温室の謝罪
目を覚ますと、窓の外は、すでに明るかった。
見慣れた天蓋。柔らかな寝具。
いつもと同じ朝のはずなのに、どこか、違って見える。一度、失いかけたものを、取り戻した朝だからだろうか。
「お嬢様。おはようございます」
ノックのあとに、侍女のマルトが、顔を出した。
目は赤い。けれど、にこにこと、笑っている。
「朝食の、ご用意が、できております。ばあやが、お嬢様の好きな、焼きたてのパンを、焼いておりますよ」
「ありがとう。……すぐに、行きます」
階段を、降りる、途中、廊下の突き当たりに、目が、いった。
つい昨日まで、そこには、いつも、黒い外套の、背中が、あった。今朝は、誰も、いない。ただ、朝の光が、床に、四角く、落ちているだけだった。
……どうして、目を、やってしまったのだろう。
自分でも、よくわからないまま、私は、その廊下から、目を、そらした。
食堂の窓際の席で、パンをかじっていると、ガスパールが、銀の盆を、静かに、運んできた。
盆の上には、封蝋の押された、白い封筒が、一通。
「王宮から、でございます。アルベール殿下の、ご署名で」
「アルベール様から」
封を切ると、見慣れた、几帳面な文字が、並んでいた。
『レティシア嬢。本日の午後、お時間をいただけるなら、直接、お目にかかり、お詫びと、お伝えしたいことを、お話ししたい。供は、ひとりだけにする。返事は、不要。ただ、もし、会いたくなければ、そう、言ってほしい。 アルベール』
私は、手紙を、しばらく、眺めた。
原作の物語では、この人は、私を、断罪台に、立たせた人だった。いまの私にとっては、昨日、無言で、頭を下げてくれた人でも、ある。
「……お通ししてください。庭の温室で、お会いします」
「かしこまりました」
ガスパールが、深く、頭を下げた。
*
午後の温室は、あたたかく、薬草の香りで、満たされていた。
母が、生前、大切に育てていた、小さなガラスの家。
棚には、青い瓶が、いくつも並んでいる。ミントの、さわやかな匂いと、ラベンダーの、やわらかな香り。
卓の上に、茶を、ふたつ、用意してもらった。
騎士団の毒見は、もう、いない。けれど、ガスパールが、一杯ずつ、自分で、口をつけてから、置いていった。
「……お待たせしました」
温室の扉が、開く。
入ってきたのは、旅装ではなく、簡素な、紺の上着を着た、アルベールだった。供の者は、門のところで、待たせたらしい。
「呼んでくれて、ありがとう」
「お座りください。お茶が、冷めてしまいます」
彼は、椅子に、腰を下ろした。
向かい合うと、思っていたより、ずっと、疲れて見える。それでも、目の奥には、前に会ったときより、強い光が、あった。
沈黙が、少しだけ、続く。
ガラス越しに、小鳥の、さえずりが、聞こえてくる。
それを、破ったのは、アルベールだった。
「まず、謝らせてほしい」
「アルベール様」
「謝罪の、言葉は、簡単だ。言葉で、償えることでは、ないとも、わかっている。それでも、言わなければ、ならない」
彼は、椅子から、立ち上がろうとして、私に、手で、制された。
「座ったままで、お願いします。……お話を、聞かせてください」
「……ああ」
アルベールは、手を、膝の上で、組んだ。
「あの日、リュシーが、倒れたとき。私は、すぐ、そばにいた。君が、渡した、杯を、飲み干して、リュシーは、笑って、そして、崩れ落ちた」
声が、かすかに、震える。
「あのときは、頭の中が、真っ白だった。それでも、誰かのせいに、したくて、怒りをぶつける、先を、探していたのだと、思う。そこへ、遺書が、出てきた。脅迫状も、出てくる。疑問は、あったんだ。君が、あんなことを、するはずがない、と。けれど、その疑問に、蓋をした」
「……はい」
「あの筆跡の、はねが、少し、違う気がした。それなのに、確かめなかった。確かめたら、怒りの、行き場が、なくなってしまうから」
アルベールは、顔を、上げる。
「愚かだった。私は、妹を、失った悲しみを、君に、ぶつけて、そして、君を、見捨てた。……本当に、すまなかった」
深く、深く、頭が、下げられる。
王太子が、侯爵令嬢に、頭を、下げている。誰が見ても、異例の、光景だった。
私は、しばらく、何も、言えなかった。
胸の中に、いくつもの、感情が、渦巻く。恨み。悲しみ。戸惑い。それから、それらを、ゆっくり、包み込む、静けさ。
「……顔を、上げてください」
静かに、そう言った。
「あなたを、許す、と、すぐには、言えません。三週間は、長かったので」
「当然だ」
「でも、今日、ここへ、来てくださった。それは、確かに、受け取りました」
私は、手を、卓の上で、重ねた。
「あなたの悲しみは、わかります。私も、リュシー様を、失いました。あの方は、いつも、私の後ろを、ついて歩いてくださった、可愛い、妹のような、方だったので」
その瞬間、胸が、ぎゅっと、締めつけられた。
考えないように、していた。三週間、自分の命のことで、精一杯で。けれど、本当は、ずっと、泣きたかった。
「リュシー様が、いなくなって、本当に、悲しいです。……ごめんなさい。ずっと、悲しむ余裕も、なくて」
「謝らないでくれ」
アルベールが、首を、振った。
「あの子は、よく、言っていた。レティシア姉様は、不器用だけれど、本当は、とても、優しい人だ、と。私は、その言葉を、忘れていた。……いや、忘れた、ふりを、していたんだ」
涙が、ぽろり、と、こぼれ落ちた。
アルベールは、驚いたように、目を、見開く。それから、静かに、ハンカチを、差し出した。
「……ありがとう」
「いいえ。こちらこそ」
ふたり、並んで、涙を、拭いた。
温室の中は、あたたかく、静かだった。
*
「それから、もうひとつ」
しばらくして、アルベールは、懐から、巻かれた、羊皮紙を、取り出した。
「王家からの、正式な、布告だ。本日付で、王宮の、掲示板にも、貼り出される」
私は、羊皮紙を、受け取った。
金の封蝋と、王家の紋章。そこには、几帳面な、文字で、こう記されていた。
『レティシア・ド・ヴァルモン嬢に対する、王女殺害の嫌疑は、すべて、事実無根であったことを、王家は、ここに、公式に、認める。同嬢の、名誉を、全面的に、回復し、侯爵家に、謝意と、相応の、補償を、約する』
「……ありがとうございます」
「補償については、父上が、いずれ、直接、詳細を、お伝えする。何か、望みがあれば、遠慮なく」
私は、少し、考えた。
「望みは、ひとつだけ、あります」
「何だろう」
「ミレイユ・オードラン嬢と、イザベル・グランシェ嬢。あの方たちに、王家から、きちんと、お礼を、お伝えください。再審で、勇気を持って、証言してくださったのは、あの方たちです」
アルベールは、ふっと、表情を、和らげた。
「約束する。必ず」
彼は、茶碗を、手に、取った。
ゆっくりと、ひとくち、含んで、小さく、息を、吐く。
「……おいしい。リュシーが、好きだった、ハーブティーに、似ている」
「温室で、母が、育てていた、葉です。リュシー様も、一度、いらしたことが、ありました」
「そうだったな。あの子は、帰りの馬車で、ずっと、その話を、していた」
懐かしそうに、笑う。
その笑顔は、昔、私が、好きだった顔とは、少し、違っていた。もっと、疲れて、けれど、もっと、優しい顔だった。
「レティシア。ひとつ、頼みが、あるんだ」
「何でしょう」
「近いうちに、リュシーの墓に、一緒に、来てくれないか。……君に、ちゃんと、あの子に、会ってほしい」
私は、少しだけ、考えて、それから、頷いた。
「行きます。リュシー様に、きちんと、ご挨拶を、したいです」
「ありがとう」
彼の目に、また、涙が、にじんだ。
今度は、悲しみだけではなく、ほんの少し、救われたような、色を、していた。
*
日が、傾きはじめた頃、アルベールは、席を、立った。
温室の出口で、彼は、一度、足を止める。
「それから。……ひとつだけ、余計なことを、言ってもいいだろうか」
「余計な、こと?」
「再審の、天幕で、君の、後ろに、立っていた、騎士殿のことだ」
私は、ぴくりと、肩を、揺らした。
「彼は、一度も、君から、目を離さなかった。君が、立ち上がるとき、座るとき、泣いたとき。ずっと、見ていた」
「……お仕事、ですから」
「そうだろうか」
アルベールは、小さく、笑う。
その笑みには、からかいの色は、ない。ただ、静かな、祝福のような、ものが、混じっていた。
「私が、言うことでは、ない。けれど、君には、ああいう人が、似合うと、思う」
そう言い残して、彼は、温室を、去っていった。
残された私は、しばらく、動けなかった。
頬が、熱い。それが、温室の、熱気の、せいなのか、他の理由なのか、考えないことにした。




