白い碑の丘
リュシー殿下の墓所は、ヴェルディ神殿の裏手の、小さな丘の上にあった。
王家の墓所と聞いて、重々しい霊廟を想像していたのに、そこにあったのは、白い石の、小さな碑だった。
碑のまわりには、野の花が、自然に、咲き乱れている。誰かが、手入れをしているのだろう。足もとの草は、きれいに、刈りそろえられていた。
「ここは、リュシーが、自分で選んだ場所なんだ」
隣を歩くアルベールが、静かに、言った。
「王家の、立派な霊廟に、入るのは、窮屈だと言って。生前、神殿の司祭に、頼んでいた。いつか、この丘に、眠りたい、と。冗談のつもりだったのだろうけれど」
「……あの方らしいです」
私は、抱えていた、白い百合の花束を、そっと、握り直した。
母の温室で、今朝、摘んだものだ。ガスパールが、茎を、湿らせた布で、包んでくれた。
丘の風は、五月の終わりの、あたたかさを、含んでいた。
遠くに、王都の、屋根が見える。
「あ」
私は、足を、止めた。
碑の前に、先客が、いた。
灰青の外套の、小柄な人影。その隣に、背筋の伸びた、凛とした人。
ミレイユと、イザベルだった。
「……ご一緒に、と、思いまして」
ミレイユが、少し、恥ずかしそうに、微笑んだ。
「殿下が、お声をかけてくださったんです。今日、墓参りに、行くから、よければ、と」
「アルベール様が」
「約束だったからな」
アルベールが、少し、照れたように、言った。
「君が、望んだことだ。王家からの礼は、父上が、改めて、きちんと、述べる。だが、せめて、この場に、来てもらいたかった。リュシーも、きっと、喜ぶ」
イザベルは、扇を、握りしめたまま、うつむいている。
いつもの、堂々とした、彼女では、なかった。肩が、小さく、強張っている。
「イザベル様」
私が、声をかけると、彼女は、はっと、顔を上げた。
「……レティシア様」
「来てくださって、ありがとうございます」
「いいえ。……私は、感謝を、いただける立場では、ありませんの」
彼女は、深く、息を、吸った。
「再審の前に、法務院へ、提出した、あの、脅迫状。……私は、リュシー殿下の遺品を、整理していて、見つけたと、申し出ました。あれが、あなたを、追い詰める、材料になったことを、私は、知っておりました」
「イザベル様」
「疑問を、抱きながら、確かめもせず、出してしまった。……お詫びを、させてください」
彼女は、扇を、胸の前で、そっと、畳んだ。
そして、深々と、頭を、下げる。
私は、すぐには、答えなかった。
あの手紙を、見つけたのは、確かに、この人だった。けれど、再審の、天幕で、ミレイユの隣に、立っていたのも、この人だ。ためらいながらも、一歩、前へ、踏み出してくれた人でも、ある。
「顔を、上げてください」
「でも」
「あの手紙は、リュシー様の、遺品の中に、紛れていました。偽造した人は、別にいます。あなたは、それを、知らなかっただけ。……そして、最後に、証言台の、横に、立ってくださった」
イザベルの、肩が、揺れた。
「あなたが、いてくださって、心強かったです。本当に。……あのとき、あなたが、私に、顎を、引いて、うなずいてくれたこと。ずっと、忘れません」
「……そんな、大したことでは」
「私にとっては、大したことでした」
はっきりとそう言うと、イザベルは、目を、潤ませた。
それから、ふっと、いつもの、凛とした、顔に、戻る。
「……では、これからは、友として、お付き合い、願えるかしら」
「はい。喜んで」
私が、手を、差し出すと、彼女は、少し、戸惑いながらも、その手を、取った。
隣で、ミレイユが、嬉しそうに、両手を、胸の前で、重ねた。
「わたしも、お友達の、仲間に、入れてくださいね」
「もちろん。……ミレイユ様。あなた宛に、書いた、出さなかった手紙のこと、改めて、謝らせてください。あの頃の私は、本当に、子どもでした」
ミレイユは、ふふ、と、笑って、首を、振った。
「いつか、ちゃんと、読ませてくださいね。今のレティシア様の、お言葉で」
「……はい。きっと」
三人で、顔を、見合わせて、小さく、笑った。
それは、原作の物語には、決してなかった、光景だった。
*
碑の前に、花を、供える。
白い百合が、石の足もとで、風に、揺れた。
アルベールが、膝をつき、碑の表面を、そっと、撫でる。
「リュシー。来たよ。……今日は、おまえの、大好きだった、レティシア姉様も、一緒だ」
その声は、驚くほど、優しかった。
昔の、すこし尊大で、冷たい響きは、もう、どこにもない。ただ、妹を、思う、兄の声だった。
私も、アルベールの隣で、膝を、折った。
「あの子はね」
アルベールが、碑を、見つめたまま、言った。
「茶会の前の晩、はしゃいで、眠れなかったんだ。『レティシア姉様が、新しい杯を、見せてくれる』と。お気に入りの、青いリボンを、何度も、結び直して」
「……そうでしたか」
「幸せな、顔をしていた。それだけは、救いだと、思っている」
白い石に、刻まれた、名前。
第二王女リュシー。
没年月日と、短い祈りの言葉。
「……リュシー様」
声に出して、呼びかけた。
「お久しぶりです。遅くなって、ごめんなさい」
ひとつ、息を、吸う。
「お元気ですか、というのも、おかしな、挨拶ですね。……でも、あなたに、お話ししたいことが、たくさん、あったんです」
風が、百合の花びらを、そっと、揺らす。
「あなたを、守れなくて、ごめんなさい。杯を、渡したのは、私でした。知らなかった、とは、いえ。……その事実は、一生、背負っていきます」
声が、震える。
けれど、止まらなかった。
「でも、あなたの死を、利用した人が、いました。その人は、もう、裁きを、受けます。そして、私は、無実だと、認められました。……あなたが、ずっと、見ていてくれたから、かもしれません」
目を閉じる。
心の中だけで、もうひとつ、言葉を、続けた。
――あなたが、知っていたレティシアとは、少し違う人間が、あの日から、中に入っていました。でも、あなたのことが、本当に好きだったのは、今も、昔も、変わりません。
返事は、もちろん、なかった。
けれど、丘の風が、ふわり、と、私の頬を、撫でていった。まるで、小さな手が、そっと、触れたかのように。
「……ありがとう、ございます」
誰にともなく、そう、呟いた。
*
墓参りのあと、みんなで、丘を、下っていく。
途中、アルベールが、足を、止めた。
「レティシア。ひとつだけ、頼みがある」
「何でしょう」
「リュシーの、誕生日には、また、ここへ、来てほしい。婚約者としてではなく、あの子の、姉のように、慕われた人として」
胸が、きゅっと、鳴った。
「……喜んで。毎年、白い百合を、持って、まいります」
アルベールは、ほっと、息を、吐いて、少しだけ、笑った。
「ありがとう。……あの子も、きっと、待っている」
私は、頷いて、丘の、上を、一度だけ、振り返った。白い碑は、夕日に、淡く、染まっている。
神殿の前庭で、司祭ベネディクトが、待っていてくれた。
「お嬢様。お久しぶりです」
白い髭の、老いた司祭は、穏やかに、微笑んだ。
「あの日、後見の書面に、署名を、拒んだことを、悔いてはおりません。ですが、もっと、早く、お力に、なれたはず。……神殿を代表して、お詫びします」
「司祭様。あなたが、あの日、署名を、してしまっていたら、私は、ここに、立っていませんでした」
「……そう言っていただけると、救われます」
司祭は、胸の前で、そっと、手を、組んだ。
「どうか、これからは、穏やかな日々を。リュシー殿下も、それを、望んでおられるでしょう」
「はい」
私は、深く、頭を、下げた。
帰り際、アルベールが、私の隣に、並んだ。
「今日は、来てくれて、ありがとう」
「いいえ。こちらこそ、誘ってくださって」
「……君を、見ていて、思った。リュシーは、本当に、いい姉を、持っていた」
「それは、言い過ぎです」
「そうだろうか」
彼は、小さく、笑った。
「これから、私は、少し、ヴァルモン家と、距離を、置くことにする。婚約を、解いた立場だ。ふたたび、近づけば、周囲が、うるさいだろう。……けれど、君が、困ったときは、いつでも、頼ってほしい。友として」
「はい。……ありがとうございます、アルベール様」
彼は、一度だけ、頷いて、馬車の方へ、歩いていった。
その背中は、来たときよりも、少しだけ、軽く、見えた。
ミレイユとイザベルも、それぞれの、馬車で、帰っていく。
手を振り合い、丘のふもとで、別れた。
ひとりになった私は、夕暮れの、空を、見上げた。
白い雲が、茜色に、染まっている。
家へ帰ろう、と、思った。
父が、待っている。ガスパールが、ばあやが、マルトが、待っている。
そして、もうひとり、門の外に、立って待っていそうな、背の高い人のことを、ふと、思い浮かべて、私は、ひとりで、頬を、赤くした。




