蜂蜜の味
「見せてもらおう」
袖をまくった私の手首を、ジルベールは窓の光にかざすようにして見た。
触れはしない。ただ、痣の数と位置を一つずつ確かめ、手帳に書きつけていく。
「指の跡に見える。それは認める」
「なら」
「だが、誰がつけたかはわからない」
彼はペンを止めないまま、言葉を継ぐ。
「夜明け前、あなたは縄に吊られていた。サン=ロラン殿が体を支え、縄を切った。その間に手首を掴んだ可能性がある」
「吊られている人の手首を? 普通は、体を抱えるでしょう」
「普通なら、な」
ジルベールは顔を上げた。
「だから本人に確かめる。推測で報告書は書かない」
それから、彼は手帳から目を上げずに尋ねた。
「昨夜、あなたは何刻に床についた」
「覚えていません。薬湯を飲んで、そのあとのことは何も」
「暴れた記憶は」
「……ありません」
「では、縄を自分で用意した記憶も、ないということだな」
確かめるような言い方だった。
うなずくと、彼は短く一行を書き足す。何と書いたのかは、私の位置からは見えない。
手帳を閉じると、彼は廊下に控えていた若い騎士に何かを命じた。
私は袖を下ろしながら、少しだけ息を吐いた。
信じてもらえたわけではない。けれど、少なくとも聞き流されはしなかった。
*
クロードがやってきたのは、それから間もなくだった。
腕に数冊の本を抱えている。私の顔を見るなり、彼は心配そうに眉を寄せた。
「呼ばれたと聞いたけど、レティに何かあったの?」
「サン=ロラン殿。今朝のことを、もう一度話していただきたい」
ジルベールの口調は、私に向けるときと変わらなかった。
相手が侯爵家の縁者でも、監視対象でも、同じ温度で話す人なのだ。
クロードは本を卓に置き、少し考えてから口を開いた。
「伯父上――ヴァルモン侯爵に頼まれて、小書庫で帳簿の整理をしていました。王家への賠償の話が出ているので、屋敷の財産を全部洗い出しておくように、と。夜明け前に、何かが倒れる大きな音がして……続き扉を開けたら、レティが窓辺で」
言葉が詰まる。
彼は眼鏡を外し、指で目元を押さえた。
「レティは、縄を両手で掻きむしっていました。苦しかったんだと思います。でも、そのままでは指が縄に挟まって、余計に締まる。だから僕は、彼女の手首を掴んで引きはがしました。それから体を抱えて、文鎮の脇にあった紙切りナイフで縄を……」
ジルベールの視線が、私の手首に落ちる。
そして、またクロードに戻った。
「そのナイフは」
「今朝、騎士団の方にお渡ししました。縄と一緒に」
「確認している。刃に縄の繊維が残っていた」
ジルベールは一度うなずき、問いを重ねる。
「強く掴みましたか」
「必死でしたから。痣になっていたなら、僕のせいです」
クロードは私に向き直り、申し訳なさそうに頭を下げた。
ジルベールは手帳に数行を書き足し、静かに閉じる。
「話は一致する。手首の痣は、救助の際についたものと記録する」
そう言って、彼は廊下へ戻っていった。
私は膝の上で、手を握りしめた。
説明は、筋が通っている。通りすぎているくらいに。
でも、と心のどこかが引っかかる。
あの記憶の中で、私の体は鉛のように重かった。指一本、動かせなかったはずだ。
縄を掻きむしる力なんて、残っていただろうか。
――それとも、あの記憶のほうが間違っているのか。
夢と現実の境目さえ、今の私にはまだ確かではない。
*
「怖い思いをさせてごめん、レティ」
ジルベールがいなくなると、クロードは寝台のそばの椅子に腰を下ろした。
扉は開いたままだ。廊下の騎士にも、私たちの声は聞こえているだろう。
「兄様のせいじゃない。助けてくれて、ありがとう」
「……レティにお礼を言われるなんて、何年ぶりだろう」
彼は少し驚いたように笑った。
その笑顔に、レティシアの記憶が重なる。授業をさぼり、宿題を突き返し、それでも根気よく字の書き方を教えてくれた従兄。彼の前でだけ、レティシアは少しだけ素直になれた。
「ねえ、兄様。私、本当に覚えていないの。茶会の日のことも、昨夜のことも」
「無理に思い出さなくていい。君の体は、まだひどく弱っている」
「でも、あと七日しかないの」
クロードの表情が、わずかに曇った。
「……レティ。もし何か調べたいことがあるなら、僕に言って。君はこの部屋から出られない。でも、僕なら屋敷の中を歩ける」
「いいの?」
「当たり前だろう。温室も封鎖されたけど、薬草の世話だけは、僕が許されているんだ。使用人にも顔が利く」
「じゃあ、茶会の日のことを教えて。兄様はどこにいたの」
「僕は給仕の手伝いと、お客様の案内。テーブルには着いていないよ。王女殿下と、グランシェ公爵令嬢と、オードラン男爵令嬢。それにレティ。四人のお茶会だった」
「お茶を淹れたのは?」
「マルトだ」
クロードは少し言いよどみ、それから声を落とした。
「レティ、マルトのことは責めないであげて。あの子は法務院で、見たことを正直に話しただけなんだ。君が王女殿下の杯に一人で近づいた、って」
私が、王女の杯に?
その場面だけが、記憶の中で真っ白に抜け落ちている。
「私は、本当にそんなことをしたの?」
「僕は見ていないんだ。そのとき、温室の入口で、グランシェ公爵令嬢の侍女に道を聞かれていたから」
クロードは首を振り、それからまっすぐに私を見た。
「でも、レティが王女殿下を殺すなんて、僕は信じていない。君は意地っ張りだけど、そういうことができる子じゃない」
その言葉に、喉の奥が熱くなった。
この屋敷で、そう言ってくれたのは、彼が初めてだった。
部屋の外で、私のために動いてくれる人がいる。
それだけで、肩の力が少し抜けた。
「それから、これ」
クロードは上着のポケットから、小さな紙包みを取り出した。
開くと、琥珀色の飴が三つ並んでいる。
「蜂蜜の飴。喉の痛みに効くし、レティ、昔から好きだったよね」
私が紙包みを受け取ると、彼は本を抱え直して立ち上がった。
「明日また来るよ。何かわかったら、すぐに知らせる」
クロードが出ていくと、部屋はまた静かになった。
私は寝台に腰かけ、指を折って数える。
王女殿下。イザベル。ミレイユ。お茶を淹れたマルト。給仕を手伝ったクロード。
そして、レティシア。
あの日、温室にいた人たち。王女殿下の杯に毒を入れる機会があったのは、この中の誰かだ。
考えるうちに、喉がまたひりついてきた。
私は飴を一つ、口に入れた。
とろりとした甘さが、焼けた喉をやわらかく包む。
そのときだった。
舌の奥に、別の味がよみがえった。
蜂蜜の甘さの下に隠れた、ざらりとした苦み。
昨夜の薬湯だ。レティシアは一口飲んで顔をしかめ、それでも喉が渇いていて、残りを一気に飲み干した。
そして器を投げつけた。いつもと味が違う、と叫びながら。
器の底には、溶けきらない白い粉が、薄く残っていた。
思わず、窓辺の床に目をやる。
割れた器の破片は、どこにもない。今朝のうちに、誰かが片づけたらしい。
私は飴を口に入れたまま、凍りついた。
昨夜の薬湯には、いつもとは違う何かが入っていたのだ。




