小書庫の引き出し
雨は、夜になっても止まなかった。
七つの鐘が鳴りおわるころ、屋敷の裏手の庭に、濡れた外套の影がいくつも滑りこんだ。
デュボワ卿、ヴェルニエ卿、侍医のベルナール、それに騎士が二人。灰色の雨の中、音を立てずに裏口を抜け、ガスパールの手引きで、使用人用の階段を上がってくる。
私は、自分の部屋の扉の内側から、それを聞いていた。
足音は、廊下ではなく、壁の向こうを通っていく。
「全員、小書庫に入った」
ボーダン卿が、戸口で低く告げた。
「ロシュ卿。デュボワ隊長が、お呼びです」
「わかった」
ジルベールは、立ち上がって、私のほうを見た。
「続き扉を開ける。あなたは、敷居の手前まで。中には入らず、そこから、見ていてほしい」
「……はい」
禁固の規則が、私に許しているのは、この部屋の中だけ。
けれど、あの扉の向こうに、すべての答えがある。そんな予感が、ずっと、胸の底から離れない。
*
続き扉は、向こう側の鉤に掛かっていた鍵で、ゆっくりと開かれた。
初めて目にする、小書庫だった。
三方の壁に、革装の背表紙が、ずらりと並んでいる。窓際に、大きな書き物机。燭台の火に照らされて、墨壺と、ペン立てが、整然と並んでいた。
墨壺の中身は、青みがかった、黒。
息を詰める。
青黒いインク。遺書の字と、同じ色だ。
机の端に、小さな額が立てかけてあった。
鉛筆で描かれた、幼い二人の絵。小さな女の子と、少し年上の少年が、手をつないで笑っている。裏返しにされなかったのが、不思議だった。
あの人は、これを、毎日、眺めながら、仕事をしていたのだろうか。
「……あの絵、七つの誕生日に、兄様が描いてくれたものです」
「見覚えが、あるのか」
「ええ。私が泣いていたら、鉛筆を出して、『笑って』って。出来上がった絵の私は、本当に、笑っていました」
ジルベールは、何も言わずに、額に目を向けた。
やがて、静かに言った。
「その絵を描いた人間と、毒の杯を用意した人間は、同じだ。……どちらも、嘘ではない」
「そんなことが、あるんでしょうか」
「ある。人は、一つの顔だけで、できていない」
その言葉が、胸の中の、ねじれた場所に、そっと触れた。
憎しみきれない自分を、少しだけ、許せた気がした。
「ヴァルモン嬢。ご覧のとおり、あの男の仕事場だ」
デュボワ卿が、低い声で言った。
「ガスパール殿の合鍵で、入らせてもらった。サン=ロラン殿の許可は、得ていない。後で、責任は私が取る」
「……はい」
「机の引き出しを、調べる。あなたは、そこから見ていろ」
ガスパールが、腰の鍵束から、細い鍵を一本、選び出した。
机の右の、いちばん下の引き出し。そこだけ、鍵穴が、他より小さい。
かちり、と、小さな音がした。
引き出しの中には、紙の束が、きちんと重ねられていた。
デュボワ卿が、一枚目をめくる。
次の瞬間、その眉間に、深い皺が刻まれた。
「……これは」
卓の上に広げられたのは、白い透かし入りの便箋だった。
びっしりと、同じ署名が、何十回も繰り返されている。
『ギヨーム・ド・ヴァルモン』
最初のほうは、ぎこちない。線が震え、文字の傾きも、まちまち。
けれど、枚数を重ねるごとに、少しずつ、整っていく。角ばった筆致。強い筆圧。「の」の最後の、小さな跳ね。
最後の一枚は、父の字そのものだった。
私の目にも、見分けがつかなかった。
「侯爵の署名を、練習した跡だ」
ヴェルニエ卿が、静かに言った。
「これだけの枚数を、一人で重ねる。偶然では、ない」
ジルベールは、引き出しの縁を、指でなぞった。
「この鍵穴の小ささに、五月二日の最初の捜索で、私は気づけなかった。調べるべき場所だった」
「あなたの見落としでは、ありません。あの人が、見つかりにくいように、隠したんです」
「見落としは、見落としだ」
短く言い切って、彼は、紙の束から目を離した。
その横顔に、悔しさが、静かに沈んでいる。
*
引き出しの奥には、さらに、小さな革袋が入っていた。
ガスパールが、そっと口を開く。中から転がり出たのは、赤い、小さな塊だった。
「封蝋の、欠片でございます」
老執事の声が、震えていた。
「それも、旦那様の書斎で使う、特別な赤でございます。この屋敷で、あの色を使えるのは、旦那様と、わたくしと……書斎の整理を任された者だけ」
デュボワ卿は、その欠片を、小さな布に包んだ。
そして、革袋の底から、最後の一枚を取り出した。
折りたたまれた、羊皮紙。開くと、冒頭に、こう記されていた。
『委任状。私、ギヨーム・ド・ヴァルモンは、娘レティシアの一件に関する一切の書面を、甥クロード・ド・サン=ロランに委ねる』
その下、署名欄と、日付の欄は、空白だった。
署名の位置に、鉛筆で、薄い下書きが引かれている。
「……下書きだ」
ジルベールの声が、低く落ちた。
「本物なら、ここに、父の指輪印が押される。だが、この羊皮紙は、まだ、未完成だ。つまり」
「ルネが見たという委任状は、これを仕上げたものか」
「その可能性が、高い。本人の署名と、指輪印を、あの男が、自分の手で付け足した」
私は、敷居の手前で、立ち尽くしていた。
あの人の机。あの人の引き出し。そこに、私の死を準備する書類が、几帳面に整理されて収まっていた。
字を教えてくれた手が、その字で、父を騙していた。
その事実が、ようやく、胸の底に、はっきりと沈んでいく。
「ヴァルモン嬢」
デュボワ卿が、羊皮紙を畳みながら、言った。
「これで、状況証拠は、揃った。だが、まだ、決定打ではない」
「……はい」
「あの男に、今夜、毒の杯を、あなたの手に渡させる。その現場を、私が見る。それが、最後の鍵だ」
ヴェルニエ卿が、横から、冷静な声を添えた。
「付け加えておく。署名の練習は、『書記の習字だ』と言い逃れられる。封蝋の欠片も、『整理中に拾った』と言えば済む。この書類だけでは、法務院は、動かない」
「だから、現場だ」
デュボワ卿が、その言葉を引き取って、私の目を、まっすぐに見た。
「できるな」
「はい」
その答えは、自然に、口をついて出た。
*
八つの鐘が鳴って、屋敷の灯りが、一つずつ、落とされていく。
小書庫の扉は、元どおりに閉じられる。
続き扉の向こうには、息を殺した人たちが、潜んでいる。デュボワ卿と、ヴェルニエ卿と、二人の騎士。ベルナール医師は、衝立の陰の、小さな椅子に、腰を落ち着ける。
私は、寝台の脇に座り、手を膝の上に置いて、深呼吸をした。
そのとき、衝立の陰から、ベルナール医師が、そっと顔を覗かせた。
「お嬢様。念のため、これを」
差し出されたのは、小指の先ほどの、白い丸薬だった。
「毒消しでございます。杯に、万が一、口がかすった場合に。舌の下に含んでおけば、少しは、時を稼げます」
「……ありがとうございます」
私は、それを、袖の内側に隠した。
お守り、というには、あまりに頼りない、白い粒だった。
壁の向こうで、誰かが、小さく咳払いをする。それが、不思議と、心強かった。
「ロシュ卿」
「何だ」
「もし、私が、あの人の前で、うまく笑えなかったら」
「笑わなくていい」
即答だった。
「あなたは、疲れて、寝台に座っているだけでいい。毒の杯を持った男の前で、役を演じる必要はない。ただ、あなたらしく、そこにいればいい」
その言葉に、肩の力が、ふっと抜けた。
「……わかりました」
「それと」
彼は、少し迷うように、言葉を切った。
「あなたが、『兄様』と呼んだら、私は、一歩も迷わず、踏み込む。それだけは、約束する」
「はい」
「だから、あなたも、約束してほしい。合図を、ためらうな。杯が、口に触れそうになったら、必ず、呼べ」
「約束します」
私は、まっすぐに、彼の目を見る。
灰色の目が、ほんのわずかに、細められた。
それ以上の言葉は、もう、いらなかった。
雨音だけが、部屋を満たしている。
時計の針が、ゆっくりと、九つの鐘に、近づいていく。
やがて、廊下の向こうで、見張りの交代を告げる足音が、重なった。
ボーダン卿とジルベールが、静かに立ち上がる。
「行ってくる。……すぐ、そばにいる」
扉の外で、ルネの声が、小さく響いた。ひどく、硬い声だった。
そして、その向こうから、聞き慣れた、軽やかな足音が、近づいてくる。
私は、袖の中の白い粒を、もう一度、指先で確かめた。
心臓の音が、雨音よりも、大きく響いている。
戸口で、ジルベールが、一度だけ、振り返った。その灰色の目が、「大丈夫だ」と、言っていた。
九つの鐘が、鳴った。
「レティ。入っても、いいかな」
穏やかな声が、扉の外から、降ってきた。
処刑まで、あと十五時間。




