第三の書簡
朝になると、卓の隅に置かれたままの杯は、すっかり冷めきっている。
ジルベールはそれを小さな硝子の容器に移し替え、侍医のベルナールを呼びに行かせた。
老医師は、寝癖の残る白髪を撫でつけながら現れ、容器の中身を光に透かして眺める。匂いを嗅ぎ、指先に一滴取って舌に乗せ、そのまま半刻ほど、部屋の隅の椅子に座って待っていた。
何も、起きなかった。
「ただの牛乳に、蜂蜜を溶かしたものですな。眠り草も月下草も、入っておりません」
「確かですか」
「わたくしの舌と、この老いぼれた体が、そう申しております」
ベルナール医師は肩をすくめ、そのまま部屋を出ていく。
ジルベールは、空になった容器を卓に置いたまま、動かない。
先に口を開いたのは、私のほうだった。
「毒じゃなかった。……兄様は、本当に、ただ私を気遣って」
「そう考えるのが、いちばん簡単だ」
灰色の目が、私を見た。
「だが、考えてみろ。あの男は、私が夜番に立っていると知っていた。私が杯を受け取らないことも、おそらく予想していた。それでも彼は、毒の入っていない杯を、わざわざ持ってきた」
「……どうして」
「彼が優しい人間だと、私たちに見せるためかもしれない。毒を入れていない杯を私が預かり、侍医が潔白を証明する。そうすれば、次に彼が杯を持ってきたとき、私たちは、少しだけ気を許す」
背筋に、冷たいものが走った。
その考えは、あまりに慎重で、あまりに悪意に満ちていた。
「そんな、回りくどいこと」
「回りくどいことを、平気でする人間だ。……そう、私は考えている」
彼は、杯の容器を、静かに脇へ押しやった。
「ただし、これは推測だ。証明ではない」
*
「兄様のことを、問い詰めたいです」
私は、膝の上で拳を握った。
「遺書の便箋も、インクも、筆跡のことも。あの人が小書庫にいたこと、書面を書けたこと、『ごめんね』のときに階段で足を止めたこと。全部、一人に向かっているじゃないですか」
「向かっている。だが、全部が状況証拠だ」
ジルベールの声は、低かった。
「彼を今、問い詰めればどうなる。遺書の原本も、書面の原本も、彼にとって不都合なものは、処分される。あなたは、『親切な従兄を疑った、心の乱れた罪人』として、扱われる」
「でも、あと四日しかないんです」
「だから、焦るな。焦って確信だけで動けば、あなたの首が、先に落ちる」
反論できなかった。
私は唇を噛んで、俯いた。
「……私は、あの人を信じたかったんです」
声が、かすれた。
「この屋敷で、初めて、味方だと言ってくれた人だったから」
「『信じたかった』と過去形で言えるなら、あなたは、前に進める」
ジルベールは、懐から白い手巾を取り出して、卓の上に置いた。
「一昨日、破片を包んだ手巾だ。洗ってある」
「……それ、慰めるつもりで出したんですか」
「他に持っていない」
思わず、吹き出してしまう。
笑いながら、目の端が熱くなっていたことを、彼は見ないふりをしてくれた。
洗いたての石鹸の匂いがして、ざわついていた呼吸が、ようやく整っていく。
*
昼前、マルトが盆を運んできた。
今日は、ジルベールが廊下に立っている。彼女は少し身を固くしながら、卓に皿を並べた。
「マルト。聞きたいことがあります」
私は、できるだけ穏やかな声を選んだ。
「五月の初めから十二日までの間に、この部屋へ、便箋やインクを運んだことはありますか」
マルトは、きょとんとした顔で、私を見た。
「便箋とインク……ですか。わたくしが運んだのは、一度だけでございます。五月十日の夕方」
「誰に頼まれて」
「サン=ロラン様でございます。『レティが反省文を書きたいと言っている。小書庫の紙とインクを、貸してあげてほしい』と」
指先が、冷たくなった。
けれど、顔には出さないように、息をゆっくりと吐く。
「お嬢様は、お受け取りになりました。けれど」
マルトは、少し言いにくそうに、視線を落とした。
「便箋の束をご覧になると、急にお怒りになって。『こんな味気ない事務用の紙で、何を書けと言うの』と。インクの壺を、壁に投げつけられました。壺は割れて、中身が壁紙に飛び散りまして」
「便箋は」
「破って、床にばらまかれました。わたくしが全部拾い集めて、騎士様の前で枚数を数え、小書庫へお返ししております」
「……覚えていないわ」
「わたくしは、拭き取ろうといたしましたが、騎士様が『現場を触るな』と」
私とジルベールは、顔を見合わせた。
「どこの壁ですか」
「化粧台の、斜め後ろのあたりでございます」
ジルベールが、すぐに化粧台の脇へ向かった。
壁紙の前に膝をつき、燭台を、低く構える。
薄い蔦模様の壁紙の上に、乾いた染みが残っていた。
指で触れると、細かく粉になって、剥がれ落ちる。色は、青みがかった、黒。
自分が癇癪を起こして壺を投げた、という場面は、どうしても思い出せなかった。
ただ、あの十一日間のレティシアなら、きっとやったのだろうと、冷めた心で納得してしまう。
「青黒いインクだ」
ジルベールが、短く言った。
「五月十日の夕方に、この部屋の壁で割れた。つまり、十二日の夜には、この部屋に青黒いインクの壺はなかったことになる」
「新しいものを、誰かが持ち込まない限りは」
「そうだ」
マルトの顔から、血の気が引いていた。
「お嬢様……わたくしは、何か、とんでもないことを」
「違うわ、マルト。あなたは、頼まれたことを、正直に話してくれただけ」
私は、できるだけ優しく言った。
「その後で、誰かが、もう一度、紙とインクを運んでこなかった? 十一日か、十二日に」
「いいえ。わたくしは、運んでおりません。ただ……」
マルトは、言葉を途中で切った。
口元が、わずかに震えている。
「……ただ、十二日の夜は、薬湯をお出ししたあと、お部屋に近づかないようにと、サン=ロラン様に言われておりました」
「どうして」
「『レティは、今夜は、ひとりで落ち着きたいそうだ。そっとしておいてあげて』と」
息が止まった。
その言い方は、あまりにも自然で、優しくて。
だからこそ、あの夜、この部屋に誰も近づけないようにするための言葉に、聞こえた。
「ありがとう、マルト。もう、下がっていいわ」
「マルト」
廊下から、ジルベールの声がかかった。
「今の話は、誰にも話さないでほしい。サン=ロラン殿にも」
マルトの肩が、びくりと跳ねた。
「サン=ロラン様にも……でございますか」
「そうだ」
長い沈黙のあと、彼女の頭が、わずかに縦に動く。
うなずきながら、その目は、返事をためらうように泳いでいた。
彼女は深く一礼して、部屋を後にした。
扉の外で、その足音が一度だけ止まり、それから小走りに遠ざかっていくのが聞こえる。
「何か、隠していますね」
「ああ。だが、あの娘は嘘をつくとき、必ず目を伏せる。さっきは、伏せなかった。話していない部分があるだけで、偽りは口にしていない」
「……よく、見ているんですね」
「それが仕事だ」
*
夕刻、騎士団の使いが、一通の書簡を持ってやってきた。
差出人は、詰所付きの書記官。一昨日、ジルベールが出した手紙への、返信だった。
ジルベールは、受け取ると、その場で封を切った。
便箋に目を走らせる、その表情が、読み進めるうちに、少しずつ硬くなっていく。
「どうしたんですか」
「……読む」
彼は、低く声を出した。
「『五月二日朝、清書の前に、侯爵家の封を押した書簡が詰所へ届いた。内容は、令嬢の私室の調度に関する記録は、家の名誉に関わるゆえ簡略に留めてほしい、との申し出。封は旦那様の指輪印であった。団長補佐が了承し、小官は、隠し引き出しの記載を要約から省いた。書簡は、団長補佐の手元に保管されている』」
声が、そこで途切れた。
「……侯爵の指輪印。でも、お父様は五月二日の朝に、別邸へ向かって」
「執事殿の発信簿に、この書簡はなかった」
ジルベールの声は、低かった。
「家印ではなく、指輪印だ。指輪印を押せるのは、侯爵本人だけだ。侯爵が、出立の直前に、自分で書いたのか。それとも――」
その続きを、彼は言わなかった。
窓の外の空が、薄い紅に染まっている。
父は、あの夜、私を「もう娘ではない」と言って見捨てたはずだった。
それなのに、屋敷を発つ朝に、私の私室の記録を簡略にと願い出ている。それは娘の名誉を守るためなのか、家の恥を隠すためなのか。あるいは、父の名を借りた、別の誰かの意志なのか。
「団長補佐に、面会を申請する。書簡の現物を見せてもらう」
「許可は、下りますか」
「下りなければ、下りるまで通う」
手帳に走るペンの音が、いつもより少しだけ荒かった。
侯爵家の名で出された書面は、もう三通になっていた。
そのうち、二通の出どころは、はっきりしている。三通目だけが、誰の手によるものか、わからない。
処刑まで、あと四日。
別邸の侯爵からの返事が届くのは、明日の夜だ。




