梁の高さ
一睡もできないまま、昼が近づいていた。
喉はまだ焼けるように痛む。唾を飲みこむたび、首の傷が引きつれた。
私は寝台を降り、開いたままの扉へ向かった。
廊下には、灰色の目の騎士が立っている。
「ロシュ卿」
「今度は何だ」
「私が首を吊ったという場所を、見せてください」
ジルベールは、すぐには答えなかった。
私のかすれた声を、測るように聞いている。
「理由は」
「そこで何が起きたのか、自分の目で確かめたいからです」
「確かめて、どうする」
「あなたに説明します。私が自分でやったのか、そうでないのか」
短い沈黙のあと、彼は顎で部屋の奥を示した。
「この部屋だ。窓際を見ろ」
振り返ると、窓辺の張り出しの上に、黒ずんだ木の梁が一本、横に渡されていた。カーテンを吊るための飾り梁だ。
その真下の床に、小さな傷がある。何か重いものが倒れた跡。
「縄はそこに結ばれていた。足元には、化粧台の椅子が倒れていた」
「縄は今どこに?」
「騎士団が保管している。見せることはできない」
予想どおりの返事だった。
けれど、梁と椅子なら、ここにある。
「椅子に乗ってみてもいいですか」
「……飛び降りて死ねる高さではないな」
ジルベールは部屋に入り、扉の脇に立った。止めはしない。ただ、私の一挙一動から目を離さない。
化粧台の椅子を窓辺へ運ぶ。
背もたれのない、低い椅子だった。座面にはビロードが張られ、脚は細い。
両手で縁をつかみ、慎重に上がる。座面が、ぐらりと揺れた。
腕を伸ばす。
指先が、梁の下面をかすめた。
――それだけだ。
つま先立ちになって、ようやく指の第一関節が木に触れる。
この姿勢のまま、縄を梁に回して、固く結ぶ。そんなことができるだろうか。
腕はすぐに震えだし、私は椅子から降りた。息が上がって、喉が鋭く痛む。
「見ましたよね。私の背では、ここに縄は結べません」
「結べる」
即答だった。
ジルベールは窓辺へ歩み寄り、寝台の柱を軽く叩く。
「この柱に足をかければ、椅子よりずっと高くなる。結び終えてから椅子に移ればいい」
「そんな器用なこと」
「ヴァルモン嬢。五月二日からの十一日間、あなたはこの部屋で三度暴れている。花瓶を割り、衣装箪笥を倒しかけた。自分の体を思うように動かせない人間の暴れ方ではなかった」
返す言葉に詰まった。
レティシアの記憶が、切れ切れに浮かぶ。叫び声、割れる陶器、マルトの悲鳴。
彼の言うことは、たぶん事実だ。
「それに、人は追い詰められると、普段はできないことをする。私は何度もそういう人間を見てきた」
淡々とした声には、嘲りがなかった。
だからこそ、余計に反論しにくい。
この人は、私を陥れたいわけではない。
ただ、私が無実だと信じる理由を、まだ一つも持っていないだけなのだ。
「では、私が自分でやったのではないと証明できたら?」
「そのときは、報告書を書き直す。それが私の仕事だ」
期待していた答えではなかった。
それでも、扉が完全に閉ざされたわけではない。
「……わかりました。もう一つだけ聞かせてください」
「手短に」
「昨夜、あなたはどこで物音を聞いたんですか」
ジルベールの手が、上着の内側に入る。取り出したのは、革表紙の小さな手帳だった。
彼はページをめくりもせずに答えた。
「東翼の階段脇にある詰所だ。夜番のルネが扉の前に立ち、私は詰所で報告書を書いていた。夜明け前、重いものが倒れる音がした」
「それで駆けつけたら、クロード兄様がもう中にいた」
「サン=ロラン殿は、続き扉の向こうの小書庫で仕事をしていた。音を聞いて扉を開けたと言っている」
彼は、寝台の反対側の壁を指さした。
本棚の陰に、目立たない木の扉がある。レティシアの記憶では、授業のとき、クロードがそこから出入りしていた。
「続き扉の鍵は、今朝のうちに回収した。今後、この部屋の出入りは廊下側の扉だけだ」
手帳を閉じる乾いた音が、話は終わりだと告げていた。
彼が廊下へ戻ると、私は寝台の端に腰を下ろした。
部屋の入り口は二つ。廊下側の扉と、小書庫への続き扉。
廊下側には夜番の騎士が立っていた。続き扉の向こうには、クロードがいた。
――待って。
そこまで考えて、私は首を振った。
クロードは、縄を切って私を助けた人だ。あの人がいなければ、私はとっくに死んでいる。
疑うべき相手を、焦って選んではいけない。
レティシアを恨んでいる人間なら、この屋敷にいくらでもいるのだから。
*
昼前、マルトが湯桶を運んできた。
ジルベールは廊下へ出たが、扉は開けたままだ。衝立の陰で、私は寝間着の袖をまくった。
マルトは無言で布を絞る。
その手つきは丁寧なのに、目だけがひどく冷たい。
「マルト」
「はい、お嬢様」
「昨夜、あなたはどこにいたの」
布を差し出す手が、一瞬止まった。
「使用人棟で休んでおりました。お疑いでしたら、同室の者にお聞きください」
「疑っているわけじゃ……」
「お嬢様がわたくしを疑うのは、いつものことでございますから」
言葉は丁寧だった。中身は、刃物のようだった。
レティシアの記憶が、また一つ浮かぶ。半年前、マルトの妹のリーズを、些細な失敗を理由に屋敷から追い出したこと。泣いてすがる姉妹の前で、扉を閉めさせたこと。
――私じゃない。でも、この体がしたことだ。
「……リーズのこと、ごめんなさい」
マルトの顔から、表情が抜け落ちた。
怒りでも驚きでもない。何を言われたのか、理解することを拒むような顔。
「今さら、何をおっしゃるのですか」
彼女はそれだけ言うと、湯桶に布を沈めた。
それ以上謝罪を重ねる資格は、今の私にはない気がする。
それでも、聞かなければならないことがあった。
「それと、昨夜、寝る前に、私は何か口にした?」
「いつもどおり、薬湯をお持ちしました。侍医様のお言いつけの、眠りを助けるお茶です」
「それを、私は飲んだのね」
「飲み干して、器を床に投げつけられました。毎晩のことです」
マルトは、割れた器の破片を拾う仕草を、少しも隠さずにしてみせた。
皮肉なのだと、すぐにわかった。
「その薬湯、甘い香りはした?」
「……蜂蜜を入れておりますので」
答える前に、ほんのわずかな間があった。
蜂蜜。甘い香りの正体は、それだけなのだろうか。
問い詰めたい気持ちを、私は飲みこんだ。今ここで詰め寄れば、マルトは二度と口をきいてくれなくなる。
黙って、両手を湯に浸した。
温かさが、こわばった指にじんわりとしみていく。
そのとき、袖口から覗いた自分の手首に、目が止まった。
白い肌に、青黒い痣が浮かんでいる。
右にも、左にも。
楕円の形が四つ、反対側に一つずつ。
まるで、誰かの指の跡のように。
マルトも、それを見ていた。布を持つ手が、宙で止まっている。
「……暴れたときに、どこかにぶつけたのでしょう」
その声は、さっきより少しだけ硬かった。
私は自分の手首を見下ろす。
ぶつけた痣は、こんな形にならない。これは、上から強く押さえつけられた跡だ。
首を吊ろうとした人間の手首に、どうして指の跡が残るのだろう。
あの夜、寝台のそばにいた誰かは――私の両手を、押さえつけていた。




