飴の缶
クロードに会いに行ったのは、判決から、五日後のことだった。
法務院の、奥にある、療養棟。
白い石造りの、静かな建物で、廊下の窓からは、中庭の、芍薬が見えた。紅色の蕾が、いくつも、ふくらんでいる。
「五日で、ここまで、回復されるとは。若さというのは、大したものです」
案内してくれた、ロベール医師が、歩きながら、小声で言った。
「食事も、少しずつ、摂れるように、なりました。ただ、話すことは、あまり。昨日までは、窓の外を、見るばかりで」
「……そうですか」
「今日、あなたが来られると、告げたとき。ほんの少し、目が、動きました」
医師は、扉の前で、足を止める。
廊下の壁際に、見張りの騎士が、ふたり、立っている。
「中に、私が、付き添いますか」
「いいえ。……ふたりで、話させてください」
「承知しました。廊下で、待っております」
その背後から、低い声が、した。
「私も、廊下にいる」
振り返ると、ジルベールが、立っていた。
外套ではなく、簡素な、紺の上着。非番の、装いだった。
「ロシュ卿。……お仕事は」
「今日は、非番だ。個人的に、付き添うだけだ。何かあれば、すぐに、扉を、開ける」
その言葉に、肩の力が、すっと、抜けた。
「ありがとうございます」
「礼は、要らない。行ってこい」
私は、一度だけ、深呼吸をして、扉を、開けた。
*
部屋は、思っていたより、明るかった。
窓際に、寝台。寝台の脇の卓には、飲みかけの薬湯と、一輪挿しの、白い花が、置かれていた。
枕を重ねて、半身を起こした、クロードが、そこにいた。白いシャツ。痩せた頬。伸びかけた、無精髭。それなのに、目だけは、不思議なほど、澄んでいる。
「……来て、くれたんだね」
声は、細く、掠れていた。
けれど、微笑みは、あの、微笑みだった。
「はい。……お加減は、いかがですか」
「悪くない。ロベール先生の、薬は、苦いけれど、よく効く」
冗談めかして、そう言う。
私は、寝台の脇の椅子に、腰を下ろした。
「少し、痩せましたね」
「君は、ずいぶん、顔色が、いい。……よかった」
静かな時間が、流れた。
窓の外で、小鳥が、鳴いている。
「兄様」
「うん」
「別の法廷の、期日が、決まったそうです。来月の、半ばに」
「聞いたよ。罪状は、王女殿下の毒殺と、偽造と、強要。……どれも、重い」
彼は、淡々と、言った。
「死刑に、なるだろうね」
「……まだ、わかりません」
「いいんだ、レティ。覚悟は、できている」
私は、膝の上で、手を、握りしめた。
「私は、嘆願書を、出すつもりです」
「え」
「死刑を、避けるための、嘆願書。王女殿下の、兄上である、アルベール様にも、お願いしました。……もちろん、減刑が通るかどうかは、法廷が、決めることです」
クロードは、目を、見開いた。
「やめなさい。そんなことを、する必要は、ない。君を、殺そうとした人間だ。許される、はずがない」
「許しては、いません」
私は、はっきりと、言った。
「許すとは、言いません。許せないことは、許せないままです。……でも、あなたに、死んでほしくも、ありません。それは、どちらも、本当の、気持ちです」
「……」
「あなたは、私に、『罪は、ちゃんと』と、言いかけて、倒れました。その続きを、言ってください。生きて、言ってください。逃げるのではなく」
沈黙が、降りる。
クロードの、まぶたが、わずかに、震えた。
「……君は、本当に、厄介だ」
小さく、笑った。
その目の端から、涙が、ひとすじ、流れ落ちる。
「叔母上に、そっくりだ。……叔母上も、そうだった。私が、何をしても、見捨てなかった」
*
しばらくして、クロードは、枕もとの、小さな引き出しを、指さした。
「そこに、あるものを、取ってくれないか」
引き出しを、開ける。
中には、小さな、錫の缶が、入っていた。ところどころ、錆びた、古い缶。蓋に、色褪せた、花の絵が、描かれている。
「それは」
「昔、君に、渡していた、飴の、缶だ。……見張りの人が、私の私物を、調べたとき、見つけた。返してもらうのに、少し、手間取ったけれど」
蓋を、開ける。
中には、少し溶けて、固まった、透明な、飴玉が、いくつか、残っていた。
「君が、六つの頃。熱を出して、寝込んでいた夜に、枕もとで、こっそり、渡した。覚えているかな」
「……はい。覚えています」
あの夜の、ことを、思い出す。
暗い部屋。窓から、差し込む、月明かり。額に、そっと、置かれた、手の、冷たさ。そして、口に、そっと、押し込まれた、甘い、飴玉の味。
「あの頃は、本当に、君が、可愛かった。妹が、できたようで、嬉しかった」
彼の声は、遠い、昔を、見ていた。
「それなのに、どうして、こうなってしまったんだろうな」
「兄様」
「……もう、取り返しはつかない。でも、せめて、君に、渡したかった。もし、よければ、持っていてくれないか。……食べられは、しないだろうけど」
私は、缶を、そっと、両手で、包んだ。
冷たい金属の感触。けれど、胸の奥は、ほんのり、温かかった。
「はい。大事に、します」
「ありがとう」
クロードは、目を、閉じた。
安心したような、疲れたような、ひどく、穏やかな顔だった。
「……最後に、ひとつ、いいかな」
「はい」
「君は、これから、家を、継ぐんだろう。ヴァルモン家を」
「はい」
「なら、ひとつだけ、覚えていてほしい。あの家は、君が、思っているよりも、ずっと、広いんだよ。……誰かを、客のままに、してはいけない。誰も」
その言葉は、遺言のようであり、願いのようでもあった。
私は、強く、頷いた。
「はい。……約束します」
「ありがとう、レティ」
彼は、もう一度、微笑んだ。
「さようなら、というには、まだ、早いね。また、来てくれるかな」
「はい。……あの、兄様」
「うん」
「お父様も、近いうちに、お見舞いに、来たいと、言っています」
クロードの顔が、ほんの少し、こわばった。
「伯父上が。……私に、会いたいと、言うのかい」
「毎晩、お母様の話を、してくださるんです。そのたびに、あなたの、名前も、出ます。昔、三人で、庭の、桑の実を、摘んだ話とか」
「……そんなことも、あったね」
彼は、目を、伏せた。
長いまつ毛が、小さく、揺れる。
「怖い、な。伯父上の、顔を、見るのが。……でも、会わなければ、ならない。ちゃんと、謝らなければ」
「はい。きっと、お父様も、同じ、気持ちです」
「それから、私も、また、来ます。何度でも」
「それは、楽しみだ」
その声は、少年のように、軽かった。
*
廊下に出ると、ジルベールが、窓辺に、立っていた。
中庭の、芍薬を、見下ろしている。私が、近づくと、振り返った。
「……終わったか」
「はい」
声が、少しだけ、震えた。
彼は、何も、言わず、私の隣に、並んだ。しばらく、ふたりで、窓の外を、眺める。
「話せたか」
「はい。……少し、だけ。それで、十分でした」
「そうか」
短い、返事。
けれど、その声の、静けさが、ありがたかった。
「ロシュ卿」
「ジルベール、でいい」
唐突な、言葉に、息が、止まった。
「……え」
「もう、監視の任は、解かれた。肩書きで、呼ばれる、理由は、ない」
彼は、窓の外を、見たまま、言った。
横顔は、いつもと、変わらない。けれど、耳の先が、ほんの少し、赤い。
「ジルベール、様」
「様も、要らない」
「それは、さすがに」
つい、笑ってしまった。
彼の口元が、ふっと、緩む。
「なら、好きに、呼べ」
「……ジルベールさん、で、いかがですか」
「悪くない」
ふたりの間に、穏やかな、静けさが、降りる。
窓の外の、芍薬の蕾が、風に、小さく、揺れた。もう少しすれば、ひとつ、ふたつ、咲きはじめるだろう。
やがて、彼が、低く、言った。
「ひとつ、伝えておきたい」
「何でしょう」
「あの、手帳の、話だ。覚えているか。十八番目」
心臓が、とくん、と、跳ねた。
「……はい」
「あれは、あなたの、無実の根拠を、数えるものだった。十七で、足りた。もう、必要ない」
「はい」
「だが、私は、まだ、探している」
彼は、ゆっくりと、こちらを、向いた。
窓から差し込む、光の中で、その瞳は、静かに、まっすぐだった。
「別の、十八番目を、だ」
言葉の意味が、すぐには、飲み込めなかった。
けれど、胸の奥の、ずっと、奥の方で、何かが、そっと、息を、した。
「それは、……いつか、見つかりますか」
「わからない。だが、探す時間は、たくさん、ある」
彼は、短く、微笑んだ。
その微笑みが、あまりにも、やさしくて。
私は、返事の代わりに、そっと、頷いた。
療養棟を出るまで、ふたりは、並んで、歩く。靴音が、廊下に、ふたつ、重なって、響いた。その音を、聞いているだけで、昨日までの、重たかった、胸が、少しずつ、軽くなっていく。
中庭の、芍薬は、まだ、蕾のままだったけれど、きっと、もうすぐ、咲くだろう。




