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転生したら処刑7日前の悪役令嬢でした。逃げるにはもう遅いので、犯人を探します  作者: ローナ


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22/41

栗のパイと探り

日が傾いて、窓の外が茜色に染まるころ、私は小さな白い頁に、ペンを走らせていた。


『お父様へ。

お元気でいらっしゃいますか。わたくしは、いま、生まれてから一番、静かな気持ちでおります』


そこまで書いて、手が止まる。

筆が進まないのではない。言いたいことが、多すぎるのだ。母のこと。屋敷のこと。あの夜、扉の前で、一刻も待ってくださった父のぬくもり。返事をしなかった、自分の弱さ。


「書けないのか」


扉の脇の椅子から、ジルベールが尋ねた。


「書きたいことが、多すぎて」

「長くなくていい。一行でも、読む側には足りる」


少し考えて、私は、ペンを持ち直した。


『あの夜、扉を開けなくて、ごめんなさい。お父様の娘に生まれたことを、わたくしは、いまも、誇りに思っています』


書き終えて、頁を二つに折る。

ジルベールは、それを受け取って、胸の内ポケットに収めた。


「預かっておく。必ず、届ける」

「処刑のあとでなくて、いいです」

「処刑は、ない」


ひどく簡潔な言葉だ。

けれど、その簡潔さが、今の私には、何よりも頼もしい。


   *


廊下に、足音が一つ、近づいた。

聞き慣れた、軽やかな足音。


「……ロシュ卿。持ち場に、戻りました」


戸口に立ったのは、ルネだった。

目の下の隈が、昨日より濃い。けれど、背筋はまっすぐに伸びていた。


「ご苦労。聞いているな。今夜は、これまでどおりに動け。何も、変えるな」

「はい」


返事のあと、彼の視線が、ふと私のほうへ向く。

言葉を探すように唇が動き、そして、何も言わずに頭を下げた。


私は、膝の上の手を、そっと握り直して、いつもの声で言った。


「ルネ。ありがとう。今日も、見張りをよろしくね」


その肩が、びくりと震えた。

彼は、顔を上げずに、小さく、「はい」と答えた。


昨日までと、同じ言葉。

それを、同じ温度で口にすることが、今の私にできる、唯一の、彼への返事だった。


   *


六時の鐘が、遠くで響く。

同時に、階段のほうから、聞き慣れた、朗らかな足音が昇ってきた。


「ただいま、レティ。ジルベール卿も、お疲れさまです」


クロードだった。

外套の裾に、薄く土埃がついている。両手に、籠を提げていた。


「どこかへ行っていたの」

「ちょっと、街まで。夕食を、一緒にどうかと思って。ほら、レティの好きな、栗のパイを買ってきたんだ」


籠の布をめくると、香ばしい匂いが、ふわりと立った。

パイの焼き色。胡桃を混ぜた、蜂蜜の艶。幼いころ、母が、お祝いのたびに焼いてくれた、あのパイだった。


「ジルベール卿。最後の夕食くらい、ご親族で、同席させてもらえませんか」

「……承知した。ただし、私は、この部屋を離れない」

「もちろん、構いません」


クロードは、笑って、卓の上に籠を置いた。

パイを切り分ける手つきは、いつもと同じように、優しかった。


「ジルベール卿も、いかがです」

「勤務中だ」

「そう言うと、思った」


私は、切り分けられたパイを、皿の上で、フォークでほぐした。

自分の分と、クロードの分。彼が同じ籠から取って、同じ皿で食べているのを、私は、確かめていた。


ふと、彼の右手の人差し指に、細い包帯が巻かれていることに気づいた。


「その指、どうしたの」

「ああ、これ。ペンを削っていて、うっかりね」


そう言って、彼は、指を握り込んで笑う。

染みひとつないその白い布が、かえって、目に焼きついた。


   *


「覚えてる、レティ」


クロードが、懐かしそうに目を細めた。


「君が七つのとき、叔母上の焼いたパイを、つまみ食いして、台所で叱られたこと」

「覚えているわ。お母様、怒った顔を作るのが、下手だったもの」

「そうそう。笑いをこらえて、頬が、ぴくぴくしてた」


声を出して笑う。

昨日までなら、心の底から笑えたはずの思い出だった。

けれど今は、笑いながら、彼の指先を見ていた。きちんと整えられた爪。ペンだこの浮いた、細い中指。この指が、あの癖のない字を、書いたのだろうか。


「ねえ、レティ」


クロードが、フォークを置いた。


「君、変わったね」

「……そう?」

「うん。昔は、意地を張って、怒ってばかりだったのに。最近は、落ち着いて、誰の話も、ちゃんと聞いてる。まるで、別の人みたいだ」


息が、止まりかけた。

ジルベールの気配が、扉の脇で、わずかに強張る。


「別の人に、見える?」

「見えるよ。……いい意味で、ね」


彼は、穏やかに笑う。

その笑顔が、ひどく優しいからこそ、背筋に、薄い汗が滲んだ。


「ねえ、レティ。もし、もしもだよ」


声が、少しだけ低くなる。


「僕が、君の思っているような人間じゃなかったとしたら。君は、どうする」


部屋が、静まり返った。

燭台の火が、かすかに揺れる。


私は、ゆっくりと、フォークを皿に置いた。


「……兄様が、どんな人でも、私は、兄様の優しさを、覚えているわ。字を教えてくれたこと。蜂蜜の飴をくれたこと。あのとき、私は確かに、救われたの」


嘘ではなかった。

だからこそ、言葉が、喉の奥で、ひりついた。


「でも、もし、誰かを傷つけていたのなら。その人に、償ってほしい。私は、そう思う」


クロードの目が、ほんの一瞬、揺れた。

指先が、わずかに、卓の端を撫でる。そして、ふっと、肩の力が抜けた。


「……そうだね。レティは、昔から、まっすぐな子だった」


その声は、いつもの優しさのままだった。

けれど、そこに、確かに、何かが沈んでいた。


「ごちそうさま。今夜は、楽しかったよ」


彼は、立ち上がり、籠を持って、扉へ向かう。

出ていく背中を見送りながら、私は、卓の下で、震える手を、強く握りしめていた。


   *


足音が、完全に消えてから、ジルベールが、低く呟く。


「彼は、あなたの変化に、気づいている」

「……ええ」

「別人のようだと、言った。あれは、探りだ」

「パイは」

「皿に残った分を、ベルナール殿に渡して、確かめさせる。おそらく、毒はない。今夜までは、疑われたくないはずだ」

「……念には念を、ですね」

「あの男は、慎重だ。だからこそ、焦っている今が、隙になる」


窓の外は、もう、深い藍色だった。

昼間の雲は、知らないうちに、厚く垂れ込めている。雨が、近い。


「大丈夫です。私は、私です」

「そうだ。あなたは、あなただ」


その言い方が、あまりに当然のようで、胸の奥が、また、じんわりと温かくなった。

けれど、感傷に浸っている暇は、なかった。


そのとき、扉が、控えめに叩かれる。


   *


夜食の盆を運んできたのは、ルネだった。

盆の上の水差しが、かすかに、小さな音を立てている。


「夜のお食事です」

「ご苦労」


ジルベールが盆を受け取る一瞬、ルネの指が、盆の縁に、何かを挟み込んだ。

折りたたまれた、小さな紙。

それを、ジルベールは、何事もないように、指先で隠し、卓の影で広げた。


読み進める彼の目が、みるみるうちに、険しくなる。


「どうしたんですか」

「ルネだ。……クロードと、先ほど、廊下で言葉を交わしたらしい」


彼は、紙を、低い声で読み上げた。


『予定が変わった。見張りの交代は、十刻ではなく、九刻に。交代のあと、一刻のあいだ、ロシュ卿とボーダン卿には、廊下から離れていただきたい。「ご親族の最後の別れだから、二人きりにさせてあげたい」と、私が頼む。断られたら、妹の薬を、明日から止めさせる。 ルネ』


薬を、止める。

その一行に、手が、冷たくなった。


「……脅した、んですね」

「そうだ。あの男は、使える駒を、そのまま、使う」


ジルベールは、紙を握りつぶさずに、静かに畳んだ。


「一刻、二人きり。九刻から、十刻。……時間を、一刻、早めてきた」

「ロシュ卿たちが、廊下にいない間に、杯を」

「そうだ。つまり、立会いなしで、あなたに毒を飲ませる気だ」


雨が、窓を、叩きはじめた。


「どうしますか」

「予定を、組み直す」


ジルベールは、卓の上に、さっき畳んだ見取り図を、もう一度広げた。


「デュボワ卿たちには、九刻の前に、小書庫へ入ってもらう。私とボーダン殿は、あの男の頼みどおり、廊下から離れる。ただし、遠くへは行かない」

「隣の小書庫に?」

「そうだ。あなたの部屋と小書庫は、続き扉で、つながっている。小書庫の合鍵は、ガスパール殿が持っている」


私は、息を整えて、うなずいた。


「私は、九刻に、一人で、あの人を迎える」

「そうだ。一刻のあいだ、私は、扉一枚の向こうにいる。あなたが一言、『兄様』と呼べば、私たちは、すぐに踏み込む」

「合図は、それで」

「それで、いい」


怖い、と言えば、嘘になる。

けれど、扉一枚の向こうに、この人がいる。それだけで、足の震えは、止まった。


「ロシュ卿」

「何だ」

「もし、明日の朝が来たら、その日のうちに、もう一度、パイを焼いてもらいます。今度は、ご一緒に」

「……考えておく」


そっけない返事だった。

けれど、その口元が、ほんの少しだけ、ほころんで見えた。


雨音が、強くなる。

処刑まで、あと十六時間。

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