栗のパイと探り
日が傾いて、窓の外が茜色に染まるころ、私は小さな白い頁に、ペンを走らせていた。
『お父様へ。
お元気でいらっしゃいますか。わたくしは、いま、生まれてから一番、静かな気持ちでおります』
そこまで書いて、手が止まる。
筆が進まないのではない。言いたいことが、多すぎるのだ。母のこと。屋敷のこと。あの夜、扉の前で、一刻も待ってくださった父のぬくもり。返事をしなかった、自分の弱さ。
「書けないのか」
扉の脇の椅子から、ジルベールが尋ねた。
「書きたいことが、多すぎて」
「長くなくていい。一行でも、読む側には足りる」
少し考えて、私は、ペンを持ち直した。
『あの夜、扉を開けなくて、ごめんなさい。お父様の娘に生まれたことを、わたくしは、いまも、誇りに思っています』
書き終えて、頁を二つに折る。
ジルベールは、それを受け取って、胸の内ポケットに収めた。
「預かっておく。必ず、届ける」
「処刑のあとでなくて、いいです」
「処刑は、ない」
ひどく簡潔な言葉だ。
けれど、その簡潔さが、今の私には、何よりも頼もしい。
*
廊下に、足音が一つ、近づいた。
聞き慣れた、軽やかな足音。
「……ロシュ卿。持ち場に、戻りました」
戸口に立ったのは、ルネだった。
目の下の隈が、昨日より濃い。けれど、背筋はまっすぐに伸びていた。
「ご苦労。聞いているな。今夜は、これまでどおりに動け。何も、変えるな」
「はい」
返事のあと、彼の視線が、ふと私のほうへ向く。
言葉を探すように唇が動き、そして、何も言わずに頭を下げた。
私は、膝の上の手を、そっと握り直して、いつもの声で言った。
「ルネ。ありがとう。今日も、見張りをよろしくね」
その肩が、びくりと震えた。
彼は、顔を上げずに、小さく、「はい」と答えた。
昨日までと、同じ言葉。
それを、同じ温度で口にすることが、今の私にできる、唯一の、彼への返事だった。
*
六時の鐘が、遠くで響く。
同時に、階段のほうから、聞き慣れた、朗らかな足音が昇ってきた。
「ただいま、レティ。ジルベール卿も、お疲れさまです」
クロードだった。
外套の裾に、薄く土埃がついている。両手に、籠を提げていた。
「どこかへ行っていたの」
「ちょっと、街まで。夕食を、一緒にどうかと思って。ほら、レティの好きな、栗のパイを買ってきたんだ」
籠の布をめくると、香ばしい匂いが、ふわりと立った。
パイの焼き色。胡桃を混ぜた、蜂蜜の艶。幼いころ、母が、お祝いのたびに焼いてくれた、あのパイだった。
「ジルベール卿。最後の夕食くらい、ご親族で、同席させてもらえませんか」
「……承知した。ただし、私は、この部屋を離れない」
「もちろん、構いません」
クロードは、笑って、卓の上に籠を置いた。
パイを切り分ける手つきは、いつもと同じように、優しかった。
「ジルベール卿も、いかがです」
「勤務中だ」
「そう言うと、思った」
私は、切り分けられたパイを、皿の上で、フォークでほぐした。
自分の分と、クロードの分。彼が同じ籠から取って、同じ皿で食べているのを、私は、確かめていた。
ふと、彼の右手の人差し指に、細い包帯が巻かれていることに気づいた。
「その指、どうしたの」
「ああ、これ。ペンを削っていて、うっかりね」
そう言って、彼は、指を握り込んで笑う。
染みひとつないその白い布が、かえって、目に焼きついた。
*
「覚えてる、レティ」
クロードが、懐かしそうに目を細めた。
「君が七つのとき、叔母上の焼いたパイを、つまみ食いして、台所で叱られたこと」
「覚えているわ。お母様、怒った顔を作るのが、下手だったもの」
「そうそう。笑いをこらえて、頬が、ぴくぴくしてた」
声を出して笑う。
昨日までなら、心の底から笑えたはずの思い出だった。
けれど今は、笑いながら、彼の指先を見ていた。きちんと整えられた爪。ペンだこの浮いた、細い中指。この指が、あの癖のない字を、書いたのだろうか。
「ねえ、レティ」
クロードが、フォークを置いた。
「君、変わったね」
「……そう?」
「うん。昔は、意地を張って、怒ってばかりだったのに。最近は、落ち着いて、誰の話も、ちゃんと聞いてる。まるで、別の人みたいだ」
息が、止まりかけた。
ジルベールの気配が、扉の脇で、わずかに強張る。
「別の人に、見える?」
「見えるよ。……いい意味で、ね」
彼は、穏やかに笑う。
その笑顔が、ひどく優しいからこそ、背筋に、薄い汗が滲んだ。
「ねえ、レティ。もし、もしもだよ」
声が、少しだけ低くなる。
「僕が、君の思っているような人間じゃなかったとしたら。君は、どうする」
部屋が、静まり返った。
燭台の火が、かすかに揺れる。
私は、ゆっくりと、フォークを皿に置いた。
「……兄様が、どんな人でも、私は、兄様の優しさを、覚えているわ。字を教えてくれたこと。蜂蜜の飴をくれたこと。あのとき、私は確かに、救われたの」
嘘ではなかった。
だからこそ、言葉が、喉の奥で、ひりついた。
「でも、もし、誰かを傷つけていたのなら。その人に、償ってほしい。私は、そう思う」
クロードの目が、ほんの一瞬、揺れた。
指先が、わずかに、卓の端を撫でる。そして、ふっと、肩の力が抜けた。
「……そうだね。レティは、昔から、まっすぐな子だった」
その声は、いつもの優しさのままだった。
けれど、そこに、確かに、何かが沈んでいた。
「ごちそうさま。今夜は、楽しかったよ」
彼は、立ち上がり、籠を持って、扉へ向かう。
出ていく背中を見送りながら、私は、卓の下で、震える手を、強く握りしめていた。
*
足音が、完全に消えてから、ジルベールが、低く呟く。
「彼は、あなたの変化に、気づいている」
「……ええ」
「別人のようだと、言った。あれは、探りだ」
「パイは」
「皿に残った分を、ベルナール殿に渡して、確かめさせる。おそらく、毒はない。今夜までは、疑われたくないはずだ」
「……念には念を、ですね」
「あの男は、慎重だ。だからこそ、焦っている今が、隙になる」
窓の外は、もう、深い藍色だった。
昼間の雲は、知らないうちに、厚く垂れ込めている。雨が、近い。
「大丈夫です。私は、私です」
「そうだ。あなたは、あなただ」
その言い方が、あまりに当然のようで、胸の奥が、また、じんわりと温かくなった。
けれど、感傷に浸っている暇は、なかった。
そのとき、扉が、控えめに叩かれる。
*
夜食の盆を運んできたのは、ルネだった。
盆の上の水差しが、かすかに、小さな音を立てている。
「夜のお食事です」
「ご苦労」
ジルベールが盆を受け取る一瞬、ルネの指が、盆の縁に、何かを挟み込んだ。
折りたたまれた、小さな紙。
それを、ジルベールは、何事もないように、指先で隠し、卓の影で広げた。
読み進める彼の目が、みるみるうちに、険しくなる。
「どうしたんですか」
「ルネだ。……クロードと、先ほど、廊下で言葉を交わしたらしい」
彼は、紙を、低い声で読み上げた。
『予定が変わった。見張りの交代は、十刻ではなく、九刻に。交代のあと、一刻のあいだ、ロシュ卿とボーダン卿には、廊下から離れていただきたい。「ご親族の最後の別れだから、二人きりにさせてあげたい」と、私が頼む。断られたら、妹の薬を、明日から止めさせる。 ルネ』
薬を、止める。
その一行に、手が、冷たくなった。
「……脅した、んですね」
「そうだ。あの男は、使える駒を、そのまま、使う」
ジルベールは、紙を握りつぶさずに、静かに畳んだ。
「一刻、二人きり。九刻から、十刻。……時間を、一刻、早めてきた」
「ロシュ卿たちが、廊下にいない間に、杯を」
「そうだ。つまり、立会いなしで、あなたに毒を飲ませる気だ」
雨が、窓を、叩きはじめた。
「どうしますか」
「予定を、組み直す」
ジルベールは、卓の上に、さっき畳んだ見取り図を、もう一度広げた。
「デュボワ卿たちには、九刻の前に、小書庫へ入ってもらう。私とボーダン殿は、あの男の頼みどおり、廊下から離れる。ただし、遠くへは行かない」
「隣の小書庫に?」
「そうだ。あなたの部屋と小書庫は、続き扉で、つながっている。小書庫の合鍵は、ガスパール殿が持っている」
私は、息を整えて、うなずいた。
「私は、九刻に、一人で、あの人を迎える」
「そうだ。一刻のあいだ、私は、扉一枚の向こうにいる。あなたが一言、『兄様』と呼べば、私たちは、すぐに踏み込む」
「合図は、それで」
「それで、いい」
怖い、と言えば、嘘になる。
けれど、扉一枚の向こうに、この人がいる。それだけで、足の震えは、止まった。
「ロシュ卿」
「何だ」
「もし、明日の朝が来たら、その日のうちに、もう一度、パイを焼いてもらいます。今度は、ご一緒に」
「……考えておく」
そっけない返事だった。
けれど、その口元が、ほんの少しだけ、ほころんで見えた。
雨音が、強くなる。
処刑まで、あと十六時間。




