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転生したら処刑7日前の悪役令嬢でした。逃げるにはもう遅いので、犯人を探します  作者: ローナ


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18/42

金縁の杯

ミレイユとイザベルが帰ったあと、部屋には、燭台の火が一つだけ残された。


ジルベールは、預かった脅迫の書面を、遺書の写しの隣に並べている。

どちらも、白い透かし入りの紙。どちらも、癖のない端正な字。並べると、同じ手が書いたのだと、素人の目にも、わかってしまう。


「書いた者の特定は」

「字だけでは、できない。癖を消した字は、誰のものでもない」


そう言ってから、彼は、紙から目を上げた。


「それより、杯の件だ」


私は、膝の上で指を組んだ。


「殿下が飲んだのは、私の杯でした」

「イザベル嬢の証言が正しければ、そうなる」

「毒が入っていたのが、杯の中だったとしたら。狙われたのは、殿下ではなく、私」


声に出すと、背筋がぞくりとした。

原作の筋書きでは、リュシー殿下は、悪役令嬢に殺された被害者だった。けれど、もし本当は、悪役令嬢のほうが、殺されるはずだったのだとしたら。


「あなたは、なぜ、その杯を殿下に譲ったんだ」

「……覚えていません」


首を振ったとき、胸の奥で、何かが、かすかに揺れた。


   *


白い温室の中だった。

陽の光が、硝子の天井を通して、卓の上の磁器を照らしている。


『まあ、素敵な杯ね』


笑っているのは、栗色の巻き毛の少女だった。

まだ十六になったばかりの、リュシー王女。私よりも二つ年下で、いつも私の後ろをついて歩いていた人。


『金の縁取りなのね。レティの、お母様の形見?』

『ええ。わたくしの、主の杯。これで飲むのは、わたくしだけと決まっているの』

『ずるいわ。一度でいいから、わたくしにも貸して』


私は、少し迷って、それから笑った。

意地を張ってばかりだった私が、この子にだけは、いつも負けてしまうのだった。


『しかたないわね。今日だけよ』


白い杯が、私の手から、彼女の掌へ、そっと渡される。

殿下は、花が開くように笑って、その縁に、小さく唇を寄せた。


   *


息を吸い込むと、目の前の燭台の炎が、ゆらゆらと滲んで見えた。


「……思い出したのか」

「はい。私が、自分で、渡したんです」


頬を、熱いものが伝っていた。

気がつかないうちに、涙がこぼれている。


「殿下は、私に、懐いてくださっていました。私は、あの子を、ほとんど、妹のように思っていた。それなのに、私は」


言葉が、そこで途切れる。

私の杯が、あの子を殺した。誰に狙われたのかはわからない。けれど、杯を渡したのは、確かに、私の手だった。


「あなたが殺したわけではない」


ジルベールの声が、低く、静かに降ってきた。


「毒を入れた者がいる。あなたは、その者に、利用されただけだ」

「それでも」

「それでも、だ。自分を責める暇があるなら、真犯人の名を探せ。殿下も、それを望んでいる」


慰めの言葉というより、あれは命令だった。

けれど、その乱暴さが、今の私には、何よりもありがたい。


涙を拭うと、彼が、洗いたての白い手巾を、黙って差し出してくれた。

今度は、笑わずに受け取る。


「……あなたは、いつも、これを持っているんですね」

「それ以外に、持っていない」


「ロシュ卿は、殿下に、お会いしたことが?」

「一度だけ。王宮の廊下で、道を尋ねられた。騎士の名前を聞いて、覚えようとしていた」

「あの子らしいです」

「……そうか」


それきり、彼は口をつぐんでしまう。

燭台の火に照らされた横顔は、ほんの少し、遠くを見ているようだ。きっと、あの茶会の日の王宮の廊下を、思い出しているのだろう。私は、礼を言う代わりに、小さく頭を下げる。


気持ちが少し静まってから、私は、もう一つの疑問を口にした。


「あの杯が、私のものだと知っていた人は、誰でしょう」

「続けてくれ」

「お母様の形見で、お父様と、屋敷の古い使用人は、みんな知っています。でも、あれを私以外が使うことは、絶対にありませんでした。茶会の席に並べたとき、杯の持ち主が私だと見分けられた人間は、限られます」

「配膳台で、並べた者」

「……はい」


それだけでは、まだ、名前にはならない。

私は、胸の中で、二人分の名前を、そっと数えた。


   *


夜になって、マルトが、夕食の盆を運んできた。

廊下にはボーダン卿が立っている。部屋の中には、ジルベールが残ったまま。


「マルト」


ジルベールが、穏やかな声を選んで、話しかけた。


「茶会の日の準備について、聞きたい。あなたが知っていることを、順を追って、話してほしい」


マルトは、びくりと肩を震わせた。

盆を卓に置く手が、小さく震えている。


「……何も、隠しておりません」

「隠しているとは言っていない。ただ、聞かれなかったから、話していないことがあるはずだ」


しばらく、沈黙が続いた。

やがて、マルトは、ぎゅっとエプロンの裾を握りしめた。


「お嬢様の、金縁の白い杯は」


細い声が、床に落ちる。


「いつも、お嬢様のお部屋の、鍵のかかる戸棚にございます。茶会の朝、わたくしが戸棚から出して、厨房の隅の配膳台まで運びました。そこで、ほかの三つの杯と、一緒に盆へ並べるのでございます」

「並べたのは、誰だ」

「わたくしと……手伝いに来てくださった、サン=ロラン様でございます」


ジルベールの手帳の上で、ペンが走る。

彼の顔つきは、少しも変わらない。


「その間、あなたは、ずっと台の前にいたのか」

「いいえ。お湯が足りなくなって、一度、井戸のほうへ、取りに行きました。戻るまで、十分ほど。その間は、サン=ロラン様が、『盆を見ておくよ』と」


息が、止まる。

十分。さっきから、何度も耳にしている、あの長さだ。


「それを、法務院では」

「申し上げませんでした。……サン=ロラン様が、そう仰ったのです。『ちょっと席を外しただけのことは、わざわざ言わなくていいよ。聞かれなければ』と」


マルトが顔を上げる。

その目は、涙で濡れていた。


「わたくしは、その言葉に従いました。法務院で、お嬢様が殿下の杯に一人で近づいた、と申し上げたのは、本当のことでございます。でも、お嬢様が杯を『お渡しになった』ところまでは、見ておりませんでした。ですから、そのまま、『近づいた』とだけ」

「それで、あなたの証言が、疑いを強めた」

「はい。……わたくしの、せいでございます」


マルトは、その場に膝をつきそうになった。

私は、慌てて立ち上がって、その腕を支える。


「マルト、あなたのせいじゃない」

「でも」

「あなたは、聞かれたことに、正直に答えただけ。私は、そう思う」


マルトは、声を上げずに、しゃくりあげた。

その背中を、私は、ゆっくりと撫でる。ミレイユの言葉が、ふと、頭をよぎった。


見たことを、見たままに話す。

それが、いちばん難しくて、いちばん大切なのだと。


   *


マルトが下がったあと、ジルベールは、しばらく黙っていた。

手帳に書かれた文字は、昨日までよりも、ずっと少なく、そして、ずっと重い。


「十分間。サン=ロラン殿は、杯のそばに、一人でいた」

「……でも、他にも、誰でも近づけたはずです。配膳台は、厨房の隅にあるんですから」

「そうだ。だから、断定はしない」


「もう一つ。あなたが聞いた『ごめんね』という囁きだ」

「はい」

「あの声が、あなたに向けられていたのなら。殺す相手に、謝る人間だ。憎んでいる者の声ではない」


私は、その意味を、ゆっくりと咀嚼した。

憎しみのない殺意。

謝りながら、人の首に縄をかける人間。


背筋が、冷たくなる。

そういう人間は、笑顔で、杯を差し出してくる。


「だから、杯だ」


彼は、もう一度、卓の上の書面を見下ろした。


「毒が杯の中に仕込まれていた、という証拠は、まだない。茶の中に入っていたのかもしれない。いずれにしても、杯そのものを、調べる必要がある」

「見分けるための特徴なら、お話しできます。内側の底に、小さな青い百合の絵が。金の縁は、持ち手の反対側が、少し擦れて薄くなっています」

「覚えておく。もし現物が見つかったとき、他の杯と取り違えないように」

「杯は、今、どこに」

「法務院の証拠庫のはずだ。ここへ来る前に、デュボワ卿に、鑑定の照会を出してある」


そのとき、扉の外から、ボーダン卿の声が響いた。


「ロシュ卿。デュボワ隊長からの返書が参りました」


差し出された封書を、ジルベールは、立ったまま開いた。

目を走らせる、その顔が、みるみるうちに硬くなっていく。


「どうしたんですか」


返事はなかった。

彼は、ゆっくりと紙を畳み、低い声で、一語ずつ、区切るように言った。


「……杯は、証拠庫にない」

「え」

「五月四日に、鑑定のため、証拠庫から持ち出された。返却の記録は、ない。持ち出しの署名の欄には、『騎士団第三隊・使い』とだけ、書かれている」


杯が消えた。それは、杯の中身を、誰かが恐れているということだった。


処刑まで、あと二日。

そして、いちばん大事な証拠が、誰かの手で、消されていた。

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