脅迫状の宛名
三日目の朝は、薄い霧とともに明けた。
窓の外の庭が白くかすんでいる。
夜通し廊下に座っていたジルベールは、いつものように背筋を伸ばしたまま、朝の光の中で目を閉じていた。眠っているのかと思ったが、私が身じろぎをすると、瞼がすぐに持ち上がる。
「起きたか」
「……起きていたんですね」
「眠っていない」
朝食は、昨日と同じ麦粥だった。
匙を口に運ぶ私を、ジルベールは扉の脇から見張っている。
「ロシュ卿は、食べないんですか」
「勤務中だ」
「勤務中でも、人は食べます」
「……後で食べる」
結局、彼が盆の隅のパンを一切れ口にしたのは、私が黙って睨みつけてからだった。
そのとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。
騎士団の使いの青年が、小脇に書簡の筒を抱えて敬礼する。
「ロシュ卿。デュボワ隊長より、『脅迫状』の写しをお届けに上がりました」
「ご苦労」
ジルベールは筒を受け取り、続けて尋ねた。
「団長補佐殿への面会の件は」
「補佐殿は王宮に出ておられます。お戻りは明日の昼とのことです」
「……そうか」
短く息を吐いて青年を下がらせると、彼は苛立ちを抑えるように筒の縁を指で叩き、それから封を切った。
中の紙は、二枚あった。一枚は文面を書き写したもの。もう一枚は、鑑定官の覚え書きらしい。
「読み上げますか」
「お願いします」
私は寝台の端に座り直し、膝の上で手を組んだ。
自分が書いたはずの手紙を、他人の声で聞く。そのことが、少しだけ怖かった。
*
「『……男爵家の娘が、王太子殿下のお隣に立つなど、身のほどを知りなさい。
わたくしは、あなたを許しません。
これ以上、殿下に近づくのなら、次の茶会で、あなたに思い知らせます。
わたくしが、どんな人間か。
その身で、お確かめなさい。 レティシア』」
読み終えたジルベールは、写しの上部を指で示した。
「冒頭の行の上に、破れた跡がある。三行分ほどが欠けている。鑑定官の覚え書きにも、そう記されている」
彼は二枚目の紙に目を移した。
「『原本、薄桃色の便箋。上部、約三行分が破れて欠損。四つ折りの折り目あり。封蝋の痕、宛名書き、配達の印、いずれも認められず』」
薄桃色の便箋。
百合の縁取りのある、私の便箋だ。
その瞬間、目の前の光景が、ぐらりと揺れた。
*
夜だった。
私は――いや、レティシアは、化粧台の前に座っている。紫のインクを、羽根ペンに含ませて。
胸の中で、嫉妬と怒りが渦を巻いていた。
夜会の広間で、ミレイユ・オードランが、アルベール殿下の隣で笑っていた。男爵家の、飾り気のない娘。どうして、あの子が。
筆が、止まらなかった。
『ミレイユ・オードラン様。先日の夜会でのあなたのふるまいについて、申し上げたいことがあります。男爵家の娘が、王太子殿下のお隣に立つなど――』
そこで、記憶が切れた。
けれど、はっきりと思い出せた。便箋の一行目に、確かに、宛名を書いたのだ。
「……宛名が、あったんです」
私は、自分の声が震えていることに気づいた。
「『ミレイユ・オードラン様』。一行目に、そう書きました。破れて消えている三行は、宛名と、挨拶と、最初の一文です」
「思い出したのか」
「はい。四月二十八日の夜。夜会の翌日でした。私はミレイユ様に腹を立てて、手紙を書いて……でも、書き終えたら、急に恥ずかしくなって。出さずに、手紙箱にしまいました」
ジルベールの手帳の上で、ペンが走る音がした。
「つまり、あの手紙は、王女殿下に宛てたものではない」
「はい。リュシー殿下とは、何の関係もありません。ミレイユ様宛ての、出さなかった手紙です」
口に出して、初めてわかった。
法務院は、この手紙を、王女殿下への脅迫状として扱った。
それが、全部の前提だったのだ。
*
「ひどい手紙ですね」
私は、思わず呟いていた。
「誰かを許さないとか、思い知らせるとか。書いた本人が、いちばん恥ずかしいです」
「感情のままに書いた、若い手紙だ」
ジルベールは、写しを見下ろしたまま答えた。
「だが、人を殺す人間の文面ではない。本当に殺す気の人間は、宛名を書いて、わざわざ宣言したりしない」
慰めのつもりではないのだろう。
ただ、事実を並べただけの声。それなのに、胸の中に刺さっていた棘が、少しだけ抜けていくのを感じた。
原作では、この手紙は、王女殿下への脅迫状としてしか語られていなかった。
読者は、レティシアが王女を脅したのだと信じこまされる。そういう書き方をされていた。
もしかすると、それも作者の仕掛けた、最初の罠だったのかもしれない。
「整理する」
ジルベールは、写しを卓に広げ、二本の指で端を押さえた。
「第一に、宛名が欠けている。宛名がなければ、受取人を王女殿下と読むことができる。第二に、文面の『次の茶会で、あなたに思い知らせます』。これが、五月一日の茶会を指していると解釈された。第三に」
指先が、鑑定官の覚え書きをなぞる。
「四つ折りで、封蝋もない。配達された形跡がない。出した手紙ではなく、箱の中にしまわれていた手紙の特徴だ」
「私が、手紙箱から出した覚えはありません」
「なら、誰かが箱から持ち出した。持ち出して、宛名を破り、王女殿下への脅迫状に仕立てた」
息を詰めた。
そんなことが、できる人間は、限られている。
手紙箱の中身を知っていて、手に取れる人間。
「手紙箱は、どこにあったんですか」
「記録では、温室の控え室だ。茶会の日、あなたはあそこで休憩を取ることになっていた。違うか」
「……そうです。茶会の間、私の手紙箱は、温室の控え室の机の上に」
茶会の日の午後の記憶が、また、真っ白に抜け落ちている。
けれど、あの日、控え室にあった手紙箱を、誰かが開けた。
その誰かが、この手紙を持ち出した。
「提出者は誰ですか」
私は、ジルベールに尋ねた。
彼は、写しの余白に書かれた小さな字を、目でたどった。
「……『提出者、グランシェ公爵令嬢イザベル。五月二日、リュシー殿下の遺品を整理中に発見したと申し出』」
イザベル。
茶会の四人目。王太子妃の座を狙っていた、公爵家の令嬢。
黒髪を高く結い上げた、背の高い人だ。言葉は丁寧なのに、いつも微笑みの奥で、相手の値打ちを測っている。レティシアは、彼女を好きではなかった。同時に、彼女を侮ることだけは、一度もできなかった。
「殿下の遺品から見つかった、と言っているんですね」
「そうだ。だが、手紙の宛名はミレイユ嬢だ。ミレイユ嬢宛ての手紙が、なぜ王女殿下の遺品に紛れていた」
「紛れていたんじゃない。持ち込まれたんです」
自分の声が、思ったより強かった。
ジルベールが、少しだけ眉を上げる。
「持ち込んだのは、イザベル様。それとも、イザベル様に手紙を渡した、別の誰か」
扉の外から、控えめなノックの音。
ルネだった。昼番の彼は、いつもの愛想のいい笑顔で、一通の封書を差し出した。
「ロシュ卿。たった今、門番が受け取りました。『ロシュ卿宛て』と」
差出人の欄に、細い字で、名前が書かれている。
ジルベールは、封を切って便箋を広げた。
「……読め、と言うのか」
彼は、私に紙を渡した。
几帳面な、小さな字が並んでいる。
『ジルベール・ロシュ卿へ。法務院で示された「脅迫状」の文面について、お話ししたいことがございます。あの手紙は、リュシー殿下ではなく、私に宛てた手紙ではないでしょうか。私は、あの手紙を一度も受け取っておりません。ミレイユ・オードラン』
読み終えた瞬間、指先から力が抜けていく。
法務院が見落とした真実を、ミレイユは、自分の力でたどり着いていた。
原作の彼女は、この事件の真相に最後に辿り着く人物だった。その彼女が、こちらへ、手を伸ばしてきたのだ。
夜会で、殿下の隣に立っていた飾り気のない娘。レティシアが、あれほど妬んでいた相手。
彼女は、自分に向けられた敵意の手紙が、見当違いの罪状に使われていることを知って、黙っていられなかったのだろう。
その公正さが、胸にこたえた。
「ロシュ卿。ミレイユ様に、お会いしたいです」
「許可を取る。規則では、面会は私の立会いのもと、騎士団の許可が必要だ」
「間に合いますか」
「間に合わせる」
もう、何度目だろう、この言葉を聞くのは。
けれど、その声に、迷いはなかった。
ジルベールは卓の上で便箋を引き寄せ、デュボワ卿宛ての申請書を、その場で書きはじめた。
理由の欄には、『新証拠に関する証人の聴取』とある。
書き終えた紙を、彼はルネに預けた。
「第二隊へ。今日中に、返事をもらってこい」
「はっ。承知いたしました」
ルネが敬礼して走り去る。
その背中を、私は少しだけ、複雑な気持ちで見送った。
疑うべき相手が増えすぎて、誰を信じていいのか、まだ決めきれない。
それでも、扉の前に立ち続けるこの騎士だけは、信じてみてもいいと、思いはじめていた。
処刑まで、あと三日。
今夜、別邸の侯爵からの返事が届く。




