家督の指輪
ヴァルモン邸の門が見えてきたとき、馬車の窓から、背の高い人影が、目に入った。
鉄の門柱の、すぐ脇。
濃紺の外套を着たジルベールが、腕を組んで、立っている。
「……本当に、いらした」
思わず、声に出てしまった。
隣に座っていたマルトが、くすりと笑う。
「お嬢様、顔が、赤いですよ」
「夕日のせいです」
「はい、はい。夕日のせいですね」
マルトは、澄ました顔で、窓の外を見た。
馬車が止まると、ジルベールが、扉を開けてくれた。
差し出された手に、私は、少しだけ迷ってから、自分の手を、重ねる。
「お帰りなさい」
「……ただいま戻りました。ここで、何をなさっているんですか」
「監視任務は、解かれた。だが、辞令が出るまで、数日、時間がある」
彼は、真顔で、そう言った。
「その間、あなたの屋敷の前を、通りかかる予定だ」
「毎日ですか」
「毎日、通りかかる予定だ」
吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。
この人は、冗談を言うとき、少しも笑わない。だから、いつも、遅れて分かる。
「墓参りは、どうだった」
「皆さんが、来てくださいました。イザベル様とも、友人に、なれそうです」
「そうか」
彼は、短く、頷いた。
それから、少しだけ、目を細める。
「よかった」
その一言が、思いのほか、深く胸に響いた。
外套の襟に、白い花びらが、一枚、ついていた。門の脇の、庭木から、落ちたものだろう。それを、払うことも、忘れて、待っていてくれたのだと思うと、胸の奥が、くすぐったくなった。いつから、そこに、立っていたのだろう。
墓参りの話を、もっと聞いてほしい、と思う。けれど、今夜は、先に、会わなければならない人がいる。
「ジルベール様。今夜は、父と、大事な話があります」
「承知している。邪魔はしない」
「……明日の朝、お茶を、飲みにいらっしゃいませんか。ガスパールが、焼き菓子を、用意すると言っていました」
自分でも驚くほど、すんなりと、言葉が出た。
ジルベールは、ほんの一瞬だけ、目を瞬かせた。
「……喜んで」
その声が、かすかに、かすれていた。
私は、会釈をして、門をくぐった。背中に、視線を、感じる。振り向きたい気持ちを、必死に、こらえているところだ。
玄関の広間では、ガスパールが、待ち構えていた。
「お嬢様。お帰りなさいませ」
「ただいま、ガスパール。……その、にやにやした顔は、何ですか」
「いえいえ。ロシュ様が、昼からずっと、門の前で、お待ちでしたもので。見かねて、お茶をお出ししようとしたのですが、勤務中ですので、と、お断りになりまして」
「昼から」
「はい。そのわりに、三度も、時計を、ご覧になっておりました」
ガスパールは、わざとらしく、咳払いをする。
両手で、頬を、押さえるほか、なかった。
*
その夜の晩餐は、驚くほど、穏やかなものになった。
母は、温室の話を、少しだけ、してくれる。
今年は、百合の咲くのが、早い。墓参りに、持っていけて、よかった。そんな、他愛もない話を、穏やかに、続けてくれる。
父は、ほとんど、口を開かなかった。
ナイフとフォークを、動かす手は、ゆっくりで、時々、止まる。私の顔を見ては、また、皿に、目を落とす。
食事が終わると、父が、ようやく、言った。
「レティシア。書斎に、来なさい」
母が、そっと、私の背中に、手を添えた。
「行っておいで。ずっと、あなたに、話したかったのよ。あの人」
書斎の扉を、開ける。
暖炉の火が、ぱちぱちと、小さく鳴っていた。父は、窓際の椅子に、深く腰かけている。机の上には、ひとつの小箱が、置かれていた。
「座りなさい」
私は、向かいの椅子に、腰を下ろした。
「今日の昼、クロードに、会ってきた」
胸が、小さく、揺れた。
「……そうでしたか」
「療養棟の、面会室だ。看守が、扉の外に、立っていた。私と、あの子は、二人きりで、話した」
父は、組んだ両手を、じっと、見下ろす。
「あの子は、私の顔を、見るなり、立ち上がって、頭を下げた。そして、ひとこと、申し訳ありません、と」
「お父様」
「私は、答えられなかった。あの子の父、ラザールは、妻の兄であり、私の、親友でも、あった。その息子を、私は、どう見ていたのか。ずっと、見ようとしなかったのだ」
声が、低く、震えている。
「十年も、同じ屋敷で、顔を合わせてきた。あの子が、何を抱えていたか、私は、一度も、尋ねなかった。娘を、守るつもりで、実は、目を逸らしていただけだった」
「お父様だけの、責任では、ありません」
「それでも、私の責任だ」
父は、顔を上げた。
目の縁が、赤くなっている。
「私は、あの子に、言った。罪は、罪として、償わなければならない。だが、私は、嘆願書に、署名する、と」
「嘆願書に」
「法務院に、減刑を、求める書面だ。侯爵として、被害者の、家族として。……いや、被害者の、家族かどうかは、もはや、分からん。だが、私の名で、出す」
私は、思わず、立ち上がっていた。
「ありがとうございます。お父様」
「礼を言われる資格は、ない。ただ、あの子の命まで、失いたくない。それだけだ」
「ラザール様も、きっと、そう願っておられます」
「……そうかもしれん。あいつは、息子の話になると、いつも、照れくさそうに、笑っていた。不器用な男でな。クロードは、そこだけ、父親に似た」
父は、ほんの少し、懐かしそうに、口もとを、ゆるめた。
父は、深く、ひとつ、息を、整えた。それから、机の上の小箱を、私の方へ、押しやる。
「開けなさい」
蓋を、持ち上げた。
中に、鈍い金色の、指輪が、入っていた。ヴァルモン家の紋章が、刻まれた、あの指輪だ。
「これは」
「家督の印だ。本来は、成人した跡取りに、渡すもの。おまえは、五月二十日の零時に、十八に、なっている。成人だ」
父は、ゆっくりと、言葉を、選ぶ。
「おまえを、殺人者の娘と、疑った人間たちが、いた。……疑った者の中に、私自身も、いた。その愚かさを、今日、この指輪を渡すことで、少しでも、償いたい」
「そんな」
「受け取ってくれるか」
指輪を、手に取る。
ずしりと、重かった。金属の重さではない。これまで、この家が、積み重ねてきた、年月の重さだった。
「……私で、よろしいのですか」
「おまえしか、いない」
迷いは、なかった。
私は、右手の薬指に、そっと、指輪を、はめた。少しだけ大きい。けれど、不思議と、手に馴染んだ。
「謹んで、お受けします。お父様」
「うむ」
父は、深く、息を、吐いた。
その肩から、長い間背負っていた、何かが、すとんと、落ちたように見えた。
「もうひとつ、話がある」
「はい」
「再審の日、おまえは、証言台で、私に向かって、頭を下げた。あのとき、私は、顔を、上げられなかった」
父の目から、一粒、涙が、こぼれた。
「おまえは、強くなった。いや、私が、知らなかっただけで、最初から、強かったのかもしれない。……すまなかった。そして、生きていてくれて、ありがとう」
私は、何も言えなかった。
ただ、父の傍へ、歩み寄って、その大きな手を、両手で、包んだ。
父の手は、少しだけ、冷たくて。
けれど、私の手の中で、少しずつ、温まっていった。
*
書斎を出ると、廊下の先に、母が、立っていた。
何も、聞かずに、ただ、私を、抱きしめてくれる。
「おかえりなさい、レティシア」
「ただいま、お母様」
母の肩越しに、窓の外を、見た。
夜空に、星が、いくつも、瞬いている。門の外に、もう、あの人は、いない。
けれど、明日の朝には、また、来てくれる。
そう思うだけで、不思議なほど、心が、落ち着く。
指輪が、廊下の灯りを、鈍く、跳ね返した。
*
自室に戻ると、マルトが、寝間着の支度を、整えて待っている。
「あら、お嬢様。その指輪」
「お父様から、いただきました。家督の印だそうです」
「まあ……」
マルトは、目を、丸くして、それから、ぱっと、顔を、輝かせた。
「旦那様が、ようやく。お嬢様、おめでとうございます」
「めでたいのかしら。重たいだけな気もするのだけれど」
「重たいのは、大事なものの証拠ですよ」
寝間着に着替えて、寝台の縁に、腰かける。
窓の外では、風が、庭木を、さわさわと、揺らしていた。
七日前の私は、毎朝、目を覚ますたびに、数を数えていた。処刑まで、あと何日、と。
今は、違う。数える代わりに、明日の朝のことを、考えている。ガスパールの焼き菓子と、お茶と、遅れて分かる冗談を言う人のことを。
指輪を、外して、枕もとの小机に、置いた。
明日からは、これをつけて、この家の主として、歩かなければならない。クロードの嘆願書のこと、王家との手続き、後見人だった神殿との、書類。やることは、山のようにある。
「……でも、まずは、お茶会からね」
そう呟くと、マルトが、背後で、小さく、笑った。
私は、布団に、潜り込んで、目を閉じた。




