ずれた指輪印
四日目の朝は、鐘の音で始まった。
九つ目が鳴り終わるころ、廊下に複数の足音が近づいてくる。
先頭に立つのは、五十がらみの、顎の細い男だった。濃紺の外套の胸に、団長補佐を示す銀の飾緒。後ろには、書類箱を抱えた若い書記が付き従っている。
「マルセル・ヴェルニエだ。ロシュ、貴官の申請は読んだ。昨日のうちに応じられず、すまなかった」
「いえ。お戻りいただけただけで、十分です」
ジルベールが敬礼する。
補佐は私の顔を、一度だけ、値踏みするように見た。憎しみも同情もない、事務官の目だった。
「ヴァルモン嬢。規則どおり、面会は半刻。書簡の原本は、私が手に持ったまま、お見せする。触れることは許さない」
「承知しております。見せていただけるだけで、ありがたいです」
*
補佐は書記から平たい筒を受け取り、中から一枚の書簡を取り出した。
卓の上で、両端を指で押さえたまま、私たちのほうへ向ける。
白い紙だった。縁に、うっすらと家の紋章の透かしが入っている。
その瞬間、胸の奥が、ひやりとした。
「ロシュ卿。この紙」
「ああ。遺書と同じだ」
ジルベールが、声を落として答えた。
「侯爵家の事務用の便箋。小書庫に備え付けのものだ」
文面は短かった。
『娘の私室の調度に関する記録は、家の名誉に関わるゆえ、簡略に留められたし。詳細の記載は無用とする。侯爵ギヨーム・ド・ヴァルモン』
筆跡は、端正だった。
一文字ごとの高さが揃い、払いは短く、どこにも癖がない。署名の下には、赤い封蝋の痕が押されている。
「お父様の字、ですか」
私は、思わず口にしていた。
「いいえ。……似せようとしているだけです」
父の字は、角ばっていた。
筆圧が強く、「の」の最後に必ず、小さな跳ねが残る。幼いころ、父の書斎で、その字が並ぶ書類の端を、こっそり眺めていた。そういう記憶が、レティシアの中に、確かにある。
「跳ねが、ありません」
「侯爵の筆跡は、騎士団にも何通か記録がある」
補佐が、淡々と言った。
「確かに、これほど整ってはいない。ただ、急ぎの書面を、書記に代筆させる貴族は珍しくない。代筆であれば、筆跡が違うのは当然だ」
「代筆なら、そう断るものではありませんか」
「断る場合も、断らない場合もある」
そこで、ジルベールが口を挟んだ。
「封蝋を、見せていただけますか」
補佐は無言で、書簡を少しだけ持ち上げた。
赤い蝋の上に、侯爵家の紋章が浮かんでいる。盾を支える二頭の獅子。その輪郭は、くっきりしていた。
けれど、どこか、違和感がある。
「……傾いていませんか」
「傾いている」
ジルベールの声に、確信が混じった。
「ヴェルニエ殿。指輪印は、指に嵌めたまま押すものです。指の腹で支えて、手首を返す。そうすると、印影の下側が、わずかに深く沈む」
「ほう」
「この印影は、全体が均一だ。つまり、指に嵌めずに、指でつまんだ指輪を、上から押しつけた形になる」
補佐の眉が、初めて動いた。
「……言われてみれば、そうだな。持ち主の押し方ではない、と」
「断定はできません。ただ、侯爵本人が、出立の直前に、自分で押したのだとしたら、少し不自然です」
私は、息を詰めたまま、二人のやりとりを聞いていた。
昨日の夜、別邸からの使いが持ち帰った言葉が、頭の中でつながっていく。
父は、五月二日の朝、指輪を探していた。見つからないまま、屋敷を発った。
それなら、この印は、誰かが、父の指輪を手に取って、押したものだ。
*
「ヴェルニエ殿。この書簡を詰所へ持参したのは、誰ですか」
ジルベールが尋ねると、補佐は、かすかに視線を逸らした。
「受付の記録には、『侯爵家の使い』とだけある。署名は、判読できない」
「あなたは、ご覧になりましたか」
「私は、朝の会議で席を外していた。受け取ったのは、当番の書記だ」
補佐が、後ろの若い書記へ目をやった。
書記は少し青ざめながら、一歩進み出る。
「わたくしが受け取りました。灰色の外套の、若い男です。頭巾を深く被っていて、顔はよく見えませんでした。ただ……」
「ただ」
「袖口に、縁取りがあったように思います。騎士団のもののような。でも、確かではありません」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
騎士団の縁取り。
ジルベールの顔から、表情が消えている。
私は、扉の外に控えているはずの、栗色の髪の青年のことを考えそうになって、慌てて、その考えを押し戻した。
昨日の夕方、彼が、ほんの一瞬だけ、廊下の角で振り返ったことを思い出す。
それが何を意味するのか、まだ、私には何もわからない。
「その男の、背格好は」
「中背でした。若く、軽やかな足取りだったと思います」
軽やかな足取り。
それだけでは、何も言えない。この屋敷にも、騎士団にも、中背の若者など、いくらでもいる。
「ヴェルニエ殿。この書簡は、引き続き、保管をお願いします。侯爵ご本人は文を受け取らぬと仰せですが、指輪印の件の裏づけを、別の筋から取ります。そのとき、照合が必要になります」
「承知した。……ロシュ」
「はい」
「貴官は、この娘の言葉を、信じているのか」
補佐の問いに、ジルベールは、すぐには答えなかった。
私は、膝の上で指を握りしめて、答えを待った。
「信じる、と言うには、まだ早い」
静かな声だった。
「ですが、彼女が差し出した筋は、事実と、一つも矛盾していません。インクも、筆跡も、封蝋も。私は、そこを、無視できません」
「そうか」
補佐は、書簡を筒に収めながら、短く言った。
「ならば、記録に残しておく。『ロシュ卿は、再調査の必要を認めた』と」
「ありがとうございます」
補佐は書記を連れて、部屋を出ていった。
扉が閉まる直前、ふと立ち止まり、こちらを振り返る。
「ヴァルモン嬢」
「はい」
「法務院の判決は、証拠に基づく。証拠が変われば、判決も変わる。……それだけは、覚えておくといい」
それだけ言い残して、足音が遠ざかっていった。
*
その日の午前、私は、寝台の端で、父の指輪のことを考えていた。
金の台座に、紺の石。右手の薬指に、いつも嵌めていた。
幼いころ、膝に乗せてもらった記憶がある。父は笑って、指輪を外し、私の小さな掌に載せてくれたのだ。重かった。台座の裏には、小さな刻みがあった。
「お父様は、これを、誰にも触らせなかった」
「どういうことだ」
「寝る前も、湯浴みのときも、指輪は書斎の小箱に仕舞います。その小箱の鍵を持つのは、お父様だけ。……合鍵を預かっているのは、執事のガスパールと、あと一人、書記だけでした」
ジルベールの手が、止まる。
「あと一人」
「兄様です。書斎の整理を任されているから、と」
口にした瞬間、声が少しだけ、かすれた。
名前を挙げたのではない。ただ、事実を並べただけだ。そう自分に言い聞かせて、唇を結ぶ。
「執事殿と、書記。……その二人が、五月二日の朝、書斎に入れた」
「でも、ガスパールが、お父様を裏切るとは、思えません」
「私も、そう思う。ただ、思うだけでは、証拠にならない」
彼は、手帳に一行だけ書き足した。
その字だけが、いつもより、わずかに強い。
*
しばらくして、ジルベールが、長く息を吐いた。
「疲れましたか」
「いや。……考えている」
彼は窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。
霧はとうに晴れ、午前の光が、芝の上に落ちている。
「書簡を持ち込んだのは、騎士団の外套を着られる人間だ。あるいは、騎士団の外套を手に入れられる人間。屋敷の誰かが、あるいは、騎士団の誰かが、この件に関わっている」
「……名前は、まだ挙げないんですね」
「挙げない。挙げて、間違えたら、あなたの首が飛ぶ」
そう言って、振り返った灰色の目が、わずかに揺れた。
「それと」
「はい」
「昨日、あなたは、記憶を取り戻した。今日は、父親の字の癖を思い出した。……辛くはないか」
予想していなかった問いに、言葉が詰まる。
「辛い、です。でも、思い出さなければ、進めないので」
「無理は、するな。眠れなければ、眠れないと言え」
「それは、ロシュ卿こそ、です」
「……私の話は、いい」
即答だった。
けれど、その耳の端が、ほんのわずかに赤い。
私はおかしくなって、少しだけ、笑ってしまった。
「笑うところか」
「いえ。……すみません」
彼は小さく息を吐いて、また窓の外へ視線を戻す。
けれど、その背中は、昨日までより、ずっと近くにある。そんな気がした。
*
昼過ぎ、昼食の盆を持って、ルネがやってくる。
「お待たせしました。今日は、鶏の煮込みですよ」
いつもの人懐っこい笑顔だった。
盆を卓に置き、彼は、ふと私の顔を見て首を傾げる。
「お顔の色が、少し良くなりましたね。何か、いいことでも?」
「……そう見えますか」
「ええ。昨日より、ずっと」
屈託のない声だった。
その袖口を、私は、視線だけで確かめた。灰色の外套の縁。第三隊の者が着る、薄い銀糸の縁取り。
けれど、第三隊の隊員は、屋敷の中に、他にも何人もいる。
何も、言えなかった。
言えない代わりに、私は、匙を手に取る。
「いただきます」
「ごゆっくり」
ルネは、敬礼して部屋を出ていった。
扉の向こうで、軽やかな足音が、廊下を遠ざかっていく。
その足音の軽さが、昨日までとは、まるで別のものに聞こえた。
処刑まで、あと二日。




