委任状
窓の外が白みはじめても、ジルベールは椅子から動かなかった。
一睡もしていないはずなのに、背筋は昨夜と同じようにまっすぐだ。
けれど、交代のために廊下へ現れたルネに指示を出す声は、ほんの少しだけ掠れていた。
「扉は開けたままにしろ。誰が来ても、必ず私に報せること。例外はない」
「サン=ロラン様でもですか」
「例外はない、と言った」
ルネは敬礼して持ち場につく。
その背中を見送ってから、ジルベールは部屋の戸口に立った。
「朝食のあと、執事を呼ぶ。あなたにも同席してもらう」
「その前に、少し休んでください。顔色が悪いです」
「執事殿の話を聞いてからだ」
「……強情ですね」
「あなたに言われたくない」
*
執事のガスパール・ブロンデルは、朝食の盆が下げられるのと入れ違いに現れた。
六十を過ぎた痩身の老人だ。銀の鎖に通した鍵束を腰に下げ、折り目正しい黒の上着を一分の隙もなく着こなしている。
彼はジルベールに深く礼をし、私には、きっちり半分の深さの礼をした。
この屋敷の使用人たちが私に向ける目は、だいたいこんなものだ。レティシアが積み重ねてきた分の、当然の報いだった。
「お呼びと伺いました、ロシュ卿」
「侯爵家の名で出す書面の、封の扱いを聞きたい」
ガスパールの眉が、わずかに動いた。
「家印は、わたくしがお預かりしております。旦那様の指輪印は、旦那様ご自身がお持ちです。家の用向きの書面は、わたくしが目を通し、家印で封をいたします」
「五月二日の夕刻と、三日の早朝。侯爵家の名で出た書面が二通ある。覚えているか」
老執事は、懐から薄い革の帳面を取り出した。
指先が、迷いなく頁をめくる。
「発信簿にございます。二日の夕刻、侍医ベルナール殿宛て、お嬢様のお薬の処方のご依頼。三日の早朝、騎士団本部宛て、再度のご捜索のお願い。いずれも、書記殿が持参なさいました」
「書記殿とは」
「サン=ロラン様です。お預かりしている家印で、わたくしが封をいたしました」
「中身は読んだのか」
「拝見いたしました。常の書面と変わらぬ文面でございました」
「侯爵の指示だったのか」
ガスパールは、一拍だけ置いた。
「サン=ロラン様は、旦那様から委任状をいただいているとおっしゃいました。事件に関する書面は、すべて書記殿に任せる、と」
「その委任状を、あなたは見たか」
「……いいえ」
老執事の声が、わずかに硬くなる。
「お見せいただく必要はないと存じました。サン=ロラン様は旦那様の甥御様で、お嬢様の家庭教師でもあり、この屋敷に十年お仕えです。お言葉を疑う理由がございません」
「別邸の侯爵から、使いは来たか」
「五月二日の朝に旦那様がお発ちになってから、別邸の使いは、一度も参っておりません。受信簿にも、記載はございません」
部屋が静まった。
ジルベールは何も言わず、手帳に書きつけている。
私は、膝の上で組んだ指に力が入っていることに気づいた。
「ブロンデル殿。もう一つ、お聞きしたいことがあります」
私が口を開くと、ガスパールの視線が、初めてまっすぐこちらに向いた。
冷えた、けれど逸らさない目だった。
「五月一日の夜、お父様は、何とおっしゃっていたのですか」
老執事は、長いあいだ黙っていた。
やがて、帳面をぱたりと閉じる。
「王女殿下のご逝去の報せが届いたあと、旦那様は大広間で、お嬢様をお呼びになりました。ですがお嬢様は、お部屋に鍵をかけたまま、お出ましになりませんでした」
「……それで」
「旦那様は、扉の前で一刻お待ちになり、それから、こうおっしゃいました。『あれは、もう私の娘ではない』と」
息が止まった。
レティシアの記憶の底にも、その扉の向こうの声は、確かに残っていた。
父の足音。長い沈黙。それから、遠ざかっていく靴の音。
「翌朝、旦那様は別邸へお発ちになりました。去り際に、わたくしにこう仰せでした。『あの子のことは、一切、私に報せるな』と」
「……ありがとうございました。もう、結構です」
声が思ったより震えなかったことに、自分で驚いた。
ガスパールは一礼し、退室の間際に、扉のところで振り返った。
「お嬢様。わたくしは、お嬢様のなさったことを、許してはおりません」
「……はい」
「ですが、旦那様があの夜からお変わりになったのも、事実でございます。お嬢様が人を殺めるお方だとは、わたくしにも、どうしても思えないのです」
それだけ言って、彼は静かに去っていった。
*
足音が遠ざかるのを待ってから、ジルベールが口を開いた。
「整理する。侯爵家の名で出た二通の書面は、どちらもサン=ロラン殿が持ち込み、執事殿が封をした」
「委任状があれば、何の問題もありません」
「そうだ。だが、その委任状を見た者は、いない。執事殿も、騎士団も、法務院も」
「兄様が、お父様から直接いただいたなら」
「侯爵が屋敷を発ったのは二日の朝だ。委任状が本物なら、毒殺の翌朝までに、侯爵は『事件に関する書面のすべて』を甥に預けたことになる」
冷静すぎる声だった。
その一言一句が、胸の底に、冷たく沈んでいく。
「それは、おかしいことですか」
「おかしいとは言っていない。娘に王女殺しの嫌疑がかかった父親が、取り乱して、手近な親族に書類仕事を丸ごと任せる。ありえる話だ」
彼は手帳を閉じた。
「ありえる話だから、確かめる。確かめる方法は一つしかない。侯爵に、直接聞く」
「別邸へ、使いを?」
「今日の午後には出す。騎士団の早馬で、別邸まで一日。侯爵が返事を書く時間を入れて、往復で二日。戻りは、早くて十七日の夜になる」
十七日の夜。
処刑は、二十日の正午。
その間に残されているのは、二日と、少しだけ。
「……間に合いますか」
「間に合わせる」
短い答えだった。
それから彼は、声を少しだけ落とした。
「サン=ロラン殿には、何も話すな。今までどおりに接しろ」
「兄様に隠しごとをするのは、苦手です」
「苦手でも、やってもらう。あなたの首がかかった嘘だ」
反論できなかった。
彼は壁に手をつき、ようやく、わずかに肩の力を抜く。
「二刻だけ、詰所で休む。その間は、第三隊の者を廊下にもう一人立たせる。ルネと二人体制だ」
「……やっと、休んでくれるんですね」
「あなたが言うから、ではない。規則だ」
そう言い捨てて出ていく背中が、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。
*
午後、クロードがやってきた。
腕に、紙の束と墨壺を抱えている。
「レティ、字の練習を、昔みたいに一緒にしないか。気が紛れるよ」
寝台の脇の小卓に、彼は紙を広げた。
懐かしい光景だった。レティシアの記憶の中の、幼い午後。机の向かいで、根気よく筆の持ち方を直してくれた人。
「ほら、持ち方が崩れてる。ここを、こう」
彼の手が、私の指の上に重なる。
大きくて、温かくて、インクの匂いがかすかに混じっている。
顔の筋肉を動かすのに、こんなに力が要るとは知らなかった。
私は笑って、うなずいた。
「兄様の字は、昔から変わらないね。まるで、お手本みたい」
「書記の仕事は、誰が読んでも誤読されない字を書くことだからね。癖は、殺すものなんだ」
彼は笑いながら、紙の端に、さらさらと一行を書いてみせた。
端正で、どこにも引っかかりのない字。誰が書いたのか、筆跡からは何も読み取れない。
――癖を殺した字は、誰の字にも似せられる。
その考えが浮かんだ瞬間、墨の香りが、急に重くなった。
震えそうになる指を、筆を握り直して押さえつける。
聞いてはいけない。そう言われている。けれど、何も聞かないのも、かえって不自然だ。
「ねえ、兄様。お父様は、私のこと、何か言っていた?」
筆先が、紙の上で止まった。
「……怒っておられたよ。でも、君を案じてもいた。別邸へ発つ前の夜、僕に書き付けを一枚くださってね。『事件に関する書面は、すべて書記に任せる』って。それだけ、君のことを気にかけていた証拠だと思う」
淀みのない言葉だった。
委任状の話を、私が聞く前から、彼は先回りして差し出してきた。
それが親切からなのか、別の理由からなのか、今の私には、まだ区別がつかない。
「……そう。ありがとう、兄様」
「そういえば」
クロードが、ふと筆を止めた。
「ジルベール卿が、夜番を代わったと聞いたよ。働きすぎじゃないかな、あの人」
「……うん。でも、助かってる」
「レティ。あの人を、あまり信用しすぎないほうがいい」
穏やかな声だった。
声色は、いつもの優しい従兄のままだ。
「騎士は、法務院の命令が出れば、君を処刑台へ連れていく人たちだ。君を守るために、規則を破ったりはしない」
「……わかってる」
「僕だけは、最後まで、君の味方だから」
彼は、私の頭へ、そっと掌を載せる。
昨日までなら、泣きたくなるほど嬉しかった言葉だった。
クロードが帰ったあと、私は紙の上のお手本を見つめた。
端正で、癖がなく、どこにも、書いた人間の顔がない。
遺書の文面を読み上げてもらったときに感じた、あの「ずれ」と、同じ種類の冷たさがそこにあった。
窓の外では、日が傾きはじめている。
処刑まで、あと五日。




