布越しの毒
クロードの足音が、階段の下に消えていった。
扉が閉まる。廊下から、ボーダン卿の低い挨拶が聞こえた。
そのすべてが遠ざかってから、私は、ようやく息を吐いた。吸った覚えもないのに、胸の奥が空っぽになるほど長く。
「……よく、耐えた」
ジルベールの声が、頭の上から降ってきた。
「耐えられて、いましたか」
「微笑んでいた。声も、震えていなかった」
「爪が、掌に刺さっていました」
開いてみせると、赤い半月が四つ、くっきりと残っている。
彼は、ほんの一瞬だけ眉を寄せて、それから懐の手巾を差し出しかけ、やめた。かわりに、卓の上の水差しから杯に水を注いで、私の前に置いた。
「飲め。私が先に口をつけた」
「……ありがとうございます」
当たり前のように言われた「先に口をつけた」という言葉が、胸の奥に、じんわりと沁みた。
*
クロードは、杯を持って帰った。
「夜までは僕が預かるよ。傷がつくといけないから」と、白い布で包み直し、箱へ収めて。
「卓の上に、これが残っている」
ジルベールが、指先で摘みあげたのは、さっきまで杯を包んでいた白い布の、一枚だった。
箱の蓋の裏に、はさまっていたのだろう。クロードは、気づかずに置いていったらしい。
「見ろ」
「……布が、どうかしましたか」
「あの男は、杯に、一度も素手で触れなかった。持ち上げるときも、置くときも、必ず布越しだった」
言われて、記憶を巻き戻す。
確かに、そうだった。箱から出すときも、卓に置くときも、指は布の上にあった。
縁にも、内側にも、肌は一度も触れていない。
「杯の内側に、触れてはいけないものが、塗ってある。だから、布越しなんだ」
「……毒、ですか」
「確かめる」
ジルベールは、布を畳んで、小さな油紙に包んだ。
「侍医を呼ぶ。この件は、ボーダン殿にだけ話す」
*
ベルナール医師は、昼食を終えたばかりの顔で、のんびりと現れた。
けれど、油紙を開いて布の匂いを嗅いだ途端、その丸い目が、ぎゅっと細くなった。
「……ロシュ卿。これを、どちらで」
「お答えできません。成分は、わかりますか」
「少し、お待ちを」
医師は、懐から小さな硝子の瓶と、白い皿を取り出した。
布の端を、そっと水で濡らし、皿の上で絞る。滴った液を、指先に取って、鼻へ近づけた。
「月下草でございます」
低い声が、部屋に落ちた。
「眠り草の成分も、わずかに混じっておりますな。眠りに落とし、夜明けの前に、心の臓を止める。あの調合は、わたくしが、初めて見るものではございません」
「新しいものか」
「布に染みた匂いが、まだ、立っております。今朝か、昨夜か。それ以前のものなら、これほど匂いません」
私は、膝の上で、拳を握りしめた。
あの杯は、今も、あの人の手の中にある。夜まで、傷をつけないように、大切に、包まれて。
「ベルナール殿。証言を、お願いできますか」
「……もちろんでございます。わたくしは、お嬢様が幼いころから、診てまいりました」
医師は、深く息を吐いた。
「お嬢様が、人を殺すお方でないことは、わたくしが一番、存じております。今まで、確証がなくて、申し上げられなかった。……やっと、口にできます」
その言葉に、目の奥が、熱くなった。
信じてくれる人が、一人ずつ、増えている。
そのとき、ボーダン卿が、二通の封書を携えて入ってきた。
「ロシュ卿。ご令嬢方から、お使いが」
一通は、深い藍色の封蝋。グランシェ公爵家の紋章。もう一通は、飾り気のない、灰青の便箋。
開くと、どちらにも、短い文面があった。
『再審の場で、証人として立ちます。公爵家の名にかけて。 イザベル』
『見たままを、見たままに、お話しします。 ミレイユ』
二人の字は、それぞれ、癖が強かった。
右に流れる、堂々とした字と、小さく角ばった、几帳面な字。
書いた人間の顔が、はっきりと見える字だった。
「……あの二人に、会いたいです」
「すべてが終わったら、な」
ジルベールは、封書を、丁寧に畳んだ。
*
午後三時を回るころ、騎士団の第二隊長が、部屋に現れた。
デュボワ卿は、団長補佐のヴェルニエ卿を伴っていた。扉の外には、ボーダン卿が、いつもより一歩、扉に近い位置で立っている。
「ロシュ。私に、至急の話があると聞いた」
「はい。時間は、あまりありません」
ジルベールは、背筋を伸ばして、一つずつ、並べていった。
遺言書の写し。ルネの供述。イザベルの書面。杯の持ち出し記録。クロードが杯を持参して許可を求めたこと。そして、先ほど染み出した、月下草の匂い。
デュボワ卿は、腕を組んだまま、黙って聞いていた。
やがて、遺言書の写しを、ゆっくりと机に置いた。
「……ヴァルモン嬢」
「はい」
「率直に聞く。あなたは、王女殿下の死に、関わっていないと言い切れるか」
その問いは、刃物のように、まっすぐだった。
私は、一度、息を吸ってから、答えた。
「殿下を手にかけたのは、私ではありません。けれど、殿下に、私の杯を渡したのは、私です。その事実から、逃げるつもりはありません」
デュボワ卿の眉が、わずかに動いた。
「……自分の責任を、認めるのか」
「はい。ただ、毒を仕込んだ人間は、別にいます。私は、その人に、償わせたい。殿下のためにも」
沈黙が落ちた。
やがて、デュボワ卿は、組んでいた腕を解いた。
「私は、あなたを許さない。それは、今でも変わらない」
「はい」
「だが、あなたの言葉に、嘘は、感じなかった」
彼は、ヴェルニエ卿のほうへ向き直った。
「補佐殿。今夜の件、騎士団として、動く許可を」
「出そう。書面は、私が後ほど、団長に回す」
補佐は、静かにうなずき、私のほうを見た。
「ヴァルモン嬢。法務院の再審の申請期限は、明日の正午だ。今夜の件で、動かぬ証拠が押さえられれば、その場で、申請の手続きを取る」
「……ありがとうございます」
「礼は、いらん。証拠が揃えば、の話だ」
デュボワ卿は、立ち上がった。
「作戦を決める。ロシュ、見取り図を」
*
卓の上に、屋敷の見取り図が広げられた。
私の部屋と、廊下と、小書庫。階段と、裏門と、厨房。
「クロードが来るのは、見張りの交代のあと。十刻の鐘を目安に」
「ルネを、元の持ち場に戻す。クロードの指示どおりに、門を通させる。彼が計画を知っていることは、悟られてはならない」
「ルネ本人は、どうなのだ。耐えられるのか」
デュボワ卿の問いに、ジルベールは、少しだけ間を置いた。
「あいつは、私が、責任を持ちます」
「……わかった」
デュボワ卿は、見取り図の廊下の端を、指で叩いた。
「私とヴェルニエ殿は、隣の小書庫に潜む。ボーダンは廊下。ベルナール医師は、衝立の陰に」
「小書庫の鍵は、クロードが管理しています」
「ならば、鍵を開けずに入る。ロシュ、あなたは、できるか」
「ガスパール殿が、合鍵を」
話が、驚くほど速く、まとまっていく。
一人で抱えていた恐怖が、大人たちの手によって、ひとつずつ、段取りに変えられていく。
「ヴァルモン嬢」
デュボワ卿が、振り返った。
「あなたの役目は、一つだ。杯を、受け取ること。そして、飲んだふりを、すること」
「……はい」
「毒は、決して、口に入れるな。唇を、縁に近づけるだけで、いい。合図は、ロシュが出す」
背筋が、自然と伸びた。
怖くないと言えば、嘘になる。けれど、隣に立つ人が、確かにいる。
「承知しました。……やり遂げます」
ジルベールが、こちらを見た。
灰色の目は、揺らがなかった。
「必ず、守る」
その声は、昨夜よりも、ずっと近くで、聞こえた。
見取り図を畳みながら、私は、ひとつだけ頼みごとを口にした。
「ロシュ卿。紙と、紫のインクを、いただけませんか」
「何に使う」
「お父様に、手紙を書きたいんです。出せるかどうかは、わかりません。でも、今夜のうちに、書いておきたくて」
彼は、少しだけ迷ってから、うなずいた。
「小書庫の紙は使うな。私の手帳の頁を、切り取ろう」
「……ありがとうございます」
渡された小さな紙は、飾り気のない、ただの白い頁だった。
けれど、そこに書く言葉は、ずっと前から、胸の中にあった気がした。
*
会合が終わり、デュボワ卿たちが引き上げた、そのあと。
廊下の向こうから、ボーダン卿が、足早に戻ってきた。
「ロシュ卿。たった今、屋敷の裏門の番人から、知らせが」
「何だ」
「サン=ロラン殿が、先ほど、馬を引かせて、外出されたそうです。行き先は、告げず」
部屋の空気が、ぴんと張りつめた。
「いつ戻るとは」
「『夜までには戻る』とだけ」
ジルベールが、畳んだ見取り図の端を、指で押さえた。
あの男は、杯を持って、どこへ行ったのか。毒の追加か、別の準備か、あるいは、私たちの動きに、何かを嗅ぎつけたのか。
窓の外の空が、わずかに曇りはじめていた。
処刑まで、あと二十一時間。




