消えた一行
「中には、何もなかった」
その言葉が、しばらく部屋の中に残っていた。
私は浅い引き出しを見下ろす。
指二本分の、空っぽの隙間。ここに毒の瓶が入っていたと、法務院は言う。
けれど、五月一日の夜には、ここには何もなかった。
「なら、瓶は後から置かれたんです」
「そう言ったのは、あなたが初めてではない」
ジルベールは、引き出しを静かに押し戻した。
かちり、と仕掛けが閉じる音がする。
「私も、法務院でそう述べた。誰も取り合わなかった」
「どうして」
「平民上がりの騎士が、自分の失態をごまかしている。そう見えたからだ」
淡々とした口調だった。
けれど、その奥に、何度も同じ言葉を飲みこんできた人の疲れが聞こえた。
「記録は、残っていないんですか。あなたが引き出しを開けたという」
「ある」
彼は上着の内側から、革表紙の手帳を取り出した。
昨日から何度も見てきた、あの手帳だ。ページをめくり、ある箇所で手を止める。
「五月一日、亥の刻。ヴァルモン侯爵令嬢私室、捜索。化粧台、引き出し六段、異常なし。隠し引き出し、侍女頭立会いのもと開扉、内部空」
読み上げてから、彼は手帳を私のほうへ向けた。
几帳面な、少し角ばった字が並んでいる。
確かに、そう書いてあった。
「これを、法務院には」
「出した。だが、これは私の私的な手帳だ。正式な捜索記録は、詰所で書記が清書して、騎士団長の署名を経て法務院へ送られる」
彼は、もう一枚の紙を取り出した。
今度は、写しらしい薄い紙だ。
「これが、その正式な記録の写しだ」
受け取って、目を走らせる。
日付、刻限、場所。捜索した騎士の名前。家具の一覧。
『化粧台、異常なし』
それだけだった。
「隠し引き出しの記載が、ない……」
「清書の段階で落ちた。書記は、一行に収まるように要約したと言っている」
ジルベールは写しを受け取り、手帳と並べて卓の上に置いた。
「だから法務院は、こう判断した。正式な記録に隠し引き出しの記載がない以上、一度目の捜索では開けていない。私の手帳の一行は、あとから書き足したものだろう、と」
私は二枚の紙を見比べた。
騎士の手帳。書記の清書。たった一行の違いが、この人の居場所を変え、私の判決を決めた。
偶然なのだろうか。
それとも、誰かがその一行を、消させたのだろうか。
「その書記に、話を聞くことはできますか」
「騎士団の詰所付きの書記官だ。王宮から動かせない。手紙なら出せるが、検閲を通る」
「……あなたの名前で出してもらうことは」
ジルベールの眉が、わずかに上がった。
「なぜ、そこまでする」
「え?」
「あなたの判決を覆すのに、私の手帳の一行が役に立つのはわかる。だが、さっきから、あなたは書記の名前ばかり気にしている」
言われて、初めて自分の考えの向きに気づく。
私は、自分の無実を証明することだけを考えていたつもりだった。けれど、手帳の一行を見たとき、真っ先に浮かんだのは、この人が法務院で誰にも信じてもらえなかった光景だった。
「……あなたが嘘をついていないなら、それも証明されるべきだと思っただけです」
ジルベールは、何も言わなかった。
ただ、手帳の表紙を親指で一度なぞり、それを懐に戻した。
「手紙は、私の名で出す。返事が来るのは早くて明後日だ」
それだけ言って、彼は話を先へ進めた。
*
「瓶が後から置かれたとして」
私は寝台の端に座り直し、指を折った。
「置けたのは、五月一日の夜から、三日の二度目の捜索までの間です」
「そうだ」
「その間、この部屋には誰が入れましたか」
ジルベールは、すぐには答えなかった。
手帳をめくり、日付を一つずつ確かめていく。
「五月二日の朝から、あなたはこの部屋に禁固された。廊下側の扉には、昼夜騎士が立った。出入りしたのは侍女のマルト、侍医、それにサン=ロラン殿。いずれも騎士の立会いつきだ」
「立会いつきなら、隠し引き出しを開ける暇はないですね」
「ない」
「じゃあ、続き扉は」
彼の手が止まった。
「続き扉の鍵は、昨日の朝まで、小書庫の壁の鉤に掛けてあった。誰でも手に取れる場所だ」
昨日、彼は言った。続き扉の鍵は今朝のうちに回収した、と。
つまり、それまでの十一日間、続き扉はずっと、誰にでも開けられる状態だったのだ。
「でも、私がこの部屋にいたんですよ。誰かが入ってきて化粧台をいじったら、さすがに気づきます」
自分で言いながら、背中が冷たくなった。
気づかなかったとしたら。
眠っていて、何も気づけなかったとしたら。
「ロシュ卿。侍医の薬湯は、いつから始まったんですか」
ジルベールは、手帳を何枚か戻した。
「五月二日の夜からだ。禁固初日、あなたは一晩中叫び続けた。それで侯爵家の求めにより、侍医が眠り薬を処方した」
禁固初日の夜から。
誰かが、眠っている私の枕元を通って、化粧台に瓶を入れることは、できたのだ。
目を閉じる。
禁固初日の夜。泣き疲れて、薬湯を飲まされて、沈むように眠った夜。
その底のほうで、小さな音を聞いた気がする。
かちり。
さっき、隠し引き出しが開いたときと、同じ音。
夢の中の音だと思っていた。思い出そうとすると、指の間から砂がこぼれるように遠ざかっていく。
「どうした」
「……いえ。まだ、言えるほどのことじゃありません」
記憶は証拠にならない。この人に、そう教わったばかりだ。
「侯爵家の求め、というのは」
「書面で届いた。侯爵本人は別邸にいたから、代筆だろう」
「誰の」
ジルベールが、私に視線を向ける。
その目は、答えを知っている人の目だった。けれど、彼は首を振った。
「それは、まだ確かめていない。推測で名前は出さない」
*
ジルベールが手帳を閉じかけたとき、私はもう一つだけ尋ねた。
「二度目の捜索は、誰が指揮したんですか」
「騎士団の第二隊だ。私は外されていた」
「瓶を見つけたのは、誰ですか」
彼は、写しの二枚目をめくった。
五月三日の記録。そこには、彼の隊とは別の騎士たちの名前が並んでいる。
「隊長はデュボワ卿。立会いは侍女頭。発見者は……」
ジルベールの声が、そこで一瞬だけ途切れた。
「どうしたんですか」
「いや」
彼は写しを、私にも見えるように傾けた。
指先が、ある一行をなぞる。
『化粧台隠し引き出しより、毒薬の小瓶一、発見。発見者、騎士ルネ・ガルニエ』
ルネ。
昨夜、廊下で私に会釈をした、人懐っこそうな栗毛の騎士。
十二日の夜、扉の前に立ち、誰も通らなかったと誓った人。
質問に答えるとき、一度も私の目を見なかった騎士。
「あの人は、ロシュ卿の部下ではなかったんですか」
「二度目の捜索のあとで、私の隊に配属された。監視の人手が足りないから、と」
ジルベールは写しを畳んだ。
その指に、ほんのわずかな力がこもっているのを、私は見逃さなかった。
毒の瓶を見つけた騎士が、今、毎晩この扉の前に立っている。




