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第三話 残照の香(3)雨上がりの日

 観覧室のドアを開けると、予想どおり本部長と開発室長の姿があった。突然入ってきた葵と真理子に一瞬驚いたようだが、上機嫌なのか興奮しているのか、二人はすぐに手招きをして観覧室の真ん中に呼び寄せた。

「何をさせるつもりです?」

「ヒーロースーツに組み込む警報装置を室長が開発中でね、それのテストだよ」

「警報装置?」

 その時、AIの声が室内に流れてきた。訓練をスタートする際に必ず流れる音声で、危険なので訓練場に立ち入らないよう警告する内容だ。

 ガラス張りの壁から下を覗くと訓練場の中にはシャイニーがいて、先ほど廊下で会った時にはついていなかった細いケーブルのようなものを体のあちこちに纏っている。

「あのコードは見苦しいので、完成品はスーツの中に組み込んで見えなくしてしまうから安心してください」

「あれ何ですか?」この質問は真理子がした。

「キミたちにも大いに関係のあることだから、見ておいたほうが良い。キミたちヒーローの命を守るための大切な装置だよ」

 自身がフリーズする直前の状態になったのを察知して、警報音を鳴らしてくれるシステムなのだと、室長は得意げに語った。

「今のウチは初心者集団だからな。戦闘に夢中になって固まったらどうにもならん」

「ただ一つ問題があってねえ——」室長は丸い指先で顎を撫でながら口を曲げている。「能力差についていけないようで、良いタイミングで反応しないことが多いんですよ。それでどうしたものかと思い悩んでいたところを、本部長直々にご相談に乗っていただけるということで」

「いやいや、そんなたいそうなもんじゃありませんから。そういうのは本物に試させるのが一番手っ取り早いんですよ」

「いやあ、助かりますよ、本当」

「それは……——」言葉にするのが恐ろしくて、上手く声が出てこない。「それは、つまり……あの装置が発動するまで、力を使って戦えということ、ですか?」

「まあそうだな」本部長は即座に頷いた。

「やめさせてください! そんなことをしたら、——」

「なぜ? 統括は自ら被験者になると立候補してくれたのだよ?」

 それを止めるのがお前の仕事だという台詞は、この男にはまるで通じないと悟った。

 慌てて場内向けのマイクを握る。「シャイニー、やめて! どうなるかわかってるでしょ⁉︎」

 突然響いてきた葵の声に、シャイニーは一瞬だけ観覧室のほうを見上げた。が、そこに葵と真理子の姿を認めても顔色一つ変えず、スタートボタンを殴りつけた。

「いやはや、まさかあの戦闘狂の二世を生で拝める日が来るとは」室長の声色が高くなる。「実はワタシ、昔からファンでしてねえ、生きてて良かったとはこのことですよ」

「それは良かった! まあ本家に比べたら出来は悪いですが、アレはアレで伸び代はありますから、そのためにも室長の素晴らしい発想と技術で、是非ともサポートをお願いしたい所存です」

 気付いたら、部屋を飛び出していた。どうかしている。あいつらはヒーローが何を犠牲にして戦っているのか知っているくせに、狂っているとしか思えない。

 戦闘中の訓練場に素の状態では入れない。ヒーローを止められるのは、ヒーローだけだ。更衣室に駆け込んで3号に変身し、十一階までの階段を跳んだ。社内で力を使うなんて前代未聞である。

 廊下から止まることなく待機室に入る。AIは絶えず場内に入るなと警告してくるが、そんなものは無視だ。

 チラッと目に入った設定用の液晶パネルは、最高レベルを示していた。一体何を考えているんだ。

 自動扉を開放すると、すぐにシャイニーの後ろ姿が目に入った。こんなに遠くからでも既に足元が覚束ないと認識できるのに、ご自慢の警報音など何も聞こえないではないか。

 機械を止めるより先に、攻撃されそうな背面の防御に体が動いた。こんな設定、3号ですら単独ではやらない。動きに少しでも不自由が出たらまずついていけないし、元々隙だらけの背後なんて一方的に攻撃されるがままになってしまう。

 そんなことくらい、本人もわかっているはずなのに——。

 攻撃体がマントに触れるギリギリのところで蹴り飛ばした。相手はあくまで機械だが、攻撃を受ければそれなりに痛いし、受け身を取らなければ怪我をする。

 ここでは銃火器は使用できないし、訓練用の模擬の銃はただの『水鉄砲』だ。使えるのは己の四肢のみ——自分には一つ足りないそれをまさかこんな形で悔やむことになるとは。

 四方から来る一体ずつ破砕しつつ、壁に設置された緊急停止ボタンを叩いた。

「ストップ、シャイニー!」

 背後から近付いたら簡単に取り押さえることができた。その3号の体重すら支えていられず、飛びつかれた反動で二人して転んでしまった。

 が、へたり込んでも腕はまだ力が使えるせいか、シャイニーは自分の背中にくっついている3号を振り解こうとしてくる。それも一瞬でも気を抜けば3号など簡単に吹っ飛ばされてしまうような本気の力だ。

「待ってストップ! 私だよ、わかる⁉︎」片腕しかないのが辛い。時々シャイニーとは一緒に模擬戦闘訓練をやることがあるが、こんなに力が強かったろうか。

 奥歯を噛み締めて堪える。さすがに男性の力だ、必死にならないとこちらがやられる。何度名前を呼んでも届いている手応えがなく、もしかしたら3号が停止スイッチを押したことも、後ろにいるのが3号だということすらも認識できていないのではとも思えた。

「やめなさい、もう戦わなくて良いの‼︎」

 その時、聞いたことのないアラーム音が鳴り響いた。毎朝スマートフォンが知らせてくる目覚めの音に似ている。それが室長の言っていた警報音だと気付くのに、一瞬の間を要した。

 続けて、マイクを通して観覧室の声がスピーカーから流れてくる。

「ご苦労、ご苦労。いやあ、良いものを見せてもらったよ。鷹野クンもサービスありがとう。ご協力に感謝するよ」

 3号が見上げると、本部長と室長が満面の笑みで拍手をしていて、互いの肩を叩き合いながら部屋を出ていくところだった。

 ——ふざけやがって、クソ野郎共が……!

 止まない警報音が怒りの感情を煽ってくる。止め方もわからないため、3号はとうとう諦めて体に巻きついているケーブルの一部を無理矢理引きちぎって外した。

 場内が急にしんと静まり返る。二人分の息遣いだけが空間に響いている。

「シャイニー、もうやめて。もう誰もいないし、しなくて良いの」

 もう力を入れなくても抑えが効くようになってきたため、そろそろ限界値を超えていると思われるが、それでもなお、力の入らない脚で泣きながら立ち上がろうとしてしまう。

「英斗」3号は正面に回り込み、支えていないと倒れてしまう体を抱き寄せて頭を撫でた。「ごめんごめん、もっと早く止めてあげたら良かったね、ごめんね」

「……なんで、そっちの名前で呼ぶの……?」

 しばらく頭を撫でたり体を摩ったりしていると、水浸しの小さな声が聞こえてきた。

「あんたの名前でしょうが」

「……気持ちが悪い……」

「馬鹿だねェ、本当……良いよ、全部出しちゃえよ、大丈夫だから」

 英斗は小さく首を横に振る。「葵が汚れるから、嫌」

 そんなこと言うくらいなら最初からこんなことしないで。

 言おうかとも思ったが、やめた。この様子だと、今話していることはおろか、戦闘中も途中から記憶がないなんてことも十分あり得るだろう。半分意識が飛んでいたかもしれない。

「……大丈夫、もう良いよ。大丈夫だからもう落ちて良い」

「……——」

 何か言っているような気がしたが、よく聞こえなかった。聞き返そうと思った時にはもう肩の上から小さな寝息が聞こえていた。

 ふっと、自分も何かが切れたのか、意識が飛びそうになるのをギリギリで堪えた。そこまで使ったと自覚していなかったのはどうやらアドレナリンの招いた誤解だったようだ。

 頭を振る。眠い。駄目だ、まだ、自分は落ちたら。

「真理子ちゃぁん! 医療班呼んでくれるー?」

 観覧室に向かって叫ぶと、真理子がマイクで応答してくれる。「もう呼んであるから大丈夫!」

「さすがァ」

 真理子はニコニコしながら親指を立て、それから観覧室を出て行った。こちらに来るつもりだろう。

 医療班はじきにやって来るだろうが、それまでの間に体中に残っているケーブルをできる限り剥がして捨てた。こんな首輪みたいなもの、完成したって絶対に着けてやるものか。役立たず。

 体は動くが頭がクラクラする。久しぶりに、本気で力を使ったのだと今になって気付く。それでも昔ならこんな瞬発的なものくらい大したことはなかっただろう。やはり年齢に勝てないというのは本当の話なのだと痛感する。

 酸素が欲しいと思っていたら、自動扉から中に入ってきた真理子が何も言わないのにブランケットと携帯用の酸素缶を持っていて、本当に気の利く子だと感心した。「助かる」

「ごめん、あの部屋一個しかなくて……」

「良いよ、大丈夫、ありがとう」応急処置だが、それでも吸っていると頭が冴えてくる。「やっぱ真理子ちゃん、いてくれて良かったわ」

「あたしは何にも……」持ってきたブランケットをシャイニーに掛けながら、彼女は首を振る。

 事実なのだから謙遜しなくて良いのに、と3号がぼんやりと真理子の所作を眺めていると、彼女の手が小刻みに震えているのに気付いた。よくよく見ると、呼吸が浅くてあまり顔色が良くない。

 大丈夫か、と口を開きかけた時、医療班が数名体制で訓練場に入ってきた。走り寄ってきた班員にシャイニーを預け、症状を伝える。

「なんでまたこんなになるまで訓練を?」リーダーからはそう怪訝な目で訊ねられたが、理由ははぐらかした。本当は全部真実を話してしまいたかったが、うまく話せるほど正常ではなかったし、そんなことに労力を使いたくなかった。

 医療班が不機嫌なのも理解はできる。つい数ヶ月前まで暇を持て余し、人数は最小限に縮小されていた窓際部署が突然休みのないフル稼働を強いられるようになり、常に緊張感と人手不足に苛まれる。多少なりとも増員はされたようだが、こんな『本番』でもないところで余計な手を煩わせないでくれと言いたい気持ちはわかる。

 ピリピリとした空気の中、一人だけ、懸命に他の班員のサポートをしている若い青年がいるのに目が留まった。胸元のポケットに、新米用の若葉バッジが付いている。

「貴女の体調はいかがですか?」

 ひと通りの処置が終わった後、彼は3号に声を掛けてきた。片付けをしている他の誰も訊ねて来なかったのに、驚いてしまった。

「私は良いわ。ありがとう」真理子の酸素缶が良い仕事をしてくれたため状態は回復している。処置は断り、重症者のほうを早く連れて行ってやってくれと急かした。

 が、その時ふと気付いて、3号は行きかけた彼を呼び止めた。ペンを借り、その胸ポケットに入っていたくしゃくしゃのメモ帳の端に自分の連絡先を記す。滲んだような字になってしまったが、何とか読めはするだろう。

「あとで行くけど、それまでに何かあったらここに。この人にはもう、緊急連絡先がないから」

 若葉クンはハキハキと返事をすると、先輩班員を追いかけて訓練場を出て行った。


* * *


 観覧室で、まるでスポーツの試合でも観戦しているかのような熱気と高揚感で訓練場を見下ろす本部長と開発室長の隣で、真理子もまた、それを見ていた。だがその心には、二人と同じような興奮など微塵もなく、真理子はただひたすらに、自分の顔から血の気が引いていくのを感じていた。

 ——あれって、本当にシャイニーなの……?

 力の加減をまったくしていないのはすぐにわかった。これは装置のテストで、相手は偽物のモンスターだ。本物ではない。フリーズ状態まで持っていくことが目的なのだから、早く結果を出すには正しい戦い方と言えよう。しかし、あまりにも、違いすぎる。

 ヒーローの力の基本は、個人の能力に依存する。だからそもそもの人間の構造として、男性のほうが優位になるのは否めない。物を持つのも、走るのも、一撃の威力も、どう頑張ったって勝てない。

 シャイニーはあの容貌だが中身は男性である。真理子の知る幸子のシャイニーとはまるで別物だ。しかし、それをおいてもあんまりだ。喧嘩は強いほうだとチーフは言ったが、あれではただの暴発だ。相手を攻撃するその中に、自分を守るための保護神経が一切働いていないのを感じる。

 あそこにいるのはシャイニーでもなければ、真理子の知るチーフでもない。そもそも目つきが違う。普段討伐に当たっている時とも、自分に対して文句を言う時とも、先日パパラッチをとっちめた時ともまるで別人である。

 あれは、一体誰なのだろう?

 首を絞められているような感覚だ。足がすくんで動けない。3号は部屋を出て行った。訓練場に向かったのだろう。自分もあとに続くべきか? いや——。

 わかる。あの場所に行ったところで、自分にできることは何もない。リミッターを完全開放し、計画性もなく極限の力を放出している男性相手に、いくら変身したとして自分は敵わない。

 一般人に愛想を振り撒いている時、娘の髪を結ってくれる時、自分を心配してくれる時——素直とはお世辞にも言えないし、言い方は失礼だし、頭に来ることもたくさんある。でもチーフには必ず愛情や優しさがあって、いつだって憎まれ口の裏側で相手のことを想っているのを真理子は知っている。目の前のそれは、まるでそんな自分自身を滅したいと叫んでいるように映った。

 ——早く、来て。3号。

 あれを止めてあげて。

 ひたすらにそう祈っていた。心臓の鼓動が煩くて、室内に響く不愉快な歓声をも打ち消す。

 リミッターを完全に解除したまま無茶苦茶に力を乱発しているため、当然疲弊するのも早い。しかし足元がふらついて立っていることすら困難な状態になっても、警報音が鳴る様子はない。

「ね? 反応していないでしょう」横で開発室長が唸っている。「動物実験の段階でもこういったエラーが多くて、どうしたもんかと思ってましてね」

 だが、本部長はこれを大した問題と捉えなかったようだ。装置に欠陥があると頷くことで室長の機嫌を損ねたくないという事情によるものである。

「本当にエラーなのです? 本当はまだいけるのに怠けているだけでは?」

「え?」本部長のその返しには、さすがの室長も戸惑いの色を見せた。「ま、まあ……可能性として、ゼロではありませんが……」

「怠け防止にはうってつけの装置ですな。人手が足りんと言っている時に、疲れただ何だって聞いちゃおれんのですよ」本部長は鼻息を荒くする。「近頃の若いのはすぐサボりたがるのでね、困っておるのですよ。()()は少々部下に甘すぎるところがありますから、ちょうど良いですよ」

 あと一瞬警報音が鳴るのが遅かったら、真理子はきっと本部長を殴っていたと思う。

 下を見ると、変身してきた3号が後ろからシャイニーを押さえつけて宥めているところだった。が、まだ気を抜けない。鳴り響くアラームの中、3号のそれにも抵抗する素振りを見せるシャイニーに、3号はかなりの力を要している。

「良いものを見せてもらったよ。ご協力に感謝する」

 観戦を終えた二人は満足そうに拍手をしながらさっさと部屋を出て行った。その後ろ姿に、呆れて言葉もない真理子はただその場に立ち尽くすしかなかった。

 バタン、と扉が閉まると同時に、アラーム音が消えた。突如現れた静寂の中、下にいる二人の荒い息遣いと、3号がシャイニーに投げかける声が反響している。3号に抱き締められているシャイニーが泣いているのだとわかってホッとしたら、急に膝の力が抜けた。

 医療班を呼ばなくてはと、自分の頭はそう言っている。言うことを聞かない体で何とか壁に貼り付いた電話機のところまで這っていき、内線電話を掛けた。訓練場でと伝えると、電話の相手は少し不機嫌そうな口調になって最後は乱暴に受話器を置かれたが、どうでも良い。とにかく早く助けてくれれば、何だって構わないと思った。

「真理子ちゃぁん!」下で3号が呼んでいる。「医療班呼んでくれるー?」

「もう呼んであるから大丈夫!」

 真理子はできるだけ明るい声でマイクに向かって喋った。3号が笑顔を返してくれるが、彼女自身もさっきの戦闘で相当に消耗してしまったはずだ。

 部屋の備品用ロッカーの中には、携帯用の酸素缶は残りが一つしかなかった。あとで備品係に補給を依頼しようと思い、最後の一つとブランケットを持って訓練場に向かう。何も考えずに階段へ来てしまったが、まだ膝が笑っていて油断すると転んでしまいそうだ。

 訓練場の自動扉は開いたままだった。真ん中にいる二人がすぐに目に留まり、駆け寄って酸素缶を3号に当てた。思ったとおり、近くで見ると3号は蒼白い顔をしていて、額には薄らと汗が滲んでいた。実際のモンスターとの戦闘で、こんな状態になった彼女を真理子は見たことがない。

「やっぱ真理子ちゃん、いてくれて良かったわ」

 3号は笑顔でそう言ってくれるが、自分は何の役にも立っていない。むしろ今は、申し訳ない気持ちのほうがずっと大きくて、上手い返しが思いつかない。

 シャイニーのほうは3号の肩に頭を置いて腕の中で寝ている。防御体制を取らなかったせいであちこち擦り傷だらけになっており、特に肘から先が甚だしい。あれだけ激しくやり合って、折れていないのが不思議なくらいだ。

 不意に、自分の中で恐怖心が蘇る。それは今目の前にいるシャイニーに対してではなく、遠い昔の記憶だ。まだ真理子がヒーローになる前の、研修の時。

 当時はまだヒーローはお助けアイドルだった。しかし万が一の時には戦いに出ることを強いられるため、当然戦闘訓練はあったし、ヒーロースーツの着こなし方や力のコントロールを学ぶのは必須科目だった。

 今考えれば全員が初めての経験なのだから当たり前のことだが、当時は異常と思えるほど毎日医療班が出動していた。コントロールができず、フリーズする者が後をたたなかったからだ。病院送りになって、そのまま退職する者も少なくなかった。真理子はそういう同期生を何人も見てきた。この恐怖心は、その時の自分が持っていたものだ。

 もうとっくに手放したと思っていたのに、忘れていただけだったのだ。十八年も経つのに、まだその爪痕は消えていないらしい。

 眠っているシャイニーにブランケットを掛けてやったのは、それらを見ないようにしたかったからだ。自身を震わすその記憶も、感情も、出てこないでほしい。今だけは。

 と、後ろからバタバタと複数の足音が聞こえ、医療班が到着。訓練場の隅で壁に背中を預け、彼らの流れるような作業をぼんやり見守っていると、あっという間に撤収していってしまった。

「お疲れ、真理子ちゃん。立てる?」

 ふと気が付くと、3号が目の前に立って右手を差し出していた。

「あれ……3号は、良いの? 診てもらわなくて」

「私はもう大丈夫」これのおかげ、と3号は脇に挟んだ酸素缶を指した。真理子が先ほど渡したものだ。「ありがと。ちょっと休憩しよ?」

 真理子は差し出された3号の手を取り、立ち上がった。




 下フロアの休憩スペースには誰もいなかった。珍しいと思いつつ、少し考えて、今日が年に一度のイベントデーだったことを思い出す。普段は社内にいる人も手伝いに駆り出されて、そのまま帰社しない人が多いのだろう。

 なんだかつい先ほどまで自分もあのイベントで一般人の前に出て、笑顔を振り撒きながら手を振っていたはずなのに、まるで遠い昔のことのように感じる。

「はい」

 ソファに腰掛けていると、いつの間にか着替えを終えて戻ってきた葵が缶コーヒーを差し出してきた。砂糖入りの甘ったるいやつだ。

「ありがとう」

 指先にまだ力が入らず、落とさないように神経を使って受け取った。プルタブを立てるだけの簡単な作業でさえ、今日はなぜか重労働に感じる。

 葵は隣に腰を下ろし、背凭れに体全体を預けて上を向いている。長く息を吐いて、その後はずっと言葉もなく沈黙が流れている。何を考えているのだろうと気にはなるが、そちらを見る気にはなれない。

 一口飲んで、息を吐く。やっと少し落ち着きを取り戻してきた。締め付けられていた胃袋が解放され、伝い落ちた珈琲牛乳が胃壁に纏わりつく。一日中目まぐるしく変わり続けたすべてが、やっと止まったと思えた。騒がしすぎたのか、ここへ来てからずっと耳鳴りが止まない。

 居心地の悪い静寂ではなかった。だが、真理子は少しだけ迷って口を開くことにした。

「あのね、葵ちゃん」暗い話をしたいわけではなかったので、なるべく普段どおりの声になるようにと思ったが、発してみて、聞こえてきた自分の声は溜め息にも似ていた。

「何?」葵は短く訊ねる。

「あたし……今まで一度もフリーズってしたことないんだ」

 もしかしたら、ヒーローのことなら何でも知っている黒衣なら、そのことも知っていたかもしれない。

「すごいね」だが、葵はそう返事をした。背凭れに寄り掛かったまま瞼を閉じて、微かに笑っている。「なかなかいないよ。みんな、大体一回はやるんだ。なりたての頃にさ」

 たしかに真理子が新人の時、訓練中に同期が倒れるの度々見てきた。それぞれの症状に違いはあるもののキツそうなのは同じで、その様子を見て具合が悪くなる人もいたくらいだった。

 自分はそれを味わいたくなかった。知らぬ間に真理子の中に居着いていたその恐怖心は、無意識に力をセーブする癖となり、真理子自信を守るようになった。守って、守り続けて、十八年——結局一度もその経験がなく過ごしてきてしまった真理子は、未だに自身の限界を知らない。

「葵ちゃんも、チーフも、現場であたしのこといつもフォローしてくれるけど、全然大丈夫そうだったから……そう簡単になるものじゃないのかなって、思ってた……」

 話をしながら、段々と申し訳ない気持ちになってくる。

「そう簡単になるものでは、ないよ。普通はね」気怠そうに、葵は目を閉じたまま言った。「新人ならともかく、さ」

 私も、と葵は苦々しく言った。

「葵ちゃんも?」

「昔ね。研修の時もやって、あと現場でもやったなァ」

 驚いた。彼女ほどの実力者でもそうなってしまうのかということもあるが、彼女の言う現場というのは、モンスターとの戦闘の最中という意味だ。モンスターを前にして身動きが取れなくなることが何に繋がるのかは、口にせずともわかる。

 かと思うと、急に上体を起こし、開いた膝の上に肘をついて首を垂れた。盛大に溜め息を吐き、今度は鋭い口調で続ける。

「さっきのアレは特殊事例だよ。正気の沙汰とは思えない。殺す気なの?」いつも飄々(ひょうひょう)としている葵が珍しく憤っているのは真理子も感じた。「あいつら知らないから簡単に言うけど、フリーズするのって結構キツいんだよ」

「見てればわかるわ」

「しないで済むならしないほうが良い」葵は深々と溜め息を吐いた。「あの子も馬鹿でしょ。わかってるはずなのになんでああいうことするかなァ……」

 葵はそう項垂れて黙り込んでしまった。

「……大丈夫なのよね? チーフは」

「うん。何日か寝たら普通に起きてくると思う。たぶんね」淡々と返答しつつも、内心穏やかでないことは察した。「……ごめん、私行くね」

 葵がどこへ行くのか真理子にはすぐ想像がついた。同行したい気持ちもあったが、今は葵に任せようと思い直し、ただ頷くだけに留めた。

「気を付けてね」

 自覚があるかはわからないが葵は相当に顔色が悪く、平常心を装ってはいるものの普通でないのは真理子にはわかっていた。そんな自分を他人に見られたいとは思わないだろう。

 休憩室を出て駆けていったその後ろ姿を真理子はしばらく見ていた。現場に立っている時の3号の背中はいつだってとても大きく見えるのに、今はずっとずっと小さく見えた。


* * *


 呼吸がうまくできていないのが自分でもわかって、葵は走るのがとても苦しかった。そのせいか、歩いても行けるくらいの近距離なのに、気付けば通りすがりのタクシーを呼び止めていた。行き先を告げると運転手は一瞬変な顔をしたが、そのまま走り出してくれたことには感謝している。

 英斗が本部長らに声を掛けられたのは偶然だろう。だが、あの装置の被験者になることを了承したのはたぶん、その昔に英斗が土砂降りの雨の中を傘もささずに家に帰ってきたあの時と同じ理由だ。

 根拠などない。ただ、そんな気がするだけだ。

 夜の病院は人気がなくてとても静かだ。煩い心臓の音を必死に鎮めようとするのに全然うまくいかない。待合いのロビーを通り抜ける数十メートル、ほんの少し速く歩いただけなのに息が上がっていて情けなくなった。

 受付に声を掛け、特に命に別状はなく、もう個室で寝ていると教えてもらっても鼓動は落ち着かない。走り出したい衝動を抑えて部屋の前まで行き、ドアを開け、やっと顔が見られて、呼吸しているのを確認できて、初めてきちんと息を吐き出せたような気がした。

 当の本人はスヤスヤと平和そうな顔で寝ていて腹が立つ。

「あーぁ……女の子が傷作ってたらダメだって。馬鹿だねェ……」

 加減もせず闇雲に力を使って攻撃したせいで腕などに擦過傷がつき、先ほどはなかったはずの痣まで浮いており見ていて痛々しいが、医者の話では折れてはいないらしい。

 いつしか自分より大きくなってしまった、傷だらけの手を撫でる。喫茶店ですぐに後を追って、一緒に会社に戻っていれば良かった。あれは英斗の心境を読み切れなかった自分の判断ミスだ。

 ヒーローは、通常の人間であれば使わない力——いわば、人間にとっての緊急用予備タンクのようなものを使って戦っている。フリーズ状態というのはその予備タンクの中身が空に近づいているという自身の体からの警告で、それを越して意識が消失するまでいくというのは、その予備タンクが完全に空になり、これ以上は生命維持に最低限必要なエネルギーをも確保できないと判断して無理矢理電源を落としたということを意味する。

 今日一日、食事も取らずにいたのも致命的だ。最初からエネルギーが枯渇している状態であんなことをしたら、簡単に体は悲鳴を上げる。

 焼きそばでもチョコバナナでも良かったのだ。あの喫茶店へ行く前にラーメン食べようと言ったら頷いたかもしれない。

 自分が言えばきっと、こんなくだらないことで寿命を使わずに済んだ。

「……ごめんね」

 今になって、自身の手にも痣ができていることに気付いた。触れると痛むが、これくらいどうってことはない。英斗が眠っていてくれて良かった。きっと相当に気にするだろうから。

 いつ目が覚めるのか知らないが、せめて夢の中では全部忘れていてくれたら良いと、葵は願わずにはいられなかった。




 三日ほど経った頃、英斗が目を覚ましたと葵の元へ連絡が入り、病院を訪ねた。あの若葉クンと、渡したメモ書きがきちんと仕事をしてくれたようだ。

 葵が部屋のドアを開けると、英斗はその長い髪を少しずつ束にして編んでいるところで、指先が軋んで上手く動かないからリハビリをしていると言った。まだ眠そうではあるが、大事はないようで、その顔を見られただけでも安心した。

 ただ、少し話してみると、あの実験のことはやはり断片的にしか記憶になく、なぜ自分が今まで眠っていたのかもよくわかっていなかった。

「どうしてあんなものの被験者になったの?」

 わからない、という回答になるかもしれないと思った。が、英斗は首を傾げながらぼんやりと何かを考えて、やがて「あんなこと、他の誰にもやらせられないよ」と答えた。

「それだけ?」

 理由はわからないが、なぜか自分は珍しく怒っているらしいと、自分で発した声を聞いて気付く。

 タチが悪すぎる。覚えていないと言われたほうがよっぽど良かった。

「だからってあんたがそれをやらなきゃいけない理由にはならないでしょう。あんたに何かあったら、私どんな顔して幸子さんに会えば良いの?」

 誰かが命を落とすなんてこの業界では茶飯事で、そんなことでいちいち心に波風を立たせていたらキリがない。ヒーローならば、皆それくらいの覚悟は常に持っている。自分だって、そうだ。なのになぜ、何に対して、自分は今こんなにも腹を立てているのだろう?

 英斗は黙りと頭を傾けたまま、困ったように少し下を向き、編み上げたばかりの髪をまた解いてしまった。まるでふわふわと柔らかなショールを羽織っているように見える。

 葵は溜め息を漏らしながら、ベッドの縁に腰掛けた。英斗はそういう奴で、それは昔からよく知っている。

 知っている、はずなのに。

「……ごめんね」 

 怒っても仕方がないのはわかっているのに、こんなのはただの八つ当たりだ。むしろ、自分のほうが怒られたって良いくらいだ。

 お前なんかに、何がわかるんだ、と。

 英斗はやはり黙りとして、葵は顔を上げるのが怖かった。と、頭の後ろで何かが動いているような気がしてゆっくりと視線を横にやると、葵の後頭部の下から垂れ下がっている髪を英斗が編んでいるのが視界の隅に入った。

「……」

 英斗は葵がそれを見ていることには気付いていないようで、ベッドの上に裕につくほど長い髪を黙々と編んでいたが、その楽しそうな様子を見ていたらなんだか腹が立ってきて、先端の青色部分まで編み上がるのを待ってから、わざと思い切り頭を振ってやった。

「あー……」無情にも指先を抜けて解けてしまったそれを英斗は口惜しそうに見ている。

「ねェ何してんの?」

「リハビリだよ」答えながらもそっぽを向いて口を尖らせている。「せっかく可愛くしようと思ったのに」

「失礼ね。元々可愛いでしょうが」葵は反発しながら短く息を吐いて、仕方なく髪を結んでいるゴムを外してやった。「やるんならちゃんとやってよ。私を下げないでちょうだい」

 葵は頭を振りつつ手櫛で髪を解きながら彼に背中を向けた。

「ちゃんとできるかなァ……」後ろから英斗が小さく唸っているのが聞こえる。「何しても良いの?」

「良いけど変なのにしたら許さない」

「我儘なオーダーだなァ……」ぶつぶつと独り言ちながら、英斗は勝手に髪を弄っている。「葵は黒いのが綺麗だから、(かんざし)とかを挿したら似合うと思うんだけどねェ」

 そんなもの持っていないし、付けたこともない。少なくとも実家を出てからは、一度も。

 髪は昔からずっと——それこそ英斗に初めて会った頃からこの長さだし、面倒だからいつも一つに括っているだけで済ませている。英斗みたいにぐるぐると手を施したりするのは自分の性に合わない。

 実家にいた頃は母が所謂女の子らしいものが好きだったから、ネックレスやらヘアアクセサリーの類いをいつも買ってくれて持っていたが、家を出る時に全部置いてきてしまった。可愛らしいレースのたくさんついたワンピースも、フワフワのコートも、自分には必要ないと思った。

 ひょっとしたらあの中に、簪の一つくらいあったかもしれないと考えると、少しくらい持ってきておいても良かったかなと、今になって思う。もう三十年以上前のことだから、あったところでそんなものはもう使えないだろうが。

「……あの男の人に会ってみて、どう思った?」

 答えが返ってくるかどうかはわからなかったが、後ろで何かの鼻歌を歌いながら自分の髪を引っ張っている英斗に、葵はそう訊ねてみた。

 案の定、彼は何の反応も示さず、質問にも回答しない。だが、そんな質問をしたことも忘れてしまうくらいに時間が経ってから、彼は口を開いた。

「この感情に何て名前を付けたら良いのかわからない」

 淡々としていた。それはあの訓練場のAIが発する警告のように、何の感情もなく、人の心を通り抜けてしまう種類のものだった。

「ねェ葵、やっぱり、あの人、『お父さん』だと思う?」

「……」迷う。自分の中の答えはイエスだ。でも。「……どうかな? 幸子さんは、何も言ってなかったよ。私にも」

「そう」

「あんたはどう思うの?」

 英斗はまた小さく唸っている。葵の髪型を悩んでいる時と、さして変わりはない声で。

「わかんないけど、別に、どうでも良いかな」見えないが、たぶん首を傾げているのではないかと思う。「父親なんて、最初からいないものと思っていたし……興味もなくて、母からも聞いたことがなかったから。ただ、何となく……変。気持ちが悪い。自分が」

 ああ、やっぱり——。

 本人に自覚があるかは定かでないが、おそらくそれが被験者になった本当の理由だ。

 何と返したら良いのかわからない。そんなことはないと葵がいくら言ったところで、自分自身の価値観を変える絶対的なものにはなれない。社交辞令の一種だとでも思われたらおしまいである。

 ——……なんでそんなこと言うの?

 まるで価値のないものに対してどうでも良い感想を述べるみたいな、軽い言葉で、(ないがし)ろにしないで。

 本当に、そんなことはないのだ。ただ信じてもらえる自信がない。何の根拠も説得力もないと自分でわかっているから尚更だ。真理子は大丈夫だと言ったが、真実は本人にしか聞くことはできない。

「はい、できた」

 ハッとして振り向くと、英斗がこちらを見てニコニコしていた。

「あそこに鏡があるよ」そう言って、入口脇の洗面所を指す。立ち上がって鏡を覗くと、見たことのない人がそこに立っている。

「うわァ、これすごいね。後ろどうなってんの?」頑張って体を捻っても側頭部辺りまでしか見えない。久々に首周りの風通しが良い。

「変にはしてないつもりなんだけど」

「あんた本当器用ね。どこで勉強すんの? これ」

 普段、真理子の娘にせがまれて髪結の真似事をしているのは知っているが、自分の頭をしてもらったのは初めてで、年甲斐もなくはしゃぎたくなる。

「……ねェ、葵」

 鏡の向こうの自分を観察していると、英斗が呼び掛けてきた。振り向くと、英斗は変わらずベッドの上に座りながらこちらに微笑んでいたが、その顔はどこか寂しそうに見えた。

「どうしたの?」

 葵はその場から、息を吐くように訊ねた。そうっと訊かないと、割れてしまうんじゃないかと思った。

 彼は少し俯いて、喉元まで出かかった何かをどうすべきか、随分と長いこと迷っていた。近づきもせず、離れもせず、葵はただそこに立って、それをひたすらに待った。正直なところ何が出てくるのか想像もできないし、それに上手く応えられるのかもわからない。それでも怖くて震えそうになる自分を奥歯を噛み締めて抑えつけた。それは、一つの覚悟だ。

 彼の前で『英斗の理想』に成るのは嫌。

 鷹野葵は鷹野葵のままで、そこに在りたい。

「アタシって、母に似てる?」

 やがて投げられたのは、そんな簡単な質問だった。息をするのも忘れているほど構えていたのに、拍子抜けしてしまった。

 本当に、抜けすぎて、涙が出そう。

「……ええ、——」葵は何度も頷く。自分が必死だという自覚があった。「そっくりね。シャイニーになると、特に」

「ふぅん……」鼻歌の続きを奏でるように、英斗は葵の答えを受け入れてくれる。「なら、良いか」

「どうして?」

「もし父の方に似ていると言われていたら自分をめちゃくちゃにしてしまうだろうから」

 彼は笑いながら言った。葵にはそれが冗談で言っているようにはどうしても聞こえなかった。

「大丈夫、——」声が震えそう。でも言いたいのだ。どうか、伝わってほしい。「あんたは、可愛いよ。可愛い。とっても可愛い」

 鏡に映る、髪を結い上げた葵より、ずっと可愛い。

 だから、大事にしてほしいの。

 ——私の大好きなものだから。

「当たり前でしょう」

 英斗はそう言って、本当に嬉しそうに笑った。肌につくじっとりとしつこいくらいの湿気に鬱屈する、梅雨のはじめの話だ。



To be Continued...

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