判決の日
法務院の公開法廷は、石造りの、高い天井を持つ広間だった。
傍聴席の最前列に、私は座っていた。
右隣に、ジルベール。左隣に、父と母。一列うしろには、ミレイユとイザベルが、肩を寄せ合うように並んでいる。
広間の空気は、張りつめていた。
窓から差し込む朝の光が、床の大理石に、白い四角を落としている。それが、やけに眩しく見えた。
「静粛に」
木槌の音が、一度、響く。
正面の壇上に、黒い法衣の裁判長が、着席した。
「これより、クロード・ド・サン=ロラン被告人に対する、審理を開始する」
扉が、開く。
二人の衛兵に挟まれて、クロードが、入ってくる。
手枷は、外されていた。けれど、歩幅は小さく、肩は細い。以前よりも、頬が削げている。
ただ、背筋だけは、まっすぐに伸びていた。あの人は、昔から、そういう人なのだ。
彼は、被告人席の前で、立ち止まった。
そして、一瞬だけ、傍聴席に、視線を向ける。
私と、目が合う。
ほんの、短い間のことだった。彼は、かすかに、頭を下げてみせる。
私も、頷き返した。それだけで、十分だと思う。
*
検察官の、朗読が始まった。
罪状は、ふたつ。
第二王女リュシー殿下の、杯に、毒を仕込んだこと。そして、その罪を、侯爵令嬢レティシア・ド・ヴァルモンに、着せようとしたこと。
聞いているうちに、手のひらに、爪が食い込んでいた。
気づいて、力を抜く。すると、隣から、そっと、大きな手が重なった。
ジルベールは、前を向いたまま、何も言わない。
けれど、手のぬくもりだけで、ここにいる、と伝わってくる。私は、深く、息を吸った。
「被告人。罪状に、異議はあるか」
裁判長の声が、広間に落ちる。
クロードは、ゆっくりと、顔を上げた。
「ありません」
低い声だった。けれど、広間の隅まで、よく届く。
「すべて、私が、行いました。リュシー殿下の死は、私の罪です。そして、無実のレティシア様を、陥れようとしたことも、私の罪です」
傍聴席が、ざわめく。
裁判長が、木槌で、それを制した。
「動機を、述べなさい」
「……長い話になります」
「構わん。述べなさい」
クロードは、一度、目を閉じた。
それから、ゆっくりと、語り始めた。
家が没落しかけていたこと。ヴァルモン家の庇護がなければ、いずれ、すべてを失うと、思い詰めていたこと。そして、いつからか、その庇護を与えてくれる人たちの、傍にいるのが、苦しくなっていった経緯を。
感謝と、劣等感と、焦りが、澱のように、積もっていった。
それが、やがて、取り返しのつかない形で、噴き出した。
「言い訳を、するつもりはありません」
彼は、そう結んだ。
「私が、弱かった。それだけです」
広間が、静まり返った。
誰も、咳ひとつ、しない。
*
続いて、証人が、呼ばれる。
最初に立ったのは、父だった。
証言台の前で、父は、まっすぐに、裁判長を見据えた。
「ヴァルモン侯爵として、申し上げる」
その声は、驚くほど、落ち着いていた。
「被告人の罪は、重い。それは、疑いようがない。だが、私は、あの子を、十年、見てきた。あの子の、よい面も、悪い面も」
「侯爵閣下。嘆願書の、趣旨は」
「減刑を、求めたい。命を、奪うことだけは、避けていただきたい。……私の、娘が、生きて、ここにいる。だからこそ、言える」
父は、一度、こちらを見た。
私が、小さく、頷くと、父の目に、光るものが浮かぶ。
次に、アルベールの名が、呼ばれた。
王太子は、壇の前に進み、深く、息を吸った。
「私は、被害者の兄として、ここに立っている」
広間が、どよめく。
けれど、彼は、動じない。
「妹を失った悲しみは、今も、癒えていない。この男を、憎んだ夜も、あった。だが、レティシア嬢が、私に、教えてくれた。真実を、知ることの意味を。憎しみだけで、人を裁いてはならない、ということを」
アルベールは、拳を握って、続けた。
「妹は、人を恨む子ではなかった。もし、この場にいたなら、きっと、こう言うだろう。もう、これ以上、誰も失いたくない、と。……減刑を、お願い申し上げる」
言い終えると、彼は、静かに、一礼した。
その背中は、私の知っている、どの時よりも、堂々として見える。
*
休廷のあと、再び開かれた法廷で、裁判長は、被告人に、最後の発言を許す。
クロードは、しばらく、黙っていた。
窓の外で、鳥が、ひと声、鳴く。
「ひとつだけ、お願いがあります」
「述べなさい」
「どんな判決であっても、レティシア様には、何の責めも、及ばないことを、記録に残していただきたい。あの方は、最初から最後まで、潔白でした。私が、そう、保証します」
裁判長は、頷いて、書記官に、目配せをした。
ペンの走る音が、広間に、かすかに響く。
「記録した。……他には」
「ありません」
クロードは、そう言って、静かに、目を閉じた。
祈るようにも、眠るようにも、見える顔だった。
短い休廷の後、裁判長が、ふたたび、壇上に戻る。
「被告人、クロード・ド・サン=ロラン」
名を呼ばれて、クロードが、立ち上がる。
「王女殿下の殺害、および、侯爵令嬢への冤罪の画策。いずれも、極めて重大である。本来であれば、極刑に値する」
心臓が、ひとつ、大きく鳴る。
隣の手が、ぎゅっと、私の手を握った。
「しかしながら、被告人は、自ら罪を認め、すべてを供述した。また、被害者遺族である、王太子殿下、ならびに、冤罪の被害者の家門である、ヴァルモン侯爵家をはじめとした、三通の嘆願書を、斟酌する」
裁判長は、一拍、置いた。
「よって、極刑は、これを免ずる。被告人を、北の修道牢にて、二十年の拘禁に処す。刑期を終えた後は、王都への立ち入りを、永久に禁ずる」
息が、止まった。
それから、ゆっくりと、吐き出す。
――生きる。
この人は、これからも、生きていく。
安堵が、全身に広がって、膝の力が、抜けそうになる。
母が、私の背中を、そっと支えてくれた。
クロードは、しばらく、動かずにいる。
それから、深く、深く、頭を下げた。
「……謹んで、お受けいたします」
声が、かすかに、震えていた。
裁判長が、木槌を打つ。
「閉廷」
人々が、ざわざわと、動き始める。
ミレイユが、後ろから、私の肩に、手を置いた。イザベルは、目に涙を溜めたまま、小さく、頷いている。
衛兵に連れられて、クロードが、退廷していく。
扉の前で、彼は、もう一度、こちらを振り返った。
唇が、動いた。
声は、聞こえない。けれど、はっきりと、読み取れた。
――ありがとう。
私は、立ち上がって、深く、頭を下げる。
顔を上げたときには、扉は、もう、閉まっていた。
*
法廷を出ると、廊下の窓から、昼の光が、あふれている。
人の波の向こうから、アルベールが、歩み寄ってきた。
「レティシア。……よく、耐えた」
「殿下こそ。あの証言は、きっと、リュシー様にも、届きました」
「そうだといい」
彼は、ふっと、肩の力を抜いて笑った。
「来週にも、また、墓参りに行く。判決の報告を、したいんだ」
「お供します。白い百合を、持って」
「ああ。頼む」
アルベールは、会釈をして、人混みに紛れていった。
階段の途中で、足が、止まる。
すると、ジルベールが、少し後ろで、立ち止まった。
「大丈夫か」
「はい。……少し、ほっとして」
目の奥が、熱い。
こらえようとしたのに、一粒だけ、頬を伝って、落ちた。
ジルベールは、何も言わずに、白い布を、差し出した。
受け取って、目元を押さえる。布からは、うっすらと、北の茶葉の香りがした。
「ずるい」
「何が」
「そんな匂いが、したら、余計に、泣いてしまいます」
彼は、短く、息を、漏らした。
それが、笑ったのだと、分かるまでに、一拍かかった。
「泣いていい。今日は」
「……はい」
私は、布に顔を埋めて、しばらく、そのまま立っていた。
階段の下では、ミレイユとイザベルが、父と母に、挨拶をしている。アルベールも、遠くから、こちらに向かって、軽く手を上げている。
長い戦いが、ようやく、終わったのだ。
そう、実感したのは、そのときだった。
窓の外の空は、どこまでも、青く澄んでいる。
「レティシア」
呼ばれて、顔を上げる。
ジルベールが、窓の光を背に、立っていた。
「約束を、覚えているか」
「お茶、ですね。北の茶葉で」
「ああ。……今日は、さすがに疲れただろう。明日でも、構わない」
「いいえ」
私は、涙を拭いて、少し、笑ってみせた。
「今日が、いいです。今日の、この気持ちのまま、あなたと、お茶が飲みたいので」
ジルベールは、一瞬、言葉に詰まったように見えた。
それから、ゆっくりと、頷く。
「分かった。では、屋敷まで、送ろう」
並んで階段を下りる。
靴音が、石の床に、ふたつ重なって、軽やかに、響いた。
外へ出ると、初夏の風が、頬を撫でる。ガスパールの焼き菓子の匂いまで、もう、そこまで届いている気がした。




