藍色の告白
午後の光が傾きはじめたころ、ジルベールは外套の貸出簿を調べに、詰所へ向かった。
「戻りは日没前だ。その間、廊下は第二隊のボーダン殿が受け持つ」
「ルネではなく?」
「ルネは、今日は別の持ち場に回した」
答えは、淡々としている。
その理由を、彼は口にしなかった。私も、尋ねなかった。尋ねれば、考えたくないことを、考えてしまいそうだったから。
扉の向こうで、見慣れない騎士の足音が、重く、一定の間隔で往復している。
昨日までの軽やかな足音とは、まるで違う。それが、今日は少しだけ心強かった。
*
日が沈む少し前に、ジルベールが戻ってきた。
外套の肩に、薄く埃がついている。詰所の書庫に、長く籠っていたのだろう。
「どうでしたか」
「……その前に、肩の埃を払ってください」
「あとでいい」
「いま、です。夕方の見回りの前に」
言い返そうとして、彼は黙った。黙って、外套の肩をはたく。灰色の埃が、夕日の中に舞った。
「貸出簿は、第三隊のものが一冊、半月前から所在不明になっている。五月二日の朝、外套が持ち出されたかどうかは、これでは確かめられない」
「……紛失、ですか」
「あるいは、誰かが処分した」
彼は、それ以上は言わなかった。
そのとき、廊下で、ボーダン卿の低い声がした。
「ロシュ卿。ご来客です。オードラン嬢と、グランシェ公爵令嬢」
私は、思わず立ち上がった。
「イザベル様が……」
「ミレイユ嬢が、昨夜のうちに、声をかけてくれたらしい。許可はデュボワ卿から取ってある」
ジルベールの声は、いつもどおり平坦なままだ。
けれど、その手帳を握る指に、わずかに力が入っているのが見えた。
*
扉が開いて、最初に入ってきたのは、ミレイユだった。
その後ろに、黒髪を高く結い上げた、背の高い人が続く。
イザベル・ド・グランシェ。
深い藍色のドレスに、真珠の髪飾り。口元には、いつもの微笑み。けれど、その目の下には、薄い翳りがあった。
「ごきげんよう、レティシア様」
「……お越しくださって、ありがとうございます」
私が頭を下げると、イザベルは軽く首を傾けた。
「お顔を拝見するのは、茶会以来ですわね。……少し、おやつれになりました」
「ええ。あまり、眠れていなくて」
「そう」
それだけ言って、彼女は、勧められた椅子に腰を下ろす。
扇を膝に置く仕草は、優雅で、一分の隙もない。それなのに、扇の骨を握る指先が、わずかに白かった。
ミレイユが、私の隣に座った。
目が合うと、彼女は、ほんの少しだけうなずく。ここにいます、と言うように。
*
「単刀直入に伺います」
ジルベールが、手帳を開いた。
「あなたは五月二日に、法務院へ、一通の手紙を提出されました。『殿下の遺品の中から見つけた』と」
「ええ。そのように、申し上げました」
「それは、事実ですか」
イザベルは、すぐには答えなかった。
微笑みが、ゆっくりと薄れていく。
「……事実では、ありません」
静かな声だった。
ミレイユが、膝の上で息を詰めるのがわかった。
「あの手紙を、わたくしは、殿下の遺品から見つけてなどおりません。茶会の日の午後、温室の控え室の机の上で、見つけたのです」
「控え室の、どこで」
「手紙箱が、開いておりました。蓋が持ち上がって、一番上に、折りたたんだ薄桃色の便箋が、載っていました。……最初から、わたくしに見つけさせるために置いてあるような、不自然な置き方でした」
私は、息をのんだ。
手紙箱の蓋が、開いていた。
一番上に、手紙が。
「上部は、すでに破れていました。宛名のところが。でも、文面の中に、『次の茶会で、あなたに思い知らせます』という一文がありましたので、レティシア様が、誰かを脅す手紙だと」
彼女は、そこで、扇を握りしめた。
「わたくしは、あなたを好きではありませんでした。殿下の隣に立つ座を、あなたと争っていましたもの。この手紙があれば、いつか使える。そう思って、袖に隠しました」
潔い告白だった。
言い訳をしない。その潔さに、胸が、きしんだ。
「それが、袖の中に隠していたもの、ですね」
「ミレイユ様がご覧になっていたのでしょう。ええ。そのとおりです」
イザベルは、横目でミレイユを見て、小さく息を吐いた。
「あなたの目は、昔から、ごまかせませんわね」
「見たことを、見たままにお話ししただけです」
「それが、いちばん困るのです」
そう言って、ほんの少しだけ、笑った。
それは、さっきまでの微笑みより、ずっと、人間らしい笑い方だった。
*
「手紙を提出した理由を、お聞かせください」
ジルベールが、促した。
「その手紙は、あなたにとって、使える札だったはずです。なぜ、わざわざ『殿下の遺品から見つけた』と偽って、法務院へ出したのですか」
イザベルは、扇を閉じた。
それから、袖の内側へ手を入れ、小さく折りたたまれた紙を、卓の上に置いた。
「これを、ご覧ください」
白い紙だった。
縁に、うっすらと透かしが入っている。
ジルベールが、手袋をはめた指で、そっと広げる。
数行の文字が、並んでいた。
『茶会の日、控え室から手紙を持ち去ったのは、あなたです。それを、殿下の遺品の中から見つけたことにして、五月二日のうちに法務院へ出しなさい。出さなければ、あなたが持ち出したと、わたくしが公にします』
息が、止まった。
端正な、癖のない字だった。
一文字ごとの高さが揃い、払いは短く、どこにも、書いた人間の顔がない。
遺書と、同じ種類の字。昨日の補佐の書簡と、同じ種類の字。
「いつ、これを」
「五月一日の夜です。殿下のご逝去が伝えられた、その夜。わたくしの部屋の、枕元に置かれていました」
「どうやって」
「わかりません。侍女は、誰も入れていないと申しました。ただ、鍵のかかった窓の内側に、置かれていたのです」
イザベルの声が、わずかに震えた。
「わたくしは、怖かったのです。殿下が亡くなって、茶会の席にいた者が、みな疑われる。控え室から手紙を持ち出したと知られれば、わたくしが、真っ先に疑われる。脅迫状を出せば、少なくとも、疑いは、レティシア様に向く」
彼女は、私をまっすぐに見た。
「わたくしは、あなたを、身代わりにしたのです」
膝の上で、私の手が冷たくなっていくのがわかった。
怒りよりも先に、奇妙な納得が、胸に落ちてきた。
この人もまた、誰かに、追い詰められていたのだ。
「謝って済むことではありません。ですが、お伝えしておきます。……申し訳ありませんでした」
イザベルは、深く頭を下げた。
公爵令嬢が、罪人と呼ばれる者に頭を下げる。それが、どれほどの覚悟か、わからないほど私も鈍くはなかった。
「頭を上げてください」
「いいえ」
「謝罪は、証明のあとで受け取ります」
ミレイユの言葉を、そのまま借りた。
イザベルは、顔を上げて、目を丸くしたあと、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……ええ。そう、いたしましょう」
*
ジルベールが、紙を卓の上に置いたまま、低い声で言った。
「この脅迫の書面は、証拠として預かります。ただし、書いた者は、まだ特定できません」
「ええ。わたくしにも、心当たりは、ありません」
イザベルは、そう答える。
嘘をついているようには、見えなかった。
けれど、一つだけ、気になることがあった。
「イザベル様。控え室に入ったとき、私は、そこにいましたか」
その問いに、彼女は、わずかに眉をひそめた。
「いらっしゃいました。長椅子に、横になって。……眠っておられるように見えました」
「眠って」
「ええ。わたくしが入っても、動かれませんでした。肩に触れたら、起こしてしまうと思って、そのまま、手紙の箱に目がいって」
また、あの十分間だ。
私は、控え室で眠っていたのだ。
誰かが私を、眠らせていた。その間に、手紙箱が開けられ、宛名が破られた。
「ミレイユ様は、私が顔色が悪いまま戻った、と」
「はい。そのとおりです」
ミレイユが、小さくうなずく。
その横顔に、考え込むような影が差した。
「イザベル様。もう一つ、お聞きしてもいいでしょうか」
「どうぞ」
「茶会の最初、お茶が注がれたとき。どの杯が、どなたの前に置かれたか、覚えていらっしゃいますか」
イザベルは、少しのあいだ、目を閉じた。
やがて、ゆっくりと、口を開く。
「覚えております。わたくし、席順に、人の値踏みをする癖がありますから」
そう前置きして、彼女は言った。
「金の縁取りの白い杯は、最初に、あなたの前に置かれました。レティシア様。その後で、あなたが、それを殿下に譲られるまで」
ジルベールの手が、止まった。
私も、息ができなかった。
金の縁取りの、白い杯。
それは、私の「主の杯」。
最初に注がれたのは、私の前だった。毒が、そこに入っていたのだとしたら。
殿下が飲んだのは、本当は、私が飲むはずのものだったのだ。
処刑まで、あと二日。




