処刑まで、あと七日
喉が、焼けている。
息を吸おうとした瞬間、胸の奥で何かが引っかかり、私は激しく咳き込んだ。
……苦しい。
空気が、細い管を無理やり通ってくるみたいだ。
「意識が戻ったか」
低い男の声。
涙でにじむ視界に、天蓋つきの寝台と、見覚えのない豪奢な天井が映る。
私の部屋は、六畳のワンルームだったはずなのに。
身を起こすと、壁際の姿見に女が映った。
銀に近い金髪。青ざめた頬。十七、八の、見たこともないほど整った顔立ちの娘。
そして、その白い首には――赤黒い線が、ぐるりと一周していた。
縄の跡だ。
「……え」
自分の喉に触れる。鏡の中の娘も、同じ場所に触れた。
指先に、ざらりとした擦り傷の感触。
「レティシア・ヴァルモン」
声の主は、寝台の脇に立っていた。
黒い騎士服の青年だ。腰に剣を帯び、灰色の瞳でこちらを見下ろしている。
「死んで逃げようとしても無駄だ。処刑まで、あと七日。刑は予定どおり執行される」
レティシア・ヴァルモン。
その名前を、私は知っていた。
前世で何度も読み返した推理恋愛小説『白百合の杯』。
王女を毒殺した罪で断罪される、侯爵家の悪役令嬢の名だ。
*
扉が勢いよく開いた。
「レティ!」
駆け込んできたのは、栗色の髪の青年だった。
眼鏡の奥の目が赤い。彼は騎士を押しのけるようにして寝台に膝をつき、私の手を両手で包んだ。
「よかった……本当によかった。僕がもう少し遅かったら、君は」
言葉の途中で、声が震えて途切れる。
この人の名前も、頭の中に浮かんでいた。
クロード・サン=ロラン。母方の従兄で、この屋敷で書記と家庭教師を務めている人。
――レティシアの記憶が、私の中にある。
「クロード兄様……」
口が勝手に、その呼び方を選ぶ。
彼は泣き笑いのような顔でうなずいた。
続いて、白髪の老医師が入ってくる。侍医のベルナールだ。
彼は私の首を一瞥し、脈を取ってから、深いため息をついた。
「喉の腫れは数日で引きましょう。しかしお嬢様、二度とこのような真似は」
「このような、って」
「ご自分で首を吊られたのです。梁に縄をかけて」
自分で?
老医師はそれ以上何も言わず、鞄を閉じた。
戸口には、もう一人いる。紺の侍女服を着た、私と同じ年頃の娘。マルトだ。
彼女は一歩も中に入らず、冷えた目で私を見ていた。心配の色はどこにもない。
むしろ――死に損なったのか、と言いたげな目。
騎士が淡々と告げる。
「本日より監視を強化する。扉は昼夜開けておく。紐、帯、刃物、割れる器はすべて撤去。食事は騎士の立会いで取ってもらう」
「待って、私は」
「机の上に遺書があった。あなたの筆跡で、罪を悔いる内容だ。弁明なら法務院で済んでいる」
彼はそれだけ言うと、部下に指示を出すため廊下へ出ていった。
マルトが無言で近づき、私の寝間着から腰紐を抜き取っていく。
*
「少し休んで、レティ。僕は扉のそばにいるから」
クロードが部屋を出ると、ようやく静けさが戻った。
開け放たれた扉の向こうに、騎士の背中が見える。
私は膝を抱え、頭の中を整理した。
日本で働いていた私の名前は、水瀬灯。二十六歳。
最後の記憶は、終電を降りたあとの夜道と、鞄の中にあった読みかけの最終巻の重さだ。
そこから先は、ない。
そして今、私は『白百合の杯』の悪役令嬢になっている。
原作の事件は覚えている。
春の茶会で、第二王女リュシー殿下が毒を飲んで亡くなった。
主催者はレティシア。彼女の部屋から毒の瓶が見つかり、王女を脅す手紙まで出てきた。
婚約者だった王太子アルベール殿下にも見放され、レティシアは死刑を言い渡される。
でも、レティシアは犯人じゃない。
最終巻の冒頭で、作者ははっきりそう書いていた。
問題は、その先だ。
真犯人の名前が出てくる解決編を、私は半分しか読めていない。
「……思い出して」
額に手を当てる。
ヒロインのミレイユが、真相に気づく場面があったはずだ。
白い杯。誰かの台詞。『犯人は、いちばん近くにいた人』――。
そこで、記憶は霧のように途切れてしまう。
レティシア自身の記憶をたどっても、同じだった。
十二日前、茶会の日の午後だけが、すっぽりと抜け落ちている。
朝に温室で花を選んだことは覚えている。その次は、もう夜。王女が亡くなったと聞かされ、騎士たちが部屋を荒らしていた。
もう一つ、原作の一文が浮かんだ。
『レティシア・ヴァルモンは、処刑の日を迎えることなく死んだ』
たった一行。読んだときは、悪役の退場なんてそんなものかと流していた。
背筋が冷える。
その一行は――今夜のことではないのか。
原作のレティシアは、ここで死んでいた。そして、私が目を覚ました。
*
昼過ぎ、騎士が食事の盆を持って戻ってくる。
ジルベール・ロシュ。王宮騎士団から遣わされた、私の監視責任者だと、レティシアの記憶が教えてくれる。
「ロシュ卿。お願いがあります」
「脱走の相談なら聞かない」
「遺書を見せてください」
彼の眉が、わずかに動く。
「自分で書いたものを、なぜ見る必要がある」
「書いた覚えがないからです」
沈黙が落ちた。
灰色の目が、私の顔を探るように見つめてくる。嘘をつく人間の表情を、何度も見てきた目だ。
「証拠品は渡せない」
「読み上げてくださるだけでいいです。触りません」
彼は少し考え、懐から紙片を取り出した。写しらしい。
「……『父上、そして王家の皆様へ。わたくしは罪の重さに耐えられません。リュシー殿下にお詫びするため、自らの手で幕を引きます。レティシア』」
読み上げる声は、冷たく平坦だった。
私は目を閉じ、その言葉を頭の中で繰り返す。
レティシアは気位が高く、謝罪の手紙などほとんど書いたことがない。
けれど、それだけで偽物だとは言えないだろう。死を前にした人間なら、別人のような文章を書いてもおかしくはない。
それでも、何かが引っかかる。
録音した自分の声を聞いたときのような、ずれ。
「満足したか」
「……ありがとうございます。もう一つだけ。私を最初に見つけたのは、誰ですか」
「サン=ロラン殿だ。物音を聞いて私が駆けつけたとき、彼がすでに縄を切っていた」
ジルベールは写しを懐に戻した。
「同情を引くつもりなら、相手を間違えている。私の仕事は、あなたを七日後の正午まで生かしておくことだけだ」
扉の外へ戻る背中に、迷いは少しもなかった。
*
夜。
廊下の燭台の光が、開いた扉から細く差し込んでいる。
眠れずに天井を見上げていると、首の傷が脈打つように痛んだ。
七日。
あと七日で、私はこの首を刃の下に差し出す。
逃げる? 無理だ。屋敷の門をくぐる前に捕まる。
弁明する? 判決はもう出ている。
なら、残る道は一つしかない。本当の犯人を見つけること。
目を閉じる。
まぶたの裏に、暗い天井がぼんやりと浮かんだ。レティシアの記憶だ。
体が鉛のように重く、指一本動かせない。
甘い香りがする。誰かが、寝台のそばに立っている。
首に、ざらついたものが触れた。
そして耳元で、誰かが囁いた。
『――ごめんね』
私は跳ね起きた。
心臓が、肋骨を内側から殴っている。
あれは夢じゃない。
縄が首にかかる直前、確かに誰かがそこにいた。
私は、自分で死のうとしたんじゃない。
誰かに、殺されかけたのだ。
廊下の向こうで、夜番の騎士が交代する足音が響く。
処刑まで、あと七日。
私を殺そうとした誰かは、きっと、まだこの屋敷の中にいる。




