第四話 背中(2)託す日
湯気を上げる炊飯器の前で、モニターに表示された数字が3から2に変わる。普段ならあっという間に過ぎてしまうこの三分という時間が、モニターに向かってガンを飛ばし続ける今は永遠に思えるほど長い。
「あ、違った、もっと手はこうなんだね、ハイハイ……」
ソファのほうで、テーブルに置いたスマホを覗き込みながら葵がぶつぶつと独り言ちているのが聞こえる。真理子がひたすら炊飯器と睨み合っている間、葵はひなたのオーダーに応えて、魔法少女ごっこに付き合ってくれているのだ。
ひなたのお気に入りのアニメ『ぴかっとキラめき☆トゥインクルハート』に出てくる推しキャラクターの『ルナ』は、五人いるメインキャラの中で青色カラーを担当している魔法使いの女の子で、魔法界から人間の世界にやってくる悪い妖精を懲らしめて魔法界に送り返すというヒーローである。当然そちらはフィクションなので空を飛んだり、魔法を使って部屋を片付けたり、燃やしたり凍らせたりやりたい放題やっているわけだが、葵が同じ色のヒーローなものだから、先ほどからルナの変身ポーズをしてほしいだとか決め台詞を喋ってほしいだとかいろいろとリクエストをしているのである。
チーフが未だに自身の昔のヒーローネームを絶対に教えようとしないのと同じで、葵は自身に授けられているスカイ・ハーク用の決め台詞は「忘れた」と恍けて絶対に口にしない。それどころか元から存在しないものとしているようだが、ルナの決め台詞は平然と言う。仕事終わりで疲れているだろうに、葵は子どもと遊ぶのが好きだと言ってそれにすべて付き合ってくれているから本当にありがたい。
炊飯器からメロディが流れてきて、即座に蓋に飛びつく。閉じ込められていた湯気が一気に天井に向かって立ち上り、炊き立ての艶々とした白いご飯が顔を出す。今日は食べる人がたくさんいるので炊飯器の能力限界まで炊いてしまい、お釜から溢れそうである。絶対に火傷するとわかっているが、騒ぎ出した腹の虫に一発KOを喰らい、即座におにぎり作りに取り掛かる。本日は「ツナマヨネーズのおにぎりが食べたい」と何ともミーハーなリクエストをしてきた大きなお姐さんがいるため、それにも初挑戦である。
「ご飯の良い匂いがする!」
おまけに鼻も利くらしく、キラキラの両目がすぐにこちらを向いた。
「はい、炊き立てでェす。そろそろ手ェ洗ってきてくださァい」
「「はーい」」
大きなお姐さんと小さな子どもが同時に返事をする。葵がひなたを洗面所に連れて行って手を洗わせてくれ、戻ってきたひなたがカウンターチェアによじ登る。
「あたし緑茶煎れるけど飲む? 珈琲が良い?」
「いやいや、同じで良いよ。ありがとう」
「OK、えっと……これが梅干し、これがおかか、こっちが……葵ちゃん、ツナマヨってあたし作ったことないんだけどこんなんで良いのかな?」
「ありがとう! 嬉しい!」葵は左の袖をパタパタと振りながら胸の前で手を叩いている。「いただきまーす」
「あたしもいただきまーす」
もう一人の大きなお姐さんはまだ帰ってこないが、ここにいればそのうちやって来るだろう。自身でも気付かないうちに、仕事が終わったらとりあえずEightに寄るというのをこの数ヶ月で体が覚えてしまったらしく、何も考えなくてもあの長い脚が勝手にここまで連れて来てくれるはずだ。
もっとも、先日ここにゴ**リが出て一度取り逃してしまった時は、二日後に真理子が仕留めたと連絡を入れるまで寄り付かなかった。チーフも葵も討伐に行った時はあんなに恐ろしいモンスターを平然と殺しにかかるくせに、ゴ**リは怖いらしく二人して逃げ回っていた。ああいう状況を阿鼻叫喚と言うのかと、思い出すと笑いが出てしまう。
「どうかした?」
「ううん、何でもないわ」初めて真理子を頼もしいと感じたと褒められ、ドヤ顔をキメて踏ん反り返っていても怒られなかったのは最高だった。「ごめんねェ、ひなの相手してもらっちゃって」
「良いよ良いよ、全然。ねェ、ルナのポーズ上手にできてた?」
「できてた!」
「イェーイ、やったね!」すっかり仲良くなったようで何よりである。「真理子ちゃん、ツナマヨ美味しい」
「良かったァ、レパートリー増えちゃった、嬉しい」
「ねぇねぇ、あおいちゃん」次のおにぎりを吟味している葵に、ひなたが話し掛ける。「あおいちゃんは、どうしてひだりてがないの?」
あまりに唐突かつ正直な質問に、真理子は一瞬固まってしまった。が、葵は平然とおかかおにぎりを手に取り、それを齧りながら質問に答える。「昔ね、悪い奴と戦った時に失くしたの。名誉の負傷ってやつね」
「メイヨノ?」
「名誉。自分はすごいことをしたんだぞっていう、印みたいなものかなァ?」
「すごいこと?」
「悪いモンスターがいっぱい来てさ、大変だったの。今も来るけど、今よりいっぱいいて、それを幸子ママとやっつけてたんだよ。ずっと前にね」
「ふうん」
ちらりとこちらを見た葵が小さく笑う。平静を装っているつもりだったが、物憂いのが顔に出ていたらしい。
「そんなに気にしないでよ」
「ごめん……」
正直なことを言うと、なぜ葵の左手がないのか、ずっと真理子自身も気になってはいた。が、それが訊ねて良いことなのかがわからず訊けなかったのである。
葵は片腕でも何だって一人でこなしてしまうし、ヒーローとしての強さも申し分ないし、真理子がそのことで気を遣う必要なんて何一つない。逆に、あまりに『普通』にしているものだから、未だに真理子は彼女の左手が存在しないことを忘れてしまうことがある。
「『決戦』の時に失くしたんだよね。戦闘中に、フリーズしちゃってさ」
「えっ?」
「どのみち死ぬなら目の前のコイツも道連れにしようと思って、手榴弾のピンを抜いたの。そしたら、ちゃんとこの世で目が覚めて、左手しかなくなってなかった」
運が良いよね、と葵は笑う。何と返せば良いのかわからない。
「あおいちゃんとゆきこママ、どっちがつよい?」
「あおいに決まってるじゃない!」回答があまりに早くて笑ってしまった。「ま、それから三十年も片腕なんだもの。人生の半分以上よ? 今さら不便なことなんて何にもないし、別に……——」
そこまで言い掛けて、急にブレーキがかかってしまった。口が半開きになったまま、視線がカウンターの木目をなぞっている。
「どうしたの?」
葵は何か面白くないことがあるのか、ウウンと小さく唸って顔の横を掻いていたが、やがてふっと息を吐いた。「ごめん、やっぱ訂正」
「へ?」
「あるわ、不便なこと、一つ」
「何?」
「おにぎり握れないの、片腕だと」葵は苦々しい笑みを浮かべている。「片手でこう、転がしたりすればまァ何とかなるけど……それって、握ったって言わないもんねェ」
おにぎりなんて握れなくても生きていて困ることはまずないだろう。それなのに葵の顔に浮かんだ悔しさの中には、そうではない何かが混ざっているように見えた。珍しく、ひどく無念そうな彼女の姿に、真理子は見ていて切なさが込み上げてくる。
「ああ、そうだ、真理子ちゃん」葵は思いついたように目を見開いた。「ちょうど良いわ、ちょっと頼まれてくれないかなァ?」
「どうしたの?」
「そこの戸棚の下の床に、収納があるでしょう?」
真理子が足元を見ると、たしかに彼女の言うとおり、床の木目の一部に取手が付いて開くようになっている部分がある。
「開けたことある?」
真理子が首を横に振ると、葵はそれを開けてみるように言った。指示のとおりにその床下収納を開けてみると中には壺が入っており、真理子にはこれの正体がすぐにわかった。
梅干しだ。幸子が生前、自分で漬けていると言っていた、異様に酸っぱい梅干し。いつもおにぎりを酸っぱくしてしまう犯人。ご飯に包まれた姿しか拝んだことがなかったから、まさかこんなところに隠してあったとはまったく知らなかった。
「腐ってないよね?」葵が不安そうに訊いてきたが、そこは問題なさそうだ。「それどうしようかと思ってたんだよ。真理子ちゃんを、管理者に任命しても良いかな?」
「あたしで良いの?」
「うん。それでさ、一つ頼まれてほしい」葵はしっかりと頷いて、真っ直ぐに真理子を見つめる。「もし私がいない時、英斗が……チーフが塞いでどうしようもなくなったら、おにぎりを握ってやってほしい。梅干しは、目が覚めるくらいにたくさん入れて良いから」
「……」
なぜ、そんな話を今するのか、理解できなかった。
しかし微笑みを浮かべながら話す葵が必死に、本気でそれを頼んでいるのだということは、ひしひしと伝わった。
「……あたしで、良いの?」
「他に託せる人いないわ」
「でも……」
その大役を務めるのが自分で良いのか、不安だ。
自分にはとても、葵がいない穴を埋めることはできないとわかるから。
「真理子ちゃんには絶対に見せないと思うけど、あの子は本当は泣き虫で寂しんぼうだし、自信がなくて、恥ずかしがり屋なのよ。あと……究極にマザコン」
「それは知ってる」
葵と視線が重なり、くすくすと笑い合った。葵もそう思っているということは、自分の見識は的外れでないと証明されたようで何となく嬉しい。
「あの子はこの仕事に向いてない」清々しいほどはっきりと、葵はそう言い切った。「だから、あのままいったらたぶん、いつかどこかで折れると思うの。その時私がいれば良いけど、保証はないしね」
「葵ちゃんがいない時なんてないでしょう?」
「馬鹿ねェ。普通にいったって、どう考えても私のほうが、あなたや英斗より先に死ぬよ」
さらりと言われて、思い出す。まったくそうは見えないが、葵は既に五十路——現存するヒーローの中では最も、死に近い。
病気になったり事故に遭ったりする可能性は除くとして、前線に出ていれば死は平等について回る。誰が、いつ殉職するかは神のみぞ知ることだ。だが、幸運にもそうならなかったとしても、ヒーローには寿命というもう一つの壁がある。チーフは葵より十年分、そこから遠いのだ。葵はそのことを常に頭に置いているのだろう。
「……葵ちゃんは、本当にチーフのことが大事なのね」
「そりゃあ子どもの頃から知っているし……あの子、可愛いからね」
そういうことではないと思ったが、そこは指摘しないことにした。葵とチーフの間には、真理子なんかではとても干渉できない特別な何かが存在していることにはずっと気付いている。それは単純な恋愛感情による安っぽい思慕とは、まるで毛色の違うものだ。
葵ほどの人ならば、己の中に存在するそれに気付いていてもおかしくはないだろうに、もしかしたら、わざと気付かないようにしているのかもしれないとも思った。
「でも、いつまでも一緒にいられるわけじゃ、ないからね」
——ヒーローの時間は、人より短い。
微笑みをたたえている葵に、そんなことをしていて息苦しくないのかと訊こうとしたが、やめた。自分ならば、気付きたくないと思ったからだ。切なくなるだけだとわかるから。
「よろしく頼むね。真理子ちゃん」
おにぎりを握ることができないと、彼女が骨髄に徹して無念がったその理由が、何となくわかったような気がした。
ドアカウベルの音と共に、中年のオッサンのものとは思えない可愛らしいくしゃみが聞こえる。通路のほうに視線をやると、やがて噂の主人公が姿を現した。スーツのジャケットを片脇に抱え、くるくるカールの金髪は頭の後ろで団子状になっている。
「「おかえり」」
チーフは暑そうに胸元のシャツを摘んでパタパタと動かしながら、部屋の隅に立ち止まってこちらを見ている。顔を顰めているのは暑いからではなく、おそらく自分の根城を完全に他人に占拠されて、自宅のように寛がれてしまっているこの状況に対してだろう。
「……ただいま」
「チーフ、おかえり!」ひなたがカウンターチェアから飛び降りて駆け寄っていく。真理子は初対面からずっとチーフのことが怖くて仕方がなかったというのに、娘のほうは早々に懐いて今ではすっかりこの様である。
チーフは少し屈んで、落ちてくる長い横髪を耳に掛けながら微笑む。「ただいま。夏休み楽しんでる?」
「ぼちぼち」
「あら、難しい表現を知っているのね。どこで覚えたの、そんな言葉」
もっとも、このようにチーフの態度が自分と娘とでは一八〇度異なるというのも理由の一つだろうが。
「あのね、らいしゅう、ゆうえんちにいくの!」ひなたは上機嫌にチーフに報告する。この夏の一大イベントとして予定が決まった時から指折り数えて楽しみにしていて、会う人みんなに自慢しているのだ。
「良かったわねェ、誰と行くの?」
「ママと、パパ!」
健一がずっと海外にいたため、家族三人揃っての遊園地は久方ぶり——たしか前回はひなたがまだベビーカーに乗っているくらい小さかったから、覚えているかどうかも微妙なところだ。
ワクワクが溢れてきてしまうらしく、話しながら体が弾んでいる。
「あのね、あたし、ジェットコースターにのりたいの!」
「ひなた、ジェットコースター好きなの? お姉さんね」
「ううん、まだホントのはのったことないの。まえにのったのは、ちっちゃいこのやつだから、おねえさんのやつがいいの。チーフもジェットコースターすき?」
「どうかな?」意外にもチーフは首を傾げた。「たぶん、いつも似たようなことをやっているから、乗れるとは思うけど」
「でんしゃみたいなのでぐるぐるするやつと、ひゅってね、おっこちるやつがあるの。それでね、さいごにおしゃしんとるんだよ。あとね、——」
話が通じているのか定かでないが、チーフが荷物も持ったままひなたの前にしゃがんでじいっと話を聞いてくれるので、ひなたは一生懸命に遊園地の説明をしている。真理子は何遍も同じ話を聞いて最近いい加減に聞き流すようになっていたから、聞いてもらえるのが嬉しいのかもしれない。
「ひな、その辺にして。チーフはお仕事してきてお腹空いてるんだって」しばらく様子を見ていたが、子ども同士の会話みたいで放っておいたらとても終わりそうにないので、強制的に終了を促す。「チーフ、おにぎりあるわよ」
「ありがと。ひなたはもう食べたの?」
「うん。おいしかった」
「じゃあアタシもお腹減ったから食べようかな」チーフはそう呟いてソファの上に荷物を放り出した。「お天気になるように、てるてる坊主をたくさん飾っておくわね」
「チーフもつくってくれるの?」
「もちろん。たくさん楽しんできて」チーフは頷いて洗面所に行ってしまった。
ソファの上に無惨に捨てられたスーツのジャケットをひなたが拾って畳んでいる。最近洗濯物を畳むのがマイブームらしく、自宅でもよく畳むのを手伝ってくれると健一が言っていた。
「すごいじゃん、上手ねェ」冷めた緑茶の入ったマグカップを片手に席を立った葵がその様子を横から覗いている。
「これチーフのにおいがする」
「おっさんの臭いしかしないからやめときな」
「パパのほうがくさいよ」葵は爆笑している。「チーフはいいにおいがするけどパパはあしもくさい」
「やめてェ、もォこの子最高なんだけど、真理子ちゃぁん」
「残念ながら本当の話なのよねェ……」
葵は目尻に涙を溜めながら大笑いしている。戻ってきたチーフは一瞬のうちにガラリと変化した状況についていけず、引き気味に眉を顰めている。
「え、何事……?」
「何でもないのよ、チーフ、良かったわねェ。おにぎり食べて? たくさん炊いちゃったからたくさん食べてくれないと困るの」
手を洗ってきたらしいチーフは、頭の上にたくさんの疑問符を並べながらもカウンターの上のおにぎりをじっと見つめる。その視線の奥にまだ何かを探している気配を察した真理子は、足元のミニ冷蔵庫からいつものオレンジジュースの紙パックを出してきて、おにぎりの載った皿の横に置いた。
「はい、オレンジ。梅干しはこっち」
「ありがと」
チーフは素直に言われたとおりのおにぎりとジュースを持って、立ったまま齧り付いている。オレンジジュースと梅干しおにぎりなんて、何度聞いてもおかしな食べ合わせと思うが、チーフにとってはそれがスタンダードらしい。
「ねェアンタさ、——」モグモグしている合間に怪訝な目がこちらを向く。「遊園地行くのは良いけど休みに休まなくて疲れないの? よくやってられるわね」
「あんたと違ってまだ三十代だからね、若いのよ」
「ただのバケモンでしょ」
「何ですってェ⁉︎」
「ねェうるさァい!」葵の声がソファのほうから飛んでくる。「もォ喧嘩しないでよ、いい大人なんだから!」
本気で怒られるのは嫌、というのはチーフとの数少ない共通見解のため、散りそうになった火花はそのたった一声であえなく鎮火となった。
「ねぇ、チーフ」いつの間にやらひなたがカウンターの真下に立っているのか、反応したチーフが齧りながら下を向く。「かみのけ、かわいくしてほしい」
「良いわよ。これ食べてからで良い?」
「うん。あとね……」
「何?」
「すわってたべないとゆきこママがおこるよ」
「え、嘘、それ本気で言ってる?」そう言いながら急にオロオロしだしたチーフは、手に残っていたおにぎりを全部口の中に押し込んでしまった。
「わあ、チーフ、おくちおっきい」
「怒られたくないもん。真理子、これ梅干し入れすぎ!」
「うるさいわね! 一個が大きい梅だったのよ!」
「半分にすれば良いでしょ! もうどいつもこいつもどうしてそういうとこ横着なのかなァ……」
どいつもこいつも、という中には間違いなく幸子が含まれているであろう。文句を垂れながらも次のおにぎりを吟味しているチーフを見て、もしかすると入っているのが幸子の梅干しだったら許してもらえたのかもしれないと、ふと頭の中で思った。
「他のは何味?」
「こっちがおかかで、これはツナマヨ」
「ツナマヨ⁉︎ 葵でしょう、そんなの頼んだ人!」
「よくわかったじゃぁん」葵はソファにひっくり返ったまま陽気な返事をする。チーフの鞄の上にひなたが畳んだジャケットを置いて枕を作り、スマホで何かを見ているようだ。
「わかるわよ、そんなこと言うの葵くらいしかいないもん」不満そうな言い方をするくせに、ツナマヨと紹介された個体を手に取り、半分に割っている。「ねェ、お醤油ない?」
何に使うのかと思いながら出してやると、チーフは半分にした割れ目に醤油をかけて食べている。「え、その食べ方、する?」
「え、駄目?」
「ううん、初めて見るってだけ」
「食べる? 半分」
「こっちので食べるからそれはあんたが食べなよ」真理子は新しいおにぎりに手を伸ばし、見よう見まねで半分に割って醤油をかけてみる。「へェエ、美味しいかも。マヨネーズと醤油って合うもんね」
「珍しく気が合うわね」
「ちょっとちょうだい」チーフのところに下から手が伸びている。真理子に渡そうとした半分がその小さな手の上に載る。「いただきまぁす」
チーフはまた残りのおにぎりを全部口の中に入れて手を拭くと、立ったままおにぎりに齧り付こうとしているひなたを抱き上げてカウンターチェアに座らせ、自身は背面側に移動した。
「どうしようかしらね?」ヘアスタイルのことを考えているらしい。
「ルナちゃんみたいなあたまにできない?」
「ああ、ルナちゃんはねェ……」ルナは一見するとツインテールのような頭をしているが、根元に髪が巻き付いていたり、途中に髪でハート型を模した部分があったりといったアニメならではの描写が多々見られる複雑な形状で、しかも異様に長いのである。「あれになるには、もう少し髪の毛が長くないと難しいかなァ」
「チーフくらい?」
「うーん……これでも足りないなァ。葵くらいあったらギリいけるかも」
葵の髪もとても長い。チーフでも十分長いと思うが、それよりもさらに長くて、後頭部の下で一括りになったストレートヘアがお尻の下くらいまで伸びている。シャンプーのテレビコマーシャルができそうなくらい艶のある美しい黒髪だが、腰の下辺りから先が青い。
「この頭でしょォ?」軽快に起き上がった葵は苦笑しながらスマホの画面をこちらに向ける。先ほどから何を真剣に見ているのかと思いきや、『ぴかっとキラめき⭐︎トゥインクルハート』のファーストシーズン第四話——ルナの初登場の回が絶賛再生中であった。
「そう! それー!」
「この子さァ、変身すると髪も伸びるんだもん。それに長さも相当だけど、かなりボリューム出さないと無理だよねェ」
「アニメキャラだから仕方ないわね。似たような雰囲気になるかやってみようか」
チーフにそう提案されて、おにぎりを食べるひなたはさらに嬉しそうに笑った。
「あんたもそれよく再現してると思うよ」葵はチーフの頭髪を指す。「金髪はさ、アニメ版のシャイニーじゃん」
「え、そうだったっけ⁉︎」思わず真理子は声を上げてしまった。「金だと思ってた。刷り込みって怖いわねェ」
「実物は茶色かったもの。茶色のツインテール」
「なんでそっちにしたの?」
何気なく訊いたつもりだったが、チーフは小さく唸って、それきり黙り込んでしまった。
「……え、ごめん、そんな深刻な理由?」
「いや、違う、全然……」首を振り振り、ひなたの髪を弄っている。「あの……二つあって。理由が。一つは、母のシャイニーはすごく……ドジだったのよ」
「は?」
パンッ、と音がする。葵が膝を叩いて立ち上がっていた。「そう! そうだった! 大変だったの、もういろいろと!」
「あんまり言わないで。化けて出そう」
「あ、そうね」
「だから、——」チーフは内緒話をするかの如く辺りを窺いながら小声で囁く。「そこまで似たくなかったの。アニメ版のシャイニーはそんなことなかったでしょ? それでこっちに」
大いに納得である。「で、もう一つは?」
「……隠すためよ」
「何を?」
「……」
「白髪を」これは葵が言った。
躊躇っていたところを横から言われたチーフは半べそになって黙り込んでしまった。気持ちはわかる。無情にもひなたは、ママがいつも抜いているやつだとケラケラ笑っている。
「……禿げるよりずっとマシだけど、髪を上げた時に白が目立つのは、死活問題なの」
真理子は深々と頷き、それ以上は詮索しないことにした。おそらく以前見たチーフの父親と思われる人物も髪はフサフサしていたから、チーフの場合はそっちの心配はなさそうであるが。
「シカツモンダイってなに?」
「死んじゃうくらいヤバい問題ってことよ」
「えー! それってたいへんじゃん!」
ひなたが本当に理解しているか否かは定かでないが、皆に揶揄われるばかりのチーフは真剣に共感してくれたのが相当嬉しかったのか、ひなたをハグして「良い子だわ」と繰り返している。
「チーフは、おにんぎょうさんみたいでかわいい」
「ありがと、ひなた。アナタ元々可愛いけど、今日はとびきり可愛くしてあげるから待ってて?」
「やったぁ!」ひなたは目を爛々と輝かせ、両足をぶらぶらと動かしている。体まで弾ませるものだから、チーフが動くなと怒っている。
自分の娘を目の前でたらし込まれるのは些か複雑な気分だが、ひなたがより可愛く変身するのは歓迎だし、楽しそうに笑うのをこんなにも間近で見ることができるのはやはり嬉しいものである。
が、その時、現実を告げる音が店内に鳴り響いた。
和やかな顔のままで、目つきだけが変わる。ポケットに手を突っ込んだのは葵だ。刹那、点灯する小さな液晶を見つめる。
「英斗、一緒に来てくれる?」
「うん」髪を結う手は止めず、即座に頷く。「どこ?」
「K2ブロック、湾岸二八」
「近いね」チーフはひなたの両肩をトンと叩く。「ごめん、ひなた。今日はここまで」
チーフの中ではまだ途中なのだろうが、ひなたの頭髪は現状でも十分まとまっており、これで完成と言っても良いくらいのクオリティである。
「すごーい! かわいい!」ひなたも鏡を見ながら興奮している。「ありがと、チーフ!」
「どういたしまして。ルナちゃんヘアはまた研究しておくから」話しながら、葵の枕にされていた鞄とジャケットを受け取り、素早く羽織る。
「葵ちゃん、あたしは?」
「大丈夫。帰って中継でも見てて。あと戸締りよろしく」
「わるいやつがくるのー?」
「そう、ちょっくら潰してくるわね」近所のコンビニへ行くようなノリである。「カメラ見つけたら手ぇ振るからね。あ、おにぎり持ってって良い?」
「良いわよ。何個でも」
適当なおにぎりをアルミホイルに包んで渡すと、葵は嬉しそうに左右のポケットに一つずつ突っ込み、店を後にする。
「チーフ!」その後を追いかけようとするチーフを呼び止め、振り向いたところへおにぎりを一つ投げつける。「気を付けて!」
「がんばってー!」
「ありがと!」
慌ただしい足音とドアカウベルの余韻だけを残し、二人は暗闇の広がる現実世界へと飛び出していった。
急に静かになる店内。
ふと、幸子はいつもこの場所から、こんな風に自分を見送ってくれていたのだろうかと思った。
ひなたは鏡に映る自分の姿を見てはニンマリと満足している様子で、両足をぶらぶらと勢いよくバタつかせている。
「良かったわねェ、可愛くしてもらって」
「チーフ、じょうずだねえ。ママこれできないの?」
「ウーン……ママにはちょっと無理、かなァ」教わってもできなくてチーフが怒り出す未来しか想像できない。
きっと帰宅して風呂に入ろうと誘っても、まだ解きたくないから入らないと駄々を捏ねるのだろう。最近いつもそうなのだ。親としては時間と労力ばかり食われて困る現象ではあるが、この嬉しそうな顔を見ているとつい甘やかしたくなってしまう。
正直言って、ひなたがこんな顔をするところを毎日眺めるようになるなんて思ってもみなかった。ましてや戦乱の渦中に身を置く生活になった今、こんな平和と共存していて良いのかと、あまりに贅沢なのではないかと、疑いたくなる。もしかして、あちら側が本当は夢なのではないかと。
葵はきっと、ひなたがいたから帰れと言ったのだ。自身の時間と引き換えに平和を与えてくれるチーフや葵には、感謝の意が絶えない。
おにぎりを握るくらいでその恩を返せるのならいくらでも握るし、またゴ**リが出たら自分が仕留めようと心に誓う。
「さァ、ひなた! 急いで帰ってテレビ見よう!」
残ったおにぎりをアルミホイルに包み、カウンターを片付ける。せめて明日葵に会った時、手を振っているのを見たと報告できるようにはしておかなくては。
* * *
「ごめん、さっき言わなかったけど、たぶん新種なんだわ」
会社までの暗い道を駆け抜けながら、右側で葵が言った。少し前を走っているから表情は見えないが、何となく良い顔をしていないような気がする。
ここ最近現れるようになったモンスターのうち、約二割から三割が『新種』と言われる。まったくの初見というのは珍しく、たいていが既知のモンスターが変異したものであることが多いのだが、既存の情報に頼って討伐に行くと思わぬ攻撃を受けることがあるため、一見『顔見知り』と思っても油断ならないのが現状である。
およそ三十年もの長きに亘って世界がモンスターとの接触を断ち続けていた間に、シールドの外では新たに生まれたり進化したりと様々な変化が起こっていたのだろう。三十年なんて、鞄サイズだった携帯電話がペラペラの小さなスマートフォンになってしまうくらいなのだから、モンスターだって変わっていて当然なのであるが、処理する側としては情報がほとんどないというのはかなりのハンデになる。姿の見えない幽霊と戦うようなものだ。
あの場で新種だと言えば、真理子は一緒に行くと言っただろう。葵はそれに気を遣ったのだ。
「1号と2号を偵察に出してるの。報告待ちだけど、たぶん間違いないと思う。だから、ちょっと長丁場になるかもしれない」
葵は前線に出ると相変わらず自由奔放に跳び回って楽しそうにしてはいるが、相手が新種の時はそれが若干控えめになることにチーフは最近気付いた。「新種が相手の時は自分も初心者である」という彼女の言葉は決して謙遜ではなく、おそらく葵自身の経験則が使えずただでさえ余裕が削られる中で、他のヒーローをもフォローしなくてはならないという大きなプレッシャーがあるのだろう。
そうでなくても夜間討伐は神経を使うのに、夜の湾岸戦なんて最悪だ。モンスターは黒い個体が多いから、夜闇はその姿を隠してしまって遠くからでは確認が困難になるし、明かりもない。人間は視力が低下しているし、戦うには不利な条件が重なりすぎている。
「おにぎりもらってきて正解ね」そういうことではないというのはわかっていたが、敢えてその回答にした。
葵は小さく吹き出して怒っている。「ねェ、笑わせないでくれる? 脇腹痛くなっちゃうじゃん」
「ごめん」
「……、もォ!」良い文句の言葉が続かなかったようで、葵は笑いながらそう吐き捨て、走る速度を少し上げた。あまり速く走られてしまうと追いつけない。葵が笑ってくれたまでは良かったが、駆けっこは元々自信がないし、ヒールが折れそうで怖いのである。
会社に駆け込み、階段で二階へ。通常の業務時間はとっくに終了しているため、すべてが薄暗く人気がない。
「戻ってきたら1号に合流してもらうから」
安心して、と葵は女性用の更衣室に消えた。彼女は着替えるのがとても早いので急がなくてはならない。
こちらも更衣室に飛び込んで早速ロッカーを開けるが、ほぼ全力に近い速度で走ってきたから息が上がりっぱなしで鎮まらないし汗も止まらない。早く着替えなくてはと焦るから余計に時間がかかって、靴紐は上手く結べないし、しまいには頭飾りを落としたりと散々である。
——……駄目だ、一旦落ち着こう。
ベンチに座ったら自分の手が震えていた。どうりで物を落とすわけだ。
1号は優秀だから心配はしていない。葵もいるなら尚更だ。しかしそうは言っても前線に絶対はないし、新種はやはり身構える。
顔の横を冷たい汗が伝う。もう何回出動したのか数えるのも難しくなったというのに、未だこの感覚に慣れない自分が情けない。葵は自分を信じて指名してくれたのだから、こんなところで弱腰になっている場合ではないというのに。
真理子にもらったおにぎりのアルミホイルがベンチの上に転がっている。つい今し方、Eightでこれを食べていたのが夢だったように思える。手に取ると、まだ微かに生温い。
お腹が空いているわけではないのに、何となくそれが食べたいと思った。が、今は我慢だ。これはどこかに忍ばせて持っていくことにしよう。
大丈夫、大丈夫、と頭の中で繰り返し、一息吐いてから再び立ち上がる。少し震えは落ち着いた。今度こそ変身しよう。
たらふく食べてきてしまった後だから、ヒーロースーツが何となくキツい。ひなたの柔らかな髪に比べ、自分のが何と扱いにくいことか。いいや、暑いし、ストッキングはなしで。夜中だからバレないでしょう。ただオレンジのパンツは穿いていないとまた葵に捲られてしまうから忘れないように。
いつもどおりに完成させたシャイニーの姿は、やはりまじまじと見るのは怖くて、大きな姿見はチラリと横目に見るに留めて足早に部屋を出た。
屋上へ行くとやはり変身を遂げたスカイ・ハークは既に来ていて、いつもと同じように見張り塔の縁に腰掛けながら、お馴染みのライフルの手入れをしていた。下は夜の街明かりが煌めいているが、地平線はどす黒い闇があるばかりで何も見えない。
「お、来た来た」塔に近づいていくと、3号はこちらを一瞥し、目の前に飛び降りてきた。「上手にお着替えできましたか?」
「ねェ馬鹿にしてるでしょ」ちゃんとしてきたつもりだが、その舐めるような視線は自信がないのを確と見抜いていて悔しい。
すると3号は黙ってこちらへ右手を伸ばしてきて、襟をピンと引っ張った。そのまま頭飾り、前髪、胸元のリボン——スローモーションのように、すべてがとてもゆっくりに感じた。
「可愛い」
やがて、一歩下がって再び全身を眺めた3号は、一言、満足げに微笑んだ。空に浮かんでいるはずの三日月がすぐ目の前に落ちてきたみたいだ。
「……当たり前でしょ」視線を顔から逸らす。その顔で3号に言われるとむずむずして嫌だ。
「あらヤダ、今日ナマ脚? 捲り甲斐があるじゃない」
「やッ、ちょっと——ッ!」油断も隙もあったもんじゃない。銃身の先でヒラヒラとスカートの裾を捲ろうとしてくるのを慌てて手で払う。「ダメ! もォスカート捲り禁止!」
「まァたトレンド入りね、おめでとう」
「めでたくない! 誰のせいだと思ってんのよ⁉︎」
「私のおかげでしょ? 表現間違えないで」
初めてシャイニーの姿で出動した時に3号からスカート捲りをやられて以降、自分が出るとすぐ『シャイニー スカート』とか『シャイニー オレンジ パンツ』『♯シャイニーのパンツ』とかいうワードがネット上でトレンド入りしてしまうようになった。スカートの中身が気になる程度には可愛い女の子として評価されているのは歓迎するが、一生懸命討伐に行っているのにトレンドワードがそれというのは複雑な心持ちである。
「良いじゃない。今日はほら、『深夜番組』だからサービスしよ?」
「全然深夜じゃないわよ!」
どちらかと言えばゴールデンタイムじゃないか。やっぱりストッキングを穿いてくれば良かった。でも暑いしすぐ伝線するし痒くなるから元々嫌いなのだ。こんなものを一日中、毎日穿いていられる世の女性のことは心から尊敬する。
ニヤニヤと意地悪そうに笑いながら追いかけてくる3号は、絶対自分よりオジサンの才能があると思う。きっとこの光景もどこかからマスコミのカメラに映されていて、トレンド入りは不可避であろう。家に帰った真理子やひなたが見ていないことを祈りたい。
「お疲れ様です」
その時、天の助けが現れた。1号の登場である。
「お疲れェ」
「良いところに来た! 助けて、1号!」
「ああ、——」しばしば一緒に出てこの光景を見慣れてしまった1号は、突然後ろに隠れられてもさして驚きもしない。「また虐めてるんですか、3号」
「虐めてるんじゃないよ。社会のニーズに応えようとしてるだけ」
調子の良いことばかり言って。
1号は小さく溜め息を吐きながら首を後ろに回す。「シャイニーもしっかりしてくださいよ。チーフの時の威厳はどこへ行ってしまったんです?」
「すみません……」どうして自分が怒られているのだろう?
「スカートなんて、わざわざ捲らなくても戦闘中は丸見えなんですから、十分ニーズには応えられていると思いますよ?」1号は真面目な顔をして答えているが、何かがズレていると思うのは気のせいだろうか。
「あれ? 2号はどこ行った?」
「帰りました」
「帰ったァ?」思わず声が裏返ってしまう。「行動早すぎない?」
「はい、その……女の子を待たせているから、と」
「おっとォ、彼『お食事中』だったのね」3号が含んだ笑み浮かべているのは2号がそういう奴だと知っているからだ。「良いよ、肉食なのに途中でもちゃんと来るとこは褒めてあげるわ」
「3号。困ってるから」咄嗟に止めに入る。それを理解できない1号の頭の上にはてなマークが並んでいるのが見える。
「す、すみません……1号が報告するなら、自分はいなくても同じでしょうと言われてしまって……」
「あいつの言いそうなこった!」3号は腰に手を当てて呆れ気味に息を吐く。「うんうん、良いよ、1号は悪くないからね。で、どうだった?」
偵察の報告を求められた1号は、まったく同じテンションのまま、淡々と見てきたばかりの情報を伝達する。「3号の読みどおり、新種と思われます。おそらく以前から存在する二種の、ハイブリッド型です。基本的に水中を移動しており全容は掴めませんが、体長は五メートル以上ではないかと推測します」
「でっかいなァ……」
「発信機を撃ち込んできましたので、位置情報を共有します」
「さッすが1号、相変わらず仕事が早いねェ!」
「陸に上がったりしていた?」
「わかりません。自分が見ている限りでは、そのような動きはありませんでした。ただ、——」1号は首を僅かに傾げる。「これは2号が言っていたんですが、水中を移動するくせに呼吸はできないようで、たしかに時折、水面から顔を出すんです。未確認ですが、仮に手足があるとするならば、上陸の可能性は十分あるかと」
「ウーン、生えててほしいなァ!」3号は溜め息のような声を上げる。「水中戦は厄介だよ。危ないしィ、この子使えなくなっちゃうしィ」
3号は自身の愛用する狙撃銃を撫でている。彼女の武器は陸上でこそ威力を発揮する仕様のため、水の中に潜られるとほとんど使い物にならない。加えて、当然ヒーローは鰓呼吸ができるわけではないため、溺死するリスクが高く非常に危険な行為である。新種相手に水中戦なんて、死にに行くようなものだ。
「進行速度はさほど速くなさそうですが、既に湾岸二八からは移動、河口から遡上していますので、あまり河上に侵攻する前に片付けるべきかと」
「鮭かよ! さっさと捌いておにぎりの具にしよう」
何とも美味しくなさそうな具材である。
「それから3号、これ、ご指示のものです」1号はそう言って、手に提げていたビニール袋を3号に差し出した。近所のコンビニのロゴがプリントされた白い袋の中には何かが入っているようだ。
「お、サンキュー。助かるよ」
「何それ? 夜食?」そんなわけはないと思ったが念のために訊いてみると、3号はケラケラと笑い出した。
「んなわけないっしょォ。手榴弾と時限装置だよォ」
回答は想定の遥か上を行っていた。防水付きの最新型だぞ、と偉そうにしているが、リンゴやレモンと同じように扱って良い代物ではない。「……もうちょっとさ、何か入れ物なかったの?」
「すみません。なんか、2号が持ってて、くれたんです」
「水風船でも買ったかな?」
「やめなさい‼︎」皆テンションがおかしいのだ。夜だし、出立前だし、新種だし、平静を保っていられるほうが異常かもしれない。「ごめんね、1号。もうあの、この人のことは無視して良いからね」
「はあ……」
2号というのは本当にそういう奴だから、3号の言うとおりの可能性は極めて高いのだが、先ほどから1号の混乱が解けなくて可哀想なので、そういう話をするなら二人の時か、せめてEightにいる時にしてもらいたい。
人が気を揉んでいるのも構わず、3号はビニール袋の中身を漁っている。「ハイハイ、あんたは? 何個ほしいの? 二個? 三個?」
「オバチャンごっこしないで」
「だって本当にオバチャンだもの。幸子さんがよくそんなこと言ってたっけなァ」
しみじみと3号は独り言つ。本当にマイペースな奴だ。いくら扱い慣れているとはいえ、自分の腕を吹っ飛ばした武器をよくもそう易々と取り扱っていられると感心してしまう。
おまけあげる、と最後の一個もくれて、よっこらしょ、とわざと口に出して立ち上がった3号は、首をポキポキと鳴らしながら、手入れしていた狙撃用の長い銃を背負い、空になったビニール袋を持ち手に結び付けた。何かに使うかもしれないから一応持っていくのだそうだ。
「よしよし、では行きましょうかねェ……」
ふと暗闇の中、目つきだけが変わる。彼女だけが、見えない獲物をその視線の先に捉えているのだ。「東大橋の上流方面から行きます。暗いから二人とも気を付けて。水辺は避けて、危ないと思ったら迷わず退避。あと、できるだけ離れないで、見えるところにいて」
「「了解」」
街を縦断する大通りの明かりは、まるで滑走路の誘導灯のようだ。
* * *
風呂上がりに携帯を開き、SNSがまたシャイニーのスカートやパンツについての話題で盛り上がっているのを見た真理子は、いつもどおりあの二人は前線でも仲良くイチャついているのだと安堵しつつも、流れてくるコメントの中に『新種』という言葉を見つけて表情を曇らせた。
——大丈夫、よね……?
現代において、戦歴のないモンスター——所謂、新種を相手にするのは珍しいことではなく、真理子も当たったことはある。しかし攻撃パターンや弱点がわからない未知を相手取るのは容易なことではなく、ましてや夜の湾岸エリアでの戦闘となると、それが如何に危険度の高い任務であるのかは討伐経験の浅い真理子でも簡単に想像がつく。
先ほどEightで出動の連絡を受けた葵は、相手が新種であるとは言及していなかった。これがSNSによくある憶測やガセネタである可能性は大いにあるが、やきもきしてしまうのは避けられない。
「ママぁ! あおいちゃんがてぇふってるー!」
リビングのほうからひなたのはしゃぐ声が聞こえ、テレビの前に駆け寄る。社屋の屋上から出立したのは3号とシャイニーの他に、もう一人、赤い影があった——1号だ。
あの三人のチームならおそらく大丈夫だろうとは思う。ただ『新種』というたった一つの、それも何の根拠のない情報によっていつも以上に膨らんでしまった不安は、そう簡単には消えない。
ひなたはお気に入りのウサギのぬいぐるみを抱えながらテレビの前のソファに浅く腰掛け、爛々とした目で画面に見入っている。夢中になりすぎてぬいぐるみを押し潰しているほどだ。
「……ひな、もう遅いから、おやすみしよう?」
「ええーッ⁉︎」当然の反応が返ってくる。「まだがんばれってやってないのに!」
正直なことを言えば、夏休みなのだし、たまには夜更かしさせてやるのも良いと思う。ただ、今夜の中継をこのままひなたに見せ続けるのが果たして正解なのか否か、判断に迷う。
何となく、良い予感がしないのである。
「なんだよ、ひなぁ! パパと寝るの嫌かぁ⁉︎」
その時何かを察したのか、どこからともなく健一がやってきてひなたを一気に担ぎ上げると、ぐるぐると振り回したりして揶揄い始めた。部屋の中にひなたの嬉々とした声が響く。「ひなが一緒に寝てくれないとパパ寝られないよぉ」
「えー? パパ、おとななんだから、ひとりでねなきゃだめなんだよ?」
「そんなこと言わないでくれよぉ、ひなぁ!」
健一がわざとらしい甘ったれた声でひなたに頬擦りをしていると、髭がチクチクするのが嫌なひなたはとうとう「しょうがないなあ」と可愛らしく溜め息を吐き、健一と共にベッドへ行くことを了承した。
「明日の朝、ニュースでやると思うから大丈夫よ」
「うん。ママ、ちゃんとおうえんしておいてね!」
ぬいぐるみにもおやすみを言わせたひなたは、健一と共に寝室に歩いていった。
空いたソファに腰を下ろす。まだ髪も乾かしていないが、目を離している間に何かありそうで、洗面所へ戻れない。
考えてみると、一般人のように家のテレビの前に座って討伐の一部始終を見守るなんて、初めてのことかもしれない。いつもは自分も一緒に前線へ出て映される側になっているし、出ていなくても会社で見ていることが多い。
こういった映像はヒーロー自身にカメラが付いていて撮られるわけではない。本部や自衛隊キャンプ以外からの中継はたいてい上空ヘリからの撮影か街中の定点カメラ、最近ではドローンが使われることもある。だが、言ってしまえばそこだけが戦争地域と化しているのだ。言わずもがな非常に危険であるため、ヘリは立入禁止エリアには侵入できないことになっているし、最近流行り出したドローンも戦闘の支障になる可能性があるため使用は禁じられている。メディア各社にも意地があり、立入禁止エリア外からでも撮影できそうな眺めの良いポイントを探し出して撮っていることもあるが、ほとんどの場合、一般家庭のテレビに流れてくる討伐の様子はどれもこれも遠すぎてよく見えないらしいと聞く。
たしかに、見にくい。ヒーローなんて小さすぎて顔も判別が難しいし、何をしているのか細かなこともわからない。超人気アイドルのドームコンサートを一番後ろの席から眺めているよりも状況はわかりにくいかもしれない。
まるで他人事。どこか知らない遠くの世界で起こっていることか、或いは映画の中の出来事のよう——三十年もの平和の末に、こんなものしか見ていなかったとしたら、平和ボケが治らないのも無理はないのかもしれない。真理子でさえ、まったくリアリティを感じない。いつもだったら自分も、あの場所にいるはずなのに。
——あたしって、本当に、ヒーローなのかしら……?
そう思えてしまうほどに、蚊帳の外。ついさっきまで、あの人たちとおにぎりを食べていたのよね?
それとも、それは、微睡のうちに見た夢?
一台の車も走っていない高速道路の上を三つの点が移動している様子が上空から映し出されている。おそらく予測不能な軌道で動いているのが3号だろう。シャイニーは上からでも頭の金色が目立つから真理子にはわかる。
胃袋を鷲掴みにされている心地だ。自分が行く時よりも緊張する。その先にあるのがどんな場所だか知っているからこそ、スポーツ観戦をするような純粋な気持ちで応援などできない。
画面は切り替わって河の定点カメラの映像がテレビに映し出される。黒い水面がゆらゆらと揺れているように見えなくもない。
きっとここが、今回の戦場になるのだろう。
夜の、水辺——それだけでどれほどの危険を孕んでいるのか推し測ることができてしまう。風呂から上がったばかりだというのに、両手は膝の上で既に冷え切っている。
と、いつの間にか健一が戻ってきて、隣にそっと腰を下ろした。「本を読んでいたら、すぐ寝ちゃったよ。疲れていたのかな」
「……」
「どう? 大丈夫そう? 現場は」健一は普段より少し静かな口調で、穏やかに微笑みながら話し掛けてくる。今夜、真理子に出動命令を下さずに帰してくれたのだということは既に伝えてある。
「……今日のチームなら、大丈夫だと思うわ。でも……——」言葉に詰まる。でも、何なのだろう?
戦闘能力もバランスも申し分ない布陣だと思う。相手がたとえ新種であったとしても、きっとやってのけるだろう。そう思うのに、何がいけないのだろう? 頭の中で黒っぽい何かが渦を巻いて、払えない。
「……健ちゃん。あたしが前線に行ってる時、テレビ見る?」
「もちろん。まあ、仕事中だったら難しいけど、見られる時は」
「いつもこんな気持ちなの?」
健一はいつも、こんなどうすることもできない靄々と闘っているのだろうか。怖くて、もどかしくて、今にも気が狂いそうな葛藤を抱いて、テレビの前にいるのだろうか。
真理子の問いに、健一は表情こそ変えないものの、しばらく何かを考えている様子で押し黙った。そして一つずつ言葉を選びながら、また口を開く。
「俺の気持ちと、真理子の気持ちが、どこまで同じかはわからない。けど、俺はいつも願ってるよ。テレビを見てても、見ていなくても、真理子が、元気に帰って来ますようにって」健一はゆっくりとテレビの画面に目をやる。「真理子だけじゃないよ。桜庭さんだって、鷹野さんだって、みんな同じだよ。ただ元気に帰って来てほしいって、それだけ。テレビでヒーローが死ぬ瞬間なんか流されたら、堪ったもんじゃないし、それが身内や知り合いだったら、尚更嫌だからね」
「……」
「そりゃあ、不安はあるよ。きっと大丈夫だって信じているけど、もしかしたらっていう可能性は決して消えないからね。けど、こっち側にいる俺たちにできることは、ただ信じて、祈って、ここで帰りを待っていることだけだから」
シールドが壊れたあの日、健一は正直に怖いと言った。それでも行ってらっしゃいと見送ってくれて、ずっとここで真理子が帰ってくるのを待っていてくれる。玄関を開けて、おかえり、とその笑顔で言われると、自分が生きていることを実感する。次もまた、帰って来なくてはと思う。どんなことがあっても。
健一の手が背中に触れている。自分の背中を守ってくれる手だ。
「大丈夫、あの人たち、真理子のおにぎり食べてったんだろう? ちゃんと帰ってくるさ」
「……うん」
——そうね。
まだチーフのセクハラも訴えていないのに先に死なれたら困る。葵が先に死んだらその愚痴を聞いてくれる人がいなくなってしまうし、それこそチーフがおかしくなってしまうから駄目だ。1号のことは二人が何よりも優先して守るだろうけれど、万が一のことがあれば理由がどうあれ、二人はひどく責任を感じるはずだ。
だから、きっと、大丈夫。
「……幸子ママも、ついてるしね」
どうか、護って。
ヒーローが再び、夜明けを迎えることができるように。
* * *
「高速道路の真ん中を走れるのって最高じゃない?」
オレンジ色の明かりが並ぶ高速道路の上を走っている途中で、3号が歌うように言った。左右に車線変更を繰り返しながら、時折くるくると花弁のように跳び回って遊んでいる。
県境を流れる太い河川に並行している道路は既にすべて通行止めになっており、河口付近からこのエリアまでの近隣住民の避難もほぼ完了していると報告があった。常時渋滞しているジャンクションのはずが今は一台の車もなく、ただオレンジ色の照明がどこまでも規則的に並んでいるばかりで、蛇みたいに夜闇に浮かんでいる。
たしかに3号の言うとおり、こんな場所を生身の体で独り占めできるなんて、ある意味貴重な特権ではある。昔々に読んだ小説のワンシーンに、似たようなものがあったかもしれない。友人たちと夜通し歩いてどこかへ行くなんていうのは、もしかしてこんなものなのだろうか。
進行方向右側の川向こうには相変わらず煌びやかな大都会が広がっていて、真ん中にシンボルタワーがライトアップされている。あれがここと同じ世界で、つい先ほどまで自分もあの中にいたなんて、とても考えられない。こちらは人も、車も、何もかもが消え、聞こえるのはすれ違う風と、足音のみ——まるで自分たちだけが切り離されて別次元に飛ばされているのではないかという感覚に陥る。永遠に進むことのない、どこかの知らない世界に。
湾岸部に出るよりだいぶ手前で高速道路を外れ、大河に架かる東大橋で一旦足を止めた。墨汁が流れているのかと思うほど真っ黒な水面は、吹き抜ける生温い風に漣が立つ程度でとても静かだ。
来る途中のどこかで遡上中のモンスターと鉢合うかと思われたが、1号が取り付けてきた発信機の情報によると進行速度が遅く、こちらのほうが先に東大橋まで辿り着いてしまった。
「ここで迎え討ちましょうかね」
3号は暗闇に繋がる下流を眺めながら静かに言う。この近辺であれば河川敷に広い公園と中洲があるため、最も一般人の生活から遠く戦闘行為が行える。その方針には賛成だ。
橋の欄干に腰掛け、片眼で銃身のスコープを覗いている。発信機の信号はもうまもなく目視で捉えられる程度の距離にやって来ることを告げている。じっとりと湿った静寂が、緊張感を纏ってさらに暑さを増す。
「……やっと見えた」伝った汗が顎先から落ち、口元は歪んでいる。「どんな子なんだろ?」
両足をぶらぶらしながら独り言ちる。が、しばらくすると舌打ちをしながらスコープを下げた。「暗くてよく見えないなァ。とりあえず光ってもらおうか」
3号は、先ほど配った手榴弾を合図と共に河の中へ投げ込むよう1号とシャイニーに指示した。爆轟で攻撃すると共に誘導して上陸を促したいらしい。そんな爆破漁法をやったらまた「川にいる魚が可哀想」という脳みそが花畑な連中からのクレームが殺到しそうだ。
3号自身はここから発光弾を撃つと言う。モンスターに当たるとイルミネーションみたいに光り出すから、暗闇でもそれはそれは目立つようになる。
「できればそこの中洲に上げたいけどねェ、贅沢は言わないよ。ただ今日は三分じゃ済まないと思うから二人とも、力加減は気を付けて。以上、解散」落ちても助けない、と毎度の如く念を押されたが、助けられない、という意味だ。こんなに黒いところに沈んだら自分でも探せない。
分かれた1号は対岸の遊歩道に並ぶ街灯の上を飛び移っているのが見える。シャイニーは高速道路の遮音壁の上を歩きながら河のほうを確認しつつ、橋の欄干の上を歩き回っている3号に気を配る。彼女があんなに目立つところを彷徨き、ど真ん中に座って照準を定めるのは自身を囮に無言で呼んでいるからだということに、気付いていないわけではない。
あまり離れたくない。きっと彼女は攻撃されて万が一橋から落ちても撃つことを優先する。離れてしまうと助けに行くのが間に合わない。
ふと、足を止める。黒い水面が不自然な形に盛り上がっている。それはゆっくりと上流に向かって、音もなく移動している。
——アレか。
完全に水と同化して見える。性能の良い潜水艦みたいだ。
踵を返し、合図を待つ。向こう岸の1号も気付いたようで、水面の隆起スピードに合わせ、渡ってきた街灯をまた一つずつ戻り始めた。
橋の真ん中で、ライトが光る——始まりの合図だ。
ピンを抜く。同じタイミングで、1号が振りかぶっているのが見えた。
水中へと放り込むと、一瞬遅れて、轟音。
派手な水飛沫はまるで噴水みたいだ。
黒の隆起が大きくなり、うねった水が津波のように河岸へと押し寄せる。岸壁に衝突した波は、ただの水とは思えぬほどの重たい轟音を放って河の中央へと戻っていく。
一気に緊張が全身を駆けていく。下から伝わってきたのは想定をはるかに超えた衝撃だった。高速帯が揺れ、遮音壁の上にいるにもかかわらずバランスを崩しそうになった。
対岸の街灯の上にいた1号が遊歩道へ落下したのが見えたが、着地はしているし呑まれてもないため大事はなさそうである。波の衝突によって、街灯の細い鉄柱が傾いている。
——あれは、本当にただの水か……?
その疑問が頭に浮かんだと同時に、風と波音の合間を一つの銃声が貫いた。
一瞬、目が眩む。
河から顔を出した影は、あの川向こうの大都会のような煌めきを纏って、漸くその全貌を露わにする。
目を細めて観察。予想よりかなりデカい。鮭というより亀みたいな形だ。黒い巨体の周りに色とりどりの電飾が施された、センスの欠片もないイルミネーション。
悪臭が鼻をつく。湿気の中、鉄と、生ゴミの混じったような。
河が汚いせいか、それともモンスターのせいか——原因は定かでないが、できればあの水を全身に浴びるのは回避したいと思った。
遮音壁の上を移動しながら、ピンを抜いては投げ入れる。その度に盛大な水柱が立ち、光を纏った影はゆらゆらと逃げ惑っている。
生じた大波が寄せる度に、衝撃で高速帯が揺れる。安定しない壁から飛び降り、高架下の管の上を駆けた。
が、——。
「……痛ッたい!」
思わず声が出てしまった。
ぶつかり合った波飛沫が降り注いできた瞬間、当たった箇所に激痛が走った。
咄嗟に遮音壁の向こう側へと退避。
壁にガードしてもらいつつ息を整え、落ち着いて体中を確認する。締め固めた泥団子か、或いは雹が当たるような感触があった。
当たったと思われる腕には黒い何かが飛沫していて、触ると水のように簡単に拭き取れるがザラザラしていて、重量がある。指先で拡げてみると砂のような細かい粒子が含まれているようにも見える。
——これは何……?
やはりただの水ではない。拭き取った箇所の皮膚は当たった衝撃で赤くなっていて、大きいものが当たったところはジンジンと痛い。頭に直撃しなかったことを幸いに思うほどだ。
再び遮音壁の上から様子を窺う。1号の姿は遊歩道上に見えるが、3号が欄干にいない。夜闇の中に銃声だけが聞こえる。どこか良い狙撃ポイントを見つけたのかもしれない。
モンスターが動き回る度に大波が立ち、厄介極まりない。早いところどこか陸地に上げてしまいたい。
意を決し、先ほどの管よりさらに下の河沿いの遊歩道まで降りる。公園があるはずの河川敷は黒い波が押し寄せて浸水し、ここよりモンスターには近づけない。
——さて、どうする?
手榴弾は一旦休み、東大橋に向かって駆け出す。
自分が所持しているのは中短距離射程——つい最近改良が加わった最新型で感覚がよくわからないが、ここからではギリギリ範囲外である。下手に近づくと津波に呑まれるし、海抜の低い場所に長々と居座るのも危険だ。
橋の欄干目掛けて伸縮ケーブルを伸ばし、地面を蹴る。
その時、——
「シャイニー!」
二度見している間にケーブルを離しそうになった。3号が橋の下の配管に両足を掛けてコウモリみたいにぶら下がっている。
そんな体勢で一体何をしているんだ、と叫びそうになってハッとする。彼女は左腕でどこかを指している。その手の示す先に目をやると、河川敷の遊歩道まで押し寄せた黒い波に1号が足を取られていた。
「時間は稼ぐけど、無理ならすぐ戻って!」
「わかった! 河の水に気を付けろ、ただの水じゃない!」
即座にケーブルをそちらへ伸ばして跳ぶ。が、それに気付いた1号が叫んだ。
「ダメ、そこに降りないで‼︎」
その言葉に、降り立とうとした両足を咄嗟に曲げて街灯に掴まる。ぶら下りながらよく見ると、1号の両足は膝くらいまでが水に埋まっている。
「どうなってんの?」
「よくわからないんです。さっき着地した時波に呑まれたら、そのまま抜けられなくなってしまって……」傾いた街灯の柱にしがみついて抜け出そうとしているが、まったく動けないようだ。
見た目の性状はただの水だが、やはり何かが違うのは間違いない。「そうね……アタシもさっき飛沫を浴びたら痛かったもの。なんか、固くて、痣になりそう。何なのかしら、これ……」
「わかりません。ちょっと砂っぽいかと思うんですが、すごく重くて……痛みはないんですけど、冷たいし、深みに嵌ると自力では引き抜けなくなります」
重いというのは先ほど自分でも感じたばかりだ。それが両足の上に塊になって載っかっているとなると、引き抜くのは難しいかもしれない。
ひとまず浸水していない部分を選んでアスファルトに降り立つ。浸水箇所を踏まずに1号に近づくのは不可能だ。下手に入っていって、二人して水に嵌るわけにはいかない。
「ケーブルで引き揚げようとしたんですけどダメで……、すみません、先にあっちを片付けてきてください」
「馬鹿か、そういうわけいかないっつーの」
モンスターが河の中で動く度に波となって寄せたり引いたりするため、1号は徐々に沈んでいるし河のほうに引き摺られてもいる。このままいけば溺れてしまうのも時間の問題だ。淡々として見えてはいるが、その表情に不安の色は隠しきれていない。
街灯の柱にケーブルを巻きつけ、反対側を自分の胴体に巻いて、長さを調整しながら浸水する歩道に足を踏み入れることにした。
一歩ずつ、確かめながら近づく。足首くらいまでが埋もれ、たしかにとても重い。鉛の中を歩いているかのようだ。
ひとまず手で掘ってみることにしたが、一瞬で埋もれてしまいとても追いつけないし、重くて捗らない。
「足、感覚ある?」見上げると、1号は泣きそうな顔をして頷いていた。抱きかかえて引っ張ってみるも、やはり簡単には抜けず、痛がってしまうのでやめた。
——困ったな……。
これが木の柱か何かであれば力を使って無理矢理にでも引き抜いてしまうところだが、人間の体では脆すぎて、一歩間違えれば引きちぎれてしまう可能性がある。
「シャイニー、下! 下!」
慌てた1号の声に足元を見ると、波打ち際に立っているように足の周りが抉れ、波が寄せる度に黒い砂に埋もれていく。思っている以上に沈むのが早い。
「わッ! あわわわ……ッ!」慌てて片足ずつ飛び跳ねるが、足が重いし、たしかに夏の河とは思えぬほどに水が冷たく、ブーツの上からでもそれが伝わってくる。爪先をついた途端に埋もれ始め、波が引く度にズルズルと引き寄せられてしまう。
ケーブルを繋いでおいて正解だった。ここでバランスを崩して転んだら持っていかれる。
——どうする、どうする……?
3号のほうを見やると、ちょうどコウモリ状態から欄干の上に戻り、弾を装填しているが、モンスターはかなり橋に接近している。
無理ならばすぐに戻れ、が3号の指示だ。
モンスターは3号の囮に掛かっている。このまま行けばまもなく橋の下に広がる中州に上陸するだろう。さすがに3号一人では足りない。かと言ってこの状況が短時間でどうにかできるとも思えない。
「シャイニー」1号が呼んでいる。「行ってください、大丈夫です、先にあっちをお願いします」
「でも——」
「終わったら迎えにきてください」
手榴弾も余っているから大丈夫だと1号は苦い顔をして笑うが、そう簡単にわかりましたなどと言えるものか。
相変わらず打ち寄せる波を自由の効かない体勢で堪えているせいで、体力はそう長く持たないだろう。その上、飛沫が上がれば重たい雨が降ってくるし、徐々に沈んでいく恐怖とも闘わなくてはならない。よくもそんな顔をしていられると感心してしまうくらいだ。
ここで気絶して、もし倒れでもしたら、間違いなく沈んで溺れてしまう。そんなことになれば本当に助けられない。
屍を迎えにくることになるやもしれぬというのに。
——決められない。
どうするのが正解だ? ここに一人で残していって、さっさと討伐を終えて戻ってくれば良い?
でも、相手は新種だ。弱点もわからない。
簡単に殺せる保証など、ない。
どうする? どうしたら良い?
決めなきゃいけないのに——。
「お疲れッスー」
その時、非常に耳障りの良い爽やかな声が背後から聞こえ、振り返った。黄色のヒーロースーツ——もはや金色と言っても良いくらいに派手なヒーロースーツを纏った青年が、気怠そうに右手を振りながらこちらに歩み寄ってきた。
「え、なんで……⁉︎」
1号も目を丸くしている。それは、女を待たせているからと偵察を終えてさっさと帰ってしまったはずの2号であった。
「何してんの……?」
3号が呼びつけたのかと思ったが、どうやら違うらしい。後頭部を掻きながらヘラヘラと笑っている。「俺ヒーローなんで。姐さん、お困りッスよね?」
本当に、ヒーローである。
真面目なのかそうでないのか非常に判断が難しいが、今はそんなことを考えている場合ではない。「あと頼む……!」
「うーす、早いとこ終わらせちゃってくださいよー」
2号の台詞は背中で聞いた。
欠けていた判断力や理性が急速に戻ってくる。
心臓が痛い。
痛くて、怖くて、きちんと呼吸ができていない。だから体も動かない。
早く行かなくてはと思うのに、追いつかない。酸素が欠乏している。急に頭の中が真っ白くなって、何も見えない。
ただ、ただ、早くしろと叫んでいる。
ヒーローは、前線は、一瞬が勝負なのだと、よく知っている。訓練でさえ、一瞬の判断——過ちや力量不足で、いつも3号に勝てない。それが今、一瞬どころでは済まないロスをしている。
こんなに遠かったっけ——?
離れたつもりなんてなかったのに、東大橋がものすごく遠い。周囲の景色はまるでスローモーションを見ているかの如くゆっくりと流れていくのに、それにすら置いていかれてしまう。
——「みんながいないと全然強くないんだよ」
いつか、そう言った。最強だと言われた彼女がそう言ったのだ。
あれは謙遜なんかじゃない。彼女だって人間だ。「一人では全然強くない」——その意味を、彼女はよく知っている。後ろを守ってくれる人がいない怖さを知っている。
そんなの、自分だって知っていたはずなのに。
銃声に、視界が冴える。
早くしろ。間に合わなかったなんて許されない。こんなところで、ごめんの言葉も届かないような場所に行かせるなんて許さない。
誰よりも、自分自身が。




