白い粉
「薬湯の底に、白い粉が残っていた。それを思い出しました」
廊下から呼び戻したジルベールに、私はそう告げた。
彼は扉の脇に立ったまま、表情を動かさない。
「思い出した、か」
「信じられないのはわかっています。でも、昨夜の薬湯は、いつもより苦かった。だからレティシアは……私は、器を投げたんです」
「記憶は証拠にならない」
「わかっています」
「それに、あなたは毎晩器を投げていたと聞いている。昨夜だけが特別だったと、なぜ言える」
「昨夜は、投げる前に叫んだんです。いつもと味が違う、って」
「誰がそれを聞いた」
「……わかりません。でも、私は確かにそう叫んだ」
声がかすれる。
それでも私は、目をそらさなかった。
「だから、確かめてほしいんです。私が毎晩飲まされていたものが、何なのか」
ジルベールはしばらく黙っていた。
やがて、手帳を開く。
「侍医を呼ぶ。話はそれからだ」
*
ベルナール医師は、露骨に面倒そうな顔でやってきた。
古びた革鞄を卓に置き、私とジルベールを交互に見る。
「眠りを助ける薬湯のことですな。わたくしが処方しております。眠り草の根を乾かして粉にしたもの。一晩に一包です」
「一包とは、どれくらいの量ですか」
「茶匙に半分ほど。蜂蜜を溶かした湯に混ぜれば、ほとんど味はしません」
ほとんど味はしない。
なら、昨夜の苦みは何だったのだろう。
「もし、その何倍もの量が入っていたら?」
「苦くなりますな。湯に溶けきらず、底に残る。そして……」
老医師は言葉を切り、初めて真剣な目で私を見た。
「大人でも、半日は目を覚ましません。手足は重く、声もろくに出せない」
部屋の空気が、わずかに変わった。
ジルベールの手が、手帳の上で止まっている。
「先生。その粉は、どこに保管していますか」
「七日分ずつ紙に包んで、侍女のマルトに渡しております。残りは、わたくしの鞄の中。この鞄は、いつも手元に置いてありますぞ」
ベルナール医師は、疑われるのは心外だと言わんばかりに、鞄の留め金を叩いた。
嘘をついているようには見えない。
けれど、本当のことを全部話しているとも、言い切れない。
「先生」
ジルベールが口を開いた。
「今朝、あなたがこの部屋に呼ばれたとき、床に器の破片はあったか」
「破片?」
老医師は眉を寄せ、記憶をたどるように天井を見上げた。
「いいや、なかったと思いますな。わたくしはお嬢様の首ばかり見ておりましたが、床に何か落ちていれば、さすがに踏んでおりましょう」
ジルベールの指が、手帳の上で小さく動く。
縄が切られてから、侍医が来るまで。破片が消えたのは、その短い間だということになる。
*
次に呼ばれたマルトは、戸口で一度立ち止まった。
騎士と侍医が並んでいるのを見て、すべてを察したのだろう。顔色が、すうっと白くなる。
「昨夜の薬湯について聞きたい」
ジルベールの問いに、彼女は背筋を伸ばして答えた。
「いつもどおり、東翼の配膳室で作りました。湯を沸かし、先生からいただいた一包を溶かして、蜂蜜を二匙。それだけでございます」
「蜂蜜はどこから」
「配膳室の棚にある、お嬢様専用の壺からです。お母上のご実家、サン=ロラン領から届く蜂蜜で、お嬢様はそれ以外を召し上がりません」
母の実家。
その名前を聞いて、私は思わずマルトの顔を見た。彼女は、こちらを見ようとしない。
「配膳室には、ほかに誰が出入りする」
「騎士様方が、お湯をもらいにいらっしゃいます。それから厨房の者と……」
マルトは、ほんの一瞬だけ言葉を探した。
「……それくらいでございます」
「包みは何包残っている」
「……四包です。今週分は七包いただいて、昨夜で三包目でした」
ジルベールは侍医に目をやった。
ベルナール医師がうなずく。数は合っている、という意味だ。
「では、割れた器の破片は、誰が片づけた」
「わたくしではありません」
マルトの返事は、思ったより早かった。
「今朝は騒ぎで、お部屋に入れていただけませんでした。わたくしが来たときには、床はもうきれいになっておりました」
ジルベールの眉が、ほんのわずかに寄った。
騎士たちでもない、ということだ。彼らがそんな雑用をしていれば、彼が知らないはずがない。
「あの……」
マルトの声が、初めて揺れた。
「わたくしが、お嬢様の薬湯に何か入れたと、お疑いなのですか」
「事実を確認しているだけだ」
「お嬢様のことは、好きではございません。それは隠しません」
彼女は、両手でエプロンを握りしめていた。
「でも、わたくしは、自分の手でお仕えしている方を殺したりいたしません。そんなことをしたら、リーズの名前にまで泥を塗ります」
私は、何も言えなかった。
彼女の言葉は、私への敵意と、彼女自身の誇りでできている。そのどちらも、嘘には聞こえなかった。
「その言葉も、記録しておく」
ジルベールは、それだけを返した。
慰めでも、脅しでもない。マルトは唇を結び、深く一礼して部屋を出ていった。
*
「配膳室を調べる」
二人が下がると、ジルベールは短く言った。
「私も行きます」
「あなたはこの部屋から出られない」
「でも、その壺は――」
「規則だ」
一言で切り捨てられて、私は唇を噛んだ。
すぐ目の前に手がかりがあるのに、扉の外へ一歩も出られない。
処刑までの七日間、私にできるのは、この部屋で誰かを待つことだけなのだろうか。
原作のミレイユは、屋敷も王宮も自由に歩き回り、自分の足で証言を集めていた。
今の私には、その足がない。
あるのは、この喉と、かすれた声だけだ。話を聞いてもらうには、相手にここまで来てもらうしかない。
ジルベールは、背を向けかけて止まった。
「……壺に何か残っていれば、侍医に調べさせる。結果は、あなたにも伝える」
振り返らないまま、彼はそう告げる。
約束というより、手順の確認のような口ぶりだった。
それでも、今の私には十分すぎる言葉だ。
*
待つ間、私は窓辺の梁を見上げていた。
マルトは、あの壺の蜂蜜を毎晩使っていた。眠り草の包みを持っていたのも彼女だ。
疑う理由なら、いくらでも並べられる。
けれど、さっきの震える声を思い出すと、その一つ一つが、どこか作り物めいて見えた。
彼が戻ってきたのは、半刻ほど経ってからだった。
廊下に響く足音が、行くときより速い。
「壺はあった」
戸口に立った彼の手には、何も握られていなかった。
「棚の上に、きれいに洗われて、逆さに伏せてあった。中身は一滴も残っていない」
「洗われて……?」
「厨房の下働きの娘が、今朝洗ったそうだ。蜂蜜は全部、裏の溝に捨てたと言っている」
ジルベールは、手帳を開いた。
「誰に言いつけられたのか、と聞いた。娘はこう答えた」
そこに書かれた一行を、彼は平坦な声で読み上げる。
「――『マルトさんから、お嬢様の蜂蜜はもう要らないから捨てるように、と言われました』」




