処刑前夜の贈り物
封書を握りしめたまま、ジルベールはしばらく動かなかった。
第三隊。
それは、彼自身が籍を置く隊の名前だった。持ち出しの署名の欄に書かれた『第三隊・使い』という五文字が、卓の上の燭台の光の中で、重く沈んで見える。
「ロシュ卿」
「……問題ない」
答えは、いつもより少し遅かった。
「五月四日の第三隊の勤務表を、持ってこさせる。ボーダン殿、詰所までお願いできますか」
「承知した」
ボーダン卿の足音が遠ざかったあと、部屋には、私とジルベールだけが残った。
蝋の溶ける小さな音がする。
「私は、第三隊の隊長ではない。だが、隊の者の動きは、おおよそ把握している」
「……ルネ、ですか」
名前を先に口にしたのは、私だった。
彼は、ゆっくりとこちらを見た。
「なぜ、そう思う」
「昨日、廊下の角で振り返ったからです。今朝は、他の持ち場に回された。ロシュ卿が、理由を言わなかったから」
灰色の目が、わずかに揺れた。
「見ていたのか」
「見ていました。見たことを、見たままに、考えているだけです」
ミレイユの言葉を借りてそう答えると、彼は、小さく息を吐いた。
「……五月四日、ルネは昼番だった。証拠庫のある法務院の外塀まで、使いに出た記録が残っている」
「ロシュ卿は、彼を疑っているんですね」
「疑っている。だが、決めつけてはいない。本人に、直接聞く」
そう言い残して、彼は扉へ向かう。
*
ルネは、半刻ほどのち、ボーダン卿に伴われて現れた。
いつもの愛想のいい笑顔は、そこになかった。灰色の外套の裾を握りしめ、視線を床に落としている。
「ロシュ卿。お呼びと伺いました」
「ルネ。座れ」
ジルベールは、椅子を一つ、卓の前に引き出した。
ルネは、少し迷ってから、浅く腰を下ろした。
「五月四日、昼過ぎ。法務院の証拠庫から、金縁の白い杯を持ち出したのは、お前か」
「…………」
「署名の欄には、第三隊の使い、とある」
沈黙が、長く続いた。
膝の上で、ルネの手が、小刻みに震えている。
「はい」
声が、かすれた。
「わたくしです。……わたくしが、持ち出しました」
息を詰めていた自分に気づく。
ジルベールの手帳の上で、ペンが走った。
「誰の指示だ」
「サン=ロラン様です」
その名前を聞いた瞬間、体の芯が、すっと冷えた。
予想していたはずなのに、実際に聞くと、まるで足元の床が抜けたような気がした。
「サン=ロラン殿が、お前に直接、頼んだのか」
「はい。五月三日の夜、屋敷の裏門で。『侯爵様から、あの杯をもう一度、侍医に鑑定してもらうように頼まれている。法務院の許可は、後から取るから、先に持ち出してくれないか』と」
「そのとき、委任状は見たか」
ルネは、はっとして顔を上げた。
「……見ました。一瞬だけ。侯爵様の指輪印が押された紙を、サン=ロラン様が、ちらりと私に見せて」
「内容は」
「読めませんでした。ただ、赤い封蝋の印は、確かに、侯爵家のものでした」
指輪印。
父の指輪を、誰かが使った。その二つが、頭の中で、勝手につながってしまう。
「杯は、どこへ渡した」
「五月四日の夕刻、屋敷の裏門で。サン=ロラン様に、そのまま」
「受け取りの署名は」
「ありません。『急ぎだから、あとで正式に』と」
「そのときの、彼の様子は」
「いつもと、変わりませんでした。笑って、『助かるよ、ありがとう』と。ただ、杯を布に包むとき、割れていないか、縁も底も、何度も指で確かめておられました。それが、少し、不思議で」
「壊さずに、返したいと言っていたか」
「はい。『大事な形見だから、傷をつけたくない』と」
ジルベールは、無言でうなずいた。
壊すつもりの者は、そんな確かめ方をしない。あの杯は、傷一つないまま、もう一度、使われるのだ。
彼は、そこで、手帳を閉じた。
閉じる音が、いつもより大きく響いた。
*
「なぜ、断らなかった」
声は、少しも荒れていない。
けれど、その低さが、いっそう怖かった。
ルネは、唇を震わせた。
「……妹が」
絞り出すような声だった。
「妹のコレットが、胸を病んでおります。薬が、高くて。サン=ロラン様が、侯爵家の侍医に口を利いてくださって、薬代を、立て替えてくださっていたのです」
「それで」
「だから、断れませんでした。杯を持ち出すだけだと、思ったのです。何かの鑑定のためだと。まさか、証拠が消えるなんて」
「お前は、それが法務院の証拠だと知っていたはずだ」
「……はい」
ルネは、顔を覆った。
「申し訳、ありません」
私は、膝の上で、手をほどけずにいた。
昨日、廊下で振り返った彼の目が、ずっと頭に残っている。あれは、止めたかったのだ。何かを、言いたかったのだ。
「ルネ」
思わず、口を開いた。
「廊下の角で、昨日の夕方、私のほうを見ましたね。あのとき、何か言おうとしていましたか」
ルネの肩が、びくりと跳ねた。
指の隙間から、赤く腫れた目が見える。
「……はい。お嬢様の顔を見たら、言わなければならないと思って。でも、足が、動きませんでした」
彼は、顔から手を離し、私をまっすぐに見た。
「お嬢様は、いつも、わたくしに『ありがとう』と言ってくださいました。罪人と呼ばれる人が、盆を運ぶ見張りに、毎日。……わたくしは、その人の杯を、盗んだのです」
涙が、ぼろぼろとこぼれた。
私は、何も言えなかった。怒りも、悲しみも、どちらも本当で、どちらも、うまく形にならない。
「ルネ」
ジルベールが、静かに言った。
「感情で話すな。事実を、順に書け」
「はい」
「五月三日の夜、五月四日の夕刻。サン=ロラン殿とのやりとりの、すべてを。時刻と、場所と、言葉を、できる限り正確に」
「……書きます」
「そして、今夜から、お前は別室で待機だ。第二隊の者を一人、つける。逃げるな。逃げれば、妹の薬代の件も、別の目で見られることになる」
ルネは、うなずいた。
ボーダン卿が、その肩に手を置く。連れ出される背中が、とても小さく見えた。
扉の前で、ルネは足を止めた。
「ロシュ卿。一つだけ、お伝えしなければならないことが」
「何だ」
「サン=ロラン様は、昨夜、おっしゃいました」
ルネの声が、ひどく震えている。
「『処刑の前夜、お嬢様に、お母様の杯をお返ししたい。最期くらい、形見で水を飲ませてあげたいんだ。許可は、僕が取っておくから、見張りの交代の時間に、門を通してほしい』と」
部屋の空気が、凍りついた。
「それは、いつだ」
「明日の夜です。十九日の、夜」
ジルベールの手が、卓の端を、強く握った。
ルネが連れ出され、扉が閉まる。
*
「……私に、杯を返す、と」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「最期の夜に、お母様の形見で水を飲ませる。誰が聞いても、美しい話です」
「だが、その杯の内側に、毒が塗られていたとしたら」
ジルベールが、後を継いだ。
「あなたは、処刑の前の晩に、自ら毒を呷って死ぬ。遺書は、すでにある。『罪の重さに耐えられません』。……あの遺書が、今度こそ、本物になる」
寒気が、足の先から背中まで、這い上がってきた。
縄でも、眠り草でもない。
今度は、母の形見そのもので、私は殺される。
「処刑の前に死ねば、どうなりますか」
「何も変わらない。あなたは、罪人として死ぬ。法務院は、自殺を、罪の自白として扱う。再審の余地は、なくなる」
そこで、彼は、言葉を切った。
「だが、あの男は、急いでいる。処刑まで待たずに、あなたを殺したい理由が、何かある」
その理由が何なのか、まだ、私にはわからない。
けれど、確かに、あの人は、焦っている。ごめんね、と囁きながら、ずっと。
ジルベールは、手帳を懐にしまい、燭台の火を見つめた。
「杯を、返させる」
「え」
「受け取るのは、あなたではない。私だ。……そして、杯に何が入っているのか、明日の夜、確かめる」
灰色の目が、揺るがずに、私を捉えた。
「あなたを死なせはしない。そのために、私はここにいる」
その言葉が、胸の真ん中に落ちて、ゆっくりと広がっていく。
「……ロシュ卿。少しだけ、座ってください」
「必要ない」
「あなたの隊の人が、自分の隊の仕事で、私の証拠を盗んだ。それを、全部ひとりで、引き受ける顔をしています」
彼は、返事をしなかった。
ただ、卓の脇の椅子に、静かに腰を下ろす。
「ルネの罪は、隊の責任だ。私が、見抜けなかった」
「見抜けなかったのは、私も同じです。私は、あの子の笑顔に、何度も救われていました」
「……そうか」
短い沈黙が、二人のあいだに落ちた。
責めも、慰めもない。ただ、同じ重さを、別々の肩で支えている。そんな沈黙だった。
そのとき、窓の外の空が、白みはじめていることに、私は気づいた。
夜が、明けようとしている。
長かった夜の終わりに、私は、この世界に来て初めて、朝を待ち遠しいと思った。隣に、座っている人がいるからだ。
処刑まで、あと一日。




