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第七話 暮色蒼然(3)翳る日

「もし、あの現場で、(かんざし)を見つけることができたら、葵にちゃんと言う」

 だから、もう一度助けてほしい——それがチーフの頼み事だった。

 未処理の完全新種モンスターがいる可能性がある現場に、たかが飾り物一つを探しに戻るというのがどれほど愚かなことか、チーフが誰よりも理解していただろう。それでも、そう言って頭を下げたのだ。

 1号と2号を同伴することを条件にした。互いのため、万が一モンスターに遭遇した時の保険として、だ。二人に余計な負担を掛けてしまうことをチーフは何度も謝っていたが、当の本人たちは非常に協力的で、訳を話すとすぐに快諾してくれた。

「何言ってんスか。困っている人を助けるのはヒーローの仕事でしょ」

 むしろ、あのチーフが自分たちを頼ってくれたことのほうが嬉しかったようで、二人ともさっさと武器を所持して意気揚々と出掛けていってしまった。

 皆、捜索対象の簪については見たことがあり、葵がいつも大切にしていたこともよく知っている。シャイニーは見つからないかもしれないと思っているようだったが、マリーは欠片一つでも見つけて持ち帰るつもりだったし、他の二人も同じだった。

 ただ、新種に関しては葵がもたらした情報のみ——ガス体で攻撃が効かないことと、そのガスを吸ってはならないということしかわからない。どこに潜んで、いつどういった形で飛び出してくるかも予想ができず気を抜けないため、体力よりも精神的に磨耗した。夜間捜索は危険であるため、日没を待たずして引き上げることを繰り返した三日目、とうとう瓦礫の隙間に引っ掛かる青い蝶々を見つけた。

「……ありがとう……ッ」

 シャイニーはやはりメソメソと泣きながら何度もそう言った。

 落ちた衝撃か、パーツが一部外れて、羽の部分に入っていた青色の模様が欠けてしまっていたが、見つかっただけで十分だと、シャイニーは大事そうに簪を握り締めていた。

「あの爺さんなら何とかしてくれんじゃないスか? 器用そうだし」

「そうですよ、一緒にお願いしに行きましょう!」

 1号と2号はひたすらにシャイニーを励まし、その前向きさにはマリーも驚くほどだった。

 2号の予想どおり、衣装庫番の爺は口では文句を言いつつも、壊れた小さな飾りを預かり、一生懸命に修理してくれた。「あの英斗が仕事以外でものを頼んでくるなんて初めてだからな」とその能力を存分に発揮し、葵が目覚めるより先に、簪はほぼ元の姿を取り戻した。どこを直したのか、教えてもらわなければわからないほどの出来映えだった。

 だが、当の葵は一向に起きる気配がなく時間だけが過ぎていった。チーフが毎日仕事の合間を縫ってこっそり様子を見に通っていることや、平静を装って仕事をしているものの内心気になって仕方がなかったのは誰しも気付いていたと思う。だから一週間が経った頃、スマホを片手に漸く浮かべてくれた安堵の表情は、ずっと張り詰めていた皆の心も和らげた。

 すぐにでも病院へ行きたいというのが当然の感情だろうに、チーフは電話を切ってまた仕事に戻ろうとしたため、真理子はここぞとばかりにゴリ押してチーフを会社から追い出してしまった。

「あの人、本当馬鹿よね」

 控え室の窓から社屋の下を眺めながら、思わず本音が漏れてしまった。

「馬鹿っていうか、不器用すぎて、もはやイライラしちゃいますね」

 独り言のつもりだったが、それに対し、隣にやって来てにこやかに正直な意見を述べたのは意外にも1号だった。「なんか、進展しないドラマを見てるみたいで」

「それすごいわかるゥ」

「今時、中学生だってもう少しマシな恋愛すると思いません?」一回りも年下の部下にまでしっかりと見抜かれている上に、痛烈な批判を浴びていて、実に愉快だ。「チーフって、何でも卒なくできちゃって、すごいなって思っていたのに、仕事じゃないとこ全然なんですね。あんなに奥手な人だったなんて。もう少し、2号みたいにがっつけば良いのに」

「言いたいことはわかるが喧嘩売ってんのか、お前」

 後ろで聞き耳を立てていた2号が即時不服申し立てをしたが、1号はくすくすと笑うばかりで訂正するつもりはないようだし、真理子自身もそう思う。

 いつものように、転びそうなハイヒールで走っていった金色の頭をガラス越しに見下ろしながら、チーフが簪を返して、自分の気持ちをきちんと葵に伝えられるようにと祈った。おそらくその結果は、改めて訊かずとも自然とわかるだろうと思った。実際、退院してきた葵がチーフの部屋に住んでいると聞いた時も、特段驚くことはなかった。


* * *


 それからしばらくして漸く退院を許された葵は、英斗の家に帰ってくるようになった。

 そうするように提案したのは英斗のほうであるが、葵のことだから断ってくるのではないかと当初予想していた。しかし——

「良いの?」

 意外にも、そう訊いてきた葵はどこかホッとした表情をしていた気がする。

 リハビリをして元のとおり歩けるようにはなったものの、約半月もの間まともなトレーニングをせずにいたため完全に筋力が落ちてしまい、重すぎて自分の体ではないみたいだと、葵は戸惑っていた。たしかに日常生活が送れるようになったというだけで、体力はまるで戻っていないのが英斗から見てもわかるほどだったため、彼女を一人にしておくのは英斗自身も不安だった、という双方の気持ちが合致した形だ。

 それに、おそらく葵には、あまり時間が残っていないように思う。葵本人には言えないが、母のように突然亡くなる可能性を英斗はリアルに感じていた。たとえ今日その時が訪れたとしても、絶対に一人で逝かせたくない——それが、裏側に隠した本当の理由だ。

 以前の葵は、英斗の家に玄関から入ってくることは稀で、ほとんどベランダから侵入していた。しかし今は外からだと上れないと言い、渡した鍵で玄関から出入りするようになった。一緒に暮らしていてもすぐに疲れてしまうらしく、会社にも満足に行けないし、家にいる時は寝ていることが多い。

 もうヒーローにならなくて良いと思ったら気が抜けた、と葵は笑っているが、本当にそうだろうか?

 あまりに突然、環境や状況が変わりすぎたのだ。気持ちは今までと何も変わらないのに、体がまるでついてこないことに戸惑っているように見えた。起きていても窓の外を見ながらぼんやりしていることが多いし、これまで片手で裕にこなせていたことができなくなっていることも、間違いなく葵を落ち込ませる要因の一つだ。一人で外に出るといつどこで何ができなくて困ることになるのか予想できないのが怖いと家から出たがらないし、ラーメンを食べに行くかと誘っても英斗が作ったインスタントが食べたいと言うので家で作ってやることが増え、量もさほど食べなくなった。

 葵は葵なのに、なんだか別人になったようにも思えて、どうしてやるのが良いのかわからない。英斗にできるのは狼狽している葵に「大丈夫だよ」と声を掛けて一緒にいてやることくらいしかない。あとは、夜寝ていると何かにうなされてしばしば目を覚ましてしまう葵に、自分の寝床を譲ることくらいだ。本人曰く、不眠の原因は昔の夢とのことだが、嘘か真か、英斗の布団を占領して寝ている時はあまり嫌な夢を見ないのだという。

 もう、現場には出さない。葵は黒衣に戻す——その決断が正しかったのか、今も考えている。何だかんだ言って、葵は表にいるのが好きだった。3号として、武器を持ち、前線に立ってモンスターを討伐している時ほど彼女が生き生きとしている瞬間は他にない。

 でも、自分は、——。

「何シケた顔してんのよ」

 ふと横を見ると真理子が立っていた。日替わり定食の内容が載ったトレーを隣の席に置き、椅子を引く。

「いや、別に」

「強がってんじゃないわよ、全然食べてないじゃない」

 真理子に顎で指されたこちらのトレーの上は、たしかにカウンターで受け取ってきた時からほとんど容量が減っておらず、返す言葉もない。箸を持つところまではしているが、どうしても手が動かないのだ。

 真理子は溜め息を漏らしながら自分の箸を割り、隣で自身の食事を始める。「葵ちゃんは? 少し元気になった?」

「……それなんだけどさ、——……」

「何? どした?」

 真理子は葵が家にいることを既に知っている。真理子にこんなことを言うなんて格好悪いし、何より腹が立つのだが、どうせ全部バレてしまうし、もはや背に腹は変えられないのである。

「なんか……わかんなくなっちゃって」

「何が?」

「これで良かったのかなって、考えちゃう」

「3号を引退させたこと?」

 素直に頷く。「体力が戻ってないのもあると思う、けど……なんか、抜け殻みたいで、どうしたら良いのか、わからない」

「あんたはどうしたいわけ?」

「……ただ、大事にしたい、だけ」

「良いじゃない。あんたのその気持ちは、葵ちゃん、わかってると思うわよ?」

「アタシにはわからないよ。葵が何を考えているのか」

「本当に?」

「……」

「本当に、わからない?」

「……自信がない」

 改めて口に出すと本当に情けなくて、すべてを通り越して可笑しくなってくる。だが真理子はその横で、この醜態を笑うこともなく平然と白飯を頬張り、時折ウウンと唸りながら何かを真剣に考えてくれているようだった。

「……あたしの想像だけどさァ、——」やがて茶碗を持ったまま、真理子は首を傾げた。「葵ちゃんは、たぶん、あんたの近くにいると安心するんだと思うのよね。自分が弱ってる時、一番安心するところに帰りたいって思うの、当たり前じゃない? 葵ちゃんが実家でも、自分の家でもなくて、あんたのところに帰って来るのはそういうことじゃないの?」

「……」

「特別じゃなくて良いのよ。あんたは普通に生きてりゃそれで良いの」

 それが一番難しい。

 チーフが黙りしているうちに自身の皿をすべて空っぽにした真理子は、すっかり冷め切って廃棄を待つのみだったチーフのサバ味噌も勝手に平らげてしまった。そして何も言わずに席を立ち、スタスタと歩いて行ってしまったかと思ったら、どこから調達してきたのか食品用ラップを手にすぐに戻ってきた。

 再び椅子に座った真理子は、チーフが先ほどから手を付けようとしてできないでいた茶碗を取り上げ、広げたラップの上に白飯をぶちまけると、定食に付属していた柴漬けを入れてあっという間に丸めてしまった。

「はい」すっかりおにぎりになったそれを差し出される。「ちょっとでも良いから食べなさい。今あんたがおかしくなったら、葵ちゃんが一番困るし悲しむの、わかるでしょ?」

「……ありがとう」

「今日は? どうしてるの?」

「たぶん家にいるよ。昨日あんまり寝られなかったみたいだから」

「あんたねェ、本当馬鹿じゃないの? こんなとこでそんな弱気になってる暇があったら、とっとと家帰ってラーメン作って、大丈夫って一言掛けてやんなさいよ」

「でもまだ仕事あるし……——」

「馬鹿ね、もう馬鹿確定。あのねェ、今時パソコンあんだから持ってきゃ良いでしょうが。チーフの特権でしょう? 何かあったらどうせ呼び出されるんだから、どこにいたって同じよ」

 真理子は綺麗になった自分とチーフのトレーを両手に持って片付けに行ってしまった。そしてどこからともなく布巾を手に戻ってきてテーブルを手早く拭き上げると、怪訝な顔をこちらに向けた。

「立って。早く帰って。お疲れ」

 しっしっ、と追いやられてしまった。真理子の視線が怖くておずおずと席を立ち、食堂を後にする。本当に、どっちが上司なのだかわかったものではない。

 一旦執務室に戻り、言われたとおりに荷物をまとめた。念のために控え室に顔を出すと、1号しかいなかった。

「お疲れ様です」

「お疲れ様。他は?」

「モノクロは収録で出ています。2号は、7号と訓練場に」

 7号——葵が3号を下りた代わりに、ずっと空いていた7号の席に入ったのはセンリだった。あの一件の後、正式に、自ら表に出ることを志願してきた。

 センリには基本は仕込んである、と葵は言った。黒衣側で優秀な人間が減るのは痛手だし、訓練と実戦は違うが、シャイニーやマリーだって問題なかったのだから大丈夫、という彼女の見立てを信じることにした。圧倒的に人手が足りないこの状況で、断る理由はなかった。

 毎度の如く爺からヒーローネームと、紫色のヒーロースーツを授かり、今は2号の下で鍛錬を重ねてもらっている。爺に付けられる名前がことごとくダサいという話は黒衣の頃から聞いていたし、密かにそう思ってもいたらしいが、実際に自分がやられてみて、やはりそうだったのかと納得したと肩を落としていた。

「特に問題はない?」

「はい。お帰りですか?」

「……ええ。そう」思わず怯んでしまった。なぜわかったのだろう? お出掛けですか、ならまだ理解できるのだが。

 ここのところ1号も2号も言動が真理子そっくりになってきたように思えて仕方がない。加えて勘の鋭さまで似てきた気がする。真理子が三人もいるだなんて、この世の終わりだ。

「仕事はしてるから、何かあったら呼び出して?」

 意外にも、それを聞いた1号は深々と溜め息をついた。「チーフ」

「何?」

「チーフが真面目なのはわかっていますが、たまにはのんびりなさっては? ジブンでよろしければ、今日は比較的余裕がありますから、遠慮なく申し付けてください」

「……」

「それと!」口調が少し変わる。少なくとも、丁寧ではなくなった。「鷹野統括によろしくお伝えください。チーフ、ちゃんと仲良くしてますか? 私、ちょっと心配してるんですけど」

「……ありがとう」やはり真理子みたいで可笑しい。「ちゃんとしてるかはわからないけど……そうね、アナタの言うとおり、たまにはのんびりさせてもらおうかな。またプリンをご馳走したら良いのかしら?」

「そうですね」1号は呆れているのか、鼻息を荒くして即答した。良い商売だが、非常にありがたい。何を頼めるわけでもないが、信頼できる部下がいると気持ちが楽だということを最近になって漸く思い知った。

 留守を彼女に任せ、逃げるように控え室を出た。真理子が戻って来た時にまだいたら怒られそうな気がしたのだ。午後に会議が入っていなかったのが幸いである。

 とはいえ、いきなりこんな時間に帰ったら葵だって驚くに決まっている。せっかくだから何か甘いものでも買って行こうかと考えて、会社を出てからいくつかの店のショーケースを覗いてみたが、何となくピンとこない。近頃葵の食欲の具合が読めず、足の早い生菓子は無駄にする可能性を考えて買わないようにしていたから、以前どんなものを買っていたのか忘れてしまったのである。

 これと思うものがないまま三軒目を離れ、やはり手ぶらで帰るのが正解だろうかと家のほうに足が向きかけていた時、ふと茶色い渋栗が飾り付けられたモンブランが目に留まった。以前、一つしかない渋栗を食べてしまった詫びにと、ホールのものを予約した洋菓子店だった。

 愛想の良さそうな店員に訊いたところ、今はホールケーキでは用意がないが、小さいものならばあるとのことで、それを二つ詰めてもらうことにした。二人とも特別にモンブランが好きというわけではないが、これなら葵でも喜んでくれるのではないかと思った。

 いそいそと持ち帰り、ドアを開けると、少しびっくりした様子の葵と出会(でくわ)した。ちょうど台所で何かしていたところだったようで、英斗の顔を見ると一瞬ホッとしたような表情を浮かべて「おかえり」と言った。

「ごめん、驚かしちゃった? どうかしたの?」

「ちょうど良いところに帰ってきてくれたよ……ねェこれ開けてくれない?」

 葵は何かの瓶を渡してきた。見たところ食事の支度をしていたようだが、その瓶が開けられなくて困っていたらしい。

 手を洗って戻ると、葵の興味はテーブルの上に置いていったケーキ屋の袋のほうに移っていた。「これ何?」

「ケーキ買ったの」

「今日って何かの日だったっけ?」

「ううん、何でもない日だけど……」話しながら葵に渡された瓶を捻ると、拍子抜けするほど簡単に開いてしまった。「……はい、開いたよ」

「ありがとう、助かったァ」

 たったそれだけのことで嬉しそうに笑うのを見ると、よほど困っていたのだろう。その瓶を持って、再び台所のほうを向いてしまった。

 とりあえずケーキの箱を冷蔵庫に入れておこうと戸を開けると、寂しかったはずの庫内に物が詰まっている。「買い物行ったの?」

「うん。一人で行けたら楽しくなっちゃってさ、たくさん買ったら、帰ってくるの重くて」

 たしかに冷蔵庫の中を見れば何となくそれは察することができる。「呼んでくれたら行ったのに」

「ダメよ。いッくら私のことが大好きだからって、そんなに甘やかしたら」

 ヨーグルトの群れに隙間を譲ってもらいながら吹き出してしまった。その台詞は会社を出る前に——せめてケーキを買う前に聞くべきだったかもしれない。

「まだ世の中捨てたもんじゃないかもって、思っちゃった。私がちょっとまごまごしてたら、レジのおねえさんとか、周りの人がいろいろ、助けてくれたりしてさ」

「良かったじゃん」

「意外だったな。こんな時にいなくなったのに、みんな『スカイ・ハーク』のことはあんまり悪く思わないでくれてるみたいで」

「それは、葵の功績の賜物でしょう」

「否定はしないけど、あんたがそうならないように引かせてくれたからってのは、大きいよ。ありがとうね」

「……」

 箱を収めて扉を閉めるタイミングでそんなことを言われてしまうと、表情を用意するのが間に合わない。自分にはただそれくらいしかできることがなかっただけなのだ。どんな顔をすれば良い?

 痛痒い気持ちを抑えて顔を上げると、葵は何かに気付いたらしく首を傾げていた。「そういえばあんたどうしたの? 帰るの早くない? 何かあった?」

「あ、いや……」本当に今さらである。「何もないから、帰ってきちゃった」

「何それ。サボりってこと?」

「葵とのんびりしてって、みんな言うから」

「……ほんッとにさァ、——」溜め息の隙間から笑いが漏れている。「何なの? 馬鹿なの、みんな」

「老人を大事にしてくれようとしてるんだよ」

「黙んな。あんたもあんただよ、素直に帰って来るんじゃないよ」

「ゴメンナサイ」サボるつもりはなかったのだが、1号の言葉を借りるなら『のんびりする』というのは、要するにそういうことだ。「どこにいたって呼び出されるんだから同じだろって」

「そりゃそうなんだけどさ……」

 ちゃっかりスーツを脱いで、ギリギリ外出できるくらいの格好に着替え、一応持ち帰ってきたパソコンだけはテーブルの上に広げた。葵の隣で珈琲を淹れていたらサボり魔の烙印を押されたが、何一つ文句は言えない。

「ごめん。白状すると、働きたくなかったんだよ、自分が」

 葵はなぜかそれを聞いて一瞬キョトンとして、それから沸々と笑い出した。

「え、そういう日ってあるでしょ? ない?」

「わかる、わかるよ。そうじゃなくてね、ふふふ……あんたがそんなこと思って、素直に行動に移しちゃうようになったのが、なんか、良いなァって」

 良くない兆候だと思うが、葵は嬉しそうに笑っている。

 子どもの頃は、学校に行きたくなければ行かない、帰りたかったら帰る、気持ちに正直に行動していた。でもそれが、ある時変わってしまった。十歳を過ぎた頃——葵に会わなくなった頃のことだ。どんなに気の進まないことであろうと、自分の感情や欲求に蓋をして打算的な行動をするようになった。それが誰も不幸にしない、唯一自分にできることだったから。

「……」

 本当に、良くない。こんなことをしていて、良いはずがない。

「そんな顔すんな」見てもいないくせに、葵は横から批判してくる。「良いじゃない、たまには。いつ呼び出し食らうかわかんないんだし、羽伸ばせる時は伸ばしといてバチは当たらないっしょ」

「……」右側に立っている葵をちらりと横目に見る。何を作っているのかわからないが、見たことのないものであることはたしかだ。「手伝うこと、ある?」

「んー……あとでちょっと助けてもらう」

「うん。ここでパソコンしてるから呼んで?」

 珈琲を冷ます間、メールのチェックをすると、もう1号が報告書を送ってきていた。先ほど会社で作っていたものだろう。1号の書類は常に一二〇点の出来で見るまでもないし、()()()()()()確認するよう願う一言まで付いているが、きちんと働かないと葵に怒られてしまうので目を通すのは今にする。

 だが、整列した細かい文字を追いながら、徐々に眠くなってきてしまう。これが2号の書類だったら、所々通じない箇所があって修正を入れる必要があるのだが、1号のものは皆無なので、チーフとしては読むだけで良い。素晴らしいことではあるが、今日はどうにも眠気が勝る。しんとしているのが当たり前だった室内に自分ではない誰かが立てる生活音が響いているのはやはり不思議な感じがするが、落ち着くのだ。

 少し(ぬる)くなったことを期待して珈琲を口に運んだが、まだ熱かった。涙目になってしまったのを葵に気付かれたくなくて、そっとカップを戻しながら堪える。

 ふと、葵の背中を見て、こんなに小さかったろうか、と思った。そして一つ遅れて思い出す。

 母も、同じだった。

 ごく稀にEightへ行き、母に久方ぶりに会う度、何だかわからない違和感を覚えていた。店の内装なんて変わらないし、母はいつも似たようなオレンジ基調の派手な服を着ていて、挨拶も、会話にならない会話の内容もほぼ同じ。何が違うというわけでもない。何だろう、何だろう、と考えながら、ずっとわからないまま放置していたそれが、母が見る度小さくなっていたからだと漸く気付いた。

 葵も、同じだ。葵は元々決して小さくはなかった。一般的な女性の平均からしたら背は大きいほうだし、鍛えてもいるから筋肉量も体重もそれなりにあって、小さいという印象を抱いたことなんてなかった。

「ん、どした?」視線を感じたのか、葵が一瞬だけ首を捻る。「ああ、これはさ、いつも英斗がラーメン作ってくれるから、たまには違うのって思って今日は——」

 抱き締めてみたらあまりに細くて驚いた。訳のわからない葵は腕の中で戸惑っている。「……どうしたの?」

 ——嫌だなァ……。

 葵は自分より先に死ぬ——決して、わかっていなかったわけではない、つもりだった。心のどこかで願っていたんだ。そんなのはただの迷信で、偶然が重なっただけの奇跡みたいなもので、彼女は、そうでなかったら良いと。

 でも実際に、母は既に死んでいる。

 母の死に目には立ち会っていないが、穏やかだったと聞いている。おそらくそれは真実だろう。寝ているような顔立ちだった。

 良いのだ。いくらでも寝ていて良い。それこそ布団なんかいくらでも譲るから気持ち良さそうに寝ていてもらって構わない。ただ、いつか、起きてくれるのなら。

「英斗、大丈夫? どした?」

 葵が右手で背中を叩いたり摩ったりしている。葵が死んだ時、自分は一体どんな顔をしていれば良いのだろう?

「……ごめん。痛かった?」

「全然。何か嫌なことあったの? クソジジイに虐められた? 沈めてきてあげるよ?」小さくなっても口が悪いところは直らない。

 嫌なことはないが、強いて言うなら自分が嫌だ。「……困ってるの」

「なんで?」

「葵に何してあげたら良いのかわからなくて」

「え、私?」

「葵がしてほしいことは、何だってしたいけど、葵が嫌がることは絶対したくないし……ごめん、そういうの、全然わからないんだ」

「知ってる。あんたほんとそういうの下手だもん」

「ごめん」

「馬鹿だねェ」葵はそう言って、頭を撫でてくる。「駄目だよ、あんまり難しいこと考えちゃ。あんただってもういい年なんだから、禿げちゃうよ?」

 せっかく可愛いのに、と今度は自分でぐしゃぐしゃにしたばかりの髪を手で()いてくれる。

「真理子は、普通に生きてりゃ良いって言うけど、何だよそれ」

「アハハ、真理子ちゃんらしいね」笑いながらも、葵は何度も頷いて納得している。「でも、合ってるよ。してほしいことがあったらさ、ちゃんと言うから、他は英斗のしたいようにしたら良いんだよ。私はそれが良いな」

 ——したいように、って……。

 それじゃあ駄目なんだよ。だって、そんなことをしたら、絶対に良くないことが起こる。今までずっとそうだった。

 嫌なのだ。これ以上、葵が傷つくのは。

「ねェ、買ってきてくれたケーキ食べる? 珈琲冷めちゃうし……まァあんたは猫舌だから(ぬる)くて良いのか」

「……食べる、けど、やっぱ先にご飯食べたい」

「え?」

「それ、もう食べて良いの? お昼食べてなくて」食堂でサバの味噌煮を前にぼうっとしていたら真理子に食べられたなんて、とても言えない。

「嘘でしょ? 馬鹿タレ、昼休み何してたんだよ。ちょっと待ってて」

 手元の何かは夕飯用に作っていたらしく、随分と気の早い支度だと思ったが、料理をするのにどれくらい時間がかかるのかわからなかったから、と葵は苦笑いを浮かべた。

 だが、訊くと葵だって昼食を済ませていないと答えた。一緒に外に出ようかと提案してみたが、やはり葵はそれを渋る様子が見受けられた。

 葵は違うものを作ると言って、野菜室からピーマンの袋を引っ張り出し、一つ刻めという指示を出してきた。何をどうするつもりなのかわからないが、ひとまず大人しく従うことにして包丁を握ったら、「これも」と玉ねぎまで出された。

 淹れたばかりの珈琲は間違いなく冷めるが、それでも良いと思った。玉ねぎを刻んでいるうちは涙目になっていても言い訳が簡単だし、隣から心配そうに覗き込んでいる葵が「上手だね」と褒めてくれるから。




 年の瀬が迫る頃、ヒーローの面々はモンスター討伐以外の任務に追われるようになった。

 元々師走になると世間が忙しなくなるせいか、街の困り事の依頼は立て込む傾向にあった。所謂、繁忙期というやつである。ただ、シールドが壊れてヒーローたちがモンスターの相手をするようになってからは徐々に困り事への対応はしない方向へとシフトし、最近ではモノクロの二人で賄える程度の件数しか受け付けない体制が整いつつあった。

 ところが、十二月に入った頃から、あちらこちらで不可思議な現象が見られるようになったのである。

 それは野生動物が凶暴化し、人を襲うというもの。

 野生動物というのはすなわち、野良の犬や猫、鳩や雀、カラスなどの街中でもよく見る生き物のことである。それらが突然、まるで何かのスイッチが入ったかのように凶暴になり、付近にいる人を手当たり次第に襲い、しばらくすると何事もなかったかのように大人しくなる。

 そうなるタイミングや襲われる対象など、すべてにおいて決まった法則がなく、無差別といって良い。はじめのうちは繁殖期か何かの影響とも考えられていたが、季節的にも可能性は低いのではというのが有識者の見解で、現在までのところ原因がまったくわからないまま、保健所が対応に追われている。死人は出ていないが、襲われたほうは堪ったものではない。

「外に出るなら、気を付けて」

 少しずつ一人で外出をするようになった葵に、英斗は事象を報告しながら注意を促した。以前に比べると会社へも行くようになり、このところリハビリと称して散歩にも出るようになったのは良い傾向だが、治安が悪い。

「ありがと」インスタントラーメンを啜りながら頷く。葵にせがまれ、英斗が作ってやったものだ。「無理しないでね」

「うん」

「おかわりください」

 食欲についても少しずつ戻ってきた葵は、空になった丼ぶりをこちらに押し出してそう言った。「今日はいけそう」

「良いよ。どれにする?」塩にするか、味噌にするか、悩みに悩んで塩ラーメンを取った。「三袋は、まだちょっと無理だな」

「そんなことで無理しないでよ」小鍋に水を入れて火にかける。この鍋も数ヶ月前まで捨てられる寸前だったはずが、すっかり最前線で活躍するようになってしまった。「残ったら食べるから、心配しないで。今度は何を載せるの?」

「うーん……どうしよっかなァ?」

 葵は冷蔵庫に頭を突っ込んで悩んでいる。先ほどの一杯目を豪華に作ってしまったので、あまり目ぼしいものは残っていないと思う。

「英斗も、気を付けてね」

 鍋の底から沸々と空気玉が上がってくるのを眺めながらじいっと待っていると、不意にそう案ずる声が聞こえた。「私は、助けに行けない」

 変わってしまったその言葉の意味を噛み締める。「……うん」

「英斗のラーメンが食べられなくなるのは、辛い」

「そこかよ」

 やがて冷蔵庫を閉めて卵とチーズを持ってきた彼女のセンスは、自分にとってはちょっと想像の斜め上すぎてついていくのが大変なのだが、まるで夢を見ているかのようなこの瞬間が愛おしくて、すべてを食べてしまいたくなる。自分のような人間がこんなことをしていて良いはずがない、いつかきっと、痛い目に遭うとわかっているのに、この心地良いぬるま湯に甘えているうち、ただひたすらに日々は流れていった。

 しかし、事態は徐々に悪化していった。今度は人間がおかしくなり始めたのである。

 ある日突然人が変わったように暴力的になったり、赤子のように何もできなくなったり、会話ができなくなったり、症状は個々で異なるもののやがて皆行方不明になるという同じ結末がついてくる。

 人が行方不明になると、当然動くのは警察である。姿を消す前の奇行を鑑みて、当初は新しい麻薬か、奇病のせいではないかという説が有力とされ、その路線で捜査が進められていた。しかし、おかしくなった人々を調べてみても何の薬物検査にも引っ掛からず、細菌やウイルスの類も検出されない。時間が経過しても症状が改善することなく行方不明となってしまうことから、それらの説は早々に否定されることとなった。

 行方不明者が誰一人として発見されないことも謎をさらに深くしていった。何日経っても、遺体の一つも出てこない。つい昨日まで存在していた一人の人間が、何の痕跡もなく綺麗さっぱり消えてしまうなんてことが、果たしてあり得るだろうか? それも、一人や二人ではなく、老若男女問わず、である。

 あまりにも不可思議な事件に、いつしか、どこかの誰かがこんなことを言い出した。


『未だ討伐されない完全新種モンスターの影響だ』


 もちろん根拠は何もない。会社も研究機関もそんな発表はしておらず、むしろ否定している。しかしそんな根も葉もないと思われる噂話が漂うようになったため、街中を警邏しているヒーローへの視線は刺々しく、ヤジを飛ばされることもしばしば。

 ヒーローは何でも知っている魔法使いでもスーパーマンでもない。だが、わからないということへの耐久性が皆無の世間にとっては、唯一の拠り所であり、当たり所なのだ。

 余裕がない。だから、誰かが悪いことにしなければ、気が済まない。

 人不足も相まって、これまで巡回は単独で行なっていたが、ここ最近は二人で出るようになった。こうなってしまうと、人間もモンスターも結局のところ同じなのである。

「……悲しすぎる」

 マリーは丸い背中をさらに丸めてとぼとぼと歩きながら、ぽつんとそう零した。「去年叩かれてた時のこと思い出しちゃった」

 シャイニーが少し先で振り返り、追いついて来るのを待つ。「アンタ気にしてないって言ってなかった?」

「気にしてなかったわよ、気にしてたらやってらんないもん! けどさ、けどさ、いッくらあたしが丈夫だからってやっぱりダメージはあんのよ!」

 それはそうだろう。

 少し歩いては立ち止まって待ち、歩いては待ち、を繰り返す。早く本部に戻りたいのに、悲しみの只中にいるマリーは下校途中の小学生らにも追い抜かれる速度だ。

「あ、シャイニーとマリーだ」

 さらに先のほうでクソガキが指を差してくる。

「ホントだ、サボってる」

「いっけないんだあ、ヒーローのくせに」

 最近のガキは本当に躾がなっていない。が、ここで下手に言い返すとまた面倒臭いことになりかねない。ここは大人しく穏便に——

「うっさいわねェ! あたしだって悲しいことあんのよ、こんなに頑張ってんのに! あんたらみたいにサッカーしてりゃ良いってもんじゃないんだからね⁉︎」

 ——ああ……。

「うわ、ババアがキョウボウカした!」

「ガスのせいだ! こえぇー!」

「おれたちも消されちまう! 早くにげよう!」

 小学生らは散り散りになって逃げていってしまった。周りで見ている大人はいなかったが、あとでクレームにならないことを願う。

「ちょっと、アンタね……」

「何よ、なんか文句ある?」反省の色はまったくないが、自分が言いたかったことを代弁してもらったので、今回は勘弁してやろう。

 子どもは単純で、残酷だ。聞くところによると、先ほどのように何でもかんでもあのガスのせいにして他人を揶揄ったり、酷い場合だと虐めに発展しているケースも見受けられるという。教師が叱っても「先生にガスが感染(うつ)ってキョウボウになった」と大騒ぎになり、親は親でガスの影響があるから学校へは行かせないとか、こんなに危ないのに通学させるなんておかしいなどと学校に文句を言ってくる。クレーム対応に追われて教育現場は疲弊しているし、収拾がつかずに学級崩壊しているところもあるらしい。

 早く、何とかしなくては——そうは思うが、一体何をどうすれば良いのか、どこからどう手を付ければ良いのか、何もわからない。それが、もどかしい。

「ひなたのところは大丈夫なの?」

「一応、今のところはね」と頷きつつも首を傾げている。「あたしがこうだから、何か言ってくる子もいるにはいるみたいなんだけど、本人は流してる」

「それが心配よ。いくら丈夫でも、ダメージはあるんでしょ?」

「そうなのよね……」マリーは溜め息をついて天を仰ぐ。「本人には、嫌だったら無理に学校行かなくて良いって言ってあるんだけど、気にしてないみたい。「あたしにはママもチーフもいるから全然平気なの」って言って」

 非常にありがたい言葉ではあるが、責任重大である。「最近顔出してなかったからなァ……」

「良いのよ、それは。あ、そうだ! あのね、——」そこで何かを思い出したのか、声のトーンが一段上がった。「忘れてた! ひなたがね、クリスマス会をしたいって言ってるのよ。あんたと葵ちゃんに来てほしいんだって」

 クリスマス会とは一体何だ?

 不思議そうな顔をしていると、マリーが説明してくれた。要するに、十二月二十五日に鈴木家へ行って食事をしたり、ゲームをしたり、最後にケーキを食べてプレゼントを交換する『楽しいイベント』を開催したいということらしい。

「二十四じゃさすがにアレだからさ、二十五日」

「何、『アレ』って?」

「あんたねェ、——」マリーは呆れたように溜め息をつきながら腰に手を当てる。「二十四日は葵ちゃんとデートでしょう!」

「そうなの?」

「そうなの。馬鹿なの? 常識よ、そんなの」

「常識……」自分の記憶が正しければクリスマスというのは二十五日のはずなのだが、なぜ前日(イブ)なのか。そして自分は葵とデートをする約束なんてしていない。

 それが世間の常識……?

「あんたは良いとしてさ、葵ちゃん、来られるかしら……?」

 そしてなぜ自分は良いとされているのか、まったくもって疑問だらけなのであるが、真面目な話、葵には確認が必要だ。本人に伝えればきっと行くと言うだろうけれども。

「訊いておくよ。早めに返事をするから」

「今訊いて来てよ」

「へ?」

 マリーはあさっての方向を指差している。気付くとその人差し指の先には自宅マンションが建っていた。

「……」

「あたし先戻ってるから。じゃ」

 答えも待たず、マリーは一人でさっさと駆けて行ってしまった。

 本当に勝手な奴。公私混同も良いところだ。そもそも今、葵が家にいるかどうかもわからないのに——そう思うのに反して、体は既に自宅のほうに向かっている。この姿で家に帰るのは何とも言えない気分だが、シャイニーなら軽く二段跳びでベランダまで辿り着ける。

 近くまで行って、葵がベランダに立っていることに気付いた。

「あお——」今日は仕事に行かなかったのかと思ったが、そうではないらしい。ベランダの手摺りに腕をつき、突っ伏すように凭れ掛かっている彼女は黒衣の時に纏う黒い服を着ている。

 いるはずのない人間がいきなりベランダの外から現れたものだからひどく驚かせてしまったようで、瞬間飛び起きた。が、ギョッとしてしまったのはこちらも同じだった。

「……ああ、なんだ、どうしたの?」こちらを向いた葵の顔は蒼白で、一目で正常ではないとわかる。

「どうしたのじゃないよ! 顔真っ青だよ、具合悪いの?」

「うーん……大丈夫」いつもどおりの口調を保とうとはしているが、真っ直ぐに立っているのが辛いのかすぐに手摺りに凭れ掛かってぐったりしまう。「あんたが、その格好で帰ってくるの、なんか新鮮」

「何言ってんの。中入ろう、歩ける?」

「待って、待ってね……」手を貸そうとすると、葵はそれを手で制した。息をする度に体が膨らむ。「うん……ああ、やっぱ、駄目だ、気持ち悪い」

「そうだと思ったよ」

 フリーズする前の症状に少し似ている。どれくらいの時間ベランダに出ていたのかわからないが、制止を振り払って抱き上げた葵の体は冷たくなっていた。

「今日仕事行ったんだね」

「うん、大したことじゃなかったんだけど……ちょっとやんちゃしすぎたな」苦笑いを浮かべる本人の気持ちを考えると怒りきれない。

 病院へ行くことを提案してみたが、大丈夫だと断られてしまったため、ベッドまで運ぶと自分で布団を被って丸まってしまった。ここ最近すっかり葵に取られてしまった元・英斗の布団——何が良いのか、葵はそれをたいそう気に入っているのだ。

「どうしたの、あんた、仕事中でしょ?」布団の中から声がする。

「通ったから、寄っただけだよ。マリーが、葵にクリスマスパーティーに来られるか訊いて来てって言うから」

「クリスマスパーティー?」

「うん。ひなたが、クリスマスパーティーをするから、来てほしいって言ってるんだって。葵にも。もし余裕があったら、ちょっと考えておいてほしい。無理はしないで」

「クリスマスって……ああ、そっか、そうだよね……」葵は布団から少し顔を出し、何か独り言ちている。やはり顔色は悪いが、先ほどよりはだいぶマシになったと思う。「うん……大丈夫。行くって言っといて」

「良いの?」

「うん。ケーキ食べたいし、真理子ちゃん家のカレー、食べてみたいんだよね」

「無理しなくて良いよ?」

「大丈夫。そう言っておいて」

 葵は体調が悪そうな顔をしていながら、既にひなたへのプレゼントを何にしようかと楽しそうに考えを巡らせていた。




 鈴木家でのクリスマスパーティーの三日前、葵は例年の如く、英斗に誕生日プレゼントとしてパジャマの上半分をくれた。そして二十四日の夜、今度はクリスマスプレゼントとして下半分をくれた。

 真理子の言葉を借りれば常識であるはずの二十四日のデートはできなかった。幸いモンスターは出現しなかったが、行方不明者の捜索やら何やらに追われて、帰って来ることができたのが既に夜で、閉店間際の洋菓子店で売れ残りの小さなケーキを一つ買うだけで精一杯だった。

「毎日一緒にいるのに、今さらデートもクソもないでしょ」

 葵は笑いながら買ってきたケーキの箱を嬉しそうに開け、目を輝かせていた。

「うん、でも……ごめん、なんか……」プレゼントだって何も用意していない。これまでパジャマのお礼として何かをご馳走するというのが通例で、たいていラーメンを所望されるから、葵が指定したラーメン屋へ行って好きなものを満足するまで堪能してもらうことにしていた。だが、今年はそれすらもできない。

 前もって、欲しいものを訊いてみたりもしたが、葵からは何もいらないという回答しか得られなかった。だから自分で考えるしかなかったのだが、アクセサリーの類を渡すのは何か違うと思った。あの簪はたしかにとても喜んでくれたが、あれは特別だ。葵がじゃらじゃらとネックレスやイヤリングをぶら下げているイメージはどうしてもできない。かといってブランド物の財布も、鞄も、服だって葵は欲しがらない。元々そういったことは得意でないのに——得意でないことを知っているはずなのに、困らせないでほしい。

「青臭い学生じゃないんだからさ、良いんだって。ほら、一緒に食べようよ」

 申し訳なさすぎて、勝手に頭が垂れ下がってきてしまう。それを見ていた葵はよほど可笑しかったのだろう、珈琲を淹れて、フォークを差し出し、最初の一口を譲ってくれた。

「美味しい?」

 ふと、目線を上げる。いつぶりだろう? 彼女の、キラキラと光る三日月のような目を見たのは。

「……うん」久方ぶりすぎて、耐性をなくしていた。こんなに恥ずかしいものだっだっけ?

 残りのケーキを譲ったら、葵は嬉しそうに生クリームにフォークを突き立てた。その姿を見ているのが、自分は本当に好きなのだなと感じる。

「ねェ、じゃあさ、私のお願い聞いてくれる?」

 やがて、葵はケーキの上に載っていた苺にフォークを突き刺しながら、ニンマリとこちらに視線を流した。

「うん、良いよ。何?」

「私のことを()()()()()()くれない?」

 一瞬、何を言っているのか理解できずに思考が停止してしまった。

 どういう意味だろう? そのまま捉えて良いのか、拡大解釈をすべきなのか、それとも何かの比喩なのか?

 首を傾げていると、葵はふと視線を下げてその訳を話し出した。「最近、本当に寝られないんだよ。私、おばあちゃんだからね。けど、眠いし、もうそろそろちゃんと寝たくて」

「起きてくれるよね?」

 思わず訊いてしまった。寝かしつけて、朝になって、葵が起きなかったらどうしようかという不安が、瞬時に頭を過った。それくらいに、葵は小さく見えたし、そんなお願い事をしてきたことなんて、今まで一度だってなかったから。

「起きるよ。朝になったら、起こして、名前を呼んで、おはようって言って」

 なぜそんなことを頼んでくるのかわからないが、葵が自分を揶揄っているのでもなく、ただ純粋にそうしてほしいと思っているのだろうことは何となく察した。

「わかった」

 寝かしつけると言ったって、一体自分は何をすれば良いのか、とそれからずっと考えていたが、葵にもらったばかりのパジャマを着て、隣で抱え込んでたわいもない話をしていたらあっという間に寝てしまった。眠いと言っていたのは本当だったのだろう。本当に気持ち良さそうに寝息を立てるから、きっと間違ったことはしていないはずだ。

 葵は終始よく寝ていたが、逆に自分はほとんど眠れなかった。目を閉じて、夢に落ちそうになっては、葵が消えていないか、息をしているか、冷たくなっていないかを確認した。こんなにも夜を越すのが怖いと思ったことはないかもしれない。ハッと目を覚まし、葵の寝顔を覗き込んではホッとする——そんなことを何度も繰り返した。

 そう遠くない未来に、神に差し出さなくてはならないのかと思うと、この上なく不快な気分になる。機会があるなら先に神を手にかけても良いくらいだ。英斗がそんなことを考えているなんて知ったら、葵は何と言うのだろう?

 夜が明け、日が昇ってカーテンの向こうが明るくなってきても、葵は寝息を立てたまま起きる気配がない。寝られないと言っていたのに、結局英斗の意識があるうちには、彼女は一度も目を覚まさなかった。

 起こしてと言われていたが起こすのが忍びなく、布団の中でどうしたものかと考えあぐねていると、勝手に起きてしまった。

「おはよう。葵」

 言われたとおり、きちんと名前を呼んで朝の挨拶をすると、葵はとても嬉しそうに、垂れた目を三日月の形にして笑った。

「もっと寝ていて良いんだよ?」

「馬鹿、今日はアレじゃん、真理子ちゃん家に行く日でしょ。あんた支度に時間掛かる人なんだから、早く起きて」

 追い払われてしまった。たしかに言うとおりではあるのだが。

 可愛くして行かなければ駄目だと言われてしまったので、シャワーを浴びて、いつもより念入りに髪をセットする。服装は葵の指定。化粧をして、チーフの顔を作り——だが、いつまで経っても葵は起きてこない。

 心配になって奥の部屋を覗くと、葵はまだ布団に包まって横になっていた。

「どうした、具合悪い?」

「うーん……」寝ているような声で唸り、しばらく黙り込んでしまった。

「……やっぱやめておこう? ひなたもわかってくれると思うし」

 そう提案してみると、やはりしばらく黙りした後、布団から顔を出した。起きたばかりの時より顔色が悪い。

「あんたは行ってきて?」

「え? でも、——」

「あんたまで行かなかったら、ひなたががっかりするもの」そう言って、葵はふらふらと立ち上がると、部屋の隅に置いてあった紙袋を一つ手に取った。「代わりに、これ、渡しておいてくれない?」

 中を覗くと、可愛らしい包装紙とリボンで飾られたプレゼントが入っていた。「一人で平気?」

「うん、大丈夫」頷きながら、葵はゆっくりと右手をこちらに伸ばし、頭を撫で、髪を整えてくれる。「……可愛いね。英斗」

「ありがとう」

「ひなたと、真理子ちゃんに、よろしく伝えて」そう微笑む彼女を家に残し、英斗は鈴木家に向かうことにした。

「いってらっしゃい」

 葵はドアのところで見送ってくれた。外に出て、少し行ったところで振り返り、見上げると、ベランダに葵が立っていて手を振ってくれた。体調が優れないのだから早く部屋に入って休んでいてほしいのに、ニコニコといつまでも見送ってくれた。


 葵が来られなくなったことをひなたに伝えると、やはりとても残念がっていたが、チーフが来たことは喜んでくれた。

「大丈夫なの?」真理子はこっそりと心配して、ひなたの目がないところで様子を訊いてきた。

「うん、本人はそう言うんだけど……あんまり遅くならないうちに帰るわね」

「そうして? 気ぃ遣わなくて良いから」

「ごめん」

 いつものように鈴木家のカレーを食べ、ケーキを食べ、ビンゴゲームやカードゲームをして遊んで、最後にひなたにクリスマスプレゼントを渡した。ひなたは自分が描いた絵をくれて、葵の分も預かった。何色もの色鉛筆やマーカーを使って描かれた超大作である。

 あげたプレゼントを開けても良いかと訊かれ、頷くと、ひなたは嬉しそうに開封の儀を執り行った。チーフがあげたのはひなたの柔らかな髪を結ぶ青色のリボンだったから、早速それを付けるヘアスタイルにしてほしいというオーダーを受けた。

 髪を結びながら、ひなたは葵が渡してくれと言ったプレゼントを袋から出した。何のプレゼントを選んだのかは訊かなかったから、その包装紙の中身が何なのかはチーフも知らない。

 テープが綺麗に剥がれるように慎重になっている間に、リボンヘアは完成した。

「わあー、おにんぎょうだ!」

 ひなたは中から出てきたものを見て歓声を上げた。ヒーローたちを模した、顔ばかりが大きい人形だった。マリーと、シャイニー、そしてスカイ・ハーク——どこかで、見覚えがあった。

 ——「見てェ、これ可愛くなァい?」

 それは半年ほど前、あの地域交流祭の時、そのぬいぐるみたちを嬉しそうに見せる葵の姿だ。

「あ、カードもある! ……『メリークリスマス あおいのかわりに かわいがってくれたら うれしいな』」ひなたが読んだメッセージカードには、その一言が添えられていた。

 ぬいぐるみに喜びつつ、完成したヘアスタイルを見るべくひなたは洗面所に走っていってしまった。

 包み紙の上でニコニコと笑う三体を見ながら、チーフの心臓は跳ね上がっていた。嫌な予感がする。

 同じものを真理子も感じたのか、強張った顔をこちらに向けていた。勘の良い真理子がその顔をしているということは、おそらく自分の思い違いではない。

「あたま、かわいい! チーフ、ありがとう!」

 洗面所から踊るように戻ってきたひなたに、咄嗟に笑顔を作る。「良かったわ。ねェごめん、ひなた。アタシ、ちょっと帰らなきゃいけない用事ができちゃった」

「え、おしごと?」

「うん、まァ……」上手く言えずに口籠っていると、真理子が早く行けと援護して鞄を持たせ、玄関まで押し出してくれた。楽しかった、ありがとう——そんな趣旨のことを口にしたつもりだったが、もはや何と言ったのかわからない。

 まさか、まさか、そんなはず——。

 鈴木家を飛び出し、走っていく道すがら、頭の中が真っ白だった。どんどん温度が下がって、冷たくなって、何も考えられなくなっていく。

 外から見上げた自宅には、明かりは灯っていなかった。

 いや、寝ているだけだ。きっとそうに決まっている——必死にそう言い聞かせながらドアに飛びつくと、鍵は閉まっていた。震える手で何とか鍵を開け、中に入る。

 真っ暗だ。

「……葵?」

 玄関を上がり、奥の部屋を覗く。誰もいない。いつもぐしゃぐしゃに丸められている布団は、綺麗に畳んであった。

 トイレも、風呂場も見た。隠れているのではないかと、クローゼットの中まで確認した。だが、誰もいない。改めて見ると、玄関に葵の靴はなかった。

 いくら電話をしても、繋がらない。

 この日を境に、鷹野葵は、誰の前からも完全に姿を消してしまった。


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