夜番の騎士
夜が更けると、東翼の廊下は驚くほど静かになった。
開け放たれた扉の向こうに、椅子が一脚置かれている。
そこに座っているのは、ルネではなかった。黒い騎士服の背中が、燭台の灯りの中でまっすぐに伸びている。
私は寝台の上で膝を抱え、その背中を眺めていた。
眠れるはずがなかった。
引き出しの隅から出てきた、ひとつまみの土。それが頭から離れない。
「眠れないなら、目を閉じて横になっていろ。それだけでも体は休まる」
振り返りもせずに、ジルベールが言った。
私が起きていることに、とっくに気づいていたらしい。
「ロシュ卿こそ、眠らなくていいんですか」
「三日は平気だと言った」
「それ、昨日の分も数えてますか」
「……数えていない」
思わず、小さく笑ってしまった。
喉がひりついて、すぐに咳に変わる。
ジルベールが立ち上がり、卓の上の水差しから杯に水を注いだ。
部屋に一歩だけ入って、それを寝台の脇の台に置く。
「ありがとうございます。……昼間の粥より、ずっと喉に効きます」
「ただの水だ。礼はいらない。あなたが咳きこんで死んだら、私の報告書がまた一枚増える」
言い方はぶっきらぼうなのに、杯を置く手つきは丁寧だった。
*
水を飲み終えても、彼はすぐには廊下へ戻らなかった。
扉の枠に背を預けて、腕を組む。
「一つ聞いていいですか」
「答えられることなら」
「さっきの土。どうして、すぐに温室の土だとわかったんですか。普通の騎士は、土の匂いなんて嗅ぎ分けられないと思います」
ジルベールは、しばらく黙っていた。
燭台の炎が揺れ、彼の影が壁の上で伸び縮みする。
「母が、王都の外れで薬草畑の手伝いをしていた」
ぽつりと、彼は言った。
「貴族の屋敷に納める薬草を育てる畑だ。腐葉土に灰を混ぜるのは、根腐れを防ぐためだと教わった。子どものころは、毎日その土を運んでいた」
「騎士になる前の話ですか」
「十二で騎士見習いの試験に受かるまでだ。平民が騎士になる道は、それしかない」
それ以上、彼は語らなかった。
けれど、それで十分だった。
土の匂いを知っている人。平民から騎士になった人。王女殿下の事件で、一行の記録のために居場所を失いかけた騎士。
この人のことを、私はほとんど何も知らなかったのだと思う。
「あなたは」
今度は、ジルベールが口を開いた。
「どうして、急に変わった」
心臓が、跳ねた。
「……変わりましたか」
「五月二日からの十一日間、あなたは誰の話も聞かなかった。花瓶を割り、侍女を罵り、私に向かって『平民の分際で』と三度言った」
耳が熱くなる。
レティシアの記憶の中に、その言葉は確かにあった。
「それが、縄の跡をつけて目を覚ました朝から、別人のように落ち着いている。遺書を読ませろと言い、梁の高さを測り、床を這って破片を探した」
灰色の目が、薄闇の中で私をとらえる。
「首を吊りかけて、人が変わることはある。だが、あなたの変わり方は、何かを諦めた人間のそれではない」
答えられなかった。
前世の記憶がある、などと言えば、今度こそ正気を疑われる。
かといって、嘘で取り繕うことも、この人の前ではしたくなかった。
「……死にかけて、怖くなったんです」
ようやく、それだけを口にする。
「怒っていても、泣いていても、七日後には首を落とされる。それなら、怒るのも泣くのもやめて、やれることをやろうと思った。それだけです」
半分は本当で、半分は言えないことを飲みこんだ答えだった。
ジルベールは、それを見抜いたのかもしれない。
けれど、それ以上は追及しなかった。
「そうか」
短い一言のあと、彼は少しだけ視線を落とした。
「なら、その怖さは手放すな。怖がっている人間のほうが、よく周りを見る」
慰めではなかった。
騎士として、何度も危ない場面をくぐってきた人の、経験から出た言葉なのだろう。
「ロシュ卿も、怖いことがあるんですか」
「毎日だ」
即答だった。
「剣を抜くたびに怖い。報告書に名前を書くたびに、それが間違っていないか怖い。だから、確かめられることしか書かない」
彼は扉の枠から背を離し、廊下の椅子へ戻っていく。
その背中を見ながら、私は思った。
この人が誰の言葉も簡単に信じないのは、冷たいからではない。
間違えたときに失われるものの重さを、誰よりも知っているからなのだ。
*
真夜中を過ぎたころ、私はもう一つの疑問を口にした。
「ロシュ卿。毒の瓶の中身は、何だったんですか」
「月下草の抽出液だ」
彼は手帳を開かずに答えた。
きっと、何度も読み返して覚えてしまったのだろう。
「無色で、かすかに甘い。飲んでから半刻ほどで、息ができなくなる。王女殿下の症状と一致した」
「月下草も、温室で育てているんですか」
「鎮痛の薬として、亡き侯爵夫人が栽培を始めた。今も奥の畝に残っている」
また、温室だ。
眠り草も、月下草も、瓶も、土も。すべての糸が、あの硝子の建物に向かって伸びている。
原作の一場面が、ふいに浮かんだ。
ヒロインのミレイユが、誰かに向かって言う台詞。
『犯人は、いちばん近くにいた人』
いちばん近く。
茶会の日、王女殿下のいちばん近くにいたのは、お茶を淹れたマルトだ。
温室のことを、クロードの次によく知っているのも、マルト。
昼間、彼女は何かを隠している顔をしていた。
でも、と私は首を振る。
原作の台詞が、誰を指していたのか、私は知らない。知らないまま当てはめれば、それはただの思いこみだ。
ジルベールが、推測で名前を出さないように。
私も、半分しか覚えていない原作で、誰かを決めつけてはいけない。
「ずっと引っかかっていることがあるんです」
私は膝の上で、指を組んだ。
「瓶を後から置いた人がいるとして。その人は、二度目の捜索で必ず見つかるように置いたはずですよね。見つからなければ、意味がないんだから」
「そうなる」
「でも、隠し引き出しの仕掛けを知っている人は、多くない。私自身、知らなかったくらいです。一度目の捜索でロシュ卿が開けられたのは、侍女頭に聞いたから」
「ああ」
「なら、二度目の捜索の騎士たちは、どうして隠し引き出しを開けたんですか。誰かが、教えたんじゃないですか」
ジルベールの腕が、ほどけた。
彼は燭台を手に取り、廊下の椅子の脇に置いてあった革の書類鞄を開ける。
取り出したのは、二度目の捜索記録の写しだった。
昼間、ルネの名前を見つけた、あの紙だ。
「昼には、発見者の欄しか見ていなかった」
彼は写しの一枚目に戻り、冒頭の数行を指でなぞった。
燭台の灯りを近づけ、目を細める。
「捜索の経緯。……五月三日朝、騎士団本部宛てに書面あり。『令嬢の私室に、一度目の捜索で見落とされた箇所あり。化粧台に隠し引き出しが存する。再度の捜索を願う』」
彼の声が、そこで止まった。
「差出人は」
聞かなくても、私には予感がある。
それでも、聞かずにはいられなかった。
ジルベールは、紙から目を上げずに答えた。
「ヴァルモン侯爵家」
部屋の空気が、冷たく張りつめる。
私の家だ。
私を守るはずの家が、自分の娘の部屋を指さして、ここを調べろと騎士団に願い出た。
父オーギュストは別邸にいる。娘との絶縁を表明し、この屋敷には一度も顔を見せていない。
なら、その書面を書いたのは誰なのか。
「薬湯を求めた書面と、同じですね」
かすれた声で、私は言った。
「侯爵家の名前で出された、代筆の手紙」
「ああ」
ジルベールは写しを畳み、しばらくそれを手の中で持て余すように眺めていた。
やがて、低く呟く。
「この屋敷で、侯爵家の名で書面を出せるのは、執事と書記くらいだ」
それ以上の名前を、彼は口にしなかった。
推測で名前は出さない。それが、この人の決まりだ。
けれど、私の頭の中には、もう一人の顔が浮かんでいた。
字の書き方を、根気よく教えてくれた従兄。
侯爵家の書記として、帳簿も手紙も預かっている人。
この屋敷で、ただ一人、私の無実を信じると言ってくれた人。
「……違う」
声に出してから、自分でも驚いた。
「書記だから、書面を書いただけかもしれない。お父様や執事に頼まれて、言われたとおりに書いただけかもしれない」
「その可能性もある」
ジルベールは、否定しなかった。
「だから、確かめる。書面の原本は騎士団本部にある。筆跡も、指示を出した人間も、記録に残っているはずだ」
彼は写しを鞄に戻し、再び廊下の椅子へ腰を下ろす。
その背中は、来たときと同じようにまっすぐだった。
私は寝台に横たわり、天井を見上げた。
信じたい人と、信じてはいけないかもしれない人が、同じ顔をしている。
そのことが、首の傷よりもずっと痛かった。
暗闇の中で、優しい声がよみがえる。
――レティ、何か思い出したら、すぐに教えて。
眠れない夜が、また一つ、更けていく。
夜が明ければ、処刑まで、あと五日。




