金縁の杯
ミレイユとイザベルが帰ったあと、部屋には、燭台の火が一つだけ残された。
ジルベールは、預かった脅迫の書面を、遺書の写しの隣に並べている。
どちらも、白い透かし入りの紙。どちらも、癖のない端正な字。並べると、同じ手が書いたのだと、素人の目にも、わかってしまう。
「書いた者の特定は」
「字だけでは、できない。癖を消した字は、誰のものでもない」
そう言ってから、彼は、紙から目を上げた。
「それより、杯の件だ」
私は、膝の上で指を組んだ。
「殿下が飲んだのは、私の杯でした」
「イザベル嬢の証言が正しければ、そうなる」
「毒が入っていたのが、杯の中だったとしたら。狙われたのは、殿下ではなく、私」
声に出すと、背筋がぞくりとした。
原作の筋書きでは、リュシー殿下は、悪役令嬢に殺された被害者だった。けれど、もし本当は、悪役令嬢のほうが、殺されるはずだったのだとしたら。
「あなたは、なぜ、その杯を殿下に譲ったんだ」
「……覚えていません」
首を振ったとき、胸の奥で、何かが、かすかに揺れた。
*
白い温室の中だった。
陽の光が、硝子の天井を通して、卓の上の磁器を照らしている。
『まあ、素敵な杯ね』
笑っているのは、栗色の巻き毛の少女だった。
まだ十六になったばかりの、リュシー王女。私よりも二つ年下で、いつも私の後ろをついて歩いていた人。
『金の縁取りなのね。レティの、お母様の形見?』
『ええ。わたくしの、主の杯。これで飲むのは、わたくしだけと決まっているの』
『ずるいわ。一度でいいから、わたくしにも貸して』
私は、少し迷って、それから笑った。
意地を張ってばかりだった私が、この子にだけは、いつも負けてしまうのだった。
『しかたないわね。今日だけよ』
白い杯が、私の手から、彼女の掌へ、そっと渡される。
殿下は、花が開くように笑って、その縁に、小さく唇を寄せた。
*
息を吸い込むと、目の前の燭台の炎が、ゆらゆらと滲んで見えた。
「……思い出したのか」
「はい。私が、自分で、渡したんです」
頬を、熱いものが伝っていた。
気がつかないうちに、涙がこぼれている。
「殿下は、私に、懐いてくださっていました。私は、あの子を、ほとんど、妹のように思っていた。それなのに、私は」
言葉が、そこで途切れる。
私の杯が、あの子を殺した。誰に狙われたのかはわからない。けれど、杯を渡したのは、確かに、私の手だった。
「あなたが殺したわけではない」
ジルベールの声が、低く、静かに降ってきた。
「毒を入れた者がいる。あなたは、その者に、利用されただけだ」
「それでも」
「それでも、だ。自分を責める暇があるなら、真犯人の名を探せ。殿下も、それを望んでいる」
慰めの言葉というより、あれは命令だった。
けれど、その乱暴さが、今の私には、何よりもありがたい。
涙を拭うと、彼が、洗いたての白い手巾を、黙って差し出してくれた。
今度は、笑わずに受け取る。
「……あなたは、いつも、これを持っているんですね」
「それ以外に、持っていない」
「ロシュ卿は、殿下に、お会いしたことが?」
「一度だけ。王宮の廊下で、道を尋ねられた。騎士の名前を聞いて、覚えようとしていた」
「あの子らしいです」
「……そうか」
それきり、彼は口をつぐんでしまう。
燭台の火に照らされた横顔は、ほんの少し、遠くを見ているようだ。きっと、あの茶会の日の王宮の廊下を、思い出しているのだろう。私は、礼を言う代わりに、小さく頭を下げる。
気持ちが少し静まってから、私は、もう一つの疑問を口にした。
「あの杯が、私のものだと知っていた人は、誰でしょう」
「続けてくれ」
「お母様の形見で、お父様と、屋敷の古い使用人は、みんな知っています。でも、あれを私以外が使うことは、絶対にありませんでした。茶会の席に並べたとき、杯の持ち主が私だと見分けられた人間は、限られます」
「配膳台で、並べた者」
「……はい」
それだけでは、まだ、名前にはならない。
私は、胸の中で、二人分の名前を、そっと数えた。
*
夜になって、マルトが、夕食の盆を運んできた。
廊下にはボーダン卿が立っている。部屋の中には、ジルベールが残ったまま。
「マルト」
ジルベールが、穏やかな声を選んで、話しかけた。
「茶会の日の準備について、聞きたい。あなたが知っていることを、順を追って、話してほしい」
マルトは、びくりと肩を震わせた。
盆を卓に置く手が、小さく震えている。
「……何も、隠しておりません」
「隠しているとは言っていない。ただ、聞かれなかったから、話していないことがあるはずだ」
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、マルトは、ぎゅっとエプロンの裾を握りしめた。
「お嬢様の、金縁の白い杯は」
細い声が、床に落ちる。
「いつも、お嬢様のお部屋の、鍵のかかる戸棚にございます。茶会の朝、わたくしが戸棚から出して、厨房の隅の配膳台まで運びました。そこで、ほかの三つの杯と、一緒に盆へ並べるのでございます」
「並べたのは、誰だ」
「わたくしと……手伝いに来てくださった、サン=ロラン様でございます」
ジルベールの手帳の上で、ペンが走る。
彼の顔つきは、少しも変わらない。
「その間、あなたは、ずっと台の前にいたのか」
「いいえ。お湯が足りなくなって、一度、井戸のほうへ、取りに行きました。戻るまで、十分ほど。その間は、サン=ロラン様が、『盆を見ておくよ』と」
息が、止まる。
十分。さっきから、何度も耳にしている、あの長さだ。
「それを、法務院では」
「申し上げませんでした。……サン=ロラン様が、そう仰ったのです。『ちょっと席を外しただけのことは、わざわざ言わなくていいよ。聞かれなければ』と」
マルトが顔を上げる。
その目は、涙で濡れていた。
「わたくしは、その言葉に従いました。法務院で、お嬢様が殿下の杯に一人で近づいた、と申し上げたのは、本当のことでございます。でも、お嬢様が杯を『お渡しになった』ところまでは、見ておりませんでした。ですから、そのまま、『近づいた』とだけ」
「それで、あなたの証言が、疑いを強めた」
「はい。……わたくしの、せいでございます」
マルトは、その場に膝をつきそうになった。
私は、慌てて立ち上がって、その腕を支える。
「マルト、あなたのせいじゃない」
「でも」
「あなたは、聞かれたことに、正直に答えただけ。私は、そう思う」
マルトは、声を上げずに、しゃくりあげた。
その背中を、私は、ゆっくりと撫でる。ミレイユの言葉が、ふと、頭をよぎった。
見たことを、見たままに話す。
それが、いちばん難しくて、いちばん大切なのだと。
*
マルトが下がったあと、ジルベールは、しばらく黙っていた。
手帳に書かれた文字は、昨日までよりも、ずっと少なく、そして、ずっと重い。
「十分間。サン=ロラン殿は、杯のそばに、一人でいた」
「……でも、他にも、誰でも近づけたはずです。配膳台は、厨房の隅にあるんですから」
「そうだ。だから、断定はしない」
「もう一つ。あなたが聞いた『ごめんね』という囁きだ」
「はい」
「あの声が、あなたに向けられていたのなら。殺す相手に、謝る人間だ。憎んでいる者の声ではない」
私は、その意味を、ゆっくりと咀嚼した。
憎しみのない殺意。
謝りながら、人の首に縄をかける人間。
背筋が、冷たくなる。
そういう人間は、笑顔で、杯を差し出してくる。
「だから、杯だ」
彼は、もう一度、卓の上の書面を見下ろした。
「毒が杯の中に仕込まれていた、という証拠は、まだない。茶の中に入っていたのかもしれない。いずれにしても、杯そのものを、調べる必要がある」
「見分けるための特徴なら、お話しできます。内側の底に、小さな青い百合の絵が。金の縁は、持ち手の反対側が、少し擦れて薄くなっています」
「覚えておく。もし現物が見つかったとき、他の杯と取り違えないように」
「杯は、今、どこに」
「法務院の証拠庫のはずだ。ここへ来る前に、デュボワ卿に、鑑定の照会を出してある」
そのとき、扉の外から、ボーダン卿の声が響いた。
「ロシュ卿。デュボワ隊長からの返書が参りました」
差し出された封書を、ジルベールは、立ったまま開いた。
目を走らせる、その顔が、みるみるうちに硬くなっていく。
「どうしたんですか」
返事はなかった。
彼は、ゆっくりと紙を畳み、低い声で、一語ずつ、区切るように言った。
「……杯は、証拠庫にない」
「え」
「五月四日に、鑑定のため、証拠庫から持ち出された。返却の記録は、ない。持ち出しの署名の欄には、『騎士団第三隊・使い』とだけ、書かれている」
杯が消えた。それは、杯の中身を、誰かが恐れているということだった。
処刑まで、あと二日。
そして、いちばん大事な証拠が、誰かの手で、消されていた。




