ただいま
屋敷へ向かう馬車の中は、静かだった。
向かいの席に、父が座っている。
窓の外を流れる、五月の街路樹。柔らかな緑の影が、父の横顔の上を、ゆっくりと、行き来していた。
「……レティシア」
しばらくして、父が、口を開いた。
「おまえに、謝らなければならない」
「お父様」
「いや、聞いてくれ。言わせてほしい」
父は、膝の上で、両手を、組み合わせた。
指先が、白くなるほど、固く。
「私は、別邸で、酒に溺れていた。妻を、失ってから、ずっと、逃げていたのだ。おまえが、疑われたときも、何が起きているのか、正面から、見ようとしなかった。甥の言葉に、すがった。そのほうが、楽だったからだ」
馬車が、石畳の継ぎ目で、小さく、跳ねる。
父の声が、わずかに、揺れた。
「三週間のあいだ、おまえは、ひとりで、死の日を、数えていた。私は、おまえの父親だったのに」
「……はい。つらかったです」
正直に、そう言った。
父の肩が、びくり、と、動く。
「でも、お父様は、来てくださいました。再審の、朝に。みんなの前で、頭を、下げてくださった」
私は、窓の外から、父へと、視線を、戻した。
「あれで、十分、とは、言いません。けれど、あの一言が、なかったら、私は、あの天幕に、立てなかったと思います」
「レティシア」
「これから、時間をかけて、少しずつ、また、話しましょう。ご飯を一緒に食べて、お母様のお話をして。……それで、いいでしょうか」
父は、何も答えられなかった。
ただ、しわの深くなった目もとを、手の甲で、ぬぐった。
*
屋敷の門が、見えてきたとき、私は、息を、のんだ。
門から、玄関まで。
石畳の両側に、屋敷の使用人たちが、整然と、並んでいた。
老婆も、庭師も、洗濯係の娘たちも。下働きの少年まで。
馬車が、止まる。
扉が、開かれる。
降りた私に、最初に、深く、頭を、下げたのは、ガスパールだった。
老いた執事の背中が、前に、折れたまま、動かない。
「お嬢様。……おかえりなさいませ」
「ただいま、ガスパール」
声をかけると、彼は、ようやく、顔を、上げた。
目は、赤く、潤んでいた。
「ご報告が、ございます。のちほど、お時間を、いただけますか。私の、したことを、お話しせねばなりません」
「ええ。もちろん」
私は、頷いて、使用人たちを、見渡した。
「皆さん。ご心配を、おかけしました。……三週間、ありがとう。あなたたちが、いてくれたから、私は、生きて、戻れました」
誰かが、鼻をすすった。
やがて、使用人たちが、一斉に、深く、頭を、下げる。
それは、悪役令嬢と呼ばれた少女が、初めて、家の人々から、心から、迎え入れられた瞬間だったのかもしれない。
*
その日の夕刻、父の書斎で、小さな、集まりが、開かれた。
父と、私。ガスパール。デュボワ卿。そして、ジルベール。
窓の外は、傾いた陽で、金色に、染まっている。
「まず、ひとつ」
ジルベールが、懐から、小さな、布包みを、取り出した。
「ヴェルニエ卿の、隊が、クロード殿の、私室を、捜索した。……書棚の、一冊の、本の、中から、これが出た」
包みを、開く。
鈍い、金色の、輝き。ヴァルモン家の、紋章が、刻まれた、指輪だった。
父が、はっと、息を、のむ。
「……私の、指輪」
「間違いは、ありませんか」
「ああ。台座の、裏の、小さな、傷。祖父の、代からの」
父は、震える手で、指輪を、受け取った。
掌の上で、じっと、見つめる。それから、ゆっくりと、私の方へ、差し出した。
「レティシア。これは、おまえが、持て」
「え」
「ヴァルモン家の、家督の、証だ。いずれ、おまえの、婿に、と、思っていた。だが、もう、いい。おまえ自身が、家を、継げ。おまえの、手で」
私は、思わず、ジルベールを、見た。
彼は、何も言わず、小さく、頷いた。
「……いまは、受け取るだけにします」
私は、指輪を、そっと、両手で、包んだ。
重かった。幼い頃、父の膝の上で、掌に載せてもらった、あのときと、同じ重さだった。
「嵌めるのは、もう少し、落ち着いて、からに、させてください。いまは、まだ、実感が、ないので」
「それでいい」
父の目が、細くなる。
*
「では、私から」
ガスパールが、一歩、前に出た。
皺の深い手を、胸の前で、組む。
「お嬢様に、お渡しした、あの青い玉のことを、お話しします」
私は、懐から、玉を、取り出した。
窓の光を、受けて、青く、透きとおる。
「奥方様は、亡くなる、前の、日、私を、枕もとに、呼ばれました。そして、この玉を、渡されたのです。『お守りです。レティが、十八になる日の、朝に、渡してください。それから、杯のことを、思い出させてあげて』と」
「杯の、ことを」
「はい。それだけ、でした。杯の中に、何が、隠されているのかは、私も、存じませんでした。ただ、奥方様の、お言葉を、守ろうと」
ガスパールは、深く、息を、吸った。
「けれど、お嬢様が、お誕生日の、前日に、お屋敷を、離れることに、なって。……渡すべきか、迷いました。渡せば、あの方に、気づかれるかもしれない。渡さなければ、奥方様の、ご遺志を、無にするかもしれない。結局、出発の、直前に、そっと、お渡ししました」
「……あの方、とは」
「クロード様、でございます」
老執事は、苦しげに、言った。
「あの方を、お屋敷に、入れたのは、私です。のちに、何度も、何かが、おかしいと、感じました。けれど、それを、旦那様にも、お嬢様にも、お伝えする、勇気が、なかった。……私の、落ち度でございます」
私は、一歩、ガスパールに、近づいた。
彼の、皺だらけの、手を、そっと、取る。
「顔を、上げて」
「お嬢様」
「あなたは、お母様との、約束を、守ってくれた。ぎりぎりの、ところで、私に、渡してくれた。あの玉がなかったら、杯の底の、お母様の言葉には、辿り着けなかった」
老執事は、堪えきれずに、肩を、震わせた。
父が、その背に、そっと、手を、置いた。
「ガスパール。おまえには、これからも、この家にいてほしい。……頼む」
「……はい。旦那様」
声が、掠れて、途切れる。
*
夕食の席は、屋敷の、小さな、食堂に、整えられた。
大きな、長卓ではなく、暖炉の、そばの、丸い卓。父と、私の、ふたりだけ。
湯気の立つ、野菜の、スープ。
焼きたての、パンの、香ばしい、においが、ふわりと、立ちのぼる。ばあやの、パンだった。
「……いただきます」
ひとくち、かじる。
外は、かりっと、中は、ふんわり。小麦と、バターの、素朴な、甘さが、口いっぱいに、広がった。
「おいしい」
思わず、そう、こぼれた。
向かいの父が、パンを、ちぎる手を、止めて、私を、見た。
「……妻も、このパンが、好きだった」
「お母様が?」
「ああ。台所に、忍び込んでは、焼きたてを、つまんで、よく、ばあやに、叱られていた」
父が、懐かしそうに、笑う。
母の話を、こんなふうに、穏やかに、聞くのは、ひさしぶりだった。いつも、どこかに、痛みが、混じっていたのに。
「もっと、聞かせて、ください。お母様のこと」
「長くなるぞ」
「かまいません。夜は、長いですから」
暖炉の、薪が、ぱちりと、爆ぜる。
父は、ぽつり、ぽつりと、語りはじめた。出会いの、日のこと。結婚式の、前夜に、ふたりして、屋敷の、屋根裏に、上った、夜の話。私が、生まれた、日の、嵐の、夜のこと。
どれも、初めて、聞く話だった。
聞くほどに、胸の奥が、あたたかくなる。母は、確かに、愛されていたし、私も、確かに、愛されて、生まれてきたのだと、思えた。
*
夜が、更けていく。
自室の、窓辺に、椅子を、引き寄せて、私は、ぼんやりと、庭を、眺めていた。
久しぶりの、自分の部屋。寝台の、シーツの、柔らかさ。
それなのに、少しだけ、落ち着かなかった。
扉を、控えめに、叩く音がした。
「どうぞ」
開いた扉の向こうに、立っていたのは、ジルベールだった。
外套は、脱いで、軽装になっている。夜の廊下の、暗がりのせいか、いつもより、少しだけ、年相応に、見えた。
「夜分に、すまない」
「いいえ。……どうされたのですか」
「報告を、ひとつ。監視の任は、今日の、判決をもって、解かれた」
その一言が、胸の奥に、ことり、と、落ちた。
「明日から、私は、あなたの部屋の前に、立つ、理由が、なくなる」
「……そう、ですか」
声が、思ったより、小さくなった。
彼は、何かを、言いかけて、やめた。窓の外の、夜の庭へ、視線を、逸らす。
「それを、伝えに、来た。それだけだ。おやすみ」
「あ、あの」
思わず、呼び止めていた。
ジルベールが、振り返る。
「……ありがとうございました。あなたが、いてくださって、本当に、よかった」
彼の唇が、わずかに、動く。
声には、ならなかった。ただ、目が、かすかに、細くなった。
扉が、静かに、閉まる。
廊下の足音が、遠ざかっていく。
私は、しばらく、閉じた扉を、見つめていた。
彼がいなくなった部屋は、驚くほど、広く、静かで、少しだけ、寂しかった。




