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第四話 背中(1)誇る日

 瞬きの前は、左。

 それなのにもう右にいて、背後に回られている。

 振り返ってもそこにはもういなくて、上から、落ちてくる。

 踵で思い切り床を蹴る。間一髪だ。

「遅い‼︎」

 3号はよくそう言う。現場でも、この訓練場でも。

 あの落下高で足音一つ立てない身のこなしは、さすがと言わざるを得ない。もはや悔しいとさえも思えない、圧倒的な差。

 ヒーローの力は個々の基礎能力に依存する。元々足が速ければ動きのスピードが抜きん出るだろうし、力が強ければ他より重量物を扱える。それがヒーローの個性となり、無二の武器となる。

 しかし、自分はどうだろう?

 母は足が異様に速かったと聞いている。テレビでしかその勇姿を拝んだことはないが、実際の母を知る人からは「ドジだった」の次に足が速いことが出てくる。

 英斗はそれを受け継がなかった。昔から駆けっこは人並みだし、こうして3号に訓練してもらっていてもとても追いつけるようになるとは思えない。母から受け継いだものと言えば、皆がそっくりだと評するこの容姿と、ガバガバの背面だけ。

 シャイニーは背中ががら空き、というのはマリーの言葉だ。初めてそれを聞いた3号は腹を抱えて笑っていた。その特徴が母と、まったく同じらしい。母ほど抜けているとは思っていないが、マリーですら気付くほどの隙が常に背後にあるなんて、自分もまた、いつ前線で死んでもおかしくはないのだろう。

「追いつけないなら先を読んで回れ。キミはそれが得意なはずだ」と、3号は言うが、本当にそうなのか、自覚はないし自信もない。それに先を読めるようになるにはとにかく経験が欲しい。同じ現場は二度とない。だからこそ、できるだけ多くの引き出しが欲しい。

 今の自分には、圧倒的に、それが足りない。

 ドンッ、と胴体に衝撃が来て、我に返る。

 下を向くと、腰に空色の袖が巻き付いていて、大きなものが背中にくっついている。

「ハイ。今日も私の勝ちィ」

 右側の二の腕の後ろからニンマリと、三日月の目が見上げてくる。

 我ながら呆れてしまった。あまりにひどすぎる。訓練場で使用する模擬の銃さえ使わずに王手を取られるなんて、お話にならない。

 これが実戦でないことが幸いだ。実戦なら確実に殺されている。いくら3号が背後は守ってやると言ってくれても限界はあるし、彼女に負担をかけるのは本意ではない。今日みたいに集中を欠いている時は、戦闘なんてしたら駄目だ。

「ンン、でもさ、——」3号は後ろに貼りついたまま、右手でスカートの裾をひらひらと捲ろうとしている。「少しずつだけどさ、反応は早くなってるし、意識が拡がってる感じはするよね。自分でやっててどう?」

「どうって……」平然と痴漢行為を働こうとするその手を払いながらぐるりと頭の中で言葉を探し、出てきたのは溜め息だけだった。とにかくまだまだ、全然駄目だということくらいしかわからない。

 トントン、と3号が肩を叩く。「うん、良い良い。だいぶ勘も戻ってきたじゃん。そう気落ちしなさんな。大丈夫、ちゃんと前進してるよ。相手が私だから勝てないだけで」

 何とも腹の立つ言い回しだが、反論はできない。前線に出るようになってから、3号にはこうして何度も模擬戦闘訓練に付き合ってもらっているが、たいていの場合、訓練用の銃から発射される液体カラー塗料塗れにされて終了、まだ一度だって勝てたことはない。それも3号が最も得意としているライフルではなく、自分と同じ中短距離用に持ち替えて相手をしてくれているのに、だ。

「ね、今日はもうやめよ?」

「え……時間、まだあるよ?」

「いいよ、もう。私、お腹空いちゃったんだよね」3号が狙っているのは勝負に勝った時に奢ってもらえる約束になっている夕食(ラーメン)だ。「まだやりたい?」

 ねェねェ、と腹筋の辺りを(つつ)いて催促。とうとう(くすぐ)ったさに耐えられず逃げ出した。身を翻し、そのにやけた顔を正面から拝んで、思う。

 ——ああ、これは完全に見透かしている。

 今日のシャイニーが特に、全然ダメダメだということも、もうこれ以上繰り返したとして得るものは何もないことも。

「……ううん」静かに息を吐き、頭を振る。「付き合ってくれてありがとう。ラーメンで良いの?」

 三日月の向こうでキラキラと、一等星が光る。




 後ほど会社の下で落ち合うことにして一旦分かれ、大急ぎで帰り支度をして行くとやはり葵は既に待っていて、ここでも「遅い」と文句を言われた。女は支度に時間がかかるとよく聞くが、それは葵の場合まったく当て嵌まらないといつも思う。

 今宵の食事処として葵が選んだのは会社近くのよく通うラーメン店だった。正直あまり腹が減っていないのだが、訓練であれだけ力を使ってきたのに何も食べないというのは非常に良くないし、食べないとまた心配されてしまう。葵と一緒なら食べる気になるやもと、淡い期待を寄せながら暖簾(のれん)(くぐ)る。

 この店に限ったことではないが、二人して特徴的すぎるこの姿で数回通うと、店主どころかアルバイトの店員にまで顔を覚えられてしまう。そういう店は行く度に歓迎してくれるのはありがたいのだが、ラーメン屋というのはとにかく皆声が大きすぎて、非常に恥ずかしいのが玉に(きず)である。葵は慣れているためまるで友人宅に食事に来たかのように挨拶を返して店の中を闊歩(かっぽ)しているが、チーフは未だにその雰囲気に圧倒されて、一人ではラーメン屋に行くことができない。

 二人ともこの店で注文するものはいつも同じで、何も言わずとも自動的にラーメンの丼ぶりは出てくるのだが、今日は店主のオヤジがおまけの餃子を一皿付けてくれた。

「いつも頑張ってるからねえ! サービス!」

「ありがとう! あとで替え玉するね!」

 右隣りでニコニコと礼を述べ、片手で器用に箸を割って嬉しそうにラーメンを食べ始める葵を眺めていると、なんだかお腹がいっぱいになってきてしまい、もらった餃子は全部食べて良いと譲った。

「え、なんで? 食べないの?」

「食欲ないの」

「こんな美味しいものを食べない? 馬鹿なの? 駄目、一個は食べな。はい、私のタレ使って良いから。熱いからね?」

「……」

 葵の箸によって皿の上で一つだけ仲間外れにされてしまった餃子には申し訳ないが、猫舌の自分としてはコイツを食べるのは最後にしたいと思う。

 手を軽く合わせてから箸を割った。この店のラーメンにはねぎが入っていないのがチーフとしてはありがたくて気に入っている。食べられないわけではないが、ないならないほうが良い。

 胡麻を磨り潰している間に早くも葵は一回目の替え玉を注文しているが、今日は自分には無理だなと思った。

()()()()のせい?」

 少しずつ麺を啜っていたら、不意に横からそんな声が聞こえてきた。箸を止めて視線をやると、葵は受け取ったばかりの銀色の皿から麺を丼ぶりに移し替えていた。あのこと、の内容は葵にはまだ何も話していないはずなのに、毎度毎度、一体どこからその情報を入手しているのか不思議で仕方がない。

「……まァ、そんなとこ」手元を再開しながら返事をする。「でも一週間だし、研修って言うけど、要するにただの査察でしょう? 大袈裟に考えなくて良いのかも」

「あんた自身は考えちゃってるみたいだけどねェ?」

「……」

「訓練中も、腑抜けてたのはそのせいね」

 意地悪な奴。そこまでわかっているのなら鼻で笑ってないで助けてくれたって良いではないか。

 数日前、執務室に立ち寄った際、チーフの元に一通の通知文書が届いていた。出所は本部の上だが、大元は自衛隊とその関連省庁だった。それだけでチーフにとって良くない通知であることは確定なのであるが、中身を読まないわけにはいかない。嫌々目を通すと、そこには自衛隊員を研修生として受け入れるよう要請する主旨の文言が難解な単語の数々と共に並んでいた。

 モンスター討伐の際、前線に行って直接戦闘を行うのはヒーローだけであるが、武器の支給やその間の一般人の避難誘導などをはじめとする全面的なサポートは主に自衛隊から受けている。その彼らの中から特に優秀な隊員数名を研修候補生として受け入れて欲しいというのが、通知の内容であった。

 現状、本部所属のヒーローの数は臨時対応のチーフも含めて七名であるが、全員が一人前として討伐任務に当たることができる実力を持っているわけではなく、さらにこれまで同様『お助けアイドル』としての街の困り事対応も並行して行わなければならないため、人手が足りないというのが上層部の見解である。当然チーフもそれは感じているところではあるし、シールドが壊れて以降世の中が一八〇度変わってしまったのだからこの際何でも屋業なんてきっぱりとやめてしまえば良いのに、未だに平和ボケが治らず他人依存が甚だしい一般人からのクレームを恐れて、国も会社も舵を切れないらしく、その皺寄せを受けている状況である。

 だからと言って、今日の明日でヒーローを増やすのは無理がある。ヒーローになるにはそれなりの訓練が必要で、ましてやモンスターの討伐に行かせることができる人材の育成なんてたった数日でできるわけがない。それが、自衛隊員であれば、種類は違えど日頃からそれなりの訓練を受けていて体力もあり、武器の使用もお手のもの。ヒーローとして適応するのも早いのではないかという、現場を知らない老人どもによる何とも安直な発想の成れの果てが通知書という形になって手元にやってきたのである。

 通知書の二枚目以降には、何かの基準で優秀であると判を押された気の毒な隊員の個人情報が列挙されていた。その中から受け入れる数名を選ぶ権利がチーフにはある——というのは聞こえの良い話で、実際にはただ押し付けられたのである。

 やっとのことで自分の丼ぶりの中身が液体のみになる頃、漸く葵は言葉を発した。

「面倒臭いね、その話」

 しかし何の感情もない、至極簡潔な感想をさらりと述べたきり、葵の小さな口はラーメンを吸い込むばかりで、いくら待っても他は何も出てこない。やっとのことで出てきたのは厨房にいるオヤジへの替え玉の要求くらいだった。

「……え、それだけ?」

「他に何かある?」

「何かって……」たしかに何もないが、何かあるだろう、替え玉ではない何かが——と思うものの、餃子を摘みながらさらにご飯も欲しいと言い、まもなくカウンターの向こうからやってくるはずの替え玉を待つ葵を見ていたら文句を言う気が失せてしまった。「……、もう良いよ」

「その話、受けんの?」

 こちらが諦めた途端、話を戻してくるのもいかにも彼女らしい。

「……受けるしかないでしょ」あの文書は既に決定した事項を命令として伝えるためのものだ。この段階で断ることはできない。

「誰が見んのよ?」葵はまた店員から銀の皿を受け取る。いつの間にか替え玉用の銀の皿が彼女の丼ぶりの(わき)に積み重なっていて、スープはだいぶ少なくなってつけ麺のようになっていた。

 飲み干す予定のない自分の丼ぶりの中身が必要か訊ねてみると、彼女は喜んで頷いたので丼ぶりを交換してやった。そこへ嬉しそうにまた麺を投入しているその姿を横目に見ながら、彼女の質問への答えを探す。自分の中では既にほぼ決まりきっている答えだ。

「……1号?」

「だよね、私もそう思う。むしろあの子しか無理」自分から質問してきたくせに、即答だった。「そこまで決まってんなら何も悩むことなんてなくない?」

「……ないけど」

「あの子本当良い子よねェ。真面目だし、反応が早いから教えててこっちが楽しくなっちゃうわ。あれで何歳?」

「二十……七、八?」

「若ッかいなァ、娘でも良いくらいの年ね」葵は笑っているが、あまりリアルな話をしないでもらいたい。「その年であの出来じゃあ、将来楽しみねェ。表辞めても引っ張ってもらえそうじゃない?」

 葵がそんな風に他人のことを褒めるのは珍しい。が、それに値するほど1号が優秀であるのはチーフも大いに認めている。1号は何を任せてもきちんと期待した以上の働きをしてくれるから信用が置ける。

 1号がヒーローとしてデビューしたのはチーフが今の統括というポジションに昇格し、転勤していた地方支部から本部に戻ってきて間もない頃だったと記憶している。その頃からクソが付くほど真面目な気質で、若者にしては珍しいタイプだと感じた。コツコツと積み重ねる努力型、落ち込んで引き摺らないのも良い。その前の1号は熱血系の、まるで彼女とは正反対のタイプだったため、『1号』としてのイメージと違うなどといった理不尽なクレームが来やしないかと若干の懸念はあったが、杞憂に終わった。女性ではあるが、飾らず非常に中性的な見た目をしていることと、仕事に堅実で口数が多くないところが一般人にウケて、比較的年配の層と、「稀にふっと溢す微笑みが堪らなく好き」という特定の女性層からの安定した支持を獲得している。

「格好良いしねェ、あの子。貴重じゃない? ああいうのは大事にしないと駄目よォ」

「……そうね」

「昇格させてあげたら良いのに」

「推薦はしてる、いつもね。でも、上がOKしないの」

「なんで?」

「若すぎるから、駄目なんだって」

「くっだらな!」葵はばっさりと吐き捨てる。「そういうとこ本当クソだよな。私の時もそうだったんだよ、全ッ然変わってないねェ!」

 酒を飲んでいるわけでもないのに、自分が思っていることをこうも躊躇なく放出してくれると、なんだか気分が良い。

 ルールがあるわけではないが、やはり号数が『1』で、担当カラーが『赤』となると、どうしてもチームを牽引する者というイメージがつきやすい。それに反することなく、既にリーダー級以上の働きをしてくれている1号には、それ相応の評価をあげたいというのが個人的な感情ではある。が、たかが統括ではそれもまた難しい。本音を言えば、早く昇格して自分と交代してほしいくらいだ。

 きっと1号なら自分よりもずっと上手くやるだろう。あまりに真面目にやりすぎて、パンクしてしまわないかどうかが心配ではあるが。

「葵も()()()()統括なんだから、わかるでしょ?」

「わかるよわかる、すごいわかる。本当うざいよね、そういうの」うんうん、と葵は頭を振る。こう見えて、黒衣としての彼女は自分と同じ統括であり、それも最年少就任記録を持っている。「まァあんたのことだからさ、その辺のフォローはちゃんとしてるだろうし、心配してないけど」

「……どうだろうね?」

 ちゃんとしているかどうかは、正直自信がない。部門を統べるトップだからといってもこの立場は中途半端で、できないことが多すぎる。

「任せてみたら? 『モノクロ』のことなら良いよ、私やるから」

 本当に、本当に、意地悪な奴。わかっているんじゃないか、そこも。そして自分が一番そこに頭を抱え、踏み切れないでいることも。

 モノクロというのは、現在の本部所属のヒーローのうち4号・黒色、5号・白色を担当している二人のことを指す。互いに赤の他人だが年も雰囲気も双子のようにそっくりで、ヒーローとしてデビューしてから既に五年程度が経つ。が、この二人には些か問題があり、それが引っ掛かっているチーフは未だにこの二人のことだけは実戦に出していない。

「あの子たちは……何なのかな? 最近の若い子って、みんなああなの?」

「さァ?」今度は高菜を大量に丼ぶりに投入しながら、葵は首を傾げている。「でも、1号だって大して年変わらないでしょ? 育ちか、元々の性格の問題じゃない?」

「ええ……?」

 言われた仕事はやってくる。だから問題があると捉えることは本当は間違っているのかもしれない。だが、それだけしかできないというのは、実戦に出すには大きな弊害となる。

 マニュアルなんて何の役にも立たない前線では、その状況に応じて指示されていない行動をしなくてはならないことが多々ある。それは時に自身の命を守るためであり、一緒に行った仲間を救うためかもしれない。中には命を優先するために規則や命令を無視する必要が出てくる可能性も捨て切れないが、とにかく全員が生きて帰ってきてくれればあとはどうでも良いとさえチーフは思う。そういった最終局面での咄嗟の判断に使われる個々人の価値観が大きく異なるというのは、人としてかなり致命的な欠陥である。

「2号に二人分頼むのもちょっといただけないしねェ」

 これまでは1号と2号に一人ずつを交代で預け、街の困り事対応を専門にこなしてもらいながら、様子を見て偵察任務程度には出していた。だが、1号に研修生を預けるのであればその代わりが必要になる。二人一遍に預けるのは2号の負担が大きすぎるし、いろいろな意味で危険だというのは葵も感じてくれているようだ。

「あれはまだちょっと、バラバラにしておかないと危なすぎると思うの」

「でしょう? あんたも真理子ちゃんも無理だし、どう考えたって私しかいないもん」

 胸に刺さる。葵に負担をかけたくなくて、何でも良いから何かできるようになりたいと訓練を積み、数ヶ月前に初めてシャイニーに変身した時よりはマシに動けるようになったつもりではいるが、それでもまだ彼女にとっては半人前のままなのかと思うと気が滅入る。

「大丈夫、心配しないで? 私を誰だと思ってんのよ」

 わかっている。隣で人のスープまで使って四回分の替え玉を食べ尽くし、最後の餃子を口に放り込んで幸せそうな顔をしているのは現代最強のヒーローと謳われる3号、スカイ・ハークである。ヒーローですら誰も飛べないはずの空を片羽で飛び回り、余裕でモンスターを撃滅してくる彼女の右に出る者は、現在では他に存在しない。

 『すごい人』なのだ、彼女は。昔も、今も、変わらず。本当は自分なんかの隣で平然とラーメンを食べていて良い身分ではない。

 冷め切って表面の皮が固くなってしまった餃子を無理矢理に口の中に捩じ込んだ。葵が美味しいと言うのだからきっと本当なら美味しいのだろうに味なんか何もわからなくて、やはりコイツは葵に食べてもらったほうが幸せだったのではないかと、とても申し訳なくなった。

 ふと視線を右側に戻すと、半端に余った(ぬる)そうなスープを前に、彼女は箸を持ったまま真剣な顔つきで固まっていた。

「……どうしたの?」

「替え玉もう一個食べるか迷ってる」

 その回答に思わず吹き出してしまった。実に平和で良い。「アンタよく食べるわねェ」

「今日お昼ご飯食べ損ねたの! 食べてたら途中で呼ばれちゃったから!」

 チーフが笑っていると、葵はムキになって怒り出した。たしかに言うとおり、今日はモンスターの襲来はなかったが、本業の『裏方業務』のほうで何やらトラブルがあったらしく、責任者である葵は昼食を食べ始めてすぐ呼び出しが掛かってどこかへ行ってしまったのである。

「お腹空いてたのに! ちゃんと仕事してきたんだから褒めてよ!」

「ごめんごめん、わかってるって、ごめん、頑張ったね」

「何、その何の感情もない褒め言葉。知ってるんだからね? 私がお昼ご飯おあずけ食らってるってのに、あんたサバ定食べてたの知ってるんだからね!」

「ねェ怖いよ! なんでそんなこと知ってんの……」

「私を誰だと思ってんのよ‼︎」

「ごめん、好きなだけ食べなよ、お腹空いてるんでしょ?」そう彼女を宥めながら、中身の少なくなったグラスに水を注いでやる。基本的に、自分も彼女も酒は飲まない。

 結局、五回目の替え玉を頼んでスープまで綺麗に飲み干すのを眺めてから店を出た。葵はずっと膨れ面だったが、満腹になって満足したのか、今日も上機嫌な大声で見送ってくれたオヤジにはいつもどおりの笑顔を返していた。

 夜の大通りを歩く。嫌な季節になった。じっとりと蒸して息がしづらい。ラーメンなんて食べてしまったから余計に汗が引かない。

 ひらひらと、葵は前をどんどん歩いていってしまう。後ろから見ていると、怒っていた割に上機嫌な足取りである。ステップを踏んでいるかの如く、彼女は地上にいても非常に身が軽い。

 ひらり、ひらり、ふわり——。

 (ハーク)というより蝶のほうがイメージに合っていると思うのだが、そう感じるのは自分だけなのだろうか。

 もっと静かに、自由に飛び回っていてほしいのに、ヒーローと黒衣なんて途轍もなく重い二足の草鞋を履かせてしまっていることは、考える度に申し訳なくなる。本人は現場が好きだと嬉しそうにするが、早く一足でも脱がせてやりたいし、脱がせなければとも思う。だが、それができる状況ではないことも頭では理解しているし、その原因が自分にもあるとわかっているから、もどかしい。

 食べたら家に帰ろうと思っていたが、やっぱり会社に戻り、もう一度身を入れて訓練をしてこようかと考える。ただでさえ先日入院したせいで体力が落ちてしまったからその分を取り戻さなくてはならないし、何より、早く、あの背中の隣に並べるようになりたい。それが駄目ならせめて、手が届くくらいには近くまで行きたい。

「英斗!」

 顔を上げると、先のほうで葵が立ち止まりこちらを振り返っていた。ほんの少しだけ早足になって追いつくと、彼女がいつの間にか顰めっ面になっている。

「ねェ、もうちょっとさ、良い顔してくんない?」何がいけなかったのかと内心焦っていたら、そんなことを言い出した。「可愛い顔が台無し」

「え……こう?」

 言われるがまま、試しに口角を上げてみたら舌打ちをされた。「クソほど可愛いけどほんと駄目。全然ダメ」

 一般人相手だったらこの顔でたいていは大丈夫なのに、やはり目の肥えた人は満足してくれない。

「ごめん……」彼女のストレートなダメ出しに、気分と共に口角も落ちてしまったら、彼女はふっと相好を崩した。

「馬鹿ねェ……」彼女は緩やかに下から顔を覗き込んでくる。「あんたには無理って言ったのは、あんたにはマリーのフォローがあるでしょって意味。私がいなくても、あんたはもう前線に行けるわ」

「……」

 何かがどこかに詰まっていて、素直に頷けない。葵がせっかく自分のことを認めてくれているのに。ご機嫌取りのためにそう言っているのではないことくらいわかっているのに。

「マリーだけじゃない。2号だって連れて行かなきゃいけないんだよ? 先輩」

「やめてよ」

「どうして? この3号サマが直々に仕込んだ一番の愛弟子なのに? 自信持ちな。大丈夫だから。あんたはあんたが思ってるより、ずぅっと可愛いんだよ?」

 彼女の三日月のような目で見つめられると、どうしても恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。可愛いよ、と言われたら普通は嬉しいはずなのに、彼女に言われると何か違う。

 困って黙りしていると、葵は呆れたように長々と、いかにもという溜め息を吐いた。「男なら四枚目、女なら七枚目の子にしな。それ以外は駄目」

「……へ?」

「優秀かもしんないけど、見た目と、あと中身に難あり。二枚目は写真写り良いだけだし、六枚目の子なんてただのコネだよ? 優秀ですらない。苦労するからやめときな」

 唖然とした。あの通知文書に添付されていた研修候補生リストのことを言っているのだ。いつの間にそんなことまで調べをつけてくれていたとは恐れ入る。

 あんぐりしているチーフを見上げる葵は相も変わらず悪戯な笑みを浮かべている。「ねェ家帰るんでしょ? 暑くない? アイス食べよ?」

「はァ?」

「買ってってあげるから先帰ってて良いよ。何が良い?」

「ま、まだ食べるの?」

「甘いものは別腹でしょ」

「……」

 何の問題があるのか、と言わんばかりに平然と彼女は首を傾げているが、その華奢な体のどこに六杯分のラーメンと餃子、そして山盛りの白飯までもが収まっているのかもわからないのに、この上アイスクリームまで入るというのは一体どういう構造をしているのか不思議で仕方がない。昼食を食べ損ねたとかそういう次元の話ではない。

「何が良い? 奢ってあげるよ。バニラ? いちご? ねェ早くして、チョコミントにするよ?」

「えッ、待ってそれはヤダ、えっと……い、いちごで良いです」

「はいはい、わかった、珈琲淹れといてねェ」

 その他の言葉は一切待たず、葵は数軒先に見える煌々としたコンビニの看板目掛けて駆けていってしまった。食べ物のことになるとどうしてこうもせっかちになるのだろうか。どこかの誰かを思い出してしまう。

 呆れてものも言えないが、溜め息を吐く間もなくこちらは自宅に向かって駆け出す。急に忙しくなってしまった。葵より先に家に帰り着いて、鍵を開けて部屋を涼しくして、ちょっと片付けて、珈琲を淹れなくてはならない。

 忙しいのは好きだ。無駄なことも、良くないことも、嫌なことも、全部考えなくて済むから。そうしたらきっとアイスを持った葵がやって来て、考える隙間を与えてくれないだろうから。

 おそらく今日は黒衣の服装ではなかったから可能性は低いと思うが、葵はなぜか家という場所には玄関から入るものだという常識が欠けている。念のためにベランダの鍵を開けてあったか確認しないといけないなと、自宅までの坂道を上りながら思った。




「——……そういうわけなんだけど、お願いできるかしら?」

 その翌日、午後になって巡回から戻ってきた1号を呼び出したチーフは、無機質で無駄に大きな執務室の机に腰を引っ掛けて、一間ほど先に立っている赤茶色の短髪の彼女に書類を差し出した。久しぶりに腰掛けた執務室の椅子がなんだか非常に座り心地が悪く、この椅子で会話をする気にはなれなかったのである。

 背が低く、その愛くるしい顔つきも相まって少女のようにも少年のようにも見える彼女だが、相も変わらず不釣り合いなほど堅苦しくて、その聡明な眼差しは気恥ずかしくなるくらいにこちらを真っ直ぐに貫いてくる。もう少し肩の力を抜いて良いとチーフは思っているが、そういう気質なのだろう。『1号』を背負うのに、彼女ほど相応しい人はいない。

 揃えていた足を一歩踏み出し、書類を受け取る。そういう振付がなされているかのように上品で無駄のない所作が彼女の醸すオーラと相まって、騎士の如く凛々しい。その立ち姿が、真紅のクラシカルな装いによく似合う。

「承知しました」キュッと結ばれていた口が漸く短い言葉を発する。倦厭(けんえん)しているのか歓迎しているのかの判別もつかない。

 1号に渡した書類に書かれているのは、研修受入れ要請の通知文書と、二名分の個人情報である。

「ごめんね、1号。一週間だけだから、付き合ってもらえたら嬉しい」

「問題ありません」彼女は顔色一つ変えずに即答する。「むしろ、本当にジブンでよろしいのですか?」

「アナタくらいしか頼める人いないわ」

「光栄です」薄らと口元が緩む。「ジブンにとっても勉強になりますので、喜んでお受けします」

「ありがとう」1号ならばきっとそう言って引き受けてくれるだろうと予想はしていたが、無理はしないでほしいというのが本音だ。「その二人のうち、受入れは一人にしてもらおうと思ってる。アナタの好きなほうで良いわ」

 1号は受け取ったばかりの書類に視線を落とし、少しの間這わせた後、ゆっくりと捲る。「……正直、どちらでも構わないのですが、チーフの推薦はありますか?」

「ないわね。まァ、女性同士のほうが気兼ねなくて良いのかしら?」

「いえ、ジブン、そういうのは気にしないタチですので……でも、それでしたら、女性のほうでお願いします」

「本当に? どっちでも良いのよ?」

「結構です。ジブンは気にしませんが、あちらはそうとも限りませんので」

 たしかに言われてみれば彼女の言うのも一理ある。「わかった。そう伝えておくわ」

「よろしくお願いします」1号はやや頭を下げた。もはや騎士というよりロボットにも見えてくる。

 それが、何となく引っ掛かってしまう。本当は余裕がないとか、自信がないとか、本心が隠れていてよく見えない。当然、そんなものはこちらの思い過ごしで、本当に何も思っていないだけという可能性も十分にあるから難しい。それもこれもすべて自分の観察不足であって、彼女に非は何もない。

「連れている間は、前線には出なくて良いからね」

 自分はあくまで上司であって、どこまで突っ込んで良いのか実のところよくわからない。真理子の場合は特例だ。あんなの例外中の例外、最終手段である。なぜあんなことになったのか、今考えてもよくわからないのだから。

 でももし逆に自分が真理子だったなら、きっと1号に対しても何も気にせず、後先も考えず、どこまででも首を突っ込んでいってしまうのだろう。そういう図々しくて、ある意味で無神経なところが、羨ましいと思う時がある。

「お気遣いに感謝します。……しかし、——」ここへ来て、軽く頭を下げた1号は初めて眉間に皺を寄せてチーフを見た。「その間、『モノクロ』のほうはよろしいのですか? チーフ」

 こういうところが、チーフが彼女を信用できると思っている理由の一つだ。自分よりひと回りも若いはずが、厄介事を引き受けてくれるどころか気まで回してもらう羽目になるとは。

「ああそう、それね……、——」思わず鼻息が漏れる。左手を額に当てて回答を考えていると、含んだ笑いと溜め息が同時に出てきた。悪足掻きは良くない。「正直どうしようかと思っていたのだけれど、大丈夫、3号が手を貸してくれるって言うから、アナタは心配しなくて良いわ」

「そうですか……。ありがとうございます。鷹野統括にも、よろしくお伝えください」

「もちろんよ。彼女、アナタのこととても優秀だって褒めていたわよ」

「いえ、そんな……」1号は慌てて頭を横に振る。「自分には勿体無いお言葉です」

「そうかしら? アタシもそう思っているから間違ってはないわよ?」

「ありがとうございます。そう言っていただけるのは、とても、嬉しいのですが……」話しながら、彼女の視線は手元の書類に落ちる。「ジブンはまだまだ、お二人のようには、なれませんので……」

 徐々に、声が小さくなる。凛々しさを纏っていたその姿が寂しげに見えた。気のせいかと思うほどの一瞬のことだ。

「……ねェ、参考までに、一つ訊いても良いかしら?」

 1号はふと顔を上げる。「はい。何でしょうか?」

()()()()()、どう思う? アナタから見て」

 こんな質問を投げるつもりはなかったが、訊いてみたくなったのだ。確かめたくなった。それが本当に気のせいだったのかどうかを。

「え?」不意をついたのか、彼女はキョトンとしてしまった。「……どう、と、仰いますと?」

 誰のことか、という質問が飛ばされたということは、無意識に何か心当たりと思うことがあるという意味だと悟った。

「報告は受けていたけれど、ずっと預けっぱなしになってしまっていたから、一緒にいて何か感じたことがあったら教えてほしいと思って。これからのこともあるし、構わないから、率直な意見を聞かせてほしい」

「……」

 少し意地悪だったかもしれない。1号はしばらく黙りとしていた。表情こそ変わらないものの、おそらくそのあまりに抽象的な問いに対する答えを頭の中で組み立てているのだろう。実に気紛れで迷惑な質問にもかかわらず、彼女は真剣に答えてくれようとしている。

「そう、ですね……」

 そして、自分の中で一つ何かを飲み込む。上目にこちらを見た彼女と一瞬だけ視線が重なり、すぐに外される。迷っているのだろう。無難に当たり障りのない回答をするのか、別の何かを話すのか。

「……御気分を害されたら、申し訳ありませんが……」

 やがて、至極控えめな滑り出しで、彼女は口を開いた。

「良いわよ。どうぞ?」

 一つ呼吸をおいてから、彼女はゆっくりとその続きを口にする。

「……我々がただの『アイドル』だったなら、あれで十分、合格なのだと思います。4号も、5号も、歌や踊りが堪能で、器量も良い。ジブンにはない才能を各々の努力で磨いた、結果です。そこは素直に尊敬します。ですが、あれが『ヒーロー』なのかと問われたら、ジブンは「違う」と答えたい」

 その口調は決して波風もなく淡々と、一貫して大河が流れるが如く静けさを纏っているが、その底に明らかに存在する彼女の確固たる矜持は、こちらへ向く視線の強さからも伝わってくる。それがきっと深沈たる彼女の中でひっそりと燃え続ける希望であり、信念でありプライドなのだと。

「人それぞれ考え方は違いますから、ジブンの感覚が正しいと主張するつもりはありませんが、もしジブンが一般人だったなら、ジブンは、彼女たちには絶対に憧れない自信があります。それに、——……」

 そこまで言って、1号はやや視線を下げて口を噤んでしまった。そこから先は果たして口にして良いことなのか、迷っているようだ。

「嫌だったら、無理に話してくれなくて良いのよ?」

「いえ、その……」

「ごめんね。変なこと訊いちゃったわね」

 彼女が下を向いてしまうのではよほど言いづらいことなのだろう。訊いたほうが良いのか、無理に詮索するのはやめたほうが良いのか、本当に判断が難しい。

「違うんです。その……」だが、唇を噛みながらも彼女はどうにかその続きを話そうとする。「すみません、上手く申し上げられないのですが……」

「気にしないで。構わないから」

「……」

 これは完全に自分の勘だが、何となく、ありのままに言わせてやったほうが良いような気がした。ただ、葵が自分に対してよくやってくる、絶妙なタイミングで合いの手を入れて引き摺り出すという高尚なセンスは自分にはない。

 もどかしい。自分の中身が少なすぎて。

「アタシが個人的に聞きたいだけだし、別に誰に言うわけでもないから、気は遣わなくて良いわ。世間話だと思って?」

「……あの……」

 口籠ってしまった1号の踏ん切りがつくのをしばらく待ってみることにした。これまで他人との必要以上の交流を避けてきた自分へのツケが回ってきているのを痛感する。こういう時にどうしたら良いのかまるで見当もつかないが、この沈黙に居心地の悪さを感じているのは自分より1号のほうだろう。

 待った結果、何でもない、と言われたら、自分への信用はそこまでということだ。追求するつもりは更々ない。

「……あのね、——」ただこれだけは誤解されたくないが、自分は別に怒っているのではなく、これは詰問しているのでも何でもない。「この部屋の良いところはね、例えば、鼻歌を歌っていても、誰にも聞こえないことなの。アタシその椅子嫌いなんだけど、そこだけは気に入ってるのよね」

 そう言うと、1号は一瞬狐に摘まれたような顔をして、それからふっと笑みを溢した。「チーフでも、鼻歌なんて歌うことがあるのです?」

「そりゃあね。絶対、誰にも聞かれたくないけど」

「鷹野統括にもですか?」

「当たり前でしょう。あの人に聞かれたら何言われるかわかったもんじゃないもの」これは割と本当の話である。正直、歌はあまり得意でないのだ。

 彼女は渡した書類を両手で少し丸め、顔の下半分を隠しながらしばらく小さく笑っていたが、やがてその目がふと翳り、見えない口元が笑わなくなったのを感じた。おそらく、世間話に付き合ってくれる気になったのだと感じた。

「……最近、チーフや鷹野統括と、討伐の現場にご一緒させていただく機会がありますよね」

 1号は優秀だから連れて行ってみようと最初に言い出したのは葵だ。かなり早い段階だったから正直不安はあったものの、葵が上手くフォローしてくれるからまったく問題はなかった。それからたいていは葵と二人で出てもらうか、真理子が休みの時は自分と三人で出ることもある。

「そうね。アタシより、3号のほうが多いかしらね?」

「はい。いつも、とても勉強になります。前線は、行く度に景色が違って、毎回いろいろなことを見せてくださるので、楽しいです」

 そう話す1号は穏やかな目をしている。が、その感想を聞いたチーフのほうは可笑しくなってしまった。あの現場の状況を楽しいと思える神経を持っているというのは葵に通ずるものがあり、気を付けないと将来的にああなってしまう可能性が高い。それが悪いとは言わないが、行き過ぎると困る。心配の種が増えて、心臓がいくつあっても足りない。

「あの、どうかされました……?」沸々と笑いを堪えていると、何かを察した1号が訊いてきた。

「ごめん、何でもないの」チーフは笑いを噛み殺しながら首を横に振った。「あんな場所だからね、危ないし、アタシもあんまり役に立たないし、どうなのかしらって心配してたんだけど、楽しいと感じてもらえているなら、良かったと思って」

 こんな訳のわからない言い訳で、上手く誤魔化せているか大いに不安だが、1号はゆるりと頭を振った。

「格好良いです。テレビで見ていたヒーローがすぐ目の前にいて、ジブンもその中にいるんだと思ったら嬉しくて……、しかもあのシャイニーとスカイ・ハークですよ? なんて贅沢なんだろうって、本当に嬉しくて」

「アタシは本人じゃないけどね」

「ジブンにとっては本人なんですよ。決戦前の『ハッピー・シャイニー』をジブンは知らないので、戦い方も人となりも、チーフが本物なんです」

「それはそれで困ったわね……」思わず苦笑いになる。たしかに彼女の世代はあっちのシャイニーが現役で活躍していた時代を知らない。学校の授業や語り継がれる御伽噺の登場人物として名前と見た目を認識しているだけだから、実際に動き回るヒーローとしては()()()()イメージになってしまうのだろうが、母に叱られそうな気がする。「本物は、もっと……すごいのよ。3号に訊いてごらんなさい」

「チーフだって、十分すごいです。チーフと前線にいる時は、ジブン、前だけ見ていられるので」

「ねェ待ってよ、やめて、ちゃんと周りを見て。3号ならともかくアタシそんな万能じゃないのよ。アナタに怪我したり死んだりしてほしくない」

「それですよ」1号はふふと笑う。「チーフは必ず、そう考えてくださいます。だから信じていられる。何と言いますか、ジブンは前だけを見ていれば、あとはきっと大丈夫だと思えるので、全力で行けるんです。戦闘技術がどうとか、討伐個体数がいくつだとか、そういうことでは、なくて……でも、例えば、もし……——」

 彼女はゆっくりと言葉を選びながらも、書類で完全に目元までを覆い隠してしまった。そのままかなり長いこと待って、彼女はくぐもった声を絞り出す。

「もしジブンが、モノクロたちと一緒に、前線に行ってくれと言われたら、ジブンはとても……とても、怖いんです」書類を持つ手と、息遣いが震えている。「すみません……こんなこと、チーフにお話しして良いものなのか……」

「良いのよ」

「でも、本人がいないのに、陰口言ってるみたいで……」

「アタシが無理やり言わせてるだけだから気にしなくて良いわ」

「違います」彼女はキッパリとそれを否定した。上から覗く触角のような赤い髪が左右に揺れる。「……違います。私、たぶん本当はずっと言いたかったんです」

 書類の向こうから聞こえてくる声が潤んでいる。「……ごめんなさい。こんなの、ヒーロー失格です。『1号』なんて任せてもらってるのに」

「関係ないわ。アナタ『1号』である前に赤羽(あかばね)(みなと)でしょう」

「……」

「ヒーローだって人間よ。時には汚い感情も、不安も、持っていて当然なの。自分の命懸けてるんだから尚更ね。別に悪いことじゃないわ」

「……」

 持っているのは良い。ただそれがいつ自分に牙を剥くのかが問題なのである。その微かな不安や一瞬の迷い、ほんの小さな判断ミスが、簡単に死へ直結してしまう。それがヒーローの行かねばならぬ場所だ。

 一緒に討伐へ行く者を信用できないというのは、無防備な自分がたった一人で戦場に立っているのと同じだ。それを凌ぐ強さを持ち合わせているのならば、それも良いだろう。だが、おそらく彼女はそうではない。 

「赤羽」チーフが呼び掛けると、彼女は一瞬肩を震わせた。「おいで」

 おずおずと、書類の上端から再び目だけが覗く。溢れてはいないが、兎のような目になっている。「必要なら、おいで」

「……」

「アタシには、必要そうに見えるけどね」

 チーフが右手を差し出して呼ぶと、彼女の視線はしばらく下のほうを右往左往していたが、相変わらず顔の下半分は隠したまま少しずつ近くに寄ってきた。

 漸く手が届くところまでやって来て立ち止まろうとするのを察し、咄嗟に掴んで引き寄せたら、その弾みでギリギリに堪えていた兎の瞳から大粒の涙が溢れ落ちてしまった。

「……ごめんなさい、チーフ。いつ一緒に、前線に出ろって言われるんだろうって、ずっと怖かったんです」

「うん、その状態じゃそうよね。ごめんね」

「私も未熟ですけど、そんな偉そうなこと何にも言えないって、わかってるんですけど、でも、だからこそ、駄目なんです……」

 彼女たちに、自分の背中は預けられない、と1号は言った。それがチーフの問いへの答えだ。

 号泣している彼女の背中を撫でながら、自分も思い出す。忘れていたのだ。この感覚を。

 自分の後ろは絶対に、葵が守ってくれる——そう信じている。それでもあの現場へ行く時、自分の足は(すく)んでいる。一人じゃないから大丈夫、大丈夫と、何度も言い聞かせて、漸くあの見張りの塔を離れることができる。

 じゃあ、もしそれがなかったら?

 一人で前線へ行けと言われて、本当に行ける?

 ——「私がいなくても、あんたはもう前線に行けるわ」

 本当に?

 本当に、行ける? 葵が後ろを守ってくれないのに?

 考えただけでゾッとする。でも、葵は行ったのだ。あの日、母が一緒にいなくても、一人で。

 葵は、怖くなかったのだろうか?

 あの日、たった一人で前線に立ち、モンスターを前にして、怖くなかったのだろうか?

「……モノクロのことは、まだ当分前線に出す予定はない。これまでどおり困り事の処理と、偵察までにしてもらう」

 もしもこれが、大事な契約の商談だったなら。

 気の乗らない取引先との接待ゴルフだったなら。

 買ったばかりのテレビが点かないなんてクレーム対応とか、発注ミスをした謝罪とか、飛び込み営業とかビラ配りとか——そういう仕事だったなら、送り出すのだろうか。

 甘ったれるなと、勉強と思って行ってこいと、叱責するのだろうか。

 それがおまえの仕事だろうと、突き放すのだろうか。

「今後もアナタが前線に出るのは3号と、アタシが一緒の時だけよ。わかった?」

 彼女は顔を覆ったまま頭を縦に数回振った。「ごめんなさい……」

「元々そうするつもりだったんだもの。アナタが謝ることじゃないわ」

 別に商談だったら失敗したって金で解決できる。テレビが点かないから何だって言うんだ、交換すれば済む話である。ゴルフなんて、相手が誰であろうと結局は己との闘いだろう——全部、うまくいかなくたって良い。死ぬことはない。

 でもヒーローは、死ぬから。

 簡単に、死ぬから。

「アナタ、2号とはどうなの?」

 1号は首を横に振る。「わかりません。2号とはあまり、一緒になったことがなくて、会社でもあまり話さないので、よく知らないんです」

「そう。わかった。今度話してみると良いわ」

 2号は正直、1号とは正反対に楽天的だ。しかしあれくらいの気楽さがあったほうが、現場はやりやすいかもしれない。おまけに、とりあえず何とかなるだろうというその楽観性を最後まで貫くだけの実力は持っているから、仕事を任せても心配はない。今回の研修生の件も、もし1号が断ったら2号に打診しようと考えていたくらいだ。

 気が合うとは思えない。ただ、ヒーローという仕事に対する姿勢は、まったく違うようで根っこは似ているとチーフは見ている。だからきっと上手くやれると思うのだ。

「アナタと年も近いし、ああ見えて意外としっかりしているところはあるのよ。……そうは見えないかもしれないけれど」

 はい、と返事をした1号は赤い目で少し笑っていた。

「優秀なのよ、2号は。本当に。そのうち一緒に出てもらうこともあると思うから、良かったら話してみて?」

「チーフがそう仰るのですから、信じます」

 1号がしっかりと頷いたのを見て、少し落ち着いたら戻って良い、と言おうとした。が、半端に口を開いたところでふと、このまま帰してしまうのがなんだか申し訳ないように思えて、言葉が迷子になってしまった。これまで散々心労を掛けて、その上面倒ごとまで頼もうというのだ。頭の中でどうするのが最適か考えてみるが、即座に答えが導き出せない。葵だったら迷いなくラーメンを要求してくるだろうが、1号の好みはわからない。

「厄介事を引き受けてもらう前金と、セクハラの口止め料が必要だと思うんだけど。何が良いかしら? 何かご馳走したら許してもらえる?」

「い、いえ、そんなもの必要ありません!」彼女は慌てて首を横に振り、恥ずかしそうに下を向いて小さな声で言う。「チーフはジブンの憧れなので、良いんです」

「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」

「ちが——ッ、ほ、本当に、尊敬してます! そもそもそのお姿を保つのだって……女でも並大抵の努力では難しいと思いますよ? なのに……」

「珍しいわよね。アナタくらいなものよ、こっちから言わないで気が付いていたの」

 チーフは普段、自分の性別を言わない。初めましての挨拶をする際、懇切丁寧に性別まで自己紹介する人なんていないし、苗字を名乗るくらいでおしまいだ。訊かれたら正直に答えるが、敢えて言う必要はない。そうしていると、たいていの人はチーフのことを女性だと認識して、それが定着する。なのに、1号は違った。

「だってちゃんとお名前を見ればわかるじゃないですか。最初は、違う読み方があるのかと思ったこともありますけど……」

 そのとおりだ。下の名前を見れば一発でわかる。他にも真実を知るタイミングは数多散らばっているだろうに、皆、先入観を信じて疑わない。

「そんなものよ。人間なんて」

 結局のところ、どうでも良いのだ。自分に害を為す存在でさえなければ、何だって。 

「あの、チーフ、——」遠慮がちに、1号は口を開く。「口止め料とかではないんですが、ご馳走していただけるなら、プリンが食べたいです」

「プリン? どこの?」

「チーフはもう覚えていらっしゃらないかもしれませんが、昔ジブンが新米の頃、変な依頼主に当たってしまったのを対応に出てきてくださったことがあって、その帰りに、喫茶店でご馳走してくださったんです」

 あれが美味しかった、と頬を赤くしてはにかむ1号を見て、『あれ』の正体を思い出す。もう何年前の話だろうか。

 チーフは内側の人間だが、ヒーローを統括する責任者であるため、稀に表に出向くことがある。それは決まって良くない話の対応をする時——それもヒーローの手に負えないレベルの厄介な話を処理する時である。1号の言うその事案もそれの内の一つだ。詳しいことは忘れてしまったが、どう考えても履行不可能な依頼をしてきた不届者がいて、それの対応に出たのだった気がする。

 基本的に、ヒーローは依頼された仕事を完遂しなくてはならず、それができずにコールドケース入りするといろいろと面倒なのであるが、その時の依頼主はそれを知った上でわざと無理な依頼をして「SNSに晒す」と喚いていた。時折そういう頭のおかしい奴がいるので対応マニュアルが存在して、その時もそれで終わらせたため、チーフにとってはさして苦労したという記憶はないのだが、新米のヒーローがそれに当たると驚きと困惑と恐怖心で狼狽えてしまうのがほとんどである。

 だから、帰りに喫茶店に寄ったのだ。少し後ろをついてくる1号は己に非があるわけでもないのにしょんぼりしているし、無駄な労力を使ってしまったためにチーフ自身が甘いものを欲していたのもある。会社からそう遠くない路地裏の、特に有名でも何でもない小さな喫茶店だ。草木が覆って薄暗く秘密基地のような雰囲気が気に入っていて、あまり混雑していないから1号がヒーロースーツを着ていても問題ないと思った。

 1号とはまだまともに喋ったこともなくて、真面目であるということくらいしか彼女を知らなかった。今考えてみれば、彼女のほうだって同じだったのだ。いつも現場なんか来やしない訳のわからない上司がいきなりやって来たら驚いて当然であるし、よく知りもしない奴と喫茶店なんかに行ったところで気が休まるはずがない。ケーキでもパフェでも好きなものを頼んで良いとメニューを渡したが、彼女は困り果ててしまって決められず、結局自分が頼んだのと同じもので良いと言った。実に、自然な反応だ。

 それでも、上に生クリームと真っ赤なさくらんぼが載ったプリンを前にしたら、その堅苦しい表情が急に子どもみたいに崩れて、言葉はなくとも、それが好きだったのだと見てわかるくらいには嬉しそうに食べていたっけ。

「別に良いけど……そんなんで良いの?」

「はい。あれが、良いんです」

「そう……わかった。じゃあ、三十分後に下で」

「え?」1号はまだ少し赤い目を丸くしている。「い、今からですか?」

「何かやることがあった?」

「い、いえ、特にはありませんが……」

「気にしなくて良いのよ」きっと真面目な1号はこういう『息抜き』という名の仕事があることを知らないのだろう。「場所が喫茶店だというだけで、上司と打合せをするのは立派な仕事の一環だから」

「……はい!」

 元気に声を弾ませた彼女は笑っていた。

「アタシ、それまでに一つやることがあるから、あとでね」

 そう言って1号と廊下に出たチーフは、彼女をエレベーターに乗せて見送ると、自分は身を翻して階段を駆け上がった。


* * *


 マリーが渾身の力で放り投げた弾は、数十メートル離れた位置に設置されたターゲットを一つ残らず薙ぎ倒した。最後の一つが床に落ち、乾いた金属音が訓練場に響く。

「すごいね、マリー! 全弾命中!」

「ありがとォ、3号!」

 訓練場入り口の庇の上に腰掛けて見守っていた3号が思わず拍手を送ると、マリーは嬉しそうに振り返り、両手を上に伸ばして飛び跳ねていた。

 これまでのマリーの訓練記録によれば、彼女は平均的にどの武器でも人並みに扱える成績となっているが、シャイニーのような超短距離には向かないと3号は考えていた。シャイニーの言葉を借りるならば『鈍臭い』ため、ある程度距離を取って攻撃しないと避けられない可能性が高いのである。それに、敵を前にして慌てふためいてしまい、照準を落ち着いて定められないという欠点もある。

 試しに3号のように遠距離型の狙撃もやらせてみると、これも悪くはない成績であったが、普段から投げ物系統の武器を好む傾向があることと、力が強くて構えが安定しているという特徴があるため、そのまま投げ物や大型の銃火器類の腕を鍛えたほうが良いのではという話になった。

 投げ物を得意とするヒーローは現在では彼女くらいしかおらず、攻撃以外にサポートとしての役割も担ってもらえるため、非常にありがたい存在である。少し訓練しただけで全弾命中させるようなセンスもあるなら言うことはない。

「はあァ、やっぱり投げる時慌てちゃうのよねェ……もっと落ち着かないとなァ」

「自分でわかってるなら、そのうちできるようになるから大丈夫」

「そうかなァ? はァ……もっと鍛えないとダメねェ、すぐ疲れちゃうんだもの。お腹も空くしさァ」

「そりゃしょうがないって!」両膝に手をついて喘いでいるマリーの肩を軽く叩きながら笑い飛ばす。「今日は終わりにしよ。やりすぎると良くないし」

「ありがと、付き合ってくれて」

「構わないから、またいつでも言って?」

 正直、シャイニーとやり合う時のほうがずっとキツい。はじめのうちはまだ良かったが、あれもさすがは二世というだけのことはあり、伝説の遺伝子は間違いなく継いでいる。負けると夕飯のラーメンを奢ってもらえなくなるので、意地でも勝たせないようにしているが、時間の問題だろう。

 もっとも、今後もシャイニーのほうは絶対に3号相手に本気を出してこないことは、何となく察しているのだが。

 そんなことを考えながら訓練場の片付けを済ませ、マリーと廊下に出たところで走ってきたチーフとぶつかりそうになった。

「あ、チーフ! どうしたの、そんな慌てて」

 階段で上がって来たのか、チーフは会社の中にいるとは思えないほど息を切らし、マリーと3号の顔を交互に見て、それから俯いてしまった。

「……どした、何かあった?」思わず神妙になって訊ねた。たしか、今日は1号に例の研修生受け入れの話をすると言っていたはずだ。その話が拗れたのか、或いは1号のほうに何か問題が生じたのか——。

 いろいろな考えが一瞬で脳内を巡り、半開きになったその口からどんな話が飛び出すのかと身構えた。が、それは徒労に終わることとなる。

「……ら、——」

「ら?」

 体の前に垂れた長い髪の一束を両手で握り、落ち着かない視線は床の上を行ったり来たりしている。やがて俯いたまま、その立派に大きな体から今にも消えそうな声が聞こえてくる。「……ラーメン、が、食べたい、……」

「は?」

「あたしも食べたァい!」呆気に取られる隣でマリーが声を上げた。「お腹減ったのよォ、チーフ、食べに行こうよォ」

「今じゃない、あとで! 夜ご飯! アンタ少しは食べんの我慢しなさいよ!」

「良いじゃない! 今だって一生懸命訓練頑張ってきたのよ? ねェ聞いてよ、チーフ! あたし全弾命中させられるようになったのよ、すごいでしょ⁉︎」

 相変わらずこの二人が揃うと煩いことこの上ない。人の心配をよそに、ぎゃあぎゃあと廊下に響き渡る声量でくだらない言い争いをしている。何と平和な光景だろう。

 食べたら良いじゃないか、ラーメンくらい、金がないわけでもあるまいに。血相を変えてやってきたと思ったら、何、ラーメンが食べたいって。拍子抜けである。

「うるさい‼︎」それもあって、余計に苛々してしまう。「——ッたくもォ、いつもいつも! なんであんたら静かにしてらんないの、ガキじゃないんだからさァ!」

「「すいません……」」

 二人並んで肩を窄め、同じように小さくなっているのを見ると、湧き上がる溜め息を抑えられない。「ねェ。あんた、もしかしてそれだけ言うためにそんな走ってきたの?」

「……駄目だった?」チーフは相変わらず髪を掴んだまま、上目でこちらを窺ってくる。

「や、駄目じゃないけどさ……1号はどうしたの?」

「うん、——」これにはしっかりと頷いた。「大丈夫。ちゃんと引き受けてくれたよ。これからちょっとお礼に……、近くで()()()してくるから」

「デート?」

「えぇやだァ! 良いなァ、あたしも行きたァい!」

「アンタは良いの! さっさと着替えて仕事しなさいよ、今日中に報告書と精算! 出さなかったらお金返さないからね⁉︎」

「え、待ってよ、困るそれは! すぐやるからァ!」

 この様子を見るに、上手く話はまとまったのだろうから安心した。ただ、ちょっとデートをしてくるというそれを素直に「いってらっしゃい」と見送るのが、なぜか非常につまらないと思った。


 ——『つまらない』?


 違う。そんなものじゃない。

 これは何なのだろう? 自分の中に得体の知れない霞が立ち込めて、視界不良を起こしている。正体はわからないが、それは何かとても面倒臭くて、邪魔なもののような気がする。

 ——気持ちが悪い。

 自分はその深淵を覗きたくない。

「葵?」

 ハッと我に返ると、チーフが眉を顰めてこちらを見ていた。「ごめん。急に。疲れているなら、無理しなくて良いから……」

 いや、違う。自分でも困惑しているが、おそらくそうではないのだ。そんな悲しそうな顔をしないでほしい。 

「……、誘ってくるからには奢ってくれるってことよね?」

「え? う、うん……」

「私が店選んで良いの?」

「うん、良いよ?」

「味玉載っけて替え玉しても良い?」

「いつもするじゃない」なぜそんなことを改めて訊くのか、と顔に書いてある。訓練場での勝負に勝って奢ってもらう時にはいちいち確認なんてしていないからだ。

 なんだかおかしい。こんなの自分の会話じゃない。

「早く行ってきなさいよ」堪らず、チーフの体を回転させて背中を押した。「デートの相手を待たせて良いのは女だけの特権だからね?」

「ラーメンは?」

「行く行く、行きます、仕事してるからあとで連絡して。ハイハイ、どうぞごゆっくり」

 早口で捲し立て、さっさと行けと重たい背中を前へ押しやると、チーフはこちらを気にしつつもまた駆けて行ってしまった。カンカン、と階段を下る足音が響いている。いつかあの馬鹿みたいに高いヒールを折って転びそうな気がして怖い。

 溜め息がとどまることを知らない。以前はもっと落ち着きがあったと思うのだが、あれはきっとそうあるように作っていただけなのだろう。時折、本当にごく稀にしか顔を出さなかったあの母親譲りの天然体質と軽躁さが、最近じわじわと垣間見える瞬間が増えた気がする。

 それはそれで、3号としてはまた可愛いのだけれど。

「葵ちゃんも大変ねェ」横からマリーが囁いた。顔を向けると、珍しく陰湿な笑みを浮かべている。

「……そうね」思わず顔が歪む。「複雑だわ。()としては、とても」

 こちらを見るマリーはニンマリと目を細め、いつになく余裕の表情である。自分には見えない濃霧の先にある景色が、まるでマリーにはくっきりと見えているかのようで、明らかに彼女のほうに分があると感じる。

「あたし、今日はラーメン行かないから」清々しいほどの笑顔でマリーは簡潔に言い切った。

「えっ?」急激な展開に狼狽えてしまう。先ほどまでの調子の良さはどこへ行ってしまったのだろう。「来ないの? なんで? お腹空いてるって……——」

「考えたらあたし、今日旦那が家でご飯作ってくれてるのよォ。食べて帰っちゃったら二食食べなきゃいけなくて、まァたチーフに怒られるじゃない? それに、——」そこでマリーは急に声を低くして続ける。「せっかくチーフが一生懸命誘いに来てくれたんだから、()()()()デートの邪魔はしたくないしね」

「……」

「悪いけど、チーフには適当に言っといて? じゃ、あたし精算の手続きやんなきゃいけないから、またね、葵ちゃん。ありがとね!」

 呆然と立ち尽くす3号をその場に残し、満足げなマリーはさっさとエレベーターに乗って一人で降りていってしまった。

 完全に置いていかれた心地がする。遊園地で迷子になった子どもはきっとこんな気持ちになるのだろうと初めて想像がついた。

 デートに行ったチーフはどうせすぐには戻ってこないだろう。少し考えて、もうしばらくの間ヒーロースーツを脱ぎたくないと思った3号は、先ほどまでいた訓練場に戻ると、壁の内線電話を片手に施設の延長利用の連絡を入れるのであった。


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