合図
扉が、静かに開いた。
クロードは、両手に、白い布の包みと、硝子の水差しを提げて立っていた。
外套の肩には、雨の雫が光っている。濡れた前髪を、片手で撫でつけて、いつもの穏やかな笑顔を、私に向けた。
「こんばんは、レティ。遅くにごめんね」
「……ううん。待っていたわ」
声が、思ったよりも自然に出た。
自分でも驚くほど、喉が、凪いでいる。
廊下には、すでにジルベールとボーダン卿の姿はない。
ルネが、扉の外の影に、直立で立っているのが、一瞬だけ見えた。その顔は、紙のように白かった。
「ほら、約束のものを持ってきたよ」
クロードは、卓の前に膝をつき、白い布の包みを、ゆっくりと開いた。
金縁の白い杯。底に、小さな青い百合。
燭台の明かりの中で、母の杯は、昼間より、ずっと、やさしく光って見えた。
「磨いてきたんだ。傷ひとつないよ」
「……ありがとう、兄様」
クロードは、杯を卓に置くと、寝台の脇の椅子に、いつものように腰を下ろした。
膝に手を置き、少しのあいだ、私の顔を、黙って見つめる。
「顔色が、いいね。もっと、やつれているかと思った」
「ロシュ卿が、毎日、ちゃんと食べさせてくれたから」
「そう。……あの人は、本当に、真面目だね」
言葉の端に、ほんのわずか、棘があった。
聞き逃さなかった自分に、驚く。
彼の指は、今度も、布の上から、杯を支えている。
けれど、昼間とは、何かが、違った。
*
「水を汲んでくるのを、忘れるところだった」
クロードは、笑って、持ってきた硝子の水差しを、卓に置いた。
中の水は、燭台の光を通して、透きとおって見える。
「井戸から、さっき、自分で汲んできたんだ。お母様の杯には、一番きれいな水を、入れたいからね」
彼は、水差しを傾けた。
とくとく、と、小さな音。白い杯の中に、透明な水が、満ちていく。
私は、視線を逸らさずに、その様子を見ていた。
「お母様のことを、思い出していたんだ」
クロードが、水を注ぎながら、ぽつりと言った。
「亡くなる前の晩、僕を枕元に呼んで、おっしゃった。『レティを、お願いね。あの子は、意地っ張りで、寂しがりだから』って」
「……お母様が」
「うん。僕は、約束した。何があっても、君を守るって」
指先が、水差しの縁で、かすかに止まる。
それが、嘘なのか、本当なのか、私には、もう、見分けがつかなかった。
嘘と本当が、同じ顔で、同じ声で、並んでいる。
杯の底の青い百合が、水の向こうで、ゆらゆらと揺れる。
昼間の布に染みていた、あの甘い匂い。
杯の縁に近づくと、それが、かすかに、鼻の奥に触れた。
違う。
毒は、杯には、ない。
杯は、きれいに磨かれている。
匂いは、杯の中の、水から、立っていた。
「さあ、レティ。飲んで」
クロードが、杯を、両手で支えて、私の前に差し出す。
その瞳は、ひどく優しかった。
「最期の夜だ。お母様のそばで、ゆっくり眠れるように」
背筋が、凍る。
この人は、本当に、泣きそうな顔で、笑っているのだ。
私は、杯に、手を伸ばした。
指先が、金の縁に触れる。持ち上げる。水面が、揺れて、燭台の光を砕く。
唇に、杯の縁が、近づいた。
甘い匂いが、鼻の奥で、いっそう濃くなる。
「……ごめんね、レティ」
クロードが、囁いた。
縄の前の夜と、同じ声で。
「兄様」
私は、杯を、唇から離す。
その声は、思っていたよりも、はっきりと、部屋に響いた。
*
続き扉が、乱暴に開く音。
同時に、廊下の扉が、蹴破られるように開く。
先頭に立つのは、ジルベールだった。
その後ろから、ボーダン卿、デュボワ卿、ヴェルニエ卿、二人の騎士。
「動くな、サン=ロラン」
低い声が、空気を裂いた。
クロードは、膝をついたまま、ゆっくりと、振り返る。
その顔から、微笑みが、少しずつ、剥がれ落ちていった。
「……何事ですか、デュボワ卿」
声は、驚くほど、落ち着いていた。
「ノックもなしに。レティの、最期の夜を、邪魔なさるなんて」
「その杯の中身を、確かめる」
デュボワ卿が、一歩、前に出た。
「ベルナール殿」
「はい」
衝立の陰から、侍医が、小さな鞄を携えて現れる。
卓の上の水差しを、そっと持ち上げ、匂いを嗅ぎ、指先に一滴を取って、白い皿に落とした。
数拍の、沈黙。
医師は、静かに、顔を上げた。
「月下草でございます」
低い声が、部屋に落ちた。
「水に、溶かし込まれております。眠り草も、混じっております。この量であれば、一口で、夜明け前には」
「結構」
デュボワ卿が、遮った。
「サン=ロラン。この水は、誰が汲んだ」
「僕です。井戸から、自分で。それだけです」
クロードは、立ち上がった。
濡れた外套の裾から、水滴が、床に落ちる。その顔には、驚きも、動揺もなかった。ただ、深く、静かな、哀しみがあった。
「毒が入っている、と、おっしゃるんですか。それなら、おかしい。僕が汲んだとき、水は、ただの水でした。誰かが、後から混ぜたんだ」
「誰が」
デュボワ卿の問いに、クロードは、ゆっくりと、視線を動かした。
卓の上の水差し。廊下の影。そして、扉の外に立つ、ひとりの青年へ。
「……ルネ」
その名前が、部屋の中に、静かに響いた。
「僕が水を汲んで、廊下に置いていた間、この水差しに、触れる機会があったのは、君だけだった」
ルネの顔が、真っ青になった。
息を飲む音が、廊下から、はっきりと聞こえた。
「そんな……わたくしは」
「君は、第三隊の人間で、ロシュ卿の部下でもある。レティに罪を着せるために、毒を仕込んだ。そう考えるほうが、自然ではありませんか」
私は、息を、のんだ。
この人は、最後まで、優しい声で、嘘をつく。
「違います!」
ルネが、扉の影から、一歩、踏み出した。
膝が、がくがくと震えている。それでも、その目は、クロードを、まっすぐに見ていた。
「わたくしは、水差しには、触れておりません。サン=ロラン様が、今夜、わたくしにお命じになったのです。交代のあと、ロシュ卿とボーダン卿を、廊下から遠ざけるように、と」
「僕が? そんなことを?」
「妹の薬を、止めると。そう、おっしゃいました」
クロードは、悲しそうに眉を下げた。
「ルネ。君は、疲れているんだ。そんなことを、僕が、言うはずがない。君が、ロシュ卿に脅されて、そう言わされているのでは?」
部屋の空気が、一瞬、ぐらりと揺れた。
水掛け論。証人の言葉は、ルネ一人のものだ。
「デュボワ卿。この水差しは、僕の持ち物ではない。厨房の備品です。調べれば、誰が触れたか、すぐに」
「サン=ロラン殿」
ジルベールの声が、割って入った。
灰色の目が、まっすぐに、クロードを射抜いている。
「あなたは、昼間、私たちの前で、一度も、杯の内側に、素手で触れなかった。今夜も、杯を支えるときだけ、布の上からだった。その理由を、説明していただけますか」
「……習慣です。母の形見ですから。大切に扱っているだけで」
「毒の杯だったからだ、とは、言わないのですね」
「毒など、ありません」
クロードは、そっと、肩をすくめた。
「証拠は、どこにあるのです。杯は、きれいです。水は、誰かが後から混ぜたもの。僕は、レティを死なせたいなどと、一度も思ったことが、ない」
その言葉は、あまりに自然で、一瞬、私も、信じかけた。
それが、いちばん怖かった。
「サン=ロラン。上着を、改めさせてもらう」
デュボワ卿の合図で、二人の騎士が、クロードの両脇に立った。
クロードは、抗わなかった。両腕を、軽く広げて、笑う。
「どうぞ。何も、出てきませんよ」
外套の内側。上着の隠し。ズボンの腰。
騎士の手が、順に探っていく。出てきたのは、小さなペンと、折りたたんだ手巾と、数枚の硬貨だけだった。
指輪は、なかった。
ジルベールの眉が、わずかに寄る。
侯爵の指輪印は、この男の身には、ない。ならば、どこかに隠したのだ。今夜のうちに、屋敷のどこかへ。
「ご覧のとおりです」
クロードは、静かに腕を下ろした。
乱れた襟を、片手で、きちんと直す。
「デュボワ卿。僕は、レティの従兄です。十年、同じ屋根の下で、兄のように暮らしてきた。その僕に、こんな仕打ちを」
「小書庫を、改めさせてもらった」
デュボワ卿の声が、その言葉を、遮った。
「机の、最下段の引き出し。鍵穴の小さい、あの引き出しだ」
その瞬間だった。
クロードの笑顔が、ほんの一瞬、固まった。
指先が、ぴくりと、動く。一度だけ。
それは、彼が、今夜、初めて見せた、揺らぎだった。
ジルベールの手が、そっと、剣の柄に添えられる。
部屋の誰もが、息を詰めて、次の言葉を待っていた。
「……ああ」
やがて、クロードは、小さく息を吐いた。
困ったように、眉を下げて、それでも、微笑んだまま。
「そうか。見つけたんだね」
私は、杯を持ったまま、立ち尽くしていた。
甘い匂いのする水面が、小さく、震えている。
処刑まで、あと十四時間。
そして、罠にかかったはずの獲物は、笑顔のまま、最後の牙を、静かに見せはじめていた。




