審理の前夜
ミレイユとイザベルを招いたお茶会は、それから十日後の、よく晴れた午後に開かれた。
場所は、母の温室だ。
ガラス張りの天井から、やわらかな光が降り注ぎ、白い百合と、淡い色の薔薇が、鉢の中で競うように咲いている。丸い卓には、ガスパールが腕をふるった、焼き菓子と、果物のタルトが、並んでいた。
「まあ……」
ミレイユは、入口で足を止めて、目を輝かせた。
「温室で、お茶ができるなんて。夢のようです」
「母の、自慢の場所なの。今日は、特別に、貸してもらいました」
「本当に、素敵ですこと」
イザベルも、いつもの凛とした顔を、ほんの少し、ほころばせる。
最初は、扇を持つ手が、わずかに固い。けれど、席についてしばらくすると、肩の力が、すうっと抜けていった。
「それにしても、レティシア様」
タルトを、一口、食べたところで、イザベルが、含み笑いをした。
「近頃、法務院に、毎日のように、通っていらっしゃるそうですね」
「通ってはいません。書類を、届けに行くだけです」
「毎日、届ける書類が、あるのですか」
「……あります。たくさん、あるのです」
ミレイユが、堪えきれずに、くすくすと笑い出した。
「実は、わたしも、噂を聞きました。法務院の廊下で、背の高い調査官様が、毎朝、同じ時刻に、窓の外を見ている、と」
「それは、仕事熱心なだけでは」
「窓の外は、侯爵家の方角らしいですよ」
顔が、一気に熱くなる。
卓の上のカップを、両手で包んで、必死にごまかした。けれど、ふたりの目は、逃がしてくれない。
「もう、からかわないでください」
「からかってなど、おりません。ただ、うれしいのです」
イザベルが、意外なほど、まっすぐな目で、言った。
「あなたが、幸せそうで。……私は、あなたを、傷つける側に、立ってしまいましたから。余計に」
「イザベル様」
「また、そのうち、きちんとお話しします。今日は、お茶をいただく日ですもの」
彼女は、そう言って、照れたように、紅茶を口に運んだ。
その横顔に、以前のような、棘は、もう、なかった。
ミレイユが、膝の上から、小さな包みを取り出した。
「これを、お渡ししたくて。わたしの、実家の領地で採れた、はちみつです。体に、いいので」
「ありがとう。大切にいただきます」
「わたくしは、これを」
イザベルが、差し出したのは、深い藍色の、リボンだった。
「リュシー殿下が、生前、よく身につけておられた色です。お墓参りの日、あなたの髪に、似合うと思いまして。……もし、ご迷惑でなければ」
私は、リボンを、そっと、受け取った。
指先に、絹の冷たさが、すべる。それから、そのリボンを、自分の髪に、結んでみせた。
「どうですか」
「とても、よくお似合いです」
ふたりが、同時に、答えてくれる。
私は、笑って、温室の窓ガラスに、自分の姿を映してみた。藍色のリボンが、光を受けて、深く、揺れている。胸の奥が、ふわりと軽くなった。
温室の隅で、小さな鳥が、ちゅん、と鳴いた。
母が、前の日に、餌台を置いていたのだ。三人の笑い声が、緑の葉の間に、ほどけていく。
その日の別れ際、ミレイユが、私の手を、そっと握った。
「審理の日は、わたしたちも、傍聴席に、参ります」
「無理をしないでください。つらい場面に、なるかもしれません」
「だからこそ、です。あの方が、どんな顔で、裁かれるのか。見届けるのが、わたしの、役目のような気がして」
静かな声だった。
けれど、その奥に、強い芯が、通っていた。
*
審理の前日。
法務院から、屋敷に、一通の封書が届いた。
差出人の欄に、見覚えのある、几帳面な文字があった。
クロード・ド・サン=ロラン。
「お嬢様」
マルトが、封書を、両手で、差し出す。
その表情は、ためらいと、気遣いで、揺れていた。
「検閲は、済んでいるそうです。ロシュ様が、わざわざ、届けてくださいました。読むかどうかは、お嬢様の、ご自由にと」
「……ありがとう、マルト」
私は、封書を、受け取った。
薄い。便箋が、一枚か、二枚か。その軽さが、かえって、胸に重かった。
自室の窓辺で、封を切る。
『レティシア様
最後に、お別れをしてから、毎晩、あなたのことばかり、考えておりました。
いえ、正確には、あなたに、書きかけては、破り捨てた、手紙の枚数を、数えていたのです。
その数が、四十を超えたところで、ようやく、短くまとめる術を、覚えました。
明日の審理では、すべてを、ありのままに、お話しします。
隠すことも、飾ることも、いたしません。
私の罪は、私のものです。どうか、あなたが、背負わないでください。
ただ、ひとつだけ。
あなたの無実が、証明された日、私は、牢の中で、泣きました。
安堵と、後悔と、どちらの涙だったのか、自分でも、分かりません。
けれど、あなたが、生きて、あの日の光の中に、立っていると知ったとき、ようやく、息ができた気がしたのです。
どうか、お幸せに。
あなたを、一番近くで見てきた者として、それだけを、祈っております。
クロード』
読み終えたあとも、しばらく、動けなかった。
窓の外では、風が、庭の木を、静かに、揺らしている。
私は、便箋を、折り目どおりに畳んで、封筒に戻す。
涙は、出なかった。出る代わりに、胸の奥で、重いものが、ゆっくりと、位置を変えたような気がする。
許す、とも、許さない、とも、言えない。
けれど、この人が、確かに、私の兄のような存在だった時間は、嘘ではなかった。それだけは、はっきりと、思う。
返事を、書こう、と思った。
短く。飾らずに。明日の審理の、あとで。
*
その夜、眠れずに、庭へ出た。
月が、高い。
芝生の上に、淡い影が落ちて、噴水の水音だけが、静かに響いている。
「眠れないのか」
背後から、声がした。
振り向くと、ジルベールが、門の方から、歩いてきたところだった。外套の肩に、夜露が、光っている。
「どうして、ここに」
「通りかかった」
「真夜中ですよ」
「真夜中に、通りかかる予定だった」
私は、吹き出した。
彼も、ほんの少しだけ、口の端を上げる。この人の冗談は、やはり、遅れて分かる。
「クロードの手紙、読みました」
「そうか」
「……お願いが、あります」
「何でも」
「明日、傍聴席の、隣に、いてくれますか」
ジルベールは、答えなかった。
代わりに、私の隣に、並んで立つ。肩が、触れそうで、触れない距離。
「最初から、そのつもりだった」
「勝手に、決めていたんですね」
「ああ。許可は、取らなかった」
「怒りません」
沈黙が、降りた。
噴水の水が、月明かりを、砕いて、きらきらと散らす。
やがて、彼の手が、そっと、私の手に、触れた。
握る、というほど強くはない。ただ、指先が、重なっている。それだけなのに、鼓動が、耳の奥で、うるさいほど鳴った。
「明日の見通しを、聞いてもいいですか」
「ああ」
彼は、噴水の縁に、腰を下ろして、淡々と、話し始めた。
「罪状は、動かない。王女殿下の杯に毒を仕込んだ件と、あなたに罪を着せようとした件。どちらも、本人が、認めている」
「はい」
「ただ、量刑には、幅がある。最も重ければ、極刑。最も軽くても、長期の拘禁は、免れない。嘆願書の数と、本人の供述態度が、どちらに傾けるかを、決める」
「……三通の嘆願書は、効きますか」
「効く。特に、被害者の兄である、殿下のものが」
ジルベールは、そこで一度、言葉を切った。
「どんな結果になっても、あなたの責任ではない。それだけは、先に言っておく」
「はい。覚えておきます」
私は、小さく頷いた。
「怖いか」
「少しだけ。でも、昨日までの怖さとは、違います」
「何が違う」
「ひとりで、立っていなくて、いいから」
彼は、何も言わない。
ただ、重ねた指先に、ほんのわずか、力が込められた。
夜風が、百合の香りを、運んでくる。
明日、すべてが、決まる。けれど今は、この静けさが、少しだけ長く続けばいい。そう、願った。
ふと、屋敷の二階の窓に、目をやる。
カーテンの隙間に、人影が、ふたつ並んでいた。ひとつは、寝間着姿の母。もうひとつは、腕を組んだ、父だ。
目が合うと、ふたりは、慌てて、カーテンの陰に、引っ込んだ。
「……見られていましたね」
「ああ。侯爵閣下が、先ほどから、窓辺で、咳払いをしていた」
「気づいていたんですか」
「最初から」
私は、肩を揺らして、笑ってしまう。
つないだままの指先は、離さずにおいた。離したくない、と思う。それが、不思議と、少しも恥ずかしくない。
「ジルベール」
「何だ」
「明日が終わったら、お茶を、また淹れます。あの北の茶葉で」
「……楽しみにしている」
短い約束だった。けれど、その一言で、明日のあとに続く時間が、はっきりと、目に見える気がした。
月は、ゆっくりと、西へ傾いていく。
夜が明ければ、審理の朝が来る。




