温室の土
昼の鐘が鳴ってしばらくすると、クロードが盆を抱えてやってきた。
「厨房に頼んで、喉に優しいものを作ってもらったよ」
盆の上には、湯気の立つ麦の粥と、薄く切った梨が載っている。
戸口では、ジルベールが腕を組んで立っていた。食事は騎士の立会いで、という決まりは、相手がクロードでも変わらない。
「ありがとう、兄様」
匙を取ると、クロードは寝台のそばの椅子に腰を下ろした。
私が一口飲みこむのを、ほっとしたように見守っている。
昨日までのレティシアなら、きっと「こんな貧乏くさいもの」と盆ごと払いのけていただろう。そう思うと、粥の温かさが少しだけ胸に痛かった。
「朝は驚かせてごめん。眠り草の根は、先生に届けておいたよ。レティがいらないなら、しばらくは使わないように伝えてある」
「うん。助かる」
私は匙を置き、できるだけ何気ない調子で切り出した。
「ねえ、兄様。毒の瓶のこと、覚えてる?」
クロードの手が、膝の上で止まった。
「……忘れられるわけがないよ。法務院で、何度も見せられたから」
「どんな瓶だった? 私、自分の部屋から出てきたっていうのに、形すら思い出せなくて」
クロードは、ちらりと戸口のジルベールに目をやった。
ジルベールは動かない。止めるつもりはない、ということだ。
「小さな緑の硝子瓶だよ。親指くらいの大きさで、銀の栓がついていた」
彼は指で、宙に小さな形を描いてみせる。
「実はね、あれと同じ形の瓶が、温室にもたくさんあるんだ。叔母上――レティのお母上が、薬草の抽出液を保存するのに使っていた瓶。王都の硝子工房に、まとめて作らせたものだよ」
母の瓶。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「じゃあ、毒は温室の瓶に入っていたの?」
「わからない。ただ、法務院もそこは調べたよ。温室の奥の薬品棚には鍵がかかっていて、瓶の数は帳面と合っていた」
「鍵は誰が持っているの」
「侍女頭と、僕。棚の掃除や瓶の補充は、マルトがよく手伝ってくれていた」
クロードは、困ったように眉を下げた。
「誤解しないでね。マルトを疑っているわけじゃない。あの子は真面目で、言われたことをきちんとやる子だ。ただ、温室のことなら、僕の次に詳しいのはたぶんマルトだと思う」
私は黙って梨を一切れ口に入れた。
みずみずしい甘さが、言葉の苦さをごまかしてくれる。
昨日、蜂蜜の壺の件で、マルトの名前が使われた。
今日、温室の瓶の話で、また彼女の名前が出た。
クロードの言葉には、少しの悪意もない。むしろ、マルトをかばおうとしている。
それなのに、私の頭の中で、マルトの立っている場所が、少しずつ暗いほうへずれていく。
――これも、偶然なのだろうか。
「兄様、もう一つだけ。茶会の日の朝、温室の薬品棚は開いていた?」
「朝? どうだったかな」
クロードは少し考えるように天井を見上げた。
「花を飾るために、朝から人の出入りは多かったよ。レティも、花を選びに来ていたよね。覚えてない?」
覚えている。
茶会の日の朝、温室で花を選んだ。抜け落ちた午後の、直前の記憶だ。
けれど、その場面に薬品棚があったかどうかまでは、霧の向こうに沈んでいる。
「……ごめん。花のことしか」
「いいんだよ。無理に思い出そうとしなくていい」
クロードは立ち上がり、空になった粥の器を盆に戻した。
「何か思い出したら、すぐに教えて。僕にできることなら、何でもするから」
盆を抱えて出ていく背中を、私はしばらく見送っていた。
この屋敷で、私の無実を口にしてくれたのは、今のところ彼一人だ。
その人の言葉を疑うようなことを考えた自分が、少しだけ嫌になる。
*
クロードが去ったあと、ジルベールが部屋に入ってきた。
手帳を開き、何かを短く書きつけてから、私を見る。
「温室の薬品棚の帳面は、法務院が押収している。瓶の数が合っていたのは事実だ」
「でも、帳面の数なんて、書き換えようと思えば」
「書き換えられる。だから、数が合っていることは、何の証明にもならない」
ジルベールは、あっさりとそう言った。
私は少し驚いて、彼の顔を見た。
「……私の言いたいことを、先に言わないでください」
「あなたの考えそうなことは、だいたいわかるようになった」
それが褒め言葉なのかどうか、判断がつかない。
けれど、昨日の朝よりも、彼の声から棘が抜けている気がした。
「それと、今夜から夜番の配置を変える」
「ルネを外すんですか」
「外せば、気づかれる。昼番に回す。夜は私が立つ」
私は思わず、寝台から身を乗り出した。
「あなたが? 昨日も一昨日も、ほとんど寝ていないでしょう」
「騎士は三日くらい眠らなくても死なない。あなたは七日後に死ぬかもしれない」
身も蓋もない言い方だった。
けれど、その身も蓋もなさが、今の私には妙にありがたかった。慰めの言葉より、ずっと信用できる。
「理由は、ルネに何と説明するんですか」
「監視対象が夜中に床を這い回って困る、と言っておく」
「……それ、本当のことですよね」
「だから、疑われない」
ジルベールの口の端が、ほんのわずかに動く。
笑ったのだと気づいたのは、彼が背を向けてからのことだ。
この人も笑うのか、と思う。そんな当たり前のことに驚いている自分が、少しおかしい。
*
午後、見張りの交代の時刻に、ルネが廊下に現れた。
ジルベールから配置換えを告げられると、彼は一瞬、目を見開いた。
「昼番、ですか」
「不満か」
「いえ、とんでもない! 夜番は冷えますから、むしろ助かります」
ルネは明るく笑い、きびきびと敬礼する。
その笑顔は、昨夜と同じように人懐っこかった。
けれど、私は見てしまった。
敬礼を終えて下ろした彼の右手が、腰の剣の柄を、一度だけ強く握りしめたのを。
安堵か、焦りか。
それとも、全く別の何かなのか。
遠目には、私にはまだ判断がつかない。
*
夕刻前、マルトが水差しを替えに来た。
今日は、昨日ほど冷たい目をしていない。けれど、私に向ける言葉は相変わらず最小限だった。
「マルト。温室の薬品棚の手伝いを、よくしていたんですって?」
水差しを置く手が、ぴたりと止まる。
「……どなたから、それを」
「クロード兄様から。温室のことなら、兄様の次にあなたが詳しいって」
マルトの頬に、ふっと赤みが差した。
怒っているときの赤さではない。耳の先まで、薄く色づいている。
「サン=ロラン様が、そんなことを」
彼女は小さくつぶやき、それから慌てたように表情を引き締めた。
「瓶を拭いたり、乾かした薬草を袋に詰めたり、その程度でございます。棚の鍵をお預かりしたことは、一度もございません」
「茶会の日も、温室に?」
「お茶の支度で、朝からずっと。……それ以上は、法務院で全部お話ししました」
マルトは一礼し、足早に出ていった。
去り際、扉の脇で一瞬だけ立ち止まり、廊下の奥――小書庫のほうへ目をやったのを、私は見逃さなかった。
あの子は、何かを隠している。
けれどそれは、私を陥れるための嘘とは、少し違う色をしている気がした。
*
日が傾きはじめたころ、私はもう一度、化粧台の前に座った。
三つ目の百合の花芯を押す。天板の下の飾り板を、手前に引く。
かちり、と音がして、浅い引き出しが滑り出てくる。
今朝、ジルベールがこれを開けたときは、中が空だと確かめただけだった。
けれど、瓶が禁固初日の夜、ここに置かれたのなら。
置いた人間が、何か痕跡を残していないだろうか。
「ロシュ卿、燭台をお借りしてもいいですか」
戸口のジルベールが、黙って燭台を持ってきた。
昨夜と同じように、低い位置から光を当ててくれる。
引き出しの底板は、白木のままだった。
騎士たちが何度も開け閉めしたのだろう。手の脂で、縁がうっすらと黒ずんでいる。
奥の隅に、指先を沿わせる。木目の溝に、何かが溜まっている感触があった。
爪の先で、そっと掻き出す。
燭台の光の下に現れたのは、ほんのひとつまみの、黒っぽい粒だった。
指でこすると、乾ききった細かな粒が、ぽろぽろと崩れる。
「……土?」
部屋の中に、土がこぼれるような場所はない。
床は毎日掃かれ、窓は閉ざされ、庭へ出る扉もない。
ジルベールが、燭台をさらに近づけた。
彼は黙って粒を一つ指先に取り、鼻に寄せる。
「腐葉土に、灰が混ぜてある。普通の庭の土ではない」
彼の灰色の目が、窓の外へ向いた。
夕日に染まった庭の奥。硝子の屋根が、赤く光っている。
「薬草を育てるための土だ。この屋敷で、これを使っている場所は一つしかない」
温室。
今朝、湿った黒い土をつけた手袋を、軽く振ってみせた人の姿が、頭をよぎった。
私は慌てて、その姿を打ち消す。
温室に出入りする人は、何人もいる。マルトも、侍女頭も、侍医も。
それでも、引き出しの隅に残っていたこの土は、確かに語っていた。
禁固初日の夜、眠る私の枕元を通って瓶を置いた誰かは――温室から、まっすぐこの部屋へ来たのだ。




