ミレイユの観察
ルネが戻ってきたのは、昼下がりだった。
「デュボワ隊長の許可が出ました。面会は日没前に半刻、ロシュ卿の立会いのもと。隊長からの伝言があります。『彼女に会うなら、見聞きしたことは、すべて記録しろ』と」
「承知した」
ジルベールは書付を受け取り、短くうなずいた。
ルネは敬礼して持ち場へ戻っていく。その後ろ姿が、廊下の角で一瞬だけ、こちらを振り返ったような気がした。
私は寝台の端に座り直した。
ミレイユ・オードラン。
あの手紙を、本当は受け取るはずだった人。そして、あの日、同じ円卓についていた、生き残りの一人。
「緊張しているのか」
「……少し。あの人に最後に会ったのは、夜会の控えの間でした。私は、彼女に『田舎の男爵家』と言いました」
「覚えているのか」
「記憶にあります。でも、自分が言ったという実感は、あまりないんです」
ジルベールは、何も言わなかった。
慰めない代わりに、否定もしない。それが、この人の誠実さなのだと、最近わかってきた。
*
ミレイユは、日が傾くころに、ルネに案内されて現れた。
亜麻色の髪を三つ編みにして、うなじの低いところでひとつに結んでいる。灰青の質素なドレス。飾りは、襟元の小さな銀のブローチだけ。
背筋のまっすぐな、そして、観察する目をした娘だった。
彼女は部屋の入口で立ち止まり、ジルベールに礼をして、それから私を、まっすぐに見た。
「ご無沙汰しております、レティシア様」
「……来てくださって、ありがとうございます」
私が立ち上がろうとすると、彼女は手で制した。
「どうぞ、そのままで。お体がお辛いと伺っております」
言葉づかいは丁寧だ。
けれど、その声には、少しの温度もなかった。当然だと思った。
「その前に、お伝えしなければならないことがあります」
私は、膝の上で拳を握りしめた。
「あの手紙は、私が書きました。あなたに宛てて。出さずにしまったけれど、書いたことは事実です。あなたを妬んでいました。『田舎の男爵家』と言ったことも、覚えています。……申し訳ありませんでした」
深々と、頭を下げる。
そのまま待っても、何の返事もなかった。
やがて、静かな声が降ってきた。
「謝罪は、証明のあとで受け取ります」
顔を上げると、ミレイユは、ほんの少しだけ口の端を持ち上げていた。
「今のあなたを、私はまだ、知りません。ですから、今のあなたの言葉を、信じるかどうかも決められません。でも」
灰色がかった緑の目が、揺れずに私を捉える。
「私は、あなたを許していません。同時に、あなたが王女殿下を殺したとも、思っていません。その二つは、別のことです」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
許してもらえなくていい。それでも、「別のこと」と言ってくれた、その公正さが、ありがたかった。
*
「手紙の宛名について、お聞かせください」
ジルベールが促すと、ミレイユは、姿勢を正して語りはじめた。
「五月九日、法務院の審問で、私は『脅迫状』の文面を示されました。聞いた瞬間にわかりました。『男爵家の娘』は私のことです。王太子殿下の隣に立つことを許さない、という内容も、私に向けられたものとしか読めませんでした」
「その場で、そう申し出ましたか」
「はい。審問官に、『この手紙は王女殿下ではなく、私に宛てたものではありませんか』と。ですが、『あなたはこの件の被害者に過ぎない。証言は求めていない』と退けられました」
彼女は、静かに息を吐いた。
「私は、手紙を一度も受け取っていません。出されていないものを、どうして王女殿下が受け取れたのか。そのことを、誰も不思議に思わなかったのが、不思議でなりませんでした」
ジルベールの手帳の上で、ペンが走る。
ミレイユは、それを横目に確かめてから、言葉を続けた。
「それと、もう一つ。茶会のことで、お話ししておきたいことがあります」
私は、思わず身を乗り出した。
「円卓の席順を、覚えていますか。リュシー殿下があなたの右、私は向かい、イザベル様は左。……お茶の途中で、あなたは一度、席を立たれました」
「……私が」
「温室の控え室へ。手紙箱か何かを、取りに行くと。十分ほどで戻られました。そのときは、少し顔色が悪かったと記憶しています」
覚えていない。
その十分間が、私の欠けた午後の、どこに入るのかもわからない。
「イザベル様は」
ジルベールが、短く尋ねた。
「ほぼ同じころ、席を立たれました。『髪飾りを直してくる』と。……戻ってこられたのは、あなたが戻る少し前でした」
ペンが、止まった。
私とジルベールの視線が、一瞬、交わる。
「その間、控え室の近くで、二人は会いましたか」
「わかりません。私は席に残っていました。ただ、イザベル様が戻ってこられたとき、袖の中に、何かを隠すように、片手をずっと下げていらっしゃったのが、気になりました」
袖の中。
折りたたんだ便箋なら、十分に隠れる。
「それを、審問官には」
「申し上げました。『髪飾りを直していただけだろう』と」
ミレイユは、きゅっと唇を結んだ。
「私は、疑っているのではありません。ただ、見たことを、見たままに、お話ししているだけです」
その言葉が、あまりにもまっすぐで、息が止まりそうになった。
*
半刻が過ぎようとするころ、私は、どうしても聞いておきたいことを、口にした。
「ミレイユ様。もし、ですが。もしも犯人が、いちばん近くにいた人だとしたら。誰だと、思いますか」
ミレイユが、まばたきをした。
「……それは、私が、どこかで申し上げたことでしょうか」
「いえ。ただ、そう思って」
原作の彼女は、確かに、そう言うはずだった。
けれど、今の彼女は、まだ、何も知らない。
ミレイユは、少しだけ首を傾けた。
「いちばん近くにいた人、ですか。茶会で、殿下に最も近かったのは、お茶を注いだ侍女か、あるいは、あの席の主催者でしょう。……つまり、マルトさんか、あなたです」
「……そう、ですね」
「でも、私は、答えを急ぎたくありません」
彼女は、きっぱりと言った。
「いちばん近くにいたのが誰かを決めるのは、証拠のあとです。近くにいたから犯人だ、と決めつければ、法務院と同じ間違いをします」
その言葉に、私は心の底から頷いた。
原作の彼女が、最後に真相へ辿り着いた理由が、わかった気がする。
ミレイユは、立ち上がって礼をした。
「また、お目にかかります。……私が、お伝えできることがあれば、その都度」
「ありがとう、ミレイユ様」
「謝罪の言葉は、証明のあとで、です」
そう言って、彼女は少しだけ笑う。
その笑顔は、夜会の広間で見た、飾り気のない娘のものだった。
扉が閉まったあと、ジルベールがぽつりと言った。
「あの娘は、見たものと、思ったことを、きちんと分けて話す」
「……ええ」
「そういう証人は、少ない。信用していい」
この人が誰かをそう評するのは、初めて聞く。
私も同じ気持ちだったことが、少しだけ、嬉しかった。
*
日が落ち、燭台に火が入ったころ、廊下の階段に、馬の蹄の音が響いた。
騎士団の伝令が、埃にまみれた姿で、ジルベールの前に膝をつく。
別邸へ向かった、あの使いだった。
「ご苦労。返書は」
「……ございません」
伝令の声が、低く沈んだ。
「侯爵様は、書簡の封をお切りになりませんでした。『あの子のことは、一切、私に報せるな』と仰せられて、そのまま、お突き返しに」
膝の上で、指が、強く握られた。
予想していなかったわけではない。けれど、実際に聞かされると、胸の底が、すうっと冷えていった。
父は、本当に、私のことを何ひとつ知りたくないのだ。
それでも、その父が、屋敷を発つ朝まで、指輪を探していた。そのことだけが、何かの救いのように思えた。
「ただ」
伝令は、顔を上げた。
「別邸の家令殿が、お帰りの際、そっと私を呼び止めまして。小声で、こう申しました。『旦那様は、五月二日の朝、お発ちの直前に、指輪印を探しておいででした。見つからぬまま、お出になりました』と」
息が止まった。
「指輪印は、見つからなかった。出立の朝から、侯爵の手元になかった、ということか」
「家令殿は、そう申しておりました」
ジルベールの手帳の上で、ペンが走る。
私は、膝の上で震える指を、もう片方の手で包みこんだ。
五月二日の朝、騎士団の詰所へ届けられた書簡には、確かに、侯爵の指輪印が押されていた。
侯爵本人は、そのとき、指輪を持っていなかった。
つまり、あの書簡は、父が書いたものではない。
父の指輪を、誰かが、使ったのだ。
「その誰かは、五月二日の朝、侯爵の書斎か寝室に出入りできた人間だ」
ジルベールの声は、いつもより低かった。
「屋敷の中の、ごく限られた人間になる」
「……名前を、挙げないんですね」
「確かめるまでは。だが」
彼は、手帳を閉じた。
「候補は、もう、片手で数えられる」
処刑まで、あと三日。




