消された伝言
「わたくしは、そんなことを言っておりません」
夕刻、再び呼ばれたマルトは、戸口に立つなりそう言い切った。
頬に赤みが差している。怒っているのだ。
「蜂蜜を捨てろなど、誰にも申しておりません。今朝は使用人棟から一歩も出ずに、呼ばれるのを待っておりました。同室の者が証人です」
「下働きの娘は、あなたに言われたと証言している」
「でしたら、その子をここへ呼んでくださいませ。わたくしの前で、同じことを言わせてください」
ジルベールは、廊下の騎士に目で合図した。
連れてこられたのは、まだ十三か十四の痩せた娘だった。名前はニナ。
騎士と侍女と、断罪された令嬢。その全員に見つめられ、ニナは今にも泣きだしそうな顔で前掛けを握りしめている。
「ニナ」
できるだけ、柔らかい声を出した。
喉が痛んで、思ったよりかすれてしまったけれど。
「怒っているわけじゃないの。今朝のことを、そのまま教えてくれる?」
ニナは、私の首の傷を見て、びくりと肩を震わせた。
それから、小さな声で話しはじめる。
「あ、朝、厨房に行ったら……配膳室の伝言板に、書いてあったんです。『お嬢様の蜂蜜、もう不要。壺を洗って中身は捨てること。マルト』って」
「伝言板?」
「配膳室の扉の横の、黒い板です。白墨で、みんな用事を書いておくんです」
ジルベールが、ペンを止めた。
「さっきは、マルトに言われたと言ったな」
「だって、マルトさんの名前が書いてあったから……マルトさんに言われたのと同じだと思って……」
ニナの目に、涙がたまっていく。
マルトが、唇を強く噛むのが見えた。
「その伝言は、今どこにある」
「……消しました。用事が済んだら消すのが、決まりなので」
「ニナ、その字は、いつものマルトの字だった?」
私が尋ねると、ニナはおずおずと首を振った。
「わ、わたし、字はあんまり読めなくて……。毎朝、名前のところだけ見て、誰の用事か覚えるんです。マルトさんの『マ』の字は、知ってるから」
つまり、誰が書いても同じだったということだ。
名前さえ合っていれば、ニナは疑わない。
部屋に、重い沈黙が落ちた。
*
ニナが下がったあと、マルトは私をまっすぐに見た。
今日初めて、彼女が私の目を見た気がする。
「わたくしは、伝言板に名前だけを書いたりいたしません。用件と時刻と、名前を全部。侍女頭にそう教わりましたから」
「でも、それを確かめる方法はない」
ジルベールの声は、冷たくはなかった。ただ、事実を並べているだけだ。
「伝言は消えた。誰が書いたのかはわからない。あなたが書いたという証拠もなければ、書いていないという証拠もない」
「……そうでございますね」
マルトは、深く頭を下げた。
その肩が、かすかに震えている。
私はとっさに、口を開いていた。
「マルトが書いたのなら、わざわざ自分の名前を残すかしら」
「自分の名前を書いておけば、疑われたときに『そんな馬鹿なことはしない』と言える。そう考える人間もいる」
ジルベールは、私の反論をあっさり退けた。
悔しいけれど、間違ってはいない。
「どちらにせよ、誰かが蜂蜜を急いで処分したがった。それだけは確かだ」
彼がそう言うと、マルトは何も言わずに部屋を出ていった。
扉の向こうで、彼女の足音が一度だけ止まり、それからまた遠ざかっていく。
*
日が暮れると、見張りが交代した。
夜番に立ったのは、栗毛の若い騎士だった。年は二十を少し過ぎたくらい。人懐っこそうな顔で、廊下から私に会釈をする。
「ルネと申します。今夜も扉の前におりますので、何かあればお声がけください」
昨夜、この扉の前に立っていた騎士だ。
私は寝台を降り、戸口まで歩いた。
「ルネ。昨夜のことを聞いてもいい?」
「は、はい。ロシュ卿にも何度もお話ししましたが」
「あなたは、一晩じゅうここに?」
「はい。一度も持ち場を離れておりません。夜明け前に物音がするまで、廊下側の扉は誰も通っていません。誓って」
ルネは胸に手を当てた。
言葉に淀みはない。むしろ、何度も練習したように、なめらかだった。
「眠くはならなかった?」
「騎士ですから。それに昨夜は、ロシュ卿が詰所にいらっしゃいましたし、居眠りなんてしたら首が飛びます」
ルネは冗談めかして笑い、すぐに私の首の傷に気づいて、気まずそうに口をつぐんだ。
悪い人には見えない。けれど、私の質問に答えるとき、彼は一度も私の目を見なかった。
廊下側の扉を、誰も通っていない。
なら、あの夜、寝台のそばにいた誰かは、続き扉から入ってきたことになる。
「ロシュ卿」
廊下の奥にいたジルベールに、私は声をかけた。
「小書庫には、ほかに出入り口があるんですか」
「使用人用の裏階段に通じる扉が一つ。厨房にも、使用人棟にも降りられる」
それは、つまり。
使用人なら、誰でも小書庫を通って、この部屋の続き扉までたどり着けるということだ。
クロードが帳簿から目を離した、ほんの少しの隙に。
疑うべき人間の数が、また増えてしまった。
*
夜が更けても、私は眠らなかった。
燭台を一本だけ許してもらい、窓辺の床を照らす。
破片を片づけた誰かは、急いでいたはずだ。
縄が切られてから、侍医が来るまで。騎士たちが出入りし、クロードが私を抱えていた、あの短い間に。
慌てて拾ったのなら、見落としがあってもおかしくない。
寝台の下。化粧台の脚の陰。暖炉の灰受け。
四つん這いになって、一つずつ確かめていく。首の傷が引きつれて、何度も息が止まりそうになった。
「何をしている」
戸口から、低い声がした。
ジルベールだ。いつからそこにいたのか、腕を組んでこちらを見ている。
「探し物です」
「夜中に床を這い回るのが、監視対象のすることか」
「処刑まで、あと七日しかないんです。眠っている暇はありません」
ジルベールは、何も言わなかった。
部屋に入ってくると、私の手から燭台を受け取る。取り上げられるのかと思った次の瞬間、彼はそれを、床に近い高さまで下ろした。
「破片を探しているのなら、光は低く当てろ。影が伸びて、小さなものが見つけやすくなる」
「……手伝ってくださるんですか」
「見ているだけだ。あなたが見つけたものを、隠したり捨てたりしないように」
そう言いながらも、燭台を持つ手は動かない。
灯りが、床の木目をくっきりと浮かび上がらせた。
私は窓辺の厚いカーテンの裾に手を伸ばした。
重い布地の折り返しが、床に溜まるように垂れている。その襞を、一枚ずつめくっていく。
一枚目、二枚目。埃が舞うだけで、何もない。
三枚目の襞の奥で、指先に硬いものが触れた。
ジルベールが、燭台を近づけた。
白磁の小さなかけら。親指の爪ほどの大きさで、ゆるやかに湾曲している。器の底の一部だ。
そして、その内側には――白い粉が、乾いてこびりついていた。




