない。

 謝られると思っていなかったのか、5号は一瞬押し黙り、顔を背けた。

 ——きっとこんな奴でも、死んできたら英斗は悲しむのだろうな。

 だから、連れて帰ってこなくてはならないのだ。自分が何と言われようと。

 拠点を出立しても5号は止めどなく不服を垂れ流していて、それでも後にはついてくるのだから本当に理解し難い。嫌なら帰って良いと言ったのに、それにも反発——これが噂に聞くイヤイヤ期というやつなのか?

 漸く目標地点が見えてきた。せめて、偵察中は静かにしていてほしいものだ。


* * *


 結局、頭上に広がる空が赤と紫のグラデーションを帯びて、疲れ果てたひなたがチーフの腕の中で眠ってしまうまで、ポケットの中のポケベルが鳴ることはなかった。それどころか特に仕事上の連絡が来ることはなく、夢の国は現実からの電波を遮断しているのかと思ってしまうほどに静かだった。

 ヒールを履いているわけでもないのに足が痛い。討伐に行ったってこんな症状にはならない。遊園地というのはいるだけでじわじわと体力を消耗していく場所なのだと知った。いつの間にか夢の入り口からとても離れたところへ来てしまっていたようで、現実までの道のりがひどく遠いものに感じる。

「どうだった? 初めての夢の国は」

 ひなたの小さなリュックを持ちながら隣を歩く真理子が、いつもよりやや抑えた調子で訊いてきた。一日中辺りに流れ続ける愉快なバックミュージックの隙間からギリギリ聞こえる程度の、落ち着いた声色だ。

 眠っている姫君を起こさぬよう、静かに息を吐く。

「……討伐に行くより疲れる。あと、遊園地っていうのはどうして何でもかんでも無駄に高いの?」

 素直な感想を述べると、それを聞いた真理子は沸々と笑った。「チーフがいてくれて良かったわ」

 礼を言われる筋合いはない。今日は自分がエスコートを頼んだ身だし、母娘二人で楽しんでほしかったのに、どこで離脱しようかとタイミングを測っているうちに結局こんな時間になってしまった。それに真理子から真面目に感謝の意を述べられることに慣れておらず、気持ちが悪い。

「アンタねェ、明日仕事なんだけどわかってる?」

 それを考えると憂鬱になる。朝になって全身が筋肉痛になっているのが今から容易に想像できるが、真理子は見たところまだまだ余裕すらありそうな様子で、呆れを通り越して感心してしまう。こちらは明日もモンスターが現れないことを切に願うばかりだというのに。

 だが、なぜだろう? 重力に負けそうなほど体は重いのに、不思議と心の中はとても穏やかなのだ。

 ドーン、と低い音が辺りに響き、ふと暗くなった園内がカラフルに染まる。見上げると、まだ暗くなりきらない夏の夜空に大輪の花が咲いていた。

「……ありがとう」何の抵抗もなく、その言葉が口をついて出た。真理子がくりくりの目をこちらに向けている。「今さら、本当に、どうでも良かったんだけど、憧れではあったのよ。小さい頃」

「本当に?」

 素直に頷く。「休みが明けると、クラスメイトがよく喋っていたからね。楽しそうに」

 まるで夜空に散る花火や、煌めきに満ちたイルミネーションのように爛々と瞳を輝かせ、遊園地での夢の時間を語るクラスメイトの姿を横目に見ながら、一体そこにはどんな世界が広がっているのだろうと、興味はあった。ただ、自分には一生行く機会なんてないと思っていた。

「良い経験になった?」

「まさかこの年になって新世界を見ることになるとは思わなかった」

 花火が上がっていることをひなたにも教えてやろうと背中を叩いたが、姫君は夢路半ばで起きそうにない。その様子を、夜空に咲く花々を映した真理子の丸くて大きな瞳が見つめている。

「楽しそうにしてくれて良かったァ。チーフのおかげねェ」その目を細め、真理子は心底安心しているようだった。「ずぅっと抱っこだったものね。助かっちゃったわ。ほんとにねェ、いつの間にかすっかり大きくなっちゃったから、もうあたしじゃ抱っこしていられないのよねェ」

 眠っているひなたを見上げながら、真理子は悔しそうに笑う。

「……、さすがに腰にくるけど、討伐でアンタのこと持ち上げてるよりずっとマシだったわね」

「ねェ、なんでそうやっていっつも一言余計なのよ。本当、いつか訴えるからね⁉︎」

「アンタこそ、もしアタシの腰が逝ったらどうしてくれんの? 傷害だからね? ほんと昔はあんなに——、……」

「……何よ?」

 あんなに、可愛かったのに。

 自分以外のヒーローに興味があったわけではない。ただ、母と同じ『8号』という番号を背負ったのがどんな奴なのかはどうしたって意識が向いた。だから、よく覚えているのだ。ピンクとグリーンのヒーロースーツがよく似合って、陽だまりみたいに朗らかに笑うその姿を。

 もう十八年も前の話だ。

「……何でもないわ」

「何なのよ! ほんッと失礼しちゃうわね!」

 まるで春に咲く満開の桜の樹が、ほんの少しの間、人の姿を借りて風に戯れているかのような、その姿を。

 ——そうか。

 もう、あれから、十八年も経ってしまったのか。

 地団駄を踏みつつ、ズンズンと前に歩いていってしまう真理子の後ろ姿はもはや桜の精からはほど遠く、どちらかというと桜餅である。

「真理子」

 何よ、と不機嫌な顔をして振り返る。真理子は忘れているだろうが、自分ははっきりと覚えている。あの任務の時も彼女は、こんな顔をして振り返った。日の落ちた海岸、途方もない『宝探し』の途中、果てなく続く砂漠のような広い砂浜の上で。

「本当に、普通のママに戻らなくて良いの?」

 真理子は僅かに両目を見開き、息を呑む。

 チーフの両腕の中で寝息を立てているひなたは、重い。初めてひなたに会った数ヶ月前は、もう少し軽かったように思う。この短期間のうちに少しずつ、少しずつ、チーフが抱き上げる度に、確実にひなたは大きくなっている。

 たった数ヶ月で、それだ。一年、二年ともなればもはや別人にも等しいだろう。

 たいていの母親は、それをずっと傍で見ている。いつの間にか別人になっているなんてことはない。

 でも、——。

 母は、どうだったのだろう?

 自分が母に会うのは稀だった。いつもヒーローの仕事が忙しかったから家にはおらず、会話どころか会うことさえも難しかった。自分はテレビの向こうにいる母の姿を見ていたが、母は時折帰ってきた時にしか息子の姿を見ない。

 見る度に、相当に変化していただろう。その変わり様に、戸惑いはなかったのだろうか。

 もし今『普通のママ』に戻れば、いつの間にか大きくなる、なんてことにはならない。ずっと見ていられるし、遊園地だっていつでも来られる。

 今朝、なぜひなたがあんなにも泣いていたのか、真理子もわかっていないわけではないはずだ。どんなに聞き分けの良い子どもを演じていようと、あれがひなたの本当の気持ちだろう。

 今でも思っている。

 真理子はさっさとヒーローなんて辞めて、一般人に戻ったほうが良い。そうするほうがきっと皆が幸せでいられる。

 人手が足りないのは事実だ。今さら誤魔化しようもない。この情勢になって、戦闘要員からマイナスが出るのは正直かなりの痛手で、他に皺寄せが行くのは免れない。

 でも、そんなことは子どもには関係ないのである。

 仕事はあくまで仕事だ。人生じゃない。特にヒーローなんて、辞めてしまっても経済的に困窮するわけでもない。言ってしまえば合間にするおまけみたいなもので、何かを犠牲にしてまで続ける価値があるのかと問われたら、自分はきっと「ノー」と答えるだろう。自分がそれをやっているのは単に、それ以外に大切なものがないからだ。

 真理子は何も言わず、ただ少し下を向いていた。その顔を見れば、言葉などなくとも、揺るがないその意思はもうわかる。

 彼女のそういう価値観は、未だに、どこか理解できない。だから、もうそういうものなのだと割り切るくらいしか、己を納得させる手立てがない。

「アンタに言いたいことはたくさんあるけど、アンタが決めたことならアタシはもう何も言わない。でも、いつかひなたに訊かれた時、これだけは答えられるようにしておいて。どうしてアンタはヒーローを……世界を選んだのか」

 そしてその口で、答えてやって。

 真理子はしばらく黙って、それからありがとう、と言った。

 頭上からパラパラと降り注ぐ花火の音は、まるで前線に響き渡る銃声のようにも聞こえ、夢の終わりを告げている。

 やはり自分は、夢の世界では生きられない人間だ。


* * *


 結局、1号と2号の討伐チームは出動させなかった。

 本部に戻った3号が報告を済ませ、ロッカールームに戻ってきたのは定時をとっくに過ぎた頃だった。経験のない事象が発生した場合の報告が長くなることは覚悟していたが、まさかここまでになるとは。

 出現したはずのモンスターは何時間探しても発見には至らなかった。エリア内のどの探知機にも反応がなく、目に見える被害もない。最終的に、3号はそれを『消滅した』と判断した。

 初めての事象——しかし考えてみれば、消滅したっておかしくないのである。モンスターがどこからともなくこの世界に入ってくることができるのなら、自ら出ていくことだって可能なはずで、それが今までたまたま確認できなかっただけで理論的には十分あり得る話だろう。だが、慎重なお偉いさん方はそこに納得のいく理由を求める。モンスターの正体が一体何なのかもほぼわかっていないこの状況でそれを求めるなんてちゃんちゃらおかしいのであるが、皆、自身が責任を問われないよう整えることに必死なのだ。

 そんなに気になるのなら自分の足で行って見てくれば良い。それをする度胸もないくせに。

 異様に疲れた。戦闘になったわけでもないのにこの倦怠感は何なのだろう?

 やっとのことで更衣室に戻ってきて、とにかく座りたくてベンチに腰を下ろしたが、これが更なる後悔のもとだった。立ち上がれない。少し手を伸ばせば届きそうな距離にロッカーの扉があるのにそれすらも開けたくない。体が重すぎる。

 重力に逆らえず、ベンチに背中をつけて天井を見た。そうしてしばらく大きく息をしていると、疲れているのは体ではなくて頭なのだとわかってくる。誰かが使った制汗剤か何かの臭いが部屋の中を漂っていて気持ちが悪い。

 5号は偵察途中に勝手に離脱した。今夜十時からの歌謡番組に4号とライブ出演することになっているからと、日が暮れ始めるよりも早くに現場を発った。その仕事にはおそらく余裕で間に合ったはずだ。

 そう。それも、彼女たち(アイドル)の大切な仕事ではある。だから何も言わなかった。

 ——障碍者のくせに、ね……。

 たしかに彼女の言うとおり、自分にアイドルとしての価値は一ミリもない。その点についてははじめから、なくて良いと思っているし、自分の——『スカイ・ハーク』の仕事は前線に行ってモンスターを討伐してくることであって、メディアの中で歌って踊って愛想を振り撒くことではない。むしろそんなことをして来いと言われたら、自分は間違いなくヒーローなんて辞める。

 己に与えられた職務は、常に死が付き纏うものだ。だから、仮にある時それが自分か、或いは他の誰かに訪れたとしても、致し方のないことと割り切ってきた。今も、割り切ることができる——と、思っていた。

 割り切らなくては、やっていられない。この仕事はそういう仕事だ。

 それなのに。

 昔ほど、ドライになれない。怖いもの知らずでいられない。気付かないようにしているが、おそらく今の自分は何が怖いのか既に知っているのだ。しかし、それを誤魔化すために必要な強さが、半分しかない。

 左腕を上げる。袖が途中からぐにゃりと折れている。

 これをやった時のことは今でも鮮明に覚えていて、時折夢に見る。そうして目覚めた朝は左腕が少し痛い。

「……」

 後悔しているわけじゃない。

 ただ、守れるか? 自分には、半分しかないのに?

 年齢も考慮に入れれば半分以下だ。自分にはもう時間がない。それは前線に行く度に感じる。

 部屋の中はとても静かで、自分が呼吸する音だけが聞こえる。少しずつ、少しずつ、自分の中で何かを片付け、頭の中を沈静化していく。そうしてふと、今自分が何を欲しているのかわかったような気がしたら、拍子抜けするほど体はすんなりと言うことを聞いた。

 ロッカーを開け、スマートフォンを取り出す。新しい通知が届いていた。差出人は真理子で、偵察に出ている間に来ていたもののようだ。

 メッセージを開くとまた写真が付いていた。それは、今もなお夢の中にいる姫と従者を写したものだった。

「……」

 膝に力が入らなくなり、転ばないよう咄嗟にまたベンチに腰を下ろした。電話を落とさないよう、震える手に必死に力を込めた。

 ——ああ、やっぱり、呼び戻さなくて良かった……。

 守れるか、じゃない。自分は、守らなくてはならないのだ。他でもない自分のために、誰に何と言われようと。

 咄嗟に画面を伏せる。今、気付いては駄目だ。

 わかる。それに気付いたらもう前線に立てなくなってしまうから。

「……参ったな」

 おかしな話だ。本当に。

 本当におかしくて、笑いが出てしまう。

 吐息が震えるのも、苦しさに涙が出るのも、たぶん、きっと、そのせい——。


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