紫のインク
日が暮れる前に、騎士団の第二隊長が屋敷へやってきた。
デュボワ卿は、四十代半ばの、肩幅の広い男だった。
濃い眉の下の目は、入ってきた瞬間から一度も私に笑いかけない。供の騎士二人と、封をした平たい革の箱を抱えた書記を従え、部屋の入口で足を止めた。
「ロシュ。貴官の要請で、遺書の原本を持参した。ただし、閲覧は半刻。私の立会いのもとで、だ」
「承知しております」
ジルベールは、短く答えて一礼した。
デュボワ卿の視線が、そのまま私に移る。
「処刑の前に証拠の見直しを望むとは、殊勝な心がけですな。ヴァルモン嬢」
「お手数をおかけします」
私が頭を下げると、彼は鼻を鳴らして、書記に箱を開けさせた。
*
卓の上に広げられたのは、一枚の便箋。
白い紙。青黒いインク。端正に並んだ数行の文字。
『父上、そして王家の皆様へ。わたくしは罪の重さに耐えられません。リュシー殿下にお詫びするため、自らの手で幕を引きます。レティシア』
ジルベールが読み上げた文面と、一字も違わない。
署名の「レティシア」だけは、確かに、私が名前を書くときの形をしている。
私は息を整えて、手を触れないまま、顔を近づけた。
最初に気づいたのは、紙だった。
縁にうっすらと、家の紋章の透かしが入っている。屋敷の事務で使う、飾り気のない白い便箋だ。
「ロシュ卿。私の部屋の化粧台の引き出しに、便箋が入っているはずです」
「ああ。薄い桃色で、百合の縁取りがある」
「そうです。私が手紙を書くときは、いつもあれでした」
ジルベールが引き出しから、色褪せた桃色の便箋を取り出した。
隣に置くと、違いは、あまりに明白だった。
「死を前にした者が、いつもの便箋を使うとは限らん」
デュボワ卿は、腕を組んだまま言った。
「次はインクです。私の机の上のインク壺を見てください」
卓の隅に置かれた小さな壺を、ジルベールが取り上げる。
蓋を開けた中身は、鮮やかな紫色だった。
「紫。……遺書は、青黒いインクです」
「別の壺で書いたのだろう」
「でも、この部屋に、青黒いインクはありません」
私は、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づいた。
「寝台の脇の机にも、化粧台にも、この部屋には紫のインクしかない。侍女が補充するときも、私の好みで、必ず紫を選んでいました」
デュボワ卿の太い眉が、わずかに動いた。
ジルベールが、無言で手帳に書きつける。
「それから、筆跡です」
私は、卓の隅の予備の紙を一枚借り、自分のペンと紫のインクで、遺書の最初の一行を書き写してみせた。
『わたくしは罪の重さに耐えられません。』
書き上がった自分の字を、原本の隣に並べる。
私の字は、右上がりに流れていた。文末の「ん」の最後の払いが、長く伸びている。
遺書の字は、まっすぐに立っていた。払いが短く、どの文字も、きっちりと同じ高さに収まっている。
「……お手本みたいな字ですね」
口にしてから、昼間の光景がよみがえった。
癖を殺した、誰の字にも似せられる字。
それだけではなかった。
この端正な立ち字を、レティシアの記憶は知っている。十二歳のころ、家庭教師に何度も叱られながら書かされた、矯正された字だ。うんざりして、十五になるころには、自分の好きなように流して書くようになった。
つまり遺書は、今の私の字ではなく、数年前の、お手本どおりだった私の字に似ているのだ。
「鑑定官は、これを本人の筆と認めた」
デュボワ卿が、低い声で言った。
「四月二十八日の脅迫状と、遺書を並べ、同一人物の筆跡と判定している。素人の目で覆せるものではない」
「脅迫状は、今どこに」
「法務院にある」
「その脅迫状と、いま私が書いた字を、並べて鑑定してもらうことはできませんか」
沈黙が落ちた。
デュボワ卿は、すぐには答えなかった。
「……ロシュ。脅迫状の写しは、取り寄せられるか」
「手配します」
「写しが届くまで、遺書は箱に戻す。以上だ」
彼は書記に合図し、便箋を箱へ収めさせた。
扉へ向かう背中が、ふと止まる。
「ヴァルモン嬢。一つだけ言っておく」
振り返った顔には、さっきまでの冷たさとは違う、何か硬いものが滲んでいた。
「私は、王女殿下の護衛隊長だった」
息が止まった。
「あの日、茶会の門で、殿下をお見送りしたのは、私だ。『行ってらっしゃいませ』と。それから数刻のうちに、殿下はもう動かなかった」
声は、少しも震えていなかった。
だからこそ、押し殺した何かが、痛いほど伝わってくる。
「私は、あなたを憎んでいる。それは変えられない。だが、真犯人を取り逃がして、殿下の無念を晴らしそこなうことは、もっと許せない。証拠が本物なら、私は認める」
彼は踵を返し、部下とともに出ていった。
*
「あの人は、敵ではない」
扉が閉まってから、ジルベールが静かに言った。
「規則に厳しく、感情で動かない。だから、証拠さえ揃えば、味方になる」
「……守れなかったのが、悔しいんですね」
「そうだ。あの人を責める資格のある人間は、この屋敷にはいない」
私は、小さくうなずいた。
憎まれているのは事実だ。それでも、あの人を恨む気持ちには、どうしてもなれなかった。
「それと、さっきのあなたの指摘は、的確だった。インクも、筆跡も。私は紫のインクの色まで確かめていなかった」
「……褒めてくださるんですか」
「事実を言っただけだ」
そう言いながら、彼の口調には、昼間よりも棘がなかった。
「ロシュ卿。さっきのインクのこと、もう一つ気づいたことがあります」
「言ってみろ」
「青黒いインクは、小書庫にあるはずです。クロード兄様が仕事で使っているのを、何度も見ました」
ジルベールは、答えなかった。
手帳の上で、ペンが止まっている。
「……遺書が、この部屋の外で書かれたなら、納得がいきます。でも、続き扉の鍵は、小書庫の鉤に掛かっていました。私が自分で、あの扉を開けて小書庫へ行くことは、できなかったはずです」
「そうだ」
「なら、誰が、遺書の便箋とインクを、この部屋に持ち込んだんですか」
それは、答えを求める問いではなかった。
言葉にするたびに、輪郭がはっきりしていく。それが怖くて、私は口をつぐんだ。
「……推測で名前は出さない」
低い声で、ジルベールが言った。
「明日、マルトに確かめる。あなたの部屋に、いつ、誰が便箋とインクを運んだか。侍女の目は、騎士より細かい」
*
夜が更けて、私はずっと胸にしまっていたことを、ようやく口にした。
「ロシュ卿。縄の前に、誰かが、耳元で囁いたんです」
椅子に座るジルベールの背中が、わずかに動く。
「眠りの底で、体が少しも動かなくて。首に何かが触れて、そのすぐあとに、声がしました」
「何と言った」
「『ごめんね』と」
燭台の炎が、かすかに揺れる。
「男の声でしたか、女の声でしたか」
「……わかりません。低いとも高いとも言えない。ただ、泣きそうな声でした」
「聞き覚えは」
「考えないようにしていました。考えたら、誰かの顔が、浮かんでしまいそうで」
沈黙のあと、ジルベールが、手帳に一行を書き足す音が聞こえた。
「記憶は証拠にならない。だが、手がかりにはなる」
「前にも、同じことをおっしゃいました」
「あなたが言いにくいことを、言ってくれた。記録しておく」
そのとき、廊下の階段のほうから、足音が近づいてきた。
軽く、ゆっくりとした足音だった。
「……こんな遅くにごめんね、レティ」
現れたのは、クロードだった。
両手で、湯気の立つ杯を捧げ持っている。
「眠れないんじゃないかと思って。サン=ロラン領から、新しい蜂蜜を取り寄せたんだ。蜂蜜入りの温かい牛乳。あの壺のこと、聞いたよ。誰かがレティの蜂蜜を捨てるなんて、ひどい話だよね」
『ごめんね』。
同じ言葉だった。けれど、あの囁きとは、似ても似つかない、明るい声だった。
「ありがとう、兄様。でも、今夜はもうお腹がいっぱいなの。明日の朝、いただくね」
「そう? 冷めたら美味しくないよ」
「夜間の飲食は、私が確認したものだけです」
ジルベールが、淡々と割って入った。
「申し訳ありません、サン=ロラン殿。杯は、こちらで預かります」
「ひどいなあ。僕が、レティに何かすると思っているの」
「規則です」
クロードは、困ったように笑って、杯を差し出した。
ジルベールは、それを受け取ると、卓の隅に置いた。
「……夜通し座っているんだね、ジルベール卿。大変だな」
「お気遣いなく」
「じゃあ、おやすみ、レティ」
クロードの足音が、階段を降りていく。
その音が完全に消えてから、ジルベールは、私のほうへ顔を向けた。
「気づいたか」
「何を、ですか」
「彼は、階段の途中で、一度足を止めた」
ジルベールの灰色の目が、暗がりの中で光っていた。
「ちょうど、あなたが『ごめんね』と言ったあたりで、足音が、一度消えた」




