十八番目
屋敷に戻ると、談話室には、すでに茶の席が整えられていた。
ガスパールが、人数分のカップを並べながら、澄ました顔で言う。
「本日は、旦那様も奥様も、温室に、お出かけです。夕食まで、お戻りにならないそうです」
「ずいぶん、気の利いた、ご予定ですね」
「お二人とも、そうおっしゃっておりました」
絶対に、嘘だ。
けれど、私は、何も言わずに、礼を述べた。ジルベールも、耳をほんのり赤くしたまま、黙って椅子に座る。
北の茶葉の缶を、開ける。
青い草原のような、香りが、ふわりと広がった。湯を注ぐと、淡い緑色の湯気が、ゆらゆらと、窓の光に溶けていく。
「どうぞ」
「ありがとう」
カップを受け取るジルベールの指が、今日も、少しだけぎこちない。
その様子を見ているだけで、胸の奥が、ゆるゆると、ほどけていった。
ふたり、しばらく、黙って飲んだ。
窓の外では、風が、庭の若葉を、さらさらと鳴らしている。
「……いい、お茶ですね」
「母が、好きだった」
「今度、お母様のお話を、聞かせてください」
「ああ。つまらない話だが、それでもいいなら」
「つまらなくても、聞きます」
彼は、少し驚いたように、こちらを見た。
それから、カップを置き、懐から、一冊の手帳を取り出す。見覚えのある、黒い革の表紙だった。
「それは」
「あなたの、無実を、記録した手帳だ」
卓の上に、そっと、置かれる。
開かれた頁には、几帳面な字で、十七の項目が、並んでいる。
「十七で、足りた。あなたの無実は、すでに、認められている。だから、この手帳は、もう、役目を終えている」
「はい」
「だが、私は、十八番目を、探すと言った」
ジルベールは、ペンを、取った。
そして、十七番目の下に、一行、書き足す。私は、息を詰めて、それを見つめた。
『十八、レティシアが、笑って暮らせる日々を、守ること』
文字が、滲んで見えた。
慌てて、まばたきをする。それでも、涙が、ひとつ、頁に落ちそうになって、彼の指が、そっと、それを、受け止めた。
「証明する、というのは、過去の話だ。過去は、もう、証明された」
「はい」
「十八番目は、未来の話だ。……これから、私が、一生かけて、書き足していく」
言葉が、出てこなかった。
代わりに、心臓の音だけが、耳の奥で、大きく響く。
「レティシア」
「……はい」
「好きだ」
たった、三文字の言葉だった。
これまで聞いたどんな言葉よりも、まっすぐに、胸の真ん中へ、飛び込んでくる。
「監視役として、あなたに会った日から、本当は、ずっと、目が離せなかった。罪人と呼ばれながら、背筋を伸ばして、立つ姿。それを、守りたいと思ったんだ」
「ジルベール」
「侯爵閣下には、改めて、きちんと、挨拶に伺う。だが、その前に、あなたの返事が、聞きたい」
私は、息を吸った。
吐き出す息と一緒に、ずっと胸に抱えていた言葉が、こぼれる。
「私も、です」
「……」
「私も、あなたが、好きです。いつからなのか、自分でも、分かりません。気がついたら、あなたの足音を、探していました」
ジルベールの肩が、かすかに、揺れた。
彼は、顔を片手で覆って、深く、息を、吐く。
「よかった」
「ふふ。……大げさです」
「いや。心臓が、止まるかと思った」
「冗談を言うときは、笑ってください」
「冗談では、ない」
真顔のまま、そう答える彼がおかしくて、とうとう、声を出して笑ってしまった。
彼も、つられたように、ほんの少しだけ、口の端を上げる。
窓から差し込む光が、卓の上の手帳を、あたたかく照らす。
*
夕食の席に、父と母が、ようやく戻ってきた。
食卓には、ジルベールの席も、用意されている。ガスパールが、さも当然のように、そう手配していた。
食事の途中で、ジルベールは、ナイフとフォークを置いた。
「侯爵閣下。折り入って、お願いが、ございます」
父の手が、ぴたりと止まる。
母は、口もとを押さえて、窓の方を向いた。肩が、小さく、震えている。
「……何かね」
「レティシア嬢との、お付き合いを、お許しいただきたい。正式な求婚は、事件の整理が、すべて終わってから、改めて、お願いいたします。まずは、あなたの娘の傍に、いる許可を」
長い、沈黙が、落ちた。
父は、ゆっくりと、咳払いをして、ワインを、一口、含んだ。
「ロシュ君」
「はい」
「君が、毎日、うちの前を、通りかかっていることは、知っている」
「……恐縮です」
「窓から見ていて、首が、痛くなった」
私は、思わず、吹き出しそうになった。
母は、とうとう、声を出して、笑い出す。
「あなた。もう、よろしいでしょう」
「む。……分かっている」
父は、そこで、姿勢を正した。
「娘を、頼む。ただし、泣かせたら、承知しないぞ」
「肝に銘じます」
ジルベールは、立ち上がって、深く、頭を下げた。
父は、そっぽを向いたまま、目の端を、そっと、拭っている。
*
その夜遅く、私は、クロードへの返事を、したためる。
『クロード様
お手紙、確かに、受け取りました。
あなたを、許すとは、まだ言えません。けれど、あなたと過ごした十年が、嘘だったとも、思いません。
北の修道牢は、寒いと聞きます。どうか、お体を、大切に。
二十年のあと、あなたが、どんな人になっているのか、遠くから、想像しています。
私は、幸せになります。
あなたが、祈ってくださったとおりに。
レティシア』
封をして、蝋に、指輪の紋章を、押す。
赤い印が、きれいに、浮かび上がった。
*
数日後。
私は、白い百合の花束を抱えて、ふたたび、あの丘を訪れた。
今日は、三人だった。
アルベールと、ジルベール、それから、私。
丘の風は、初夏の匂いを、運んでくる。
白い碑のまわりには、小さな野の花が、また、いくつも増えていた。
アルベールが、碑の前に、膝をつく。
「リュシー。……判決が、出たよ」
声は、穏やかだった。
「あの男は、生きて、償うことになった。私は、それでいいと、思っている。おまえなら、そう言うだろう?」
風が、花束の百合を、ふわりと、揺らした。
返事のように、思えた。
ジルベールも、碑の前に、膝を折る。
「殿下。私は、あなたの死を、数字と記録でしか、見ていませんでした。遅くなりましたが、ご挨拶に参りました」
彼は、持参した小さな花束を、碑の足もとに、そっと置いた。
それから、少しだけ、声を落とす。
「あなたのお姉様を、これから先、私が、お守りします。どうか、見ていてください」
隣で、息が、止まった。
私は、顔を上げられない。耳まで、熱くなっているのが、自分でも、分かる。
アルベールが、くすりと笑った。
「やれやれ。妹の墓前で、堂々と、宣言されるとは」
「失礼いたしました」
「いや。……いい。リュシーも、喜んでいる」
彼は、立ち上がって、私たちを、ゆっくりと見渡した。
「レティシア。君は、本当に、強くなった。……いや、もともと、強かったのだな」
「いいえ。みんなが、いてくれたからです」
「そうか。それなら、私も、その『みんな』に、入れてもらえるだろうか」
「もちろんです。リュシー様の誕生日には、三人で、百合を持って、まいりましょう」
「それは、楽しみだ。……ミレイユ嬢とイザベル嬢も、誘っていいだろうか」
「ええ、きっと、喜びます」
私は、笑って答えた。
アルベールも、ほんの少し、目を細めて、笑ってくれた。
白い碑に、三人の影が、並んで伸びる。
丘の下には、王都の屋根が、夕日に染まって、ひろがっていた。
*
思えば、私は、七日後に処刑される、悪役令嬢として、目を覚ました。
見知らぬ天井。見知らぬ身体。
逃げようにも、もう、遅かった。だから、犯人を探すしかなかった。
必死に、手がかりを集めて、疑われて、泣いて、それでも、前を向いて。
そうして、気がつくと、たくさんの人が、私の傍に、立ってくれていた。
――ねえ、リュシー様。
――本物のレティシアも、きっと、どこかで、見ていてくれたよね。
心の中で、そう、呼びかける。
返事は、ない。けれど、風が、頬を、やわらかく撫でていった。
「帰ろうか」
ジルベールが、そっと、手を差し出す。
私は、少しも迷わずに、その手を、取った。
丘を下りる道は、夕焼けの光で、金色に輝いていた。背後から、アルベールの軽い足音も、ついてくる。三人分の影が、道の上で、ゆっくりと重なった。
明日も、この人と、お茶を飲もう。ガスパールの焼き菓子と、北の茶葉と、遅れて分かる冗談と一緒に。
これから、長い、長い、日々が、続いていく。
ミレイユとは、毎月、温室でお茶をするだろう。イザベルは、きっと、扇で口もとを隠しながら、また、からかってくるに違いない。ガスパールの焼き菓子は、少しずつ、種類が増えていくはずだ。
その一日一日に、私は、笑って、生きていく。
そうして、悪役令嬢の物語は、静かに、幕を閉じた。




