十八の誕生日
朝の光が、カーテンの隙間から細く差しこんでいた。
椅子に座ったまま、ジルベールは、うとうとしていた。
腕を組み、顎を少し引いて、背筋はいつものようにまっすぐ。それでも、まぶたが降りている。眠っている彼を見るのは、これが初めてだった。
起こしてはいけない。
私は、寝台の上で息を殺して、その横顔を眺めていた。
灰色の目が閉じていると、思っていたよりずっと若い。二十代の半ばだろう。眉の間の皺も、今は浅い。
けれど、廊下の足音がひとつ近づいた途端、彼の目は、ぱっと開いた。
「……何刻だ」
「まだ、一刻も眠っていません」
「眠っていない」
「眠っていました」
言い合っているうちに、扉が叩かれて、朝食の盆が運ばれてきた。
運んできたのは、マルトだ。盆を置いた彼女は、昨夜の涙の跡を隠すように、深く頭を下げて、足早に出ていく。
麦粥の湯気が、薄く立ちのぼる。
匙を取りながら、私は、ふと、ひとつのことに気づいた。
「ロシュ卿。今日は、何日ですか」
「五月十九日だ」
「……明日が、二十日」
匙が、止まった。
「どうした」
「明日は、私の誕生日です」
ジルベールの手が、パンの端を掴んだまま止まった。
「十八になります。レティシアは、五月二十日の生まれです」
自分で口にして、背筋が冷えた。
五月二十日。処刑の日。法務院は、その日を意図して選んだのだろうか。いや、そんなはずはない。そんな偶然を、悪役令嬢の物語は、いくらでも用意してみせる。
「十八。成年か」
「はい。この国では、十八歳で、親の許しなく、自分の名で財産を持てます。それで、お母様の……」
そこで、言葉が途切れた。
母の遺言。
ずっと、頭の片隅に、引っかかっていたものだった。
*
「ガスパールを呼んでください。お母様の遺言書のことで、聞きたいんです」
執事は、半刻のち、革の書類入れを小脇に抱えて現れた。
老いた顔は、いつもより青白い。呼ばれる理由を、すでに知っているかのような表情だった。
「お嬢様の、お誕生日の件でございますな」
「……ご存じなのですか」
「五月二十日。奥方様のご遺言書の、期日でございます」
ガスパールは、書類入れから、一枚の羊皮紙を取り出した。
公証人の印が、すみに押されている。
「奥方様が、お亡くなりになる三月前に、公証人のボネ殿の立会いで作られたものです。写しは、わたくしが預かっております」
「読み上げてください」
「……では」
老執事は、羊皮紙を広げ、一語ずつ、確かめるように声に出した。
「『わが娘レティシアが十八の誕生日を迎えたとき、ヴェルナ銀山の採掘権および、それに付随する一切の権利は、レティシア自身に帰属する。ただし、レティシアが十八の誕生日を迎える前に死亡した場合、その権利は、わが兄ラザール・ド・サン=ロラン、またはその嫡子に帰属する』」
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
ラザール・ド・サン=ロラン。
クロードの、父親。
そして、その嫡子とは。
「ガスパール」
声が、かすれた。
「この遺言のことを、知っている人は」
「旦那様と、公証人ボネ殿と、わたくし。それに……」
老人は、そこで言葉を濁した。
「それに」
「十年前、サン=ロラン領から、ラザール様とご子息が、お屋敷へ見えられたとき。奥方様は、お兄君のお顔を立てて、ご遺言の内容を、お話しになったと聞いております。ご子息は、そのとき、側で聞いておられたと」
ジルベールの手帳の上で、ペンが、ゆっくりと動いた。
何も、言わない。けれど、その一筆一筆が、重たかった。
「銀山の価値は、どれほどですか」
「……王国の、半分の貴族家が、持ちたがるほどでございます」
私は、立ち上がろうとして、膝に力が入らず、そのまま、寝台の端に座りこんだ。
「わたくしが」
ガスパールが、絞り出すように言った。
「わたくしが、あの方を、お屋敷に入れたのでございます。書記として、家庭教師として。旦那様が、甥御様をお引き取りになると仰ったとき、わたくしは、何の疑いも持たず、お部屋を整えました」
「あなたの責任ではありません」
「……ありがとうございます、お嬢様」
老人は、深々と腰を折る。
母は、兄のラザールを、生前、よく褒めていた。優しい兄なのよ、と、笑って話していた。その声まで、今は、思い出せてしまう。
「ガスパール殿。その写しは、証拠として預かる」
ジルベールが、手を差し出した。
「公証人ボネ殿の役場にも、原本の照会を出す。今日のうちに、返事が届くよう手配する」
「承知いたしました。……お嬢様を、どうか」
「全力を尽くす」
短いやりとりだったのに、老執事の背中が、ほんの少し、まっすぐに伸びる。
*
ガスパールが下がったあと、ジルベールは、卓の上に指で簡単な図を描いた。
紙ではなく、卓の木目に、指先で。
「整理する。ヴェルナ銀山は、五月二十日の零時に、あなたのものになる」
「はい」
「その前に、あなたが死ねば、権利はサン=ロラン家に移る。その後なら、あなたの財産だ」
「……処刑は、明日の正午。零時のあとです」
「そうだ。つまり、あなたは、十八の誕生日を迎えてから、死ぬ。そして、罪人として処刑された場合、その全財産は、国に没収される。サン=ロラン家には、一枚の銀貨も入らない」
声を落として、彼は続けた。
「処刑まで待っていては、あの男は、一文も受け取れない。だから、急いだ。十二日の夜、あなたを自殺に見せかけて殺そうとしたのも。毒の杯を、今夜、返そうとしているのも」
「……明日の零時までに、私を殺す」
「そうだ。今夜が、最後の機会になる」
息が、うまく吸えなかった。
あの人は、お金のために、私を殺そうとしている。
字の練習をしたあの午後。頭に載せられた、温かい掌。蜂蜜の飴の、とろりとした甘さ。
全部、この数字のための、優しさだったのだろうか。
「……信じたくありません」
「わかっている」
「でも、信じなければならないと、頭では、わかっているんです」
声が、震えた。
ジルベールは、何も言わない。ただ、立ったまま、私の言葉が尽きるのを待ってくれていた。
やがて、彼は、静かに言った。
「あなたが信じたくないのは、あの男が悪人だという事実ではない。あの男に、優しくされた、あなた自身の時間だ」
はっとして、顔を上げた。
「それは、嘘ではない。あの男の優しさが、あなたを騙すための偽物だったとしても、あなたが受け取った温かさは、あなたのものだ。奪われはしない」
胸の奥の固まりが、ゆっくりと、ほどけていく。
涙は出なかった。ただ、深く、息を吐く。
「……ありがとうございます、ロシュ卿」
「事実を言っただけだ」
また、いつもの言葉だ。
けれど、今度は、その声が少しだけ、優しかった。
*
正午近く、廊下に、軽やかな足音が響いた。
ボーダン卿の声が、扉の向こうで、低く挨拶を交わす。
続いて、聞き慣れた、朗らかな声。
「レティ。入ってもいいかな」
ジルベールの視線が、私に向く。
大丈夫か、と問うているのが、わかった。
私は、膝の上で、手を強く握ってから、小さくうなずく。
「どうぞ」
扉が開いて、クロードが、入ってきた。
いつもの穏やかな笑顔。両腕には、白い布に包まれた、小さな箱を抱えている。
「おはよう。ジルベール卿、ご苦労さまです」
「サン=ロラン殿」
ジルベールは、いつもどおりの、感情のない声で応じた。
「今日は、レティに、渡したいものがあってね」
クロードは、卓の上に、そっと箱を置いた。
白い布を、ゆっくりと開く。
そこに現れたのは、金の縁取りのある、白い杯だった。
内側の底に、小さな青い百合。縁の金が、持ち手の反対側で、わずかに擦れて薄くなっている。
息が止まった。
この人は、自分から、消えた証拠を、私たちの前に置いたのだ。
「お母様の杯だよ。探して、やっと見つけたんだ。法務院で鑑定に回されたまま、ずっと戻ってこなかったでしょう。僕が、あちこちに頭を下げて、取り戻してきた」
「……ありがとう、兄様」
「最期の夜には、これで水を飲んでほしい。お母様が、きっと、そばにいてくれるから」
最期の夜。
その言葉が、あまりに優しい声で出されて、背中に、冷たいものが落ちた。
「ジルベール卿、許可をいただけますか。今夜、見張りの交代のあとで、僕が、この杯に水を汲んで、お持ちしたいんです」
ジルベールは、杯を見つめたまま、すぐには答えなかった。
やがて、静かに、口を開いた。
「承知した」
「ありがとう。……ごめんね、レティ。こんなことくらいしか、できなくて」
その瞬間、全身が、凍りついた。
『ごめんね』
低くも高くもない、泣きそうな声。
縄の前、眠りの底で聞いた囁きと、一音も違わなかった。
私は、微笑んで、クロードを見上げる。
膝の上で、握った指の爪が、掌に深く食いこんでいた。
処刑まで、あと二十四時間。




